ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ~!


犠牲(勇者)なき道の為に

【ウトナピシュティムの本船 内部】

 

「機関部、主リアクター問題なし、一次・二次冷却系統正常、出力安定」

「航法セクション、目標座標入力完了、初期進路ベクトル設定済み」

「全システムセーフ、防壁は正常に稼働中、各区画の気密も正常……」

「リオ様、姿勢制御、応答良好、艦首は目標軸に一致済みです」

 

 淡々と重ねられる報告の声が、ブリッジの空気を研ぎ澄ます。人数に反し広大な艦内は、機体の低い唸りとコンソールの点滅に支配され、張り詰めた緊張は全員の精神を否が応でも締め付けていた。

 指先でコンソールを叩きながら、次々と表示されるホログラムモニタに目を通すオペレーターのアコ、カヤ、ミサキの三名。

 彼女達から放たれる声を耳にしながら、操縦桿を握るトキは真剣な面持ちで正面のビュースクリーンを見つめていた。

 

「す、すごい、本当に浮いていますよ……!?」

「うん、私達、空を飛んでいるんだね」

「……あぁ」

 

 振動に揺れる視界の中で、スクワッドの面々――ヒヨリ、アツコ、サオリは互いに顔を見合わせ、特にヒヨリは深い驚嘆の息を漏らした。ビュースクリーンの外に広がるのは、赤空と後方へ尾を引く雲。その中を、巨大な艦が高速で過ぎ去っていく。空の色が変わっても、そこを自由に飛び回る解放感はまた特別であった。

 そんな彼女達の横顔を一瞥し、デッキ中央に立つリオは唇を結び、深く思考を巡らせる。

 

 ――ウトナピシュティムの起動には成功した、あとは多次元防壁を突破できるかどうか。

 

 胸中で呟き、そっとリオが背後を振り返ると、そこには彼女を見守る先生の姿がある。タブレットを胸元に抱き締め、真剣な面持ちで赤空の遥か向こう側を睨みつける先生は、リオの視線に気付き、互いの瞳が視界に映る。

 短く視線を交わすだけで、理解出来る双方の思考。

 

「先生、多次元解釈システムの起動を」

「――あぁ」

 

 リオが言葉を口にするよりも早く、先生は既にタブレットの画面を点灯させていた。軽く画面を叩く指先に呼応するように、艦体全体へ青白い光のラインが奔り、オペレーター全員のホログラムモニタに変化が生じた。

 船体全体を包む駆動音が高鳴り、シッテムの箱、その画面の向こう側でアロナが浮かび上がったコンソールを操作する。

 

「システムの正常稼働、確認しました!」

 

 アコが複数のホログラムモニタを投影し、多次元解釈システムが稼働した事を確認。あらゆる数値が羅列し、刻一刻と変化するそれらに目を向けながら、ミサキはオペレーター用の椅子に身を預けながらリオに向かって問いかける。

 

「これで私達の船は向こうと同じ、次元防壁を通過出来る状態――って事で良いんですよね?」

「えぇ、少なくともシステムが動いている限りは、その筈よ」

 

 問い掛けに、リオは短く頷いた。瞳には、僅かな不安が滲んでいたが、それよりも決意の色が濃く強い。

 脳裏に、特異現象捜査部やヴェリタスと共に繰り返しチェックしたシステムの理論図が過る。自分達にとっては未知の領域だが、時間の許す限り検証に手は尽くした。後は実践、次元防壁に衝突する瞬間に全てを賭けるのみ。

 

「……っ」

 

 不意に、先生が小さく顔を歪め、こめかみに手を伸ばしかけた。張り詰めた神経にわずかな弛みが生まれる様な、些細な所作。しかし、それを見過ごさぬ者が居る。直ぐ傍に立っていたミカとワカモが、先生の背にそっと手を当てた。

 

「あなた様?」

「……大丈夫、少し、立ち眩みがしただけだから」

「無理もないよ、目覚めてからずっと動きっぱなしだったんでしょ」

 

 努めて何て事の無いように、薄らと微笑みを湛えたまま答える先生であったが、真剣な面持ちのミカが先生の腕を取り、ワカモもまた先生の腰に手を回した。艦の鼓動のような振動が、彼女達の胸の内を一層揺さぶる。どこまでいっても、彼女達の不安は決して拭えない。

 

「ほら、アトラ・ハシースの箱舟と接触まで少し時間があるし、何ならちょっと休憩しても――」

「いいや、此処に居させてくれ」

 

 顔を覗き込み、そう告げるミカの腕を握り締めながら先生は緩く首を振った。

 頼む、と。短い言葉に、揺るぎない意志と同時にかすかな脆さが滲む。二人はそれ以上何事かを口にする事無く、ただ唇を固く結び沈黙を守った。

 

「目標高度到達、アトラ・ハシースの箱舟までの航路、障害物なし」

「多次元解釈システムも稼働中、機関部も正常」

「リオ様」

「えぇ、準備は整った」

 

 トキの声に、リオは深く頷きを返した。その声音はブリッジ全体を貫き、胸中を覆う翳りを払う一声となる。

 

「――これより、アトラ・ハシースの箱舟に向かってウトナピシュティムの本船は、最大加速を行うわ」

 

 彼女の言葉と共に、艦内の照明が一段暗く落ちた。コンソールに並んだ計器が赤く瞬き、船体を覆う駆動音がより一層高い音域へと至る。

 

「この本船がスペック通りならば、最大出力は既存の航空機とは比べ物にならない筈です、身体の固定は忘れない様に……!」

「えぇ、カイザーも欲したというオーパーツの性能、見せて貰いましょうか」

 

 オペレーターの面々が席に取り付けられていた固定ベルトに手を伸ばし、ブリッジに佇む全員が近場の手摺や固定帯を手に取る。ビュースクリーンに流れる雲は、今でも十分に艦船の速度を物語っている。しかし、今の出力では十全ではない――一分一秒を争う今、最大速度によるアトラ・ハシースへの肉薄は合理的である。

 

「全員、準備は良いわね?」

 

 リオの問いかけに、一人ひとりが無言で深く頷く。その顔に憂慮はある、しかし事此処に至って覚悟の揺らぐ者など存在しない。異なる理由、信念、想いがあり、胸に巣食う影を掻き消すだけの決意もまた、同じ強さで宿っていた。

 

「ウトナピシュティムの本船、最大出力」

 

 全員の顔を見渡したリオは正面を向き直り、大きく息を吸い込むと指先を前方に突き立て、告げた。

 

「――加速開始」

 

 ■

 

『黒服、マエストロ――本当に宜しいのですね?』

 

 黒が深く澱む世界の一隅。ゲマトリアが抱える複数の会議所、あるいは避難場所《セーフハウス》と呼ぶべきこの場所は、簡潔で無駄のない造りであった。打ちっぱなしのコンクリートが冷たく、四隅に据えられた小さな光源が影を長く引く。空気はひんやりとして、発する声は室内に低く反響した。中央の簡易円卓と、ただ一つのホログラム投影機が、この場の唯一の装飾でもある。

 

 銀狼の尽力によりかろうじて脱出に成功した面々が、そこに肩を並べる。布地と金属の擦れる音、揺らぐ気配――それらが交錯して、緊迫した空気を生んでいた。

 木製の人形、マエストロは静かに姿勢を保ち、黒服は脱出の際に幾つか刻まれたスーツの損傷、皺を気にすることもなく、超然とした所作でゴルコンダを見据えている。

 

 口火を切ったのはゴルコンダである。声は慎重に、だが確固としていた。デカルコマニーの腕が額縁を少しだけ撫でつける様な動きをしたのを、誰もが無言で見送る。首がないため表情は分からない、しかしその所作はどこか懸念を滲ませていた。

 

『ゴルコンダ、その議論は既に、決着したと認識していたが?』

 

 マエストロは、木の関節が僅かに軋むような音を立て、首をそっと傾げる。木目に光が落ち、生気なき光沢は疑念を切って捨てる様に額縁を指差した。

 

『事が事です、念の為、確認する事は重要でしょう、この選択は今後のゲマトリア、延いては世界の命運にすら直結し得ると考えております』

 

 ゴルコンダの言葉は、実に慎重だ。誰もがその重さを理解しているからこそ、発せられる一語一語は重みを増す。テーブルの上で交差する意志、身に纏った外套の端がかすかに揺れ、空気の微かな流れが場の静けさを揺らす。

 事は慎重に運ばなければならない。声にならない合意は、テーブルの周りを巡る。

 

『私自身はその輪郭より既に逸脱した身、虚像と非実在であればこそ、これを繋ぐ事は叶いません、故に肩代わりするのはお二人のみ……』

 

 額縁の中のマエストロは背を向けたまま、言葉を紡ぐ。声は無機質な世界に冷たく響き、集った両者へと届く。

 

『構わぬとも』

 

 反応は早かった。マエストロの声は淡々としていて、同時に並々ならぬ意志を感じさせた。関節を軋ませ、大きく手を広げる彼は、暗がりの中でも良く目立つ。身に纏った衣服の線が不自然に滑らぎ、袖口から覗く手は関節の動きが微妙にずれている。

 

『それがあの者の一助となるのであれば、何を躊躇う必要があるだろう? ましてや私にとって所詮身体は消耗品に過ぎぬもの、私自身の在り方、器の形状など、どのような形であろうと構わん、それが根幹に触れるとしても、だ』

 

 マエストロの声には軽妙な所があった、しかし本気である。照らされる木の節目ごとに光が跳ね、その奇妙な姿は不吉な静けさと同時に揺るがぬ意志を全身に纏っている。彼の発言はただの自己犠牲の宣言ではなく、信念と美学の表明でもあった。

 

『――えぇ、マエストロの云う通り』

 

 黒服もまた頷く。それは言葉以上の意味を帯びた承諾で、テーブルを囲む者の胸から重い影を払うように働いた。誰もがその合意を見つめ、各々を纏う気配がより一層重みを増す。

 

『ゴルコンダ、どうか遠慮なく起動を』

『………』

『狂気が全てを呑み込み、存在を塗り替えた世界に意味はありません、そこで我々が己の価値を追求した所で、獲得し、見出した全ては彼の者の道具に成り下がるでしょう』

 

 デカルコマニーの指先が額縁を撫でる。逡巡の波がゴルコンダの胸中を巡るが、やがて黒服の口から続く言葉がそれを押し戻した。

 彼の言葉はどこまでも冷静であった。胸を抉るような断定が空気に溶け、皆の注目は一点に集まる。誰もが、このまま突き進ん先の結末を予期している。何より、これまで用意してきたあらゆる対策が、研究結果が、積み重ねて来た時間が、それを証明している。

 

 世界を生かすか、否か。

 

『これは、それを決める重要な一手です』

 

 黒服の声が、静かに場を抑える。浮かび上がった黒い輪郭は微動だにせず、声に揺らぎは欠片も存在しなかった。彼の言葉は嘘でも何でもない。ただ、残された選択肢の一つを示したに過ぎないのだから。

 

『あぁ、そして――銀狼が我々を逃がした意味もまた、此処に集約される』

 

 マエストロが身体を震わせ、指先を軋ませる。この場に存在しない銀狼の影は、ここに居る者の記憶に深く刻まれている。暗澹たる未来の中で、自分達が逃げ延びた事――この事実がどれ程の変化を齎すのか、それはまだ分からない。

 しかし、彼女にどのような理由があったにしろ、事実は事実。

 揺ぎ無いそれはマエストロの背中を突き飛ばし、冷たい身体に反し、声には熱が籠った。

 

『黒服ではないが、これは彼女と我々の【契約】でもある、そして此処で背を向けるのは、私にとって美学に反する』

 

 天井を仰ぐ双頭が、微かに震えた。彼の抱く美学、そこには確かな矜持があり、その一線を超える事は、彼にとって決して許されない行為であるが故に。

 ゴルコンダは暫し沈黙を守る、黒服とマエストロの意思は理解した。であればこそ、決断を下すのは己の意思一つ。

 答えは、明確であった。

 

『……分かりました』

 

 ゴルコンダの声が、室内に響いた。ゴルコンダの周りに流れていた緊張が、今や決意へと転じ姿を変える。

 

『ならば、早速始めましょう』

『そういうこったッ!』

 

 決めたのならば、迷いはない。

 コンと、デカルコマニーの持つ杖が地面を強かに打った。

 額縁の中で背を向ける、ゴルコンダの背が微かに震える。黒服は薄暗がりの中で指先をネクタイに掛け、ゆっくりと口元を緩めた。

 意志は束ねられ、後戻りは許されない。

 

『後は全て託しましょう、彼の者(聖者)に』

 

 ■

 

「ぐぅッ……!」

 

 艦を包む風が弾けた。船体を構成する材質が悲鳴を上げるように軋み、甲板の振動が骨の髄まで伝わる様だった。ウトナピシュティムの巨躯は矢のように赤空へと突き進み、視界の外周では大気の断片が光の帯となって引き裂かれているようにすら見える。加速は容赦なく、肺が締め付けられるような重圧が全身を押し潰さんと飛来していた。

 

「ッ、何、アラート!?」

 

 唐突に、艦内を貫くような警報が鳴り響いた。

 高く、鋭い音が空気を振るわせ、複数の表示パネルが赤く点滅する。漏れ出た声は振動に掠れ、言葉がひとつずつ引き裂かれるように耳に届いた。

 

「――来たか」

 

 アラートの音を聞いて、先生は苦しげに歪めた表情をそのままに顔を上げた。加速による衝撃と重圧が全身を押さえ付ける中でも、彼の視線だけは真っ直ぐ定まっている。青白い唇が震え、短く呟いたその声には恐怖ではなく覚悟が宿っていた。

 

 彼だけは知っている。

 これから何が起こるのかを。

 

「アラートの原因は!?」

「解析システムにエラーが発生、観測していたウトナピシュティムの状態が変化――箱舟の次元防壁が変質しています!」

 

 手摺にしがみ付き、指先が白く変色する程に力を込めたリオが問いを飛ばす。アコが加速による重圧を噛み殺しながらコンソールを叩いた。ホログラムの断片がめまぐるしく書き換わり、波形は不穏なノイズを伴って揺れ動いている。それを見つめる面々の額には、冷汗が滲んでいた。

 ミサキとカヤの声も重なり、ブリッジ内部の空気は警報も相まって瞬時に不穏なものへと傾いていく。

 

「この多次元解釈の波動値、私は詳しくは無いけれど、拙いんじゃないの!?」

「これは、解析システムの故障という事ですか? それとも、計算が間違っていた可能性が?」

「――違うわ」

 

 投げかけれた両名の問い掛け。しかしリオの否定は短く、力強い。彼女の指先がわずかに震え、額に皺が寄った。表示されたホログラムモニタの青白い光が彼女の瞳に映り込み、焦りと困惑が綯い交ぜになった胸中が露呈する。

 

「恐らく、向こうが対抗策を取って来た、私達が認知していた多次元ではない、全く新しい軸を生み出したのよ……!」

「なっ!?」

 

 四方から驚愕の声が漏れる。ホログラムの縁が異様に歪み、彩度が落ちていた。

 リオの云う、目に見えない「軸」が生まれるという言葉は、どこか現実感を欠いた凶兆に思えた。少なくとも、事前に用意していた多次元解釈システムが既に使い物にならなくなったと云う事だけは確か。その結果に、その場にいた生徒達は絶句する。

 

「――解析された次元を棄て、新たに生み出す事など造作もないという事ですか」

 

 カヤが忌々し気に漏らした呟きは、周囲に響き渡る船体の低い唸りと混ざって消えた。ぱっと見では未だ超然とした態度を崩さない彼女ではあるが、常識では測れない所業を相手が為しているという恐ろしさが、カヤの身体を僅かに強張らせる。

 流石に、キヴォトス全域にこの様な災厄をばら撒いた相手――一筋縄ではいかない。

 

 リオは僅かな思考を経て、即座に顔を上げると操縦桿を握るトキに向かって叫んだ。

 

「トキ、今直ぐ船の減速を! 変形した多次元防壁に衝突してしまっては、船体がバラバラになるわ――ッ!」

「了解しました、直ぐに……!」

「いいや」

 

 即座に減速の操作に手をつけるトキ。

 だが次の瞬間、誰もが耳を疑う言葉が耳に届いた。

 

「速度そのまま、最大速度でアトラ・ハシースへ突貫する――ッ!」

 

 リオとは真反対の指示、それを出したのは先生だった。

 甲板に響く彼の声は、振動の中でも一切ブレることなく通った。彼の表情は決然としていて、そこには揺らぎのない一点の光がある。

 手摺にしがみ付き、彼の身体を強固に支えるミカとワカモでさえも、放たれた言葉には絶句する。

 

「ッ……!」

「先生!?」

「なっ、何を考えて!?」

 

 悲鳴にも近い声が彼方此方から飛んだ。加速による重圧、ウトナピシュティム起動による負荷、それにより仮初の息遣いは乱れ、骨格が軋んだ。アコの手がコンソールに食い込み、カヤは驚愕に目を見開く。

 今尚、刻一刻と変化する状況、情報。リオは一瞬言葉を呑み、しかしその一瞬の遅れを恥じる様に身を乗り出し、反駁した。

 

「無茶よ、先生ッ!? どれだけ優秀な演算装置を用いたとしても、多次元解釈システムの再入力と演算は間に合わない――ッ!」

「皆」

 

 リオが声を荒げ、否定を叫んだ。ホログラムに表示された赤が更に激しく点滅し、警告音が響き渡る。だが先生は、耳に届くそれにも動じない。

 彼の手は確かな動きで胸元へと伸び、視線は真っ直ぐリオと、そして今この場に集う生徒達へと向けられる。

 

「私を、信じて欲しい」

 

 その短い言葉が、振動に埋もれながらもブリッジの中央に落ちた。

 生徒たちの心拍が一瞬だけ高鳴る。信頼とは理由を超える力でもある。彼の声は力があった、目に見えない暖かな掌が彼女達の手を取るかのような。

 

 ――此処からが、正念場だ。

 

 ビュースクリーンに映る空は依然として赤く震え、亀裂めいた雲が次々と後方へと流れ行く。艦の外装を叩く音は、やがて重厚な破滅の音へと変わるだろう。皆の視線が巡る、誰かの息が、ホログラムの点滅に紛れて小さく漏れた。

 

「失いはしない、誰一人として」

 

 呟き、漏れた決意がデッキの中に掻き消え、加速する巨艦と共に先生は赤空を睥睨する。胸元に抱き締めたシッテムの箱より青白い光が漏れ出て、微かに点滅していた。

 

『……ウトナピシュティム、シッテムの箱と量子中枢(Quantum Core)接続開始』

 

 先生が抱えたシッテムの箱から、タブレットを介して低く、しかし明瞭な声が響いた。先生の内奥にまで入り込むような感触を伴って伝播したそれには、微かな恐怖の色が滲んでいる。

 これから自身が為す事、それによって起こる事、支払われる代償。

 覚悟はあった、決意も伴っていた。

 しかし、それでも儘ならない感情は存在する。

 

『全演算装置接続、稼働確認、ナビゲーション・マトリクス(Nav-Matrix)を一時非緊急処理へクラスシフト、クラフトチェンバーを経由し外部解析回路接続、完了』

 

 シッテムの箱、画面上にプロセスバーが踊り、数多の回路図とフローが次々と表示されては消えていく。投影されては消えていくホログラムモニタ、シッテムの箱が放つ青白い光は、軈てウトナピシュティムの本船に繋がり、それはまるで艦とシッテムの箱とが渾然一体となる過程を可視化しているかのようで、先生はその幻想的な光景を目に焼き付ける様にして注視する。

 

 シャーレ本棟、地下に存在するクラフトチェンバーとシッテムの箱、そしてウトナピシュティムの本船。

 それらを結ぶ、見えない回路が次々と張り巡らせていく。同時に、先生の身体に圧し掛かる不快感と息苦しさ。

 空気が薄くなった訳ではない筈だ、しかし刻一刻と、酸素の一粒一粒までが重く感じられるような感覚があった。

 取り込む酸素濃度が落ちたのか? 違う、純粋にシッテムの箱の処理限界が近付いているのだ。

 

 予感があった。

 しかし、それは覚悟の上。

 今更、憂うには遅すぎる。

 先生はシッテムの箱を強く抱き締め、奥歯を強く噛み締めた。

 

「このまま最大速度を維持した場合、接触までの残り時間は?」

『――凡そ、五分』

「分かった」

 

 アロナから齎される返答。

 五分。

 これから去来する塗炭の苦しみを想えば、短すぎるようで、永遠にも思える時間。

 先生はその数字を噛み締め、未だ辛うじて動く心臓の鼓動が耳元で反響するのを感じた。躊躇は無い。此処を突破しなければ、勝負の土台に立つ事さえ許されない。

 五分間の死闘、突破か、頓挫か、あるいは別の結末か――。

 

「アロナ」

 

 そっと、彼女の名を呼んだ。

 一拍、呼吸を挟む時間があった。

 

「解析プロトコルの、起動を」

『――はい』

 

 返答は短く、痛烈な意思を孕んでいた。

 青の教室にて並んだ電子コンソール、それらを一斉に叩きプロトコルの起動を行うアロナ。画面が更に密度を増し、無数のホログラムモニタが複雑に交差する。プロトコルは即座に実行され、システムの通知が艦内に響き渡ると同時に、先生の身体が一瞬だけ大きく揺らめいた。

 

『プロトコル【ジウスドラ】――起動します』

 

 アロナの宣言が届くと同時、先生の心臓が大きく跳ね、締め付けられた。プロトコルの起動に伴い、身体に強烈な負荷が齎される。右手の甲に走る血管が浮き上がり、指先が意志に反し大きく跳ねた。同時に腹の奥底から湧き上がる嘔吐感、眼球が血走り、先生は更に強く歯を噛み締め口を固く閉ざす。

 

「っ、これは……!?」

 

 カヤが、思わず驚きの声を上げた。

 表示されていたホログラムモニタの数値が跳ね、画面が再描画されるたびに変化が持たされる。身を乗り出し、困惑と驚愕を露にしたオペレーター陣に対し、リオは加速による重圧の中振り向き問いかける。

 

「一体、何が!?」

「ウトナピシュティムと、アトラハシースの状態が、凄まじい速度で変化を……!」

 

 アコがコンソールから手を離し、忙しなく視線を左右に動かした。ホログラムモニタに表示される形状は、定義されたパターンを次々と書き換えていく。相手の次元防壁が変質すれば、解析システムはそれに追随して変貌する——その様はまるで生物の如く蠢き、目に見えぬ一瞬の攻防となる。

 リオの顔に青白い光が反射し、瞳が鋭く狭まる。

 

「――まさか、相手が状態を変化させた瞬間に、適応しているというの?」

 

 口から愕然とした声が漏れた。

 次元防壁の解析でさえ、通常の演算装置では莫大な時間を要する。だというのに、それに瞬時に応じ再構築を行うシステム。相手の変化が起きる度に、こちらもその形に合わせて書き換えを行っている――それは理論上、膨大な演算リソースを必要とする行為。

 

「う、ウトナピシュティムの負荷状況、限界値を超えています!」

 

 アコの悲鳴染みた声が耳に届いた。さもありなんと、リオは内心で零す。

 

「船体を構成している七十五パーセントの論理演算装置が、全て全力稼働している状態、どう考えても長くは持たない、こんなの……!」

「これは、如何にこの船が量子コンピューターの類だとしても――」

 

 ミサキとカヤがコンソールを叩き、演算装置の状況をビュースクリーンに投影する。各モジュールの現在状況、警告色が周囲に滲み、冷却状況が表示されていた。誰もが理性の端で破滅の予感を共有していた。

 どう考えても無茶な運用だ、そもそもこんな運用が可能な事自体、リオは把握していなかった。

 

 だが、現実問題としてウトナピシュティムの本船はアトラ・ハシースの次元防壁に対し、常に追従、一歩も譲らぬ演算競争を繰り広げている。

 目まぐるしく変化する数値に困惑し、疑念を抱くリオは息を呑む。

 何故、こんな事が可能なのか――。

 

 答えは、彼女の直ぐ背後に存在した。

 

「―――」

 

 先生の頭蓋が軋み、その鼻腔から次々と赤い血が垂れた。手摺にしがみ付き、ぽたぽたと手の甲に落ちる赤を先生はジッと見つめる。

 

 変化、適応、変化、適応、変化、適応――。

 その繰り返しはリズムを得て、永遠に終わらない演算競争を思わせる。

 一秒の内に何千、何万と変化する状況、まるで敵とこちらとが互いに呼吸を合わせていく競演の如く。

 だがそのリズムの主導権は、常に向こうが握っている。

 相手の次元防壁の変質を感知すると同時、既にウトナピシュティムの本船は同質の存在と再構築される。コンマ一秒のズレさえ許されず、クラフトチェンバー、シッテムの箱、ウトナピシュティムの本船と繋がれたラインは、僅かなラグすら無く全力でアトラ・ハシースの演算に拮抗していた。

 

 ウトナピシュティムの本船起動による負荷、シッテムの箱、クラフトチェンバー接続による負荷、演算処理が間に合わない分、シッテムの箱が肩代わりした演算領域の圧迫、そこから生じる生命維持の遅延。

 それら一切を先生の肉体は背負い込み、筆舌に尽くし難い苦痛を全身で浴びる。指先を隠した手袋の下、そこに生じる黒ずみが、刻一刻と身体を覆っていくのが分かった。

 

 ウトナピシュティムの本船だけでは駄目だった。

 シッテムの箱だけでも、駄目だった。

 クラフトチェンバーと、ゴルコンダの残した対次元防壁解析システム。

 これ等を全て一つに繋げて、漸く箱舟と正面切っての演算競争を演じる事が出来る。

 

 もし、自身の身体機能を全てシッテムの箱に移していなければ。

 恐らく此処で自身の頭蓋は負荷に堪えられず、焼け焦げていたかもしれない。

 

「……流石、に」

 

 鼻から垂れ落ちる赤を見つめながら、手摺に縋りついた先生はかすかに震えを帯びた声で呟く。

 それでも、声には皮肉めいた落ち着きがあった。唇を噛むほどに、表情に不安の影が落ちる。喉奥からせり上がる嘔吐感を呑み下し、薄暗く明滅を繰り返す視界を前に先生は薄らと笑う。

 

 ――かなり、苦しいね。

 

 言葉にする事は無かった。

 弱音を吐く事など、許されないのだから。

 

「――……で、これ――!」

「――……を、シス――……ッ!?」

「分かっ――ッ! 何――……っ」

 

 視界に映る生徒達の声が、徐々に遠くなってゆくように感じる。耳鳴りのような低周波が背景で鳴り続け、視界が外周から徐々に浸食されていった。

 だが、その中でも先生は必死に理性の綱を引っ張り続け、意識を失う事を良しとしない。

 自身を支えるミカとワカモの腕が、全身に絡みつく様な感覚があった。誰かが名前を呼んでいるのだろうか、それすらもハッキリとしない。

 アロナの演算処理が圧迫されている、先生の身体を構成していたあらゆる要素が削られ、後回しにされているのだ。

 

 故に、今は耐える事しか出来ない。

 五分間――アロナがアトラ・ハシースとの演算競争を制し、次元防壁を突破するその瞬間まで。

 ただ先生は充血し、暗がりに沈み行く目を閉じる事無く、全力で手摺を掴んで声を押し殺す。

 

 声は上げるな。

 決して倒れるな。

 意識を失うな。

 弱音を吐くな。

 立ち続けろ。

 あと、少しで良い。

 

 頭の奥で、何度もそう繰り返す。強く噛み締め過ぎた奥歯が、軋む音が聞こえた。命令なのか祈りなのか、判別が付かない混沌が先生の内部に沈殿する。だが世界は確かに強く、決して揺らがぬ意志を要求していた。

 それに応えるだけの覚悟が、先生にはある。

 

 ――私の背中に、生徒が居るんだ。

 

 その短い言葉が先生の尽きかける生命の残滓を、辛うじて守っていた。

 

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