「――っ」
一瞬、意識が暗転していた。
それを自覚したのは、暗がりの中で目を見開いた時だった。
ふと気づいた時、先生は見知らぬ空間に立っていた。
眼前に広がるのは、色彩をすべて吸い取ったような、暗がりの空間。床も壁も存在はすれど無機的で、光は薄らとその輪郭を象るばかり。
呑んだ息は虚空の中に吸い込まれ、足下の感覚さえ覚束なかった。先生は暫し呆然とその場に立ち尽くし、吐息と共に呟きを漏らす。
「此処は……?」
視線が戸惑いと共に漂い、視界の端にウトナピシュティムのブリッジで見た光景、その残滓がフラッシュバックする。
つい先程まで、自分は確かに艦の中に存在し、生徒達と共にアトラ・ハシースの次元防壁を突破する為、降り掛かる負荷に対し死力を尽くして耐えていた筈だった。
しかし、今は生徒達の姿も、ウトナピシュティムのブリッジさえ、どこにも存在しない。
何故だ、と先生は自問自答した。
しかし、この状況から導き出される答えは一つしか存在しない。
まさか、自分は――失敗したのか。
その思考が湧き上がると同時、全身を凄まじい脱力感と無力感が襲った。
胸の内に冷ややかな感情が広がり、腹の底に押し込んでいた昏い色が吹き出そうとする。僅かに体を動かすと、鉛の様な鈍さが手足に残り、思考と肉体の間に生じた絶望的な距離を実感した。
気を抜くと、膝が折れそうだった。
「――ククッ」
「っ!」
だが、俯いた先生が己の無力に屈するより早く、声が虚空を切り裂いた。皮膚の奥を撫でるような、低く滑らかな笑い声。特徴的なそれは、先生の良く知る所である。
「重要な局面での介入、失礼しますよ先生」
咄嗟に振り向くと、暗がりの中から、薄ぼんやりと浮かび上がる人型の輪郭があった。暗闇に溶け込む様な色合い、罅割れ炎の如く噴き出す白が、黒の中にぽっかりと穴を穿っている。
ゲマトリアの黒服。
今、先生の背後に彼は実に悠然とした足取りで現れていた。
「――黒服?」
口から溢れる疑問の声。先生のそれが、黒服の発した笑いの余韻を冷やす。
先生は咄嗟に拳を握り締め、胸の奥に生じた感情を押し殺し表情を引き締めた。
成程、突然の事に面食らったがコレは黒服の所有する空間の一つか。
そうと分かれば話は早い、自分は力尽き此処に辿り着いた訳ではなく、これもまた
胸中に安堵と、同時に強い疑問が湧き上がる。
「こんな状況で、一体何の用だ? 後もう少しでアトラ・ハシースへの突入が……」
「申し訳ありません、先生」
黒服はらしくもなく、先生の言葉を遮るや否や指先を一つ立てた。思わず口を噤んだ先生は、黒服の立てた指先の行方を訝し気に見つめる。彼はそのまま先生の胸元を指差し、実に愉快そうな口調で云った。
「実は、ウトナピシュティムの本船を起動する際、少々仕込みをさせて頂きました」
放たれた声に含まれる意図は、場の均衡を瞬時に崩すに十分だった。
先生の目が見開かれ、次に用意していた言葉が腹の中に落ちる。二の句を告げずに沈黙する先生を眺めながら、黒服はその白く罅割れた口元をより一層深く歪める。
「何分、この手で直にクラフトチェンバーへと触れる機会がありましたので」
「……まさか」
記憶が巡り、表情が固く凝り固まる。気づけば、こめかみに血管が浮き、唇がわずかに震えた。シャーレ本棟へと帰還した際、彼とは地下の空間にて言葉を交わしている。その際ゴルコンダの作品を受け取り、クラフトチェンバーへと投入したが――何故、この状況で。
様々な思考が脳裏を過り、先生は険しい瞳と共に改めて黒服と相対する。彼の視線は冷静そのものであり、それでいてどこか楽しげでもある。
先生は黒服の所作や言葉から、計り知れぬ狡猾さを嗅ぎ取った。否、そんな事はずっと前から知っていた筈だ。
しかし、今度は此方が問う番でもあった。
――何故、と。
「……どういうつもりだ、黒服?」
「何、事は単純にして簡単な話ですよ、ウトナピシュティムの動力と管理権限、クラフトチェンバーとシッテムの箱、それらの同時接続、その代償による
黒服は指先を組んだまま、訳知り顔で言葉を並べる。先生の身体感覚は依然として鈍く、彼の言葉の一つ一つが遠景のように朧気だった。
「エデン条約で初めて彼の者と対峙した時から、こうなる事は予測していました――先生、貴方の肉体が恐らく、これらの負荷に耐えきれない事も」
「ッ」
先生の表情に険しさが増す。握り締めた拳が軋みを上げ、辛うじて流れる血潮が逆巻いた。言葉は冷然と発せられるが、その目は静かな憤りを湛えていた。
「本船の全力稼働、シッテムの箱とクラフトチェンバーの接続、それらを用いた箱舟との破滅的な演算処理競争は、文字通り次元違いの情報処理量と速度となるでしょう、どう考えても人ひとりが耐えられるものではありません、常人ならば数秒で器が爆ぜます」
「……だから、どうしたというのか」
先生の声は、黒服の言葉を正面から捉えた。言葉は冷然と響くが、込められた意志は熱く、重い。声に詰められた覚悟と、決意の色は翳る事を知らず、寧ろ進めば進む程ハッキリと分かる形で先生を構成している様に思う。
黒服を真っ直ぐ見据えながら、先生は自身の胸元に手を添え告げた。
「そんなの事は、あの瞬間、再び立ち上がったあの瞬間から、互いに覚悟の上だろう」
結局は、早いか遅いか、その程度の違いでしかない。
次元防壁を突破した先に僅かな生命しか残されていなかったとしても、先生は這ってでもナラム・シンの玉座に辿り着いて見せるだろう。
自身に支払える代価は残さず払う、骨の一片、血の一滴、意志の一欠けらさえ全て捧げて。
己は、為すべき事を為さねばならない。
「えぇ、当然相応の代償は覚悟の上です」
黒服は先生の言葉に深く頷いて見せた。その言葉自体は正しい、自分もあの瞬間、同様の覚悟を持って先生が立ち上がる様を見届けた。
それ自体に間違いは無い。
だが――。
「しかし、まだ早いのです」
「………」
黒服は云う、『まだ此処ではない』のだと。
その声色は不敵で、しかし確かな決意が透ける。二人の間、奇妙な色が混じり始めた。疑念と決意、困惑と期待、相反する瞳の色に反し黒服はどこまでも楽し気に語る。
「貴方が此処で力尽きてしまっては、救世は果たせません」
その言葉は、ただの忠告ではなかった。含意の重さが、そのまま先生の疑問に繋がった。それは先生の意思と異なる形、黒服の云う『救世』の輪郭が、ほんの僅かであったが視界を掠めた様な気がした。疑念に次ぐ疑念、先生が思わず口を一文字に結び沈黙を通せば、黒服は優雅に指先で自身の胸元をなぞり、そっと前傾する。
まるで先生を覗き込む様に、彼は告げる。
「故に、こちらも準備していたのです」
「準備……?」
「えぇ」
黒服の口元が、大きく歪む。
無邪気とも取れるその笑みは、しかし先生の予感を裏切った。
「――クラフトチェンバーを経由して、疑似的な負担を分散させる方法を」
「……ッ!?」
言葉が、先生の鼓膜を震わせると同時。
ビシリと、黒服の顔面が罅割れた。
黒々とした顔面、漏れ出る炎の如き白、刻まれた亀裂は物理的なものなのか幻視なのか判別がつかないほど唐突に、しかし不思議な静けさと共に次々と発生した。顔面から頸筋、指先から腕の中まで。ビシリ、ビシリと硝子が軋む様な音が連続し、その度に黒服の黒から白が漏れ出る。
眼球を思わせる白は亀裂と共に巨大な空洞を生み出し、微かに燻っていた白は大火の如く彼の顔面を覆い隠す。顔半分、白に覆われた彼はより一層罅割れ、裂け、砕けた口元を大きく歪ませる。
どれ程の痛みが彼を苛んでいるのか、どれ程の苦しみが齎されているのか、それは分からない。
だと云うのに黒服は今尚進んでいく崩壊現象を気にも留めず、寧ろ興味深そうに自身の掌を目前に翳した。
「黒服っ!?」
「ククッ! 本来の用途とは聊か異なる形とはなりましたが、これで先生の負担も幾分か軽減されるというものでしょう」
思わず、先生が彼の名を呼んだ。
しかし、彼は応えない。
ゲマトリアは備えていた、文字通り先生の器が崩壊する事態に。
「ゲマトリアが用意した各個の器を繋ぐパス、これに掛かる負荷は本来先生に降りかかるものの僅か一割程度、大部分は事前に用意した疑似的な器へと移り、溢れた分が私とマエストロに分配されているに過ぎません……この崩壊進捗であれば、存在の根幹までは届かないでしょう」
――だというのに。
言葉を切り、黒服は罅割れ、崩れていく指先を眺めながら肩を竦めた。声は冷然としている。だが、その合理の皮の下にあるものが何かを先生は知っている。
「凄まじい負荷です、これは、中々どうして……興味深い」
亀裂は刻一刻と広がり、深まっていく。視線に滲むのは生への執着でもなければ、死の興味でもない。ただ目前に存在する現象に対する探求心、己の終焉さえ淡々と観察可能な冷たい欲求。
それを、先生はただ呆然と見つめるしかなかった。
「……先生」
「―――」
「箱舟との演算競争、これにより発生する稼働負荷、その一切は私達ゲマトリアが受け持ちましょう」
呆けていた頭に、黒服の言葉が確かな衝撃と共に飛来した。数舜、先生は言葉を探す様に視線を彷徨わせる。握り締めていた拳はいつの間にか解かれ、二度、三度、その指先は緩く開閉を繰り返す。
こんな状況は予想すらしていなかった、同時に文字通り渡りに船の提案でもある――しかし、だからこそ先生の理性は警鐘を鳴らす。
「……確かに、手伝ってくれると、そうは云っていたけれど」
辛うじて紡がれた言葉に、黒服は少しだけ驚いた様に首を傾げる。笑みと苦渋が同居する様な表情だった、黒服が初めて見る先生の表情だった。己の命を賭した決断の直後に、この様な顔を見る事になろうとは。
その新鮮さが、黒服の炎を僅かに揺らす。
「これは聊か、後が怖いな」
「ククッ! 無論代価は頂きますとも」
当然だ、と黒服は両手を広げて宣う。これだけの負荷、状況で支払われる代価。ましてや己の身体を文字通り削っての奉仕。尤も彼が要求するのは、金銭でも権力でもない。もっと深い形での約定である。
先生は唇をそっと湿らせ、黒服へと問いかける。
「条件は、ゲマトリアへの加入かい?」
「いいえ、ゲマトリアに加入などせずとも構いません――そんな事は、どうでも宜しい」
最初に思いついた条件は、それだった。彼は何かと己をゲマトリアへ引き入れようと熱心に動いていた。しかし、彼はその問い掛けを軽やかに切って捨てる。
その事に、先生は少しだけ驚いた。
本命中の本命が、余りにも簡単に蹴飛ばされてしまったが故に。
「……ただ、そうですね」
黒服は崩壊する身体をそのままに、一瞬考える素振りを見せた。それは単なるポーズだったのか、或いは本当に考え込んでいたのか。数秒程沈黙を守った黒服は、徐に指先を立て、先生を真っ直ぐ見つめながら告げた。
「私と、対等な友人になって頂きたい」
「―――」
放たれた一言に、先生は口を閉ざした。
利害だけでは測り得ぬ、複雑な関係性の始まりを匂わせるソレ。或いは、もっと単純なものだったのかもしれない。
彼らしからぬ、純粋な好悪のみで決めた様な。無邪気で、純粋で、あまりにも軽やかに告げられた言葉はしかし、先生の予想しなかった条件であった。
崩壊する身体で一歩、黒服は前へと足を進める。
「これから貴方の歩む道は、文字通り
「………」
「そうならぬ未来は、那由他の果ての可能性、望外の奇跡でも起きぬ限り、貴方が再びこのキヴォトスへと戻る事は叶わないでしょう」
黒服の声は厳しく、だが同時に真実であった。
先生はその言葉を受け止めながら、胸の中で過去と未来とを反芻する。子ども達の未来、赤く染まった世界、そして決意と希望の狭間で足掻き続ける自分。遅いか早いかの違い――そうだ、その通りだ。自身の結末は、終わりは、既に見えている、決めている。
だからこそ黒服の言葉は、正しい。
「ですが、もし――もし、そのような望外の奇跡が起こったのなら」
そう、もし先生本人ですら望み得なかった。
先生の生還という、全く異なる結末を迎えられたのであれば。
黒服は言葉を続ける。そんな事はあり得ないだろう、何万分の一か、何億分の一か、はたまた言葉通り、那由他の果ての可能性だというのに。
しかし黒服は薄らと白く罅割れた口元を笑みへと変え、白の走る指先をそっと差し出した。
「是非、共に語り合うひと時を、この私と……ククッ」
そう云って、恭しく一礼する。
あり得ない未来、条件でさえあった。
たったそれだけの事に、黒服はどれだけの価値を見出しているのか。その熱意の片鱗を、垣間見た気分だった。
先生は暫し差し出されたその掌を凝視していた。何を云うべきか、どう飲み込むべきか、迷っていたと云っても良い。
だが、導き出される結論は明らかであった。
小さく息を吸い込み、腹に力を籠める。
差し出された掌に、先生は緩慢な動作で右手を伸ばした。手袋の下、黒に浸食されつつある指先。今尚、崩壊してい行く黒服の指先。その先端が、微かに触れる。
「――明日に続く希望を」
「………」
「子ども達の未来を、この手に掴めるのなら」
呟きながら、先生の瞳が決然とした光を帯びる。己の行動原理は分かり切っている、その未来を守るために、全てを賭けてきた。その秤は決して狂わず、ブレず、傾かない。
先生の掌が、黒服の掌を力強く掴む。
掌が触れ合う瞬間、空間が微かに震え、黒服の顔面に灯る炎が、より一層力強く弾けた。
照らされた先生の表情、その輪郭が浮かび上がり、残された片側の瞳が煌めく。
「結ぼう、その【契約】」
「ククッ、クククッ!」
黒服の笑いが虚空に響く。深い歓喜が混ざった音だ。先生の胸は不思議な静けさに包まれていた。
疑念、だがそれを上回る覚悟、そして希望――新たな一歩の前触れとして、先生は黒服の手を取った。
「結構! 素晴らしい判断です、先生」
深く、深く曲がった三日月の如き満面の笑み。それを以て黒服は先生の掌を握り返す。その笑みの奥底には、純粋な喜びと強い興味、期待が秘められていた。
「さて、契約は成りました、であれば長居は無用でしょう、生憎と私は他者の為に存在全てを擲つ博愛主義者ではありません、私自身がこの身で為せる協力はこれで最後か、可能であっても、あと一度だけ――」
声が落ちると、黒服の姿はさらに亀裂を深めながらも、どこか清々しさすら感じられる態度で自身の胸元を叩いた。この契約を受け入れた瞬間から、何かが変わったのか、或いは変わらなかったのか。
結末を誰も知らぬこの選択、しかし黒服だけは心底満足そうに己の崩壊を受け入れている。
存在の根本には届かないと黒服は云った、しかしそれでも失うものは余りにも大きい。
故に、己の協力は此処までだと、黒服は先生へと言葉を投げかける。
「先生、後はお任せ致します」
「……あぁ、勿論だ」
投げかけられたそれに、先生は深く頷きを返した。そこには僅かな躊躇いさえ無かった。
握り締めた掌は一拍後、するりと自然に解かれる。
互いの指先は冷たく、固い。
望外の結果だ、崩壊を免れた先生の身体は、想定していたよりもずっと猶予が残されている。彼が齎したその猶予が、正にどれだけ金銭を積もうと得られない、黄金に勝る価値を持っているのだ。
「――あぁ」
唐突に、世界に貼り付けられていた黒が剥がれ落ちるかのように、周囲の黒が罅割れ、崩れ、その奥に白い光が差し込み始めていた。
目覚めの時だ。
黒服は崩壊する周囲の光景を一瞥もせず、ただ正面に佇む先生の姿を凝視し続ける。
己の両足で佇み、あらゆる苦難と痛みに耐え、堪え難きを堪え、進み難きを進む者。自身が何度も手を伸ばし、真に欲した求道者の在り方。
夢幻の世界を離れ、再びアトラ・ハシースの箱舟と相対する彼を、黒服はどこか眩しそうに見つめていた。
崩壊し、半壊した顔面をそのままに、彼は腹の底から告げる。
「ご武運を、先生」
■
「――せいッ! 先生っ!?」
「っ!」
頭上より放たれた声に、目を見開く。
アロナによる補助もあり、視界は一瞬にして明瞭なものと転じた。
瞳を動かせば、自分を抱き締め、一杯一杯の表情で覗き込むミカとワカモの姿があった。不安げに、自身の身体を抱き締めながら呼びかける両者に、先生は咄嗟に自身の身体を確認した。
視認せずとも分かる、崩壊による浸食は確かに進行した、自身の生命は現在進行形で失われつつある――だが、生命の根幹は途切れていない。
アロナの制御は健在、この肉体は、まだ動く。
そこに先生は胸中で深く、深く感謝を述べる。
「大、丈夫……ッ!」
「で、でも――!」
「あなた様っ!」
「今は、今だけは……ッ!」
喉元までせり上がっていた血を呑み下し、先生は腹の底から叫んだ。
中途半端に垂れた鼻血が胸元に滴り、直ぐ傍にあった手摺に掴まりながら先生は必死に身を起こす。
背後から手を伸ばすワカモとミカ、彼女達の視線を感じながら、しかし先生はビュースクリーンに映る黒々とした巨大な球体、次元防壁を睨みつけながら声を張り上げた。
「アコ、解析システムはッ!?」
「げ、現在も尚、次元防壁との同調を維持――ッ!」
アコは戸惑いつつも、投げかけられた問い掛けに辛うじて答えた。ブリッジに並んだコンソールには警告灯が次々と点滅し、緊急処理を知らせる電子音が絶え間なく鳴り響いている。
だが致命的なエラーはない、解析システムは動き続けている。
ならば、何も問題は無い。
「トキッ!」
「っ……!?」
操縦桿を握るトキの名を呼んだ。強い振動に襲われる船体の中、彼女の両手は白くなるほど強くハンドルを握り締めている。振り返ったトキの視界に、手摺にしがみ付きながら血を垂らし、青白い顔で叫ぶ先生の顔が映った。
「速力最大を維持! このまま、アトラ・ハシースへ突っ込むッ!」
「………!」
今、この瞬間しかなかった。
再突入の機会は存在しない、黒服達が齎した僅かな猶予。
これを一秒たりとも無駄には出来ない。解析システムが動き続けている今、この瞬間に次元防壁を突破する他道は無いのだ。
「―――」
トキは一瞬、迷う様にリオへと視線を向けた。ブリッジ内に漂う焦燥の香り、軋む船体、リオもまた直ぐ傍にあった手摺に掴まったまま、振り向いたトキと視線を交わらせる。
事、この状況でもはや後戻りは出来ない。
状況から見て、先生の発言は合理的な選択である。一秒足らずの思考、リオはぐっと唇を噛み締め、頷きを返す。
トキはその仕草を確かに認め、前を見据えた。
「――了解!」
叫び、トキは操縦桿を強く握り直す。シートのフレームが軋み、警告ランプが赤く瞬く。最高速のまま次元防壁へと肉薄するウトナピシュティム。光を吸収する巨大な球体、黒々とした壁が目前に迫り、ビュースクリーンを覆い尽くす。
次元防壁、あらゆる攻撃や現象を無力化する最強の盾。もし解析システムに欠陥が存在すれば、跡形も無く消し飛ぶか、或いは衝突の衝撃でバラバラに投げ出されるか。
結末は、数秒後の未来へとなる。
「防壁接触まで残り僅か、総員衝撃に備えて下さいっ!」
「電磁防壁を展開、船首部分に集中……!」
「次元防壁衝突まで、三、二、一――」
カヤがホログラムモニタに視線を走らせる。コンソールの上に走る緑色のラインが一斉に赤へと変わり、船体全体に重苦しい唸りが響き渡った。
「接触しますッ!」
叫び、同時に衝撃。
船内、及び世界全体に轟く様な、硝子を突き破る音。
船体全体を締め付けるような圧力が襲い、ブリッジの照明が一瞬だけ暗転、凄まじい揺れが全身を襲った。臓物が浮き上がり、血の気が失せる様な感覚。だがそれは一瞬の事で、ブリッジが衝撃で拉げる事も、また全員がバラバラに虚空へ吹き飛ばされる事もなかった。
ウトナピシュティムは健在、生徒達もまた、現状を理解する。
「ぼっ、防壁突破ッ!」
「や、やった……っ!?」
アコが叫び、地面に這い蹲ったヒヨリが喜びの声を上げた。
ヒヨリの背嚢に手を掛けたサオリが、地面に這い蹲った彼女を力強く抱き起す。
ウトナピシュティムは次元防壁の内側、黒々とした空間に侵入。黒々とした世界はまるで異なる空間の如く、否、実際にそうなのだろう。次元防壁に覆われた球体の中心、暗闇の中心に巨大な要塞染みた存在、アトラ・ハシースの箱舟が浮かんでいた。
ビュースクリーンに映るソレが全員の視界に映る。船体外殻を走る光条が、異様な気配を放っていた。
手摺に凭れ掛かったまま、リオは操縦桿を握るトキへと声を飛ばす。
「トキ、衝突の衝撃で進路が逸れたわ! 船体の制御を――ッ!」
「既にやっていますッ!」
「船首部分にダメージ、だけど電磁防壁により軽微……!」
「念の為、隔壁で区画封鎖を!」
ウトナピシュティム全体にアラートが響き、船首区画の隔壁が重々しい音を立てて閉じていく。最大速力のまま突き進むウトナピシュティムは、アトラ・ハシースの箱舟へと刻一刻と肉薄していた。突入コースは事前に話した通り、円型のリングを超えた先に在る中心部。ビュースクリーンに進路が投影され、僅かにノイズの走った画面は次元防壁突破の衝撃を物語る。
トキは懸命に操縦桿を操り、進路を修正、船体を安定させようと足掻く。
「突入コース確認、このまま真っ直ぐで問題ありません!」
「衝突するにしても、速度が速すぎる……! 逆噴射は!?」
「構うなッ!」
ミサキの悲鳴染みた問い掛けに、先生は全力で答えた。
ブリッジの床はなお振動を続け、装置のパネルには船体の現状が赤く表示されている。最も難関となる次元防壁は突破出来た、ならば後為すべきは一つ、ただの一つだけ。
先生の指先がビュースクリーンの先、アトラ・ハシースの箱舟を指し示す。
「このままアトラ・ハシースの箱舟、
ナラム・シンの玉座へと辿り着ける、最短の道。
その一点、ただその一点のみを睨み付け、先生は力の限り叫んだ。
トキは先生の言葉に従い、狙いを付けたウトナピシュティムは、アトラ・ハシースの外装へと凄まじい勢いで接近する。ビュースクリーンにアトラ・ハシース外装部が画面一杯に迫り、全員が衝撃に備え身構えた。
「箱舟本体接近、衝突まで四秒!」
「対ショック姿勢!」
「大きな揺れ、来るよッ!」
「先生っ!」
オペレーターが叫び、間髪入れず背後のミカとワカモが先生の背後から覆い被さった。
途端、二度目の衝撃が到来する。
艦内に低い轟音が響き渡り、各所で火花が散る。内装の一部分が拉げ弾け、千切れたケーブルが火花を撒き散らしながら飛び出した。
「ぅ、ぐ――ッ!?」
強い圧迫感、脳を揺らす衝撃。ミカとワカモの腕の中で、先生の意識は一瞬のみ昏く安らかな暗がりの中に沈んだ。
■
【アトラ・ハシースの箱舟 ナラム・シンの玉座】
「……この感覚」
巨大な浮遊要塞、アトラ・ハシースの箱舟の中で彼女はふと頭上を見上げた。微かな振動、ほんの些細なソレに気付いた彼女はナラム・シンの玉座に佇んだまま、静かに呟きを漏らす。薄暗い世界に赤いラインが奔る内装は、薄らとした光で彼女の横顔を照らしていた。
――まさか、アトラ・ハシースの内部に侵入された?
湧き上がった疑問、まるで自身の身体に一部が侵入したかのような不快感。それを感じ取った彼女、異なる世界の空崎ヒナは静かに肩から提げた愛銃に手を這わせ、眉間に皺を寄せる。
まさか、という思いがある。次元防壁を突破し、このアトラ・ハシースの箱舟に手を掛けられる可能性など、一体どれ程か。
しかし同時に、確信に近い予感が胸中には存在した。
「……予定を少し、早めましょう」
告げ、彼女は背後の巨躯を見上げる。其処には存在を押し殺し、ただヒナを見下ろすプレナパテスの姿があった。彼はヒナの問い掛けに頷く事も、また否定する事もせず、静かに開いローブの隙間からタブレットを取り出す。
「サンクトゥム、演算の加速を」
彼女の指示通り、アトラ・ハシースの箱舟を運用するA.R.O.N.Aへと指示を伝達するプレナパテス。ヒナはプレナパテスの所作を見届けるや否や踵を返し、侵入者を迎撃する自律兵器を動かす為ナラム・シンの玉座を後にした。
流れる長髪、靴音を鳴らしながら暗がりの中を行くヒナは小さく、沈痛な面持ちと共に呟きを漏らす。
「――どうして、まだ苦しもうとするの」
声は小さく、暗闇に溶けて消えた。
去り行くその小さな背中を、冷たい鉄仮面に覆われたプレナパテスの瞳が追う。
ただじっと、彼は唯一残された生徒の背中を、静かに見つめ続けていた。
最新ストーリーの「過ぎ去りし刻のオラトリオ」読みましたわ。
アリウスの現状が知れて嬉しいって気持ちと、「あの複製みたいな生徒何なの? こわいよぉ!」って気持ちがありますわ……。どうか、どうか平和に終わって欲しい、何事もなく平穏に、静かに……。
サオリ、先生のお腹に触れて、また向き合う事が出来て良かったね。過去と罪は重いですわよね、こっちの先生はもうそろそろ触る事も出来なくなりそうですし、スクワッドの皆と、アリウスと全員幸せになって欲しいですわ。
そういう結末だって、とっても素敵な事なのですから。
「多分私達には、お互いに生きる理由になるって義務があると思うから」
先生のこの台詞、凄く共感致しましたわ。先生は生徒を想い、生徒は先生を想う。家族だとか、親しい友人だとか、そういった存在もひっくるめて、互いが互いに生きる理由となる。これはとても自然で、素敵な事だと思うのです。
サオリがスクワッドを想った様に、また今回スバルがアリウスに留まった生徒達を想う様に。
或いは、だからこそ大切な存在の為に全てを擲ったり、誤った道を選択してしまう訳で、裏を返せばそれ程までにその存在を想っているという証明でもあるのですから。
これは愛です、愛ですわよ先生。
だからこそ私は、先生に一杯血反吐を撒き散らして這いずって何度だって立ち上がって欲しいのです……!
その姿こそが、意志こそが、先生が持つ生徒へ対する絶対的な愛と想いを証明するのですから! これ程素晴らしいものはありません事よッ!
だからって死んだら生徒の生きる理由が無くなるんですが? 義務が放棄されているんですが?
なので先生は自分の身を守りつつ、あらゆる困難に対応する必要があったんですね。
見て! 先生が身を削って生徒達を守ろうと死力を尽くしているよ! 可愛いね。
先生の力が足りないせいで、キヴォトスは崩壊し先生はプレナパテスになってしまいました。
先生のせいです。
あーあ。