「はっ、はぁッ……!」
ヒヨリは肺の奥底から繰り返される吐息で、辛うじて自分が生きているのだと実感した。
凄まじい衝撃の後、破損した船内は断続的に金属の軋み音を上げ、天井パネルの一部が垂れ下がっているのが見えた。消えかけた艦内灯がちらつき、断片的に見えるビュースクリーンにノイズが走る。
ヒヨリは頭を抱えたまま地面に這い蹲っていたが、床には飛散した硝子片や断線した配線、焦げた金属片が散らばっており、指先に尖った破片の先端が触れていた。
一瞬で変貌した艦内に、這い蹲ったまま首を動かして恐る恐る周囲を見渡す。見れば自分に覆い被さる様にして、サオリが防御姿勢を取っていた。
背中に散らばっていた金属片を払い、上体を起こしたサオリは大きく息を吐き出し、自分の腕の中で身動ぎするヒヨリに問い掛ける。
「ヒヨリ、怪我は?」
「だ、大丈夫です、ありがとうございます、サオリ姉さん……!」
サオリは咄嗟にヒヨリの肩を叩き、傷の有無を確かめる。幸い、どちらにも傷らしい傷は無く、サオリはほっと胸を撫で下ろす。
艦内の圧力計が低い値を示し、換気ダクトが不規則に吐息のような音を立てていた。サオリは壁に手を突きながら立ち上がって、周囲に向かって叫ぶ。
「アツコ、ミサキ、無事か!?」
「うん、大丈夫だよ、サッちゃん」
「こっちも、何とか平気」
声を張り上げると、返事は即座に響いた。アツコは壁に寄り掛ったまま覚束ない足取りで立ち上がり、ミサキも身体を締め付けるベルトを弾きながら、コンソールの傍で溜息交じりに手を挙げる。
スクワッド全員の安否を確認し、安堵するサオリ。そして最後に、絶対に大丈夫だと云う確信を持ちながらも彼の名を呼ぶ。
「先生!」
「――私は無事だよ、サオリ」
サオリが先生の名を呼ぶと同時、ゆったりと掌が上がる。
声は掠れていたが確かに届いた。
見ればデッキ中央、口元を乱雑に袖で拭いながら、緩慢な動作で立ち上がる先生の姿があった。両脇をミカとワカモに支えられ、立ち上がる姿はどこかぎこちない所作に見えるが、瓦礫に押し潰されたり、壁に叩きつけられた訳でもなさそうだった。
「ありがとう、ミカ、ワカモ」
「……ううん」
「いいえ、この程度」
先生の礼に、そっと首を横に振る両名。ミカとワカモの指先は先生の制服を確りと掴んでおり、何があっても離れないと云う執着心が垣間見える。先生が大丈夫と口ずさんでも、彼女達の掌が開かれる事は無かった。
「突入に、成功したんですか……?」
「――えぇ、その様ですね」
コンソールの一角、拉げたパネルの中から断線したケーブルが垣間見え、微かに焦げた匂いが鼻腔を擽る。だが、主要な電源はかろうじて生きているらしく、ホログラムの一部が断続的に復帰しては消えるを繰り返していた。
コンソールに突っ伏して、頭部を守っていたアコが罅割れ、ノイズの走ったビュースクリーンに目を向ける。モニタのグリッドには黒い影と赤い警告の文字列が走り、映像は断片的に明滅を繰り返していた。
同じようにカヤもシートに身体を固定していたベルトを外し、コンソールを指先で叩いて幾つかのホログラムモニタを表示させる。表示は重ねられたフラグメントとなり、損傷によるものか輪郭がズレて歪んでいた。
「ノイズが酷いですが、突入直前の状況によれば、第四エリア、閉鎖セクション内部への侵入に成功した様です」
告げ、表示されるアトラ・ハシースの全体図。衝突点が赤く点滅し、ウトナピシュティムを示す緑の点滅を示す光がアトラ・ハシース中央に突き刺さっていた。
「リオ様」
「問題ないわ、衝撃で少し体勢を崩しただけよ」
「……全く、随分と派手な突入になりましたね」
トキがシートから立ち上がり振り向けば、手摺に寄り掛りながら立ち上がるリオの姿。同時にカヤも衝撃で目を回したのか、表情を歪めながら額を撫でつける。リオは僅かに乱れた制服を正しながら、襟元を指先でなぞり周囲に声を掛ける。
「――今は兎に角、状況の確認を」
各々の無事を確認した彼女は、ウトナピシュティムの状態について問いかける。
ブリッジの背景では断続的にアラームが鳴り、消えたかと思えば別のセンサーが警告を上げていた。
オペレーター組がコンソールへと手を伸ばし、ビュースクリーンに幾つもの画面を投影する。ウトナピシュティムの損傷箇所の確認、周囲のマップ状況、メンテナンス用のAMASが自動展開された記録、現在の修理状況が拡張表示され、それぞれが急ぎ目を通した。
「現在、私達は箱舟の外壁に突入し、船の頭を半分以上埋め込んでいる様な状況ですね、箱舟が強烈な機動でも取らない限り、抜け落ちる事は無いと思います」
「突入場所は計画通り、ある意味順当――」
「だけど、良い報告ばかりって訳にもいかない」
アコ、カヤがそれぞれ報告と所感を零し、最後にミサキが苦々しい表情で云った。
スクリーン上の三次元モデルは説明通り、ウトナピシュティムの船体が箱舟の内部に深く食い込んでいることを示していた。外装と接触した部分のテクスチャは不規則に歪み、次元防壁の干渉によってか周辺の表示が走査線状に崩れている。
「外装と衝突した影響で、ウトナピシュティムの中枢システムにダメージがある、船首部分は致命的、船底にも無視できない損傷があるみたい」
告げ、ビュースクリーンに表示されるウトナピシュティムの全体像。
ミサキが顔を上げ指差せば、確かにウトナピシュティムの一部区画が赤く染まっているのが分かった。各赤いマーカーには小さな数字が点滅し、エラーコードが断続的に吐かれていた。船体を覆っていた外装の歪みを示す数値、これについてミサキは詳しい事は何も分からないが、許容範囲を遥かに超えている事だけは理解出来た。
険しい表情でスクリーンを眺める面々、アコとカヤもまたホログラムモニタを幾つか投影し、警告を視線でなぞる。
「中枢システムにダメージが入ったとなると、再起動シーケンスも機能しませんね」
「メインコントロール、艦内通信システム、演算能力も大幅に低下……」
「結構拙いね、これは」
詳細を知れば知る程、オペレーター組の表情が翳る。表示されるログには、複数のサブシステムがフェイルセーフを働かせた記録と、自動修復プロトコルの履歴が並んでいる。突入自体には成功したが、状況は明るいとは云い難い。
「えっと、それってつまり、このままだと地上へ帰れないって事?」
「そうね、この状態ではそうなるでしょう」
アツコが小首を傾げ問いかければ、リオは努めて冷静な口調で肯定した。少なくとも損傷の度合いを見る限り、真面に空を飛ぶ事さえ難しいだろう。
その現実を理解した途端、ヒヨリの表情から血の気が失せ、勢い良く立ち上がった。そこには、単純な恐怖だけでない、自身の末路を悟る生々しい衝撃が宿っていた。
「そ、そんな……! じゃあ私達、このまま落下してバラバラになるしかないって事ですか!?」
「いいえ、まだ手はあるわ」
悲観的な未来、やはりこうなるのかと云わんばかりに頭を抱えるヒヨリに、しかしリオの声が揺らぐ事は無く。
彼女は手元のタブレットを操作し、断続的に復旧する各種サブシステムのステータスを次々に並べた。自動修復機構に関するステータス、補助推進が稼働可能かどうか、内部で作業するAMASの稼働状況――それらを冷徹に見比べ、思考の中で無数の選択肢を絞っていく。
「確認した限り、ウトナピシュティムが全て駄目になった訳じゃない、演算能力の低下は許容範囲内、それに多少なら此方でも補えるわ、船体の根本的な修理は不可能でも、エンジンの機能と船体外装を最低限復旧出来れば、航行可能なレベルに引き上げる事だって不可能では――」
リオは幾つかのホログラムモニタを展開、表示されるそれを視線で追いながら告げる。確かに損傷はある、しかしどれも致命的で取り返しのつかないものではない。手を尽くせば、挽回出来る筈だ。
そう考えタブレットを操作するリオだったが、言葉の途中で艦内にアラートが鳴り響く。
表示されていたコンソールのインジケータが全灯し、自動的にビュースクリーンへと複数のマップ情報が展開された。
「っ、このアラートは……!」
「船の周辺から、敵性反応です!」
アコが即座に反応し、適正反応の所在を咄嗟に探った。隣接するブロックから自律兵器の熱源、ブリッジ内部に緊張が走り、ウトナピシュティムのセンサーは複数の影を捉え、荒い映像が幾つかホログラムモニタに表示された。
そこに映り込むのは、複数のケーブルの様な腕部を持つ件の自律兵器。それらが続々と暗がりの奥から湧き出し、この場所を目指して駆けていた。
「あの姿、地上でも見た自律兵器か――!」
「予測していた事ではありますが、どうやらアトラ・ハシース内部にも相応の戦力を抱えていたみたいですね」
サオリがホログラムモニタを睨みつけながら声を漏らし、カヤが辟易とした表情で肩を竦める。防衛戦力が出て来る事は事前に予測出来ていた事ではあるが、随分と動きが早い。
ミサキは壁に立て掛け、固定したままのセイントプレデターを一瞥した後、操作パネルから電磁防壁が機能している事を確認する。先の衝突で幾分か出力が落ち、船首部分は既に外装諸共破壊されてしまっているが、他の部位に関しては健在である。
兎も角、戦闘は避けられない。全員の意識が否が応でも尖り、肌が粟立つ。
「皆、戦闘準備を」
静かに、先生は声を上げた。
手摺に寄り掛ったまま、シッテムの箱を抱き締める。タブレットの角を支える指先が震え、画面の微細な文字列が視界にチラついた。
シッテムの箱の外装は熱を持ち、普段は発しない様な駆動音が微かに聞こえる。画面には小さな青白いノイズが表面を走っていたが、先生はそれを顧みる事無く言葉を続けた。
「――此処からは、作戦通りに動こう」
作戦については、地上で既に説明した通り、変更はない。ウトナピシュティムを防衛し、同時に此方からも打って出る。
揺らぐ事の無い先生の声がデッキの中に響き、全員の視線が自然と集まる。
「現在のアトラ・ハシースは、ウトナピシュティムとの接触によって抑制状態にある、これを私が維持している間、アトラ・ハシースの箱舟は多次元解釈を行う事が出来ない――その間に敵の中枢を抑える」
ビュースクリーンに表示されたマップを指先でなぞりながら、先生はその中心を見据え告げた。正面に立つリオの視線が、それとなく先生の抱えたシッテムの箱に注がれる。
「……先生の持つシッテムの箱とウトナピシュティムが接続されている間は、安全という訳ね」
「そうなるかな、けれど抑制維持にも限界は存在する」
限界。
その言葉が口をついた瞬間、どろりと先生の鼻から赤が垂れ落ちる。
デッキに差し込むライトがその血滴を一瞬艶やかに照らし、床面にポツポツと雫が跳ねた。
「先生、鼻血が――」
「………」
流れ落ちる赤を目視したサオリが戸惑いと共に指摘すれば、先生は今気付いたとばかりに目を瞬かせ、口元を何度も袖で拭った。
良く観察すればシャーレの制服には既に少なくない血痕が付着しており、その痕が暗く滲み、布の繊維に染み込んでいるのが見える。
何度も、同じ様な所作で口元を拭ったのだろうか。
リオの、生徒達の視線が険しさを帯び、幾つもの瞳が先生を注視する。それを自覚しながらも、先生は唇を一文字に結び沈黙を守った。
「――それが、抑制の反動という事かしら?」
リオの口から放たれた声は鋭く、強張りを孕んでいた。
一瞬、デッキの中を沈黙が支配する。背後に響くアラートがやけに無機質に聞こえ、全員の鼓膜を震わせた。
様々な色を放つ複数の瞳が、先生を捉え続けている。誰もがそれぞれの思いを抱き、複雑な心境を秘めているのは明らかだった。
だが先生は注がれる様々な色を理解し、自覚しながら、応える事無く目を閉じ、一際強く口元を拭った。乱雑に広がった血痕が、頬に赤い線を描く。
「……情けない話だけれど、私も、そう長い間アトラ・ハシースを止める事は出来ない」
先生はリオの問い掛けに答えなかった。
代わりに、アトラ・ハシースに対する抑制が完全なものではない事を吐露し、話題の転換を図る。
薄々理解していた事ではあるだろうが、実際に齟齬を生まない為にも重要な事だろう。一瞬、リオは何事かを口にしようとして、止めた。代わりに指先で額を二度、三度叩き、湧き上がる感情を呑み下す。
優先順位は重要である。それは、理解している。
「……具体的な解除条件、或いは制限時間は?」
「私がナラム・シンの玉座に辿り着く前に死亡するか、シッテムの箱が物理的に破壊された場合は強制解除となるだろう、時間制限については――」
呟き、先生は押し上げた瞼の向こう側、瞳を足元に落とし云い淀む。
「長くても数時間――上手く行っても、三時間程度と見積もって欲しい」
「……その制限時間を超えたら、先生はどうなるの?」
「無意味な問いかけですね」
ミサキが横合いから口を挟めば、即座にカヤが呆れた様子で云い放った。微かに顰められ、敵意の滲んだミサキの視線がカヤを射貫く。しかし彼女は飄々とした態度で両掌を揺らし言葉を続けた。
「そもそもアトラ・ハシースをどうにか出来なかった時点で、私達全員が宙の上で散るのは確定事項でしょう、先生の云う制限時間が過ぎたらどうなるかなんて、今更な話です」
「――……そう、確かにそうだね」
カヤの放った言葉に、ミサキは込み上がる感情を呑み込むように口を堅く結び、それからややあって頷きを返した。自分達は一蓮托生、失敗すれば生存の余地など存在しない。それは全く以てその通りだ、今更問いかける様な事でもない。
「それはないよ、だってそうさせない為に、私達が居るんだもん」
そんな結末には、絶対にさせないと。
ミカはその朗らかで柔らかな気配に反し、剣呑な気配を身に纏いながら告げる。そしてその想いは、ワカモもまた同様である。口を挟まずとも、常に先生の背後に佇む彼女は、ただ静かに担いだ愛銃の表面を撫でつけていた。
「……ありがとう、此処に集った皆を、私は心の底から頼りにしている」
大きく息を吸い込み、先生は改めて全員を見渡す。甲板の軋みが耳に届き、微かな亀裂音が遠くから聞こえて来る気がした。時間は限られている、行動は即座に起こさなければならない。
「此処で幾ら粘って、敵を撃退してもいずれ押し切られる、アトラ・ハシースは敵の本拠地だ、あの自律兵器は内部から幾らでも湧いて来る、だから――」
「事前の計画通り、敵の攻勢を凌ぎつつ、別動隊で中枢を制圧する」
「そうだ」
カヤの淡々とした声に、先生は強く頷きを返した。段取りは既に全員の把握する所である、オペレーター組がシートから腰を上げ、各々が自身の愛銃を手に取り戦闘準備を始めた。防衛にはAMASによる支援も存在する、だが戦力に余裕など存在しない。
「敵は次元システム方面から雪崩れ込んで来る筈だ、直ぐにでも出立しよう」
「先生、具体的な部隊の振り分けはどうする?」
「……
真剣なサオリの問いに対して、先生はホログラムモニタに表示されるマップ情報と自律兵器の動きを見つめながら答えた。正直に云って、皆にはこのウトナピシュティムで待機して貰った方が良い。
これから起きるであろう事も含め、同行する生徒達にとっては酷な光景を目にする事になるだろう。
そんな思考から、敢えて遠回しな表現となった。
瞬間、先生の制服を摘まんでいたミカがいの一番に声を上げる。
「私は、先生から離れないよ、絶対にね」
「……えぇ、その一点に関しては、譲れない一線ですので」
先生の内心を知ってか知らずか。ミカの言葉に続き、ワカモもまた先生に寄り添ったまま断固とした口調で云った。先生は決して離れようとしない両名を一瞥し、深く考え込んだ後、努めて感情を排して告げた。
「それなら、突入部隊は私達だけで良い、残りの皆はウトナピシュティムの防衛に――」
「いいえ」
しかし、先生が全てを云い切るより早くリオが発言を遮った。掌を突き出し、背後のトキを横目に見たリオは、力強い口調で断じた。
「防衛部隊に関しては、私とトキだけで十分よ」
「はい、アビ・エシュフとパッケージがあれば問題ありません」
「……けれど、リオ」
「それに、先生」
懸念を示す表情を浮かべた先生に対し、リオは促す様にして振り返った。彼女の視線に誘われるようにして目線の先を追って行けば、そこに佇む複数の生徒達の姿が視界に入った。
「彼女達も、納得できないという顔をしているわ」
リオの呟きに反応を示す、複数の影。
シートに手を掛けながら不機嫌そうな表情で此方を睥睨するアコ、そしてスクワッドの面々。「当然ですね」と鼻を鳴らすアコに対し、スクワッドの四名は沈黙を守る。だが、その瞳には切実な光が灯っている様に思える。
「地上でもお伝えしましたが、私はヒナ委員長の帰りを黙って待っていられる程、大人しい性格ではありませんので!」
「……私達スクワッドは、先生の指示に従う、それが最善だと先生が判断したのであれば防衛組に回ろう、しかし可能であれば――」
スクワッドを代表し、口を開いたサオリは帽子のつばを指先で摘まんだまま云い淀む。視線はスクワッドの皆と先生を行き来し、見かねたアツコがそっと彼女の背中に手を添えた。それに気付いたサオリが、迷いを孕んだ視線を向ける。
「アツコ……」
「大丈夫、きっと気持ちは一緒だから」
「そ、そうですよ……!」
「此処まで来て、今更遠慮する必要も無いでしょ」
アツコ、ヒヨリ、ミサキから次々と送られる言葉。サオリの抱く感情は彼女達にとって、手に取る様に分かる。そうでなければ、そもそもこの場所に立つ事も無かっただろう。
その言葉と視線に勇気付けられたサオリは、ぐっと掌に力を籠めると、確かな意思を持って声を発した。
「私達スクワッドは、先生の傍で力になりたい」
どのような危険であっても、状況であっても、その意思だけは変わらない。先生とサオリの、スクワッドの視線が交わる。彼女達は先生の言葉こそを待っている様だった。
先生はサオリの、ヒヨリの、アツコの、ミサキの瞳を見返しながら、僅かにその瞳を細める。それから直ぐ隣に立つアコへと視線を向け、そっと瞼を閉じた。
「……はぁ」
先生が守った沈黙、それを破り反応を示したのはカヤだった。
彼女は大きく肩を落とし、首を緩く振る。何とも大袈裟な所作だと思った。カヤは苦々しい表情を浮かべると、先生に同行を希望した生徒とリオ達防衛組を見比べる。
「自ら危険な突入班を希望するのは結構な事ですが、防衛とて二人で回せるものではないでしょう、人数からして偏りが酷すぎます」
「………」
彼女の言葉に対し、サオリとアコは思わず押し黙った。防衛組にはAMASによるサポートがあるとは云え、やはり二名だけとなると不安が残るだろう。
しかし、先程の発言も偽らざる本音である。
カヤは仕方ないと云わんばかりにコンソールへと手を伸ばすと、リオとトキを一瞥し口を開いた。
「それなら、ウトナピシュティムには私が残りますよ」
「カヤ」
「まぁ、戦闘面に関しては然程役には立ちませんが、幸いAMAS何て便利な自律兵器が残っている事ですし、引き続きオペレーターの真似事を務めましょう」
薄らとした笑みを浮かべながら、カヤの指先がコンソールを叩く。新たに投影されたホログラムモニタにはAMASの稼働状況が表示され、複数のオンラインアイコンが青く点灯していた。
たった一人とは云え、手が増える事に越した事は無い。戦闘能力に自信が無いと云うのならば尚更、サポートに徹する
「そうすれば、多少手も空く筈でしょう、
「……えぇ、それなら決まりね」
カヤの問い掛けに頷きを返したリオが、タブレットから投影されていたホログラムを指先で払い、先生に向かって宣言した。
「ウトナピシュティムの防衛とサポートは私とトキ、そして不知火カヤの三名で行いましょう、此方の防御が抜かれる前に、先生は敵中枢の制圧をお願いするわ」
「――分かった」
否やはなかった。
彼女達が自らそう決めたのであれば、口を挟む余地はない。
その宣言に、ブリッジの空気が一瞬引き締まる。ウトナピシュティムに残留し、防衛とサポートを行うのはリオ、トキ、カヤの三名。残りは先生に同行し、アトラ・ハシース中枢の制圧を目指す。
各々の役割が明確となり、リオの号令と共に各々が手早く出立準備を整える。愛銃の確認と弾薬、装備品の最終チェック。手を抜く事はあり得ず、この時ばかりはワカモやミカも自身の愛銃を入念にチェックし、予備の弾薬を衣服に差し込んでおり、先生の衣服から手が離れた。
その傍ら、先生はそれとなくリオに歩み寄り声を掛ける。
「リオ、ウトナピシュティムで待機する間、一つ頼みたい事があるんだ」
「……何かしら?」
「この船の演算能力はアトラ・ハシースの次元システムに対抗する為に大半が使用されている、だが一部分――私達が何とか確保した、処理枠がある」
先生はそう云って、真剣な面持ちで投影されていたホログラムモニタ、その一つをリオの前に翳す。視線でモニタをなぞれば、確かに稼働していない演算領域が存在した。使用しようと思えば、どんな用途にだって利用出来る筈だ。一体何故、リオが顔を上げそう問いかけようとすれば、その先を読んでいたかのように先生は言葉を続けた。
「この演算領域を君に託す、それを使って空間跳躍シーケンスを組んで欲しい」
「……空間跳躍?」
「あぁ、君達が目撃した正体不明の何者か――
リオの表情が怪訝な色が宿る。空間跳躍、言葉にすれば何と疑わしい響きか。
しかし、リオは件の現象を確かにその瞳で目撃していた。
連邦生徒会で行われていた三大校による会議、その場に突如現れた異形の存在である。
あの者の出現は確かに唐突で、突然で、正にいつの間にか目前に出現していたという表現が相応しい。
だがしかし、成程、空間跳躍――リオの表情に理解が灯り、様々な思考が脳裏を過る。
「あの空間移動は、箱舟の演算能力を利用したものと、そういう事かしら」
「その通り、アトラ・ハシースの箱舟が持つ次元防壁も、元を辿れば次元を云々する為の演算装置……空間転移の一つや二つ、出来ても不思議ではないだろう」
「実際にその場面を目にした私からすれば、そうね、反駁の余地は無いわ――つまり箱舟の演算能力を奪取し、あれと同等の、物理的な空間跳躍シーケンスを作って欲しいと?」
「到来する未曾有の危機、それを予知したリオなら、可能だと私は判断した」
「………」
思案するリオの指先がコンソールを滑り、断続的に復旧するCPUノードが点灯、波状的に演算キャパシティが戻る様子が表示される。彼女の視線は変化するそれらの数字を常に捉え、暫しの間沈黙を守った。
「確かにこの船と、箱舟の演算能力があれば可能かもしれない」
リオの声は、あくまで慎重だった。シーケンス自体の構築は、時間を掛け地上のヒマリやチヒロに協力を仰げば可能となるだろう。しかし、実際に発動出来るかどうか、アトラ・ハシースの箱舟の演算領域を確保出来るかどうかは未知数である。安請け合いは出来ない。
そして何より――。
「それに、仮に完成したとしても、そう何度も使えるものじゃないわ」
「構わない、万が一船が完全に動かせなくなった場合の保険は、重要だ」
「……えぇ、そうね、その通りだわ」
先生の言葉に、リオは同意した。確かに次善の策を考える事は重要だと、彼女の理性も同様に囁く。僅かな思案を経て首を縦に振った彼女は、先生がアトラ・ハシースの箱舟、その演算領域を確保出来ると云う前提を信じ、空間跳躍シーケンスの準備を請け負う。
「分かったわ、跳躍シーケンスについては此方で請け負いましょう」
「……ありがとう、リオ」
「けれどシーケンスの使用は万が一の場合に限るわ」
翳したリオの指先が、先生の言葉を遮った。確かに予備の策は重要である、あらゆる事態を想定し備えるこの重要性はリオ自身良く理解している。
だがそれは、あくまで緊急的な措置に他ならない。
本命は、事前の計画通り。
「私達は
「―――……」
言葉は真摯で、リオの視線は真っ直ぐ此方を捉えていた。
先生は向けられるその瞳の色を、自らの視界で確かめる事が出来ない。シッテムの箱から齎される情報としての輪郭は、リオの感情を分かり易く、余すところなくその身に伝えていた。
だからこそ痛切な、それでいて堪え切れない微かな感情の波が、先生の口元を歪ませた。
大事だからこそ、大切だからこそ、零れてしまった本心の切片。決して表に出すまいと、噛み締めていた鈍色。
自分が彼女達の元に戻る事は、もう二度と。
その実感が、不意に腹の奥底から吹き上がった。
「……先生?」
「――大丈夫」
押し黙り、唇を一文字に結んだ先生を見たリオが疑問の声を上げた。しかし、先生は小さく首を振る。
「皆を頼むよ、リオ」
そう云って、先生は咄嗟に背を向けた。
そうでなければ、今以上に襤褸が出てしまいそうだった。
シッテムの箱を抱えたまま、緩慢な足取りでデッキを後にする先生。その背中は、常よりもずっと小さく見える。目を伏せたまま暗がりの廊下へと身を浸した先生は、胸元で微かに青白い光を放つシッテムの箱を見下ろしながら、腹の奥底に力を籠めた。
ふつふつと泥の如く湧き出る感情を、更なる使命感と責任感で以て塗り潰す。シッテムの箱が放つ駆動音が、やけに大きく聞こえた。此処まで来て感傷に浸る事など許されない。足を止める事も、振り返る事も、己の歩んだ道を嘆く事さえ、許される事ではない。
目指すべきは唯一つ――多次元解釈エンジン管理室、【ナラム・シンの玉座】
辿り着き、終わらせなければならない。
過去から紡いで来た全てを。
そして続けていかねばならない。
可能性に満ちた子ども達の未来を。
その為に、己は――。
「……行こう」
握り締めたシッテムの箱から、返答が聞こえて来る事は無い。しかし、それで良かった。先生は艦内の無機質な廊下を進みながら、自身の首筋を撫でつける。ぼうっと浮かび上がる赤いリングがシッテムの箱から放たれる青白い光と共に、廊下の暗がりを照らしていた。
――
■
『トキ、機体の調子はどうかしら』
「問題ありません、リオ様」
耳元から聞こえて来るリオの声に、トキは淡々とした調子で答えて見せた。
彼女の身体を包むのは、青白い発光ラインが走る強化外骨格――アビ・エシュフ。
両腕のトライポッドに視線を向ければ、油圧の唸りと共にわずかに砲身が回転する。足踏みをすれば推進ユニットが低く震え、格納庫全体に重低音が反響した。トキは一歩を踏み出し、金属床に爪先が打ち込まれるような重量感を確かめながら、機体の応答を探る。
「……アビ・エシュフの反応が、通常よりもずっと早く感じられるような気がします」
『その感覚は間違っていないわ、新型パッケージのアビ・エシュフは、エリドゥ内部で運用していたスペックを参考に性能を引き上げてあるもの――この短期間でウトナピシュティムに対応したパッケージを用意出来たのは、チヒロとヒマリ、それにエンジニア部とヴェリタスのお陰ね』
リオの声に、トキは思わず握った操縦グリップに力を込めた。外骨格が彼女の動きに追随し、主腕が重々しい駆動音を響かせる。天井を走る補助照明が青白く瞬き、機材や補給コンテナが整然と並ぶ中、アビ・エシュフのフレームは異様な存在感を放っていた。
外装的な部分で変化は然程存在しない、しかしウトナピシュティムの反則染みた演算能力と駆動系、フレームの強化により運動性能と予測性能及び精度の向上が著しい。そのスペックはエリドゥ内部でのアビ・エシュフにこそ及ばないものの、驚異的な戦闘能力を発揮するだろう。
また、ここぞという時の切り札としての運用を想定し、背部に格納されたツイン・キャノンに関しては強度と出力の見直しが行われ、低威力での連射から一発限りの超高威力の自壊砲撃まで、大きく幅を持たせてある。
アビ・エシュフそのものを乗り捨てる覚悟さえ持てば、超広範囲のどんな敵性反応でさえ一掃し、文字通りの『対艦砲』としての運用さえ可能と豪語するのは改造に携わったマイスター達の言葉。
自分という戦力を極限まで活かす為に、ミレニアムの傑物が総力を挙げて仕上げた一品――この新型パッケージのアビ・エシュフは、文字通りアトラ・ハシースの攻略作戦に於いて重要な役割を担うだろう。
「ウトナピシュティムに対応という事は――」
『えぇ、今このウトナピシュティムの演算機能、その一部をアビ・エシュフに割り振っているの、AMASによる防御線の構築は行うとは云え、襲来する自律兵器に対する防御の要は貴女よ、トキ』
防衛の要、その言葉が重くトキの胸に去来する。
それが彼女にどのような影響を齎すのか、リオには分かっていた。
だが彼女は敢えて、一拍の静寂を挟み告げた。
『先生と私、この船に集った全員の
「………」
耳に届いた言葉、トキは瞼を閉じ、深く息を吐く。
いまだかつてない程の重圧、重責、肩に圧し掛かる生命と世界。信頼と云う名の重荷。心臓が早鐘を打ち、碌に動いてもいない筈なのに薄らとした汗が背に滲む。
アビ・エシュフのフレームがわずかに沈み込み、床板に軋む音を響かせた。
覚悟は既に、揺るぎない。
しかし、改めてその輪郭をなぞる様にトキは敢えて一拍の呼吸を挟んだ。
寄せられる信頼、期待、希望、それらを噛み締め、彼女は勢い良くバイザーを下げる。青白い視界、ディスプレイ、バイザーに走った青白い光に照らされながら、彼女は断固とした口調で答える。
「――イエス・マム」
主の声に応えてこそ、一流のエージェントであるが故に。
『……自律兵器の反応が近いわ、ウトナピシュティムに接触するまで数分もない、格納庫のハッチを開放するから、準備を』
「問題ありません、既に万全です」
格納庫の壁面で警告灯が赤く点滅する。格納庫のハッチを展開する警告音が鳴り響き、トキは警告灯の明かりに照らされたまま一歩、また一歩とアビ・エシュフを外部へと続くハッチの前まで進ませる。
進むごとに鳴り響く重々しい重低音が、格納庫の空気を震わせた。
これから挑む熾烈な戦闘を前に、トキは敢えて薄ら笑いを浮かべ、冗談めかして呟く。
「何せ私は、最高のメイドですので」
『――えぇ、その通りね』
声には気安さがあった、大きな困難と幾分かの出会いと経験、それらが彼女達主従の間にも様々な変化を齎した。
だが根本的な部分で変わらない部分も存在する。
それはトキからリオへ齎される、絶対不変の忠誠である様に。
リオからトキへ齎せる、絶対不変の信頼である。
『貴女は最高の
掛けられた言葉に、胸の奥で熱が灯るのが分かった。
トキの体に熱い鉄が流れ込む様な、凄まじい充足感と戦意が奥底から湧いて出る。外骨格の冷たい金属すらも温もりを帯びるかのように、彼女の全身から目に見えぬ重圧が滲み出す。
この手で大切な存在を守り抜く。ミレニアムで出会った、多くの友人達を。
そして自分の背に立つ、二人の主を。
自身こそが、
「アビ・エシュフ、コールサイン・ゼロフォー――飛鳥馬トキ」
外部と格納庫を隔てる
無数の想いと願いを秘めた
「――勝利は、
トキの声は甲鉄の殻越しにあっても、その暗がりを切り開くが如く、澄み切って響いた。