ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ~!
投稿遅れ気味で申し訳ありませんの…!


堪え切れない痛みの果て。

【第四サンクトゥム トリニティ自治区・カタコンベ】

 

「サクラコ様、お下がりをッ!」

「構いません! 聖務隊、前へ! 隊列を決して崩さぬ様に――!」

 

 湿った石壁が幾重にも重なり、暗がりに続くカタコンベの内部。

 そこは光を拒むような薄暗さに包まれ、突き出した銃口の下に装着された幾つものライトが、冷え切った空気を淡く照らしていた。

 広場から伸びた通路を封鎖する様に広く展開したシスターフッドの生徒たちが列を為し、閃光と銃声を轟かせながら迫り来る影を打ち払う。暗がりに絶え間なく瞬くマズルフラッシュは否が応でも視界を焼き、影は撃ち込まれる無数の弾丸を前にして次々と掻き消えていく。

 

「この影は、まさか――」

 

 サクラコの視線が険しさを帯び、ゆらりゆらりと揺れる敵の輪郭を睨みつける。どれだけ弾丸を撃ち込んでも、影の進行は止まらない。迫り来る人型はまるで実態を持たない幽鬼の如く、掻き消えては再び生まれ落ちる。視線の先、無数の弾丸に貫かれた人型の輪郭が歪み、まるで霧の如く霧散して消えた。

 代わりに、広間奥から再び出現する青白い影。倒しても倒しても、延々と出現する存在。

 その特性には、覚えがある。

 

「全ての方に、御加護を――ッ!」

「い、痛いかもしれませんが、ごめんなさいッ!」

 

 マリーとヒナタがそれぞれの隊を率いて愛銃を構え、祈りと共に引き金を絞る。銃声が石壁に反響し、硝煙がライトの明かりに反射していた。響き渡るその音は、カタコンベの静寂を貫き、臓物を揺らす。最前列では盾を構えたシスターフッドと影が混じり、至近距離での銃撃戦にも発展していた。

 

「ヒフミ、私から離れるなっ!」

「はいッ、コハルちゃん、援護を……!」

「う、うんっ!」

 

 シスターフッドに混じり影の攻勢を押し返す補習授業部は、アズサが敵中に鋭く切り込み、ヒフミがアズサのバックアップ、後方からコハルが両名を支援する形を取っていた。

 アズサが支柱や瓦礫の遮蔽を利用し、常に的を絞らせない様に移動、唐突に切り込んでは即座に影へと襲い掛かり、蹴撃やストックによる打撃を織り交ぜ、射撃は常に胸元か額に打ち込む徹底ぶり。

 アズサの掌打が影の顎先を打ち抜き、身体が仰け反ると共に輪郭が崩壊する。掌に伝わる冷たい感触に、アズサは思わず顔を顰めた。

 

「―――」

 

 ハナコは補習授業部の直ぐ傍に陣取りながら、崩落した天井の隙間より差し込む赤い光に照らされ、蠢く影を凝視し必死に思考を巡らせる。

 

 ――影の恰好と装備は、確かにユスティナ聖徒会のもの、ですが複製(ミメシス)は既に……。

 

 今現在、シスターフッドと補習授業部に襲い掛かる影。それは確かにサクラコと同様の礼装を身に纏ったユスティナ聖徒会のものであった。

 その在り方、純粋な戦闘能力に関して云えばエデン条約の折、対峙した彼女達と聊か異なる。純粋な実力で云えば、僅かに劣っている様に感じられた。しかし、問題は数である。まるで調印式会場周辺で戦った時と同様の規模、或いはそれに勝る数を刻一刻と顕現させている。

 

 もしこれが、複製と同様の現象であるとすれば、真正面から彼女達と戦う事に意味は無い。幾ら打倒しようとも、彼女達は延々と尽きぬ水の如く湧いて来るのだから。

 故に、狙うべきはこの現象を起こしている(中心)

 

 即ち――シスターフッド(ユスティナ聖徒会)代表、浦和ハナコ。

 

「……っ」

 

 だが、その肝心の浦和ハナコ(元凶)が何処にも見当たらない。

 まるで影に溶け込む様に、カタコンベ内部での戦闘が繰り広げられるや否や、彼女は暗闇に身を隠し消え去っていた。

 その事実に気付いた時、ハナコは云い表す事の出居ない焦燥感を覚えた。

 持久戦に持ち込まれてしまえば、自分達の勝ち筋は掻き消える。かと云って強引に攻め込んだとしても、相手の思う壺。攻め焦る相手を術中に嵌める事など、浦和ハナコ(用意周到な自分)にとっては容易い事だろう。

 この時点で、自分達は相手の策に嵌っているのだ。進む事も、退く事も許されない、この状況を最初から見越してカタコンベに陣取っていたのか、或いは自分達と遭遇した瞬間に閃いたのか。

 どちらにせよ、時間は限られている。

 周囲を見渡し、シスターフッドの前線が強固に抵抗している事を確認するや否や、ハナコはぐっと唇を堅く結び、遮蔽より飛び出した。

 

「アズサちゃん、ヒフミちゃんとコハルちゃんをお願いしますッ! 補習授業部は、このままシスターフッドと協力して戦線の維持を!」

「ハナコ――っ!?」

「ハナコちゃん!?」

 

 補習授業部の中でも戦術的判断に優れているアズサに場を任せ、ハナコはその場を一目散に離れると、揺らめくユスティナ聖徒会の合間を縫って敵中深くに躊躇いも無く飛び込んだ。

 影に纏ったシスター服の裾が宙を裂き、彼女達の白く濁った、硝子玉の様な瞳が此方を捉える。しかし、等間隔で並ぶ支柱を盾代わりに駆けるハナコは、後方より差し込む無数のライトに背を照らされながらも、思考を研ぎ澄ます。

 ユスティナ聖徒会より放たれる弾丸、攻撃が支柱と内壁に突き刺さり肌を掠めるが、彼女は気にも留めない。

 

 自分ならば何処に身を隠す?

 相手からすれば見つからなければ勝てる戦い、ハナコの脳裏に出発前叩き込んでいたカタコンベ内部のマップ情報が浮かび上がる。自分達が辿って来た道、サンクトゥムへと続く道中、些細な脇道から袋小路まで、立体的に浮かび上がったマップ情報を脳内で吟味し、最もそれらしい場所を絞り、敵の潜伏場所を発見する必要がある。

 

 見つけ出せれば、勝機は必ずある。

 

 そう考えて足を動かし続けるハナコの耳に――低く、冷ややかな声が石壁に反響して聞こえた。

 

「シスターフッドには連綿と受け継がれ、秘匿されて来た様々な秘術、神秘が存在します、それこそ代表である者でさえ把握していない様な、血生臭い代物さえ」

「――ッ!」

 

 耳に届いたそれに、思わず息を呑んだ。

 咄嗟に足を止め声の聞こえた方に顔を向ければ、視界の端から覗く朧げな影。等間隔で並んだ支柱の裏から、静かに現れる人影があった。

 ハナコは反射的に半身になって愛銃を構える。引き金には指が伸び、ほんの少し力を込めれば弾丸を放てる状態だった。

 だが、その姿を改めて目にした瞬間、引き金に伸びていた指先が震え、止まった。

 

「身を隠すと思いましたか? 彼女達(亡霊)に全てを任せ、ただ息を殺していれば勝てる戦いだと」

 

 目前に現れたのは――異なる世界の浦和ハナコ。

 彼女は隠れてなど居なかった。

 自分の予測は、最初から外れていた。

 寧ろこの瞬間をこそ待っていたのだと、浦和ハナコは悠然とした足取りで進む。

 まるで鏡写しのような顔立ち、立ち姿。

 しかし、その恰好と纏う空気は異様で、根底は同じ存在であるはずなのに、明確に違う何かを孕んでいた。闇夜に溶け込む様な衣服、昏い瞳、全身から放たれる重圧。あらゆる物事を些事と断じる様な超然とした佇まい。

 目前の浦和ハナコ、その表情には冷淡な微笑が浮かび、見慣れたはずの顔が今や異質な仮面へと変じている。

 自分にだけは分かる――否、自分だからこそ分かる。

 

「確かに、その通りです、私はただ身を隠せば良い、それが最も合理的で正しい行い」

「―――……」

「ですが言葉を交わしたかったのでしょう? 他ならぬ、この私と」

 

 まるで突きつけられた銃口など見えていないかのように、彼女は嫋やかな所作で自身の胸元を撫でつけた。その瞳が、何ら感情を見せない硝子玉の様な瞳が、此方をじっと捉え続ける。

 周囲が嫌に静かに思えた。

 あれだけ存在し、飛来していた銃弾が此方にだけ飛んでこなくなっていたのだ。まるでこの二人だけの空間を守る様に、ユスティナ聖徒会の亡霊は自分達を見向きもしない。

 辺りを漂う空気が、より一層に重苦しくなったかのような錯覚。ハナコは静かに息を呑み、銃口を向けながらもアクションを起こせずに居る。

 それは動揺によるものだ。

 彼女の言葉が、図星だったから。

 ハナコは、目の前の彼女と言葉を交わしたいと思っていた。

 

「皮肉なものですね、組織の前身であるユスティナ聖徒会と、現シスターフッドが再び銃火を交える事になろうとは――」

 

 ハナコの内心にも気付いているだろう、しかし彼女はそれに対し何ら反応を示す事無く。今も尚、周囲で鳴り響く銃声と閃光に対し、まるで他人事の如き無関心さで呟いた。

 声には憂いと、ほんの少しの皮肉が混じっている様に思う。直ぐ横に聳え立つ支柱に凭れ掛かり、手にした銃を向ける事もなく、ただ静かに目を伏せる彼女は懐から一発の銃弾を取り出すと、指先で表面を擦りながら言葉を続ける。

 

「生憎と、私自身は武闘派と呼べる程ではありませんので、あくまで群体としてお相手致します――あぁでも、今の状態ならマシロ委員長(正義実現委員会トップ)とも真正面からやり合えそうですね」

 

 告げ、異なる世界のハナコは親指で弾丸を弾いた。硬質的な金属音、弧を描いて跳ねた弾丸はハナコの足元に転がり、轟く銃声に混じって爪先に当たる。

 瞬く閃光がハナコの足元に影を作り、二人の間を遮っていた。

 

「前の世界では終ぞ、こうして単身死力を尽くす事などありませんでしたから」

「……その口ぶり、まるで常よりこの様な扱い方をしていたと云わんばかりですね」

 

 相手のペースに呑まれてはいけない。

 そんな思考から意図せず、口調には棘が混じった。それは些細な感情の揺らぎではあったが、自分自身に隠し通す事など出来る筈も無く。

 ゆらりと、異なる世界のハナコが瞳を絞り、此方を向く。

 他者の悪意を取り込み、煮込めたような瞳だ――じっと見ていると、此方の胸中にも苦みのある、粘ついた感情が湧き上がって来る様だった。

 愛銃のグリップを握る指先に力が籠り、口元が歪む。

 

「そういったやり方は、シスターフッドではなく、ユスティナ聖徒会のものだったでしょうに、現トリニティがその様な在り方、許容する筈がありません」

「えぇ、ですので許容出来るように作り替えたのです」

 

 何でもない事の様に、彼女は云った。

 その一言に、ハナコの心臓が一際強く打ち鳴らされる。

 

「作り変える……?」

「フィリウス分派はヒフミちゃん、パテル分派はアズサちゃん、サンクトゥス分派は別の三年生が担当しておりますが――実際の発言権はシスターフッド()が握っております」

 

 まるで平然と、当たり前の事を述べる様に。

 放たれた宣言は、時を巻き戻すかのような凍りついた響きを伴った。

 衝撃に言葉を呑んだハナコは、ややあって口を開き、それから声を発する事無く吐息を零す。戸惑い、驚愕、そして咎める様な視線。眼孔には、言葉の裏側に含まれていた意図を十全に汲んだが故、滲んだ色がある。

 自身の予想が正しいのであれば、その在り方はトリニティの根底を覆す。

 嘗ての時代に逆戻り――つまり、彼女は。

 

「――三頭政治を捨てましたか」

「まさか、表向きは存続しておりますとも」

「形骸化した体制に何の意味が……いえ、元からそれを狙って?」

「部活動総括本部が各分派の集合知である以上、その統制には限界があります、議会も首長の意向を無視出来ない以上コントロールは可能です、勿論手段を選ばなければの話ですが」

 

 云わずとも理解出来るでしょうと、薄らと張りついた彼女の笑みが語りかける。

 一から十まで言葉にする必要は無い、ただ同じ波長、思考、知性を持つからこそ一つの言葉を聞き、十の事実を理解し、百の推測を立てる事が出来る。彼女が何を為そうとしたのか、何の為にそうしたのか。

 巡る思考がハナコに様々な解を提示し、全身に薄らとした怖気が走る。

 

浦和ハナコ()がシスターフッドに身を置いたのは――成程、理解しました」

「えぇ、血生臭い政戦は、血の中に隠すのが一番良い」

 

 その声音は甘美でありながらも、底冷えするような悪意を帯びていた。否、それを悪意と感じ取ったのは、ハナコがハナコであるが故だろう。

 いっそ露悪的とさえ取れる言動には、他ならぬ自分自身に対する侮蔑の念、自責が含まれている様に思えた。錯覚だろうか? 自分自身に問い掛けるハナコに対し、彼女は声を投げかける。

 

「貴方も、分かっている筈です」

 

 それは、歪な信頼でもあった。

 対峙する二人の影。暗いカタコンベの空気が、息苦しいほどに張り詰める。差し込むライトの光が揺らぎ、断続的に瞬くマズルフラッシュが二人をより一層似て非なるものとして映し出す。

 支柱の影に隠れ、暗がりに潜んだまま微笑むハナコ(異なる世界の自分)

 その身を晒し、悲劇的な道を辿った自分と対峙するハナコ(この世界の自分)

 純白と漆黒。

 純真なる願いと、偽りの願い。

 手にしたそれが己の信念を示し、ハナコは険しい視線のまま緩慢な動作で頷きを返す。

 

「そうですね、それ以外の全てを捨てた私なら、そうするでしょう」

 

 頷き、声は辛うじて絞り出す事が出来た。

 理解は、出来る。

 大切な居場所を守る為に、或いはそうする事こそが最善だと判断したのならば。

 自分一人が、『手を汚す事』(暮明に沈む事)(補習授業部)が救われるのならば。

 浦和ハナコ(自分)ならば、必ずそうするだろう。

 

「えぇ、えぇ、理解していますとも、どうして此処に私が呼ばれたのか、そしてこの世界はどういう世界なのか……」

 

 冷たい石床に、彼女が一歩一歩踏み出す足音が小さく響く。過去を背負うように視線を落としながら、目前の黒を纏った自分が微笑する。

 その微笑はどこか脆く、そして刺々しい。

 諦観と羨望がないまぜになり、自分自身ですら制御出来ない激情を抱いている。だが理性を失った訳ではない、そうでなければ――こんな風に、自嘲的に笑う事など出来はしまい。

 

「消える事は吝かではありません、私とて世界の滅亡など望んでおりませんので」

「っ、それなら、何故」

「――ですが」

 

 抱えた愛銃がパチリと音を立て、支柱の影より踏み出す彼女。瞬間的に差し込んだライトが側面より二人を照らし、陰影が深まる。

 

「不公平ではありませんか?」

「……不公平?」

「えぇ、だって」

 

 ハナコの瞳が揺らぎ、その奥底で燃え盛る激情が溢れ出した。

 

「私の、私達の世界はあんなに悲惨で、壮絶な最期を迎えたのに、貴女達だけこんな風に、何も、誰も喪わずに済むなんて、あんまりではありませんか?」

「ッ……!」

 

 ハナコが、思わず唇を噛んだ。その胸中に差し込まれるのは、否定しきれない同情と、理解せざるを得ない哀しみ。しかし、辛うじて険しい表情を維持したハナコは、一歩も退く事無く吐き捨てる様に云った。

 

「……八つ当たり、ですか」

「言葉を選ばなければ、その通りです」

 

 異なる世界のハナコは薄らと笑みを浮かべる。

 涙を堪えるように、どうしようもない自分自身に失望するかの様に。

 或いは自身にその様な感情を抱く資格は無いのだと、云い聞かせる様に。

 

「『私は聖人にはなれない』――他者を拒み、憎み、嫌悪し、妬み、羨み、悪しきように罵る、そんなどうしようもない凡人で、俗物で、汚泥に塗れた存在、それが私です」

 

 嗚呼、貴女は――。

 ハナコは目前の自分を見据えながら、胸元の制服を握り締めた。

 自らの醜さを曝け出すことでしか、自分を保てなくなったのか。

 

 嘗ては綺麗(純真)で在ろうとした。

 人の醜さを嫌悪しながら、己の内にも巣食うその醜さこそを、彼女は何よりも疎んでいたから。

 他者に、世界に、純真さを求めながらも、己こそがそう在る事が出来ないと云う自己矛盾。

 あなたの隣人を、あなた自身の様に愛しなさい。

 あなた方を呪う者を祝福し。

 あなた方を侮辱する者の為に祈りなさい。

 まるで聖者の如く、そう在れたのならどれ程良かった事か。

 

 ありのままの私、飾らない私、綺麗なだけでは居られない――醜い私。

 大切なものの為に、他者の大切なものを踏み躙る。

 呪いには呪いを、侮蔑には侮蔑を、苦痛には苦痛を、血には血を返す。

 それこそが浦和ハナコであると、彼女は突きつける。

 

「貴女なら、理解しているでしょう」

「……そう、ですね」

 

 返答は小さく、万感の思いに満ちていた。

 胸の奥で、何かが壊れていく音が聞こえるような、そんな気がする。

 ハナコは自身の胸元に手を当てたまま、目前に立つ自分を睨みつける。

 視線には、どうしようもない悲しみと憐憫の情が混じった。

 やはり、彼女は自分だ――自分自身なのだ。

 だって。

 

「……私が貴女と同じ立場ならば、きっと耐えられない」

「そう、理性でどれだけ無駄で、無益で、利敵行為だと理解していながら、私は止まれない」

 

 止まれない、止まる訳にはいかない。

 何故ならば。

 

「――貴女の生きるこの世界は、(浦和ハナコ)の全てを否定している」

 

 だからこそ、彼女は自らの絶対的な勝ち筋すら投げ捨て、この世界の浦和ハナコの前に姿を現した。

 或いは、自分を止める者が居るとすれば、自分だけだと考えているのか。

 

 もし何も、誰も失われない世界があるのならば。

 そんな嘘みたいな、奇跡みたいな世界があるとすれば。

 ならば、自分の世界は何だったのだろうか。

 喪われた自身の大切な人々は、想い出は、時間は、感情は、何だったのか。

 必死になって足掻いた苦しみも、歯を食い縛って堪えた痛みも、大切なものを失った時の悲しみさえ、全ては無価値で、無意味だったのだろうか。

 

 ――それは違う

 

 無かった事になど、させはしない。

 無意味などではなかったと、自身は証明しなければならない。

 だからこれは、唯の我儘で八つ当たり。

 

 異なる世界のハナコが目を閉じ、ゆっくりと愛銃を持ち上げる。互いに突き出した銃口が鈍い光を放ち、白と黒が対峙する。

 否が応でも高まっていく戦意、鋭く研ぎ澄まされた意思が肌を刺激する。

 善も悪も無い、正しさなどは既に遠い過去の話。

 これはただ浦和ハナコ(彼女)にとって、己の記憶(世界)を刻む為の儀式(戦い)

 

「だから見せて下さい、正しい道を歩んだ、貴女方の(希望)を」

 

 瞬くマズルフラッシュ、足元から伸びた影が両者の間を裂き、輪郭を浮かび上がらせる。内壁に投影される影、構えた銃口の先端が伸び、互いの頭部に重なって混じる。

 昏く、淀んだ瞳の中に、薄ら寒さすら覚える冷徹な光を宿しながら――浦和ハナコ(異なる世界の自分)は引き金に指を掛け、告げた。

 

「誤った道に進んだ、この私(浦和ハナコ)に」

 

 ■

 

【第六サンクトゥム D.U.雲掛け通り】

 

「っあッ!」

 

 乾いた破砕音とともに、硝子片が宙を舞った。

 薄らと降った小雨がアスファルトを濡らし、その上で二つの影がぶつかり合う。赤い空から降り注ぐ光が二人の影を交錯させ、サンクトゥム顕現の衝撃で倒壊したのだろう街灯が路面に倒れ、不規則に点灯する光が青白く路面に反射していた。

 肉を打つ音、至近距離でぶつかり合う拳と腕、警棒、その中で汗を弾かせながら苦悶の表情を浮かべるキリノは叫ぶ。

 

「ふ、フブキ! いい加減、目を覚まして下さいッ!」

「目を覚ますも何も、私はずっと正気だよ、キリノ」

 

 視線の先、キリノと対峙した影――異なる世界のフブキが発した声は低く、響くそれには哀しみが滲んでいた。

 彼女の瞳は確りと焦点を結んでおり、狂気でも錯乱でもない。ただ、揺るぎない意志だけが宿っている。

 

 一呼吸の間に互いの警棒が何度もぶつかり合い、衝撃と金属音が木霊する。息のかかるほどの距離で、お互いに見知った顔目掛けて全力で殴打を繰り返すなど、決して気持ちの良いものではない。互いの呼吸と鼓動が交わり、吐き出した吐息が薄らと白く濁っていた。

 

「く、ぅッ……!」

「懐かしいなぁ、そうだ、キリノはこんな感じだったね、昔の私がキリノとこの距離で戦ったら、手も足も出なかったと思うし、あははっ」

 

 一際強く、振り抜いた警棒が二人の目前で衝突し、火花を散らす。小刻みに揺れる先端越しにキリノを見つめる異なる世界のフブキは、何処か懐かしそうに唇を歪ませた。浮かべた笑みは穏やかで、だが残酷なほど自信に満ちていた。

 

「――でも、今は私が上手(うわて)だよ」

「あっ……!?」

 

 グンッ、と唐突な脱力。全力で鍔迫り合いを演じていたキリノが一歩、つんのめる様にして前へと踏み込む。流されたと理解した瞬間、余りにも無防備な体勢を晒したキリノの顎先目掛け、フブキが全力で拳を振り抜いた。

 

「あぐッ!?」

「ごめんね、キリノ」

 

 インパクトの瞬間、轟音と共に頭蓋へと走る、衝撃と鈍い音。

 骨が軋むようなそれに、キリノは視界が一瞬暗がりに瞬くのが分かった。顎を打ち抜かれたと理解するや否や、ぐらりと視界が傾き、そのまま力なく膝から崩れ落ちるキリノ。

 手足に力が入らなかった、指先から零れ落ちる警棒、糸の切れた人形の如く地面に這い蹲る。放たれた一撃は意識を飛ばせずとも、暫く無力化するには十分な打撃であり、彼女のヘイローが点滅し、その意識の混濁を証明する。

 

「下がれ、キリノッ!」

「きょ、局長……っ!」

 

 崩れ落ちたキリノを庇う様に、後方からカンナが飛び込む。キリノが朧げな意識の中で彼女の名を呼べば、すれ違う様にして姿勢を低く踏み込み、カンナは拳を構えた。

 

「相変わらず、タフですね」

 

 迫り来るカンナを冷静に目視したフブキは微動だにせず、唸りを上げて飛来する全力の拳を視線で追い、対応する様に腕を突き出した。風切り音と共に振り抜かれる打撃、それを手の甲で流れる様に逸らし、放たれたそれは髪先を掠めるのみに留まる。

 捌かれたと、そう即座に理解したカンナは勢いそのままに、異なる世界のフブキ、その首元目掛けて腕を伸ばす。

 しかし彼女は伸ばされた腕を冷静に警棒を軸に払い除け、そのまま体ごと突貫してきたカンナに自身の肩をぶつけ、容易く踏み止まった。

 足元の雨水が跳ね、僅かに路面を滑る身体。至近距離で双方の視線が交わされる。

 

「ッ、一朝一夕の付け焼刃という訳では、なさそうだな――ッ!」

「えぇ、フィジカルと格闘技能に関しては、コノカ局長に随分と鍛えられたので」

 

 カンナの賞賛交じりの言葉に、彼女は淡々と応えて見せる。

 だがその名を口にした瞬間、フブキの表情に一瞬だけ哀愁の念が滲んだ。

 確かに、こうして身体をぶつけて分かった。自身の突進を真正面から受け止められる体幹、防御技術に確かな筋力、生半な鍛え方ではない、正に公安局の一員として十分な訓練を積み、弛まぬ努力を続けて来た者の身体だった。

 積み上げた努力は嘘を吐かない、その一点に於いて目の前のフブキは自身の知るソレではない。

 

「はっ、確かに、あいつならやりかねないか……!」

「スパルタですからね、あの人は」

 

 どこか遠くを見つめるように、彼女は呟く。その声音には皮肉ではなく、確かな局長への敬意があった。

 だが――今は感傷に浸る時ではない。

 至近距離で混じり合った彼女の瞳に、危険な色が宿る。

 

「すみません、今回だけは、カンナ局長相手でも負けられませんので」

「はっ、随分と大口を叩く!」

 

 吐き捨て、カンナはフブキと組み合った姿勢そのままに、彼女の腹部目掛けて膝を繰り出した。地面を蹴飛ばし、確かな脚力と共に放たれたソレは正に不意の一撃。しかし、フブキはそれを予見していたかのように僅かに身を捻り、突き出された膝蹴りを寸で躱す。

 

「ッ!?」

 

 殆ど視認もされていなかったというのに、僅かな動揺がカンナの表情を彩った。雨水を僅かに含んだフブキの前髪、その奥に瞬く瞳がカンナを一瞥する。

 

「――そんな体じゃ、尚更負けられませんよ、先程の一撃で、まだ足に来ているのでしょう?」

 

 見透かしたような言葉と同時に、軸足を軽く払うフブキ。攻撃を繰り出した直後の体勢、防御する事も避ける事も叶わない。呆気なく軸足を払われ、支えを失ったカンナは一瞬虚空に身を浮かせる。

 その胸元へ、フブキは全力の掌打を叩き込んだ。

 

「がッ――!」

 

 ズン、と芯にまで響く様な一撃。肺から空気が抜け、胸骨が軋み、身体は容易く後方へと吹き飛ぶ。甲高い破砕音と共に、硝子を突き破って背後のテナントビルに突っ込んでくカンナ。それを見ていたキリノは、這い蹲ったまま蒼褪めた表情で声を上げる。

 

「きょ、局長っ……!」

「これで時間は、暫く稼げるかな」

 

 飛び散った硝子片、散乱したそれらを踏み締めながら呟きを漏らす。彼女の目には一切の怒気や敵意が存在しない、それは冷たい刃のような、為すべき事を為すと決めた者の眼光である。

 

「――さて、と」

 

 未だ立ち上がる事が出来ないキリノ、吹き飛ばされビルの暗がりに消えたカンナ。立ち上がるにしても、今暫く時間が必要だろう。そうなる様に打ち込んだ、キリノにも、カンナにも。

 残されたのは、この世界に生きる合歓垣フブキ――ただ一人。

 彼女の瞳が、身構えたまま微動だにせず自身を睨みつけるフブキを捉える。

 

「それで私は二人に守られている間、一体何しているのさ?」

「っ……」

 

 異なる世界のフブキが両手を軽く広げ、ゆったりとした足取りで歩み寄りながら問いかける。

 挑発ではなかった。

 ただ静かに、此方の出方を試す様な口ぶりだと思った。

 

「目の前で仲間が打ちのめされているのに、そっちの私は眺めているだけ? 随分と薄情な上に、臆病じゃない?」

「……キリノとカンナ局長を真正面から相手出来る奴に、馬鹿正直に殴りかかっても返り討ちに遭うのは目に見えているでしょ、普通に考えてさ」

「なら、その間必死に頭を働かせていた訳だ? それで、私を倒す算段は立った?」

「………」

 

 軽々しく投げかけられた問い掛けに、フブキの口元が大きく歪んだ。

 無理だと、正直にそう思った。

 カンナやキリノが彼女と拳を交わしている間も、隙を見て援護射撃を差し込むつもりだったのだ。しかし、彼女の位置取りや機敏な動きがそれを許さなかった。引き金に掛けた指に力を込めた瞬間、まるで撃たれる事を予期しているかのように、時には対峙する相手を盾に見立て、時には視線や微かな動作で銃撃のタイミングをズラし、後方の射手に重圧を掛ける。

 自分には出来ない芸当だ、少数で多数を相手取る事に慣れている。どう考えても、踏んで来た場数が違った。

 一対一では確実に負けるだろう、そしてこの状況を打開する作戦など――自分の頭では思いつかない。

 そんなフブキの怯懦を見抜いたのか、異なる世界のフブキは心底失望したと云わんばかりの、気だるげな気配を纏いながら一歩、また一歩と足を進めた。

 雨水を踏み締める音が、鼓膜を叩く。

 

「別に、何もしないっていうのなら、良いよ、そのまま始末するだけだから」

「っ……!」

「今度はもう、邪魔は入らない」

 

 滲み出る害意、或いは敵愾心。

 カンナやキリノには微塵も存在していなかったそれが、再び牙を剥く。それに気圧されたフブキは知らず知らずの内に後退し、抱えた愛銃を突き出しながら冷汗を流した。

 そのほんの些細な所作にさえ、彼女は自身の弱さを見出し、心が黒く染まっていく。

 

「私に挑む気概も無い、ただ仲間の足を引っ張るだけ、怠惰で無能で自己中心的――要らないでしょ、そんな奴、この世界にさ」

「………」

「あぁ、でも勘違いはしないで欲しいな、弱い自分が嫌いだとは云ったけれどね、そうで在る事自体を、悪だとは云わないよ――誰だって最初はそうなんだ、重要なのは其処からどうするか、どう在ろうとするべきか、その一点」

「……つまり、何が云いたいの」

「――苛立つんだよ、合歓垣フブキ」

 

 突き出された指先が、フブキの瞳を真正面から示す。

 そうだ、彼女は気に入らない。

 合歓垣フブキ(自身)の在り方が。

 その、どうしようもない、心の弱さが。

 

「蛮勇でも、何でも、兎に角我武者羅に頑張ろうとしない姿っていうかさぁ……まぁ良いかって、自分のやりたい事以外中途半端に投げ出しちゃって、ほんの少しでも、僅かでも、誰かを守れる自分で在ろうと向き合えば良かったのに」

 

 見なよ、この惨状を。

 そう云って彼女は視線を横に流す。

 釣られるようにしてフブキもまた瞳を向ければ、地面に這い蹲り、焦点の合わない瞳で不安げに此方を見上げるキリノと、今しがた吹き飛ばされ暗がりに消えたカンナ、その痕跡を物語る飛び散った硝子片が見えた。

 どちらも目前に立つ自分自身(合歓垣フブキ)に挑み、傷付いた。

 その純然たる事実が今、目の前に横たわっている。

 

「傷付いた仲間を見て、何も思わない? 自分に力があればって、もっと頑張っていればって、そんな風には考えられない?」

「―――」

「まぁ、そうやって気付いた時には遅いんだけれどね、もっと努力しておけば、訓練を積んでおけば、強さがあればって、そう思った時には、もう――」

 

 口ずさみ、僅かずつ言葉に熱を込めていく異なる世界のフブキは、何かに気付いた様に一瞬言葉に詰まった。

 対峙する自分自身、憎たらしいその顔が大きく歪み、目を伏せ、今にも消えてしまいそうな力ない気配を纏っていた。

 それはとても懐かしい、見覚えのある顔だった。

 持ち上がった指先が、フブキの輪郭をなぞる。

 

「――そう、その顔だよ」

「っ……?」

 

 呟かれた言葉に、フブキは反射的に顔を上げる。

 胸の奥を刺すような感覚――同じ存在だからこそ、感じ取れる感情の機微。不意に齎されたそれは、彼女自身がずっと抱えて来た痛みと同じ色をしていた。

 

「今、貴女が覚えている無力感」

 

 

 ――ソレこそが私の罪悪。

 

 

「う、ッ……!」

 

 感情に気を取られていた。

 異なる世界の自分の言葉に、耳を傾け過ぎていた。

 フブキが気付いた時、目前には警棒を振り上げ、肉薄する影があった。

 咄嗟に愛銃を掲げ盾にしようとするが、既に遅きに失した。身構えるよりも早く、振り抜かれた警棒の先端が強かにフブキの肩を打ち据え、思わず濁った声が漏れた。

 

「ぎ、ッ……!?」

 

 鎖骨が砕けたのではないかと思う程の衝撃、軋む身体、痛みで体が硬直し、腰が引けて蹈鞴を踏む。だが逃げる事は許さないと、即座に放たれた前蹴りがフブキの腹部を容赦なく打ち据えた。衝撃が臓物を突き抜け、フブキは堪らず体をくの字に折り曲げ、膝をつきそうになる。

 

「理解出来たのなら、良かった、ならせめて苦しんで消えていくと良いッ! そうすれば、キリノや先生が味わった苦痛の、せめて万分の一位は実感出来るかもしれないからさぁ……!」

「あぐっ、いッ、ぎ、あッ――!?」

「今、この瞬間に友人ひとり守れない、そんな私に、価値なんて無いんだから――ッ!」

 

 此方を見下ろす、憎悪と怒りの混じった瞳。

 フブキの全身を次々と襲う打撃の嵐、警棒や蹴撃、拳が肌を打ち、衝撃が絶え間なく体を揺する。堰を切ったように飛来するそれに、フブキは最早両腕で顔面を守り、亀の様に固まって防御する事しか出来なかった。

 意地でも銃火器を使わないのは、彼女なりの考えがあるのか、それとも単なる私怨によるものか。

 

「優しさじゃ、友達(キリノ)も、先生(あの人)も、救えなかった――ッ!」

 

 叫びは空気を震わせ、崩壊した通りの中に反響する。

 幾重にも刻まれた青痣、ほんの僅か、痛みによって微かに開けた防御の隙間から、風切り音と共に警棒の先端が下から掬い上げる様に放たれた。

 

「――ッ!」

 

 視界にその残影を捉えた瞬間、顔面を突き抜ける衝撃。顎を貫く、致命的な一打。顔が跳ね上げられ、目を見開きながらヘイローを瞬かせるフブキ。被っていた帽子が宙を舞い、衝撃で片側のリボンが力なく解けた。

 受けてはいけない一撃であった、先程とは比較にならない程の揺れと瞬き。視界が滲み、四隅が霞む。背を逸らしながらゆっくりと仰向けに倒れていくフブキ。

 

「フブキ――ッ!」

 

 這い蹲り、悲鳴染みた声を上げるキリノ。

 彼女の声が、何処か遠く、朧げに聞こえた。

 

 ■

 

「ねぇ、先生ってさ」

「うん?」

 

 何て事の無い昼下がりの事だった。

 ドーナッツを片手にいつも通りソファで寝転がったフブキは、不意に口を開く。

 シャーレのオフィス、見慣れたデスクに座りエンジェル24で購入したドリンクを片手に書類仕事を進める先生の姿は、いつも通り草臥れている。振り返り、此方を見る先生の瞳には隠しきれない疲労感が滲み出ていた。

 月末は大抵そうだ、当番で顔を出す生徒か、シャーレに良く足を運ぶ生徒にとっては慣れた姿である。

 

 フブキはシャーレでの当番が好きだった。

 何せ多少サボっても文句は云われないし、先生は生徒に無茶な業務を押し付けたりもしない。三食昼寝付きで小言を口にする上司も居ないとなれば、誰だって理想の環境だろう。

 それに、態々暑い日や寒い日にパトロールをしなくて済むし、何時間も現場に張り込んで見張る必要も無い。面倒な対応もしなくて済む、多少のデスクワークと引き換えに得られる安寧は何物にも代えがたい。

 だからこそ――フブキは先生の草臥れた姿に疑問を抱いた。

 

「いつも生徒の為に走り回ったり、仕事漬けだったりするけれど、疲れたりしない訳?」

「いや、勿論疲れるよ? だから最低限睡眠時間も確保して、食事も出来るだけちゃんと摂る様に――」

「あぁ、いや、そうじゃなくて」

 

 ドリンクを一気飲みして、空の瓶を摘まんだまま答える先生に対して、フブキは手を振りながら言葉を選び直す。最低限の睡眠時間に食事、それが不足している事は目元の消えない隈を見れば分かる。最低限とは云うが、先生の場合はそれを優に下回っているのだろう。

 寝転がったまま顔にかかった前髪を指先で払い、暫し悩む素振りを見せた彼女は、だらっと四肢を投げ出したまま気だるげに問うた。

 

「その、嫌になったりしないのかぁなって」

「……嫌に?」

「そうそう、全部投げ出したくなったりさ? 当番の時とか、見ているだけでも大変そうだもん、シャーレの仕事とかって、夜中に急に呼び出される事だってあるんでしょ?」

「うーん、でも好きでやっている事だからなぁ……勿論そういう気分になる時だってあるけれど」

 

 先生は頬を掻き、言葉を濁す。

 スケージュールが分刻みで詰め込まれた時とか、連邦生徒会に提出しなければならない書類が山積みになった時とか、思い出すだけで血の気が失せそうな状況。先生はそれを想い、苦笑を浮かべる。

 流石に二徹、三徹と続くと嫌になる事もある、全部を投げ出してベッドにダイブしたくなる時だって、一度や二度ではない。

 しかし――。

 

「――私は概ね、そう云った時間も楽しんでいるよ」

「うへぇ」

 

 晴れやかに、疲労に満ちた表情とは異なる笑みを浮かべる先生に対して、フブキは思わず呻き声を上げた。

 それは到底、自分には出来ない生き方だったからだ。

 

「凄いね大人って……いや、これは先生だからか、私には真似できないや、無理無理、そんな必死に頑張りたくないもん」

「フブキがそう在りたいと望まない限り、真似る必要なんて無いよ」

「………」

 

 平然と、自身のスタンスを肯定する先生に対し、フブキは唇を尖らせる。指先に摘まんだオールドファッション、その一欠けらを口に放り込みながら何とも釈然としない感情を抱いた。

 それは彼女の中にある、なけなしの誠実さが囁いた結果なのかもしれない。

 

「普通さ」

「……うん?」

「私みたいなサボり魔、先生としては叱ったり、指導したりしないと駄目なんじゃないの?」

「えっ、指導されたかった?」

「いや、そんな訳ないじゃん」

 

 ぽつりと呟かれた言葉に、驚きと困惑を見せ振り返った先生。思わず強い口調でフブキは否定する。説教は嫌だし補習も御免蒙る、これで当番の度に仕事を大量に用意されたり、サボりを見過ごされなくなってしまった場合フブキにとっては大きすぎる損失だ。

 先生がどうしてもと頼み込むのであれば――まぁ、一度や二度なら付き合うのも吝かではないけれど。

 

「ただ、こんな姿カンナ局長とかに見つかったら絶対怒られるし、同僚とか先輩に見つかっても同じだよ、キリノは……まぁ、小言とか程度かもしれないけれど」

 

 ソファに寝転がったまま寝返りを打ち、脳内にカンナやキリノ、同僚、上司と思い浮かべる。自分が張り込みでサボっていたら、或いはパトロールと銘打ってドーナッツ片手に昼寝をしている姿を見られたら。

 考えるまでも無い、大きな雷が落ちた上で始末書を書く羽目になるだろう。

 普通はそうだ、当たり前の反応である。

 想い、ぶるりとフブキは身を震わせた。

 

 しかし、先生は違う――余程の事が無い限り、こういった自身のスタンスを咎めようとしない。

 もっと真面目にだとか、職務に忠実にとか、誠意を以てだとか、そういう注意を受けた記憶が無かった。

 だから、彼女は不思議そうに問いかける。

 

「普通に考えて、良くないでしょ、こんな態度?」

「私は、生徒本人の望まない生き方を押し付けたくないんだ」

 

 フブキの素朴な疑問に、先生は椅子を軋ませながら答えた。薄らと口元に湛えた微笑みは優しく、慈しむ様にフブキを包み込む。こんなだらけ切った自分を、良くもまぁそんな真っ直ぐに肯定出来るものだと、フブキは目を瞬かせながら内心で言葉を漏らした。

 

「ただ、そうだね……もしも、フブキが本当に自分を変えたいと思ったのなら」

 

 先生は少し考える素振りを見せ、両目を瞑って唸り声を上げる。ややあって一つ頷きを零すと、彼は穏やかな日常の中で満面の笑みと共に告げた。

 

「――その時は私も、精一杯手伝うよ」

 

 ■

 

 ――何故今更になって、あの時の会話を思い出したのだろう。

 

 フブキは仰向けに転がったまま、全身から発せられる鈍痛に顔を顰めた。呼吸するだけで、肺が締め付けられるように痛い。防御した腕も、顔も、肩だって痣だらけだ。全力で何度も殴打された、銃弾で滅多打ちにされた様な感覚だった。

 

 自分は一瞬、意識を飛ばしていた。

 或いは、本当に一瞬だったのかは定かではない。フブキ本人からすれば、短い夢を見たような気分だった。

 

 どうして合歓垣フブキは、頑張ろうと思わなかったのか。

 だって、そうする必要が無かったから。

 本当に危ない時でも、拙いんじゃないかと思う時でも、先生は絶対に何とかしてくれる。だから、今の自分が出来る範囲で、全力で事に当たれば良かった。持っている能力以上に背伸びする事も、死に物狂いで努力する事さえ。

 

 全力を尽くして、どうしようもない状況など――今まで無かったのだから。

 

 けれど、もしそんな未来が襲い掛かってきたら。

 自分が全力を尽くしても足りない、もっと頑張らなくちゃいけない。

 先生でもどうしようもない、そんな状況が生まれてしまったら、どうなる。

 

 ――その先に在るのが、目の前の彼女(合歓垣フブキ)の姿だ。

 

「……ッ」

 

 フブキの地面を捉えた指先に、力が籠った。アスファルトの上に爪を立て、仰向けの状態からゆっくりと身を横たえた彼女は、痛みに引き攣った呼吸を繰り返しながら不格好に震える腕で自身の身体を支える。

 

「確かに、そっちの云う通り、かもね」

「……!」

 

 吐き出した声は血が混じって、掠れていた。

 此方を冷徹に見下ろし、沈黙していた合歓垣フブキ(異なる世界の自分)が、微かな驚きに息を呑む。確かに顎を砕くつもりで、全力の一撃を叩き込んだ。意識を飛ばした、立てる筈がないと胸の内で呟く。

 しかしフブキは膝を突き、背を丸めたまま自身の口元を拭い、挑戦的な笑みさえ浮かべて見せる。

 

「今の一発、ホント、効いたよ……こっちの芯にまで、ガツンって、さ」

「――へぇ」

 

 口元に滲む血、鉄の味を噛み締めながら、フブキは自分自身を見上げ告げる。

 感心したような声が耳に届いた。

 それは、僅かに湧いた期待の顕れ。

 這い蹲り、震える膝を叱咤しながら立ち上がろうとするフブキは、血と汗を滴らせながら呟く。

 

「……私はずっと、心の隅っこで、こう思っていたんだよ」

 

 呟きは、誰に向けたものでもない。自嘲にも似た声が、文字通り自分自身に向かって吐き出される。

 

「私なんかが頑張った所で、私一人がどうこうした所で、世界が変わる訳じゃないし、事態は好転しない――そもそも、私程度でどうにか出来るなら、他の誰かが、勝手にやってくれるでしょ……ってさ」

 

 だって、そうでしょう。

 フブキは自分自身に問い掛ける。

 自分に、特別な力なんてない。

 他の誰かより圧倒的に優れた才能も、技術も、頭脳もない。

 それなら何事も程々で丁度良い。

 必死に頑張る何て、割に合わない。

 そうすれば仮に失敗したとしても、傷付かずに済む。

 自分より出来の良い誰かが、きっと何とかしてくれる。

 そんな脆弱な、己の心。

 

「――私の不甲斐なさは、私が一番、良く知っている」

 

 吐き捨て、血の滲む歯茎をそのままに唸る。

 彼女は掌を地面に勢い良く押し付け、一気に体を持ち上げた。滴る小雨が髪を濡らし、顎先を伝っていった。

 痛い、苦しい、辛い、もう頑張りたくない――自分の心に巣食う弱さが、口々にそう叫ぶ。

 けれど今は、今だけは。

 なけなしの、意思(勇気)が勝る。

 

「でも……でもさっ、そんな私でも、立ち上がらなくちゃいけない瞬間っていうのは、分かるんだ」

 

 呟き、腫れ上がり、半分塞がった瞼を押し上げると、相手の瞳が見えた。その奥に、自分と同じ光を見つける。

 憎悪と嫌悪、怒りに紛れながらも決して失われない煌めき。

 

「今、合歓垣フブキ(わたし)が云った様に、蛮勇でも、何でも、兎に角我武者羅に頑張らなくちゃいけない瞬間――」

 

 二度、三度、自分の胸を叩く。地面に転がっていた愛銃を掴み、不格好でも両足で地面を踏み締める。

 蹈鞴を踏み、覚束ない足取りで――それでもフブキの身体は立ち上がり、自然と戦う姿勢を取っていた。

 

「今が、その時ってワケ――ッ!」

「……それで」

 

 背を曲げ、痣に塗れた顔を晒し、震える腕で銃口を突きつけるフブキ。その姿は無様だろう、弱々しく、到底恰好の良いものではない。

 けれどその先に立つ相手の視線は、険しさと共に此方を捉えていた。

 震える両足で立ち上がったフブキを試すように、或いは見定めるように。

 彼女は超然とした姿勢を崩さず問いかける。

 

「立ち上がるのは結構、でもそこから無力な合歓垣フブキ()はどうするの? カンナ局長にも、キリノにも勝てない弱い自分が、その二人を打ちのめした、この私に勝てる?」

 

 放たれる正論、純然たる事実。

 冷たく紡がれるそれが、フブキの心を押し潰さんと響く。

 嘲笑するように合歓垣フブキ(異なる世界の自分)の口元が、悪辣に歪んだ。

 

「それとも、今度こそ私を倒せる作戦でも思いついた?」

「……そんなモノ、都合よく思いつく訳ないじゃん」

 

 知っている癖に、と。

 だがそれを聞いて尚、フブキは口元に笑みを湛えた。

 逆境に於ける都合の良い閃きなど存在しない。

 ましてや磨き上げた能力の先にある才能の開花など望めない。

 だが、それでも合歓垣フブキは立ち上がった。

 立ち上がらねばならなかった。

 

「もし無策で立ち上がったのなら、随分と自分を高く見積もっているみたいじゃん、真正面から私に挑んで、勝とうだなんて」

「……勝てるか、勝てないかじゃないよ」

 

 さっきも、云ったけれどさ。

 途切れ途切れに息を挟み、塞がり掛けた瞳で前を見据える。

 渇き、掠れたフブキの声はしかし、もう震えてはいなかった。

 

「――立ち上がらなくちゃいけないから、立ったんだ」

「……!」

 

 世界全ての音が、一瞬だけ遠のいた様に感じた。

 ぱらぱらと降っていた小雨が、徐々に、徐々に雨粒を大きくし、勢いを増す。総身を雨に晒す両者は視線を逸らす事無く相手を凝視し、暫し沈黙を守る。

 ふと、対峙する異なる世界のフブキ、その口元に今までとは異なる笑みが浮かんだ。

 

「――及第点」

 

 冷たく、しかし同時に僅かな歓喜の滲んだ声が落ちた。ぴくりと、フブキの眉が跳ね、同時に靴裏がアスファルトを擦る。それは微かな動揺と、困惑。

 

「でも、気持ちだけで勝てるなら、私はこんな最悪な気分になっていない」

「………」

「良いよ、そのなけなしの鍍金(メッキ)、何回目で剥がれ落ちるか、試してあげる」

 

 告げ、虚空に向かって降り抜かれる警棒。風切り音と共に伸びたそれが、フブキの戦意を挫かんと揺れる。同時に今まで使う気配も無かった彼女の愛銃、第十四号ヴァルキューレ制式ライフルを無造作に構えた彼女は、これまでにない程に真剣な面持ちで此方を睨みつけた。

 雨粒が表面に弾け、擦り切れたスリングが鈍い光沢を放つ。

 

「ふ、フブキ……っ!」

「手を出さないで、キリノ」

 

 咄嗟にキリノが叫び、未だ力の入らない両腕で上半身を支え、立ち上がろうとした。しかし、フブキはそれを制止する。

 放たれた声は静かで、けれど彼女らしからぬ強い意志を秘めていた。

 

「……これは」

 

 フブキが唇をすぼめ、深く、深く息を吸い込む。

 突き出した愛銃の銃口がピタリと定まり、空いた片側の手で結ばれたリボンを解く。顔面を警棒で殴打された際解けた片側と合わせ、纏まらない長髪がするりと彼女の背に流れた。

 風に靡く長髪。

 その姿は――目前の合歓垣フブキ(異なる世界の自分)と瓜二つ。

 

「これは、私が乗り越えるべき挑戦(困難)だから」

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