■
「―――」
眩い光が網膜を焼いた。
それは希望にも、滅びにもなり得る光。紡がれる言葉は、遥か遠く祈りの如き荘厳さを伴い、二人の手に握られたシッテムの箱より青が満ちる。
人と異形。
照らされ足元の伸びる影は余りにも異なり、立場の違いは明確である。
だが自分だけは、今こうして再び相まみえた自分達だけは知っている。
その根幹も、秘めた意志も、決意さえ、抱いたそれは同様であると。信念も、誇りも、想いも、何もかも。
全て、全て、全て――ただ一つの、願いの為に。
『先生の生体認証完了、シッテムの箱、メインOS――』
『先生の生体認証完了、シッテムの箱、メインOS――』
重なる声。
まるで鏡の向こうで、もう一人の自分が同じ言葉を紡いでいるかのように、現実と虚構の境界が曖昧になっていく感覚があった。画面の向こう側に佇む二つの影、液晶を通して自身の所有者を仰ぐ彼女達は、片や一切の感情を排し、片や悲壮と決意を秘めた声で告げる。
『A.R.O.N.A、命令待機中』
『アロナは、いつ如何なる時も、先生の傍に……!』
二つの声が交錯し、プレナパテスと先生――対峙する両名は沈黙を通す。胸中に巡る感情は何か、複雑なそれを一言で表現する事は難しい。
高揚は無い、期待もない、目指した場所に辿り着いたという達成感すら、今の先生には酷くちっぽけなものに感じられた。これがただ、正義と悪という絶対的で分かり易い構図であれば、どれ程簡単で気楽なものであっただろうか。ずっしりと鉛の如く胸中にへばりついた感情は重く、辛く、先生の口を堅く閉ざす。
「――ぅ」
その時、腕の中で微かに動きがあった。身動ぎと、微かに漏れる声。震える体が先生の身体に振動を届け、閉じられていた瞼がゆっくりと開かれ、蒼白の光を反射する瞳が瞬いた。
「此処、は……?」
「ヒナ」
掠れ、漏れ出た様に呟かれた言葉。先生は視線を落とし、腕の中で身動ぎするヒナへと優しく呼びかける。困惑する彼女を包み込むように、その腕の力が少し強まり、それを自覚したヒナは緩慢な動作で顔を上げた。
視界に、自身を見下ろす見知った顔が見える。
「……せん、せい?」
「あぁ」
頷き、先生は薄らと微笑みを浮かべた。
響く聞き慣れた声に、ヒナの強張っていた体から僅かに力が抜ける。その声は、自身を包み込む腕は、決して幻でも何でもない。その実感が、起き抜けのヒナに確かな安心感を齎した。
「迎えに来たよ」
「迎え、って――」
一体、何の事だろうか――。
そう思考して、ヒナは漸く自分が何処に居るかを理解した様だった。陶然と先生を見つめていた瞳に光が戻り、揺らめく瞳が周囲に焦点を合わせる。
薄暗い周囲、見知った風紀委員会の執務室でもなければシャーレのオフィスでもない、薄らとした寒気を感じるその場所で、ヒナの瞳がほんの十数歩先に佇む影――プレナパテスを捉えた。
まるで幽鬼が如き佇まい、薄汚れたローブ、冷たい鉄仮面、その姿を認めた瞬間、ヒナの目が大きく見開かれ、脳裏に焼き付いていた悪夢が甦る。
「っ、お前は――ッ!」
此処に至るまでの記憶、それが一気に流れ込む。ヒナは弾かれるように先生の腕を振り切り、飛び起きた。
「先生、私の背中に下がって!」
反射的に声を上げると同時に、ヒナは自身が無手である事に気付いた。自身の愛銃は――瞳が素早く周囲を見渡し、数歩先の床に転がっていた愛銃に気付く。武装解除されていなかったのか、その事に疑問を抱く彼女であったが此方に都合が良いのは事実。
素早く爪先で愛銃、デストロイヤーの銃身を蹴り上げ、大きく弧を描き回転するソレを掴み取る。
勢いそのままに振り回し、愛銃を脇に挟み込んだヒナはグリップを強く握り締める。ズシリとした重さ、金属の冷たさが掌に戻る。それだけで、ほんの少しだけ、心が落ち着いた。無手であろうが何だろうが、先生を守る為であれば死力を尽くすつもりではあるが――やはり、コレがあると無いとでは大きな差がある。
「この敵は普通じゃない! コイツは、私の攻撃を無効化して……ッ!」
たった一度の邂逅、しかし目の前の存在の異様さは自身が一番良く理解している。至近距離でデストロイヤーの銃撃を受け、尚も無傷だった存在。ヒナは叫びながらも手早く弾倉を検め、残弾がある事を確認する。
コート内部の予備弾倉も健在、背中で先生を押しながら後退するヒナであったが、プレナパテスはただ静かに、警戒を孕んだその行動を眺めるばかりであった。
無言のまま、彼の者は何ら行動を起こそうとしない。その所作こそが、ヒナにとっては酷く不気味に見えた。
「絶対に、私の前に出ないで……!」
「――ずっと眠っていれば、苦しまずに済んだのに」
声は冷たくも、どこか慈悲を含んでいた。
まさか、目の前の異形が喋ったのか? ヒナが目を見開き、プレナパテスを凝視する。
しかし声は異形から発せられたものではなかった。プレナパテスの背後を覆っていた暮明がうねり、ぬるりと現れる人影があった。黒い靄の様なモノが床を這い、黒々とした空間より何者かが現れる。
「定められた運命を変える事は出来ない、
「……!」
それは女性の声だった。ブーツが地面を叩くと同時、ふわりと靡く外套が視界を遮る。暮明より覗いた腕章を視界に捉えた瞬間、ヒナは呼吸を忘れた。
咄嗟に構えたデストロイヤーの銃口が震え、引き金に掛かっていた指が硬直する。
「それは誰よりも、私自身が良く知っている」
顕れた影は、自身と同じ代物を手にしていた。身の丈を超える、傷だらけの銃身、全体的に褪せた色合い、見る者によっては歴戦の証と呼べるそれは、しかし当人にとっては破滅の証に他ならない。
守り切れなかった証明、悲壮と後悔の力、その象徴。垂れた銃口が床を擦り、金切り音を鳴らす。
「誰も守る事も出来ない【
吐き出される呪詛に似たそれは、痛みと諦めを混ぜ合わせた残響の如く。ゆっくりと、交互に踏み出される足音、引き摺られる銃口の金切り声が虚空に響く。
「この
その宣告と共に、プレナパテスの前へと影は躍り出る。ヒナと対峙するように、まるで自分自身を見せつける様に。
だからこそ、ヒナは動けなかった。
目の前の存在が何であるのか、誰であるのか、直感的に理解していながら。
「そうでしょう、私の――……」
さらりと流れた、緩いフェーブ掛かった長髪。白いそれが揺らめき、乱雑に伸びた前髪に隠れていた瞳が微かに覗く。流れた視線は目の前のヒナを、その背後に立つ先生を――そして自身の背後に佇む異形を捉え。
軈て、少女の唇からひとつの名が零れ落ちる。
「――先生」
■
「貴女、は……」
愕然とした声が、口から漏れた。
彼女らしくない、一切の混じり気が無い驚愕と思考停止。自らの視線、その先に立つのは、間違いなく――
ドレスの様な衣服を纏ってはいるものの、羽織った外套は風紀委員会の長として愛用している自身のものと同じ。髪型や佇まい、携帯する銃火器に多少の差異は見られるが間違いない。この世に生まれ落ちてから、常に鏡越しに見つめて来た顔立ちである。
見間違う筈が、なかった。
ヒナの指先が震え、無意識の内に自身の胸元を掴む。何か、締め付けられるような圧迫感があった。目の前の彼女は、同じ顔、同じ声、同じ瞳で此方を臨む。だが、その瞳の奥には、ヒナが知らない何かがある。
「――わ、私、なの?」
「肯定、空崎ヒナ、彼女は別時間軸の同一存在」
無機質で、抑揚のない声が空気を裂く。ふと気付けば、プレナパテスの傍に寄り添う様にして佇む影がある。いつの間に現れたのか、あるいはいつから存在したのか。
隣り合う巨躯と比較すれば余りにも小柄で、黒を基調としたシンプルな制服とコートに身を包んだ少女。彼女は手にした傘を払い、色のない瞳を此方に向ける。
「そして私もまた、同様に――シッテムの箱に駐在するシステム管理者兼メインOS、A.R.O.N.A」
『……!』
黒に身を包む少女、A.R.O.N.Aが硝子玉の如く無機質な瞳と共に、現れ告げた。その姿を確認したアロナが、先生の抱えたシッテムの箱越しに息を呑む。
『先生……! 彼女は空間に実体として存在しています、恐らく――』
「肯定、これは状態の共存を維持しているアトラ・ハシースの箱舟内部である為、可能な顕現行為」
「……ナラム・シンの玉座、その性質によるものか」
呟きは低く響く。
本来こちらの世界から干渉出来ない筈のアロナに対し、明確な返答を寄越す存在。A.R.O.N.Aを見つめる先生の目が、ゆっくりと絞られた。
シッテムの箱を媒介としてしか世界に関与できないA.R.O.N.Aが、実体を伴ってこの世界へと介入している。何故か? それは、次元と時間、存在と非存在が未確定のまま混ざり合う、この場所だけに許された歪な
それを証明するかの如く、彼女はくるりと所在なさげに手回した傘を折り畳み、両手で握り締める。
「教室を有しない私は、存在が確定せず、湾曲したこの場所でのみ顕現を許されます」
「――あぁ、知っているとも」
自分はその事を、良く知っている。
先生はA.R.O.N.Aの言葉に頷きながら、静かに唇を震わせた。此方を見据えるA.R.O.N.Aの瞳に、微かな疑念が浮かぶ。
確定されない。
それは、あらゆる結果が保留され、可能性が介在し得るという事。
この場所に限っては、死という概念さえ曖昧になる。
仮に先生と接続されたシッテムの箱がシャットダウンしたとしても、この場所に限っては自身は死と云う運命から逃れ得る。命の灯は即座に途絶えない。しかし、ナラム・シンの玉座そのもの――この歪曲した時空構造が崩壊した瞬間、存在の保持は不可能となる。
ナラム・シンの玉座が崩壊した瞬間こそ、自身は今度こそ逃れられぬ結末を辿る筈だ。
だが、それまで。
己が崩壊に呑まれる、その一瞬前まで。
ほんの一時とは云え、この空間は死をも超越した奇跡の行使を可能とするだろう。
――今目の前に存在する、
シッテムの箱を抱き締める腕に、力が籠った。先生は己の肉体に残った生命、その僅かな残滓の一滴までもを全て絞り出す覚悟を以て此処に至った。血の一滴、髪の一本、最早屍に等しい己に残った、ありとあらゆるものを捧げ。
だからこそ分かる、自分達は同じだ、外面が幾ら変化しようとも、それだけは変わらない。
自身の望んだ決着は今此処にある。この瞬間の為だけに、数多の苦渋を舐め至った。
知り得たからこそ、
プレナパテスも、自分も。
ただ、この瞬間の為に――。
「―――」
「………」
先生の瞳に、挑む様な色が宿る。光ではなく、影でもない、ただ結末を見据え意思を固めた者の瞳だ。
この場所で、全てを出し切る。
ナラム・シンの玉座を制した者が、世界の命運を決定付けるのだから。
「ま、待ってよ、ちょっと、待って――」
ヒナが、焦燥を滲ませた声を上げた。
状況は、彼女が理解出来る範疇を遥かに超えている。情報の流れは余りにも高速で、ヒナは銃口を揺らしたまま、動揺を隠す事も出来ず目前の存在を見上げ問うた。
「今、別次元の私と、そう云ったの……?」
「えぇ、そう」
プレナパテスの目前に立つ、もう一人のヒナは静かに頷きを返す。その所作は穏やかでありながら、どこか異様に刺々しくも感じた。生きる意志を感じない、まるで人形の如き無機質さ、とでも表現すべきか。昏い瞳をそのままに、目前の自分自身を一瞥した彼女は平然と告げる。
「私は【空崎ヒナ】、そして貴女も――『空崎ヒナ』」
突き出された指先が自身と、そして目の前の存在を指し示す。両者には確かな同一性が存在する。だが、その在り方はあまりに異なっていた。纏う気配も、佇まいも、内面も、何もかも。
「別の世界の私自身、その根底も、本質も、変わりはしない」
「――……なら」
ヒナの言葉が、意図せず詰まった。声が掠れ、心臓の鼓動が痛いほどに胸を打っている。震える唇が、おずおずと問いを紡ぐ。
「それなら」
自然と、拳を握りしめていた。ヒナは油断なく身構えながらも、それは殆ど恰好だけのものだった。精神的な動揺は既に極限に達し、身構えた所でどれ程の効果があるのか、彼女自身分からなかった。今肉薄され、攻撃を仕掛けられてしまえば、呆気なく一撃を許すであろう事は誰の目から見ても明らかだ。
ただ、どうしても問わなければならない事がある。
緊張に渇き、震えた舌で、ヒナは問いかける。
「貴女が、『先生』と呼んだ――その、
問うたヒナの視線は、自身をこの場に誘拐したのであろう――鉄仮面の異形を捉えている。
一瞬の沈黙。
じっとりとした、嫌な汗が背中に滲んだ。
心臓がきゅっと締まるような、息苦しさと緊張。
否定が欲しい――明確な否定が。
あり得ないと理性が囁く。けれど同じ位に、本能が悲鳴染みた警鐘を鳴らしていた。視界に映る鉄仮面は微動だにせず、呼吸の素振りすら見せない。コートの内側より覗く薄汚れた包帯に包まれた指先は細く、長く、凡そ人のものとは思えない程に痩せこけている。
先生とは似ても似つかない威容、気配、形――否定する要素は、幾らでも並べる事が出来た。
しかし――。
能面の如くピクリともしない、対面の自分、その表情。
訪れる沈黙は、何よりも雄弁に結末を語る。
「そうね、貴女の考えている通り」
「ッ……!」
唐突に放たれた言葉に、ヒナの身体が跳ね、声にならない息が漏れた。それを知ってから知らずか、彼女はゆったりとした足取りで身を翻し、プレナパテスの身体に優しく触れた。
「この人は紛れもない、シャーレの先生」
淡々としたその告白が、凄まじい衝撃と共にヒナの精神を揺らした。まるで頭部を鈍器で殴られたかのように、ぐらりと意識が傾くような。背中に氷柱を突き入れられたかのような怖気。
背中越しに此方を見つめる彼女の瞳が、瞬く。
「――私が守れず、取りこぼした、大切な人」
ヒナの心に、その言葉が深く、深く沈み込む。
何故そうなったのか、どう見ても人の形を為していない異形に、ヒナは問いを投げかける事さえ出来ない。あらゆる疑念が、疑問が、それを問う声が際限なく内側より湧いて出た。
けれどそれを口にする、勇気が無かった。
異なる世界、辿った道は違うとはいえ、一体どんな道を歩めばそんな結末に辿り着くというのか。
否、分岐点はきっと――数多く存在する。可能性とは即ち、世界の数だけ存在するのだから。もしあの時、あの瞬間、異なる選択を選んでいたら。ほんの些細な変化、変質が世界に与える影響は計り知れず、ならば目の前の自分はそういった破滅的な道を選んだ果ての自分か。
その想像は、思考することすら痛みを伴った。
「ヒナ」
「ッ……!」
呼ばれて、ヒナの肩を大きな手掌が包み込む。びくりと、ヒナの肩が跳ねた。その声は、ヒナ自身を包み込む様に背後から放たれ――直ぐ傍にいる、まだ失われていない先生の存在を、ヒナは強く意識する。
それは気圧され、飲み込まれそうになっていた彼女を現実へと引き戻した。
「……せ、先生」
「大丈夫、私は此処に居る」
ヒナの肩に手を掛けたまま、先生はゆっくりと云い聞かせるように声を絞る。背中越しに見上げる瞳は潤み、怯懦に屈しそうになっていた。先生はそれを理解して、ヒナの肩を殊更強く掴む。
「戦う事を、躊躇う必要はない」
それは、決して優しさなどではない。
ただ事実を伝えるだけだ。目前に横たわる純然たる、そして彼女にとっては酷烈な真実を。
そう簡単に割り切れるものではないと理解している。だが、そうしなければ自分達は前に進む事が出来ない。
それが、今目の前に佇む彼女にとってどれだけ苦痛であるか分かっていながら。
「彼は……別次元の、私は」
きゅっと、先生の指先がヒナの肩に食い込む。それは僅かに生じた、葛藤によるものだった。
込められた力の強さに、ヒナの瞳が、ほんの僅かに揺れる。
中途半端に開かれた唇が震え、先生は目前に立つプレナパテスを見つめながら、重々しく、しかしハッキリとした口調で告げた。
「――既に、生きてはいない」
「………」
ヒナの目が見開かれ、今度こそ彼女は絶句した。指先が冷たくなり、感覚が薄れていくような。頭の中で、耳鳴りが鳴り続けた。
一瞬、先生が何を云ったのか理解出来なかったのだ。
だと云うのに先生は揺らぐ事無く、ただ真っ直ぐ前だけを見据えている。
見上げる自身の瞳さえ、顧みずに。
■
――【先生の肉体はそう遠からず、死を迎えるでしょう】
■
「な、なんで……」
会議室で耳にした言葉が、再び胸を突いた。気を抜けばその場に崩れ落ちてしまいそうになる程の虚脱感が、全身を覆って離さない。先生に肩を支えて貰わなければ、立っている事さえ叶わなかっただろう。
もし、彼女達の――あの会議での発言が正しかったとすれば。
ならば目の前の、この姿は。
先生の、未来の姿とでも云うのか。
「……っ」
ヒナの指先が髪を掻き分け、自身の顔の半分を覆った。分からない、何が起きているのか、何故こんな事になっているのか、余りにも多くの感情が、思考が、空崎ヒナという存在を雁字搦めにする。
気が、狂いそうだった。
「何故って」
一瞬、気のせいでなければ目の前の自分が言葉に詰まったように思えた。
一度目を伏せ、それから改めてプレナパテスを一瞥する。昏く、光の見えない瞳は変わり果てた姿の彼を暫し見つめ、それから緩く首を振った。
「
口ずさみ、彼女――異なる世界のヒナは目を瞑る。
ゆっくりと暮明に落ちる視界、全てが閉ざされた闇の中で、未だ胸中に、耳にこびり付いて離れない叫びを思い返す。
それは自分の中に存在する、破滅を歩み出したはじまりの記憶。
空崎ヒナの罪悪。
■
――【私達から
■
「そう、先生を殺したのは……」
思い出す度に、最悪な気分になる。
胸に、大きな穴が開いた心地だった。
虚無感、無力感、罪悪感、嫌悪感――あらゆるネガティブな感情が吹き上がり、彼女は自身の顔を掌で覆い、大きく息を吸い込みながら閉じていた瞼を開ける。目前に立つ自分、まだ何も失っていない自分、異なる道を歩んだ自分。
否、これから同じ道を辿るであろう彼女を見つめながら――空崎ヒナは告げた。
「私だから」
「―――」
その瞬間、時間が止まったように感じた。
少なくとも、ヒナにとってはそうだった。
音が消え、光が遠のく。衝撃がヒナの全身を突き抜け、暫しの間ヒナはこの状況を忘れ、自身の鼓動さえ聞こえなくなった気がした。
突き出して筈の銃口は既に床を捉え、中途半端に開いた口元から断続的に吐息が漏れる。
見開かれた瞳が、目前の自分自身と、その背後に佇む巨躯――プレナパテスを凝視する。
「……私が、先生を」
ゆっくりと言葉を紡ぐ唇、同時に開く瞳孔。
動揺が、戦慄が、彼女から理性を奪い、剥ぎ取っていく。
残されるのは強い衝動と、否定を叫ぶ、滾るような感情。
「――殺した?」
「……そう」
重々しく呟かれたそれに、異なる世界のヒナは余りにも容易く、軽薄とも思える態度で肯定を返す。表面上は何でもない事の様に、冷淡とさえ取られるソレ。彼女は目の前の自分自身から視線を切り、目元をなぞる様に指先で影を作る。
「私が先生を殺害し、彼は色彩の嚮導者と成り果てた……この姿は多分、色彩の影響」
誰も、望んでこの結末に至った訳でもない。
自ら破滅を求めた訳でもなかった。
ただ求められるがまま、流れる時に身を任せたに過ぎない。
「そして私を此処に連れて来た、世界を終焉に導くと云う運命を実現させる為に」
それが真実。
少なくとも、異なる道を辿った空崎ヒナにとっては。
その解釈こそが、全てであった。
「――だから
「……ふッ」
大きく、噴き出す様な呼気。
先生の掌に、大きく跳ね返るような反動と、筋肉の力みが伝わった。俯き、一度大きく震えたヒナは歯を食い縛る。先生がそれに気付き、彼女の名を叫ぼうとした瞬間――床を向き、震えていた銃口が勢い良く跳ねた。
「ふ、ざけないでぇッ!」
「――!」
振り絞られた絶叫は、ナラム・シンの玉座に木霊する。
それはヒナにとって、心からの叫び。拳を握り締め、全力で叫んだ彼女は顔を上げ、目前の自分を睥睨する。
そして先生が止める間もなく、ヒナは全力で地面を蹴り飛ばし目前の自分自身へと躍りかかった。
地面を蹴った衝撃で風が巻き起こり、後方に立っていた先生は吹き抜ける突風に思わず身を竦める。靡く外套、憤怒の形相で殴りかかったヒナに対し、即座に反応する影。
「ッ……!」
風切り音と共に放たれた拳を、異なる世界のヒナは容易く真正面から捉えた。重なる拳と掌、瞬間衝撃が腕を伝って空気を震わせ、突風が両者の長髪と衣服を靡かせる。
互いの視線が至近距離で交差し、憤怒に彩られた瞳を、異なる世界のヒナは無感動に眺めていた。
「そんな事、絶対に信じないッ! 私が、私が自分の意思で、先生を殺したなんてッ!」
「………」
「ましてや、先生が世界の滅亡を望むですって? そんな筈ない、そんな未来、あり得る訳がない――ッ!」
叫びは余りにも無垢で、切実で、純粋だった。信じたくないのだろう、そんな未来を。或いは、自分が先生を殺害した世界が存在するという事自体を。
しかし、世界とは時に何よりも残酷な側面を見せる。
空崎ヒナにとっては、この瞬間こそがそうであった。
「――どれだけ泣き喚こうと真実は変わらない」
過去もまた、変えられない。
小さく囁かれるように放たれる言葉。それは絶対的な事実であり、真実。
受け止められた拳が震え、肌を伝ってこの世界の自分の怒りが伝わって来る。しかし、感情で物事が解決出来るのであればどれ程簡単だろうか。どれ程単純だろうか。
力なき叫びに――一体どれだけの価値があろう。
細められた彼女の瞳が、憐憫の情を湛えヒナを穿つ。
「この程度の力で、為せる事なんて限られている」
受け止めた拳を払い、異なる世界のヒナはそのまま身を翻す。その場で回転し、風切り音と共に放たれるのは鋭い回し蹴り。横合いから薙ぎ払う様に放たれたそれは、ヒナの脇腹を捉え、肉を打つ音と共に矮躯を吹き飛ばす。
「ぐッ……!?」
被撃の瞬間空気が震え、奥歯を噛み締め、衝撃に耐える。地面と水平に吹き飛ばされたヒナは二度、三度バウンドし、そのまま掌を地面に押し付け減速――再び顔を上げた時、視界に映るのは艶やかな光を放つ、黒々とした銃口。
自身の良く知る愛銃が、此方に顔を向けていた。
「―――」
間髪入れず、轟く重低音。
凄まじい閃光が視界一杯に広がり、臓物を震わせる衝撃が部屋中に撒き散らされる。数えるのも馬鹿らしい弾幕が一瞬にしてヒナを襲い、彼女は咄嗟に床を蹴って円を描くように駆け出した。反射的な回避行動、一拍後着弾した弾丸は、つい先程までヒナの居た空間を削り、抉り、粉砕する。
「【ゲヘナ最強】、【圧倒的な武力】、【風紀委員会の長】、その名声で、肩書で、強さで、貴女は一体何を守れたの? 何を為したの?」
その必死に駆ける影を、弾丸を吐き出し続ける長銃が追従する。必死に駆ける姿を嘲笑うかのように、彼女は瞬くマズルフラッシュの向こう側で無表情に告げた。
「何一つ――何一つ、自ら誇れるものも無い癖に」
「く、ぅ……ッ!」
嵐の如く放たれる弾丸は途切れる事を知らず、次々と内壁を削り、地面を爆ぜさせ、その銃の名の通り破壊の限りを尽くす。ヒナは全力で地面を駆けながら、背後にピッタリと張り付く破壊の嵐を視認する。残弾が途切れるまで回避に徹する――否、それよりも早く銃弾は己を捉えるだろう。そう甘い相手でない事は明らかであった。
ならばと、唐突に足を止めるヒナ。突然足を止めたヒナに対し、彼女は一瞬眉を顰める。しかし、その引き金を緩める事は無かった。
追従していた銃口は即座に足を止めたヒナを捉え、一切を破壊し尽くすと云わんばかりの猛攻がその身を襲う。着弾する弾丸は塵一つ残さないとばかりに周辺を穿ち、粉砕し、噴煙を巻き起こす。
だが、注がれる弾丸の嵐を抜け、噴煙を裂き、飛び上がる影が一つ。腰の翼をはためかせ、大きく地面を蹴ったヒナは空中へと身を晒した。
急停止からの跳躍、視界を切った上での奇襲。異なる世界のヒナが目を見開き、頭上を仰ぐ。
視界に、自身と同じ銃口が突きつけられ、閃光が収束するのが分かった。
「これで……ッ!」
飛び上がったヒナは、翼で滞空を試みながら躊躇いなく引き金を絞る。有りっ丈の神秘を込め、数ではなく純粋な威力を高めた神秘砲。
極光の如く放たれたそれは、異なる世界のヒナ、その影へと直進し――着弾。
大規模な爆発を巻き起こし、一瞬にして爆炎と熱風が周囲に撒き散らされる。先生はその場で伏せる事によって爆破の衝撃をやり過ごし、プレナパテスの前には黒傘を開いたA.R.O.N.Aが待機する。飛び散った金属片と火花が傘の表面を叩き、A.R.O.N.Aは微かに顔を顰める。
「はッ、はっ……!」
汗と共に荒い呼吸を切り返し、翼をはためかせ空中に留まるヒナ。その瞳は油断なく今しがた発生した爆炎と白煙を見つめる。着弾の直前、回避の素振りは無かった、直撃した筈だ。通常の生徒であればヘイローの消失、気絶は必至、そうでなくとも暫く真面に動けない程度には全力を尽くした一撃。
しかし、あくまではそれは、一般的な生徒を相手取った場合の話。
「――私達の本質は変わらない」
「……ッ!」
立ち昇る白煙の中、紡がれる言葉。平坦なそれは一切の揺らぎも、動揺も無く、視界を覆う白を裂き現れる人影。そこには自身の翼を盾とし、傷一つ存在しない自分自身が佇んでいた。
そうだ、渾身の一撃すら目の前の彼女には通用しない。
何故ならば、彼女は――空崎ヒナ。
ゲヘナ最強と謳われた、己自身なのだから。
「面倒くさい、頑張りたくない、痛い事は嫌だ、辛い事は見たくない、悲しい出来事はもう沢山、逃げて、逃げて逃げて逃げて、自分の殻に籠って、一番大事な時に立ち上がれない」
それこそが、空崎ヒナという存在。
暮明の中、鈍色の光を放つ瞳。放たれた言葉と共に、彼女は爪先で地面を軽く小突き、次の瞬間――その姿が掻き消える。
「……!?」
唐突に、突然に。
まるで影の中に消えてしまったかのように、ヒナの視界から忽然と姿を消した影。揺らぐ白煙が彼女の痕跡を微かに証明するばかりで、咄嗟にヒナは瞳を左右に振る。
「っ、何処に……!」
居ない、見つからない。
一体何処に、迷いと共に揺らいだ銃口。
その銃身が――不意に、誰かの手によって押し下げられる。
「私達の本質は――【弱さ】」
「……ッ」
声は、目の前から聞こえた。
ヒナの両目が見開かれる。
ほんの一瞬、瞬きの間。
たったそれだけの時間で、彼女は噴煙に紛れ、この距離まで肉薄していた。
精神的な動揺、そして一瞬の間隙を突いた機動。咄嗟に銃口を向けようとして、しかし愛銃はピクリとも動かない。目の前の彼女が左腕でバレルを握り締め、固定していた。
「貴女は、私には勝てない」
「あぐッ!?」
衝撃が、頬を走り抜けた。小脇に抱えていた愛銃をコンパクトに振り抜き、長い銃身で以てヒナの顔面を殴打したのだ。
突き抜ける衝撃は脳を揺らす、大きく姿勢を崩し、流れる上半身。反射的にヒナの体が防御の姿勢を取るより早く、間髪入れず膝が腹部に撃ち込まれ、息が詰まり、苦悶の声を呑み込む。
打ち込まれた彼女の膝が臓物を圧迫し、全身の骨を軋ませる。口から血の混じった唾液を零し、ヒナの身体は苦痛に硬直した。
「貴女の知らない事を私は知っている、その経験も、潜った修羅場の数も、何もかもが違う」
「ぎッ……ッ!」
握り締め、銃口を逸らしたまま、彼女はまるで玩具の様にヒナの矮躯を振り回し、勢いそのままに空中から地上へ、全力で床に叩きつける。金属が拉げる破砕音、大気を揺らす轟音。金属片が飛び散り、圧倒的な膂力から放たれる衝撃は部屋全体を揺らしたと錯覚する程に強烈であった。
肺から空気が漏れ、浮かぶヘイローが点滅を繰り返す。大きく歪み、開かれたヒナの口元から呼吸とも、悲鳴と取れる濁った音が漏れた。
その身体は半ば床に沈む様にして脱力し、開かれた指先が痙攣を繰り返す。無視できない鈍痛と痺れが、全身を襲っていた。
べっこりと凹んだ床、その中に身を沈ませるヒナは、喘ぐ様に呼吸を繰り返す。
「ヒナッ!」
「あッ、ぐ、ぁっ……!」
先生は彼女の名を呼び、咄嗟にヒナの元へと駆け出す。半ば床に埋まったまま、ヒナは揺れる視界の中で己を見下ろす
「――私達の差は、そう簡単に埋まらない」
それは、絶対的な勝利宣言に似る。
この世界の空崎ヒナと、異なる道を辿った空崎ヒナ。
その間には絶望的とさえ呼べる距離があり、永遠に交わる事も、手が届く事も無い。そこに至るまでの数多の過程が、経験が、悲劇が、憤怒が、憎悪が、彼女という強固な存在を創り上げた。
積み重ねた悲劇が血肉となって肉体と精神を構成すると云うのであれば、彼女の力はこのキヴォトスに於いて絶対的なものとなるだろう。
「
その場所に今、彼女は立っている。
「――貴女には同情するわ、もう一人の空崎ヒナ」
「な、にを……!」
「此処で、他ならぬこの場所で、誰にも、先生にも知られずに終焉を迎えられたら良かったのに」
血を滴らせ、喘ぐ様に言葉を返すヒナ。震える指先で地面を捉え、何とか立ち上がろうと足掻くが身体は云う事を聞かない。
完全な戦闘不能に陥った訳ではない、だが打ち込まれた一連の攻撃は一時的にヒナの身体を行動不能にするだけの威力を秘めていた。
それだけで良い、その一時的な、僅かな時間だけで決着をつけるには十分なのだ。
ガチャリと、硬質的な音が響く。
それは目の前の自分が、愛銃の弾倉を切り替えた音だった。何気ない所作だ、戦闘に於いては当たり前の動作と云っても良い。
けれど今は、今だけはその所作が、余りにも冷たく、恐ろしく感じられた。空っぽの弾倉が目の前へと転がり、空薬莢が甲高い音を鳴らす。
「そうすれば貴女は、貴女自身の愛する人たちの死を知らずに消えられた」
「っ……!」
逸らされた彼女の視線が、此方に向けて駆ける先生を捉える。
ヒナの名を呼び、必死に手を伸ばす大人の姿。
空崎ヒナにとって、唯一無二の存在。
「―――」
瞬間、ヒナの全身に凄まじい悪寒が走る。
びくりと震えた腕が、直ぐ傍に立つ自分の腕を掴もうと必死に伸びた。
「だ、だめ……ッ!」
彼女が何をしようとしているのか、理解したからだ。
「……貴女が、無駄に足掻くから」
「い、嫌っ、にげて、先生――……っ!」
だが、彼女は止まらない。
ゆっくりと持ち上がる銃口。鈍い光を放つそれが、此方に駆ける先生へと向けられる。血が滲み、震えながら必死に伸びた指先が、異なる世界の空崎ヒナ、彼女の外套の表面を微かに掻き、掴んだ。だがその程度でどうこう出来る筈も無く、ヒナは必死に擦れた声を上げるばかり。
力なく、けれど懸命に伸ばされる指先を一瞥する事無く、彼女は冷酷に、冷淡に――深い悲しみと憐れみを以て、告げた。
「目の前で