一日お休みを頂いて、アリウス編の視聴とイベント消化して参りましたわ~!
『先生!』
「っ……」
タブレット越しに響く、アロナの警告が駆けていた足を辛うじて止めた。
朧げな感覚の中、此方に突き出された銃口を知覚する。飛び散った金属片を踏みつけ急停止、靡いた外套が音を立て、異なる世界のヒナと対峙する。罅割れた唇は血で潤い、先生は暗がりの中で瞳を細めた。
「逃げて、先生……っ!」
自分自身の外套を掴み、傷だらけの姿で必死に訴えるヒナの姿。いいや逃げない、逃げる訳にはいかないと、先生は口にする事無く胸中で零す。
身構えながら停止した両者の距離は、ほんの十数メートルの距離にあった。彼女がその気になれば、一瞬で肉薄を許す距離。そうでなくとも突き出された銃口は鈍い煌めきを放ち、言葉に出来ない威圧感と冷たさを覚えさせる。引き金を絞れば、自身の身体など一瞬で肉片になるだろう。何度もこの眼で見て来た彼女の銃撃が、脳裏にフラッシュバックする。
だが先生は恐怖を抱く事無く、タブレットを胸元に抱えたまま、退く所か更に一歩を踏み出した。
「――ヒナ」
「……先生」
ヒナの名を呼ぶ。
異なる世界の彼女、自分の知るそれとはかけ離れた瞳をした生徒の名前を。宿るのは後悔、悲壮、諦観――だが何よりも深く濃い、絶望の色。
彼女の身を包んでいるのは、抗えない感情の濁流だ。積み上げた経験と辿った結末が、空崎ヒナという存在を大きく変質させ、縛り付けている。そうなるに足るだけの道を、彼女は辿って来たのだろう。
言葉だけで、止められる可能性は限りなく低い。
だが、だからと云って言葉を尽くさない理由にはならない。
先生は真っ直ぐヒナを見つめながら、慎重に口を開いた。
「さっき、自身の本質は弱さと、君はそう云った」
「……それが、何?」
「それを自ら捨てたと、それは必要のないものだからと――」
一瞬、ヒナは訝し気な表情を浮かべる。この世界の空崎ヒナと、戦闘中に交わされたやり取り。銃声と破砕音に混じったそれは、朧げであっても確かに先生の耳に届いていた。
「それは、違う」
先生は断じる。
自らを卑下し、弱さと吐き捨てた彼女の本質は。
ヒナの表情に僅かな変化があった。微かに眉が顰められ、呼吸のリズムが乱れる。
「ヒナの本質は、その弱さは、決して貶められるようなものじゃない」
「……何故、そう云い切れるの、先生」
「自分一人では成し遂げられない、だから私達は、共に手を取り合う」
それはとても当たり前の事で、時に酷く難しい。
利害、好悪、立場の違い、主義主張、信念、伝統――様々な要因で対立し、ぶつかり合う事は珍しく無い。誰もが簡単に手を取り合える世界は理想なのかもしれない、そこに至るまでの距離は自分達が想っているよりもずっと、遥か遠くに存在するのだろう。
けれど、否――だからこそ。
「――
それは誰よりも、人間である己が良く知っている。
このキヴォトスに於いて、自身より脆弱な存在などそうは居まい。先生は自身の胸元を指先で叩き、胸を張って告げる。虚勢であっても構わない、ただ今だけは、その情けない身体を誇る様に突きつけた。
「知っている筈だよヒナ、私の信念を」
「………」
「私は銃も撃てないし、身体は弱い、逆立ちしたって君達生徒に勝てはしない、普段の仕事だって生徒達に助けられてばかりだ、一人で出来る事なんて、ほんの僅かに過ぎない」
言葉は情けなく、自嘲の如く聞こえるだろうか。しかし、込められた声は力強く、堂々とさえしていた。
力で生徒に劣り、射撃の腕前など比べるべくもなく、弾丸に耐え得る体も、他者より優れる特別な才能を持っている訳でもない。自分ひとりで成し遂げられる事なんて、本当に数える程しかない。
その事を歯痒く思った事もある、無力な自身を嘆いた事は数え切れない、力があれば、自分に何かを救える能力が、才能があれば――そう願った事は幾度となく。
「私は弱い存在だ……そう、だからこそ」
先生は云う。
己の道は、辿って来た旅路は、全て誰かと共に紡いで来たもの。
己は――己だけは、その道を肯定しなくてはならない。
積み重ねた無数の結末は、己ひとりだけのものではない。
己の弱さを知っているからこそ。
その
「――諦めない事、力を合わせ立ち向かう事こそ、私達の強さなんだ」
「……そうだね」
真正面から、真っ直ぐ放たれた言葉に、彼女は呟き薄らと笑った。
それは薄い氷越しに眺めるような、僅かな歪みと冷たさを内包した微笑みだった。向けられる眼差しは、寂し気な色を伴って先生を一瞥する。
「先生はいつもそうだった、絶体絶命の時でも、どんなに不可能だと分かっていても、いつだって諦めなかった、諦めずに立ち向かって――皆と未来を掴み取っていたから」
――あの時も、そうだった。
ヒナは瞼を瞑り、遠い過去へと想いを馳せる。それは彼女にとって、自傷行為に等しい。独りではなかった時期を、まだ自分が笑う事が出来た過去を思い出す事は、今の自身を貶め、惨めで孤独な気分にさせるから。
ふとした瞬間に後悔と陰鬱とした感情が押し寄せ、誰も居ない暮明で蹲り、涙を流したくなる。思い出は針の筵だ、暖かければ暖かい程、穏やかであればあるほど、現在との差異が浮き彫りになって罪悪感に押し潰されそうになるから。
もう何処にも存在しない世界、自分が打ち壊し、踏み躙った過去が、冷たい気配を伴って後から追い付いて来るような。
「そう、だから、私は――」
閉じた瞳を見開き、彼女は低く呟く。
そうだ、彼が諦めを知らない事は理解していた。どんな状況であっても、不可能だと真正面から吐き捨てられても、最後の最後まで足掻き、藻掻き、希望を手に足を止めない大人だと知っていた。
その先にどれだけの苦しみや痛み、絶望が待ち構えているとしても。
知っている、知っているとも――だって。
「――だから、もう良いの」
呟きは、決然と。
それはずっと見ていたから、知っているから、自然と湧き上がった感情によって空崎ヒナの中に形成された結論であった。
先生が傷付き、苦しむ姿を見て来た、誰かの為にその身を捧ぐ姿を見て来た。その過程も、痛みも、苦しみも、慟哭も、後悔も――それでも尚、一度だって諦めなかった
ずっと見つめていたからこそ――その想いは、彼女に甲鉄の如き決意を齎した。
「もう、頑張らなくて良い」
あの日、決めたのだ。
他ならぬ空崎ヒナは。
これ以上、自分と同じ道を辿る世界が生まれない様に。
目の前で
例えどれだけ罵られようと、嫌われようと、恨まれようと、憎まれようと。
引き金に掛かった指先に、力が籠る。
先生を捉える瞳が、ゆっくりと絞られた。
「――全部終わらせるって、決めたから」
「ヒナ……!」
目前で、先生の表情が歪み、叫んだ。口を突く呼びかけには、悲壮な色が混じっていた。それは罪悪の所在を知り、それでも尚突き進まんとするヒナを案じた為に出た言葉だったのだろう。
分かっている、こんなのは唯の我儘。
もう、苦しまなくて良い。
もう、傷付かなくて良い。
もう、頑張らなくて良い。
その果てに辿り着いた結論が、自らの手で大切な全てを屠る等と――矛盾しているにも程がある。
しかし、生きる事が苦痛となるのなら、救う力が自らに存在しないのならば。
それをせめて終わらせたいと願う事は、それ程歪な事だろうか。
「――先生はどんな時でも、どんな状況でも、いつも優しいね」
先生が響かせた叫びに、ヒナは寂し気に口元を緩める。世界を跨いでも変わらない先生、優しい先生、暖かな先生。いつだって必死で、生徒の為に全力を尽くして、わが身を顧みずに。
だから空崎ヒナは、同質の覚悟を以て応えるのだ。
それが例え、捻じれた歪んだ
「先生の
本当に大切だと思うから。
だから。
「――安寧の内に沈んで、先生」
突き出した銃口が小さく震え、彼女の細い指先が引き金が絞った。先生の表情が強張り、異なる世界のヒナ、その唇がきつく結ばれる。本能が、全力で警鐘を鳴らしていた。異様に高まった集中力が、その所作一つ一つを細かく区切り、時間が遅く感じられる程に。
「ッ、あァアア――ッ!」
耳をつんざく銃声、閃光、臓物を揺らす様な重低音。
大きく震える銃身に、しかし飛びつく影があった。
半ば床に埋まり、必死に腕を伸ばしていたヒナ。彼女は痛みに痙攣する指先を、脱力した四肢を驚異的な精神力で動かし、異なる世界のヒナ、彼女の突き出した愛銃へと組み着いた。迷いも恐怖も捨て、先生を守る為に一心不乱で力を籠める。
「――ッ!?」
その行動は、彼女をして予想外だった。突き出された銃口が大きくぶれ、その両足が蹈鞴を踏む。暴れた銃口は上下左右に揺れ動き、ヒナは高熱を発するバレルを抱きかかえながら歯を食い縛り、必死に銃口を抑え込まんと叫び続けた。
『先生――ッ!』
「っ……!」
シッテムの箱越しに、アロナの絶叫が響く。暴れた銃口は出鱈目な軌道で銃弾を撒き散らし、黒々とした神秘を纏った破滅的な弾丸が複数、先生の周辺に着弾、爆ぜるような小爆発と共に金属片を撒き散らした。
シッテムの箱による身体制御が瞬時に反応し、飛来する弾丸の軌道を読み取って直撃する弾丸にのみ、回避行動を取らせる。先生の身体はほんの一瞬、限界を超えた反応速度を以て飛来した数発の弾丸を避けた。数発が頭髪を千切り飛ばし、耳元を掠める、だが人間である先生の身体が銃弾よりも早く動く等、土台無理な話である。
吐き出された弾幕は地面から天井へ、まるで掃射するが如く容赦なく空間を抉り取っていた。加速された思考の中で、未だ飛来する複数の弾丸を知覚する。数発は自身の身体に被弾すると演算結果が導き出される、しかし、先生に許された行動は決して多くない。
回避は不可能、ならば受ける他なし。義手を盾代わりに頭部を保護し、体を斜めにバイタルラインへの被弾を抑える。後は全て、天命に身を任せるが如く。
先生は歯を食い縛り、被撃の瞬間に備えた。
金属が弾けるような、甲高い音。
飛び散る火花、次いで怒号のような爆音と共に先生の立っていた周辺が蹂躙される。
まるで一瞬の嵐の如く飛来した弾幕は、容易く先生を飲み込み、爆散した破片と煙が吹き荒れ、視界は白い噴煙に包まれた。
「―――」
白煙と破壊の中に、先生の姿は掻き消えた。
撒き散らされた弾幕、発生した僅かな風が頬を撫でる。
白煙の向こう側は、何も見えない。
「――……ぁ、あ」
その光景を、結果を、熱した銃身を抱き締めたまま、ヒナは呆然と見つめていた。
表情は既に、絶望的な色に染まっていく。
撒き散らされた破壊痕、その威力の高さは誰よりも理解している。一般的な生徒であっても昏倒は必須、人間である先生は一発でも真面に喰らえば容易く人体を粉々にする。
その喪失を、確信してしまう程の威力。
ヒナは白煙の向こう側に、肉片と化した先生を想像した。力なく床を掻き、血の滲んだ指先が伸びる。涙は流れなかった、ただ処理しきれない感情だけが胸一杯に広がり、目を見開いたまま、喉を震わせる。
「せん、せ――……」
「……これで、良い」
異なる世界のヒナが、白煙を上げる愛銃を下ろし、薄らと震える唇で呟いた。
その声は、決して勝利の宣告ではない――寧ろ苦々しく、重く、沈痛な響きを伴う。
「これで全部、終わるから」
これ以上、苦しまずに、悲しまずに済むから。
或いは、それは自分を納得させるための言葉だったのかもしれない。
誰よりも苦痛の終わりを望みながら、誰よりも大切に想っていた人。その人物を自ら手を掛ける事など、想像を絶する痛みと苦しみを伴う。正気である筈がない、だが狂い果てた訳でもない。
いっそ狂気に身を浸す事が出来たのならば、どれ程楽であっただろうか。
大切だった、誰よりも、何よりも――。
畢竟、愛しているから殺めたのだ。
歪であっても、その根底には想いがあった。それだけは、確かだった。
「――まだだよ」
しかし、白煙の奥から声が響いた。
異なる世界のヒナ、その瞳が大きく見開かれる。
それは、この世界のヒナも同様であった。
両者殆ど同じタイミングで顔を上げ、白煙を凝視する。
その中に浮かび上がる朧げな影、ゆらり、ゆらりと揺れる輪郭は、視界を覆う白煙を裂きながら徐々に色を濃くしていく。
「……まだ、私は」
噴煙を纏い、露になる姿。
突き出された義手は掌の中心を穿たれ、小指と人差し指が欠けている。エンジニア部謹製の義手ですら放たれた弾丸の威力を吸収する事は出来なかったのか、黒々とした外装と共に内部機構が露出し、細かい火花が周囲に飛び散っていた。
同時に滴り落ちる赤、弾丸は先生の義手、右足の甲、左脇腹を大きく抉っていた。内部から滲む血が白いシャーレ制服を汚し、足を伝って地面に広がる。鼻から、口から、滴る血は顎を伝って胸元に血痕を残す。衝撃は臓物を揺らし、骨を砕いたに違いない。
だが、それでも尚、痛みを感じていないと云わんばかりに立ち続ける――先生。
「斃れては、いない」
その声は余りにも超然としていた。
彼の身体を突き動かしているのは生への執念ではない、何かもっと悍ましい――呪いに等しい、何か。
「――……あり得ない」
思わず、異なる世界のヒナは愕然とした声を漏らした。堪らず一歩、無意識の内に後退する。
致命傷の筈だ、元よりその肉体が朽ちかけている事は理解していた。だからほんのひと押し、僅かな負傷だけであってもその足を止めるには十分だと、そう考えていた。
何故、その出血で立ち上がる事が出来る。
斃れずに、言葉を発する事が出来る。
血だまりを踏み締め、進む音が静寂に響く。
「……一体、どうやって」
「……此処はナラムシンの玉座、あらゆる可能性が交わる場所」
「――!」
その言葉に合わせて、先生は自身の右手を覆っていたグローブ、その端を口で咥えゆっくりと脱ぎ捨てる。手首を弾丸が掠めたのか、裂けた皮膚からはとめどなく赤が流れ落ちる。右足の甲も同じだ、靴を射貫き空いた穴からは同様に大量の出血が見られた。穿たれた脇腹も、皮膚と筋肉が千切れ飛び、赤黒く染まった向こう側には臓物の色さえ覗くような気がしてくる。
だが、先生はそれら一切の負傷を顧みない。
痛みも、苦しみも、辛さも、まるで何一つ感じないと云わんばかりに――彼は淡々と喉を震わせるばかり。
「そこの
「………」
「少なくともこの玉座が崩れる、その瞬間まで」
血の滲んだ瞳と共に放たれた宣告、それにヒナは静かに息を呑む。
分かっていて――否、きっと理解していたからこそ。
「……そう、そういう事だったのね、先生」
零れた呟きは、殆ど独白であった。
漸く理解した、しかし理解したからこそ胸中にどうしようもない悲哀が入り混じった。
先生は、恐らく最初から――。
「貴方は、既に――……」
その続きを口にする前に、白煙を裂いた先生が右手を払う。グローブを取り払った指先は、既に黒く変色し、罅割れていた。
崩壊現象は身体の中心に食い込みつつある、耳を済ませれば聞こえるような気がした――徐々に消えていく心音が、自身の身体が崩れていく音が。
けれど最早、その崩壊を止める必要は無い。
憂う必要も無く、恐怖する必要は無く。
先生は握り締めた拳を、自身の額に擦り付ける。
堅く、堅く閉ざした瞼の裏で想起する数多の記憶。脳裏を駆け巡る生徒の声、笑顔、辿って来た多くの世界に置き去りにした、想い出。
分水嶺は疾うに過ぎた、故にこれは唯の感傷に過ぎない。
「寄り添える未来を願った、一ヶ月だけ、いや一週間、一日でも構わない――ほんの少しでも、
囁きの如く、零れ落ちた声は掠れていた。血に濡れた唇から漏れる、祈りにも似た告白。
だがそれは、心の弱さから出た後悔ではない。
燃え尽きかけた生命の奥で、なおも揺るがず一層煌めく意志の灯火。
共に在れるのならばそれが一番良かった、最善の未来だった。自身を含めた遍く全ての生徒が笑い合える、そんな未来を迎える事が出来たのならば、どれ程素晴らしい事だったか。
けれど、世界はそう甘くはなかった。
四肢を覆う黒色が、じわりと蠢く。その度に亀裂は増え、先生の身体に白が走る。それこそが代償、可能性を掴む代わりに身体を蝕む、不可逆の現象。最早たった一度の奇跡を起こす事すら出来ない、消えかけの存在。
しかし、侮る事なかれ。
――
「勝つよ、私は――【私達】は」
重く、強く、何よりも毅然とした声色。
今尚、崩壊し続ける世界の
この道の果てが、悲しみで塗り潰されるとしても。
それでも、
「やっぱり、世界を跨いでも、先生は同じなんだね……」
異なる世界のヒナが、ぽつりと声を漏らす。揺れる瞳は、動揺によるものではなかった。ただ、目の前の先生に嘗ての姿を幻視したからだ。
その声も、姿も、決意さえも。
「世界の為に、誰かの為に、例えその身が朽ちようとも――貴方は」
彼女にとって、それは二度目の喪失に他ならない。
唇を噛み締め、声を震わせながら目を瞑った彼女は、ただ小さく、何かを呑み込む様に奥歯を噛み締める。
「せん、せい―――……?」
未だ覚束ない四肢をそのままに、再び床へと這い蹲ったヒナは、目の前の光景に言葉を失っていた。先生の身体は血に浸されたかの如く傷に塗れ、義手は内側を晒し火花が散っている。滴る赤は足元に刻一刻と血だまりを作り、その出血量は既に危険な域に達しているだろう、下手をすれば抉れた脇腹から臓物が零れ落ちそうだ。どう考えても平然と立っていられる筈がない――それは、誰の目から見ても明らかであった。
それでも尚、先生はその場に佇んでいる。
その姿が、自身の知る理を超えていた。
動揺を理解するからこそ、異なる世界のヒナは這い蹲る自分自身を一瞥し、低く、唸るような声で告げる。
「確かに先生は、これまで幾つも奇跡を起こして来た――でもね、どんな奇跡であっても、死人を生き返らせる事は出来ない」
「っ……」
放たれた言葉が、ヒナの温度を一瞬で奪う。痛みに顔を顰め、拳を握り締めたヒナがぎこちなく顔を上げる。冷然と前を見据えるもう一人の自分を仰ぎながら、必死になって問いかけた。
「何を、云って……!」
「存在を別の器に移し替える、次元を超える、そういう事はある――でも、一度失われた生命は蘇らない」
それは、『救えなかった』痛みを知る者の声に他ならない。
空崎ヒナは自身の世界に於いて、復讐の為に走り抜けた。死せる者に報いる為に、その償いをさせる為に。『死』という絶対的な負債を埋める方法は二つある、一つは死者を蘇らせるという方法。もう一つが、命を奪った者に同等の償いをさせる方法。
しかし、死者を蘇らせる方法など――この世に存在しない。
死を、無かった事には出来ない。
失われた生命は元には戻らない、どれだけ願っても、祈っても、絶対的な線引きの向こう側から、真理の壁を超え復活する事は叶わないのだ。
それはどんな世界でも同じ、絶対不変の法則。
「もし、過去に一度でも、
異なる世界のヒナは、視線を逸らす。
その先には、巨大な鉄仮面を被り、ただ沈黙を通す――プレナパテスの姿がある。
彼はどの様な状況に於いても言葉を発さず、無感動で、無表情で、まるで無機物の如き冷たい、色のない気配を纏うのみ。目の前の先生とは、余りにも異なる。
だが、それこそ死が齎す結末なのだ。
「
すでにその結末を見てきた者の声は、重い。
冷たくて、昏くて、痛くて、苦しい――死とは、そういうものだから。
「ねぇ、先生」
呼びかけに、先生の顔が上がる。流れる赤を拭う事もせず、ゆっくりと垂らした義手から零れ落ちる外装。甲高い音を立てて跳ねた金属片が血だまりに沈み、その裾を汚した。
「貴方は、自分のその姿を見て」
血塗られ、光沢を放つ唇を閉ざし、先生は沈黙を守る。
此方を捉えるヒナの瞳だけが、真っ直ぐ此方を捉えていた。
「――まだ生きていると、そう云えるの?」
その問いは、刃のように鋭く、しかし悲痛な叫びを孕んでいた。
先生は、自身の赤に塗れ、傷だらけの身体を見下ろしながら、口を一文字に結ぶ。返す言葉は無かった、口が裂けても、これが正しき生者の姿など語れる筈もなく。
義手の指先が、自身の脇腹をそっと押さえつける。グシュリ、と音が鳴った。制服が吸った血を握り締め、溢れ出す赤。千切れた皮膚の奥に伸びた指先は、虚空に触れる。あるべきものが、其処にはない。放たれた高威力の弾丸は外側の皮膚や筋肉を抉り取り、臓物の端を掠めていた様だった。背後を振り返り床を探せば、飛び散った肉片が確認出来るかもしれない。
込み上げる不快感を呑み下し、先生はそっと息を吸い込む。
「――……貴方の、その身体」
片側の瞳が、ヒナの奥に佇むプレナパテスを捉えた。
冷たく、昏く、何ら反応を見せない巨大な影。幾重にも重なる飾緒、薄汚れた包帯に包まれた指先はピクリとも動かない。既に生体反応を持たないその肉体は、正しく屍の如く。人とも呼べぬ異形へと成り果てた。
けれど――。
「そこに至った理由が、私には分かるよ」
薄らと、口元に笑みが浮かんだ。
それは、事この立場に至って――本当の意味で、【彼】と同等の条件に至って。
気付いた事があったから。
「どんな姿に成り果てようと、塗炭の苦しみに喘ごうと、後悔と悲愴に塗れようと……」
それは、
苦難の果てに辿り着いた者の声。
「――守りたかったんだ」
その言葉を耳にした、A.R.O.N.Aの瞳が大きく揺れた。
プレナパテスの傍に寄り添い、無言を貫いていた彼女が不意に漏らした感情の欠片。システムの奥で、電子の意識が震える様に。微かな、けれど無視できない痛みが胸中に去来する。A.R.O.N.Aは咄嗟に口を噤み、空いた指先でプレナパテスのローブを掴んだ。
「アロナ」
『……ッ!』
血の絡んだ、先生の声が
「最後の、準備を」
『……先生』
アロナの声が、震える。掴んだ自身の制服が皺になる事も構わず、アロナはただ陽が沈み、暗がりに包まれた教室の中で向こう側に立つ先生を仰いでいた。
波音が聞こえていた。どこまでも続く水平線、足元を覆う水色が、どこからか揺れ動き、音を運んでくる。
「漸く辿り着いた、長い、長い旅路の果てに」
『……はい』
「文字通り私の、いや……私達の【全て】を賭ける場所が、此処だ」
血に塗れた義手が蒼白い火花を散らし、シッテムの箱を掴む指先が強く液晶に触れる。罅割れ、ノイズの走る画面。良く此処まで持ってくれたものだと深く、深く感謝する。薄らと浮かんだ隈が歪み、先生は大きく息を吸って天を仰いだ。
ナラム・シンの玉座は、暗がりに包まれている――視線の先には空も、星々の瞬きも、見えはしない。
だが先生は、その遥か先を見通す様に、告げる。
「多くの悲劇を生んだ、多くの祈りを、願いを背負った私はもう、立ち止まる事は出来ない」
『………』
「だから今度こそ、他ならぬこの世界で終わらせよう――私達の旅路を」
ゆっくりと、震える手でシッテムの箱を高く掲げる。罅割れた液晶の向こう側で、アロナは静かに目を閉じた。
暗がりに込む、青白い光。それを一身に浴びながら、先生は想う。
この先に、この苦難を乗り越えた先に、私達が求めた未来がある筈だから。
「あの日夢見た、未来の為に」
それこそが、
『――はい、先生』
涙を呑んだアロナの声が、優しく響いた。
涙を零すのは、違う気がした。
だって、この瞬間の為だけに先生は、自分は、共に走り続けて来たのだから。
覚悟はあった、あった筈だ、だからこそアロナは痛い程に歯を食い縛り、腹に力を籠め、震える指を叱咤しながらホログラムコンソールを一斉に展開する。零れ落ちる前に目元を何度も、何度も拭い、滲む視界の中で文字列と数字を追い、キーを叩く。
崩れゆく世界の中で、二人の決意は確かに重なっていた。
「先生、何をする気……?」
『――補完機能シャットダウン、身体制御に割り振っていた演算処理、全停止』
異なる世界のヒナが、身構え、強張った表情で問いかけた。予感があった、目の前の先生は必ず何かを仕掛けて来る――そんな予感が。
しかし彼は答えない、代わりにシッテムの箱を通じて、先生の中に声が響いた。
「ぅ――ッ!?」
瞬間、心臓は一際大きく脈動し、先生は大きく蹈鞴を踏む。強烈な吐き気、痛み、倦怠感、眩暈、今まで感じていなかった筈のそれらが一斉に雪崩れ込み、先生の身体は強張り、ぐらりと傾いた。
しかし、寸で踏ん張り効かせ、転倒を免れる。踏み締めた靴底が血だまりを踏み抜き、赤が舞った。全身が痛む、血走った目を見開き、歯を剥き出しにして耐える先生は――しかし、笑う。
それは本来死んでいる筈の身体機能、痛覚が、嗅覚が、視覚が、戻って来たが故に。
あらゆる可能性が交差するこの場所にのみ許された、一時的な現象。歪んだレンズ越しに世界を見る様に、徐々にピントが合い、鼻腔を擽るのは強烈な血の香り。
慣れ親しんでいた筈のそれは、しかし今の先生にとっては酷く新鮮に感じられた。
そうか、何かを感じるとは、こんなにも。
堪え切れず、口から爆ぜるような吐息が漏れ、口一杯に広がる鉄の味。咄嗟に掴んだ胸元から響く鼓動が徐々に――徐々に力なく、掻き消えていく。自身の生命を担保していた存在が消え、身体は生命活動の一切を止める。
鼓動は止まり、軈て呼吸も、体温も、何もかもが失われるだろう。
しかし、それはまだ――もう少し未来の出来事だ。
「せ、先生――……!?」
ヒナの声が、耳に届く。先生は口元から唾液と血の混じったそれを吐き捨てながら、丸まった背を無理矢理にでも正す。虚勢だ、けれど今はそれこそが必要だった。
視界に、此方に手を伸ばすヒナが見えた。不安げに、蒼褪め、何が起こっているのか理解出来ないと云わんばかりに。大丈夫と、口ずさんだ。呟きは掠れ、彼女に届く事は無い。
『オーバークロック、シッテムの箱、制約解除要請』
「――承認」
『……確認しました』
アロナの努めて感情を押し殺した声に、先生は腹の底から絞り出すように答える。生命維持の為に使用されていた、シッテムの箱、その演算領域。
それらを全て使用し、此処から地上まで届くような『大規模戦闘支援』を行う。
制約解除、本来であれば不可能なレベルの演算処理を、シッテムの箱、その性能を最大限発揮し疑似的に行うのだ。これは本来、A.R.O.N.Aレベルの存在が二人必要な程の負荷を齎す。当然、アロナ単体での負担は莫大なものとなり、シッテムの箱そのものの損壊さえ覚悟しなければならない。防壁の展開など以ての外――所有者を危険に晒し、シッテムの箱の破損さえ受け入れ、アロナの負担を度外した
それこそが――。
『――大決戦プロセス、【ペレツ・ウザ】』
抱えたシッテムの箱が一際強烈な光を放ち、ナラム・シンの暗がりを一掃する。異なる世界のヒナが余りの眩さに顔を背け、這い蹲ったヒナは強烈な閃光の中、自身のヘイローにノイズが走り、何かとリンクするような感覚を得た。手足の先が痺れ、視界が瞬く。それは馴染みある、暖かな感触。何かを口ずさもうとして、網膜に投影された様々情報、手足に巡る確かな充足感が、彼女から言葉を奪った。
光はアトラ・ハシース全体を波の如く通過し、そのまま地上をも照らす。各地に散ったサンクトゥム――そこで今尚戦い続ける生徒達に
教室に佇むアロナは、そのヘイローにノイズを走らせ、今なお血に塗れ立ち続ける先生を仰ぎ、叫んだ。
『限定稼働を、開始します――ッ!』
■
【ウトナピシュティムの本船 デッキ】
鼻腔を、微かに焦げ付いたような香りが掠めたような気がした。
モニタ越しにも見える光弾、それらが船体の横を掠め、時折防壁に阻まれ閃光を放つ。外界では未だ激しい攻防戦が続き、船の外殻装甲を叩く音は僅かずつであっても増加傾向にある気がした。
尤も、船内への侵入を許していないだけ御の字であろう、巨大なウトナピシュティムの本船を遠方からの射撃含め、全て防御するなど土台無理な話である。幸い電磁防壁の強度は十分であり、自律兵器程度の火器で突破するのは非常に困難である様だった。
それでも、時折飛来し弾ける紫色の光は何とも心臓に悪い。自分達が敵の砲火に晒されているのだと視覚的に訴えて来る。
「ったく、ホント嫌になりますね、目に見える形で戦力差があると、やる気がどんどん削がれていく気がしますよ……ッ!」
「口を動かす暇があるのなら、手を動かして頂戴――ッ!」
カヤが椅子から身を乗り出し、迷いのない指先でコンソールを叩く。
指先が跳ねるたび、ホログラムインターフェース上に複数のウィンドウが開閉。船体の損害と味方部隊の状態を確認しながら、一部防衛線の戦闘指揮も担う。デッキには複数のAMASがオペレーター代わりに配置されているが、やはり人の手で担う事柄も多い。
彼女の隣では、リオが仮想戦術モニタに並ぶ青と赤のマーカーを凝視していた。
AMASの識別信号――味方機の反応が、一つ、また一つと途絶えていく。カヤは消失していくマーカーに舌打ちを零しながら、咄嗟に振り返り叫んだ。
「AMASのグループ四番から七番までシグナルロスト! 周辺のAMASだけでは抑えきれませんよ!? アビ・エシュフに移動指示を出してはどうです!?」
カヤの声がデッキに響く。リオは唇を噛み、一瞬インカムに指先を添える。しかしややあって言葉を呑み込んだリオは、コンソールを叩き格納庫の現在状況とアビ・エシュフの状態、最前線に送り出したアバンギャルド君の損傷具合を確かめ告げた。
「現状の戦力であと二分耐えて、格納庫で修復作業中のAMASがもう少しで出撃可能よ……! トキは既にアビ・エシュフのスペックを殆ど理論値まで引き出しているの、これ以上の負担は耐えられないわ!」
「そう云われましても、これで二分耐えろって――」
悪態を吐きそうになり、寸でカヤは声を呑み込んだ。モニタに表示される戦術マップは、絶えず変化している。自律兵器やAMASを模したドローン群はシグネチャーを変化させ、索敵網をすり抜けて侵入しようと試みる個体も存在する。AIによる射撃補正を欺くため、電子擾乱を断続的に発しているのだ。
まるで知性を持つ昆虫の群れの如く、塊となって突っ込んで来る無数の反応にカヤは口元を大きく歪めた。
――最悪、自分達が自ら防衛に出る事も考えなければ。
「全く、現場仕事なんて、私の役割ではないのですけれど……!」
吐き捨てながらも、カヤの手は止まらない。前線のAMASに指示を出し、兎に角時間を稼ぐ為にアバンギャルド君を中心とした防衛線を構築。ふざけた外見と名前だが、そのスペックは本物で、強固な盾と武装による殲滅力、防衛能力は驚嘆に値する。万が一に備えHUD用の光学投射デバイスを起動し、予備の携行端末を腰に装着。愛銃を手に取ると、弾倉を検め弾薬が詰まっている事を確認し、ホルスターへと戻す。
――まぁ、この船に搭乗した時点で今更な話ですか。
内心で呟き、大きく息を吐き出す。自分でも何故こんな事をと冷静に問いかけるが、世界の危機等と云う好機が舞い込んで来たのだ。防衛室長としての復権、絶対的な名声の獲得――超人という夢への挑戦。
その為ならば命を賭ける程度の事、何て事は無い。
「――……後は先生、突入部隊の仕事ですね」
カヤの視線は、ホログラム上に展開された作戦タクティカル・ボードに落ちる。幸い突入部隊は未だ健在。生体モニタリングによって各生徒の心拍変動、皮膚電気反応、体温、呼吸数、位置座標が逐一更新されていく。少なくともコレが反応を示している間、突入部隊は無事という訳だ。
流石に戦闘が激しいのか、大きく変動する事も散見されるが、途絶する状況には至っていない。
自分達が何とか時間を稼ぎ続ければ、必ず――。
カヤがそう思考すると同時、並んだ生体情報の一つ――中央に表示されていた『先生』の識別コードが、大きく瞬いた。
「……!」
その瞬きは、設定した値以上に変化が生じた場合、オペレーターに知らされる危険信号。
まさか、攻撃を受けたのか、カヤが先生の項目に指先で触れ、彼の詳細な情報がモニタ全体に広がる。
呼吸はある、
だが一拍の間を置いて、表示されていた心拍数が一気にゼロへと変化する。その瞬間、滅多に耳にする事が無いビープ音が鳴り響き、項目が全体的に赤く点滅した。
――生存から
「――は?」
間の抜けた、カヤらしからぬ声が漏れた。伸ばした指先が凍り付いた様に、硬直する。
光弾が外殻を叩く無数の衝撃音、そして視界に瞬く閃光。忙しない戦闘音だけが、無機質に響き続けていた。