ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ~!
今回約三万三千字ですの!


【ただ信じ、愛したのです】

 

【第四サンクトゥム トリニティ自治区・カタコンベ】

 

 湿り気を帯びた冷気が肌を撫で、地下深くに積もった古い石灰の匂いが鼻の奥を刺す。閉ざされた大空間には、各所で響く銃声の残響だけが鼓動のように反復していた。大広間手前、比較的スペースのある回廊の一つに陣取ったハナコは、手元の愛銃に新しい弾倉を装填しながら傍の生徒より報告を受ける。

 

「第四通路を通っていた迂回班が接敵、互いに膠着状態のまま突破出来ず、そのまま後退するとの事です」

「狭隘区画突破は成りませんか――第六、第八通路は?」

「第六番通路も接敵後に撤退中、第八通路はまだ報告が……」

 

 崩れ落ちた瓦礫の残骸に身を沈めながら、ハナコはシスターフッドより齎される報告に対し小さく息を吐いた。

 歪んだ石の影が頬を掠め、足元に投げられた複数のケムライトが薄ぼんやりとした光を放っている。

 ハナコの隣で同じように残骸へと身を預けたサクラコは、轟く銃声とマズルフラッシュに目を細めながら険しい表情のまま言葉を零す。

 

「……どうやら、此方の考えはお見通しの様ですね」

「えぇ、我ながら――と云うと、少々傲慢に聞こえますが」

 

 静かに云い、ハナコは手元に視線を落とす。喉奥で自嘲が燻った。

 

「流石、同一存在(浦和ハナコ)という事でしょうか」

 

 呟いたハナコの眼差しは、遠く、暗闇の向こうへと伸びる。そこには、恰好こそ異なれど自分と同じ思考を持つ筈の、異なる世界の自分がいる――数度撃ち合い、結局決着をつける事が叶わなかった今、互いに戦力の最奥へと踵を返し、こうして腹の読み合いへと転じていた。

 現状は殆ど膠着状態と云って良い。先ほどから向こうの対応と此方の策が、噛み合い過ぎていた。大きな被害はなく、かと云って大きな進展も無い。それは此方側からすれば、ほぼ敗北に等しい。

 

「視界不良に加えて、この閉所、銃声の反響が酷い上に、地の利は完全に向こうが握っています、あの信徒達が五感で私達を察知しているのかさえ不透明なのですから、サーマルや暗視装置程度の索敵能力があっても可笑しくはありません」

「いっその事、前進軸を変えるというのは? 他攻略部隊の進行状況は分かりませんが、時間は私達の敵です、何らかの形で突破口を作らなければ……」

「えぇ、それも一つの手ではありますが――」

 

 敵の姿を伺いながら放たれるサクラコの意見に、しかしハナコの表情は晴れなかった。彼女の言葉は正しい、現状進展が無い事が一番の問題である。攻め方を変えるというのは尤もな意見だ、迂回路を探す手を止めて真正面から攻めかかるというのも一つの手段ではある。

 しかし――。

 

「これだけ撃ち合っているというのに、相手方の戦力は減っている様に見えません、あの個体がエデン条約の折発生した複製と同じ性質であるのなら……いえ、同じであると考えた上で動くべきでしょう」

「ではやはり、その出現は無尽蔵である……と」

「はい、そうなると正面からの力押しは聊かリスクが高く――」

「ハナコ!」

 

 それは他に案が出尽くした、最終手段にしたい。そんな言葉を呑み込むハナコの耳に、鋭い呼び声が届いた。緊迫した空気を纏う声、回廊の奥より反響した声が幾重にも折り重なり、ハナコは咄嗟に振り返る。

 

 見れば、暮明の奥より補習授業部の面々が駆け込んで来るのが見た。その姿を確かめた瞬間、ハナコは立ち上がりサクラコへと目配せをする。

 

「サクラコさん、少しの間お願いします」

「えぇ、分かりました」

 

 頷き、サクラコはそのまま報告席に留まり、ハナコは仲間達の元へと歩み寄った。

 

「アズサちゃん、コハルちゃんにヒフミちゃんも、ご無事で何よりです」

「あぁ、幸い接敵は無かったからな」

「アズサちゃんが先陣を切って、慎重に進んでくれたお陰です……!」

「ま、まぁ、万が一敵と遭遇したとしても、全然余裕だと思うけれど?」

 

 言葉こそ強気であったが、ハナコの前に立った皆の肩からは緊張が目に見えて抜けていく。唯一アズサだけは常に警戒を怠らなかったが、それでも幾分か強張りが抜け落ちたのは確かであった。

 ハナコも無事な補習授業部の姿に、胸に手を当てて安堵の息を吐く。多少汚れや擦り傷はあるが、既にそれなりの時間銃撃戦を繰り広げているのだ。誰もかれも、似たような状態であった。

 

「ハナコ、指示された通り第八通路を皆で確認して来た」

 

 アズサの声は冷静だった。

 彼女達がこの場に戻って来た事から、凡そ報告の内容を察したハナコの眉がわずかに動く。

 

「それで、撤退して来たという事は――」

「はい、老朽化で通路が瓦礫に埋まっていて、複数人で通れる様にはとても見えなくて……」

 

 ヒフミが爪先で石畳を小突きながら、申し訳なさそうに告げる。石壁や天井の崩落は、この地下墓所で最も一般的な拒絶の形でもある。

 つまり第八通路は事実上の封鎖、突破の可能性は非常に薄い。

 

「一応瓦礫の隙間とかも探してはみたんだけれど、人が入れるような隙間は無かったと思う、こんな閉所で爆発物を使って吹き飛ばす訳にはいかないし……」

「あぁ、あの通路を使うのは現実的ではないだろう」

 

 コハルに続き、アズサは深く頷いて見せる。その判断は全員共通のものであるようで、ハナコは難し気な表情を浮かべながら手元の端末を点灯させた。画面に映るカタコンベ内部のマップ情報、拡大を繰り返しながら視線で第八通路をなぞる。

 

「第八通路も駄目となると、それこそ区画そのものを迂回する他ない――或いは、マップ情報に無い様な抜け道や、穴があれば別ですが」

 

 しかし区画を迂回するとなると、大幅に時間を喰うのは確かである。その選択を取った時点で攻略作戦の足並みは確実に狂う。作戦全体の遅延、乃至とん挫は絶対に避けなければならない事態であった。

 また、迂回部隊がサンクトゥム及び、敵中枢に到達する間最前線を支える立つマリーやヒナタ達、本隊の負担が大きすぎるように思う。時間は掛けられない、しかし取れる手段は限られている。様々な条件を脳裏に並べながら、ハナコはあらゆるシチュエーションを想定する。

 

「いよいよとなれば手段を選んではいられませんが、真正面からの力押しとなれば、此方の被害は避けられませんね」

「………」

 

 苦い現実を前に、補習授業部の空気が重く沈む。しかし純粋な力押しを始めるのであれば、可能な限り此方が余力を残している間に、或いは時間的ロスが少ない間に決定するべきである。

 今がその時なのか、それともまだ別の道を模索するべきか――沈黙の中、電子マップと睨み合うハナコ、彼女をじっと見つめていたアズサは不意に沈黙を破る。

 

「ハナコ」

「……?」

 

 呼ばれて顔を上げると、アズサの眼差しが直ぐ傍にあった。彼女は一歩二歩と遠慮なく距離を詰めると、ハナコの手元を覗き込み、マップを指差しながら告げる。

 

「ひとつ、提案がある」

「……提案、ですか」

「あぁ、カタコンベの構造には多少覚えがあるからな」

 

 アズサの指先がマップに触れ、第八通路の手前、僅かに幅広い主走廊を示した。

 

「先程第八通路に向かう途中、主走廊脇の納骨棚(コロンバリウム)内部に私達が通れる位の短絡通路がある事に気付いたんだ」

「……!」

 

 その言葉を耳にした瞬間、ハナコの瞳が僅かに揺れた。コハルが膝を打ち、思い出したかのように指を立てる。

 

「あっ、もしかしてアズサが這って入った、あの小さい穴みたいな奴?」

「そうだ、ヒフミとコハルの力も借りて軽く内部も調査したから、間違いない」

 

 コハルの問い掛けに、アズサが静かに頷く。確かによく見ればアズサの胸元やスカートは砂埃を被っており、這って入ったというのが嘘でも何でもないというのが分かった。彼女の仕草は自信に満ちたもので、これも単なる思いつきではないのだろう。確かな勝算を得た上で口にしているに違いない。

 

「あの短絡通路は、恐らく地下水路に通じている、かなり荒い造りだったが、大柄な生徒でもなければ問題なく通れる」

「……地下水用の通路、でしょうか」

「恐らくはな」

 

 頷き、漏れる声音は慎重ながらもどこか手応えを掴んだ者のもの。アズサの細い指先がマップ上では何もない空白地帯をなぞり、まるで見えない通路を描く様に走る。

 

「上からサッとライトを当てた程度だが、水の流れと空間の形から、サンクトゥム方面に伸びている事も確認している、上手く行けば地下聖堂、礼拝室の裏側に出られるかもしれない」

「それは……」

 

 ハナコの気配が、微かに揺れた。

 唐突に投げかけられた可能性は、あまりに大きい。

 

「もしその話が本当ならば、これ以上ない進行ルートですが」

「あぁ、だから――補習授業部のみで、敵の背面を強襲する作戦を提案する」

 

 その一言に、微かな期待を孕んでいたハナコの口元が一気に引き締まった。

 

「わっ、私達だけで、ですか!?」

「えぇっ!?」

 

 ヒフミとコハルが同時に声を上げ、思わずといった風にアズサを見る。彼女達もまさか、自分達だけで出向くとは思ってもみなかったのだろう。

 

「あ、アズサちゃん、流石にそれは――!」

「あぁ、かなり危険な作戦になるだろう、ハッキリ云って賭けに近い」

 

 慌てた様子でアズサに語り掛けるヒフミに、彼女は努めて冷静に頷きを返す。アズサ自身、その危険性を理解したうえで口にしている。しかし瞳は揺らがず、姿勢は泰然と動じず。こういった状況は慣れ切ったと云わんばかりに、アズサは更に言葉を重ねた。

 

「だが上手く行けば――馬鹿正直に正面から突撃するよりは、被害はずっと小さく済む」

「………」

「敵の部隊指揮は全て、【向こうのハナコ】が執っているのだろう?」

「――えぇ」

 

 問い掛けに、ハナコは苦々しい表情を浮かべる。

 しかし、事実として頷くしかない。

 

「連中の戦力が未知数な以上、出来る事は限られている、ならこれはそれほど悪い賭けじゃない」

「そ、それって――」

「うん、向こうのハナコひとりを制圧すれば、敵性勢力全てを無力化出来る」

 

 アズサの狙いは、少数精鋭による敵中枢の無力化――つまりあの、ユスティナ聖徒会の複製と思わしき存在を指揮する、もう一人の【浦和ハナコ】、その無力化。

 理屈は分かる、それが出来るのならば確かに今打てる手の中では上等の類。

 しかし、ハナコは胸の奥で燻る不安を抑え込めない。今しがた提案された作戦、そのリスクとリターン、現状の戦力と自身の感情を織り交ぜながら、ハナコはタブレットの表面を指先で何度も小突く。

 

「話は分かりましたアズサちゃん、ですが補習授業部単体での作戦遂行は危険が大きすぎます、せめて万が一の事態に備え、他の部隊を随伴させても……」

「分かっている筈だハナコ、即座に対応出来る連携能力を持ったメンバー、そして敵方に察知されない極少数である事が作戦の前提条件になる、そもそも水路幅が二メートル程度しかない道が続いていた、二部隊以上の投入は現実的じゃない」

 

 アズサの声は淡々としていて、その端々には経験に裏付けられた確信が滲んでいた。

 水路という足場、数人が横に並ぶ事も難しい閉所、そして前線の状況。それらを総合的に鑑みた時、個人の戦闘力と併せて補習授業部という存在は殆ど単体で完結している。アズサの云う通り、この作戦に最も適しているグループは補習授業部だ。

 頭では分かっていた、理性も肯定を示している。

 しかし、どうにもハナコは素直に頷く事が出来なかった。

 

「……アズサちゃん、私が想定していた迂回路は、全て封鎖されているか、敵の待ち伏せに遭遇しています」

「うん、けれどそれは『ハナコが想定したルート』の場合だろう?」

 

 投げかけられた疑念に、胸を張るようにして、アズサはわずかに鼻を鳴らした。

 

「このルートを発見したのは、私だ」

 

 だから、予測される可能性も他と比べれば低いと。

 アズサの言葉は、確かに事実であった。ハナコは沈黙を守る、純粋に策を練っているのか――いいや、表情を見れば分かった。苦々しい色が消えず、純粋に補習授業部単体での作戦遂行を許したくないのだ。それは公平な観点から導き出されたものではない、浦和ハナコの個人的な私情から来るものであった。

 それを暫し見守ったアズサは目線を落とし、頬を掻きながら呟く。

 

「場合によっては、私単独でも遂行は可能だけれど――」

「あ、アズサちゃん、それは駄目ですッ!」

 

 咄嗟に、ヒフミが叫ぶように彼女の言葉を遮った。柔らかな指先がアズサの掌を取り、冷汗を滲ませながら宣言する。

 

「アズサちゃん一人に、そんな危険な事はさせられませんッ! わ、私も一緒に行きます!」

「ヒフミちゃんまで……」

「あ、あのさっ」

 

 コハルが、ふっと遠慮がちな声を上げる。恐る恐る挙がる掌が、皆の視線を遮って注目を集めた。小柄な体を更に縮こまらせ、おずおずと口を開く。

 

「正直、その、私は作戦の事とか、良く分からないけれど」

 

 言葉を選びながら、しかし彼女なりの勇気を滲ませて。

 

「その、アズサの云った作戦が上手く行けば、皆が助かるって事で良いんだよね?」

「……そう、ですね」

 

 ハナコは小さく頷く他なかった。もし全てが上手く行くという前提であるのならば、皆が助かるという言葉は嘘でも何でもない。

 

「少なくとも今の状況は打開出来るでしょう、相手は時間稼ぎに終始しているのか、あるいは此方の出方を伺っているのか積極的な攻勢には出ていません」

「つまりそれは、サンクトゥム破壊を目標とする私達にとっては非常に効果的な作戦という事だ」

「……えぇ、アズサちゃんの云う通りです、今後も相手が積極的に攻勢へと転じる可能性は限りなく低いでしょう――」

「なら、やるしかないじゃない!」

 

 コハルが一歩前に踏み出し、云い切る。先程の弱々しさなどまるで感じさせない、皆が助かるのであればやるべきだと。その一言には、迷いを吹き飛ばすだけの勢いがあった。一転し、力強く拳を握り締めるコハルを前にしてヒフミは目を瞬かせる。

 

「こ、コハルちゃん、良いんですか?」

「だって、この作戦は補習授業部(私達)にしか出来ない事なんでしょ?」

「確かに現状の部隊で、少数による背面強襲を行うのであれば補習授業部が一番成功の可能性があります、けれどコハルちゃん、この作戦は本当に危険で……」

「危険なのは、この作戦に付いて来た皆一緒!」

 

 それに、と。

 コハルの瞳があまりにも真っ直ぐ――そしてハナコからすれば、逃げ場を塞ぐように――此方を見据えていた。

 

「私達ならやれるって、ハナコは、そう信じてくれるでしょ!?」

「―――……」

 

 一切の疑いなく、躊躇なく。

 まるでそれが、当然の事であるかのように放たれた言葉。

 ハナコは一瞬、完全に返す声を失った。信じる――信頼、それを補習授業部に抱いているか否か。当然、抱いているとも。だが不安がある、恐怖がある、彼女達を自身の手が届かぬ場所へと送り出す事への恐れが。

 その恐怖は、不安は、補習授業部を信頼していないから生まれるものなのだろうか?違う、そうではない。

 浦和ハナコにとって、補習授業部が何よりも大事だから――。

 胸の奥が強く熱く締め付けられるような感覚が残り、ハナコは一瞬胸元を握り締めた。

 

「――殺し文句、ですね」

「えっ」

 

 思わずハナコの口から漏れた声は、僅かな痛みを含んでいた。口元に歪な笑みを浮かべたハナコは二度、三度、呼吸を挟み改めて補習授業部と向き合う。決断には、ほんの僅かな逡巡が必要であった。

 

「分かりました、これは無茶な作戦かもしれません……いえ、実際かなり無茶な作戦です、普段の私ならば、絶対に選ばない道でしょう」

 

 ゆっくりと息を整えながら、ハナコは補習授業部の面々を順に見渡す。皆の顔に宿るの覚悟、不安、期待。それらがせめぎ合い、迷いながら――しかしそれに勝る勇気が足を前に押し出していた。

 

「ですが、だからこそ向こう側に立っている【浦和ハナコ】(私自身)の裏を突ける可能性がある――そうですね、アズサちゃん?」

「あぁ、その通りだ」

 

 通常では選ばない道、リスクが高すぎる選択。しかしだからこそ向こうの虚を突ける可能性がある。それは確かに、否定できない。

 

「私はこの場所を離れる事が出来ません、ですから……」

「勿論だ、ハナコは此処で指揮を執りつつ、どうか朗報を期待していてくれ」

 

 ハナコが沈痛な面持ちで告げれば、アズサは自信に満ちた笑みを浮かべ軽くハナコの肩に触れる。シスターフッドが未だユスティナ聖徒会を相手に瓦解せず持ち堪えているのは、彼女達の戦闘能力は勿論の事、ハナコの戦況分析と流動的な部隊指揮によるところが大きい。彼女の重要性を理解しているからこそ、補習授業部の皆はハナコにこの場を任せ踵を返す。

 

「時間が惜しい、補給を済ませたら直ぐに出立しよう、ヒフミ、コハル」

「は、はいッ!」

「うん……!」

 

 水路を進む以上、多少の準備は必要である。または不測の事態に備えて、多少絡め手の類を用意しておくか。アズサが再び暮明の向こう側へと歩いていく中、ヒフミとコハルは最後にもう一度振り返り、声を張り上げる。

 

「行ってきます、ハナコちゃん!」

「何かあったら、直ぐ戻って来るから……!」

「はい、どうか十分に気を付けて」

 

 短い返答と共に、意志を固めた足音が暗闇に消えていく。

 その小柄な背中をハナコはただじっと、様々な思いを抱きながら見送った。

 

「――私は」

 

 思案に沈む、指先が愛銃のグリップを強く握り軋む。自分と同じ思考を持つ存在、浦和ハナコ(自分自身)との戦い。

 鏡に映った自分以上に分かり易く、同時にやり辛い敵など他にいない。

 

「……きっと、私ならば」

 

 噛みしめるような独白を最後に、ハナコは完全に暗闇の中へと消えて行った補習授業部を想い、踵を返す。向かう先はシスターフッドのトップ、サクラコ――全ては。

 彼女達の決断を支え、成し遂げるために。

 

 ■

 

「こっちだ、ヒフミ、コハル」

 

 湿った冷気が、皮膚を刺すような地下水路。その中に降り立ったアズサが周囲の安全を確かめた後、上方――狭い開口部から覗く二人を見上げ、静かに着地を促した。一時的に点灯させたライトが水面に反射し、アズサの姿を浮かび上がらせる。

 

「流れは速くないから大丈夫だと思うけれど、転倒しないように気を付けて」

「わ、分かりました……!」

「じゃあ、私から――っ」

 

 身を乗り出し、コハルがひらりと水路へと落下する。着地の瞬間、冷たい地下水が弾け、彼女は足元から突き抜ける冷たさに体を強張らせた。頭部と腰に生えた翼が一瞬大きく震え、ぶるりと身体が振動する。

 

「つ、冷たい!?」

「地下水だから当然だ、元々カタコンベ下層に侵出したものを流しているのだろう、深さはそんなにないから、その辺りは安心して良い」

「早く進まないと風邪をひいてしまいそうですね――ひうッ、た、確かに、これは……!」

 

 続いて降りたヒフミも、同じように着水し体を震えさせる。水位は丁度アズサの膝から少し下程度、長靴を履いていれば問題なく防水出来る程度の深さ。しかし、そんなものを持ち込んでいる筈も無く、精々簡易対策を施すのが限界であった。

 靴をビニールで保護し、靴下は脱いでバッグやポーチに保管。裸足で進む事は瓦礫や骨片がある危険性、また汚水による感染リスクから選べなかった。

 多少保護されているとは云え、肌に伝わる冷たさは骨まで沁みる。

 

「うぅ、こ、こんな格好で進む場所じゃない、絶対……」

「ウェーダーなんかがあれば良かったんだが、流石に水の中に入る事は想定していなかった、我慢するしかない」

 

 アズサは冷静に周囲を一度ライトで照らし、それから完全に光を消す。暗闇へと目を向け暫し目を慣れさせると、ゆっくりと前進を開始した。

 視界はほとんど利かない、先頭を行くアズサの肩をヒフミが掴み、ヒフミの裾をコハルが摘まむ。そうやって互いの位置を常に確認しながら、ゆっくりと足を動かした。水路内部に侵入する瞬間以外は、光を使わない――些細な光源であっても、察知される事を避ける為だった。

 

 湿気とカビの匂いが鼻につく、水が壁に当たって跳ねる音、そして自分達が水路を掻き分け進む音だけが響く。時折頬を冷風が撫で、風音が奥から反響して怪物の唸り声のようにも聞こえた。

 コハルの肩がぶるりと震える。今度のそれは、寒さからくるものではなかった。

 

「あ、あの、アズサ」

「うん?」

「この水路って、本当に出口に通じているのよね……?」

 

 堪らず、コハルは担いだ愛銃のスリングを掴みながら問いかけた。暮明では互いの表情すら分からない、しかしコハルの声は分かり易く震え、不安に満ちている。

 冷たさと暗さ、時折響く唸り声に似た風音が、永遠にこの水路を進む事になったらどうしようと、コハルの恐怖心を煽っていたのだ。

 その不安を察したからこそ、アズサは足を止める事無く、ハッキリとした口調で答えた。

 

「あぁ、水路には通気の為に必ず出口があるから安心して良い、それが相手の真後ろだったら最善だけれど、そればかりは分からない」

「多少逸れてしまっても、ハナコちゃんからカタコンベのマップは貰っていますし、きっと大丈夫です……!」

「うん、それにパドメーターもある、凡その位置特定は出来る筈だ」

 

 そう云ってアズサは自身の腕に括りつけた歩数計を指先で叩く。アリウスにて自身の歩数が何歩で何メートルなのか、アズサは把握している。方角と歩数、それと詳細なマップがあれば自分が今何処に居るのか把握するのは難しくない。

 

「兎に角早く進もう、私達の到着が早ければ早いほど、上で戦っているハナコ達の被害が抑えられる」

「そうですね……!」

「う、うん」

 

 黙々と、ただひたすらに足を動かし続ける。水の抵抗がある分、その歩みは普段と比べて鈍く感じられた。けれど流れに沿って歩ているからか、想像していたよりも疲労は無い。寧ろ流れの勢いに負けて転倒しないよう、踏ん張る分の方が体力を要した。

 水面が揺れる度、反響音が壁に絡みついて帰ってくる。

 

「や、やっぱり暗いと、ちょっと不安かも……べ、別に怖いって訳じゃないけれど」

「大分古い水路みたいですから、仕方ないですね」

 

 当然であったが、どれだけ進んでも水路に明かりは差し込まない。

 暗がりの中、言葉も最低限に抑えて黙々と進み続ける事は妙に精神を疲弊させた。

 先頭を行くアズサは平気な様子だったが、コハルとヒフミは肌に沁みる寒さも併せて、妙に心細く、骨身に染みる冷たさが何倍にも膨れて感じられた。

 

 ただ、水の抵抗を脚に感じながら、ひたすらに前へ前へと進む時間。

 一体、どれ程歩いただろうか。

 足裏が少しずつ麻痺するほど冷え、流石に体に震えが走り始めた頃――。

 

「っ、明かり――?」

 

 ふっと、視界の端に微かな光が見えた。

 水路の曲がり角、その先にぼんやりと霧のように明かりが差し込んでいる。

 暗がりを裂くそれに、コハルが息を呑む。俯きがちになり、段々と歩みも力ないものになっていた彼女は目を輝かせ、アズサとヒフミに語り掛ける。

 

「も、もしかして、出口だったり?」

「あぁ、かもしれない」

「行ってみましょう……!」

 

 暗闇の奥から差し込む光に吸い寄せられるように、三人は水路を心持ち速足で進む。バシャバシャと、水飛沫を立てながら走る三名は角を曲がり、明かりの出所へ視線を向ける。

 瞬間水路は途切れ、視界が一気に開けた。

 

「わぁ……!」

 

 覗き込んだヒフミが、思わず感嘆の声を上げた。

 薄らと張った水、等間隔で並んだ支柱、アーチ状に削られた高い天井、地下水路から辿り着いたその場所は薄暗く、狭く、黴臭い水路とは反対に、広く整然としていて、妙に幻想的に見えた。

 

 ゆらゆらと、淡い光を放つ光源の正体は――炎だ。

 支柱上部に打ち付けられた鉄製の燭台が、等間隔で周囲を朧気に照らしている。その絶妙な光加減が水面に反射し、暗すぎず、明るすぎず、そんな絶妙な光を此方に注いでいた。三名は周囲をそれとなく警戒しながら、恐る恐ると云った様子で部屋の中へと踏み込んでいく。

 

「き、綺麗……」

「――随分と広いな」

 

 湿った空気がふわりと肌に触れる。

 巨大な石造りの空間、天井は思ったよりも高い。アズサは周囲を見渡しながら支柱の影を順に銃口でなぞり、それからポツリと感想を零す。微かに揺れる水面の反射が柱の側面にうねる光を描き、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚に陥った。此処もカタコンベと同様、うち捨てられた廃墟に等しい筈だ。けれど目の前に広がる光景は、そんな廃れ、退廃的な印象を抱かせない。

 

「でも、何で明かりが……? このカタコンベって、普段全然人とか来ない所でしょ」

「はい、その筈ですけれど」

「そもそも、この空間は一体――」

地下貯水池(システルン)ですよ」

 

 背筋を撫でるような、冷たい声が響いた。

 瞬間、三人は即座に支柱へと身を隠す。殆ど反射的な所作だった、今まで潜り抜けて来た死線が、彼女達の身体に条件反射に近い防御行動を取らせたのだ。

 口を噤み、早鐘を打つ心臓を自覚しながら、支柱の影に身を潜めたまま声の出所を探る。

 ぱしゃり、ぱしゃりと。

 水音を立てながら歩み寄る影、場所は自分達とは対角線上。距離は凡そ、五十メートル前後といった所か。

 炎の淡い光に目を細め、補習授業部は強張った表情をそのままに人影を凝視する。

 

「ご存知の通り、このカタコンベは広大ですから、大きさだけで云えばちょっとした都市レベルの規模です、尤もこのシステルンは旧儀式用の水源として用いられていたものでしたが――元々は偶然、層が重なっただけの遺物に過ぎません」

 

 淡い水音と共に、炎に照らされた影が形をなしていく。

 露になる表情、喪服の如き黒を見に纏う桃色の髪を持った少女。彼女は目元を隠すベールをそのままに、薄らと微笑みさえ湛え補習授業部へと告げる。

 

「幻想的だと、そう思いませんか?」

「――ハナコ」

 

 そこに立っていたのは――紛れもない浦和ハナコ、その人。

 しかし、彼女たちが知るハナコとは違う、どこか陰りを帯びた存在。

 アズサが名を呼ぶ声は、警戒と疑念が入り混じっていた。

 身動ぎし、跳ねた水音が嫌に響いて聞こえた。

 

「ど、どうして向こうのハナコちゃんが、こんな所に……!?」

「まさか、私達が此処を通って来ると予測していたのか」

「そ、そんな……!」

 

 ヒフミとコハルが息を呑む。

 これは確かに偶然見つけた抜け道で、アズサが提案した作戦である。

 しかし、そんな事は関係なかったのだ――浦和ハナコの知性と才能を、自分達は甘く見積もっていた。

 それを今、まざまざと突きつけられた気分だった。

 

「別段、全てを予測していた訳ではありません、流石に私とて広大なカタコンベを細部まで把握している訳ではないので、私の時間軸(世界)ですともう少し老朽化が進んでいましたし……」

 

 補習授業部の戦慄を感じ取ったのだろう。ハナコはそっと肩を竦め、まるで過去の記憶と照らし合わせる様に周囲を見渡す。湿った石壁に反響し、耳へと届く声には情感がまるでなかった。

 

「けれどもし、私が把握していない崩落や浸食によって通路が繋がるとすれば、この地下貯水池(システルン)に辿り着く可能性が非常に高いと、そうは考えておりました」

 

 小さく、手を叩く。

 ハナコが鳴らしたその音と共に――周囲の支柱、その影からユスティナ聖徒会の影がゆらりと姿を現す。まるで幽鬼の如く、覚束ない足取りで輪郭を得た影達は、ガスマスクの濁ったレンズ越しに補習授業部を捉えていた。

 水音が混ざり合い、静かな空間へと一気に緊張が走る。十、二十、三十、それなりに広い地下貯水池へと人影が増えていく。朧げな炎が照らす影は補習授業部を囲う様に刻一刻と数を増やす。

 

「……ッ」

 

 どうみても、まともに戦える戦力差ではない。ましてやコレが無尽蔵の戦力だとすれば、戦えば戦う程不利なのは自分達だ。一歩、二歩、無意識の内にコハルとヒフミは今しがた来た水路へと後退った。

 

「どっ、どうしよう、ヒフミ、アズサ……!? この状況、撤退した方が良いんじゃないの!?」

「流石に、この数を相手にするのは――!」

 

 幸い、進行方向は遮られたが退路を断たれた訳ではない。全力で水路を逆走し逃走すれば逃げ切れる――かもしれない。少なくとも、馬鹿正直に撃ち合うよりは余程助かる確率が高い。

 そう考えた二人の視線に、しかし小柄な影が支柱より一歩踏み出すのが見えた。

 

「ヒフミ、コハル」

 

 水飛沫が上がり、踏み出した一歩の力強さを物語る。純白の翼が巻き上がった水滴を払い、炎に照らされた鈍い銃口が前方に立つユスティナ聖徒会の影へと――黒を纏うハナコへと突きつけられた。

 

「援護を頼む」

「えっ!?」

 

 放たれた言葉に、思わずヒフミとコハルは言葉を無くす。それは凡そ、自分達の予測とはかけ離れた言葉だったからだ。まさかと、喉を引き攣らせたコハルは蒼褪めた表情で叫ぶ。

 

「もっ、もしかして……アズサ、此処で戦うつもりなの!?」

「あぁ」

 

 返答は端的で、簡素であった。何ら動揺もなく、超然と返答するアズサの姿にヒフミは絶句する。コハルも殆ど同じ状況だったが、辛うじて疑念が先行した。

 

「なっ、何で!? む、無茶でしょ、絶対!」

「確かにこれはピンチだが、同時にチャンスでもある」

「チャ、チャンス……?」

 

 こんな、絶望的な状況がチャンス? コハルの声が裏返り、信じられないと云う感情がありありと伝わって来る様で。アズサは自分達を取り囲む影を油断なく睥睨しながら、背後の二人に向けて呟いた。

 

「私達の作戦は読まれていた、けれど私達の最終目標だった向こうのハナコも此処に居る――この場所で彼女を無力化すれば、私達の目的は達成出来るんだ」

「そっ、それは、そうかもしれないけれど……!」

「私には」

 

 それでも、そこまで危険を冒す必要は――。

 そう口にしようとしたヒフミを遮る様に、アズサは一度だけ息を吸って、それから静かに続けた。

 

「――あのハナコが、凄く辛そうに見える」

「……!」

 

 その言葉に、ハッと。

 ヒフミとコハルは同時に顔を上げ、向こう側に佇むハナコを見た。

 

「―――」

 

 ハナコはただ、静かに佇み補習授業部を見つめるのみ。ベールに隠された目元は良く確認出来ない、けれど遠目からでも分かる凛とした佇まい、そこには確かな品と嫋やかさを感じる。それは正にトリニティらしい、淑女然とした在り方だ。

 

 ある意味、浦和ハナコらしくもあり――同時に、彼女らしくない姿だと思った。

 浦和ハナコという少女は、良くも悪くも俊才であり、自身の才覚を自覚している。今自分がどのような役割を求められているのか、周囲にとってどのような姿が相応しいのか、それを良く理解しておきながら敢えてそれを跳ね退けたり、けれど必要があれば求められた振る舞いを是とする事もある。

 大抵彼女は、そう云った求められた姿を演じる際、発せられる感情を上手く仮面の下に滑り込ませる。ほんの一時、感情を押し殺すという一点に於いてもまた、彼女は並外れた器用さを持っていた。

 

 けれど今、目の前の浦和ハナコが放つ気配は――余りも露骨。

 

 倦怠感、嫌悪感、虚無感、喪失感、そういったネガティブな感情が肌を通して空気越しに伝わって来るような。相対した彼女の周囲には、どこか見つめていると飲み込まれてしまいそうになる昏い気配が滲んでいる気がした。それは彼女の黒すぎるシスター服と併せ、絶望的なまでに退廃的で儚げな印象を彼女に与えている。

 

 少なくともそれは、自分達の知る浦和ハナコのものではない。

 

「あのハナコは、きっと私達の知っているハナコじゃない」

「あ、アズサちゃん……」

「でも、たとえ銃を向けられても、私達とは違う道を歩んだハナコだとしても」

 

 アズサは振り返り、二人に視線を向ける。

 それは迷いを断ち切るような、真っ直ぐな眼差し。それに捉えられた時、ヒフミとコハルの二人は、その場から一歩も動けなくなった。水路へと逃げ込む為に無意識に動いていた足先が、ぴくりともしない。

 

「ハナコは、ハナコだ」

 

 友達として、仲間として。

 放っておく事なんて、絶対に出来ない。

 

 水音さえ止むほどの静寂。

 アズサの言葉が、深く胸を穿った。抱えた愛銃のグリップに、じんわりと熱が伝う様な感覚。

 

「チャンスがあるのなら、私は彼女を止めたい」

「―――」

「この感情は、間違っているのだろうか」

 

 それは問い掛けであったが、同時に確信を伴った独白のようにも感じられた。ヒフミは数秒程沈黙を守り、そして自らの怯懦を恥じる様に唇を噛んだ。それは迷った事自体を責める様な、そんな色。

 それから勢いよく顔を上げ、息を吸い込む。

 

「そうですね、その通りです、アズサちゃん……!」

 

 腹の底から絞り出された声は強く、揺るぎなかった。バッと横を向いたヒフミは、コハルを見つめながら叫ぶ。

 

「やりましょう、コハルちゃん!」

「っ……!」

 

 コハルの視線がヒフミとアズサ、そして周囲に並ぶ無数の影、その中心に立つハナコを捉えた。恐怖はある、不安もある、けれど彼女は拳を握り込み、震えを振り払うようにして前を睨みつけた。

 仲間が、友達が、やると決めたのだ。

 コハルはその場で足踏みし、水飛沫を散らしながら肩から提げていた愛銃を抱え直す。

 

「わっ、分かったわよ……! やってやろうじゃないッ!」

 

 意思が重なった瞬間、虚勢であろうと、全員の瞳に煌めきが宿る。支柱から飛び出したヒフミとコハルがアズサの背中に続き、銃口を構える。たった三人、足元から這い上がる冷たさが痛みを伴って、彼女達の身体を震わせた。

 けれどそれに負けないくらい、大きく息を吸い込んだヒフミは、自らと仲間達を鼓舞する為に宣言する。

 

「補習授業部、戦闘を開始しますッ!」

「了解!」

「うんッ!」

 

 ■

 

「――えぇ、これもまた、予測通り」

 

 どうやら、補習授業部は撤退する事無く此処で勝負を掛けるつもりらしい。

 その様子を見た彼女は、静かに呟きを漏らす。

 声は硬質的で、どこか結末を確信している者のそれだった。

 

 そうだ、相手の退路を断つ為に自らこうして出張って来たのだ――早々に踵を返されては困る。

 

「……補習授業部の皆を捕らえられた私は、一体どんな手を打つのか」

 

 此方を見据える補習授業部を見返しながら、彼女はこの世界の自分自身を想う。予測されるパターンは複数ある、しかし彼女が確信を持って絞れるのは精々が片手の指で数えられた。

 自身と同じ道を辿るか。

 それとも――。

 

「ヒフミ!」

「はいっ……!」

 

 アズサがヒフミの名を呼び、その瞬間、ヒフミはペロロバッグの中から取り出した小さな筒の様なモノを全力で空中に投げつけた。アズサが放られたソレに狙いをつけ、即座にトリガー。

 銃声が地下貯水池全体に響き渡り、弾丸は真っ直ぐ狙い通りに飛ぶ。空中で弧を描く投擲物に着弾した弾丸は、甲高い破裂音と共に火花を散らし、同時に凄まじい勢いで発生した白煙が瞬く間に視界を奪った。

 

「――煙幕(スモーク)?」

 

 ハナコは一瞬瞳を細めるが、思考は乱れない。

 発生した白煙の特性を理解しているからこその冷静さだった。

 此処は地下貯水池(システルン)内部――足元は流れ込む水で覆われ湿度は高く、煙は水分を吸って、重く沈む。

 熱源が小さく、少ないため上昇する事なく、水面付近にどっしりと滞留するだろう。水面近くは煙が白濁した壁と化し、濃い帯状になって視界を遮る筈だ。しかし、それも持続して三十秒から一分程度――時間稼ぎと云うには、余りにも些細なもの。

 

「………」

 

 もし彼女達が撤退する素振りを見せたのであれば、ハナコは一も二も無くユスティナ聖徒会に突撃を命じ、背後の水路へと逃走する彼女達に追撃を仕掛けただろう。しかし、それは無い。

 であれば、彼女達の狙いは――。

 

 思考の傍ら、白煙の奥から響く水音、身体が水を掻き分け進む音だ。それを聞き分けたハナコは指先を白煙の向こう側に突き立て、告げた。

 

「攻撃開始」

 

 ハナコの指示と同時に、広く展開したユスティナ聖徒会の影が一斉に射撃を開始した。白煙を吹き飛ばし、閃光を瞬かせながら連続する銃声。反響音が石壁に跳ね返り、騒音としか表現できない暴力的な破裂音が、鼓膜を劈く。

 どの方角から撃たれているのか、その判別すら困難になる銃声。飛来するそれらに穿たれ、微かに開けた白煙の中で蠢く影。

 ハナコはそれを凝視し、そっと嘆息した。

 

「――欺瞞(デコイ)

 

 煙の中でひょこひょこと奇妙な動きを繰り返す何か、それはヒフミが設置したペロロ様のホログラム投影機。炎の揺れと水面の反射で影が揺れ、本物の影のように見えた。弾丸が通過する度にノイズを走らせるそれに、ハナコは胡乱な目を向けながら視線を左右に散らす。

 

「なるほど、三方に分かれましたか」

 

 白煙に紛れ距離を取り、その場にはデコイを設置し気を逸らす。視線を切った隙に散開。

 恐らく混戦ではなく、此方の中枢――自身の一点突破を狙っている。

 それを容易に読み解きながらも、ハナコは冷静に白煙へと紛れた影を視界に捉える。水面に滞留する白に紛れながら駆ける影、その水音に耳を澄ませながら指示を繰り返す。

 

「各自相手に合わせ散開、無理に狙って撃つ必要はありません、順にスペースを潰して追い込みます」

 

 ■

 

 ――ユスティナ聖徒会を相手にする必要は無い、私達の狙いは、向こうのハナコだけだからな。

 

 散開寸前、アズサが呟いた言葉が脳裏に木霊する。互いに声は掛け合わない、それはこの白煙の中で自身の居場所を知らせるに等しい。互いの戦闘スタイルは知悉していた、そして自分達がどう動けば良いのかも、阿吽の呼吸と呼べる段階まで引き上げられたそれは、声を発さずとも密な連携を可能とする。

 

 ――兎に角、私とコハルちゃんで、相手の目を惹きつける……!

 

 水を掻き分け、身を低くしながら駆けるヒフミは、矢鱈めったらと飛来する弾丸を潜り抜けながら支柱の影に身を潜め、そこから散発的に応射を行っては移動を繰り返す。水音は銃声に掻き消され、反響する内部では位置を特定する事も難しい。精々がマズルフラッシュ頼りの予測射撃だが、それも支柱の裏に隠れてしまえば怖くは無い。

 

 ――そうすれば、アズサは煙に紛れて自由に動けるって訳ね!

 

 意図を察したコハルもまた、小柄な体格を活かし身を低くしたままヒフミとは反対方向に駆け抜け、敢えて銃声を鳴らしながら距離を取っていく。無論、狙える時は狙っていくが、今は敵の数を減らすのではなく自分達の存在をアピールする事が重要だった。

 

 支柱に背を預け、指先に握り締めた予備の弾丸を一発一発押し込みながら、時折飛来し支柱を削っていく弾丸に悲鳴を呑み込み、身を縮こまらせるコハル。恐怖で竦み上がる身体はしかし、普段の訓練の成果もあってか指先はスムーズに弾丸を押し込んでいた。大丈夫、大丈夫と胸中で繰り返す。

 何より、あの白煙の向こうに佇んでいるであろうハナコを想えば、不思議と恐怖や寒さが気にならなかった。

 

 ――でも、肝心のハナコの周りには、沢山ユスティナ聖徒会が侍っていたけれど、アズサは一体どうやってハナコを……?

 

 滞留する白煙が、徐々に晴れつつある。

 視界全体を覆っていた白は形を潜め、移動しては射撃を繰り返していたコハルとヒフミは、連続する制圧射撃によって遮蔽へ身を隠す事を余儀なくされた。移動の頻度が大きく下がり、弾丸が石柱を削り、破片が水面へと飛び散っていく。瞬く閃光、鼓膜を揺らす銃声に顔を顰めながらハナコは順に指差す。

 

「……コハルちゃんに、ヒフミちゃん」

 

 水路を中央として、右にヒフミ、左にコハル。それぞれ位置は特定し、最早動きは縛った。

 後は数にモノを云わせて部隊を広く展開し、制圧射撃を繰り返しながら支柱を回り込む様に、同時にユスティナ聖徒会を飛び込ませれば良い。例え一度で戦闘不能に追い込めずとも、水路に逃げ込まない以上、同じ手順を繰り返せば何れ力尽きる。

 問題は――。

 

「……アズサちゃんの姿が見当たりませんね」

 

 薄らと掻き消えていく白煙の中、完全に気配が消えている。ヒフミとコハルの姿は確認出来たが、補習授業部の中で最も警戒すべきアズサの姿が何処にもなかった。

 まるで忽然と、白煙の発生と共にか消えてしまった様に。

 ユスティナ聖徒会を動かしながら、部屋の彼方此方をそれとなく観察、確認していくハナコ。しかし何処からも発見報告は上がっておらず、ハナコ自身の視界にも捉えられない。広く支柱に阻まれた空間とは云え、呼び出したユスティナ聖徒会は少なくない筈だった。それら全員の目を欺く事など、果たして出来るのか。

 柱の裏、死角に上手く潜んでいるのか? 不規則な目を掻い潜って、只管息を殺している? 或いは水中に潜ったか。

 しかし――此方に接近する水音さえも聞こえない。

 彼女が単独で逃げ出す様な真似をするとはとても思えなかった、ならば必ずまだこの空間に居る。

 それだけは確かな確信を持って断言する事が出来た。

 

「………」

 

 ハナコは暫し沈黙を守り、自身の周囲に護衛として並ばせたユスティナ聖徒会を一瞥する。巡る思考、見当たらないアズサの影、音一つなく。

 落としたハナコの視線が、揺らぐ水面に反射する炎の煌めきを捉え、その中に一つの可能性を見出す。

 瞬間、ハナコは弾かれた様に頭上を仰いだ。

 

「――上ですか」

 

 呟きと同時に、頭上から凄まじい勢いで弾丸が飛来した。

 それは濃密な神秘を纏い、宛らレーザーの如くハナコの周辺を固めていたユスティナ聖徒会を捉える。

 盛大に水飛沫が舞い、熱波が頬を焼く。ほんの瞬きの間に、十名近く存在した信徒が一斉に弾け飛んだ。

 虚空を舞い、周辺の柱に叩きつけられたユスティナ聖徒会は形を保つことが出来ず、四肢が粒子となって霧散していく。風に揺れる炎、光に照らされた輪郭が暗がりの中で薄らと線を描く。

 飛沫がハナコの全身に飛び散り、骨身に染みる冷たさがハナコの肌と衣服を濡らした。

 

「気付くのが、少し遅かったな」

 

 声は、ハナコの遥か頭上から聞こえた。

 天井を仰げば、アズサが翼を広げ、柱の凹凸を蹴って一気に肉薄している事が分かった。ひらひらと、抜け落ちた白い羽が視界に揺れる。白煙で視界を一瞬塞ぎ、その間に彼女は支柱の影を伝って天井へ昇っていた。そのまま地上で注意を惹く二人の合間を縫って、一直線に此方へ向かったのだ。

 

 アズサの云う通り、気付くのが僅かばかり遅れた。

 対処するには余りにも距離が近すぎる、今の一撃で消し飛ばされたユスティナ聖徒会はハナコを守る最後の盾――それが剥がされた以上、後は純粋な個人対個人、そしてアズサには単独でも浦和ハナコを無力化するだけの自信がある。

 そしてそれは、何も間違った判断ではない。元よりハナコは武闘派とは程遠い存在、真正面からの撃ち合いなど分が悪いにも程がある。

 

「悪いがハナコ、少し間、眠って貰うぞ!」

 

 天井を蹴飛ばし、更に加速したアズサは水に濡れながら自身を見上げるハナコ目掛けて急降下を敢行。

 突き出された指先がハナコへと伸びる。無力化するならば銃を使う必要も無い、そんな風に考えているのだろうか。

 

 それは優しさだろうか、それとも慢心か。

 ハナコは降下してくるアズサを真っ直ぐ見つめながら、銃口を向ける所か、構える所作すら見せなかった。ただ水を吸い、雫を滴らせる黒いベール越しにアズサを眺めるばかり。

 

「――あぁ」

 

 不意に、吐息が漏れた。

 ハナコの指先がゆっくりと持ち上がり、ベールより滴り落ちる雫を拭う。

 

「最初から分かっていましたよ、アズサちゃん」

「ッ!?」

 

 ハナコ目掛けて急降下を仕掛ける中、アズサはどんどん近付いて行くハナコの表情を視界に捉えた。

 今正に、抗えない攻撃に晒されようとしている彼女。

 しかし、そんなハナコの口元に浮かんだのは薄く歪んだ、悪意すら感じさせる笑み。

 

「――補習授業部(みんな)なら、必ず私の喉元(もと)へ至ると」

 

 妖艶。

 官能的とさえ思える唇が、弧を描く。

 

「―――」

 

 瞬間、アズサの第六感が全力で警鐘を鳴らす。

 時間が、僅かな間のみ酷く遅く感じられた。視界に映るのはハナコのみ、しかし彼女は銃を構えてもいなければ、拳を握る素振りさえない。だと云うのに、アズサの本能は危機を叫んでいた。

 何だ、一体何を見落とした、攻撃の動作は無い、ユスティナ聖徒会の援護も間に合わない――しかし。

 

 何かが、来る。

 

「――ぎッ!?」

 

 衝撃は、直ぐ横から到来した。

 視界がぐにゃりと曲がり、真正面のハナコの姿が歪む程の威力。轟音が鳴り響き、重く、堅く、強烈な何かがアズサの矮躯を横合いから殴りつけた。左肩が軋み、骨と筋肉が悲鳴を上げる。まるで巨大な鉄塊に殴りつけられたかのような感覚だった。

 

 急降下していたアズサの身体は勢いそのまま横合いの支柱に叩きつけられ、支柱を中程から粉砕。勢いを殺し切る事が出来ず、折れた支柱の瓦礫片と共に水面の上を何度もバウンドし、盛大に水飛沫を撒き散らした。

 軈て轟音と共にアズサの身体は地下貯水池の内壁へと衝突、弾んだ衝撃でアズサは肺の空気を全て吐き出す。

 

「かは……ッ!」

「アズサッ!?」

「あ、アズサちゃんッ!?」

 

 ヒフミとコハルが悲鳴を上げた。水面を弾みながら、凄まじい轟音と共に叩きつけられたアズサの姿は、遠くからでも良く見えた。

 

「い、一体、何が……!?」

 

 動揺と驚愕、ヒフミが咄嗟に天井を見上げる。そこから落下してくる巨大な影。それがハナコの直ぐ前へと着地し、巨大な水柱を上げた。天井まで届くソレは純粋な質量の表れか。ヒフミとアズサは支柱の影より顔を覗かせ、水飛沫を割って現れる巨躯に息を呑む。

 

「あ、あれは」

 

 壁に叩きつけられ、全身を水に浸しながら辛うじて顔を上げたアズサは、込み上げる吐き気を押し殺しながら呟く。

 

「――聖女、バルバラ」

 

 嘗て、エデン条約の折、聖園ミカの行く手を遮ったと云う――ユスティナ聖徒会にて最も偉大な聖女と謳われる存在。

 話に聞いていた程度の存在だ、けれど異質な気配に白と水色がかった長髪、拘束具めいた黒のラバースーツにウィンプル、そして両手に携えた巨大な連装砲は彼女に違いない。

 特徴的過ぎるその佇まいは、確信を得るには十分だった。

 

「―――」

 

 まるでそこに立っているだけで、全てを押し潰してしまいそうな威圧感。

 外見的なものだけではない、純粋な力量差だ。

 アレは強いと、本能が全力で叫んでいるのだ。

 

「聖女バルバラ、コレは正確に云うと、その模造品(レプリカ)に過ぎません」

 

 ガスマスク越しにくぐもった呼吸音を鳴らし、無造作に佇むバルバラを前にして、飛び散った飛沫を雨のように浴びながらハナコは言葉を紡ぐ。

 

「補習授業部ならば、貴女達なら、展開した多くの彼女達(ユスティナ聖徒会)を突破し、私の元へと辿り着けると信じていました」

 

 だからこそ――切り札を備えた。

 歪であっても、それは補習授業部に対する信頼である。

 持ち上がったハナコの指先が、衝撃に固まる補習授業部の面々を順になぞる。

 

「さぁ、此処からが本番ですよ」

 

 薄ら笑いと共に持ち上げられる指先、それが合図だった。

 バルバラが二メートルを超える巨躯を起こし、その細腕に似合わぬ巨大な連装砲を構える。束ねられた銃身が回転を始め、甲高い機械音を鳴らし始めた。それが銃撃の前触れである事は、明らかである。

 

「くッ……!」

 

 アズサは壁に手を突きながら必死に体を起こし、震える膝を叱咤して身構える。しかし彼女が動くより早く、バルバラの連装砲が火を噴いた。

 臓物を震わせるような重低音、地下に小さな太陽が生まれたのかと錯覚する程の眩さ、水面を波立たせる轟音。凄まじい勢いで回転するバレルは嵐の如く弾丸を吐き出し空薬莢が水面に次々と沈む。

 放たれた弾丸は周辺の支柱を悉く削り、抉り、穿ちながらアズサ目掛けて飛来した。抉られた支柱の石片が弾丸のように飛び散り、衝撃波で水面が裂ける。

 圧倒的な火力による制圧射撃、アズサは迫るそれを認識し避けられないと悟や否や、翼で上半身を覆うと、そのまま身を低くして被弾面積を小さくした。

 途端、弾丸はアズサの周辺を諸共襲い、次々と水飛沫が上がりアズサの矮躯を覆い隠す。着弾した弾丸が石を削り、そこら中に破片が撒き散らされていた。

 

「コハルちゃん、援護を!」

「わ、分かった!」

 

 二人はほとんど反射的に飛び出していた。ユスティナ聖徒会からの制圧射撃を潜り抜け、水飛沫を上げながらアズサのもとへ走る。コハルは周辺のユスティナ聖徒会に牽制射撃を、ヒフミは背負ったペロロバッグの中に手を突っ込むと、中から萎んだペロロ人形を取り出した。

 

「ペロロ様、お願いしますッ!」

 

 叫び、ヒフミが人形を前へ投げ出した瞬間、ペロロ人形が一気に膨らんだ。普段は小さな人形だが、必要な時に起動すると一瞬で膨張し、内部で硬化泡が広がる。表面は柔らかいが芯は発泡スチロールとゴムの様な構造となり、膨らんだペロロ人形は身を丸めるアズサを守る様に射線上へと立ち塞がった。

 直後、無数の弾頭が人形へと叩き込まれ、右へ左へペロロ人形は暴れ狂う。ペロロ様の愛らしい外見はものの数秒で粉々に粉砕され、内部の硬化泡が露出した。

 しかし、今はその一瞬――たった数秒が重要だった。

 

「アズサちゃん、こっちですッ!」

「――ケホッ、ごほっ!」

 

 ペロロ人形が数秒間の盾となる間、ヒフミは背を丸め防御姿勢にあったアズサの腕を掴み、一気に引っ張り上げる。血の混じった唾液を吐き出すアズサを、ヒフミは脇から抱えて支柱の裏へと導いた。

 粉砕され、倒れた支柱が丁度重なり合う様に遮蔽を作っていた。其処にユスティナ聖徒会に応戦していたコハルもまた、必死の形相で転がり込む。頭上を数発の弾丸が掠め、コハルの小さな翼が動揺で大きくはためいた。

 

「あっ、アズサ、ヒフミ、大丈夫!?」

「っ、痣がこんなに……!」

 

 ヒフミは支柱の残骸に背を預けたアズサの状態を観察し、思わず呟く。肌の彼方此方には黒紫の痣が点々と浮かんでおり、あれ程綺麗だった翼は血の赤に塗れ、ボロボロだった。あの巨躯に殴打された左肩は骨こそ無事ではある様子だが――動かす度に、アズサの表情が分かり易く歪んだ。

 たった一度の攻防で、ここまでダメージを。

 

「……一発一発の威力が、桁違いだった」

 

 大きく息を吸い、口の端から垂れていた唾液を袖で拭ったアズサは、苦悶の表情で天井を仰ぎながら呟く。頭部と胸部に被弾しないよう羽で上半身を守り、屈んで少しでも被弾面積を抑えようとしたが、それでもこの有様だ。数秒でも真面に受けていたら、即座に戦闘不能になりかねない威力であった。

 鈍痛を発する翼と左肩を撫でつけながら、アズサは大きく口元を歪める。

 

「ハナコはアレを模造品(レプリカ)と云っていたが、元となった存在は、どれだけ強力だったんだ……」

「しゃ、喋らなくて良いから、今は治療を――」

 

 アズサの声は掠れている、痛みに耐えているのは明白だった。コハルは肩から提げていたポーチを開き、薬品を探しながらアズサへ腕を伸ばした。

 瞬間、アズサ本人がその手を強く掴んだ。

 

「ヒフミ、コハル」

「っ……?」

 

 瓦礫に凭れ掛かりながら、アズサは二人に声を掛ける。苦痛に濡れた顔の奥に、真摯な色が宿っていた。

 

「すまない、これは、私の判断ミスだ」

 

 ハナコを制圧出来ると、この場で戦闘を終わらせる好機だと思ってしまった。此方の策を看破されていた時点で、退くべきだったのだ。

 自分ひとりならば兎も角、むざむざ仲間を危険の中に引き込み、挙句にこの様な結果を晒す等と。アズサは唇を噛み締め、痛む体に鞭打って立ち上がろうとする。腰の中程まで水に浸かっていたアズサの身体が、ゆっくりと持ち上がった。

 自身に対する怒りが、不甲斐なさが、今だけは苦痛に勝る原動力となっていた。

 

「あ、アズサちゃん、動いては――ッ!」

「此処で私が敵を抑え込む、二人共、その間に逃げてくれ」

 

 握り締めた愛銃の弾倉を検め、血の気の失せた顔で淡々とその様な言葉を吐き出すアズサ。

 それに一瞬呆気に取られた二人は、ややあって身を乗り出し叫んだ。

 

「ちょ、ちょっと、何云っているの!?」

「アズサちゃん――ッ!?」

 

 ヒフミとコハルの声は震え、哀願にも似た響きを伴う。両者とも、アズサの決断を受け入れられるはずがなかった。

 

「あの存在は、生易しいモノじゃない、誰かが足止めしないと、逃げられない、だから……」

 

 アズサは肩を荒く上下させ、左腕の調子を確かめながら懸命に言葉を紡ぐ。視線は自分達の辿って来た水路、その入り口を捉えていた。幸い、まだユスティナ聖徒会が水路を塞ぐ様子はない。自分が先陣を切って目を惹き、二人が逃げ込めば何とか退却は可能な筈だと。

 しかし、アズサが続きを口にするより早くヒフミとコハルの声が遮った。

 

「そんなの絶対に嫌ッ! アズサだけ置いて逃げるなんて、そんな事許さないからッ!」

「コハルちゃんの云う通りです! 此処を離れるのなら絶対に、全員で――ッ!」

「駄目だ、せめて二人だけでも……!」

 

 三人の意志は噛み合わず、言葉はぶつかったまま平行線を辿る。

 唐突に、鳴り響く銃声が三人の声を掻き消した。遮蔽代わりに使用していた支柱が抉れ、石片が三人の頭上に飛び散る。皆が一瞬身を竦め、表情を強張らせると同時、地下貯水池の奥よりハナコの声が響いた。

 

「さぁ、どうしました? これで終わりですか? もう足掻く余地は、残っていないのですか? もしそうならば――もう直ぐ、終わりになってしまいますよ」

「ッ……!」

 

 遮蔽越しに見えるユスティナ聖徒会信徒が、聖女バルバラが、その銃口を突きつけながら此方を見据えている。全員が遮蔽に身を寄せながら、息を押し殺し胸中に湧き上がる不安と恐怖を噛み殺した。ふと気を緩めれば、飲み込まれてしまいそうな激情。

 しかし、ヒフミはペロロバッグを抱き締めながら告げる。

 

「誰も、置き去りになんかしません……!」

「ヒフミ……!」

「私達はっ」

 

 ヒフミが震える声で、けれど決して折れない意志と共に声を張り上げた。確かに危機的状況かもしれない、けれど今までこんな危機を、ピンチを、自分達はいつだって一緒に乗り越えて来たのだ。

 だから、今回だって――きっと乗り越えられる筈だと。

 

「どんな危機でも、皆で一緒に乗り越えるんです……ッ!」

 

 ヒフミの煌めく瞳が、アズサを、コハルを正面から射貫く。その煌めきに、どこまでも消える事を知らない光に、二人は言葉を呑んだ。

 ほんのわずかでも希望がある限り。

 望みがある限り、自らのその可能性を手放す事は絶対にしない。

 

 それこそが、ヒフミの望むハッピーエンドの条件なのだから。

 

「――!」

 

 そう、叫んだ瞬間だった。

 補習授業部全員の身体を青い稲妻の如き光が貫いた。地下の闇を切り裂くように射し込んだ光は、一瞬で三人の身体を覆い、そのヘイローにノイズを走らせる。手足を貫く痺れ、云い表す事の出来ない高揚感と共に齎される力、それが四肢を通して全身に漲り、足元から伝わる寒さに負けない程の熱を齎した。

 ヒフミが、コハルが、アズサが、唐突なそれに面食らい硬直すると同時に、視界へと複数の文字、数字が躍り出す。支柱から銃口を覗かせるユスティナ聖徒会の数、予測される射撃軌道、周囲の地形情報と残弾。次々と雪崩れ込むそれらにヒフミは暫し呆然とし――視界の先、壁に覆われた向こう側に見える影を捉え、その目を見開いた。

 

「――アズサちゃん、コハルちゃん、視えましたか?」

 

 それが何を意味しているのか、同じ景色を見ている二人には分かった。言葉にしなかったのは、それが文字通り最後のチャンスだったからだ。

 

「――うん」

「――あぁ、ハッキリと」

 

 アズサとコハルの両名が、ぎこちなく頷きを返す。視界の先、本来であれば見えない筈であろう地下貯水池の壁、その向こう側。そこにクッキリと表示される反応。それが何であるかを理解した時、全員が何をするべきかをハッキリと理解した。愛銃に握る掌に力を籠め、全員が顔を見合わせる。

 そこにはもう、恐怖も、不安すらも残ってはいなかった。

 

「ほんの少し、あと少しだけ」

 

 湧き上がった力を勇気に変え、立ち上がる。

 そうだ、自分達ならば。

 ヒフミ、アズサ、コハル、ハナコ、先生。

 補習授業部――全員でならば。

 

「――全力で、時間を稼ぎます!」

 

 どんな困難だって、乗り越えられるのだ。

 

 ■

 

 その光が網膜を焼いた時、ハナコは無言で目を見開き、周囲に満ちる青色を凝視していた。

 

「あの光は――……」

 

 補習授業部の皆を貫いた蒼穹を思わせる青、空を隔てられても尚も届いた唯一無二の戦闘支援――先生の齎す光。

 本来であれば、想定外の事態であった。もしここでシャーレの介入があるとすれば、それは彼女にとって何よりも驚異的な障害となる事は明らかだった。しかし先生の姿形は何処にもなく、その気配すら感じられない。

 そもそもこの場に彼が居る筈が無いと知っていた。もし立ち会っていたのならば、分かる筈だった。ハナコは掌で自身の額を軽く叩き、閉じかかった視線を水面に落とす。

 

「……いいえ、今更です、最早彼女達に状況を打開出来る選択肢は残っていない」

 

 戦闘支援が齎された所で問題は無い。ハナコは冷静に、そう自分に云い聞かせる。

 補習授業部の中で、筆頭戦力とも呼べるアズサ――彼女は既に戦闘不能に近い。まだ動けるかもしれないが、パフォーマンスは大幅に落ちているだろう。彼女単独でバルバラを相手取る事は難しく、ユスティナ聖徒会、その信徒による同時運用を考えれば補習授業部がこれらの戦力を打ち破るのは困難である。

 かと云って撤退させるつもりもなかった。彼女達が背を向け水路に逃げ込むのであれば、徹底的に追撃して疲弊させるのみ。ハナコの見立てでは今の三名が退却中に追撃を受けた場合、道中で力尽きる可能性が非常に高い。狭い水路は遮蔽もない、殿が入口への侵入を防がなければ苦戦は必須。しかし、補習授業部はその殿の犠牲を認めないだろう。

 つまり、どうあっても今の補習授業部に勝ち目は無いのだ。

 

「これで、終幕です」

 

 ハナコがベールを指先で払い、残骸の裏に身を潜める補習授業部を指差す。指示に従い、ユスティナ聖徒会とバルバラが一斉に動き出した。これが最後の一押し、彼女達を捉える為の最終行程となるだろう。

 ハナコの冷徹な理性は、そう告げていた。

 

 ――だが、その刹那。

 

「……!」

 

 残骸の裏より何かが投げ込まれ、銃声と共に再び白煙が視界を覆い隠した。バシュ、という甲高い音と火花が散り、視界はつい数分前と同じように白一色に染まる。ハナコは辺り一面を覆い隠す白煙を指先で軽く払いながら、その眉間に皺を寄せた。

 

「悪足掻き、ですね」

 

 視界は奪えるが、最早逃げ場は何処にもない。もし先程と同じ事を狙っているのであれば、それは不可能。自身の元に飛び込めるほどの機動力を持った生徒は、もうこの場に存在しない。先生の戦闘支援で白煙越しに殲滅を狙っているのであれば、そもそも選択として間違っている。

 ユスティナ聖徒会は幾らでも呼び出せる、ハナコが望めば幾らでも後から戦力を補充出来る。ならばこそ数を削る意味は無く、バルバラは健在、退路は既に死地と化した。

 故にこの様な足掻きをした所で、補習授業部に勝ち目はない。

 

 

 ――本当に、そうだろうか?

 

 

「―――」

 

 胸中に湧き上がった疑念にハナコは口を噤んだ。胸の奥底から、説明のつかない何か、予感のようなものが生まれていた。

 本当に、自分は全ての可能性を摘んだのだろうか。

 本当に、もう手立てはないのだろうか。

 確かにユスティナ聖徒会の戦力は無尽蔵、聖女バルバラの強さは模造品とは云え健在、補習授業部がこれに打ち勝てる可能性は限りなく低く、後は時間さえかければ勝利は必ず己の手中に転がり込んで来る。

 勝てるはずだ――勝った筈だ。

 その筈なのだ。

 

 だと云うのに、なぜだろう。

 ハナコは自身の胸元を強く握り締めながら、どんどん湧き上がる感情が肥大化していくのを感じた。

 

 補習授業部の皆(あの青空の輝きを知る仲間達)が、その程度の困難で本当に諦めるのか。

 

「っ、ペロロ様ッ!」

 

 白煙が渦巻く中を突っ切って、ヒフミの声が轟いた。ハナコが顔を上げると同時、見慣れたペロロ人形が四方に投げつけられる。無差別に投擲されたソレは先程と同様に、突然大きく膨らんだと思うと周囲の水を蹴散らし、巨大なペロロ人形と化した。

 ハナコが指示を出すより早く、ユスティナ聖徒会とバルバラは撒き散らされたその人形目掛けて銃撃を開始する。

 同時、残骸の裏から飛び出したヒフミは、最後の一つとなったペロロ人形を抱えたまま水を掻き分け駆け出した。バルバラがその影に気付き、銃口を向ける。ヒフミは躊躇なく抱えていたペロロ人形を投擲し、即席の壁として膨張させた。

 瞬間、火を噴く連射砲。重低音が周囲に反響し、眩いマズルフラッシュと共に弾丸の雨がヒフミを襲った。その悉くは目前に展開した盾代わりのペロロ人形へと着弾し、その姿形をみるみる削り取っていく。

 

「ヒフミッ!」

「大丈夫、です……ッ!」

 

 背後から投げかけられた叫びに、振り返りもせず、ヒフミは歯を食いしばって応えた。

 その両腕で、身体全体で支えるペロロ人形は、まるで水飛沫さえ盾にして突き進むかのような勢いでバルバラに肉薄していたが、降り注ぐ銃弾の嵐に一瞬にして押し込まれ、ヒフミは水の中を滑りながら辛うじて原型を留めるペロロ人形を必死に押し返す。

 

「耐えて、見せますッ! これくらいっ!」

 

 十秒、いや五秒だけでも良い。

 今この瞬間、現在進行形で削れ、穿たれ、抉られて行くペロロ様を見上げながら、ヒフミは必死に叫んだ。

 

「ペロロ様は、とっても強いんですから……ッ!」

 

 それは自身の才覚や能力に対する信頼ではない。

 ただ自身の好きなものを、心から愛するものに対する純朴なまでの信頼。

 

「っ、援護する……!」

「わっ、私も!」

 

 アズサが血の滲む肩を押さえながらも、持参した背嚢から手榴弾を取り出し、振りかぶって投げ放つ。コハルもまたトリニティ特製手榴弾をポーチから取り出し、これで最後だとばかりに次々と投擲を繰り返した。手持ちの爆発物全てを使い切る勢いで放たれるそれは、システルンの湿気を切り裂くような爆発音を連続させ、そこら中で爆炎と水柱が上がる。

 戦場は一気に混沌の様相を呈し、ハナコは爆炎やマズルフラッシュに照らされながら、飛び散る飛沫を手で払う事もせず補習授業部の面々を凝視していた。

 

 勝ち目など無い筈だ。

 理性は、経験は知っている。戦況は既に決したと、最早覆す可能性は無いに等しいと。彼女達のみで迫り来る戦力を跳ね退けるのは困難だと。

 なのに、どうしてまだ立ち向かってくるのか、膝を折る事を良しとしないのか。

 何が見えている、今の補習授業部には、一体どんな景色が――。

 

「……総員、前進」

 

 思考より早く、ハナコの唇が指示を紡いでいた。ベールから滴る雫が水面に波紋を起こし、掲げた指先は冷然とした色を保ったまま振り下ろされる。

 

「全力を以て、相手をして下さい」

 

 その指示は、殆ど理性によって齎されたものではなく、本能的に脅威を排除しようとした結果出たものだった。

 彼女の声には、決して侮りがない。

 補習授業部(彼女達)は諦めない。

 どれだけ絶望的な状況に陥っても、その最後の瞬間まで足掻く。

 そのことを、良く知っている――知っていた。

 油断すれば、どんな形であれ牙を剥くだろう。

 故にハナコはバルバラを含めたこの場に集うユスティナ聖徒会総員に、一斉突撃を命じた。その指示に従い、バルバラは射撃を加えながらゆっくりと前進を開始し、信徒達もまた瓦礫の影へと引っ込んだ補習授業部に、一人耐え続けるヒフミに向かって駆け出す。

 あらゆる方向から向けられる敵意、害意、それら全てに対応する事など不可能だ。どれか一つに対応しようとすれば、他全てがその側面を、背中を捉える。数の利を生かし、このまま一切の逆転の芽を摘み取り圧倒する。

 

「そうです、これで――」

 

 これで良い筈だ。

 ハナコの唇が、自身の抱いた不安を塗り潰す様に囁いた。

 

「えぇ、そうですね」

 

 ――声。

 

 声がした。

 ハナコの言葉に重なるように、背後から酷く自身に似た声が。

 その瞬間、ひやりとした感触が背筋を撫でた。足元から伝わる地下水の冷たさとは別種の、内臓を全て凍らせてしまう様な冷たさ。ハナコは肩に提げた愛銃を構える事もせず、ゆっくりと背後を振り返る。

 

「貴女なら、そうすると思っていました」

 

 けたたましい銃声に混じって、ハナコの耳に、水を掻き分ける足音が段々と近づいて来るのが聞こえた。炎の薄ぼんやりとした明かりに照らされた水路、未だ微かに漂う白煙の帯を裂いて、そこから覗く純白の制服。純真で、穢れを知らず――否、誰よりもその醜悪さを知悉していたからこそ、貴いと想う色。

 

「他ならぬ補習授業部を信じる(愛する)貴女()ならば、補習授業部の皆を、決して無視できないと、何よりもその存在を恐れると」

 

 水面の揺らぎを纏い、人影は一歩、また一歩と暮明より前進する。

 地下貯水池へと繋がる幾つもの水路、その内の一つより進み出た影は――自身と同じ姿形を以て、自らの前に立ち塞がった。

 

「私もそう、信じていましたから」

「――浦和、ハナコ」

 

 愕然とした声が、口元より零れ落ちる。彼女の登場を、自身は全く予期していなかった。咄嗟に対応しようと掌を挙げ、瞬時に硬直した。周囲にユスティナ聖徒会の姿はない、バルバラも同様に。

 全員、自らの指示で補習授業部を捕らえる為前進させてしまっていた。自身を守る盾は皆無。たった今、自身の背後から現れた浦和ハナコを止められる存在は、自分自身を置いて他に存在しない。

 そして、それを易々と許す彼女(自分)ではない筈だ。

 

「構え」

 

 この世界のハナコが、冷徹な声色で以て告げた。後方から続く水音、飛び出して来る複数の影。ハナコの背に続いていたシスターフッドの生徒達が、銃を構えながらぬるりと水路より姿を現した。音も無く、気配もなく、しかし銃口は既に此方を捉えており、咄嗟にバルバラを手元に呼び戻そうと後退る。

 しかし、彼女が口を開くよりも早く――指先が振り下ろされた。

 

「攻撃開始」

 

 その合図と共に、背に続いていた五名のシスターフッドが発砲を開始。

 眩い閃光と銃声が連続し、銃を構える事も、回避する事も出来ず、身体を強い衝撃が次々と撃ち抜いた。頭部、胸元、肩、腕、腰、腹部、水音を立て右へ左へ不格好に揺れる身体、一歩、二歩と勢いに押され後退り、五名分の弾倉を全て吐き出す頃には、既に決着がついていた。

 パサリと、水面にウィンプルが落ちる。シスター服は解れ、血に染まり、異なる世界のハナコは愕然とした表情のまま自らの身体を見下ろす。弾倉一つ分、丸々生徒に撃ち込めば意識を奪える。五名からの集中砲火を受け意識を保てたのは、殆ど奇跡の様な状態だった。

 だが、それは本当に意識を失わなかっただけだ。元より武闘派でも何でもないハナコは、そのまま力なく背後の支柱に凭れ掛かり、ズルズルとその場に座り込んでしまう。

 

「……信じたが為に敗れる、ですか」

 

 瓦礫に血痕を擦り付け彼女は滴る赤を見つめながら吐露する。

 あぁ、だが仕方がない。自身は確かに、補習授業部を脅威に思っていた。もし自分を打ち負かすならば彼女達だろうと、その在り方を、心の強さを、眩いばかりの光を恐れたのだ。

 その恐れこそが、この世界の浦和ハナコが付け入る隙となった。

 

 ユスティナ聖徒会の信徒たちが、聖女バルバラの巨躯が、使役者の限界に呼応して掻き消えていく。

 青白い粒子となって散っていく彼女達は、まるで人形のように微動だにせず、あれ程けたたましく鳴り響いていた銃声は形を潜める。補習授業部の面々が、崩れていく信徒達の輪郭に目を剝きながら、此方の状況に気付いて声を上げた。

 異なる世界のハナコは支柱に凭れ掛かったまま、掻き消えていく残滓を眺め、呟く。

 

「これでは、あべこべですね」

 

 ■

 

 ユスティナ聖徒会が、ゆっくりと霧のように消えていく。

 虚空へと掻き消えていく存在を眺めながら、ハナコは静かに息を整え、新しい弾倉を素早く嵌め込むシスターフッドの生徒へと指示を飛ばす。

 

「これで、ユスティナ聖徒会の信徒は全て消滅した筈です――サクラコさんに報告と確認をお願いします、他の方々は念の為周囲の警戒を」

「分かりました」

 

 了承の声が返ると同時に、生徒達は一斉に動き出す。彼女達はサクラコに無理を云って借り受けた、シスターフッドの聖務隊の生徒達であった。本来の役割はシスターフッドの長であるサクラコの守護、所謂近衛。故にこそ、その戦闘能力と連携の練度は折り紙付き、本来であればサクラコの元を絶対に離れない練達した忠節を秘めている生徒達。

 散開する五名の背を見届けると、ハナコは足元の水を掻き分けながらひとり歩き出した。

 行き先は目の前の支柱に凭れ掛かった、異なる世界の自分自身。最早立ち上がる力もないだろう、か細く呼吸を繰り返す彼女は、水中に落とした愛銃を手に取る素振りすら見せない。

 

「は、ハナコちゃ――」

「待って下さい、ヒフミちゃん」

 

 急ぎ足で、必死になって駆け寄ろうとする補習授業部を、ヒフミを、ハナコの鋭い声が制した。放たれたそれは、何か底知れぬ激情を孕んでいる様に思えた。

 咄嗟にヒフミの足が止まり、ハナコへと視線が向けられる。その背に続いていたコハルとアズサもまた、同様であった。

 

「ごめんなさい、どうか此処から先は」

 

 自分自身を見つめたまま微動だにしないハナコの表情は、炎の揺らぎに遮られ、暮明に覆われている。けれど微かに見える口元は苦々し気に引き絞られ、歪んで見えた。

 

「……私一人で、話をさせて下さい」

「―――」

 

 放たれた言葉に補習授業部の三人は沈黙を貫いた。ヒフミは心配そうに何かを口にしようとして、けれど唇を噛むと、静かに一歩退く。それは無言の肯定、「アズサちゃんの治療を、コハルちゃん」とヒフミは呟いた。そして二人のハナコに背を向け、少しだけ距離を取る。彼女達のやり取りが聞こえない様に。

 それ程までにハナコが放つ気配は重々しく、真剣で、切実であった。

 アズサとコハルもまたハナコを案じる様に見つめていたが、ややあって静かに身を引き、支柱の影へと身を移した。コハルは何度も振り返り不安げな表情を隠せずに居たが、アズサの傷を一瞥し、逡巡の末其方の治療を優先した。

 

「………」

 

 水を掻き分ける音が周囲に響く、一歩一歩、巨大な支柱に凭れ掛かった姿勢のまま、全身から赤黒い血を垂らし沈黙する自分自身の元へと歩み寄っていくハナコ。

 彼女は冷たい地下水に半身を浸しながら、ただ静かに歩み寄るハナコの姿を見上げていた。

 銃撃を受けた衝撃でウィンプルが外れ、素顔と長髪が露になった姿は、この世界のハナコと瓜二つで。違いと云えば髪を結んだ白いリボンの有無程度のもの。

 互いに手を伸ばせば届く距離まで歩み寄った両者は、暫し沈黙を貫いた。

 

「……あの人(先生)は」

 

 ぽつりと、声が漏れた。

 座り込み、全身から諦観の色を放つ異なる世界のハナコは、掠れ、囁くような声色で云った。

 

あの人(先生)は、信じたのです」

「………」

「自身が消えた後でも、それでもキヴォトスの生徒(こども)達は団結し、来る困難に立ち向かえると――きっと立ち上がって、力を合わせる事が出来ると」

 

 それは余りにも純粋で、真っ直ぐで、疑いを知らぬ清廉な祝福の如く。

 けれど、浦和ハナコにとっては――。

 

「……結果は、火を見るよりも明らかでした」

 

 知っているだろうと、そう云わんばかりに放たれるソレ。

 真正面を捉えるハナコの表情が、僅かに強張った。

 けれど否定を口にする事は出来なかった。そうなる様が、ハナコにはありありと想像する事が出来たからだ。

 無垢に全てを信じるには、彼女は余りにも醜い世界を直視し過ぎた。

 そして彼のように、世界の醜さ全てを受け入れた上で、それでも尚――真っ直ぐ信じ通す事が出来なかった。

 

 私は聖人にはなれない――いつか放たれたその言葉は、他ならぬ浦和ハナコの本心である。

 他者を拒み、憎み、嫌悪し、妬み、羨み、悪しきように罵る、そんなどうしようもない凡人で、俗物で、汚泥に塗れた存在。自身をその様に評しながらも、しかし人の性とはそういった醜いものである事も同時に認めていたのだ。

 聡いが故に、彼女は知ってしまった。

 

 だから美しいものは、偽りのないものは、純粋なものは、大切にしたいと想った。

 その細やかな、けれど奇跡の様な光を、願いを、祈りを、守りたいと。

 それだけは偽らざる、浦和ハナコの本音だった。

 

「ですから、まぁ、出来得る限りの事はしました、あんな世界でも先生(あの人)が守りたいと願った場所です、手の届く範囲で力を蓄え、命を救い、導き、諭し……」

 

 ――その果てに残ったものが、(絶望)です。

 

 ビシリと、硝子が罅割れる様な音が聞こえた気がする。此方を見上げ、張り付いたような笑みを浮かべる彼女は、微動だにしない。昏い瞳は最早輝きを灯さず、人というより最早、生気を失った人形の如く。

 ふっと、嘲る様に口元を歪めた彼女は、力なく首を傾げ問うた。

 

「滑稽でしょう?」

「……いいえ」

 

 ハナコの返答は、今にも掻き消えそうな程小さい。囁くように漏れ出たそれは、異なる世界とは云え、自分自身の足掻きを認めるものである。

 彼女は文字通り、死力を尽くしたのだろう。補習授業部を守る為に、自分の大切な存在を守る為に。

 自らが忌み嫌う【偽り】に身を窶し、嫌悪さえしていた欺瞞を顔に塗りたくって、遠ざけていた政戦にさえ身を投じ――挙句の果てに、辿り着いた結末は。

 

 ハナコは目を閉じたまま唇を一文字に結び、俯く。

 それは、正解のない選択肢だった筈だ。

 自分達と彼女達との違いは何だろうか、胸中に湧き上がった疑問。

 そんなのは分かり切っている。

 

 何も――何も変わりはしない。

 

 ただ、ほんの少し。些細な切っ掛けか、ボタンのかけ間違いから世界が転じたに過ぎない。この立ち位置が真逆になる事さえあり得た筈だと。

 ハナコはただ静かに、自らが辿らなかった道を想い、沈黙を通した。

 どのような言葉でさえ、今の彼女には相応しくないと思った。

 それを感じ取れるからこそ、ただ立ち竦むこの世界の自分自身を見上げ、彼女は問うた。

 

「補習授業部の皆と、毎日楽しく過ごせていますか?」

「……えぇ」

 

 少し詰まった、細やかな肯定。支柱に背を預けながら、彼女はゆっくりと瞼を閉じる。ふっと、血に濡れた唇から吐息が漏れた。

 

「夜のファミレスで、ドリンクバーを飲みながら雑談」

「―――」

 

 俯き、感情を押し殺していた瞳が、僅かに持ち上がった。脱力し、まるで此処ではない何処かに想いを馳せる異なる世界のハナコは、薄らと笑みを浮かべたまま続ける。

 

「一緒に映画を見たり、またどこかでお泊り会をしたり、皆で海に行ったり、花火をしたり、遊園地に遊びに行ったり……皆でやりたい事、楽しみたい事、沢山ありましたね」

 

 それはいつか、補習授業部で語り合った何気ない日常の延長線上。

 目を瞑れば、そんな素敵な思い出が蘇って来る様で。彼女は暫し、その感傷に浸った。

 アズサちゃんはきっと、どんな事でも新鮮に物事を楽しんで、時折ちょっと物騒な見方で皆を驚かせたりするだろう。コハルちゃんは表面上は積極的に参加したりはしないだろうが、それでも性根は心優しく善良な子だ。いつも通り素敵な、それでいて時折暴走した知見を披露してくれるに違いない。ヒフミちゃんはそんな自分達に振り回されながらも、それでもその一瞬、その時間を精一杯楽しめる様に、色々な事を考えて、一緒に笑って、躊躇なく此方の心の中に踏み込んで来てくれる。

 自分はそんな時間が、皆と過ごす時間が、とても好きだった。

 

 ――結局、夢見た殆どの時間は、叶う事が無かったけれど。

 

 血と水に濡れた手が、わずかに震え自身の胸元へと添えられる。薄らと開かれた瞼の奥に、一粒の涙が零れた気がした。

 

「……もっと」

 

 それをただ、飛び散った水飛沫の雫だと云い聞かせて。

 彼女は言葉を続ける。

 

「もっと皆と、遊びたかった」

 

 思い出を、作りたかった。

 零れた吐息に等しい囁きは、ただ一人自ら居場所を突き放し、戦い続けた浦和ハナコが抱いた願い。

 そして終ぞ剥がす事が出来なかった仮面の奥に秘めた、素顔そのもの。

 

 本当は。

 本当の事を、云ってしまえば。

 

 

 ――世界なんてものは、本当はどうでも良かったのだ。

 

 

 一度零れ落ちた涙は、止まらなかった。

 浦和ハナコは、ただ皆と共に在れたのならば良かった。ヒフミが居て、アズサが居て、コハルが居て、先生が居て、気心の知れた友人達が傍に居てくれて。

 別に大きな願いがある訳でもない、今直ぐ傍にある日常、彼女が望んだのはそんな何気ない日常がずっと続いて行く事だけ。

 皆で一緒に勉強をして、放課後にスイーツを食べて、偶には皆で遠出をして、季節ごとに楽しみ方を変えて、映画を見て、スポーツに興じて、偶に少しだけイケナイ夜更かしや外出なんかをしてみたりして。

 そんなささやかで、何気ない、普通の毎日。

 大切な人と共に在れる日常こそを。

 浦和ハナコは、何よりも、誰よりも望んでいたのだ。

 

「ふふっ、今更、何て――不器用な」

 

 大粒の涙を零しながら、彼女は自分を嘲笑った。

 そうだ、今更なのだ。

 こんな末路を辿り、自ら仮面を被り血だまりを作る道を進んでおきながら、こんな世迷言を最後に漏らすなど。失望や呆れを通り越し、自分自身に憐れみさえ覚える。

 厚顔無恥で自儘、何と救いようがない存在か。

 そう内心で何度も己を罵った。

 

「――その不器用さを」

 

 堪らず、ハナコは声を絞り出した。

 自らを内で責め立て、諦観の内に沈みゆく彼女は頭上より降り注いだ言葉に顔を上げる。全てを失い、手放した彼女自身に送る言葉。そこに嘘は無い、偽りはない、ただ同じ存在だからこそ――分かる事もある。

 揺らぎ、苦痛に歪んで、それでも真っ直ぐ向けられる瞳に自身の顔が反射していた。

 

「その不器用さを、愛してくれたのが、補習授業部の皆さんでしょうに」

 

 力み、絞り出された声は、ほんの少しだけ擦れていた。きっと、ずっとそうだったのだと。

 彼女が――浦和ハナコがそうであるように、世界を超えても尚自分達の在り方が変わらないのだとすれば。

 補習授業部の皆もきっと同じなのだ。

 

「………」

 

 言葉に、彼女は少しだけ驚いた様に目を見開いた。震えた唇が彼女の内心をこれ以上ない程に物語っている様に思えて。それからふっと、頬が緩む。涙が顎先を伝い水面に小さな波紋を生んだ。

 えぇ、そうですね。

 彼女は吐息に等しい、余りにも小さな声で囁いた。

 

「浦和ハナコ、貴女は」

「………」

「――(貴女)は、間違えないで下さい」

 

 息のひとつひとつが苦痛を伴い、それでも云わずにはいられないという必死さが伝わってくる。ゆっくりと持ち上がり、伸びた指先がハナコの胸元を差した。

 呼吸は徐々に浅く、力なく、表情からは血の気が失せていく。閉じかけた瞳で彼女はこの世界の自分を改めて見上げる。

 

「何も着飾らない、偽りのない、ありのままの姿で……私のままで、居られる、唯一無二の居場所(世界)を」

「……えぇ」

「どうか、ずっと大切に」

 

 ――私は、自分から手放してしまったから。

 

 胸元に添えられた指先から、青白い光が滲み出した。それから数秒と経たず彼女の身体が淡い光を纏う。

 それを見たハナコは一瞬息を呑み、けれどそれ以上何かを口にする事無く、あらゆる感情に蓋をして口を一文字に結ぶ。

 突き出された指先の先端が崩れ、青白い粒子となって霧散した。

 

「……ごめんなさい、皆」

 

 消えゆく自身の掌に気付いた異なる世界のハナコは、再び支柱に背を預けながら脱力する。恐怖は無かった、驚きはなかった、こういった末路を辿る事は既に覚悟していたから。

 故に口ずさむのは嘗て守る事が出来なかった大切な補習授業部への懺悔。そしてこの世界の彼女達への謝罪。

 目を閉じ、消えゆく自身の存在を感じながら彼女は小さく息を吸う。身を浸す地下水の冷たさが今は少しだけ有難かった。

 

 不意に、いつか先生が口ずさんでいた言葉を思い出す。

 もし本当に、楽園(エデン)が存在するのであれば。

 こんな自分でも、その場所に踏み込む資格があるのなら。

 今度こそ、皆で――一緒に。

 

「ヒフミちゃん、コハルちゃん、アズサちゃん……」

 

 大切な彼女達の名を口ずさみ、消えゆく掌を虚空に伸ばす。最後の涙がゆっくりと頬を伝い、微かな水音と共に水面を跳ねた。

 ただもう一度、あの幸福な日々を、奇跡の様な日常を、素晴らしい毎日を。

 それこそが、それだけが。

 浦和ハナコの抱いた、たった一つの――。

 

「―――先生」

 

 

 純真なる願い(オネストウィッシュ)

 

 

 青が弾け、浦和ハナコの身体は霧散し蛍火めいた光が散る。

 同時に地下貯水池(システルン)を照らしていた炎が一斉に掻き消え、周囲は一瞬にして暗闇へと包まれた。

 ハナコは薄暗い視界の中で薄ぼんやりと煌めく青の粒子を追い、その一つに手を伸ばす。

 けれど光は掌を透過し、掴む所か触れる事さえ許されない。

 水面に反射する青色が周囲を淡く照らし、先程よりもずっと幻想的で、退廃的な光景が目前に広がった。

 

「……本当に」

 

 煌めく青は周囲を舞い、徐々に、徐々にその光量を落としていく。僅かな時間、たった十数秒足らずの煌めき。

 ハナコはその輝きを網膜に焼き付けながら沈痛な面持ちで掌を握り締め、万感の想いを込めて呟いた。

 

「……不器用でしたね、私達」




 祝・退院ですわ~!
 投稿めっちゃ遅くなって申し訳ありませんの! 長引くと平気で三ヶ月とか後遺症あるからという話だったのですが、私は運悪く結構長引いてしまうタイプだったようで……。
 十一月はマジでグロッキーでしたわ~! 眩暈と吐き気って日常生活に於いてこんなにも強烈なデバフになるんですのね!
 早く完治して欲しい、本当に(切実)
 今月は全然投稿出来ませんでしたわ……来月こそ、気合を入れて頑張りますの! 
 もしまだ投稿スピードを戻せていなかったら、「あぁ、後遺症で藻掻き苦しんでいるんですのねぇ、かわいそ(小並感)」と憐れんでおいて下さいまし!
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