ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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年末年始なので文字数少な目ですわ~!


死を許さぬ祈り(願い)

 

 キヴォトス上空、アトラ・ハシースの箱舟中枢、ナラム・シンの玉座。

 幾重にも重なる暗闇と演算機構の中心に据えられたその座は、もはや玉座という名が示す威厳よりも、冷たい処理装置としての無機質さを際立たせていた。

 その只中で先生がペレツ・ウザの限定稼働を承認して、間もなく。

 空間そのものが軋むような振動と共に、周囲にけたたましい警報が鳴り響いた。

 

「――アラート」

 

 警告音に混じり、短く切り取られた声が響く。

 顔を上げ、周囲を訝し気に見渡す異なる世界のヒナ。その動作には、状況の異常を瞬時に察知する鋭さと、同時に拭い切れない疑念が滲んでいた。

 

「A.R.O.N.A」

「状況分析、地上サンクトゥムの破損、及びウトナピシュティムによる演算妨害を確認、カウンター用意……試行失敗、介入不可」

 

 A.R.O.N.Aの名を呼べば、即座に彼女は状況の分析を済ませ同時に対処を開始する。しかし僅かな間を置いて口から零れた答えに、異なる世界のヒナは微かな驚愕を見せた。

 予想外の出来事、まさか地上のサンクトゥムが破損するとは。説明を求める様にA.R.O.N.Aを注視すれば、彼女はどこか虚ろな瞳で虚空を仰いだままポツポツと言葉を漏らす。

 

「多次元解釈の演算装置が一部破損し出力が大幅に低下しています、修復し演算加速を試行――失敗、リソースが不足しています」

「解決手段は」

「地上サンクトゥムの顕現プロセス(インカーネーション)、その完遂のみ」

「……それなら、今直ぐ再接続を」

 

 一瞬の迷いもなく下された指示。A.R.O.N.Aが無言で瞳を閉じ、即座に処理を開始する。

 だが、A.R.O.N.Aの演算は即座に途切れ、空間に重い沈黙が落ちた。ややあって瞼を押し上げた彼女は、ピクリとも変化しない表情をそのままに結果を報告する。

 

「――……地上サンクトゥムとの接続、失敗しました」

 

 地上のサンクトゥムが破壊されたか、あるいは完全に無力化された。此方からの指示が一切届かない、その事実は彼女達の描いたシナリオの中で、一切予測されていない事態であった。

 まさか、と異なる世界のヒナは愕然し息を呑む。地上に顕現したサンクトゥム、その防衛にはプレナパテス(色彩)の力を利用した守護者が就いている筈だった。だというのにサンクトゥムとの接続が失われたとなれば、その守護者が打倒された可能性が高い。

 よもや、そんな事が起ころうとは。

 

 ――ありがとう、皆。

 

 対峙する先生はA.R.O.N.Aの口ずさむ報告に対し、胸中で静かに礼を告げた。

 誰に聞かせるでもなく、ただ真摯に。今なお、地上で戦い続けてくれている多くの生徒に対して、腹の底から。

 

「ヒナ」

「………」

 

 傷と痛みに塗れた体で、改めて彼女と向き直る。

 立っているだけで限界に近い身体だったが、それでも声は良く通った。抱きかかえたシッテムの箱は薄らと青白い光を液晶より放ち続け、今なお多くの生徒と繋がり続けている。

 

「さっきも云った通り、私はひとりで戦っている訳じゃない」

 

 先程プロトコルを発動した瞬間から、言葉にせずとも分かる事がある。現在進行形で戦い続けている生徒達の想いが、確かに此処へと流れ込んで来ているのだ。その多くの想いを全身に感じながら、先生は重い口を開く。

 

「このアトラ・ハシースにも、地上にも、今私と共に戦ってくれる生徒が――大勢居る」

 

 自分ひとりの力なんて、微々たるものに過ぎない。

 そんなのは最初から分かり切っている。

 だから、私一人で勝てるだなんて初めから思ってはいない。

 要は――。

 

「皆で、最後に勝てば良い」

「……皆で、ね」

 

 真っ直ぐ、矢の如き愚直さで以て放たれた一言に、異なる世界のヒナは瞳を細めた。表情に薄らと浮かぶのは否定でも嘲りでもない。先生を深く理解しているからこそ滲む、諦観に近い感情だった。抱きかかえた愛銃、グリップを握り締める指先に力が籠る。

 

「このままでは計画に大幅な変更が求められます、残されたリソースを用いて、再演算を――」

「いいえ、必要ないわ」

 

 淡々と放たれたA.R.O.N.Aの進言に、しかし彼女は徐に首を横に振った。その動きは緩慢で、同時に僅かな気怠さを感じさせた。冷ややかで、淀みを帯びた瞳が今にも事切れそうな先生を注視する。ゆったりとした呼吸、土気色の肌、目の下には深い隈が彫り込んだように幾重も刻まれている。全身から滴る赤は流れを止める事なく、見た目は完全に死人のそれ――しかし、彼へと向けられる視線に油断や慢心は無い。

 確かに満身創痍だろう、押せば倒れてしまいそうな程に弱々しい姿だ。だが空崎ヒナは知っている、先生の本当の恐ろしさを。

 

「何度繰り返した所で、同じ結果が出力されるだけ、先生なら何度でも、文字通り何度でも、きっと危機(困難)を乗り越えるだろうから」

 

 そうだ、目の前の大人を相手に、その様な試みは無意味に等しい。

 彼は常に、どんな時だって、計算の外側から結果を引き寄せてきた。

 折れず、曲がらず、朽ちず、毀れず、諦めを知らない。

 それこそが最も脅威であり、厄介なのだ。

 

「ひとりで出来ない事を全員で成し遂げる、どんなに低い確率でも手繰り寄せて明日への希望()を切り開く……先生はそうやって、今まで何度でも奇跡を生み出して来た」

 

 空崎ヒナは考える。先程展開したペレツ・ウザというプロセスもまた、そう云った類の代物なのだろう。宣言より間もなくサンクトゥムとの接続が切れたという事は、地上の生徒を含めた超広範囲の戦闘支援プロトコルという所だろうか。

 自身の知識に無い機能が現れた事に驚きはある。だが、それ以上に湧き上がる感情があった。

 やはり彼こそが特異点、あらゆる世界に於いて物事の中心に立ち、自ら危険を顧みず先頭に立ち生徒達を導く存在。

 だからこそ――彼女はゆっくりと指先を立て、目の前の先生へと向ける。

 

「最初に、【先生】を始末する」

「っ!?」

 

 異なる世界のヒナは、昏く沈んだ瞳のまま断言した。

 その視線には一切の迷いがなく、葛藤も存在しない。

 地面に膝を突いたまま苦悶の吐息を漏らすヒナが顔を上げ、小さく喉を引き攣らせた。

 

「ナラム・シンの玉座の性質、それを利用して命を繋いだ所で、人としての形を失えば動く事は出来ない」

 

 彼女の思考は、実にシンプルであった。

 ナラム・シンの玉座にてその死が確定せずとも、しかし全てが全て十全に保持される訳ではない。この場所で既に起こった物理的な現象を掻き消す事は出来ない。

 足が無ければ歩けず、目が無ければ見えず、喉が潰れてしまえば声は出ない。生命の境界線が何処に存在するかは定かではないが、それでも物質的な限界は、どれほど欺瞞を積み重ねようとも覆す事は不可能である。

 つまりは、人としての形を徹底的に破壊してしまえば、実質的な無力化はそう難しくないのだ。

 

 故に、先生の「人としての形」を徹底的に破壊する事。

 それこそが、異なる世界のヒナが導き出した結論である。

 

 残酷であり、想像するだけで身の毛がよだつ。しかし、効果的である事は誰の目から見ても明らかであった。その腕を捥げばシッテムの箱に触れる事も出来なくなる、喉を潰せば希望を謡う事は出来ず、頭蓋を砕けば思考さえ断ち切れる。

 想像し、込み上がる様々な感情と悪心を彼女は強引に呑み下し腹の底に沈める。今更、今更なのだ、後悔も自嘲も失望も、何もかも飽きる程に繰り返した。

 それを想えば今一度、手を汚す事など。

 掌で顔を覆い、空崎ヒナは一切の色を排した声で断じる。

 

「そうすれば地上に於けるサンクトゥム顕現も、幾らでもまたやり直せる」

 

 ――先生さえ居なくなれば。

 

「そう、先生さえ消えれば全部……崩れるから(終わるから)

 

 言葉は小さく、囁くように落とされる。

 僅かに存在した声の震えは、彼女にとって最後の葛藤だったのか。

 

 言葉は己の退路を断つ宣告であり、同時に先生に対する莫大な信頼である。

 何よりも、誰よりも大きく、煌めく希望が一極に集約されているからこそ、それを失った時の崩壊もまた決定的であると。その人望、信念、繋がりが強固であればあるほど、失われた反動は大きく絶望的である。

 畢竟、空崎ヒナ(異なる世界のヒナ)の超えるべき最大の障害(困難)とは。

 目の前の、今にも崩れ落ちそうな大人(先生)だけだった。

 

 その死に体の、何の力も持たないと嘯く大人が――この世界で最も強大で強固な高壁となって立ちはだかっている。

 

「だから全部、此処で全部使い果たそう」

 

 ガコン、と。

 ヒナは愛銃を抱え直し、静かにレバーを引き絞った。身の丈を超える長銃、其処に装填された弾薬の重みを感じながら彼女は深く息を吐き出す。

 私達の、全部。

 未来の可能性も、無数の選択肢も、この場で、他ならぬ此処で断ち切る。

 そんな想いを込めて。

 

「そうだよね」

 

 異なる世界のヒナ、その視線が背後に佇む巨躯――プレナパテスを捉える。

 薄暗い闇を纏い、沈黙の中でただ状況を見守っていた彼は、呼びかけに対しゆっくりと無機質な鉄仮面を持ち上げる。目元に空いた二つの穴、黒々とした暮明ばかりが覗くそこから、目前に立つ生徒(ヒナ)の背中が見えた。

 

「――先生」

 

 返答は無かった。

 そもそも、声帯が残っているかも不透明だった。

 彼女が云った通り、如何に死が確定しないと云っても人の形として不完全であれば声を上げる事も叶わぬ。あの鉄仮面の奥に潜む顔も、肌も、視認する事は叶わない。

 

 故に、プレナパテスは静かにシッテムの箱を指先で叩いた。包帯に包まれ、異様に細く絞られた指先が静かに、巨躯に似合わぬほど慎重な動で以て液晶に触れる。

 この一操作が、これから起こる全てを決定づけると理解しているからこそ、そこには云い表せぬ重みがあった。小さな電子音、青白いライトに照らされた鉄仮面がA.R.O.N.Aを一瞥する。

 

「……了解、指示を確認」

 

 シッテムの箱を通じ、指示は十全に送られた。

 A.R.O.N.Aが頷き、同時にナラム・シンの玉座、周辺の景色が一変する。音を立て部屋外周を段階的に囲っていた赤と黒の内壁が床へと収納され、先程まで玉座を包んでいた薄暗い闇は次々と剥ぎ取られる。その奥より現れたのは装飾も偽りもない、機構そのものを晒した内部構造。箱舟としての本性を隠すことなく露わにした姿。

 不気味に唸る駆動音、吹きすさぶ冷気が肌を撫でる。

 

「シッテムの箱、演算支援中止、戦闘支援モード起動」

 

 立ち塞がる異なる世界のヒナ、彼女の周囲に淡い光が集い始める。プレナパテスの目前に巨大なホログラムモニタが展開され、同時に空気が張り詰める感覚があった。目に見えない圧が一段階、二段階と引き上げられていくような――背後に佇むA.R.O.N.Aが、その指先を素早く払う。

 

「これより私の全能力を戦闘支援に割り当てます」

 

 A.R.O.N.Aの声が冷たくナラム・シンの玉座へと響き渡った。感情の起伏を一切排したその声音は、決定事項を告げる機械のソレである。

 

「ヒナ、下がって」

「っ、先生……!」

 

 未だ床に膝を突き荒い呼吸を繰り返すヒナに、先生は前へと踏み出しながらそっと語りかけた。

 一歩、また一歩と。

 脇腹に穿たれた風穴より血が滴り、スラックスを伝って赤い雫を床に垂らした。しかしその歩みが揺らぐ事は無く、表情に苦痛の一切は見られなかった。

 既にシッテムの箱による身体制御は失われている、故にこの虚勢は先生本来の精神力の賜物である。垂れ落ちた赤を踏み締めながら、彼は辛うじてぎこちなく動作する義手を開閉させ、シッテムの箱を掴みなおす。

 

「此処から先は、出し惜しみは無しだ、私達も全力で抗わなければならない」

 

 文字通りの、全力だ。

 前を見据える瞳が、剣呑な色を覗かせる。自らの背後に退路はなく、だが退けぬ状況に恐れはない。何としても成せねばならないという強い使命感、そして背中に蠢く巨大な想い(過去)が先生の両足を強固に支えていた。

 

「待って……!」

「―――」

 

 しかし目前を過った先生の裾を、精一杯伸ばしたヒナの指先が掴んだ。くん、と引っ掛かるような微かな抵抗、力は弱々しく、振り切ろうと思えば簡単出来る程度。弱々しいソレ、だが必死に繋ぎ止めようとする意思だけははっきりと伝わって来た。

 先生は思わず足を止め、視線を落とす。

 ヒナの指先が、先生の衣服を強く掴んだ。爪が食い込み、深い皺が刻まれる。

 

「わ、私も……ッ」

 

 半ば先生に凭れ掛かる様にして、彼女は震える両足を叱咤し立ち上がる。床に触れる足裏の感覚は鈍く、鈍痛が絶えず神経を刺す。立つこと自体が既に苦痛を伴う行為と化していた。

 それでも――立たなければならないと自身に云い聞かせた。

 黙って床に這い蹲っている事など出来ない。俯いていた顔を上げヘイローを瞬かせながら、血の気の失せた表情で必死に訴える。

 

「一緒に、戦う、から……!」

「――ヒナ」

「もう嫌なの……!」

 

 反駁は許さないと、そう云わんばかりの声量であった。

 声は震え、喉は締め付けられ、言葉は途切れがちだ。しかし止めてくれるなとばかりにヒナの両手が先生を掴む。歯を食い縛り、必死に息を吸い込んで。

 長い間押し殺してきた感情が堰を切ったように腹から溢れ出す。

 

「何も出来ない自分も、出来なかった事を悔やんで、ずっと這い蹲り続ける事も、無力を嘆いて自分の殻に閉じ籠るのも――……ッ!」

 

 声は裏返り、言葉は自身に対する怒声に近いものへと変わっていく。

 自らの弱さを知り、恐怖に足が竦んでいた自分自身への決別。今立ち上がれなければ、自分は、空崎ヒナは、あの日の自分と何が違う。

 恐怖が消えた訳ではない、無力に打ちひしがれた記憶が癒えた訳でもない、それら全てを抱えたまま、なお前に進むことを選んだだけだ。

 鼻を啜り、引き攣るような呼吸音が聞こえた。自身に縋る様にして立ち上がった彼女を前に先生は何事かを告げようと口を開く。しかし言葉が発せられるより早く、背後より鋭い声が差し込まれた。

 

「無駄よ、空崎ヒナ」

 

 異なる世界のヒナは、今しがた立ち上がった自身を見つめながら冷徹に告げる。

 その声音には一切の揺らぎが存在しない。そうであると確信し、感情の入り込む余地を許さぬ鋼のような声だった。

 

「貴女と私には隔絶した差がある、地上に出現した子達もそう、戦闘支援――シッテムの箱の性能が同等であっても、経験の差は埋まらない、私の経験して来た全ては、文字通りこの世界で生きて来た貴女とは規模が違う」

 

 淡々と、まるで導き出された演算結果を読み上げるかのように。無機質で、冷静で、そこに悪意や嘲りの色は存在しない。

 だからこそ声はより残酷な響きを伴った。

 それは目の前の彼女にとって事実を並べただけのものだったから。

 確かに地上に顕現したサンクトゥムが一部無力化されたのは事実だ。逆転の芽が全く存在しないと口にするつもりはない。

 しかし、未だ七本全てが沈黙した訳ではないというのも事実である。

 戦況はまだ完全には傾いてはいない。

 そして、これ以上の失敗を空崎ヒナ()は許容しない。

 超然とした、鈍い色を宿した瞳が突き刺さる。

 

「貴女は私に勝てない、先程の一戦で、骨身に沁みて理解したでしょう」

「そんなの、関係ないッ!」

 

 冷然と云い放つ彼女に、叩きつけるような反駁が響き渡り、その言葉を跳ね退けた。ヒナの口を突いたのは理屈ではなく、感情である。この世界のヒナと、異なる世界のヒナ、二人の視線が真正面から交わる。片や悠然とした佇まいで、片や呼吸も荒く傷に塗れた姿で。

 互いに譲れないものを抱えたまま自分自身を睥睨する。

 

「私はこれ以上、先生が苦しむ姿を見たくないの……!」

「………」

「強いとか、弱いとか……! 勝てる勝てないとか、そんなの、今の私には一切関係ない! ただ私は、私に許された全てを費やして、貴女の道を阻むだけ――」

 

 言葉は拙く、湧き上がる感情に身を任せているのに過ぎない。論理も、戦略も、そこには存在しない。ただ揺るがない意思だけがそこにはある。

 ヒナは先生から手を離すと、転がっていた愛銃を息も絶え絶えに持ち上げ、引き摺り、背後の彼を守る様にその翼を広げて立ち塞がった。

 細く、薄く、頼りない翼は、しかし力強くはためく。

 小さな背中だ、傷だらけで、今にも折れてしまいそうな矮躯。

 彼女の云う通り、彼我の戦力差は決定的だろう。肉体的な強度も、戦闘技術も、神秘濃度も、何もかも、此方に勝る相手。

 

 だが、その小さな背中に募った覚悟の重さ(積み上げる尽力の翼)だけは――目の前の自分にだって負けはしない。

 

「この人をこれ以上、絶対に傷付けさせないから――ッ!」

「………」

 

 血濡れた犬歯を剥き出しにして放たれる啖呵。立ち塞がる自分自身を見つめながら、短く吐き出される吐息。零れた吐息には、静けさの中に微かな寂寥感が含まれていた。

 抱いた想いは同じである。

 嘗て自身もまた、同じ場所に立っていた。

 同じように、誰かを守ろうとして。

 同じように、無力を憎んで。

 果てに、全てを失った。

 

 それは、自身の弱さ(本質)故に。

 

「……想いだけで強くなれるのなら、どれ程世界は単純だっただろうね」

 

 思わず、言葉が口を突いた。掌で片側の視界を覆いながら漏れたそれは、感傷だった。

 願うだけで。

 祈るだけで。

 報われるのならば。

 世界というものはどれ程単純で、優しかったのだろうか。

 

「良いわ、立ち上がると云うのなら」

 

 けれど、そうはならない。

 世界とは、昏く、冷たく、どうしようもない理不尽と不条理に満ちている。

 勝者があれば敗者があり、選ばれた世界が存在するのならば、選ばれなかった世界もまた同様に存在する。何故自分達は選ばれなかった、何故こうも不公平で、不平等で――そう声高らかに嘆こうと現実は変わらない。

 

「何度だって叩き潰してあげる」

 

 何度打ち倒され、転んで、血反吐を撒き散らしながらも立ち上がれる存在と云うのは。

 是を非としても、その背中に守るべきものがあるか。

 或いは、失ったものがあまりにも大きすぎたか。

 

 空崎ヒナ(わたし)は後者で――空崎ヒナ(彼女)は前者だった。

 

「私が手放した本質(弱さ)の意味、そう、何度だって」

「……ッ」

 

 途端、目に見えぬ圧力が空間を満たす。

 両肩を抑え込まんと降り注ぐ重力、空気が重く沈み、まるで世界そのものが拒絶してくるかのような圧迫感に、ヒナは思わず息を詰まらせた。だがその程度で気圧される彼女ではない、詰まった吐息を一息に吐き出し、寧ろ視線をより一層鋭く尖らせ腹を据えた。

 負けじと歯を食い縛り、全身を怒らせる彼女は大きく一歩を踏み出す。無意識の内に進んだその一歩は、負けられないという彼女の本能の表れだった。

 

「大丈夫だよ、ヒナ」

 

 そんなヒナの背中に、そっと掌が添えられた。

 大きな掌が、彼女を確りと支える。力強く抱き寄せる訳でもなく、有りっ丈の力が込められている訳でもない。ただ其処に居る事を伝えるような、柔らかく、暖かな所作。

 それだけで張り詰めていた意識が僅かに緩む。足元が、まだ此処に在ると理解出来る様な。

 ヒナは緩慢な動作で顔を上げ、背後に立つ先生を仰ぎ見た。

 

「君達が諦めない限り、私はいつだって傍に居る」

 

 背後から届く声は、その背中に添えられた掌は、自身は一人ではないと何よりも力強くヒナの心を支えてくれる。先生はヒナの一歩後ろで、彼女と同じ方向を見据えていた。

 

「その道を切り開くのが――」

 

 彼は想う。

 確かにこの世界のヒナと異なる道を辿ったヒナの前には、大きすぎる壁があるのかもしれない。積み重ねた経験、潜って来た修羅場の数、直面した困難、精神的、肉体的、数値化できるものから出来ないものまで、歩んで来た長い道のりは決して嘘を吐かない。

 だが、積み上げた数多の経験を覆せる手段を己は有している。

 たった一つ、たった一つだけ己が携えた切り札。

 

(大人)の役目だ」

 

 ヒナの背中を支えていた右手を、静かに虚空へと掲げる。

 途端シッテムの箱が眩い光を放ち始め、掲げた指先に青白い光の帯が集い始めた。

 空気が僅かに震え、ナラム・シンの玉座に風が生まれる。揺れる長髪を煩わしそうに払いながら、対峙する異なる世界のヒナは瞳を細く絞る。

 

「この光」

 

 視界の先、先生の掲げた掌へと眩いばかりの光が刻一刻と収斂されていく。それは最初こそ淡く、小さく、微かな煌めきしか持たないものだったが、一秒経る毎に輝きを増し今では夜空に浮かぶ一等星の如き光量を放っている。

 眩しそうにそれを眺めていた彼女は、ぽつりと声を漏らした。

 

「……あぁ、そうね、先生にはソレがあった」

 

 軈て掌の中に形作られる、小さな四角形。青白く、見るだけで身の毛もよだつような莫大な力を有したそれは、先生のみが行使を許された大人のカード(主の救済装置)

 到底起こり得ない望外の奇跡を、相応の代償を支払う事で強引に手繰り寄せる代物。

 それを彼女は心底眩しそうに、そしてどこか物悲しそうに見つめ続けていた。

 

 かつて自分も、同じ光を信じた。

 その背中を、信頼と共に見上げていた。

 鮮烈な星明りに焦がされた記憶は未だ、この胸中にある。

 

「確かにその力なら、全ての手札を無視して勝利を手に入れられるかもしれない」

 

 吹きすさぶ風に煽られながら、異なる世界のヒナは大人のカード、その有用性(脅威)を素直に認めた。先生自ら反則と称するそれは、どのような盤面であれ、絶望的な状況であれ、天地の差が存在する経験値でさえひっくり返す事が可能となるだろう。

 それだけの力を、あのカードは有している。

 知っているとも。

 

 ――けれど。

 

「忘れた訳ではないでしょう、先生」

 

 彼女は、静かに靡く前髪を掻き上げた。昏く淀んだ瞳が、ゆっくりと背後に向けられる。眩い光に照らされながら沈黙を守り続ける巨躯、プレナパテスを彼女の双眸は捉えた。

 風に煽られた赤の飾緒が靡き、揺れている。

 

「貴方の前にいるこの人(プレナパテス)が、一体誰なのか」

 

 彼女の視線がプレナパテスに行動を促した。それを肯定するように、プレナパテスの指先が懐へと伸びる。

 同時に罅割れ、薄汚れたシッテムの箱が眩い光を放ち、ゆっくりと包帯に包まれた細い指先が露出した。

 暗闇を裂くように、プレナパテスを包み込む光の帯。胸元へと収斂するそれは鈍い光を放つ四角形を構築する。

 

 ――出現するのは焦げ付き、色褪せた大人のカード。

 

 表面は焦げ目が残り、四隅は既に罅割れ、元の色など何処にも存在しない。擦り切れ、酷使され、幾度となく代償を捧げ続けて来た証であろう。その果てがこの、異形の姿であるのであれば、それは当然の結末とも思える。

 

 ナラム・シンの玉座にて煌めく二つの星、真正面から衝突する光と光、同色の青を身に纏いながら対峙する両名は互いに大人のカードを構えたまま視線を通わせる。光の奔流の只中にありながら、先生は目を見開いたままプレナパテスを直視していた。

 その青い瞳に、強い煌めきが宿る。

 

「あぁ、当然だとも」

 

 知っている、理解している。

 彼が誰であるのか、何であるのか、どのような手段を持っているのか。

 傷付いた生徒を守る為に、どのような手段を講じるのか。

 その為に、どれ程の代償を許容するのか。

 全て、分かっている。

 分かっているとも。

 

「あの時の続きだ」

 

 十全に知悉しているからこそ、先生は全力で大人のカードを握り締め、高く、高く掲げた。

 手を抜くなどあり得ない、余力を残すなど論外、今目の前に立ち塞がる異形()は――過去対峙したどんな存在より強く、恐ろしい。

 ましてやその背に、守るべき生徒が在るならば。

 

 百折不撓の信念(諦めを知らぬ鋼)は、そのまま己へと返るだろう。

 

「根比べと行こう、プレナパテス()

 

 吹きすさぶ青に晒されながら、二人のヒナが静かに歩みを開始した。

 振り返る事無く、「先生」とヒナが呟いた。その呼びかけには、語り尽くせぬ程の複雑な感情が含まれていた。先生は掲げた光の只中で、ただ「信じて」とだけ答えた。声は決して大きくなく、然もすれば風音に掻き消されてしまってもおかしくはなかった。

 けれどヒナは一瞬足を止め、沈黙を守る。

 それから一度瞳を閉じると、唇を一文字に閉じ、再び歩みを進めた。

 それが答えだった。

 

 垂れ下げた愛銃のバレルが地面を擦り、甲高い金属音を鳴らす。一歩、一歩、緩慢な足取りで距離を詰める両者の背中を見守りながら、二人の先生が掲げるカードは刻一刻と光を強め、自身を背にする生徒達へとリンクする。

 二人を取り巻く幾重にも織り込まれた光の帯、莫大な力の奔流が彼女達の体を包み込むや否や傷を癒し、疲労を取り除き、蓄積された経験(肉体強度)を底上げする。無言で歩み寄り、段々と距離を潰していく両者は互いを正面に捉えたまま愛銃を構え直す。

 握り締めたグリップが軋みを上げ、引き金に掛けた指が僅かに強張った。

 

「―――」

 

 歩み行くヒナの背を見つめながら、先生は不意に辺りを包み込む青の中に懐かしい光景を見た気がした。それは大人のカードを通じ、ヒナと深く繋がったが故か。脳裏を過る記憶、思い出、残影、それらを認識した途端強烈な郷愁のようなものが心臓を殴りつける。

 どこからともなく、お日様の香りがした。

 そんな筈もないのに、そういう気がしてならなかった。

 いつか、ヒナと共に仰いだ陽光を思い出す。共に浴びた、その温かさ。草木の香りに混じって、この両腕に抱えた彼女の体温。失われたはずの感覚が、急激に叩き起こされた様な。

 何故、今になってそんな事を思い出したのだろうか。

 はためき、解れ、薄汚れた彼女の外套を見つめながら考える。

 

 答えは、出なかった。

 

 代わりに、腹の底から絞り出した。

 低く唸るような呟きが漏れた。

 

「……どちらの存在(いのち)が、先に朽ちるか」

 

 掲げていた大人のカードを指先に挟んだまま、シッテムの箱を構える。飛び散った血の雫が、液晶に赤を散らした。

 同様にプレナパテスもまた、色褪せた大人のカードを保持したままシッテムの箱を抱え込む。

 画面に展開される戦闘支援システム、周囲のマップ情報、敵の兵装全般、指揮対象生徒の状態、底上げされた経験値の比較情報。それらを素早く視線でなぞりながら、冷たく、無機質な鉄仮面の奥を睨め付け、彼は告げた。

 

「――勝負だ」

 




 今年も大変お世話になりましたわ~!
 あっという間の一年でしたが、健康にはマジで気を付けようと思った年末でしたの!
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