ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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あけましておめでとうございますわ~!
休日になって漸く纏まった執筆時間が確保出来ましたの…。
年末年始は何処も多忙ですわね!


勝利(未来)を掴む、傷だらけの掌

 

【空崎ヒナの記憶】

 

「―――……」

 

 声にならない吐息が、喉の奥で止まったまま籠っていた。

 エデン条約の調印式からどれだけの時間が経過しただろう、日付の感覚は曖昧だ。ただゲヘナの病室で目を覚ましてからずっと、自室に戻って以降は籠り切りの毎日だった。

 分厚いカーテンは完全に閉め切られ、陽光の一切を遮断し、昼夜の区別すら曖昧なまま。時折外から聞こえる喧騒が、まるで別の世界の出来事のように感じられた。

 日がな一日、毛布に包まってベッドの上で目を瞑り、何を口にする事も無く疲労に呑まれ意識を飛ばす。そして悪夢に魘され飛び起き、一日の終わりを悟る。

 それが、現在の空崎ヒナ――その全てだった。

 

 傷の治療は終わっている。確かにそれなり以上に深手であったが、数日も寝込めば、身体だけなら動かせる程度には回復する。頬に張り付いたガーゼさえ、今は四隅が草臥れ痛みも無い。あれだけ無残に傷と痣に塗れていた身体は、僅かずつであっても普段の色合いを取り戻しつつあった。

 

 だが、それだけだ。

 身体が動くことと、立ち上がれることは、決して同義ではない。

 

 ヒナは毛布に包まったまま自身のパジャマの裾を強く握った。あの日から眠る事の出来ない彼女は、目元に濃い隈を拵えたまま壁に掛けられた自身の制服を見つめる。

 幾つもの爆炎に焼かれ、煤け、穴が開き、小汚い自身の制服。あの、調印式の日に身に纏っていた制服は見る影もない。風紀委員会の腕章さえ、例外ではなかった。血と汗の沁み込んだそれからは、未だあの瞬間の感情が鮮烈に感じ取れる。

 制服のストックは十全にあった。

 風紀委員会の業務柄、衣服が損傷する事は日常茶飯事。しかしその制服に袖を通す想像をするだけで、胸の奥が重く沈んだ。傷はもう十分癒えたのに、身体的に動く事は可能な筈なのに、風紀委員会へと復帰する気力が、どうしても湧かなかった。

 目を瞑る度に思い出す、悍ましい光景。自身の両掌にべっとりと張り付いた、あの生ぬるい鉄の香りが消えない。声が、脳裏に反響し続ける。

 ヒナは立てた膝に顔を埋もれさせ、毛布で顔の周りを覆った。

 優しい暮明だけが、今の弱く醜い自分を隠してくれるから。

 

「ッ……!」

 

 不意に、部屋の扉がノックされる。乾いた音が、静寂の中で響き渡った。突然のソレに思わず肩が跳ねる。

 自身が自室に籠っている間、最初こそ様々な声が掛かった。日に何度も何度も、だが全てから顔を背け、返事の一つも返さなくなってから、段々とその頻度は下がっていった。久方振りの来客だった、けれど対応は変わらない。

 ヒナはただ、じっと息を殺して無言を貫く。

 救急医学部の様子見だろうか、それとも万魔殿の使いか、或いは――。

 考えて、唇を一文字に結ぶ。

 

『ヒナ委員長』

 

 扉越しに聞こえてきた声に、一瞬息を詰まらせる。覚えのある声だ、何百、何千と耳にしてきた。優秀で、真面目で、けれど少しばかり不器用な――。

 

「……アコ?」

 

 ヒナは毛布に埋もれさせていた顔を上げ、そっと彼女の名前を呟く。声は掠れ、喉に絡んだ。本当に久々に、声を出したような気がした。毛布を握る手に、無意識に力が籠もる。指先が白くなるほど逃げ場を求めるように。

 

『端末の方に連絡を入れたのですが、返事が無かったので、此方に』

「………」

 

 ヒナはその言葉を聞いて、そっと視線を横にやった。視界の隅、ベッドの上に放置された端末が映る。部屋の暮明に佇む画面は暗く完全に沈黙していた。もう何日も触れていない、恐らく充電も切れている筈だ。

 いや――意図的にそうした、というのが正しいのかもしれない。

 

『御身体の方は――』

 

 扉の向こう側から聞こえる、くぐもった声。しかし言葉は途中で途切れた。

 躊躇、あるいは踏み込み過ぎないための配慮か。彼女の事だ、既に肉体的な負傷が問題ないレベルまで回復している事は理解している筈だった。救急医学部からも、情報共有は為されているだろう。

 ならば、それにも関わらず空崎ヒナが復帰しない現状に肉体的な負傷以外の何かがあると察するのは簡単だろう。言葉を呑んだのは、そういった背景があるに違いない。

 

『……今朝方、情報部より報告がありました』

 

 アコは一度言葉を切り、数秒程沈黙を守った後、話題を切り替えた。

 ヒナは無言でもう一度毛布に顔を埋めた。こんな姿は、見せたくなかった。言葉を交わす事さえ恐れた。

 仲間より向けられるそれがどの様な色であれ、空崎ヒナという存在にとって全ては自身を責める材料でしか無かったのだ。そんな筈もないのに、そうであると信じていた。そうでなければ、自らこんな暮明に身を浸す様な真似はしない。耳を塞がなかったのは、せめてもの罪悪感から来る行動だった。

 

『情報部の見通しでは、このまま状況に大きな変化が無い場合、トリニティとの衝突は避けられないとの事です』

 

 続けて紡がれる言葉に、当然だろうとヒナは内心で思う。

 あれだけの事があったのだ。ゲヘナの中枢は勿論、多くの生徒と組織が大打撃を被った。そこから生まれた疑念と憎悪が、そう簡単に消えるはずがない。トリニティとゲヘナ、互いが互いを疑り、傷付け合い、その傷を正当化するために、さらに憎み合う土壌が完全に出来上がっている。

 恐らく以前よりも激しく、より深く、その螺旋の入り口に至った事をヒナは理解していた。

 

『ゲヘナ内部でもトリニティ・及びアリウスに対する好戦的、過激な主張が日々増加傾向にあります、マコト議長も不在の今、万魔殿内部でも意見が分かれおり、加えてゲヘナ全体の舵取りが可能なトップが不在の為、各派閥での独断専行が目立っているとの報告も』

「………」

『今回の一件、トリニティ側が仕組んだと考えるには余りにも杜撰です、自爆覚悟と考えても被害が大きすぎます、風紀委員会の方でも情報部と協力しこの事を広く通達しておりますが、元よりそう云った言葉に耳を傾けない校風ですので――今回は、それが悪い方向へと作用しました』

 

 そう遠くない内にトリニティ、及びアリウス分校との大規模な戦闘に発展する見通しです。

 アコは言葉は、重々しく響いた。

 

 ティーパーティーやシスターフッドなど、主要な組織のトップ自らも存在する会場であのような暴挙を計画する程、トリニティは無謀ではない。ましてや、連邦捜査部シャーレを巻き込み被害は二大校に留まらず、あらゆる学園に波及している。

 故に今回の一件、仕組んだ側として考えられるのは、あの亡霊を使役し今なお戦闘行動を続けているアリウス分校のみ。トリニティ総合学園がこれに手を貸すとは、到底考えられない。

 討ち取るべきはシャーレの先生を射殺し、姿を晦ませた――【アリウス・スクワッド】

 何度も、何度も、風紀委員会はゲヘナ全域にそう訴えた。

 だが、その声は届かなかった。

 怒りは憎悪を呼び、理屈は激情に押し潰されるのが常である。最早言葉で止まる段階は通り過ぎ、戦火は風紀委員会のみで制御するには大きく膨らみ過ぎた。

 既に学内に存在するトリニティ侵攻派は、抑えきれるような勢いではない。

 

 もしそれを真正面から封殺し、ゲヘナ全体を動かす事が出来る人物が居るとすれば、それは――。

 

「………」

 

 ヒナの指先が、毛布越しに皮膚を強く掴んだ。扉の前で佇む彼女の気配、齎される沈黙が何よりも雄弁に語っている様に思う。言葉の裏を読める程度には、思考は鈍り切っていない。

 つまりは、自分に。

 空崎ヒナに。

 再び、立てというのだろう。

 もう一度、その責務を果たせと。

 もう一度、全てを背負えと。

 

 

 あの人はもう、何処にもいないのに。

 

 

『――ですが、ご安心ください』

 

 だが、現実は違った。

 投げかけられたのは、空崎ヒナの再起を促すものでも、叱咤激励でも、失望の言葉でもなかった。

 予想していた言葉とは真反対の言葉、ヒナは僅かに目を見開き、顔を上げる。暮明に沈む視界の中で、扉の向こう側に佇むアコの姿を幻視した。その指先が、静かに扉の表面をなぞる。

 

『ヒナ委員長が療養中は、この天雨アコが責任を持って風紀委員会を預かります』

「……!」

 

 天雨アコは、彼女は、空崎ヒナを自室より引っ張り出す為に訪れたのではない。寧ろその逆だ、こんな場所に足を運ばずとも知っていた。

 彼女(アコ)は唯、信じ、腹の底から確信しているのだ。

 

『伊達に委員長の隣で補佐していた訳ではありません、委員長が復帰するまでの間位、風紀委員会を、延いてはこの学園を守って見せます』

 

 

 ――太陽が明日、昇るか心配をする馬鹿が何処に居るでしょう。

 

 

 声は淀みなく、ヒナの元へと届いた。

 それは静かな、しかし強固な決意そのもの。空崎ヒナという存在が不在の間、誰であっても彼女の領域を犯させはしないという宣言。その空いた一つの椅子を、絶対的に守り続けると云う意思。

 天雨アコにとって、空崎ヒナは太陽だ。

 沈む時もあるだろう、その輝きを目に出来ない時も。

 

 けれど、陽はまた必ず昇る。

 

『私は、決して貴女を失望させません』

 

 ですから、アコは云う。

 何て事のないように、声色だけで分かる、朗らかな笑みさえ湛えて。

 何日でも、何週間でも、何ヶ月でも。

 天雨アコという存在が、この世にあり続ける限り。

 

『……ずっと、待っていますから』

 

 ■

 

 

 ――その(私の)弱さこそが、彼女達を絶望()に追いやったのだ。

 

 

 ■

 

 ナラム・シンの玉座に、凄絶な戦闘音が響き渡る。

 金属音と爆裂音、銃声が重なり合い、空間そのものが震えているような感覚。展開されるのは縦横無尽の弾幕、及び神秘砲の撃ち合いである。

 本来であれば回避も防御も、もはや意味を成さない密度と規模で、破壊だけが往復する。

 だがナラム・シンの玉座はその大規模な破壊にさえ、容易く耐え得る。二人の空崎ヒナは常人であれば目にも止まらぬ速度で跳躍、飛翔を繰り返し、虚空を弾丸と砲撃が貫く。

 

「―――」

 

 先生は、脇を掠めていく弾丸に見向きもせず、シッテムの箱を破損した義手で抱えたまま右手で画面を小刻みに叩く。避けるという選択肢すら最初から持たないかのように、視線はヒナだけを捉える。

 同時にプレナパテスもまた、目前で弾ける爆炎や弾丸に一切の関心を示さない。ただ時折その巨躯に着弾するコースを取る流れ弾に関しては、傍に寄り添うA.R.O.N.Aが無言で傘を用いて払った。

 

 発生する爆風が衣服を揺らし、衝撃波が肌を打つ。

 眩い閃光が瞬く中で、二人の視線は互いの生徒から一瞬たりとも逸れなかった。

 

切り札(大人のカード)による強化、確かにこれは、厄介ね」

「ッ――」

 

 互いに銃撃を繰り返し、視線を通わせる二人のヒナは、険しい表情のまま呟きを漏らす。

 戦い慣れた相手であれば、視線だけで凡その行動は分かる。引き金を絞る指先よりも、先に心が衝突するのだ。ましてやそれが自分自身であるのならば尚の事。

 異なる世界のヒナは視界一杯に広がる弾丸を小刻みに避け、翼で強引に払い除けながら告げる。跳弾した弾丸が床を跳ね、その表面を轟音と共に抉った。その破壊力、翼を芯から痺れさせるような威力に否が応でも神経が尖る。

 

「実際に戦ってみて分かった、反則って表現も納得出来る」

 

 先生の大人のカード、そのバックアップを受けた何者かと銃火を交えるのは初めての事であった。

 全身から滾る神秘、身体の奥で脈打つ力が、肉体の器としての限界を押し広げていく様な。先程までとは耐久性も、俊敏性も、神秘濃度も、純粋な筋力さえ比較にならない。文字通り強引に、此方の立つ段階(ステージ)へと押し上げられている。

 

 ――だが、それ以上に。

 

 想い、対峙する自分自身を睨みつける。

 その全身から放たれる気迫に、彼女は表現する事の出来ない圧迫感のようなものを憶えた。単なる技量や神秘濃度では測れない、何か。数値にも理屈にも落とし込めない領域で、確かに存在する圧力がある。

 それは、大人のカードが作り出す強さとはまた別種の力だった。

 精神力、心の強さ、守るべきものがある者の強さ、その強固さを空崎ヒナは知っている。

 

「……いいえ」

 

 想い、首を振った。

 そんなものは、幻想だ。

 彼女はそう自分に云い聞かせた。動揺を認めた時点で、判断が鈍ると思ったのだ。迷いは敗北に直結する。

 

「幾ら食い下がった所で結果は同じ、長引かせる意味も無い」

 

 地面を蹴り飛ばし、高く跳躍した彼女は空中で愛銃を構え直す。地面を低く滑空する相手を見つめながら、翼をはためかせ銃口を下方へと突き出した。

 戦況を引き延ばす余地は、最初から計算に入っていない。

 最大火力で、諸共屠る。

 

「そろそろ、終幕としましょう」

 

 これ以上、意志が鈍る前に。

 感情が判断を侵食する前に。

 はためく外套を勢い良く払い、構えた愛銃に有りっ丈の神秘を込め、引き金を絞った。

 

「――イシュ・ボシェテ」

 

 途端、凄まじい轟音と閃光が周囲を支配し、空間が歪んだと錯覚するような、無数の弾丸が一斉に銃口より放たれる。

 自身の視界が届く範囲、全てを覆い付かさんと放たれる攻撃は一発一発が悍ましい程の神秘を内包し、同時に一度捉えられてしまえば連続被弾は避けられず、逃げ場も同様に存在しない。

 正に必殺、避けるという選択そものを許さない弾幕の嵐。ヒナは視界に瞬くマズルフラッシュと、悍ましい色を纏った数多の弾丸を前にして一瞬足を止める。

 演算結果が視界を躍る。

 避ける、不可能。

 迎撃、不可能。

 ならば防御し耐えるほかない。咄嗟に守りに徹しよう翼を構え――自身の背後に立つ、先生の存在に思い当たった。

 

「ッ、ああぁァアア――ッ!」

 

 ヒナは全力で地面を蹴飛ばし、強引に弾幕の中へと飛び出す。理屈も計算も無視した、傍から見れば無謀な特攻である。

 だが、放たれたイシュ・ボシェテは加害範囲に先生をも含んでいた。最初から、そのつもりで攻撃したのだと後から理解した。自分が今、この直線状より退けば先生の身体に弾丸が降り注ぐ。

 

 ならば、今の自身に選択肢は存在しない。

 それを加味した上で収斂した神秘砲撃を選ばなかったのならば、実に効果的で残酷なやり方だ。

 先生を守る為に、目の前の自分を止める為に。

 彼女は翼を盾代わりに、恐ろしい破壊力を秘めた嵐の中へと一切の躊躇なく飛び込んだ。

 

 飛来する弾丸が次々と身体を貫き、構えた二つの翼は瞬く間に赤に塗れる。小柄な体格で良かったと、ヒナは初めて自身の矮躯に感謝した。少なくとも被弾面積は小さく、細く薄い翼であっても、十分に覆えるだけの余裕がある。

 衝撃、痛み、齎される破壊。視界を覆い尽くす暴虐の嵐に晒されたヒナの身体は、刻一刻と傷付き、噴き出した血が血煙の如く周囲に舞って視界を覆う。

 だが刻まれる傷は、決して致命傷には届かない。内包した圧倒的な神秘が彼女の身体を強化し、本来であればヘイローに届き得る攻撃さえも耐え切れる力を齎した。ヒナの体に突き刺さる弾丸は強かに皮膚を打ち、削り、後方へと逸れていく。

 

「―――」

 

 突貫するヒナの背中を見つめる先生の手元、ビシリと、大人のカードに罅が入った。

 四隅が砕け、欠けた一片が虚空に掻き消える。確実に、存在が限界へと近付いている証であった。指先を見れば、恐ろしい速度で崩壊を知らせる黒が身体の中心へと浸食を開始している事だろう。

 だが先生は、それに対し一切の反応を見せない。

 崩れ行く大人のカードも、浸食される身体さえも。

 ただ真っ直ぐ、飛来する流れ弾にさえ一瞥もくれず、ヒナを、ヒナだけを見つめていた。

 

「……ッ」

 

 放たれた弾丸の嵐は床を抉り、ナラム・シンの玉座、その内壁を幾つも粉砕し、唐突に終わりを告げた。強引に弾幕を切り抜け、肉薄したヒナが突き出されたバレルを掴んだからだ。

 赤熱し、白煙を立ち昇らせる銃口は強引に天井へと押し上げられる。渾身の力でバレルを押し上げたヒナの掌から、肉の焼ける音がした。

 互いの距離は、ほぼゼロ。

 二人は空中で掴み合い、そのまま飛行する事さえおぼつかず、揉み合いながら落下する。呼吸が混じり、熱が混じる。錐揉み回転しながら地面へと落下した両名は、そのまま派手に床へと衝し、勢い良く跳ねた。

 

 衝撃音と金属音が重なり、二つの長銃が音を立てて滑っていく。口から空気が漏れ、一瞬視界が混濁し白く瞬く、殆ど同時に背中を勢い良く打ち付けた。しかしその程度で意識を飛ばす程、彼女達は軟ではない。

 床を跳ね、転がり、滑った果てに停止。衝撃に呻き声を漏らしながら、床を掴でゆっくりと体を持ち上げる。痛みに咽る、持ち上げた視界の先に自身と同じ様に立ち上がる彼女(自分)の姿が見えた。

 

「やらせない……ッ!」

「………」

「これ以上は、絶対に――ッ!」

 

 最早傷の無い箇所を探す方が難しい程に、傷付き草臥れた両翼。それを垂らしたまま、凄まじい形相で此方を睨みつける彼女は覚束ない足取りで立ち上がる。暗がりの中でも、光を失わない瞳。恐怖も、迷いも抱かない煌めき。

 秘める激情は一点、ただの一点。

 踏み締めた床を擦る足音が、妙に大きく響いた。

 

「どうして」

 

 こうも耐える事が出来るのか。

 なぜ、そこまで身を削って立ち上がれるのか。

 計算上、目の前の空崎ヒナは既に戦闘不能に陥っていても可笑しくはない。先程のイシュ・ボシェテも、生半な威力では無かった筈だ。

 積み重ねた経験は此方が上だ。幾ら肉体的な部分を反則によって補強しようと限度がある。神秘濃度は多少贔屓目に見ても互角、ならば戦闘技術と戦闘回数の上下によって優劣は定まる、こちらが気圧されるような事はあってはならない。

 そうなると、後は精神の差(心の強さ)か。

 

「何故、貴女は――」

それ(疑問)は、こっちが聞きたい……ッ!」

 

 呟かれた言葉を、対峙する彼女は別の意味で捉えた様だった。

 赤の滴る指先を払い、吼えるような勢いで以て腹の底から言葉を絞り出した。

 

「どうして、貴女は……! こんな(未来)を望むのッ!?」

 

 叩きつけるような疑問。それを真正面から放たれ、異なる世界のヒナは思わず面食らう。

 望む、望むだと? 一瞬の内に膨れ上がったのは驚きと疑念、そして沸々と湧き上がるような怒りであった。

 誰が望んだと云うのだ。私が、空崎ヒナが、この未来を望んだとでも云うのか。

 

 そんな事は、あり得ない。

 

「――こんな(未来)、望んでいる筈が無いじゃない」

 

 意識せず、口を突いた反駁の言葉。冷静であるべき声色に、隠し切れない感情が滲む。それは色を滲ませ否定しなければならないほど、心の奥を抉られた証拠でもある。一歩、踏み出した彼女は両手を固く握り締め、冷徹に沈んでいた瞳に危険な光を宿らせながら唇を震わせる。

 

「戦いたくて、戦った訳じゃない」

「ッ――」

「殺したくて、殺した訳じゃない」

 

 守る為に戦って、多くの願いに生かされ、足掻いて、自分だけが取り残されて。

 

 言葉を紡ぐ度、胸の奥が軋むような感覚があった。鼻腔に広がる鉄の香り、冷たい指先、伏せられた瞼、呼び掛けても返らなかった声。そのどれも、どれもが今も尚鮮明に焼き付いている。

 忘れる事など出来はしない、永遠に。

 

「誰が好き好んで、そんな未来を――」

 

 絞り出した想いは、中途半端に途切れた。

 その続きを、強引に飲み込んだからだ。

 代わりに、奥歯が軋む程に歯を食い縛った。

 

 零す言葉(想い)に、どれだけの意味があるというのか。

 

 仕方ない、運が無かった、自分は最善を尽くした、それでも駄目だった。

 そんな慰めの言葉を幾ら並べ立てた所で、自身の背負った罪悪が、ほんの一欠片でも軽くなる事は絶対にない。後から幾ら有象無象の力を得ても、強靭な精神を育んでも、絶対的な地位を手に入れたとしても、それが必要だったのはあの時、あの瞬間の空崎ヒナだったのだ。

 自身に無力を悔い、謝罪し、自責の念に駆られようとも誰も救う事は出来ない。

 

 過去を無かった事には出来ない。

 死者を蘇らせる事は出来ない。

 時間を巻き戻す事は出来ない。

 

 ならば変える事の出来ない過去を想い、己の罪悪の重さに耐えかねて吐き出す懺悔は、後悔は、慟哭は、涙は、一体誰を救うというのか。

 

 ――救わない、誰も救いなどしない。

 

 どれだけ許しを乞うても、どれだけ自分を責め立てようとも、失われた命が戻る事は無く、過去をやり直す事は出来ず、死者は救われないのならば。

 ならばそれは、己の罪悪の重さに耐えかねて吐き出す全ては、己一人を救うものでしかない。

 己自身で、己を慰めるだけに吐き出す都合の良い云い訳だ。恥を知らず、責任を投げ捨て、自らの手から零れ落ちた多くの者を置き去りにする、弱さの証だ。

 故に吐き出す言葉に意味など無く、価値は無く。

 口にする事自体が、罪である。

 

 そうだ、冷たくて、苦しくて。

 痛みに満ち溢れたこの世界で。

【弱さ】とは罪だった。

 

 ならば。

 それならば。

 

「ッ……!?」

 

 異なる世界のヒナは、その場で力強く地面を踏み締める。

 途端、ぶわりと肌より濃密な神秘が漏れ出る、精神の高ぶりが、腹の奥底から湧き上がる絶対的な意思が、彼女の肉体を鼓舞していた。

 周囲を覆い隠す圧力が一段と増し、空気が重い鉛の如く質量を持つ。

 唇より垂れ落ちた一筋の血を指先で拭った彼女は、目前に立つ自分自身を睨みつけた。

 

「そう、根底は同じなの、貴女と私は――」

 

 それを否定するつもりはない。空崎ヒナの持つ性質は、どんな世界であっても変わらないから。

 自分も、彼女も――内に秘めた願いは同じだった筈だ。

 

「先生の、あの人の苦しむ姿を、見たくない」

 

 彼女(空崎ヒナ)は想い、願った。

 どうか穏やかな生であって欲しい。

 苦痛の無い日々があって欲しい。

 涙の代わりに、笑顔に溢れた毎日であって欲しい。

 

 けれど世界は、それを許さなかった。

 

 どれだけ真摯に望んでも、祈っても、願っても、大切に想っても。

 その人は誰かの為に、何かの為に、自ら足を踏み出し傷付いていく。

 世界の齎す痛みを、苦しみを、その身で受け止めようとする。

 

 その人(大切な人)は、苦痛に耐えられる人だった。

 誰かの為に、喜んで自ら全てを手放す人だった。

 理不尽も、苦痛も、責任も、何もかも。

 全部、微笑んで背負ってしまう人だった。

 

「……これ以上、苦痛に塗れて欲しくない」

 

 けれど。

 その人が傷付く姿に。

 空崎ヒナ(わたし)は、耐えられない。

 

 

 弱いのは(本質に押し潰されたのは)、他でもない(空崎ヒナ)だった。

 

 

「だから……」

「だから、貴女は――」

 

 対峙する彼女は。

 この世界で生きる空崎ヒナは真摯に、真正面から問いかける。

 

 穏やかな生も。

 苦痛なのない日々も。

 涙の無い明日も叶わないのならば、せめて。

 せめて――。

 

先生の死(世界の終焉)を、望むと云うの――?」

 

 ■

 

「先生」

 

 最後の日の事は、良く憶えている。

 

 薄暗い暗室。まるで地の底の様に冷たくて、静かで、光も音も吸い込まれるような、無機質な安置所だった。武骨な寝台は彼の為に拵えたものなのだろう、病院に居た頃とは違う、無数のケーブルも計器も存在しない、ただ無地の貫頭衣を身に纏った姿だった。

 台の上で、眠る様に横たわる身体。あれだけ強固にこびり付いてた赤は綺麗に拭われ、表面の傷も大方塞がれている。顔は安らかなもので、傍から見ればただ眠っている様にしか見えない。

 

 だがそれは、整えられた姿に過ぎない。

 

「先生」

 

 愛銃を引き摺り、金切り音を立てながら先生の元へと足を進める。室内に硬質的な、不協和音が響いていた。

 もう一度、声を掛けた。

 けれど返答は無かった。

 静謐な暗室に、ヒナの声が無情にも残響する。

 分かっていた。

 彼は答えない、と。

 

 だって、もう死体だ。

 

「先生」

 

 直ぐ傍に立ち、三度呼びかけた。けれど瞼は開かない、穏やかに、朗らかに、いつものように彼が答えてくれる事は無い。蒼褪め、綺麗に手入れされた唇は僅かも動かず、吐息は零れない。

 意味が無い事だと分かっていた。呼び掛けても、怒声を浴びせても、泣き縋っても、何一つ返って来る事はないのだと。

 ヒナは、知っているのだ。誰よりも近くで、その瞬間を見たのだから。

 

 それでも堪らず名を呼び続けたのは、微かな幻想に縋っているからだろうか。

 認めたくなかった、全てを失った事を、一番大切だったものが手の中から零れ落ちてしまった事を。今の今まで目を背け、直視を免れていた現実が、一気に去来したような心地だった。

 血の気の失せた土気色の肌も、呼吸の無い胸元も、閉じられたまま開く事ない瞼も。頭上から降り注ぐ一本の光源だけが、彼とヒナを照らしていた。

 

「―――……」

 

 長い、長い沈黙があった。

 ただ、痛い程の静寂だけが二人の間に流れていた。

 ヒナは濁り、淀み、煌めきを失った瞳で以て先生を見つめ続ける。据えた火薬の香りと、血の匂いが鼻腔を擽る。まるで世界に二人だけになってしまったような錯覚。

 だが、それもあながち間違いという訳でもない。

 多くものを、人を犠牲に、空崎ヒナはこの場に立っていたから。

 

「……もう」

 

 横たわる彼を見下ろしながら、ヒナは静かに拳を握り締めた。血に塗れ、赤を滴らせる指先が軋む。絞り出した声は、無様な程に震えていた。

 もう、耐え切れなかった。

 涙は出なかった、そんなものはもう既に枯れ果てる程流し続けた。底の底まで、全てを出し尽くした感情の果て――その時人は、こんな気持ちになるのだと空崎ヒナは初めて知った。

 改めて目にした先生の姿に、胸の奥へと広がるのは、悲しみでも怒りでもない。

 底の抜けた空虚。

 

 それを人は、絶望と呼ぶ。

 

「もう、全部」

 

 大切なものは、何一つ残っていない。風紀委員会も、ゲヘナも、シャーレも、何もかも。

 生まれ落ちたそれは、怒りや憎しみによる破壊衝動ではない。希望を失った果ての、当然の帰結とも云える。

 あまりにも静かで、穏やかな――。

 

「壊しちゃおっか」

 

 ■

 

 それで、あなた(わたし)が苦しまずに済むのなら。

 

 ■

 

「そんなの――」

 

 目の前のヒナ(自身)が歯を食い縛る。

 押し殺してきた想いを、腹の底から湧き上がった感情を衝動と共に吐き出す。言葉にしなければならない、そうでなければ届かない。

 握り締めた拳が、一際強く震えた。

 転がった愛銃を拾い上げる事もせず、全力で床を蹴飛ばし、飛び出すや否や拳を振り上げながら彼女は叫ぶ。

 

私達(空崎ヒナ)が、弱いだけじゃない……ッ!」

「―――」

 

 真正面から突き付けられた拳を、彼女は反射的に受け止めきれなかった。

 風切り音と共に振り抜かれた拳を無防備に喰らう、強化された身体能力、神秘の籠った打撃は頬を強かに打ち据え、鈍い打撃音を響かせた。蹈鞴を踏み、数歩後退る異なる世界のヒナ。骨が軋み、視界がブレた。

 けれど、即座に身構え、放たれた二撃目を手の甲で弾く。目の前に、必死の形相で此方に食って掛かるヒナ(自分)の姿があった。

 

「違う」

 

 短く、断ち切るような否定が漏れる。それは返答というより、自分を保つ為の声だった。

 

 だってそれ(弱さ)は捨てた筈だ。

 もう、ずっと前に――。

 

「何で、貴女は諦めたのッ!」

 

 諦めた? 一体、何を。

 胸中で問いを繰り返した瞬間、胸の奥に小さな違和が生まれた。それはほんの、小さな小骨が刺さった様な違和に過ぎなかったのに。彼女はそれから、意識を逸らす事が出来なかった。

 三撃、四撃、大振りの攻撃だ、空崎ヒナらしくもない。それは相手を打倒するというより、自身の感情をぶつける為だけの所作に思える。顔面目掛けて放たれた拳を躱し、腹部に繰り出されたフックを肘で阻止する。肉を打ち、骨をぶつける鈍い音、互いの視線が至近距離で交差し血と汗が弾ける。

 

「私が、何を諦めたって――」

「世界そのものを……! 立ち向かう現実、そのものをッ!」

 

 一体、何を云っているのだろう。あまりにも抽象的ではないか。異なる世界のヒナは、内心でそう切って捨てる。感情に訴えるだけの、根拠の無い言葉だと。

 それに、立ち向かう現実だと? そんなものは、あの世界に存在しなかった。

 あの世界の、何処にも、そんなものは。

 

「立ち向かう現実何て、どこにもなかったわ」

 

 放たれた声は静かだった。彼女はあくまで冷静を装う。二人の腕がぶつかり合い、振り払う。衝撃波空気を揺らし、互いに弾かれた様に後退した。床を滑り、身を屈めたまま睨み合う両者。

 現実とは、既に起きてしまった出来事の総体でしかない。故に己の罪悪の全ては、過去に存在する。そして過去は変えられない、あの時点で未来は選べず、破滅の結末は避けようが無かった。

 分水嶺は既に過ぎた、ならば一体何に立ち向かえというのだ。

 

「あの時、私は先生を失った――それが全て、あの時既に、運命は決まっていたの」

 

 そうだ、己の罪悪に云い訳の余地はない。理由も、事情も、必要ない。ただ結果だけが重く、刻み込まれる。

 あそこからどれだけ足掻こうとも、どんな道を選んでも、何を選択しても、辿り着く結末は同じだった。立ち向かう現実など、存在しなかった。

 

 だって空崎ヒナ()の世界は、終わりを迎えた(もう何処にもない)のだから。

 

「なら、それなら……ッ」

 

 ヒナが叫ぶ。

 叫ばずにはいられなかった。

 ゆっくりと身を起こし、荒い息を繰り返す彼女は再び拳を握り締め、真正面から問う。

 

「どうして貴女(空崎ヒナ)は、此処に居る――ッ!?」

 

 今、目の前にいる空崎ヒナは。

 過去に縛られ、未来を諦めた存在(貴女)が、何故。

 投げかけられた言葉に対し、彼女は当然の様に、淀みなく口を開いた。

 

「それは、先生(あの人)が」

 

 答えようとして、言葉に詰まる。

 そうだ、世界を終焉に導くという運命を実現させる為に、自分は此処へと運ばれた。あの人(先生)が望んだのだ。

 全ての終わりを。

 あらゆる世界の――幕引き(終幕)を。

 

「先生が、私を導いて―――……」

 

 声は段々と細く、力なく、虚空に消えていく。

 背後に佇む、プレナパテス(先生)の気配を感じ取る。

 あの人は立ち上がった。全てを投げ捨て、全てを捧げて、もう一度空崎ヒナの横に立ってくれた。その理由を自身は知らない、知ろうとしなかった。

 姿形を失って、心さえ存在するのか定かではなくて、問いかけようと思えば出来た筈だ。けれど自身は、それを選ばなかった。

 

 怖かったのだ。

 知る事が。

 また失ってしまう事が。

 また同じ悲しみを味わうくらいならば、知らずに居たかったから。

 だから求められるがままに、流されるままに、この世界へとやって来た。

 あの人がそう、望んだからと。

 その理由だけを握り締めて。

 

 

 ――本当に、そうなのだろうか。

 

 

 疑念は、唐突に生まれた。これは本当に先生の願いだったのだろうか。彼が望んだ事だったのだろうか。

 生み出されたそれは、音もなく胸に落ちた。続ければ、決定的な何かを失ってしまう気がしたのに。それでも、抱かずにはいられなかった。

 

「ヒナ」

 

 不意に、先生が声を上げた。

 異なる世界のヒナは、弾かれた様に顔を上げる。戦いが始まってからずっと二人を見守り続けた大人は、重く閉ざしていた唇をゆっくりと開く。

 

「君に、伝えなくちゃいけない事がある」

 

 大人のカードが放つ、煌びやかな青に照らされた姿は、プレナパテスとは余りに異なる。満身創痍であり、最早生命の残滓を僅かに握り締めるばかりだというのに、その立ち姿は超然と、力強く思えた。

 いつだってそうだ。

 自ら苦痛を請け負って、重い責任を抱えて、何もかもを背負い込んで。

 この人は、平気な顔で(笑って)進もうとする。

 

この世界(私の世界)へと辿り着いてくれた、ヒナに」

「――……先生」

「私から、他でもない君へ」

 

 この戦いの果てに、必ず。

 

 残された瞳から放たれた煌めきは、決して消える事が無く。

 先生は想う。

 自身に残された時間は僅かなのかもしれない。けれど残された全ての時間を費やして、精一杯、出来得る限りの言葉を尽くして。

 何としても、伝えなければならない。

 

 けれど、そこに至るまでの道は余りにも険しい。

 

 先生は一瞬、恥じる様に顔を伏せた。

 煌めく大人のカードに照らされた先生の表情に陰が落ちる。大人のカードを、シッテムの箱を通じて先生は感じ取っていた。今、この瞬間にもナラム・シンの玉座へと迫る影に。

 

「……あれだけの啖呵を切っておいて、すまない、どうやら私ひとりでは、まだ手が届かないらしい」

 

 苦笑にも似た、柔らかな声。

 残された時間の中で、目の前の彼女と決着をつけるには僅かに不安が残る。後もう少し、猶予が残っていれば。或いは、この世界の自分がプレナパテス()を凌駕出来るだけの何かを有していれば。

 自らの力不足を恥じながら、先生は迫る影に向けて独白を零す。

 

 辿り着ける可能性は低いと考えていた、けれど彼女の想いを、意志の強さを、己はまだまだ見誤っていたらしい。

 その一念は正に、岩をも通す程に強く、揺らがず。

 

「だから、どうか力を貸して欲しい」

 

 その瞬間、遅れて二人のヒナも気付く。

 微かに耳に届く、誰かの駆けるような音。

 迷いなく、此方へ一直線に駆けて来る気配。先程異なる世界のヒナが放ったイシュ・ボシェテ、その流れ弾が穿った内壁の一角。破損したゲートの隙間から、血にまみれた指先が飛び出した。

 それは尖り切った縁さえ気にも留めず、全力で表面に爪を立てた。

 

「ヒナを助ける為に、力を貸してくれるかい」

 

 ギチギチと金切り声を上げる内壁、破損したゲートの穴を指先で強引に広げ、裂いて行く。彼女の膂力では到底不可能と思えた所業は、しかし感情爆発が為せる技か、少しずつ、けれど確実に人ひとりが通れるほどの大きさを強引にこじ開ける。

 その向こう側から、赤を啜った淡青色の髪が躍っていた。

 先生は彼女を一瞥する事無く、万感の想いを込めて呼びかける。

 

「――アコ」

「当たり前、でしょうッ!」

 

 渾身の叫びと共に、彼女――天雨アコは障壁の隙間をこじ開け身を乗り出した。

 犬歯を剥き出しにし、肩を弾ませる彼女はそのままナラム・シンの玉座へと勢い良く踏み込む。剥がれ落ちた外装の一部が、けたたましい音と共に床を転がった。呼吸に合わせ首元のベルが音を鳴らす、場違いな程に澄んだ音が周囲に木霊した。

 

「っ、アコッ!?」

 

 予想もしていなかった人物の登場にヒナは驚愕の声を漏らし、戦闘の最中だというのに視線を正面から切ってしまう。

 しかし、その間隙を突くだけの余裕もまた、対峙した彼女には存在しなかった。

 その場に居る誰もが、驚愕で以てアコを迎える。

 

「遅れて申し訳ありません、ヒナ委員長……!」

 

 一歩、二歩、重々しい足取りで進む彼女は深く息を吸い、それから胸を張る。汗と血に張り付き、乱れた髪を掌で抑えつけ耳元に掛ける。だが彼女は骨身に堪える疲労をそれ以上見せる事無く、寧ろ溌剌とした声で叫んだ。

 

「天雨アコ、只今到着致しましたッ!」

 

 その声が、耳を打った。

 彼女らしい、凛とした意志表示。腰裏に備え付けたホルスターより愛銃のホットショットを引き抜き、彼女は残弾を検める。

 生半な道中ではなかった筈だ、すらりと伸びた両足のブラックタイツは無残にも裂け、白い肌から血が滴っている。歩く度に床へと続く痕跡が、此処に至るまでの困難を物語っていた。

 

「良く、来てくれた」

 

 淀みない足取りで駆け寄り、合流するアコに向けて先生は心から告げる。

 それは到着を喜ぶ言葉であり、同時に――ここまで生き延びてくれた事への、大きな安堵だった。

 そんな先生に対し、アコは鼻を鳴らして口元を歪ませる。

 

「自律兵器の攻勢が弱まったので、態々大回りして別区画から侵入して来ましたよッ! 一度閉鎖されたゲートを自力でこじ開けるのは難しそうでしたし、殆ど賭けの様なモノでしたが……!」

 

 全く、任せましたと云ったのに、何と云う体たらくですか。

 アコはそう云って、先生の胸元を優しく叩いた。叩いた――というより、殆ど触れたという表現が正しい。擦り切れ、肌の見える手袋越しに、アコの指先が先生に触れた。

 その言葉に先生は返す言葉を持たない。ただ、申し訳なさそうに苦笑を零すのみ。

 

「それと、あとの二人は残党の掃討です、そう遠くない内に合流出来る筈ですので」

「そうか――」

 

 簡潔な報告に、先生はシッテムの箱とカードを抱えたまま頷きを返した。ナラム・シンの玉座で繰り広げられる戦闘に、向こうのA.R.O.N.Aも本腰を入れる為、殆ど余分な機能を削ぎ落したのだろう。自律兵器の生産・顕現と全体的な防衛措置の間隙、それが彼女をこの場所へと導いてくれた。

 この調子ならば、ウトナピシュティムの防衛戦力と、道中を死守してくれた生徒達との合流も果たせるかもしれない。そんな淡い期待が生まれた。

 

「アコ、傷は」

「余計なお世話です、この程度で膝を突く程、風紀委員会は軟ではありません」

 

 即答だった。

 見るからに、アコは満身創痍だというのに。だが決して冗談めかした強がりではない。

 普段から身に纏っている特注の制服は所々裂け、血と汗と煤に汚れている。此処まで一切止まらず、自律兵器を退けながら駆け抜けて来たのだろう、呼吸も浅く顔色も優れない。幾度も自律兵器の光弾と鞭打に晒された身体は、痣と火傷に塗れていた。

 それでも、彼女の立ち姿は揺るがない。痛みを隠しているのではない、意識の外に存在しているのだ。

 痛みに勝る、優先すべき事柄があった。

 

「それに――」

 

 言葉を切り、アコは先生を改めて視界の中心に捉える。顔を顰めたくなる程度には、酷い状態だと思った。腹部と腕、足元に滴る赤は止まる様子を見せない。誰が見ても、人間としての限界を超えているだろう。疲労も、負傷も、ただでさえ絶不調であった調子は、此処での戦闘を経て更に悪化している様に思えた。顔に薄ら張り付いた微笑みはきっと虚勢以外のなにものでもない。

 だが、それを口にするつもりはなかった。

 今、この場で必要なのは弱音でも、不安でも、懸念の声でもない。

 

 アコは自身の前に立つヒナに視線を移す。翼は見るも無残な様子で、身体的な負傷も相応に深いように思う。まだ立っていられるのは、彼女の驚異的な精神力が為せる技か。

 

 そして、その向こう側に見える複数の影。

 サンクトゥムタワーよりヒナ委員長を攫った大柄な異形、その傍にぴったりと寄り添う小柄な白い少女。少女に関しては正体不明だが、あの異形に関しては多少分かっている事もある。単なる推測ではあるが恐らくこの騒動の黒幕、通常の射撃などでは一切ダメージを与えられない、ヒナ委委員長の至近距離での射撃を全て無効化した光景は、今でも覚えている。仕留めるとなれば、懐に飛び込んでの近接格闘が活路となるか。

 そして、最後に――。

 

「貴女は……」

 

 異なる世界のヒナが、アコをじっと見つめ続ける。

 良く観察すれば、その瞳が微かに揺れている事に気付いただろう。

 アコは、ヒナと瓜二つの存在が目の前に立ち塞がっていると云う現実に、一瞬だけ驚きと動揺を覚えた。

 しかし、それを表に出す事はしなかった。纏う気配が、自身の知る空崎ヒナのものと余りにも解離していたからだ。

 身に纏うドレスの様な衣装は普段の彼女らしくなく、幾分か大人びて見える、しかし羽織った外套は正に風紀委員会で彼女が愛用しているものだ。床に転がっている銃火器も、所々色合いや使用感こそ異なっているものの、間違いなくデストロイヤーである。

 

 ならば彼女は、自分の知る空崎ヒナなのか。

 強い疑念が、アコの身体を縛った。随分と雰囲気が異なる、何故ヒナ委員長が二人も、そもそもこれは現実なのか。

 思考し、アコは勢い良く首を振った。状況分析は後回しだと、そもそもからして虚妄のサンクトゥムの出現、ウトナピシュティムにアトラ・ハシースと通常では考えられない出来事が立て続けに起こっている。

 故に今理解すべき事は実にシンプルである。

 先生とヒナ委員長が共に居て、二人は満身創痍で、あの異形の元にもう一人のヒナ委員長らしき存在が居る。どちらが敵で、どちらが味方か、その裏に綴られた事情は分からない。

 だが今、何をすべきかは明白だった。

 

「事情は分かりません、ですが――ッ!」

 

 先生を背にしながら、ホットショットを握り締め一歩を踏み出す。

 先生の隣から、彼女の――空崎ヒナの隣に。

 自身の立ち位置は、どんな時も変わらない。

 

「ヒナ委員長には、私がついてますッ!」

 

 アコの瞳が、二人のヒナを捉える。

 先生は、『ヒナを助ける為に、力を貸して欲しい』と云った。

 その言葉がどちらの彼女を指すのか、彼は明言しなかった。

 ならば自分は、信じ尽くすだけだ。

 直ぐ横に立つ、これまで共に在った空崎ヒナも。今目の前に立ち塞がる、自身の知らぬ空崎ヒナも。

 天雨アコの信念は、シンプルである。

 彼女は真っ直ぐ、二人のヒナを見つめながら告げる。

 

どんな時だって、私は貴女と共に(【ずっと、待っていますから】)……!」

「――ッ」

 

 異なる世界のヒナ。

 彼女の表情が、ほんの一瞬、大きく崩れた。感情を押し殺してきた仮面に確かな亀裂が走り、奥底の色が噴出する。脳裏に過る声があった、途端堪え切れない情動が彼女の精神を強烈に揺さぶった。

 

「――その想いが、貴女を死に追いやった」

 

 呟きはあまりにも小さく、唸るような響きを孕んでいた。

 どんな世界でも決して変化しない、変わらぬ忠誠が、変わらぬ結末を呼んだのだ。自分は、その声に報いる事が出来なかった。自身の弱さが、その誤断こそが――。

 

「ヒナ委員長」

「……アコ」

 

 アコは足元のデストロイヤーをゆっくりと拾い上げ、ヒナへと差し出す。何度も打ち付け、被弾した外装は僅かに塗装が剥げ、大小の傷が刻まれていた。

 アコはもう一歩、ヒナとの距離を詰めた。

 守るためでも、庇うためでもない。

 共に立つという、ただそれだけの立ち位置である。

 

「現在地上では、チナツも、イオリも、風紀委員会の全員が死力を尽くして戦っています」

 

 その言葉に、ヒナは顔を上げる。血と汗に塗れ、痣を拵え、それでも懸命に此方を見つめるアコの瞳が直ぐそこにあった。

 皆が今、この瞬間も戦い続けている。

 

「ヒナ委員長、勝って……勝って、帰りましょう!」

 

 ――皆が、待っています。

 

 差し出された愛銃を、ヒナは痛みに引き攣る指先で以て受け取った。

 両腕に圧し掛かるズシリとした重さは、質量以上何かを受け渡された様な心地であった。

 

「……えぇ」

 

 小さく、口元から声が漏れた。擦れ、草臥れた声だと思った。けれど、身体は自身が想っていた以上にすんなりと動く。胸の奥で渦巻いていた感情は、すぐには形にならなかった。それらを噛み締めるように、ゆっくりと呼吸を整える。

 

 背中に背負う温もり、目に見えなくとも支えてくれる掌。

 この体を包んでくれている青い光以外にも、空崎ヒナの身体を、心を支えてくれている存在が居る。

 

「えぇ、そうね」

 

 万感の想いを込めて、言葉に出来なかった全てを、その一言に託して前を向く。

 アコとヒナの両足が、確りと地面を踏み締めた。並んだ両者は対峙する異なる世界のヒナを、乗り越えるべき困難を真っ直ぐに見据える。

 

「―――」

 

 ゆっくりと、緩慢な所作で同様に愛銃を拾い上げた彼女は背を向けたまま沈黙を守る。俯き、長髪に隠れた表情は影になって見えない、ただ僅かに揺れる、色褪せた腕章を取り付けた外套だけが視界に踊っていた。

 プレナパテスは、そっと鉄仮面を指先でなぞる。薄汚れた包帯に包まれ、細く伸びた指先は冷たい仮面を静かに撫でた。その伽藍洞の瞳で捉える、彼女の姿(表情)に――声にならぬ想いを抱いた。

 

「乗り越えるわ、貴女を」

 

 垂れた腕に掴んだ銃口が床に擦れ、金切り音を鳴らした。青に照らされる両者、空崎ヒナは想う。先生の云う通りだと、自分一人で出来る事なんて知れている。

 空崎ヒナは、きっと弱い存在なのだ。

 一人じゃ立ち上がれない、一人では立ち向かえない――一人では戦えない。

 だから。

 

 私ひとりで、じゃない。

 

「――皆で、一緒に」

 

 勝利(未来)を掴むのだ。

 

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