ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

332 / 340
このたった一話を書く為に、多大な時間を要しましたわ…。
今回約30,000字ですの!


世界(あなた)が私を忘れても、私は世界(あなた)を忘れない。

 

「――さん」

 

 誰かが、自分を呼ぶ声がした気がした。遠く、深い水の底から響いてくるような、輪郭の曖昧な呼び声。意識はまだ現実に辿り着けず、夢と現の境目を漂っている。微かに吐息が漏れた、呼び声に抗う様な些細な抵抗が。

 

「サオリ姉さんッ!」

「っ!?」

 

 次の瞬間、身体を揺さぶられる衝撃が伝わり、サオリは弾かれたように飛び起きる。

 びくりと全身が跳ね、反射的に息を呑んだ。

 見開いた視界には至近距離でこちらを覗き込む見慣れたヒヨリの顔。眉を寄せた心配そうな表情と、その隣で腕を組み、半ば呆れたようにため息をつくミサキの姿。サオリはベッドの上で呆然と二人の姿を認め、暫しの間荒い呼吸を繰り返す。

 

「いつまで寝ているのさ、流石に気が抜けすぎ」

 

 ミサキの唇から漏れたそれに言葉を返そうとして、喉が張り付いたように動かなかった。気付けば、肌にまとわりつくひんやりとした感触。嫌な汗だった、背中も額も、じっとりと濡れている。

 場所は見慣れた簡素な内装、壁際に寄せられた愛銃と、最低限揃えられた生活用品。此処しばらく身を寄せていた、先生のセーフハウスに間違いない。見知った光景に、少しばかりサオリの心は落ち着きを取り戻す。

 

「―――……」

 

 サオリは深く息を吸い、前髪を乱暴に掻き上げながら手の甲で額の汗を拭った。

 その様子を見ていたアツコが小さく微笑んだ。

 

「ふふっ、サッちゃん、昨日の夜は大変だったもんね」

 

 その一言で、サオリの脳裏に過る記憶がある。

 そうだ、確か昨日はかなり激しい戦闘があった。元から危険度の高い依頼であったが、想定外の横やりが入って応戦せざるを得ない状況になったのだ。

 それによる疲労だろうか、無意識に胸元へ手を当てる。心臓の鼓動がやけに速く感じられた。動悸が激しく、呼吸のリズムがなかなか整わない。

 

「ど、どうしたんですか、サオリ姉さん」

「……もしかして、本気で体調でも悪い?」

「あ……あぁ、いや――」

 

 暫し無言を貫いていた事が、彼女達の不安を煽ったのだろう。ヒヨリの声は心配げな色を含み、ミサキの視線は鋭くも、その奥に懸念が混じっている。

 二人の表情を見て、サオリは我に返るや否や慌てて首を横に振る。体調が悪い訳ではない、仲間を不安にさせるなどリーダー失格だと。

 これは、ただ――。

 

「嫌な夢を、見ただけだ」

 

 苦笑と共にそれだけ告げると胸の奥に残るざらつきを押し殺すように、もう一度小さく息を吐いた。

 

「……それで、次の依頼は?」

 

 二人から注がれる視線を振り払うようにしてベッドから立ち上がったサオリは、意識的に話題を切り替えた。枕元に常備していた拳銃を手に取り、手早く弾倉を抜く。一瞬思案する素振りを見せたミサキであったが、どうも嘘という訳でもなさそうだった。それ以上追及する事はせず、素直に手元の端末を点灯させた。

 

「埠頭にある警備会社から夜間警備の仕事が一つ、D.U.の方だね」

「え、エリアは結構広いみたいですが、真っ当な企業からの依頼です、報酬も多いですよ!」

 

 ミサキは端末を手早く操作し、詳細な依頼内容を表示させると、そのままサオリに画面を差し出した。受け取ったサオリは表示される依頼内容をさっと確認し、詳細な地形情報、警備範囲、時間帯、注意事項等――整理された情報を頭に叩き込む。

 一方ヒヨリは、提示された報酬額に対し無邪気に目を輝かせていた。満面の笑みで、何やら今月号の雑誌を久々に購入出来るだとか、新刊は付録がどうだとか、楽しげに呟いている。

 そんな彼女を横目にミサキは淡々とした口調で続けた。

 

「腕が立つ傭兵が重宝されるのは、裏も表も同じみたいだね、軽く洗った程度だけれど依頼元の企業が表側にあるのは確か――まぁ裏と繋がりがある時点で真っ当と云えるかどうかは疑問だけれど」

 

 ミサキの言葉は皮肉混じりだったが、声音には隠し切れない喜色があった。拠点を転々とし安住とは程遠い生活を続けている自分達。それでも人のいる場所には必ず噂が残り、評価は少しずつ積み重なっていく。

 それを想えば感慨深いものだ。

 

「昔と比較すれば、凄い進歩だよ」

「……あぁ、そうだな」

 

 アツコの純粋な喜びを孕んだ言葉に、サオリは深く頷きを返した。

 

「最初の頃とは、大違いだ」

 

 過去を思い返し、懐かしむ様な、苦々しく思う様な、そんな声が漏れる。

 ただ生き延びる為だけに必死で何もかもが手探りだった毎日。スクワッドと僅かな伝手だけが全てで、明日を考える余裕すらなかった頃と比較すれば――今の環境は一体どれだけ恵まれているのだろう。

 漸く自分の力で生きる道が輪郭を持って見え始めた気がした。

 まだ未来の事は分からない。その道筋を思い描く事さえも。ただこれは、その道に至る為の一歩だと思うのだ。

 

「埠頭、船――海、海かぁ」

 

 不意に、アツコが思案するように頬へ指を当て呟いた。視線は頭上を仰ぎ、どこか遠く、まだ見ぬ景色を思い描いているようにも見える。暫し唸っていた彼女は不意にくるりと身を翻し、他の三名へと目を向けた。

 

「ねぇ、最近お金も大分貯まって来たよね?」

「……アツコ?」

 

 唐突な口ぶりに、サオリは思わず彼女の名を呼んだ。ミサキも一瞬目を瞬かせてから質問の意図を掴みかねるも、軽く自身の背嚢を一瞥し頷く。

 

「まぁ、先生に送る分を差し引いても一応それなりに貯金はあるけれど――」

「それなら、皆で海を見に行かない?」

 

 それは、予想外の提案であった。

 室内の全員が揃って驚いたようにアツコを凝視し、沈黙する。当の本人はいつも通り、嫋やかな笑みで以て皆を見渡していた。サオリ、ヒヨリ、ミサキの三名はそんな彼女を暫し唖然と眺め、それからそれとなく顔を見合わせる。

 

「う、海ですか?」

 

 問い掛けたヒヨリの声が、思わず上擦っていた。何せその言葉自体が彼女たちの日常からは遠い場所にあったのだから仕方ない。

 

「海って、姫、そんな所に足を運んでどうするの? もしかして、また訓練?」

「水泳訓練か? 確かに時期としては悪くないかもしれないが……」

「ううん、違うよ」

 

 海に行って何をするのか、海上演習、水泳訓練、遠泳、サオリの脳裏に並ぶ単語に対しアツコは首を横に振る。これはそんな堅苦しいものでもなければ、小難しく考える事でもない。アツコは取り出した端末のカメラ機能を起動しながら、その縁をなぞり楽しそうに云った。

 

「綺麗な海を皆で探してさ、先生も誘って、皆で一緒に旅行に行くの」

「旅行……?」

「み、皆で、海――」

「……先生も、一緒に?」

 

 瞬間、皆の動きがぴたりと止まった。

 あり得ないと、一瞬の内に脳裏に過った言葉はそれだ。

 日々生きていくだけで精一杯で、ただですら自分達は追われる身である。そんな状況で旅行、ましてや海へ遊びに行くなどと。

 しかしあまりにも自然に、あまりにも無邪気に、アツコが云うものだから。

 全員が一瞬、その光景を脳裏に描いた。

 自分達の立場からは遠い、遠すぎる情景――だというのに何故だろう、違和を感じる事は無かった。

 

「きっと、良い思い出になるよ? 水着を買って、写真も沢山撮ってさ」

 

 鼻歌交じりにアツコは楽しそうに語って聞かせる。両手で構えられた端末は自分達に向けられていた。既に写真撮影の準備は万端だとでも云いたげに。

 残された三名はそれとなく視線を通わせながら、小難しい顔で黙り込んだ。唯一、ヒヨリだけは僅かに紅潮した頬を隠す事無く期待するように指先を遊ばせている。

 

「……気が早すぎ、まだ春も来ていないのに」

「でも、計画するなら早い内に、だよ」

 

 ミサキは一見すると冷静な口調でで、どこまでも現実的な姿勢を崩さない。だが、その言葉の端々に拒絶はなく、むしろ慎重な同意が滲んでいるように思えた。

 ヒヨリは暫し沈黙を守った後、恐る恐ると云った風に問いかける。

 

「りょ、旅行なら、美味しいものも沢山食べれますよね……?」

「うん、一日ちょっと遊ぶ位なら何とかなるよ――だよね、ミサキ」

「……移動費用を抑えれば、皆で少し高めの食事程度なら問題ない、かな」

「じゃあ決まり」

 

 アツコはそう云って花が咲いた様に笑った。誰かが反駁するものだと思ったが、思いのほか言葉は出て来なかった。ひと昔前であれば、「何を馬鹿な事を」と空想染みた話の一つとして一蹴していたに違いない。

 けれど今のスクワットにとって、アツコの語った未来の光景は決して突飛な空想ではなく、「悪くない」と自分が感じていることを、サオリははっきりと自覚した。

 

「――海、か」

 

 ぽつりと呟き、サオリは瞳を細める。視界の先で手を叩き合って喜ぶアツコとヒヨリの姿がある、そんな二人を辟易とした表情で見守りながら、けれど微かに口元を緩めるミサキの姿も。

 サオリはただ、じっとその光景を凝視する。

 自分が何としても守りたかった光景――何を犠牲にしてもと願った未来。

 胸の奥に、じんわりと広がる熱があった。

 

「………」

 

 随分と、人並みの生き方が許されるようになったと思う。

 

 サオリは仲間達を見守りながら、強くそう感じた。

 未来についてあれこれ考える事など、自分達には一生許されないものだと信じ込んでいた。アリウスでは、過去こそが全てだったから。過去とは即ち、憎悪と殺意、後悔と復讐の連鎖、求められる役割を果たしてこそ生きる権利が与えられた。

 背負ったものから逃げることは許されず、明日よりも昨日が重くのしかかる場所。自由など何処にもない、それこそが自分達アリウス・スクワッドの出発点。

 

 だが、今は。

 

「――サッちゃん?」

 

 黙り込んだサオリを不思議に思ったのだろうか、アツコが振り向き小首を傾げた。サオリは薄らと微笑みを浮かべ、軽く手を振ってみせた。

 何て事は無い、感傷に浸っているだけだと。

 

 不意に、テーブルに飾られた色とりどりの花が目に入った。

 それぞれ一輪ずつ、アツコが外から持ち込んだものだった。彼女曰く、一輪ずつ方々を駆けまわって自ら摘んで来たものらしい。

 白、紫、青、桜色と、一輪ずつ揺れるそれは無機質なセーフハウスの中で、戦う事しか知らない自分達の変化を分かり易く表している様に思えた。

 アツコが花を花瓶に差しながら口ずさんでいた言葉を思い出す。

 

『まずは、喜び――これはヒヨリに』

 

 いつか。

 そう、まだ目途すら立っていない夢物語に過ぎないけれど。

 いつか、遠い未来に。

 

『次に、希望――これはミサキに』

 

 自分達の罪と本当の意味で向き合い、すべてを受け止め、清算し。

 再びアリウスの生徒として陽の下を、胸を張って歩ける日が来るとしたら。

 

『それから、幸せ――これはサッちゃんに』

 

 もし、そんな日が来るとしたら。

 

『そして最後に、これは――』

 

 叶わぬ夢かもしれない。

 夢物語で終わるかもしれない。

 けれどあの日、アツコは笑って云ったのだ。

 

 

 ――自分()達に、綺麗な野花(可能性)を見せながら。

 

 

『夢が叶いますようにって、私に』

 

 そんな漠然とした、夢としか呼べない希望を抱くことさえ出来るようになった今。

 その事実自体が、ただ嬉しくて。

 

「……あぁ」

 

 サオリは腹の奥底から、感嘆の吐息を零す。

 自覚するより先に、自然と浮かんだ笑みがあった。

 こんな風に家族と共に在れる事が、明日を希望と共に迎えられる事が。

 錠前サオリにとっては、何よりも――。

 

「――幸せ、だな」

 

 ■

 

「……カハッ」

 

 喉の奥から、空気を掻き出すような音が漏れた。

 暗闇に落ちていた意識が浮上し、瞼が跳ね上がる。同時に強烈な痛みが全身に走り、唾液と共に口の中に混じっていた血を堪らず吐き出した。頬と腹部に、凄まじい痛みと熱を感じた。まるで熱した鉄の塊か何かを押し付けられたかのような。

 

「ごほッ、こほっ……!」

 

 完全に目が覚める、肺が焼けるように痛み、呼吸がうまく整わない。地面を転がりながら胸元を掴み、必死に堪える。一瞬自分が何処に居るのか、何をしていたのか分からなかった。しかし薄暗い周囲と無機質な床を掌で掴み、思い出す。

 

 そうだ自分たちは、アトラ・ハシースで――。

 

「あ、アツ、コ……ッ!」

 

 必死に首を動かし、焦点の定まらない視界を巡らせる。そこに映ったのは、何か巨大な爆発でも起こったのかと思う程の黒ずみ、刻まれた爆発痕、損傷。地を舐める微かな火種が周囲を緋色に照らし、方々に崩れ落ちた仲間たちの姿がある。

 アツコ、ミサキ、ヒヨリ。

 皆の名前を呼ぼうとするが、声は喉の奥で掠れ、形にならない。

 よく見れば、倒れているのは自分たちスクワッドだけではなかった。

 外周には吹き飛ばされたのか、ナラム・シンの玉座に辿り着いていた他の生徒たちも軒並み地面を這っている。ワカモ、ヒナ、アコ、ミカ、先生さえ同様に。

 一体、何があったのか。どんな攻撃を受けたのか。それすらも定かではない。

 思考が追いつかず、記憶の断片すら掴めない。

 

「どれだけ」

「……!」

 

 その一言が耳に届いた瞬間、肌が刺す様な痛みを発した。

 光が遮られ、視界に影が差し込む。這い蹲るサオリの上へと、人影がゆっくりと逃げ場を塞ぐように伸びて来た。

 まるで、錠前サオリという存在そのものを覆い尽くすかの如く。

 

「私が、どれだけ――ッ!」

 

 腹の底から絞り出される、唸り声。

 喉の奥で震え、濁り、滾り、粘つく感情の余波が空気を震わせる。地を這ったままぎこちない動作で顔を上げれば、そこにいたのは悍ましい形相で此方を睨み付ける異なる世界のヒナ。

 ただ佇んでいるだけで、圧がある。怒りと憎しみが幾層にも積み重なり、一人の存在を形作っている様な。

 そんな感想を抱いてしまう程に、強烈な圧迫感がサオリの全身を押さえつけていた。

 

「貴女を憎み、呪いながら生きて来たか、知らないでしょう……っ!?」

「ぅ――」

 

 言葉の一つ一つが、宛ら鈍器の如くサオリを殴りつけた。

 意味より先に重さが到来する、その圧に肺が押し潰され、息が詰まり、思わず身が竦んだ。

 

「私から、全部を奪った、大切なものを全部、全部全部ッ!」

 

 踏み出した一歩が、床を踏み抜き砕いた。

 噴き出すような怒り、堰を切った感情が、なけなしの理性を押し流す。抑えきれない憎悪が、その声音と表情を歪めていた。

 

 彼女の容姿は、空崎ヒナに酷似している。

 だが自分達の知っているゲヘナの風紀委員長は、行政官と共に先生と重なり合う様に床を這っていた。恐らく攻撃を受けた際、先生を守ろうとしたのだろう。だとすれば、目の前の存在は一体誰なのか、彼女もまた空崎ヒナなのか。

 この場所で何が起こったのか、錠前サオリには分からない。

 ただ、確かな事が一つある。

 もし、彼女が自分の知るゲヘナ風紀委員長と同じ道を辿ったのであれば、今叩きつけられる特大の憎悪にも心当たりがある。

 

 ――なぜなら空崎ヒナの目の前で、自分(錠前サオリ)は先生を撃ったのだから。

 

 目の前の存在が空崎ヒナならば。

 彼女には権利がある。

 自身に復讐する、権利が。

 錠前サオリのヘイローを破壊する(を殺害する)、権利が。

 嘗てアリウスが、そう謳った様に。

 

「錠前サオリ、貴女だけは――ッ!」

 

 濁り黒々と染まった瞳が、真っ直ぐにサオリを射抜く。逃げ場はない、視線を逸らすことすら許されない。無造作に銃口が突き出され、世界が殺意の境界線で区切られる。

 サオリは何事かを口にしようとして、しかし唇をきつく噛み締めるだけに留めた。

 今更何を口にする、何を弁明する、何を釈明する。

 自分が幾ら叫んだところで、どれだけの意味があるというのか。堪え切れない憎悪に覆われた心に対して、どれだけ言葉が無力なのかは自分自身が良く知っている。

 サオリは突き出された銃口に対し、甘んじて受ける様に首を垂れ、沈黙した。

 しかし――。 

 

「何をやっているの、サオリ――ッ!」

 

 横合いから、鋭く影が飛び出す。

 勢い良く放たれた靴底が空崎ヒナの突き出した銃口を蹴飛ばし、大きく逸らす。突然の衝撃、上半身が泳ぎ、ヒナの瞳が飛び込んで来た人影を捉えた。

 

「これ以上は、やらせないよ……!」

 

 蹴り飛ばした姿勢をそのままに床を滑ってサオリの前に立ちはだかる姿、赤を纏った白い翼が広がり、抜け落ちた羽が周囲に散る。ミカの手入れされ、美しく保たれていた翼は片翼が焦げ付き、見るも無残な姿と成り果てていた。

 

「聖園、ミカ……ッ!?」

 

 サオリを庇ったのは聖園ミカ、彼女がサオリと空崎ヒナの進路を遮り、己の体を壁とした。右手に愛銃を、左手に拳を固め額に汗を流し純白の制服を汚し余裕のない姿は、サオリをして初めて見た気がした。

 

「――これ以上、誰も、誰一人、先生の前で失わせたりしないから!」

 

 その決意は鋼の如き堅牢さを持ち、痛烈な意思が肌を通して滲み出る。

 ミカの横やりに驚愕を露にしたヒナであったが、即座に目の色を変え愛銃を引き戻すと、怒声を発し鈍器の如く銃身を振り抜く。

 

「邪魔をするなァッ!」

 

 吐き出された感情が真正面から衝突する、ヒナは全力で愛銃を薙ぎ払いミカを跳ね退けようとした。風切り音と共に放たれる銃器での打撃、技術も何もない膂力と強化された神秘にモノを云わせた一撃。ただ、込められた神秘の密度が桁違いである。本来両者に純粋な身体能力、戦闘技能、それらに大きな開きは無い筈だった。

 だが今の空崎ヒナの精神状態は通常のそれとは異なる、精神が箍を外し肉体的な限界点を取り払っていた。

 

「ッ、分かるよ! 貴女の気持ち、私には……!」

 

 凄まじい風圧と勢い、頬を掠め空間を抉る様な打撃。それを辛うじて躱しながら、床を踏み締めるミカ。振りかぶった拳をヒナの頬目掛けて繰り出すが、真正面から掌で受け止められ、周囲に衝撃が走った。

 互いの吐息が絡み合い、混ざり合うほどの至近距離で剥き出しの感情が瞳越しに混ざり合う。

 

「分かる、分かるですって!? この憎悪が、激情が、この世界で生きる貴女にッ!?」

「確かに私はこの世界の聖園ミカだよ! けれど、それだけじゃない!」

 

 握り締めた拳を払い、互いに一歩退く。

 そこから一呼吸の間に交差する打撃の応酬、殴打の雨を捌きながら、ミカは一歩も退かない。傍から見れば残像ばかりが尾を引き、空気が破裂する様な音と衝撃、風が周囲を突き抜ける。

 殺意と憎悪が籠った破滅的な攻撃だった、それを悉く真正面から受け止めるミカ。そうするべきだと思った、そうしなければならないと思った。

 同じ道を辿ったからこそ。

 同じ道を辿り、異なる結末を選んだらからこそ。

 その表情を歪め、掌に血を滲ませ、痣を拵えながら耐え切る。

 

「――二人分の経験、二人分の記憶、二人分の感情! 二人分の願いと、祈りッ!」

 

 全力で振り抜かれた拳を弾き、勢い良く一歩を踏み出す。ジン、と衝撃が骨を震わせた。その向こう側で、強い光を湛えた瞳が星の如く煌めく。

 

「私だって、背負っているんだから――ッ!」

 

 言葉は血肉となり、聖園ミカの四肢を支える。

 彼女の苦しみを理解する。降ろせない重荷を抱え、歪な形で進み続けるという痛み。ただ重なり合った時間と感情が、耐え切れずに溢れ落ちていく感覚。それを聖園ミカは、良く知っている。

 

「理解出来るというのなら、尚更――!」

 

 ヒナは盛大に顔を歪め、犬歯を剥き出しにして叫ぶ。

 込められた全ては、怒りだけでは足りないのだ。失われたものへの悲嘆、取り戻せない未来への絶望、過去への慟哭、可能性への渇望、それらが混ざり合い、空崎ヒナの表情を醜く歪ませる。

 

「アリウススクワッド、錠前サオリ……!」

「ッ……」

 

 ヒナの視線が、ミカの背後で這い蹲るサオリを捉える。

 理性を焼き尽くすほどの憎悪が濁流のように雪崩れ込む。過去から続く後悔は、永遠に埋まらない喪失そのもの――すべてが沈殿し、黒く濃縮された感情の濁りは留まる所を知らない。

 

「貴女達さえ、貴女達さえ存在しなければ、私は、皆は、先生は! あんな結末を辿らなかったのに――ッ!」

 

 血を吐く様な想いで、悍ましい程に凝縮された重苦しい感情と共に放たれた言葉は鋭利な刃となり、サオリの胸元を突き刺した。

 怨嗟――その一語では到底収まりきらない、長い時間を掛けて生み出された呪詛。自分一人だけ生き残った空崎ヒナが、延々と抱き続けた全て。

 どうして自分達はこんな事になったのか、こんな結末に至ったのか、こんな苦しみを味わう事になったのか。

 全て、全て、全て――。

 

「貴女達さえ、存在しなければッ!」

「――あぁ」

 

 叩きつけられる慟哭に、サオリの口から弱々しい嗚咽染みた声が漏れた。

 唇が震え、指先を強く握り締める。

 否定の言葉は出ない。反駁の気力さえ生まれなかった。サオリはただ地面に這い蹲ったまま、歯を食いしばって認める事しか出来なかった。

 自らの犯した罪を、その結末。

 彼女の抱く、憎悪の正しさ。

 

「貴女を、許せる筈ないでしょう――ッ!?」

 

 異なる世界のヒナは咆哮する。

 その声は空気を震わせ、鼓膜を打ち、理性を押し流すほどの激情を孕む。

 大きく振りかぶられた長銃の銃身が軋み、金切り音を搔き鳴らした。その彼女らしからぬ暴力的な衝動こそが、空崎ヒナの抱いた激情の大きさを証明している。轟音、衝突、翳したミカの左腕にバレルが衝突し、鈍い音を鳴らした。ミカの顔が歪み、その両足を支える床が円型に砕ける。飛び散った破片が肌を打ち、細かな傷を幾つも生み出した。

 

「なら、憎しみは――ッ!」

 

 ミカはそんな彼女の顔を見返し、全力で押し返しながら声を張り上げる。互いの両足が床を踏み抜き、汗と血が弾けた。

 

「その連鎖は、どこまで続ければ良いの!?」

「どこまでもよッ!」

 

 ミカの問い掛けに、ヒナは即座に、全力で応じる。考える間など存在しなかった。迷いも、逡巡も、入り込む余白すらない。声は、憎悪そのものが人の喉を借りて発せられたかのようにおどろおどろしく、周囲の空気を震わせる。

 

「互いが互いを滅ぼすまで、その存在が掻き消えるまで、この憎しみは消えはしないッ!」

「やったからやり返して、傷付けたから傷付け返して、それで、誰が幸せになるの……ッ!? その道を選んだ先で、私達は幸福な結末を迎えられるのッ!?」

「そんなの、求めていないッ!」

 

 ヒナが全力で力を籠め、ミカの腕が軋みを上げた。空崎ヒナの全身から吹き上がる神秘が空間を歪ませ、ミカの膂力を容易く凌駕する。堪らず、ミカは犬歯を剥き出しにして苦痛を噛み殺す。

 幸福、その言葉自体が空崎ヒナにとっては幻想そのもので。

 

「――私達の世界に、幸福な結末なんて存在しなかったッ!」

「ぐッ!?」

 

 身体を突き抜ける、途轍もない衝撃。

 咄嗟に防御ではなく受け流す選択を取ったミカの腹部に、ヒナの無造作な蹴撃が叩き込まれる。理屈を超えた、感情が質量を持ったかのような一撃。臓物が震え、肋骨が軋み、まるで腹部にゼロ距離で砲撃を貰ったかのような衝撃と痛みだった。

 ミカの身体が浮き上がり、そのまま地を擦って後退する。

 踏み止まろうとする彼女は前傾姿勢のまま拳で床を殴りつけ、強引に停止を敢行する。しかし、距離が生まれた。ほんの十メートルに満たない距離であったが、一呼吸分の間隙が生じる。

 

「私達だけ失って、全部全部無くなって! だと云うのに、貴女は、あんな、あんな顔で――……!」

 

 言葉が途切れ、ヒナは悲嘆に暮れる。片手で顔を覆い、荒々しい息を吐き出した。

 あんな満足そうに、あんな安心した様に最期を迎えて。

 

「貴女は、貴女だけは――ッ!」

 

 覗く瞳から、一筋の()を流す。肉体は理性の枷を完全に振り切り、もはや漏れ出る神秘は既存の器を逸脱したナニカに至り掛けていた。

 生み出される純粋な殺意、それを湛えて彼女は叫ぶ。

 何を賭しても、何を犠牲にしても。

 それこそが、あの世界で消えて行った無数の命に報いる為の――。

 

絶対に(私が)殺すッ!」

 

 

 ――私だけの、贖罪である。

 

 

「A.R.O.N.Aッ!」

「―――」

 

 恐ろしい咆哮がA.R.O.N.Aの名を呼ぶ。喉を裂き、肺を削り、命そのものを押し出すような呼びかけ。

 それを聞き届け、A.R.O.N.Aは無言で瞼を閉じる。彼女の意図するところを正確に汲み取り、しかし実行する事に一瞬のラグが発生した。

 感情はない、迷いも、躊躇いも、介在してはならない。ただ、与えられた命令を遂行するという、純粋で確固たる意志だけが存在すればそれで良い。

 小さく口に空気を含む、そんな必要は無いと云うのに一拍の間をA.R.O.N.Aの肉体は要した。

 それから指先を払い、A.R.O.N.Aはゆっくりと瞼を押し上げた。

 

「指示を確認」

 

 傘を広げ、くるりと回転させる。座標はナラム・シンの玉座、空崎ヒナ周辺一帯、強度よりも範囲と性質を吟味し演算を瞬きの間に終了させる。

 必要なのはほんの数秒、計測を終えたA.R.O.N.Aは冷然と命令を実行する。

 

「対象周辺、防壁を展開します」

 

 瞬間――異なる世界のヒナとスクワッド、それ以外の世界が分断される。

 ヒナとスクワッドを囲う様に、青白い防壁が唐突に展開され、空間そのものが歪み、光が面を成し、塗り潰した。

 

「っ、ぅ!?」

 

 何かを感じ取り、空崎ヒナの元へと駆け出していたミカは、防壁の展開と同時に勢い良く見えない何かに弾かれる。硬質的で絶対的な力が身体を押し返し、抗う意思ごと後方へと追いやられる。

 空崎ヒナとの距離が意志とは無関係に引き離されていく。

 

「痛ッ――!」

 

 ミカは弾かれた勢いそのままに床の上を転がり、受け身も取れず、ナラム・シンの玉座の内壁へと叩きつけられた。壁が陥没し、衝撃で全身が軋む。半ば壁に埋まったまま瓦礫片を被り、呆然と目前に聳え立つ光の壁を見上げた。

 

「これって……」

 

 恐る恐る手を伸ばすと視界を覆う青白い光が波紋を生み、自分が光の外側へと隔離されたのだと理解した。

 

「まさか、先生(シッテムの箱)の――?」

 

 それは見覚えのある力だ。幾度となく見た、防護と遮断の光。誰かを守るために使われたはずの力が今はこの様な形で道を阻んでいる。

 

「ッ――!」

 

 拙いと、本能的にそう思った。

 防壁の内側には空崎ヒナとスクワッドが取り残されている。錠前サオリは動けない、この先に待っている結末は、火を見るよりも明らかだ。

 ミカは咄嗟に拳を振り上げ、青白い防壁に向けて全力で打ち付ける。途端巨大な鐘を突く様な残響、衝撃音が周囲に轟きミカの長髪が靡いた。

 しかし防壁には亀裂一つ入る事無く、衝撃の波が表面に波紋を広げるのみであった。拳に伝わる岩石よりも硬い感触、当然だ、これは本来先生を守る絶対的な盾となる力。物理的にこじ開けるには余りにも時間が足りない、数発拳を全力で打ち込んだ所で突破は不可能だと手応えから悟った。

 

「やめッ――!」

「錠前」

 

 防壁越しにミカが叫ぶ。

 しかし、此方の声は届かない。空崎ヒナは止まらない。振り返る事もしない。

 名を呼ぶ声は、ただ一つの感情にのみ支配される。

 

「サオリィイッ!」

 

 叫びが、防壁の内側で反響する。

 逃げ場のない閉鎖空間、ここは空崎ヒナが用意した断罪の場なのだ。

 突き出された空崎ヒナの愛銃、その銃口に眩い神秘が収斂されていく。サオリはただ呆然と、その光に照らされ眺める事しか出来ない。

 

「―――」

 

 予感があった。

 全身を覆い尽くす様な、破滅の予感だ。 

 あの光を受ければ、自身のヘイローはただでは済まないという確信。生存本能がサオリの身体を無理矢理動かし、傷と血に塗れ震える両腕が彼女の上半身を持ち上げようとした。爪が床を取られ、赤が滴る。

 けれど同時に、精神的な部分で諦観を望む自身も存在した。

 

 空崎ヒナの怒りは、憎悪は、正当なものである。

 ならばこれから齎されるのは正しき報復であり、復讐だ。錠前サオリが己の罪悪を認めるのであれば、裁かれる事こそが正しい行いなのではないか。

 真に己の罪を悔いるのであれば――此処で終わりを迎える事こそが。

 

 サオリの視界、その先でゆっくりと引き金が絞られる。

 死に際の境地か、やけに時間が遅く感じられた。様々な感情が胸を巡る、生存本能が身体を突き動かす、家族を想い巡る記憶、同時に湧き上がる諦観の念。それらが一瞬の内にサオリを包み込み、もう取り返しがつかないという鈍色の光が震える四肢を強固に地面へと縫い付けた。

 

 アツコ、ミサキ、ヒヨリ――……先生。

 

 掠れた呟きは、閃光の前に掻き消える。構えた銃口が火を噴き、乾いた発砲音が空気を引き裂く。

 サオリは奥歯を噛み締め、体を強張らせながらきつく瞼を閉じた。

 最後の瞬間を覚悟する。

 恐怖は無かった、あるのは後悔と自責の念、そして未練。スクワッドへの、家族への、消して断ち切る事の出来ない想い。

 憎悪に彩られた弾丸が肉を穿ち、骨を砕き、意識が闇へ沈むまでの僅かな刹那――サオリはそれを、粛々と受け入れようと決めた。

 

 しかし――予感した破滅の瞬間は、いつまで経っても訪れない。

 

 代わりに直ぐ目の前から耳を劈く金属音が響いた。弾丸が金属に叩きつけられ、鈍く、重い響きが空間に跳ね返る。肉を裂くはずだった音が、拒絶されるように歪んでいた。肌を打つそれは次いでけたたましい騒音へと代わり、直ぐ横に何かが、誰かが転がって来る気配。

 サオリは唐突なそれに閉じていた視界を開き、恐る恐る視線を向ける。

 

「っ、ぅ――」

「なッ……」

 

 一瞬、サオリは愕然とした表情を晒し、堪らず叫んだ。

 

「ミサキ……!?」

 

 直ぐ傍で這い蹲る影は、ミサキだった。

 手元には見慣れたヒヨリのガンケースが転がっており、その表面は赤熱し溶け落ちている。先程の金属音は空崎ヒナの銃撃を盾代わりに受け止めた音だったのか。ガンケース表面の一部は完全に削り取られ、フレームは歪み、削れ、焦げ付いた金属が剥がれ落ちていた。状況に依っては遮蔽として活用していた頑強なケースが、こうも簡単に。

 

「――こんな風になるんじゃないかって、思っていた」

 

 衝撃を受け切れず吹き飛ばされたのか、ガンケースに手を掛けながら覚束ない足取りで立ち上がるミサキは焼け付き、袖口まで消し飛んだ腕を抑えながら苦悶の表情を晒す。

 低く呟かれた声には、恐怖よりも、ずっと前に覚悟を固めた者特有の静けさが滲んでいた。

 

「逃げて、足掻いて、抗って……どれだけ必死になっても、過去は必ず、私達に追い付いて来る」

 

 逃げ切れる事など無いのだ、どれ程遠くに追いやったと思っても、どれだけ距離を置いたと思っても、次の瞬間には背後から肩を掴まれる。

 罪悪とはきっと、そういうものだ。

 

「それが、こんな形だなんて思わなかったけれど」

 

 ミサキは衝撃で痺れ、震える指先を力いっぱい握り込み、足を踏みしめる。

 恐らく生涯最後となる足掻き。煤の付着した頬を拭い、額から流れる血をそのままに息を吸い込む。

 喉に巻き付けた包帯に、じわりと赤が滲んだ。

 

「リーダーを……」

 

 一度言葉を切り、緩慢な動作で顔を上げた。

 視界の向こう側、その先にある人の形をした殺意を、真正面から睨みつける。言葉でどうこう出来るとは思わない、力で拮抗出来るとも思わない。ならば自身に出来る事は、ただ醜く無様に足掻く事だけ。

 嘗て自分が忌み嫌い、無意味と切り捨てた行為を、命懸けで。

 せめて、ほんの一秒でも長く――。

 

「サオリ姉さんを消すつもりなら、私のヘイローを先に壊して」

「ッ!」

 

 放たれた言葉に、サオリは唖然とした表情を晒し息を詰まらせた。ミサキは本気だった、その背中を見れば分かる、顔を見ずとも分かるのだ。自死を願った果ての破滅願望ではない、苦しみに打ちひしがれた果ての自暴自棄でもない。

 彼女は、ただ――。

 

「馬鹿な、何を云っているミサキッ!」

 

 擦れ、裏返った声で叫んだ。

 四肢に喝を入れ立ち上がろうとする。しかし、身体が云う事を聞かない、限界を超えた活動を許してはくれない。どれだけ力を込めようとも、サオリの両腕は体を支える事さえ出来ない。

 

「……や、やっぱり、人生は、辛いもの、ですね」

 

 サオリの横合いより、何かを擦る様な音が響いた。

 破滅を目前にして尚、どこか緩やかな調子を崩さない声。その奥で、必死に平静を装おうとする震えを、サオリは聞き取ってしまう。気付かなければ楽だったものを、長年共に在ったからこそ気付いてしまう。

 サオリの言葉が詰まり、視線がぎこちなく回る。

 

「えへへ、こ、こんな事なら、懸賞はがき、勿体ぶらずに書いておけば良かったです」

 

 声の主は、ヒヨリだった。

 蒼褪めた顔、血の気を失った肌、引き攣った笑みを無理矢理貼り付け、片足を引き摺りながらゆっくりと立ち塞がるミサキの横に並ぶ小柄な影。サオリはその姿を、ただ呆然と見上げる。

 

「これから、どうなってしまうのでしょうか……? きっと、大変なことになりますよね」

「ひ、ヒヨリ――……」

「……私も、きっと罰はあるんだって、いつか絶対に来るんだって分かっていましたから」

 

 そう云ってヒヨリは、寂しそうに笑った。引き攣った、痛々しい微笑みだった。

 だって世界は苦しくて、辛いものだから。

 だから裁きは、終わりは唐突に、何の前触れもなくやって来るのだと。

 

 ヒヨリの吐き出す言葉は淡々としていた、声の調子も、語尾の揺れも、驚くほど落ち着いていたのだ。それは、長い時間を掛けて刷り込まれた諦念の発露である。

 静かなる受容、それこそが槌永ヒヨリの辿り着いた結論。

 

「だから」

 

 ヒヨリは手を震わせる。

 恐怖が消えたわけではない。死にたくないと云う想いがある、まだ終わりたくないと叫ぶ心も。

 けれど、それよりも大事なものが此処にはあるから。

 

「私は、逃げません」

 

 一歩、サオリを庇う様に身体を差し出す。全身を盾にするつもりで、ミサキが持ち出したガンケースを支える様に手を差し伸べる。ずっしりとした重さは、けれど目の前の恐怖に比べればちっぽけなもので。

 

「もっと苦しむ事になっても、全部が虚しくても、傲慢だって怒鳴られても、赦されなくても、どんな酷い目にあっても、それでも失くしたくないんです……だって私にとって、皆は」

 

 息が乱れ、視界が揺れる。血の気が引いて今にも倒れ込みそうだった。それでも、目だけは逸らさない。諦めなんてしない。少しでも俯いてしまった瞬間に、すべてが崩れてしまうと知っているから。

 だからこれは。

 

「――絶対に諦められない、大切な家族ですから」

 

 槌永ヒヨリの、ちっぽけな勇気である。

 

 その背は小さく、頼りなく、簡単に折れてしまいそうだろう――それでも彼女は前を向き続ける。

 立ち向かう恐怖よりも、失う痛みこそを彼女は恐れた。

 

「サッちゃん」

 

 自身の名を優しく呼ぶ声は小さく、それでいてはっきりと耳に届いた。

 地を引き摺るような一歩の音、サオリは自分を横切っていく影を見上げる。力ない足取りだ、余力は何処にも残っていないはずなのに、彼女は仲間達の元へと歩みを進める。その度に赤が床へと落ちていく。乾いた床を濡らし、足跡のように、ここまで来た道を僅かずつ刻んでいく。

 

「あ、アツコ――……」

「自分一人の犠牲で、なんて考えちゃ駄目だよ」

 

 彼女はサオリの想いを咎めた。

 咄嗟に伸ばした手は、アツコの手前を掠める。

 弾んだ息が、白く濁って虚空に消えた。

 

「これまでも、ずっと一緒だった……だから、これからも私達は一緒」

 

 痛みも、恐怖も、その先にある想いの前では、もはや障害にすらならないのだと云いたげに。アツコは歩みを止める事無く、ヒヨリとミサキの傍へと寄り添う。

 

「陽の下へと歩み出す時も、その逆の、陽の届かない場所に戻る時も、自分達が犯した罪と向き合う時だって」

 

 アツコがゆっくりと振り返る。傷だらけの微笑みは、どこか無邪気と儚さを孕んだ純粋なもので。あの頃と何も変わらない、ただその奥に宿る決意だけが、力強く根付き咲いていた。

 

「たとえ、今日が裁き(終わり)を迎える日だとしても」

 

 今が、その瞬間だとしても。

 私達はあの日、アリウスの外に踏み出した時から。

 

「この気持ちを抱えたまま、最後まで生きていくって決めたよね」

「―――」

 

 約束を、思い出す。

 陽の下へと踏み出すと決めた日のこと、あの瞬間の事。仲間に背を向ける事も、罪悪を忘れる事も、歩みを諦める事も、自ら捨て去った日。赦されないと知った上で、それでも共に在ると誓った、そう在りたいと願った。

 未来を選び進み、過去を背負うと決めた。

 

 きっと訪れる、こんな自分達にも最後には。

 とっておきの――素敵なハッピーエンド。

 

 

 ――そう信じる事は、出来るのだと。

 

 

「アリウス、スクワッド……!」

 

 冷たく、唸るような声が響いた。

 理想は最早遠く、今目の前にある抗えない現実が牙をむく。

 圧倒的な暴威を秘めた影が、音も無くスクワッドへと狙いを定めた。全員が身構え、サオリを守る様にガンケースに手を添える。

 

「全員纏めて、消し飛ばしてあげる――ッ!」

 

 叫び、愛銃を大きく薙いだ異なる世界のヒナは勢い良く地面を踏み砕く。再び収斂する神秘、比類なき破滅の光。悍ましい色彩を纏ったそれは直視しているだけで冷汗が滲み出し、本能的に恐怖を抱いてしまいそうになる。生み出される風に裾を靡かせながら、スクワッドの面々は戦々恐々とした声を漏らす。

 

「この神秘の圧力は――」

「……かなり、拙いかもね」

「あ、当たったら、ひとたまりにもありませんよね……へへっ」

 

 ミサキが強張った表情を隠す事無く、ヒヨリは震える両足で辛うじて地面を踏み締める。アツコはただ、じっと収束する神秘の光を見つめていた。

 しかし、誰も逃げようとはしなかった。全員が全員、満身創痍であるというのに、あの光の一片さえ真面に受ければヘイローが損壊してもおかしくはない。それ程の威力、脅威を秘めた一撃だと理解している筈だ。

 だと云うのに、彼女達はサオリを背に微動だにしない。

 地面を這い蹲ったまま、サオリは血の気の失せた顔で懸命に叫ぶ。

 

「駄目だ、逃げろ、逃げてくれ皆――ッ!」

「無理だよサオリ姉さん、この青い光は私達を中に閉じ込めているし、此処に逃げ場なんて何処にもない」

「ど、どうせ何処に逃げたって、必ず追い付かれるんです、痛くて、苦しくて、辛い事からは絶対に逃げられませんから……」

「これは、私達全員で立ち向かわなくちゃいけない事だよ、サッちゃん」

 

 それに、と。

 背後から尚も投げかけれる言葉に、アツコが緩慢な動作で振り返る。

 彼女らしい、柔らかな表情を浮かべたアツコは、それから吹っ切れた様に破顔して云った。

 

「サッちゃんが逆の立場だったら、大切な家族(仲間)を見捨てて逃げる様な真似、しないでしょ?」

「―――」

 

 それが、何よりも明確な答えだった。

 ずっとその背中を見て生きて来た。だから、どうするかなんて分かり切っている。

 ミサキが、ヒヨリが、アツコが。

 サオリを振り返り、笑っていた。

 

「イシュ・ボシェテ――ッ!」

 

 視界を覆い尽くす様な、暴虐の嵐。

 悍ましい光が視界一杯に広がり、大人のカードで耐久力を強化されたこの世界のヒナでさえ痛手となる無数の弾丸が無慈悲にも射出される。当然、通常の生徒が耐えられる筈がない。ましてやこの場に至る為の道中、被弾を重ねたスクワッドにとっては正に死の嵐に他ならない。

 ただの一発、被弾する事がヘイローの損壊に繋がりかねない。それらが今、スクワッド目掛けて雪崩の如く殺到する。

 

「やめろぉ――ッ!」

 

 空間を覆い、床を削り、迫りくるイシュ・ボシェテ。サオリは絶望的な光景を前に、家族へと手を伸ばしながらあらん限りの力で叫んだ。ミサキとヒヨリはガンケースを盾に見立て、全力で支える姿勢を見せる、アツコはそんな二人の背中に両手を添えながら、背後に火花を散らす飛行型ドローンを飛ばす。羽を広げ花開くドローンは、僅かな光を以て皆の傷を治癒する。

 だが迫りくる破滅的な光に対し、煌めく希望の光は余りにもささやかだった。

 

 こんなガンケース一つでどうにかなる様な攻撃ではない、あの嵐はいとも容易くこの盾を貫通し自分達を呑み込むだろう。ミサキは苦り切った表情で前を見据え、ヒヨリは一拍後に訪れるであろう破滅を予感し目をきつく閉じた。そんな二人の背中を支えながら、アツコはそれでも尚最後まで恐れを見せなかった。

 耐えられる筈がない。

 そうだ、結末は分かり切っていた。

 

「――アロナァッ!」

『……ッ!』

 

 分かり切っていたからこそ、床に這い蹲る先生は血を吐く勢いでアロナの名を叫んだ。

 位置はスクワッドの前方、飛来する破滅の結末から彼女達を守る為に、先生は掌を伸ばす。アロナは即座に応え、なけなしのバッテリー残量を吐き出してスクワッド前方に防壁を展開した。急速な給電による負荷で義手がスパークし、火花が肌を焼く。だが最早、その程度の苦痛で云々する状況ではない。

 

 スクワッドの前方へと打ち立てられた防壁はA.R.O.N.Aが展開したそれと比べればほんの小さな、それでいて薄い防壁一枚。

 しかし、先生の絶対的な意志と共に展開された青白い光は、スクワッドを呑み込もうとしていた弾丸の嵐を悉く跳ね退け、紫がかった神秘の弾丸は四方に弾け飛んだ。

 

「ぐぅッ……!?」

 

 だが、放たれた悍ましい銃弾の嵐は凄まじい規模を誇る。展開した防壁諸共スクワッドを完全に呑み込み、その姿は神秘の煌めきの中へと消えて行った。

 防壁の展開は間に合った、破られさえしなければ彼女達は無事の筈だ。

 だが――。

 

「――ッ!」

 

 先生は這い蹲っていた姿勢から、思い切り床に拳を叩きつけ起き上がる。節々が悲鳴を上げ、傷口から一気に血が噴き出した。水音と共に血だまりが生まれ、視界がぐらりと揺れる。

 寒い、怠い、痛い、苦しい、辛い――一時の生命を取り戻した身体が強烈な感覚で以て先生の精神を蝕む。しかし、それがどうしたと彼は血走った眼で前を向いた。彼の瞳は、一時たりとも彼女達から離れる事は無かった。

 言葉は出ない、苦悶の声一つ、何かを口にするだけの余裕が無かったから。

 ただ張り詰めた吐息を漏らし、全力で以て身を起こし、先生は両足で地面を踏み締め防壁の内側へと飛び込もうとする。

 想うのは他ならぬスクワッド、そして異なる世界のヒナ自身。生徒の為であれば、搾り滓にも劣る肉体に力が湧き上がる様な気がしたのだ。錯覚だろうか? だとしても構わない。

 今この瞬間、動くだけの力があるのならば――それで良い。

 

「っ、先生!?」

「あなた様――ッ!?」

「ちょッ、先生……!?」

 

 先生を庇い、共に床へと伏せていたワカモとヒナ、そしてアコが駆け出そうとする先生に気付き、傷に塗れた体に鞭打って咄嗟に腕を伸ばした。

 

「―――」

 

 けれどそれは、先生へと届く寸前に青白い光へと拒まれる。

 反対にA.R.O.N.Aの展開した内と外を隔てる青白い防壁を、先生の体は意図も容易く通過した。

 当然の事だ、シッテムの箱は先生を所有者として認めているのだから。己とプレナパテスが同様の存在であるのならば、この防壁が先生の存在を拒むことはあり得ない。

 だが、背後の生徒達はそうではない。

 ミカと同様に、彼女達の身体は防壁の通過を為し得なかった。

 よろめき、不格好にも駆ける先生の背中に、生徒達の手が伸びる。防壁に張り付き、何度も殴りつけながら必死に叫んだ。

 

「先生、駄目、戻ってッ!? お願いッ!」

「あなた様! なりませんっ、あなた様――ッ!?」

「なっ、何を、何を考えているんですか、先生ッ!?」

 

 背後から悲鳴染みた、生徒達の声が聞こえる。

 自分の行いを咎める声が、足を止める様に懇願する声が。

 否が応でも後ろ髪を引かれる、背中がズシリと重くなる。脳裏に過る幾多もの記憶と世界がある。その声を耳にするだけで、両足に鉛が張り付いたような心地だった。こういった声を、自分は何度振り切って――。

 

「ッ――」

 

 だが、止まれない。

 止まる訳にはいかないのだ。

 先生は全力で地面を蹴飛ばしながら歯を食い縛った。奥歯が砕ける程に、血が滲む程に全力で。そうでなければ今にも、この場で崩れ落ちてしまいそうだったから。振り返ってしまいそうだったから。

 先生にとっては身体の苦痛よりも、大人のカードの代償よりも、この声こそが何よりも痛く、苦しく、心身を根底より抉った。

 

「っ、この手応え……!」

 

 異なる世界のヒナは眩い神秘の奔流の只中で、異様な手応えを感じ取る。

 諸共屠るつもりの射撃であった、耐え切れる可能性など存在しない程に全力の。だが空間の震え、放たれた弾丸の中に奔る微細な揺らぎが彼女達の肉体を捉えていない事を物語っていた。

 弾丸は何か、恐ろしく硬い何かに阻まれている。自身の全力射撃を真正面から受け止められる硬度、ヒナの思考に過る候補は決して多くは無い。あの瞬間、あの僅かな間隙に差し込める手段。

 

 思い浮かぶのは一つだけ。

 シッテムの箱が展開する防壁に違いない――先生が咄嗟に、スクワッドを守る為に張ったのか。

 

「――ッ」

 

 そうこうしている内に、ガチンッ! という音が響き反動が掻き消えた。咄嗟に手元に視線を落とせば、何度引き金を絞っても弾丸は発射されない。神秘に煌めいていた視界は徐々に暗がりを取り戻し、ヒナは弾倉が空になったのだと遅れて気付いた。

 舌打ちを零し、予備の弾倉を取り出そうとして、ヒナは翻した外套の裏に仕込んでいた弾倉全てを撃ち尽くしている事を思い出す。一から創造するか、再構成すれば問題は無い。

 だが、その一瞬すら今は惜しい。ヒナは瞳に剣呑な色を宿し、空の弾倉をそのままに愛銃を握り直す。

 たとえ殴り殺してでも――その思考に、一切の躊躇はない。

 

「……生きてる」

「うぇっ、あ、あれ――」

「っ、まさか、耐え切った……?」

 

 気が遠くなる様な、それこそ絶対的な絶望を前に覚悟を固めていたスクワッド。

 ガンケースの裏に身を潜めていた彼女達は、立ち昇る噴煙と濃密な神秘の残り香に覆われたまま、自身の生存を自覚した。

 自分達の終わりを確信する程の一撃であった。実際周囲の破壊痕は凄まじく、まるでスクワッドだけを避けたような半円形に床は粉砕されていた。自分達もまた同様の結末を迎える筈であったのに、今こうして生き延びる事を許された。衝撃と轟音の余韻が残る中で、驚きと疑念が入り混じった声が遅れて零れ落ちる。

 それこそが、明確な隙であった。

 

「――ヒヨリッ!」

 

 ミサキの叫びが空気を切り裂く。噴煙を裂き、一直線に突貫して来る人影。風切り音と共にスクワッドへと牙をむく影は、気付けば直ぐ傍にまで肉薄していた。

 

「えっ」

 

 いの一番に狙われていたヒヨリは反応すら出来なかった。

 振り返った視界に映ったのは、噴煙に滲む迫る朧げな誰か。

 次の瞬間、ヒヨリの顔面に凄まじい衝撃が叩き込まれ、身体が横薙ぎに吹き飛ばされた。首を引っこ抜かれたかのような勢いで地面に叩きつけられ、そのまま防壁に頭から突っ込むヒヨリ。飛び散った赤が一拍遅れて床に散らばり、苦悶の声一つ上げる事さえ許されなかった。

 

「―――」

 

 時間の流れが、余りにも緩やかだ。圧倒的な神秘に身を包み、擦り切れ傷付いた翼を広げた空崎ヒナが、直ぐ傍に立っていた。鈍器代わりに振り抜いた愛銃をそのままに、手を伸ばせば触れられるほどの距離でスクワッドを睨みつける。

 噴煙に混じって、その薄紫の瞳が煌めく。

 

「ッ、この……!」

 

 ミサキの身体は反射的に動いた。まだ辛うじて反応する右腕に力を籠め、脱力しつつ腰を落としブーツの内側に備えていたホルスターより予備のリボルバーを最速で抜き放つ。極限まで無駄を削ぎ落した、訓練の果てに身に着けた動作。ミサキがサイドアームを手にして引き金を絞るまで、凡そ一秒足らずだった。

 疲労と負傷に苛まれた身体が発揮したパフォーマンスとしては、これ以上ない形での迎撃だと断言出来る。

 

 轟く銃声とマズルフラッシュ、放たれた銃弾は三発、閃光は網膜を焼きミサキは着弾を確信する。狙いは空崎ヒナの額、頭部を弾けば僅かでも隙が生まれると踏んだ。至近距離からのクイックドロー、嘗てない程に素早い抜き撃ちだった。

 しかし――。

 

「っ……!?」

「簡単にヘイローを破壊して貰えるなんて、思わないで」

 

 肝心の銃弾は空崎ヒナの額に届きすらしなかった。

 その現実に、ミサキは目を見開く。熱気が立ち昇る銃口、その先でヒナは軽く掌を握っていた。開いた掌から零れ落ちる弾丸、その数は三発――至近距離で飛来した弾丸軌道を予測し、受け止めたのか。

 何と云う身体能力と認識速度。

 

 弾丸が床を跳ね、殆ど同時に放たれるヒナの拳。最早視認さえ許されない、気付いた時にはミサキの指を拳は正確に捉え、強烈な痺れと衝撃が走った。拳銃を握っていた指先があらぬ方向を向き、ミサキは思わず悲鳴を押し殺す。

 力が抜け落ち、床を滑って遠ざかっていくリボルバー。それを視線で追う事さえ許されない。

 

「この距離なら、防壁に意味なんて無い」

 

 冷静で、残酷な声だと思った。直後、空崎ヒナの上半身がブレたと認識した瞬間、腹部に叩き込まれる強烈な一撃。全力で放たれるボディブロー、ミサキは避ける所か防ぐ事も出来なかった。身体がくの字に折れ曲がり、内臓が揺さぶられ浮き上がる。空気が一気に肺から押し出され、視界が白く弾けた。

 

「がは――ッ!」

 

 一瞬、両足が床より離れ、ミサキはそのまま膝から崩れ落ちる。

 胃が痙攣し、口から唾液の混じった吐しゃ物が中途半端に漏れた。腹部を抑えたまま額を床に擦り付け、苦痛に悶える。

 折れ曲がった指先など気にならない程の衝撃が、いつまでも腹の奥底にぐるぐると残留する様な、嫌な打撃だった。

 無力化する為の合理的な打ち方ではない、ただ相手を苦しませ、打ちのめす為の――。

 

「あぐッ、こほっ、ゴホッ!」

「――頑丈ね」

 

 床に崩れ落ち、必死に呼吸を繰り返すミサキを見下ろしながらヒナは掌を開閉させ告げた。殴りつけた感触を確かめ、吐き捨てるような声だった。まるで値踏みする様に、或いは道端に転がっている塵屑を見る様な瞳がミサキを捉える。

 

「っ、は……」

 

 ミサキは腹部を抑えたまま、血に彩られた歯を剥き出しにして彼女を見上げる。唾と血を飲み込み虚勢と分かり切った挑発的な笑みを貼り付けると、同じように吐き捨てた。

 

「……痛みには、慣れているから」

 

 似たような事は、散々アリウス(母校)で経験済みだ。

 

「そう」

 

 返答は短く、簡素だった。

 間を置かず、今度はミサキの顔面が跳ね上がる。顎先から脳天まで突き抜ける凄まじい力の奔流、視界が反転し、衝撃が空気を揺らした。ヒナがあまりにも無造作に、彼女の頭部を蹴飛ばしたのだ。

 最早悲鳴一つ上がらなかった、ミサキは仰け反ったまま勢い良く背中から床に転がり、そのままピクリとも動かなくなる。頬に青黒い痣を拵え、ヘイローが弱々しく点滅していた。

 

「――なら、もっと苦しませてから消してあげる」

「ミサキッ!」

 

 アツコが叫び、噴煙を裂きながら反射的に腰だめへとスコルピウスを構え、引き金を深く絞る。

 乾いた銃声が連続して響き、弾丸が一直線に異なる世界のヒナへと吸い込まれていく。近すぎて外し様が無かった、網膜を焼く閃光はヒナとアツコの輪郭を明確にし、互いの影が床に長く伸びる。

 ヒナは至近距離で放たれる9mmの雨を、自身の翼を盾代わりに真正面から受けた。微動だにせず、ただ銃声と閃光に照らされたままアツコへと視線を向ける。三十発分の弾丸を全て吐き出すのに、数秒と掛からなかった。

 

 鼓膜を劈く様な銃声は軈て痛い程の静寂へと切り替わり、代わりに空薬莢と潰れた弾頭が床を跳ねる甲高い音が木霊する。

 弾丸は全弾命中していた、通常の生徒であれば9mmと云えどこれ程至近距離で連続した被弾を許せば失神は確実。

 だというのに――。

 

「無意味な攻撃ね、スクワッド」

 

 しかし決死の攻撃は空崎ヒナに一切影響を及ぼしていなかった。広げられた翼越しに、ヒナの瞳がアツコを捉える。皮膜に張り付き、潰れた弾頭を指先で弾き吐息を零す。金属が転がる無機質な音の中で、彼女はゆっくりと向き直った。

 

「ッ……」

 

 何の躊躇も、感慨も見せず、ただ徐に拳を振り上げる。

 その動作を見たアツコは咄嗟に腕を持ち上げ、防御しようとする。

 だがその所作に、意味など無い。

 

「それも、無駄よ」

 

 振り抜かれた拳が、アツコの腕ごと頬を殴り抜いた。空気を揺らがす様な衝撃、骨を叩く鈍い音と共にアツコの顔面が跳ね、地面を捉えていた両足は離れ、身体が容易く宙を舞う。後頭部から床に叩きつけられたアツコは、そのまま二度、三度、床を跳ねて四肢を投げ出す様な形で停止した。直ぐ横に、軽い音を立ててスコルピウスが滑っていく。

 

「アツコ!?」

 

 サオリの叫びが、切迫して響く。だが倒れ伏したアツコから返事はない。意識は急速に混濁し、声を発するだけの余裕が無いのだ。代わりに短く痙攣する指先が、不規則に爪で床を叩いていた。

 これ以上は無理だ、限界だ――本当に、ヘイローが壊れてしまう。

 

「やめろッ! お前の狙いは、私だろう!?」

 

 サオリは血の滲んだ爪で床を掻き、必死に這いながら叫んだ。

 そんなサオリを一瞥もする事無く、未だ意識が混濁しているミサキへと歩み寄る異なる世界のヒナ。

 小さな背に向かって、サオリは全てを投げ出すように言葉を何度も叩き付ける。

 

「痛めつけ、苦しませて殺す(消す)と云いうのであれば、私を、私だけを――ッ!」

 

 だが、彼女は止まらない。

 空崎ヒナはサオリの言葉に耳を傾けない。

 足取りは一定で、迷いも躊躇も存在しなかった。

 ヘイローを点滅させるミサキの元へと辿り着いた彼女は愛銃を足元に放り、馬乗りになるや否や両手で彼女の首を握り締める。包帯越しに食い込む爪、肉に沈んだ指先が軋んだ音を立て、混濁していたミサキの意識は苦痛によって強制的に叩き起こされた。

 

「ぐ、ぎぁ――ッ!?」

「ミサキッ!?」

 

 ミシミシと音を立てる首元。その細身からは想像も出来ない力で以て、ミサキの身体を床に押し付ける。

 血の滲んだ指が喉奥まで食い込み、気道が圧迫され、口の端から唾液と血の混じった泡が漏れる。ミサキの両手が無我夢中でヒナの手首を掴み、引き剥がそうと抵抗していた。しかし、余りにも力に差があり過ぎた。ヒナの皮膚に爪を立てようと、両足で床を擦ろうとも、全ては文字通り無駄な足掻きと化す。

 

「かはッ、が、ぎッ、い――ッ」

 

 少しずつ、少しずつヒナの指先が沈んでいく。

 比例して少しずつ、ミサキの全身から生命が失われて行く。

 ヘイローは浮かんでは消えて、また浮かんでは消えて、その間隔が徐々に短くなっていく。血管が浮かび上がり、ミサキの表情は最早白を通り越して青に至る。ばたつくミサキの踵が、何度も何度も死に物狂いで床を叩いた。

 

「やめ――ッ」

「私は……!」

 

 ミサキの首を絞めるヒナの表情は伺えない。だが、その背中が何よりも雄弁に語る。

 絶対に逃がす事は無い、絶対に許す事は無い。

 錠前サオリの言葉に、空崎ヒナが耳を貸す事は無い。

 この手を止める事はあり得ない。

 何故ならば。

 

「――貴女に、懇願する時間さえ与えられなかったッ!」

 

 あの瞬間の貴女は、何処までも無慈悲であった。

 

 濁り、淀み、吹き上がる神秘(過去)は全てを拒絶する。

 ミサキの口から漏れる声は、最早吐息よりもか細く、跳ねていた両足は徐々にその動きを弱々しいものへと変えていった。

 

 サオリは懸命に床を掻きながら、荒々しい息と共に手を伸ばす、伸ばし続ける。

 ミサキが殺される。

 家族が殺される。

 誰よりも、何よりも守りたかった大切なものが。

 この世界の中で、ずっと大切に抱えて来た希望そのものが。

 

 その絶望が、絶対的な現実が、サオリの全身を支配し打ちのめした。

 思考が淀み、血が凍りつき、視界が狭まっていく。アツコは動けない、ヒヨリも同様に、元々全員限界だったのだ。意識を飛ばすには一撃で十分だった。

 この空間の中で動けるのは自分だけだ。サオリは震え、無様に痙攣する両足を何度も、何度も、痣が出来るほどに殴りつけ唇を噛み切る。血走った眼を見開き大粒の涙を流しながら、あらん限りの声で叫んだ。掌の爪が剥がれようとも構わず這いずり続けた。

 ほんの数メートル、たったそれだけの距離が余りにも遠い。

 頼む、と胸中で願い祈った。幾つもの血痕を残しながら這い続けるサオリは、嗚咽とも咆哮とも取れる声を響かせながら仲間へと手を伸ばした。

 

 もし、この世界に主が存在するのであれば。

 

 神よ、主よ、罪悪に塗れたこの身はどのような末路を辿っても構わない。どのような責め苦も、どのような罰も喜んで受け入れよう。私一人の命で済むのであれば、どんな形であろうとも捧げると誓う。

 

 だから一つ、もしあなたに人命を、結末を、運命を司る力があるのならば。

 どうか私の家族を。

 私の大切な家族だけは、生かして欲しい。

 こんな罪と過ちに塗れた私の為に、彼女達の未来を終わらせないで欲しい。

 

 どうか、頼む。

 お願いだ。

 お願いだから。

 どうか――。

 

「ヒナァ――ッ!」

 

 咆哮。

 何もかも、己の全てをかなぐり捨てた、魂の奥底より絞り出された絶叫。

 誰かが駆ける音、凄まじい勢いで肉薄する影、異なる世界のヒナが大きく目を見開き、体を震わせ、声のした方向へと顔を向ける。

 

「っ!?」

 

 瞬間、横合いより奔り抜ける衝撃。

 凄まじい勢いで何かが、誰かが体ごと突っ込んできたような。縺れるようにして、二つの人影が床を転がっていく。制御を失った身体は無様にのたうち回り、イシュ・ボシェテによって抉られた硬質な床を滑った。

 

 馬乗りになっていたヒナの体がミサキより離れ、流れ込んだ空気が喉で引っ掛かりミサキは反射的に首元を押さえたまま咳き込む。ハッキリと浮かび上がった残った手の痣は、それだけの力で以て絞められていた証左でもある。

 

「げほッ、こほっ!」

「み、ミサキ……ッ!」

 

 涙を流し、体を丸めたまま何度も咳き込むミサキの元へと、サオリは必死に這い寄っていく。そのヘイローが健在であり、咳き込む姿にまだ生命は途切れていないと安堵した。だが、先程彼女を救った人影は――サオリは蒼褪めた表情をそのままに、険しく歪んだ表情で転がって行った人影を追う。爪の剥がれ落ちた指先が、血を滴らせながら再び床を掴んだ。

 

「っ、先生――!」

「ッくぅ……!」

 

 ヒナの身体へと飛び込み、捨て身でミサキと引き剝がしたのは――他でもない先生その人。

 彼は抉れ削られた床の上を何度も転がり、その肌に幾つもの生傷を刻む。表面に血が滲み、尖った破片が幾つも肌深くに食い込んだ。元より身体的にも限界であった筈だ、脇腹に滲む赤に至っては最早衣服の半身全てを浸食する程の出血を見せ、いつ意識を失ってもおかしくはない。止血もせず、碌な手当ても受けず、最早刻一刻と失われる命は搾りかすにさえ劣る。

 

 それでも、先生は瞳を閉じない。

 その絶対的な気迫が、肉体をも凌駕する恐ろしく強靭な精神が、空崎ヒナの全身を圧迫する。

 知っている。彼は止まらない、限界は訪れない。

 このナラム・シンの玉座に至った時点で、物理的に先生を止めるには四肢を削ぎ落すか頭部を破壊するしかなかった。そしてきっと、仮にそうなったとしても最後の瞬間まで足掻き続ける事だろう。

 四肢を捥がれようとも、心臓を撃ち抜かれようとも、例えその身が首一つになろうとも――人の形を喪った果てでさえ。

 

 先生は、常に生徒(誰か)の為に立ち上がる。

 

「駄目だよ、ヒナ……っ!」

「―――」

「その道は、その道だけは、私が絶対に歩ませない……ッ!」

 

 シッテムの箱を抱きかかえ、額を地面に擦り付けながら身を起こす先生は声を絞り出す。口の端から垂れ落ちる血は、覗く歯を悍ましい赤色に染め上げる。寒気が全身に伝搬し、指先一つ動かすのに多大な精神力を要した。

 これ以上進ませない、その線を越えさせない。

 どれだけ困難な選択であっても、ここで止めなければならない。

 己に残された、全てを賭しても。

 これ以上の苦しみを、生み出さない様に。

 

「また、そうやって、先生(あなた)は――ッ!」

「く、がァあ――ッ!」

 

 身を起こし、悲壮な表情に歪むヒナ、苛立ちと怒りが混じった叫び。先生の荒い呼吸が、それに応えるように重なる。死に体に鞭打ち、死に物狂いで駆け出す先生。汗と血が弾け、水音を立てた靴底が地面を蹴った。

 

 先生の伸ばした指先が、ヒナの細い肩を掴む。薄汚れ、擦り切れ、幾つもの弾痕が刻まれたドレス。零れ落ちたシッテムの箱が地面を跳ね、画面に荒いノイズが走った。ヒナもまた、掴みかかって来た先生を引き剥がす為に腕を掴む。渾身の力で握り込まれた指先が、先生の皮膚を外套諸共裂いた。互いの感情が至近距離でぶつかり合い、視線が交差する。

 

 空崎ヒナは神秘を与えられた生徒で、先生は何も持たぬただの人間である。

 力の差は明白だった、当然の結末であると云える。

 ヒナの手が掛かった義手は数秒と経たず悲鳴を上げ、外装は拉げ内部より火花を散らした。駆動部は異音を発し、右腕もまた皮膚が裂け、骨が軋み表面に血管が浮き上がる。

 それでも、手を離さない。先生は文字通りなりふり構わず、捨て身で食らい付く。一分一秒でも彼女を押し留める為に、ほんの僅かの可能性であっても――その道を阻む為に。

 

 滴る赤はヒナの腕を伝い、彼女のドレスに幾つもの血痕を残した。指先から伝わる、柔らかな肉を握りつぶす感触、骨を砕く感覚、ヒナの口元が歪み目元が悲哀に染まる。

 擦り切れ、草臥れ、色褪せた風紀委員会の腕章が――僅かに揺れていた。

 

「やっ……やめろ、やめてくれ、先生ッ!」

 

 空崎ヒナを押し留めようとする先生に向けて、サオリは声を上げる。倒れ伏すミサキの身体に覆い被さり、両腕で庇うように抱き寄せながら懸命に。

 堪えきれず溢れ出した涙が大粒のまま頬を伝い床へと落ちる。喉が引き攣り、息が詰まり、彼女はミサキを全力で抱き締めたまま身を乗り出し叫んだ。

 

「駄目だ、頼む、これ以上誰も傷付かないでくれ!」

 

 それは、錠前サオリの本心だった。

 どの口がと嗤われる事は分かっている。

 厚顔無恥だと罵られる身分である事も、理解している。

 それでも、どうしても捨てられない想いと情があった。

 サオリはこれ以上誰かの犠牲の上に生き延びることに、耐えられなかったのだ。

 

「私の為に、こんな、罪に塗れた私の為なんかに、先生(あなた)が――……ッ!」

 

 傷付く必要は無い。

 犠牲になる必要もない。

 裁かれるべきなのは、自分だ。

 己の過ちが、誤断が、全てこの結末を招いたに違いないのだ。背負うべき罪悪も、受けるべき報いも、全て錠前サオリと云うひとりの存在が抱えるべきなのだ。

 それが当然で、悪因には悪果が返るべきだと。

 

 ただほんの少しだけ、許されない夢を見ていた。

 嘗て自分がアズサに云った。

 夢は甘いものだと。

 そうだ、その通りだ。

 ほんの僅かな時間であっても自分達は夢を見ていた。陽の下で歩けた、未来について語り合えた、明日を笑顔で迎える事が出来た。

 醒めなければ良いと思った――けれど、夢には必ず終わりがある。

 それが今日、この瞬間だったのだ。

 

「私は、もう、これ以上……!」

 

 言葉が途切れ、嗚咽が混じる。サオリはミサキの外套を強く握り締めたまま、深く首を垂れ哀願した。

 それは懺悔のように。

 或いは真摯な祈りの如く。

 そして、自らの明日(未来)を断つ宣言として。

 

「これ以上、未来(生きる事)を望まないから――ッ!」

「駄目だッ!」

 

 その声を、先生は全力で跳ね退けた。

 即答だった。

 ヒナを掴む掌に力を籠める、全身の穴という穴から血を噴き出しながら、尚も挫ける事を知らない肉体は熱を帯び始めた。四肢に力が籠る、あり得ない膂力差でありながら先生はヒナを相手に一歩も退かない。自身の肌に食い込む先生の指先、その力強さにヒナは隠し切れない驚きを覚えた。

 触れ合った箇所が、熱い。

 掴み上げた先生の腕が震え、ミシミシと音を立てる。筋線維が断裂し、限界を迎える音だった。

 

「君を、君達を――ッ!」

 

 腹の底から絞り出す声。

 先生はサオリの絶望と哀願を真正面から否定し、拒絶する。

 それは特定の誰かに限った話ではない。

 異なる世界を経て、今目の前で苦しんでいるヒナも。

 過去の罪に苛まれ苦しみ続けるサオリも。

 アツコも、ミサキも、ヒヨリも。 

 この世界に生きる、遍く生徒、誰であろうとも。

 

「これ以上、苦しませるものか……!」

 

 この世界で。

 

「他ならぬ、私の世界で――ッ!」

 

 悲劇(連鎖)は、必ず終わらせなくちゃならない。

 

「っ、この手を離してよ、先生……ッ!?」

 

 先生の肌越しに感じ取れる何か、それは恐怖に似た感情だった。ヒナは身を捩り先生を振り解こうとする。簡単な筈だった、自身の身体を掴んだ両腕を握り潰し振り払えば良い。それだけの事だ、それだけの動作で全ては片付く。

 だと云うのに、彼の両腕は離れない。直ぐ傍で自身を見つめる瞳は、決して光を失わない。顔を背け、全力で後退ろうとするヒナの体を、先生もまた死に物狂いで押し留める。靴底が床を擦り、金属片同士が擦れるような音を立てていた。

 

「駄目だ! 絶対に、離さない……ッ!」

 

 外套より滲み出す赤、最早純白を誇っていたシャーレの制服は見る影もない。先生は文字通りなりふり構わず、どんな代償を支払ってでも止めるつもりだった。

 ここで手を離した瞬間、それは全て空崎ヒナという存在に返って来ると直感していたからだ。破滅の道を、苦しみへと続く道を歩もうとする生徒を、ただ黙って見送る筈もない。

 

 ヒナの顔が、くしゃりと歪む。

 張り詰めていた何かが、音を立てて崩れるような歪み。

 いつから世界はこうなってしまったのだろう。

 誰かの為にと手を伸ばす程、誰かを傷付けなければならなくなったのは。

 守ろうとする意思が、誰かを絶望へと沈める道に変わってしまったのは。

 

「ヒナッ! 頼む、私の声を聞いてくれ――ッ!」

 

 ヒナの両肩を押さえつけながら、先生は目と鼻の先まで身を乗り出し叫ぶ。全身から噴き出す汗と血が、空気に混じって視界を歪ませる。跳ねたヒナの指先が先生の皮膚をまた一段と強く絞った。それでも、震える肩を掴む指先は緩まなかった。

 

「幸福は在るんだ! どんな世界にだって、どんな生徒にだって……!」

 

 単なる理想だと分かっている。

 現実は常に、それを嘲笑うだろう。

 それでも――信じなければ、その最初の一歩さえも。

 

「サオリにも、君にも、幸せになる為の道は、絶対にある筈なんだよッ!?」

「そんな綺麗事――ッ!」

 

 ヒナの声が鋭く跳ねた。キッと、持ち上がった顔が真正面から先生を睨み返す。ざっくばらんになった前髪を揺らしながら、彼女は飾らない感情を叩きつけた。

 

「叶わない夢なんて、見させないでよ!」

 

 それが一番残酷だ。

 手を伸ばせば届くと信じさせて、死に物狂いで走って、走って、走って。それでも、辿り着いた結末がコレならば。

 希望を与えるという行為が、時に絶望以上の刃になることを空崎ヒナは知っている。

 何よりも、誰よりもそれを理解しているのは――貴方(先生)自身だろうに。

 だというのに、どうして。

 

「先生もずっと見て来たのでしょう!? 赤く染まった世界の中で、苦痛を叫んで息絶えていく生徒たちをッ!」

「ッ――!」

 

 脳裏に過る、幾つもの世界、情景。背負い続けて来た可能性の数々が、ズシリとその重さを思い出す。知らないとは云わせない、その道を進み、嘆きを、祈りを、願いを背負い此処に辿り着いた貴方は、既に同じ結論に至っている筈だと。

 握り締める指先に力が籠る、先生の皮膚を裂く感触、その手応えに云い表せぬ悍ましさを覚えながら叫び続ける。

 

「世界は冷たくて、残酷で、最後にはどうやっても逃れられない破滅(絶望)が待っている……!」

 

 言葉は余りにも切実で。多くのものを奪われ、失い続けた者だけが辿り着く境地。

 そんな世界に、幸福に至る道など。

 誰よりも声高らかに叫ぶ貴方自身が、なによりもそれと遠い場所に居るというのに。

 

「貴方が身を挺して、全てを背負わなければ続けられない世界なんて――ッ!」

「そんな事は、無い!」

「目を覚ましてよ先生ぇッ!?」

 

 ヒナが、先生の額に自らのそれを打ち付けた。

 鈍い衝撃が走り、視界が一瞬白く弾ける。先生の口から、苦悶を押し殺した呻き声が漏れた。だが、決して退かない。地面を捉えた両足は衝撃の全てを堪え切り、先生の肉体を支えきる。

 表面に伝う一筋の血、それを互いに擦り付けながら至近距離で睨み合う。

 煌めく瞳、淀んだ瞳、涙と血を滲ませたそれが相手の内側を暴き合うように真正面から睨み合っていた。

 

「最初の場所から、貴方はどれだけの道程を何度繰り返して来たの!? どれだけの時を繰り返して来たの!?」

 

 希望と絶望(可能性)は、いつだって同じ顔をして立っている。

 

「ヒナ、私は――ッ!」

「それだけの旅路を経て尚、貴方はまだ苦痛の運命を抜け出せていない!」

 

 どれだけ痛みを伴った。

 どれだけの苦しみを味わった。

 どれだけの涙を流した。

 積もり続けたそれは、一体どれだけの重荷(運命)を貴方に――。

 

「貴方が子ども達に手を差し伸べると決意して、どれ程の罪悪を感じて来たの!? その背に積もった罪悪は、想いは、願いは、祈りは――その苦しみと痛みに見合うだけの結末を、貴方に与えてくれた!?」

 

 叫びは最早、悲鳴に近しい痛々しさを発していた。それは他者の痛みを代弁する声ではないからだ。

 目の前の大人が、力を持たない人間である先生が、何度も何度も進み、躓き、もがき苦しみ、それでも立ち上がり続けた末に辿り着けなかった現実を、結末を知っているから。

 この眼で見て来たから。

 だから。

 

「違う、そんな筈ない! だって、その結果がこの場所! この結末なのにッ!」

 

 目指した理想は遥か遠く。

 辿り着いたのは、血と涙と慟哭に濡れた世界。

 こんな筈じゃなかったと、何度胸の内で繰り返しただろう。

 空崎ヒナはもう、憶えていない。

 

「貴方が感じて来たのは、苦しみと痛み、そして数え切れない悲しみだけ……! 気が遠くなる程の旅路の果てにあったのは、たったそれだけだったッ!」

「ヒナ……ッ!」

「――私達の生まれ落ちた世界は、苦痛に満ちている!」

 

 異なる世界のヒナは顔を上げ、声高らかに叫んだ。

 意図せず目尻から一筋の涙が零れ落ちる。煌めくそれは虚空に弾け、僅かな光を反射する。

 

 それこそが、苦痛の果てに彼女が辿り着いた結論。

 多くの罪悪を背負い、命を背負い、果てを直視し続けた末の、最後に至った真理。

 解釈されず、理解されず、疎通されず、自分達の世界は――いつだって暮明に満ちていた。

 太陽(希望)は昇らない、陽光(幸福)は訪れない。

 結末はいつだって同じだ。

 

「そんな世界に、先生(貴方)が身を擲つ価値は本当にあるの!?」

 

 そんな苦しみに。

 痛みに、涙に塗れた世界に。

 それでも尚、何かを差し出す価値なんて。

 

「そんなの無い、無いよ先生っ! そんな価値、世界には存在しない! どこにも、どんな道を辿った世界にだって……(向こう)の世界にも、貴方の(この)世界にもッ!」

 

 堪らず、大粒の涙が次々と頬を伝った。俯き、何度も首を横に振る。長髪が揺れ靡き、幼子の様にヒナは喉を震わせた。指先が掻く様に、先生の腕に爪痕を残す。涙で滲んだ視界は朧気で、直ぐ傍にある先生の輪郭でさえあやふやになった。

 そんなくしゃくしゃの顔で、苦痛と悲痛に歪み切った表情で。

 彼女は腹の底から告げた。

 

「世界はずっと、冷たくて、痛くて、苦しいだけだった――ッ!」

 

 吐き出された最後の嘆きが、ナラム・シンの玉座に響き渡った。

 

「――それは違うッ!」

 

 ヒナの肩を掴んだまま、先生は全力で答えた。声が裏返り、喉が裂ける程に強く。

 

 彼女の言葉は、事実(真実)なのかもしれない。

 いいや、きっと正しいのだろう。

 彼女はそれだけの痛みに、苦しみに、ずっと身を浸し続けて来たのだ。その積み重ねて来た経験を、記憶を、世界を否定する権利など誰にも無い。

 

 ましてや――彼女の世界を導けなかった己が、どんな権利を有すると云うのか。

 

「君の感じたそれは、悲しみは、苦しみは、真実(事実)なのかもしれない……!」

「先生――ッ!」

「けれど……!」

 

 だが、それでも。

 だとしても。

 俯き、血を流し、己の弱さを噛み殺しながら先生は震える唇を開く。

 涙が零れ落ちた、堪え切れなかった感情が頬を伝って流れた。見つめ合うヒナが驚いた様に目を見開く。

 この人が涙を流す(弱さを晒す)所を、初めて見たから。

 

先生(大人)である、私が……ッ!」

 

 先生の熱を帯びた全身に、幾つもの傷が浮かび上がり始めた。

 全ては古傷だ、数多の世界を巡った果てに帯びた結末そのものだ。それらが痛みと共に顔を覗かせ、先生の背中をそっと押した。

 全ては悲劇の記録だろう、絶望の思い出だろう、刻まれたそれらは先生の全身に張り付いた呪いでしか無いと、万人はそう語るだろう。

 だが、(先生)だけは――。

 

「――他ならぬ私が、【そうである】と諦めてしまっては……ッ!」

 

 生きる事に意味など無く。

 世界に希望は無く。

 価値など何処にもないと。

 他ならぬ己が、そうであると認めてしまっては。

 

「私は――ッ!」

 

 皆に寄り添うと誓った大人が。

 遍く生徒(こども)を笑顔にしたいと願った先生が。

 彼女と共に、そんな未来をと祈った私が。

 諦めてしまっては――。

 

「私だけは、それを否定しなくちゃならないッ!」

 


 

 世界が主を忘るるとも。

 主は世界を忘るるべからず。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。