ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ~!


私に明日は無い、それでもアナタの明日(未来)を夢に見た。

 

 世界の苦しみを知り、痛みを知り、絶望を知り――それでも尚、希望を語る。

 

 どんな世界であっても、どんな道を辿った果てでも、希望はある筈だと、幸福はあるのだと信じ続ける。

 己は、そう在らねばならない。

 そうでなければ、どうして誰もが笑い合える未来になど辿り着けようか。

 苦しみを知らず、痛みを知らず、絶望を知らず、ただ夢想の如き未来を思い浮かべるだけならば容易だろう。しかし苦しみを、痛みを、絶望を知ればそれが如何に遥か遠き理想か、現実とかけ離れた夢物語かを理解する。

 理解して尚、諦める事をしないのだ。

 諦める事が出来ないのだ。

 己は、そう在らねばならないのだ。

 けれど――。

 

「私は――ッ!」

 

 どれだけ未来を諦めずとも、自分(先生)は目の前の涙を拭う事さえ出来ない。

 

「私はっ、世界なんかよりもずっと、ずっと貴方が大切だったのに――ッ!」

 

 その無力が、何よりも辛く、苦しい。

 

「……ッ」

 

 空崎ヒナの叫びは深く胸を裂く。理屈でも理念でもない、剥き出しの感情そのものが先生の精神を揺さぶる。

 彼女にとっての幸福はあまりにもシンプルだった。目も眩むような幸せはいらない、何もかもが一変する様な奇跡など望まない。劇的な何かを欲した事は無かった、空崎ヒナはただ平凡な日々を続けられていればそれで良かったのだ。

 直ぐ傍に友人が、仲間がいて、溜息を吐きながら日々の業務に励んで、偶の休日に先生と会って、ご飯を食べて、散歩して、ゲームをしたりして、一緒に笑って。

 

 あなた(先生)は世界を救えなかったのかもしれない。

 けれど、日々の私を救ってくれていた。

 それだけで良かったのだ。

 

「貴方が生きて傍に居てくれたら、それだけで良かったのにッ!」

「ヒナ――ッ!」

 

 顔を上げ、至近距離で訴えるヒナの姿、涙が弾け、指の食い込んだ皮膚から血が滴り激痛が走る。だがその程度、最早意識の片隅にすら浮上しない。ただ目の前の慟哭が、涙が、訴えが、先生の心を全てを支配する。漏れ出た吐息と共に、震えた唇を思い切り噛み締めた。

 

 取り戻せない日常、当たり前だと信じて疑わなかった日々、あの毎日こそが己にとっての最大の幸福であると知らずに。

 何故それが、あの時の空崎ヒナには分からなかったのか。

 何故、呼吸のように続く日々こそが、何よりの奇跡だと気付けなかったのか。

 

 何気なく歩いた廊下で交わした挨拶と笑顔。

 雑談の中で足を止めた踊り場に差し込む陽射し。

 帰り道でふと目に付き口にした飲料の味。

 何気なく伸ばした掌に重なった温もり。

 深夜に一緒になって啜った珈琲の香り。

 擦り切れた記憶の果て、色褪せたそれらは遥か遠く。

 失って初めて、もう二度と訪れない奇跡(日常)なのだと知った。

 

「ねぇ、答えてよ先生、何で私の世界はあんな結末を辿ったの……!」

 

 それは問いではないのだろう。

 なぜなら答えなど存在しない。

 彼女自身分かっている。

 分かっていて尚、答えの無い現実に理由を求めずにはいられないのだ。

 そうでなければ、空崎ヒナは――。

 

「何で私は、こんな辛い目に遭わなくちゃいけないの!? あんな苦痛に苛まれなければならなかった理由は!?」

 

 指に掛かった外套が水音を鳴らし、ヒナの足先が一歩を踏み出す。先生はその矮躯を抱える様に腕を強張らせながら、鈍痛を発する心臓の鼓動を聞いていた。

 今、何かを代償に目の前の彼女から苦痛を取り除けるのであれば、涙を取り払えるのであれば、自身は喜んで代価を支払おう。

 だが何をどうしても目の前の彼女から苦痛を取り除く事は出来ない。積み重ねた過去は、やり直しても無かった事には出来ない。

 

 消えた世界も、祈りも、願いも、経験も、慟哭も、傷痕も、何もかも。

 抱えて、背負って、進むしかない。

 世界を超えても、全てはゼロには戻せない。

 

「大切な人を全部、全部失わなくちゃいけなかったワケは!?」

 

 声はただ真摯に、切実に訴える。

 ただ毎日を生きていただけだった、日々を享受していただけだった。

 だというのに突然、何の前触れもなく全てを奪われた。

 あまりにも理不尽で、あまりにも不平等で、あまりにも不条理ではないか。

 

「知っているのなら教えてよ、先生ッ!?」

「―――」

 

 その慟哭は、正しい。

 

 縋るように、救いを求めるように。力強かった彼女の掌は、より一層強く握り締められる。最早先生の皮膚は本来の色を完全に失い、黒々しく表面を彩る。滲み出す血と共に、白い亀裂が次々と走っていた。身体的な苦痛は当然存在する、だがそれ以上に――胸が痛む。

 憎悪を向けられるよりも、銃口を向けられるよりも、余程堪えた。

 

「私は、あんな結末を辿らなくちゃいけない位、大きな罪を犯したの……っ!?」

 

 救いを求め、それでも得られなかった者が最後に口ずさむ哀願。それに先生は、引き攣った呼吸と共に真っ向から叫んだ。

 空崎ヒナは、この結末に相応しい大罪を犯したのか。

 

「違う――!」

 

 震える彼女の肩を掴み、先生は何度も首を横に振った。

 

「違うよ、ヒナ……ッ!」

 

 それは違うと、先生は歪み切った表情と共に腹の底から声を絞り出す。

 己は、あらん限りの声でそう叫ぶ事が出来る。

 何度だって、たとえ誰が、何人(なんびと)が、世界そのものが真実であると突きつけようとも。

 己だけは、決して。

 血の滲んだ喉を震わせ、掠れた声で何度も、何度も否定を叫ぶ。

 

「それは――ッ」

 

 だって、空崎ヒナという生徒は――頑張り屋で。

 ただひたすらに、真面目で、勤勉で。

 どんな時でも最善を尽くそうとする努力家で。

 困難も最後までやり通す程に責任感が強くて。

 決して、こんな結末を迎えるべき子どもではない。

 いいや違う、空崎ヒナだけではないのだ。

 誰であろうと。

 遍く全ての生徒は、そんな結末を辿るべきではないのだ。

 

 だからそれは。

 その、罪は――。

 

「その罪は、私の――ッ!」

 

 軋む心が悲鳴を上げる、噛み締め擦り切れた声が震える、表情が崩れ涙がとめどなく頬を流れる。雪崩の如く到来し、積み重なるのは自責の念、無力感、己への深い失望と怒り。

 この世界が苦しみに、痛みに、悲しみに満ちていると云うのであれば。

 他ならぬ私こそが、背負わなければならない。

 

 

 ――それは、私の責任(罪悪)だ。

 

 

 君達の様な、子どもが背負うものではない。

 その世界に生きる――大人(わたし)の。

 

「――すまない」

「ッ……!」

 

 擦れた声だった。

 喉の奥で何度も引っ掛かり、削られ、ようやく形になったような。謝罪としてあまりにも短く、儚く、弱々しい。

 

「……こんな言葉一つで、済ませられる事じゃないって、そんな事は分かっているんだ」

「サオリ……!」

 

 未だ意識が混濁するミサキに覆い被さったまま、サオリは深く項垂れ呟く。普段毅然とした背中は今やあまりにも小さく、小刻みに震えていた。その下で、ミサキの呼吸を感じながら掌を強く握り締める。

 

「何度も、夢に見る」

 

 ポツリと呟かれ、脳裏に過るのは全てが決まったあの日の光景。

 総身を打つ雨の冷たさも、差し伸べられた傷だらけの掌も、指先に伝わる引き金の重さも、耳にこびり付いた銃声も、曇天に響く彼女の悲鳴も、雨水に伸びる鮮やかな赤色も。

 それでも尚――立ち塞がる大きな背中さえ。

 錠前サオリは今なお、鮮明に思い出せる。

 

「戻れたらと思う、後悔しなかった日は、一日だって無かった」

 

 自身の犯した罪の重みは、ずっと感じていた。

 

 握り締めた掌に、冷たい血が流れた。眠れぬ夜の度に同じ場面を何度もなぞる。違う選択肢があったのではないか、もっと違う道があったのではないのか、存在しなかった分岐に縋り続け、自分でなければ――アイツ(野花)ならばと夢想する。

 無意味な行為だ、絶対的な線引きの向こう側に踏み込んだ存在がどれだけ罪悪を悔いようとも、刻まれた傷痕が癒える事は無い。先生の光が戻る事も、他者の心の傷が無くなる事も。

 

「どれだけの代償を支払っても、どれだけの贖罪を行っても、償えない罪だと、知っている」

 

 未熟で愚かな子どもが、取り返しのつかない罪を犯した。

 決して贖う事の出来ない罪を。

 その行動の果てに、どれ程多くの日常を壊す事になるのかも知らずに。

 どれ程多くの未来を奪う事になるのか、考えもせずに。

 

「多くの人々に、癒えぬ傷を与えた」

 

 声が震え、零れ落ちる涙はミサキの頬を濡らしていた。

 朧げな視界の中、冷たい雫の感触にミサキの唇から吐息が漏れる。「……サオリ姉さん」、サオリは唇を噛み締め、無言で彼女の頬を撫でつけた。

 

「目に見える傷も」

 

 ゆっくりと顔を上げる。涙に滲んだ瞳は、今尚空崎ヒナと対峙する先生へと向けられる。

 傷痕に覆われ潰れた右目、捥がれ義手に置き換わった左腕、身体に刻まれ、浮かび上がる数え切れない大小の痕跡。背中の銃創、皮膚が引き攣る様な半身の爆創、目に見える全ては己の刻んだ罪そのもの。

 

「目に見えない傷も」

 

 次に、空崎ヒナを捉える。

 そこにあるのは、文字通り目に見えない大きな傷。壊れ、引き裂かれ、塗り潰された心そのもの。当たり前のように続いて行く筈だった道、彼女が辿る筈だった未来、可能性。涙に歪み、血を流し、憎悪と憤怒を抱きながら悲嘆に暮れる彼女の姿もまた、己の罪。

 

「きっと、私が想っているよりもずっと、ずっと多くの人々に……」

 

 言葉は、そこで途切れた。

 数を挙げる事など出来ない、顔も名前も知らない、きっと目の前の彼女の様に過ごしていた誰かの日常まで己は壊してしまったから。

 己は、本当の意味で自分が犯した罪の重さを知らない。

 知る事が出来ない。

 それ程までにこの罪悪は大きく、重く――苦しい。

 

「私は」

 

 呟き、ミサキを抱きかかえたまま声を絞り出す。

 失いたくなかった、この温もりを。

 ただただ守りたかった、彼女達を。

 大切だった、何を犠牲にしても明日を生きて欲しかった。

 私の――。

 

「あの時……ただ、私は」

 

 それは罪である、悪である。

 正しさなど、どこにも存在しないと知っている。ただ私怨と私欲による行動の果て。弁明の余地など、どこにあると云うのか。

 錠前サオリは己の罪悪をそう断じる。

 

 あの時、己に存在した行動理念はただの一つ。

 そこにあったのは、たったの一つだけ。

 アリウスに生まれ落ちたその時から今日に至るまで、抱え続けて来た錠前サオリの全て。

 それは――。

 

「――私の大切な家族(奇跡)を、守りたかったんだ」

 

 他者の大切なもの(奇跡)を奪ってでも、守りたかった。

 

 震える声で、縋るように吐き出す本心。それ以上でも以下でもない、ただそれだけの為に己は誤った道を突き進んだ。その道しかないと、知らないのだと云い聞かせ続けた。

 奪ってしまった奇跡(日常)の貴さを、価値を、誰よりも何よりも重く見做していたというのに、己は踏み潰す道を選んだのだ。

 

「すまない、本当に――……」

 

 サオリは床に這い蹲ったまま深く、地に擦り付ける様に首を垂れた。ミサキに覆い被さり、斬首を待つ罪人の如く力なく、あまりにも無防備に。赦される筈もないと知っていた、けれど口に出さなければならないと必死に喉を震わせた。

 

「ごめんなさい……ッ」

 

 涙に、後悔に揺れる声が響く。嗚咽を必死に堪えながら、何度も謝罪を繰り返す。震えるミサキの指先が、力なくサオリの衣服を掴んだ。皺になり、赤の滲む薄汚れた外套が視界に映る。

 

「――今更」

 

 暫し。

 ヒナは呆然と、その告解に似た謝罪へと耳を傾けていた。

 湧き上がったのは怒りでも、憎しみでもない。ましてや呆れでも、嘲りでもなかった。感情が追い付かないが故の空白、空崎ヒナの心に生まれたのはソレだ。

 

「今更、そんな事を云われたって……」

 

 呟き、一歩、二歩と蹈鞴を踏む。

 それは拒絶というより、虚脱に近い。

 先生の腕を掴んでいた指先がするりと落ちる。爪先から血が滴り落ち、四肢から力が抜け、唐突に現実へと引き戻されたかのように彼女は視線を彷徨わせた。

 

「―――……」

 

 視界に映る、血にまみれた指先。自分がこれまで何をして来たのか、何を選んで、何を壊して来たのか。

 それを見下ろしながら一歩、また一歩と彼女は退いた。サオリとの間に距離が開く、「ヒナ」と先生が苦痛に顔を歪めながら彼女を呼び手を伸ばした。しかし血に塗れた指先は、先生の掌を受け入れない。

 言葉では埋められない溝が、はっきりと形を持ってそこに横たわっていた。

 

「……私は」

 

 サオリの謝罪は、確かに届いた。

 だが――納得には程遠い。

 空崎ヒナの激情は、決して消えない。

 

「………」

 

 だというのに、言葉が続かなかった。

 喉の奥で感情が絡まり、形になる前に霧散する。ただ何か、唸りに似た苦悶の音が腹の奥底より響いた。

 守りたかった、助けたかった、明日を生きて欲しかった。

 当然だ、誰もがそう思っていた筈だ、あの世界でも大勢の人が。空崎ヒナだってそうなのだ。

 大切な存在を失う事は何よりも恐ろしい事だから。

 だが、だからと云って彼女の行為を赦す事など出来ない。彼女のその行動が、感情が、選択が先生を奪い、仲間を奪い、学園を奪い、果ては世界そのものを終焉に導いた。

 それを、どうして赦せようか。

 

「……もう」

 

 ――ならば、自分ならどうした。

 

「もう、嫌だ」

 

 空崎ヒナは問いかける。己自身に問い掛ける。他者の大切な者を奪わなければ、自身の大切な者が奪われてしまうなら。

 選ばなければ全てを奪われると云うのであれば。

 

 自身なら――空崎ヒナなら、どうしたのだろうか。

 

 答えは、最初から分かっていた。

 考える必要さえない程に、己の辿って来た道が全てを証明していた。

 この血に塗れた両手が、自身の選んだ道そのものである。

 己の贖罪(感情)を掲げ、怒りを力に変え、全てを押し退けて、粉砕し、幕を引き。

 

 その結末(道の先)を、自身はもう知っている。

 

「なんで、どうして――」

 

 ぽつりと零れたその言葉は、あまりにも力なかった。それは空崎ヒナが目を逸らし続けていた、己の進んで来た道に対する悲鳴。

 問いは宙に溶ける、答えなど、どこにも無いと知っている。

 世界はいつもこうだった、理不尽で、不平等で、不条理で、すぐ目の前にあった日常(幸福)を何の前触れもなく、いとも容易く掠め取っていく癖に。その果てに用意されているのは、罪悪に対する報いでも劇的な変化を齎す大団円でもない。

 終わらない連鎖と虚無、無意味で無価値で、なんて哀れで報われない――。

 

「痛いのも、苦しいのも、辛いのも……」

 

 気付けば、膝が折れていた。

 あれだけ激情に突き動かされ、疲労と苦痛を忘れていた筈の身体が急に全てを思い出したかのように挫ける。冷たい床に座り込み、彼女は呆然と呟く。

 

「――弱さ(本質)は、棄てた筈なのに」

 

 疲れ果てた様に、彼女は俯いた。

 零れ落ちた涙が彼女の衣服を濡らし、全身から力が抜け、伸びきった長髪が表情に影を生む。

 進み続けた理由も、意味でさえ、今はもう。

 

「……ヒナ」

 

 先生は座り込み、俯いたまま微動だにしないヒナの名を呼びながら、一歩を踏み出す。血と痛みに塗れた身体を引き摺って、唇を二度、三度開閉させた。

 言葉を紡ごうとして、やめた。

 ただ、そこにいる事を伝えるように彼女の目の前でゆっくりと膝を折った。

 

 ゆっくりと、周辺を包んでいた防壁が溶ける様に消えて行く。

 プレナパテスに寄り添っていたA.R.O.N.Aは僅かにノイズを発した自身の指先を一瞥し、それから虚空に溶けていく防壁の青を見つめる。張り詰めていた光が霧散し、遮断されていた世界が少しずつ色を取り戻す。防壁に阻まれ、外側に追いやられていた生徒達が先生の名を呼びながら必死に駆けて来る様子が見えた。

 

「―――……」

 

 沈黙し、力なく項垂れる異なる世界のヒナ(空崎ヒナ)

 怒りも、憎しみも、敵愾心も、殺意も、今は形を潜めている。

 文字通りの伽藍洞、全てを吐き出し、失った抜け殻の如く。

 今そこにあるのは、あまりにも小さく、脆く、傷に塗れた背中だった。

 

 その小さな背中を、プレナパテスは静かに見つめていた。

 

 ■

 

『――やっぱり、私達の手助けが必要みたいね』

 

 発せられた声は、水面に落ちた雫の如く波紋を起こした。

 何処までも果てしなく広がる水面。鏡のように凪いだその場所には、夜空がそのまま映り込み微かな星明りが瞬く。表面に反射した夜空は上下の感覚を曖昧にし、広がる波紋だけが唯一絶え間なく変化していた。

 

 その夜空の下で、複数の影が顔を突き合わせている。

 存在はどれも朧気で、輪郭は定まらない。人の形をしていながら、どこか影そのもののように表面は黒に染まっていた。

 

『贅沢ですねぇ、これが私だったらもう何回先輩達に怒鳴られている事か分かりませんよ?』

 

 厚手の制服を靡かせながら、どこか呆れた様子で呟く影。肩の力は抜けているが、その声には観察者特有の距離があった。既に当事者としての役割を降りたからこその、軽口にも似た皮肉。

 反射する星明かりが組んだ腕の輪郭を淡く照らす。

 

『で、でも、後少し、私達が少しだけでもお手伝い出来たら……きっと何とかなると思うんです』

 

 それに対し、おずおずと声を上げたのは小柄な影だった。身を縮こまらせ、口ずさむのは今にも水面に溶けてしまいそうな程弱々しい意志表示。それでも勇気を出して発言したのは、彼女なりに譲れない一線があったからに他ならない。

 

『う、うん、今の私達に出来る事なんて、ほんの少しだと思うけれど――それでも』

 

 同じように挙手した、もう一つの影。

 同様に小柄で、だぼっとした衣服に身を包み何度も頷きを見せる。自信なさげに指先を遊ばせながら、けれど先程の影と同様に意見を譲る気配は微塵も無い。

 

『それでも、皆ならきっと、力になってくれると思うから』

 

 言葉の端に、ほんの少しの喜色が滲む。口元は影に覆われ全く視認出来ないが、纏う気配は分かり易い。抱くのは信頼と云う名の根拠なき確信。それはこの場に居る誰もが、大なり小なり持ち合わせているものだ。

 

『……ま、肝心な時にサボったままじゃいられないよね、良いんじゃない?』

 

 水面の上に座り込み、面倒そうに成り行きを見守っていた影もまた、肩を竦めながら賛成を口にする。斜に構えた態度の奥に微かに垣間見える決然とした姿勢。それを指摘した所で本人は絶対に認めないだろうが、反対しない時点で分かり切っている事でもある。

 概ね、この場に集った時点で答えは明白。

 

『さんせーい! こういうのはやっぱり、皆で力を合わせなきゃ! ご主人様もきっと、そっちの方が喜んでくれると思うし!』

 

 元気よく跳ねる影。足元からくっきりと波紋が広がり、水面に映った星々が揺れる。その無邪気さは、どのような場所であっても変わらないらしい。場にそぐわぬ溌剌とした声に影達は肩を竦ませ、視線が持ち上がる。

 

『――では、全会一致という事で宜しいですね』

 

 集った影達の中心、微動だにせず佇む人物が静かに告げる。

 顔を覆うウィンプルが波紋に合わせて揺れ、感情を表に出さないその姿は一種の神聖ささえ感じられる程。

 水面に座り込んでいた影は、そんな隣り合う彼女を一瞥し呆れたように肩を落とした。

 

『そんな堅苦しい云い方しなくても……合意形成とか捜査の腹合わせ思い出すから苦手なんだよねぇ』

『それは失礼しました、何分そう云った振る舞いが身に沁みてしまったもので』

『別に、云い方など何でも構わないでしょう、やる事は変わりないのだから』

『まぁそうですね、私達はもう外様ですし? 向こうの私は精々死ぬ気で頑張れば良いんですよ――幸運があるなら、きっと何とかなると思いますし』

 

 思い思いの言葉を口ずさみながら、全員がそれとなく一歩を踏み出す。

 靴底が水面を叩き、重なり合った波紋がより大きな輪を作り出す。

 距離を縮めた七つの影が互いに顔を見合わせた。

 

『顕現した各区画のサンクトゥムは既に破壊されていますが、だ、大丈夫なんでしょうか……?』

『問題ありません、アトラ・ハシース自体は健在、加えて僅かではありますが先生と繋がった際に残された力の残滓があります』

 

 そう云って一つの影が掌を差し出すと、薄らとした青白い光が掌に灯った。

 それが周囲の闇夜を払い、僅かな煌めきが人影の肌を露にする。他の影達は灯った光に視線を寄せながら疑問を口にする。

 

『此処に集った全員分、これを束ねれば向こう側にほんの少しだけ介入出来る……そういう事ね?』

『はい』

『分かってはいたけれど本当に些細な助力だねぇ、私なんかは特に、送り込んだ所で何の役にも立たない気がするけど』

『で、でも、きっと意味のある事です……!』

『そうそう、こういうのは信じることが大事だってご主人様も云っていたから!』

『うーん、まぁ、そっか――そうだね』

 

 皆がそれぞれ掌を差し出し、青白い光を灯す。同時に影達の指先が揺らぎ、輪郭が大きく崩れ出した。

 その事実に驚き、小柄な影が身を震わせる。

 

『……体が』

『時間がありません、私達もそう長くはこの世界に留まっていられない』

 

 存在自体が既に崩れ始めている、それも当然の事。そもそも、此処に集っている面々自体が影法師に等しい。霧散した力の残滓、サンクトゥムに残留していたエネルギーの欠片、それらが辛うじて機能し僅かな猶予を得ているに過ぎないのだから。

 仮初の身体が完全に崩れ落ちるよりも早く、事を為す必要がある。

 

『早速、始めましょう――皆さん、手を』

 

 その言葉に全員が掌に光を握り締め、重ねる様に突き出す。

 一人一人は小さな灯であっても全員が揃えば大きな光となる。

 重なり合った青白い光は夜空に瞬き、集った影達を覆う黒色を一瞬のみ取り払った。

 

 本来の色を、姿を取り戻した生徒達は夜空に向かって真摯に祈る。

 

『便利屋の皆なら、きっと大丈夫よ、私が一番良く知っているもの……その強さも、諦めの悪さだって』

『リーダーと皆が一緒なら、絶対にご主人様を助けてくれるよね! だって、ずっとそうだったもん!』

『勇者パーティーが一緒なら、絶対にハッピーエンドに辿り着けるって信じているから……! 皆と決めていたエンディングはいつだって大団円、だよね……!』

『補習授業部は、どのような状況でも諦めず奇跡(日常)を勝ち取った――希望(ヒフミちゃん)勇気(コハルちゃん)不屈(アズサちゃん)、この輝きは、全て皆から貰ったものです』

『私にやり直す機会は与えられなかったけれど、ユウカ先輩にノア先輩、それに先生が一緒なら、きっと何とかなりますよ……にははっ!』

『私はどうだか分からないけれど、カンナ局長とキリノなら上手い事やってくれるでしょ、後は任せてのんびり見守らせて貰うからさ』

『うん、RABBIT小隊の、私の信じた色褪せない正義を――皆なら絶対に実現出来るって、ずっと、ずっと信じているから』

 

 集うのはサンクトゥムの守護者、既に表舞台より退いた影法師達。

 それらが握り締め翳すのは、大人のカードが齎した力の断片――一握りの希望。

 掲げたそれは一斉に煌めき、小さな、けれど大きな意味のある奇跡を生む。

 望みは一つ。

 今度こそ、あの人の願った――笑顔溢れる未来に。

 

 希望に満ちた明日へと辿り着けるように、と。

 

 ■

 

【第一サンクトゥム アビドス自治区・砂漠地帯】

 

「対策委員会から制圧完了の報告、自律兵器で動いている個体はもう無いみたい、一応住民と協力して見回りをするけれど、大群は何処にも確認出来ないって」

「――そう」

 

 砂漠の只中にて佇む四つの影。吹き荒れる砂塵はまだ収まらず、視界の端では細かな砂粒が絶え間なく舞っている。残り火が砂上を舐め、戦闘の痕跡が刻まれた大地の上で、便利屋68の面々は対策委員会からの連絡を受けていた。

 

 カヨコが耳に当てていた端末を静かに離し、周囲を睥睨するアルへと伝える。

 対策委員会からの通信――サンクトゥム本体の破壊、および周辺区画の自律兵器掃討完了。

 アビドス砂漠より溢れた自律兵器の沈黙、それを聞き届けたアルはそっと安堵の息を吐き出す。

 

「なら、これで」

「一応、私達の担当は完了って事になるのかな」

「やっと終わったぁ~……!」

「さ、流石に、疲れましたね――」

 

 張り詰めていた空気が、僅かに緩む。サンクトゥムの破壊は終わった。それに呼応するように自律兵器達も大部分が機能を停止し、砂漠を飛び出した個体も掃討した。

 

 先程まで異様な赤に染まっていた空はいつの間にか本来の色を取り戻しており、どこまでも澄んだ青が広がっている。時刻的にはそろそろ夜の訪れ、黄昏時である。

 薄らとした緋色が地平線の向こう側に伸び、真上の澄んだ青と僅かな黒の混じった星々が瞬いていた。

 その変化を確かめるように、面々は疲労困憊といった様子で座り込もうとする。自律兵器の誘導、異なる世界のアルとの死闘、残存戦力の掃討――方々を駆け回り全力に次ぐ全力を出し切った彼女達の肉体は休息を求めていた。

 震える膝を摩りながら、皆は思い思いに腰を下ろす。

 

「まだよ」

 

 だが、アルだけは違った。

 彼女は安堵し脱力する仲間達とは対照的に、強張った表情のまま空を仰いでいた。その様子に、皆が未だ両足で地面を踏み締めるアルを見上げる。

 

「まだ、この空の向こう側で先生が戦っている」

 

 戦いは、終わっていない。

 地上の一角、砂漠のこの場所で一区切りがついただけで、本当の決着はまだ先にある筈だ。自分達が死力を尽くして戦った様に、先生もまた、この青空の遥か上空で抗い続けている。

 だから、まだ終わっていない。

 

 便利屋68の――私達の戦いは。

 

「―――」

 

 そう感じていた時だった。

 何の前触れもなく、その場に佇んでいた便利屋68全員の身体が淡い青白い光に包まれた。

 愛用のバッグを椅子代わりに座り込んでいたムツキも、愛銃を杖代わりに膝を突いていたハルカも、屈み込み空を見上げていたカヨコも、一人立ち続けていたアルでさえ。

 咄嗟の反応が出来ない程、唐突に。

 

「わっ、わっ!?」

「何かすっごく体がキラキラしているんだけれど!?」

「なに、これ……!」

 

 突然の異変に、堪らず声が上がる。

 光は眩しいというほどではないが、確かに自分達の内側から滲み出ていた。普段は冷静沈着なカヨコでさえ目を見開き、状況を呑み込めない様子だった。咄嗟に光を払おうと腕を指先で叩くも、零れ落ちる粒子は掌を貫通する。

 砂塵の中で青白い粒子が揺らめき、それは風に流される訳でもなく、確かな意思を持つかのように自分達の身体に留まっていた。

 

「もしかして」

 

 光を凝視しながら、アルだけは何かに気付いたように目を細める。青白い光、纏わりつく粒子、それには見覚えがある。そして光を通して何かが、誰かが自分に語り掛けて来るような感覚があった。

 それは目の前で掻き消えて行った、異なる世界の自分自身(陸八魔アル)に似る。

 立ち昇る光は僅かずつ天に昇り、青を取り戻した空へとアルの瞳を導いた。

 

「――私達を、呼んでいるの?」

 

 ■

 

【第二サンクトゥム ミレニアム郊外・閉鎖地域】

 

「リーダーッ!」

 

 鋭い呼び声が静まり返っていた廃墟に響いた。瓦礫と封鎖フェンスに囲まれた帰還道中、その只中でC&Cの全員が同時に異変を感じ取った。

 青白い光が何の前触れも無く彼女達の身体を包み込んだのだ。

 それは外部から照らされる光ではない。内側から滲み出るように、淡く、しかし確かな存在感をもって輝いている。

 

 カリンとアカネは、僅かに浮足立つ。

 エージェントとして幾度となく異常事態を経験してきた彼女達ではあるが、説明不可能な発光現象には一瞬の動揺を隠せなかった。ましてや今しがた、理解不能な現象に直面したばかりなのである。警戒は当然、すわまだ見ぬ敵性勢力の仕業かと即座に臨戦態勢へと移る。

 

「この光は、一体……!」

「もしかして、まだサンクトゥムの影響が――!?」

「違う」

 

 カリンとアカネが状況を分析しようと声を重ねる中、その言葉を断ち切るようにネルの声が放たれた。

 短く、だが一切の迷いのない否定。響いた声音には、カリンやアカネの持たない確信を孕んでいた。垂らした双銃をピクリとも動かさず、巻き付けた鎖を鳴らしながらネルは無造作に振り返る。

 

「アスナ」

「……うん」

 

 アスナもまた、後輩二人とは対照的に落ち着いた振る舞いを見せていた。愛銃を抱えたまま、しかし引き金に指を掛ける事はなく、ただ己の身体を包む光を静かに見下ろす。

 説明は出来ない。けれどこれは危険ではないと彼女の第六感が告げている。敵意も、害意も、殺意も感じない。

 感じ取れるのは微かな、懐かしく暖かな力の残滓のみ。

 

「……何だか、呼ばれている気がする」

 

 アスナは胸元を撫でつけながら、ぽつりと呟く。視線は自身の胸元へ、青白く揺らめく光を捉えたまま。不思議と恐怖は無かった。代わりに胸の奥で、何かが静かに引かれている様な感覚があった。

 

「呼ばれているって……」

「一体誰に、というか何処に……?」

 

 アカネとカリンが戸惑い混じりに問い掛ける。

 それに対しアスナは答えない、ただ、ゆっくりと顔を持ち上げた。

 閉鎖地域の上空、薄らと夜空が顔を覗かせ始めた雲一つない空、そのさらに向こう側。

 釣られるように、C&Cの面々は上空を仰ぐ。

 言葉ではなく、瞳が行き先を示す。

 彼女達が向かうべき場所は――。

 

 ■

 

【第三サンクトゥム D.U.シラトリ区】

 

「うぇえッ!?」

「お、お姉ちゃん!? 何か、体が光っているよ!?」

 

 最初に異変を察したのはモモイだった。

 街区の灯りに紛れる事なく、はっきりと分かる青白い光が彼女の身体の輪郭を縁取るように滲み出したのだ。

 突然の出来事にミドリが慌てて駆け寄ってモモイの腕を取る。掴んだ腕は確かにそこにある、感触も確かに、だが滲み出る光だけが現実感を薄れさせていた。

 

「なにこれ、もしかしてパワーアップイベント!?」

「いや、そんな訳――!」

 

 突然の発光に一瞬面食らい、ややあって目を輝かせ半ば反射的に期待を口にするモモイ。だが、それを即座に否定するミドリの声が続く。ゲームであれば、次の展開は分からない。新スキル解放、専用演出、そして派手なカットイン、光り輝く身体はパワーアップの前兆かもしれない――だが、現実はそんな都合の良い仕様ではない。

 

 そして、その現実を証明するかのように、ひとり、またひとりと光は連鎖していく。

 

「わっ、私も!?」

「アリスも同じです!」

 

 モモイ、ミドリ、アリス、ユズ。

 順番すら決められていたかのように、四人の身体が順に淡く発光を始める。D.U.シラトリ区に並ぶ街灯、人工光とは明確に異なる静かで、淡く、何だか懐かしい輝き。

 驚きと困惑が入り混じり、誰もが戸惑いの中で動きを止めた、その時。

 

「―――」

 

 ユズだけが一人、光の向こう側に佇む何者かの存在を感じ取った。

 自分の掌を見下ろし、次いで胸元へ。光の存在を確かめるように、何度も手を開閉させる。

 そして、不意に目を見開き叫んだ。

 

「だっ、大丈夫だよ、皆!」

「……ユズ?」

 

 その声に、てんやわんやの状態であったゲーム開発部は自然とユズを見つめる。仲間達の視線を一身に受けながらユズは大きく息を吸い込み、努めて冷静な態度で続けた。

 

「きっと、大丈夫」

 

 確信と呼ぶには曖昧だ。説明しようとすれば、言葉はすぐに詰まるだろう。それ程に齎された感覚は朧気で、直感としか表現できない。

 けれど――。

 

「私を、信じて」

 

 ユズには、はっきりと分かっていたのだ。

 この光は、危険なものではない。寧ろ自分達を何処かに、必要な場所へと導こうとしている。

 この光越しに確かに感じ取れたのだ。

 

 誰かの、切実な意志が。

 

 ■

 

【第四サンクトゥム カタコンベ内部】

 

「は、ハナコちゃん!?」

 

 地上へと続く帰路、湿った石壁と低い天井に挟まれたカタコンベの回廊は、足音すら吸い込むような静けさに包まれていた。暫し地下に留まっていた補習授業部は、先行し自律兵器や複製が残存していないか掃討作戦に出たシスターフッドの後を追う様に四名のみで歩く。

 崩れかけた壁面を照らすのは、先頭を歩くアズサの携行ライトの細い光だけ――そのはずだった。

 その静寂を破るように、不意に青白い輝きが滲み出す。

 

「ちょ、ちょっとハナコ、どうしたのよ!?」

「―――……」

 

 光の出所は、ハナコの身体そのものだった。

 まるで内側から照らされているかのように、淡く、しかし明確な光が溢れ出し、長く放置された石造の通路を照らし出す。

 突然の異変に補習授業部の面々は足を止め、ハナコの身体を凝視する。薄暗い回廊、闇を押し退けるには十分すぎる光量だった。影が壁に伸びて大きく揺れ、まるで別の存在がそこに居るかのような錯覚を生む。

 当のハナコはただ目を瞬かせ、自分の両手を見下ろし、光が現実である事を確かめるように指先で肌をなぞった。

 

「あ、あれっ、私達も!?」

「皆、離れるな! 一体何が起こるのか分からない――!」

 

 遅れて、異変は連鎖する。補習授業部の身体がハナコと同じ青白い輝きに包まれていき、回廊全体が異様な明度に満たされた。

 

「この感覚は……」

 

 ハナコはゆっくりと呟きを零し、視線を尖らせる。同時に光の向こう側から伝わって来る、何者かの意志と感情。無意識の内に指先を握り締めた彼女は、肩に提げていた愛銃を掴み弾倉を検め始めた。

 

「皆さん、弾薬はまだ残っていますか?」

「えっ」

 

 唐突な問いかけ。声音は真剣で、アズサは即座にポーチとベルトに備えた弾倉を確認、ヒフミとコハルは一拍間を置いて慌ててバッグの中に手を入れ残弾を目視した。

 

「一応帰路で襲撃に遭っても大丈夫な程度には残っている」

「わ、私もまだ、戦えるけれど……?」

「では、戦闘準備を」

 

 ハナコは断言した。

 誰もが一瞬、言葉を失い、互いの顔を見合わせる。

 浮かぶのは疑念、自分達の役目は終わった筈だと。

 サンクトゥムは破壊済み、自律兵器と複製もほぼ掃討された状況で、何故――。

 

「せ、戦闘準備って、何で……」

「地上のサンクトゥムは、もう破壊したんですよね? 自律兵器も殆ど掃討済みって、シスターフッドの皆さんが……」

「えぇ、ですのでこれは――」

 

 ハナコは彼女達の言葉に頷きを返しながら、静かに弾倉を嵌め直す。回廊に硬質的な音が響く。普段の柔らかな雰囲気は形を潜め、覗くのは異なる世界の自分自身と相対した時の、冷静で真剣な瞳。

 

「明日を迎える為の、最後のひと押し――という所でしょうか」

 

 ■

 

【第五サンクトゥム ミレニアム・要塞都市エリドゥ近郊】

 

「うわぁあああ! ユウカ先輩ぃーッ!」

 

 荒涼とした要塞都市の外縁。撃破されたドローンの残骸が無秩序に散らばり、金属片が鈍い陽光を反射しているその只中で、場違いな声が響き渡った。

 体を青白く発光させたコユキが、涙と鼻水をこれでもかと撒き散らしながら必死の形相でユウカを追い回しているのだ。

 異様な光景だったが、当人にとっては決して冗談ではない。残骸を蹴飛ばしながら凄まじい勢いで駆けて来るコユキを尻目に、ユウカもまた冷汗を滲ませながら逃げ回る。

 

「ちょっとコユキ!? あんた次は一体何をしでかしたのよ!?」

「や、やっていません、何もやっていませんよぉっ! 本当ですって! 信じて下さいよぉ!」

 

 弁明になっているのかすら怪しい叫びを上げながら、コユキはユウカに縋りつこうと手を伸ばす。対するユウカは反射的に身を反らし、冷静さを装いつつも露骨に距離を取る。伸ばした指先は虚空を切り、コユキの悲鳴染みた鳴き声はより甲高く周囲に響いた。

 

「何で逃げるんですか!? さっきまであんなに優しかったのにぃッ!?」

「それとこれとは話が別でしょ――ッ!」

 

 そりゃあ、あんな形で異なる世界の影響を見せられては同情心の一つや二つは湧き上がるというもの。

 しかし、こうも摩訶不思議な現象を目の前で起こされては慰める気も失せる。

 そうこうしている内に、コユキの指先がユウカの外套を捉え、指先が衣服を握り込む。

 瞬間――まるで感染するかのように、ユウカの体にも淡い光が奔った。それを見たユウカはぎょっとした様子で自身の体を見下ろし、蒼褪めた表情で叫んだ。

 

「ちょ、ちょっと、あんたが触ったら私まで発光し始めたじゃないッ!?」

「うわぁああああ~ッ!」

「うーん」

 

 ユウカの腹部に顔を埋め、渾身の力で縋りつくコユキ。彼女を何とか引き剥がそうともがくユウカ、混沌とした空気の中で、ノアは静かに思案の声を上げる。

 

「ちょ、ちょっとノア、見ていないで手を貸して――ッ」

 

 助けを求めようと視線を向けたその瞬間、ユウカは変化に気付いた。ノアの身体もまた、自分達と同じ青白い輝きに包まれているのだ。自分達とノアは接触していない、その事実にコユキを押し退けようと動いていた両腕から力が抜ける。

 

「あ、あれ、ノアも……?」

「はい、どうやら此処に居る全員に同じ現象が起こっているみたいですね」

 

 触れたから発光した、という単純な話ではない。この場そのものが、何らかの影響下にある――そう結論付けるのが妥当であった。ノアは努めて冷静な様子で周囲を見渡し、それから自身の身体から立ち昇る光を観察する。

 

「何が起こるかは未知数ですが、どうやら――」

 

 静かに息を吐き出し、足元で砕けたドローンの装甲を踏み締め、その感触を確かめる様に一歩前へ。

 そして、徐々に星が瞬き始めた空――青を取り戻した頭上を仰ぎ、告げる。

 

「まだ、終わりという訳ではなさそうですね」

 

 ■

 

【第六サンクトゥム D.U.雲掛け通り】

 

「――!」

 

 最初に異変を察したのはカンナだった。

 前触れもなく、その身体が青白い光に包まれる。雲掛け通りを照らす街灯の橙色とは異質な、暖かく澄んだ輝き。夜の通りの中央で、その光だけが浮き上がるように存在を主張していた。カンナは唐突に発光し始めた自身の体を見下ろし、息を呑む。

 周囲の空気が張り詰める。まるで音が一瞬、遠のいたかのようだった。

 

「きょ、局長!?」

「うわっ、なにこれ……!」

 

 驚愕が声となって弾ける。

 だが周囲の理解が追いつくよりも早く、次の異変が連鎖する。

 局長の背後を歩いていたフブキの身体が、同じように淡く発光し始めた。最初は輪郭がぼやける程度だった光は、次第に確かな輝きとなって彼女を包み込む。キリノは光に包まれた両者を見つめながら、愕然とした様子で言葉を漏らす。

 

「ふ、フブキまで……!?」

「私まで――っていうか、キリノもじゃん」

「えっ!? あ、あれっ!?」

 

 フブキが呆れた様子で指差す。その先に立つキリノの身体もまた、カンナやフブキと同様に光を帯び始めていた。青白い輝きが制服の縁をなぞり、輪郭を曖昧に溶かしている。

 

 カンナは仏頂面を崩さぬまま、目線は光る自身を含めた三名と、通りの全体を走り回るヴァルキューレの生徒達を素早く往復していた。遠くから、光に包まれたカンナ達に気付いた生徒が何事かを叫びながら駆けて来るのが分かる。

 

「サンクトゥムを破壊して、私達の大きな役割は終わったと考えていたが――どうやら、そうでもないらしい」

 

 溜息交じりの、淡々とした声。

 街角に転がる自律兵器の残骸、破壊され沈黙した鉄の塊。警戒配置についていたヴァルキューレの生徒達――だが、その誰一人として発光の兆候は見せていない。

 

「発光現象は此処に居る三名だけか」

「そ、その様です……!」

「まぁ、多分……?」

「分かった――キリノ、フブキ」

 

 理由は不明、この光に選ばれた基準も、意味も、現時点では測りようがない。

 だが不明瞭である事と、対処を怠る事は同義ではない。

 ヴァルキューレである以上、その責務を負っている以上、自分達が為すべき事は一つである。

 

「戦闘準備を」

「……!」

 

 短く、しかし明確な号令。その一言で、空気が引き締まる。

 どのような状況に陥ったとしても、即応できるだけの準備と覚悟を済ませる様に。カンナの号令は、その様な意味を含んでいた。

 キリノとフブキは一瞬だけ互いを見た。言葉は交わさない、だが、その視線の奥で同じ意志が共有される。

 ヴァルキューレの生徒として、確かに託された者として――キリノはいつも通り毅然と、フブキはらしくないと自嘲しながらも力強く、愛銃に手を掛け腹の底から声を絞り出した。

 

「――了解ッ!」

 

 ■

 

【第七サンクトゥム 乙種閉鎖区域中心部】

 

「RABBIT1!」

 

 帰還ルートを進んでいたRABBIT小隊の足が、殆ど同時に止まる。先頭を行くRABBIT1の呼称が、鋭く空気を切った。

 即座に全員が身を屈め、背後を振り返る。同時に驚きに息を呑む微かな音が耳に届いた。

 原因は一つ――RABBIT2の身体が、突如として青白い光を放ち始めたのだ。

 

「ッ、RABBIT2!?」

「なにこれ、敵の攻撃――?」

 

 反射的に全員が愛銃を構え、銃口が周囲を音も無くなぞる。既に周辺の制圧は完了している、しかし今のRABBIT小隊に油断は存在しない。全員が周辺の建築物、路地、遮蔽裏、窓辺、それらを一つ一つ素早く、しかし確実に目視しモエは端末で周辺の熱源反応を探る。

 

「クリア、周辺に自律兵器は目視出来ず!」

「端末にも反応なし、熱源、動体反応共にね」

「さ、サンクトゥムはもう破壊した筈なのに……!」

「違います、RABBIT2だけではありません、これは――」

 

 ミヤコが発した言葉の途中で、全員が異変に気付く。光は、RABBIT2だけに発生した現象ではなかった。視線を落とした各々の腕、装備の隙間、制服の縁――そこから同じ光が滲み出し、青白い光が顔を覗かせていた。

 その事に気付き、モエは慌てて自身の肌を指先で叩く。

 

「うわっ、なにこれ!」

「わ、私達も……!?」

 

 驚愕と戸惑いが一斉に広がる。戦闘訓練を積み重ねて来た彼女達ではあるが、未だかつて経験した事のない類の異変は流石に浮足立つというもの。

 だがその中で一人だけ、RABBIT1は銃を下ろさず、呼吸を乱す事もなく、全員を視界に収めたまま冷静さを保っていた。

 

「どうやら、RABBIT小隊全員が同じ状況に在る様ですね」

 

 薄汚れた外壁に肩をつけ、ミヤコは淡々と呟く。周囲に敵性反応なし、外部干渉の兆候も見られなかった、それでも確かに何かが起きている。

 この光は何者かの攻撃なのか、それとも――。

 

「でも持続的に体を光らせるだけって、一体どんな攻撃なワケ? 確かに目立つけれど物理的なスポットとか、航空支援か狙撃手でも居ないと意味ないでしょ」

「上空に航空機の類は見えない、小型ドローンの機影は流石に補足出来ないかもしれないが、小型機に搭載可能な火器なんて高々知れているし……狙いが読めないな」

 

 建造物の影、崩落したコンクリート片、狙撃に適した高所は先の攻防戦で粗方目星がついている。警戒を崩さないままサキが周囲にドローンや狙撃手の敵影を探し、モエはこの意図の分からない光について顔を顰める。

 しかしどうにも、その手の影は全く見当たらない。

 

「いいえ、これは私達に対する攻撃というよりは――」

 

 ミヤコは言葉を選びながら、体表を包む光に視線を落とし瞳を細める。光からは敵意を感じない。どんなものであれ、他者を害する行為には独特の気配がある。機械を介していようとも、そこに込められた色や意志というのは僅かに滲み出るものだ。

 だというのにこの光は、寧ろ奇妙なほど穏やかで。

 もっと別な――。

 

「……RABBIT4?」

 

 不意に、ミヤコはミユが呆然と自身から立ち昇る光を凝視している事に気付いた。

 彼女は愛銃を構える事もせず、ただ呆然と、自分の指先から滲み出る粒子を視線で追う。それは自分達には見えない何かを、誰かを見つめている様な、そんな所作にも見えた。

 

「……なんだ、一体どうした」

「もしかして何か気付いたの、RABBIT4(ミユ)?」

 

 ミヤコの呼びかけに釣られ、全員の視線がミユへと集まる。小隊の中でも鋭い直感と視力を持つ彼女ならば何かを掴んでいてもおかしくは無い。そんな期待と信頼があった。

 ミユは自分を見つめるRABBIT小隊の仲間達に気付き、一瞬言葉に詰まると、それからおずおずと口を開いた。

 

「……えっと、多分なんだけれど」

 

 声は小さく、確信には程遠い。それでも何かを掴んだ者特有の迷いがあったように思う。ややあって彼女は指先で手の甲をなぞり、ぼそぼそと呟いた。

 

「私達、呼ばれているんだと思う」

「……は?」

 

 思わず口から間の抜けた声が漏れた。モエとサキは互いに顔を見合わせ、訝し気な表情と共に問いを重ねる。

 

「呼ばれているって、誰に、というか何処に」

 

 モエは胡乱な目でミユを見つめ、当の彼女はすぐには答えられず、視線を彷徨わせ――軈て静かに腕を持ち上げた。

 

「えっと……」

 

 そして実に緩慢な動作で指先を一本立て、無言で己の頭上を指差した。

 釣られるように全員の視線がミユの指先を追い、見上げた先には雲の切れ間から覗く、何もない透き通った空が広がっていた。

 

「――空?」

 

 ■

 

【ナラム・シンの玉座】

 

 長い――永い、旅路だった。

 

 薄汚れた包帯に包まれた、最早人とも呼べぬ異形の指先が視界に入る。

 体の感覚は疾うに失われている、暖かさも、冷たさも、今の自分には何も分からない。耳に届く音は朧気で、視界は薄暗く、濁り切った分厚いフィルター越しに覗き込んでいるような。

 それも仕方のない事だろう、この身は既に人間に非ず、己の持つ権能と力の全ては既に自身の手を離れている。

 此処に佇むは傀儡に身を窶した伽藍洞の器、異形の怪物。

 

 嘗て生徒達と共に未来を思い描いた――成れの果て(色彩の嚮導者)

 

 全身が内側より罅割れ、崩れていく音が聞こえた。

 鈍く、濁ったそれに、プレナパテスは己の限界が近い事を直感する。

 大人のカード、その行使による反動。地上に顕現させたサンクトゥムの守護者、彼女達の顕現と空崎ヒナの戦闘支援、計八名に及ぶ戦闘支援はプレナパテスが持つ大人のカードに残された余力を大きく削いでいた。

 肉体が如何に崩壊を免れようとも、存在としての根源が失われてしまえば意味など無い。

 それは、分かり切っていた結末だった。

 

 ――先生。

 

 そんな彼の背中越しに、誰かの手が触れる。

 途端、何も感じぬ筈の身体に奔る何か。囁かれる何者かの声、薄らとした水色、透き通った空を想起させる長髪が靡き、細腕がプレナパテスの首を抱く。

 薄らと罅割れ、暮明が覗く鉄仮面がゆっくりと持ち上がった。

 

 ――あと、もう少し。

 

 背中に感じる、生徒(子ども)ひとり分の重み。

 酷く懐かしい香りがした。

 

 ――果たしましょう、今度こそ。

 

 ずっと、ずっと前に感じた温もりと香り。

 朧げな輪郭を保った影が、耳元で告げる。

 

 ――私達の願い(祈り)を、どうか。

 

 その言葉に、プレナパテスの指先が微かに震える。薄汚れた包帯に包まれた長い指先、木乃伊の如きそれが床を捉え、その巨躯が微かに揺れる。朧げな輪郭を保っていた影は呟きと同時に霧散し、背後に感じていた重みだけが残った。

 プレナパテスは鉄仮面の奥、最早原型を辛うじて残すのみとなった口元をほんの、ほんの僅かに緩めた。

 

 あぁ、そうだね。

 

 胸中で告げる。床を掌で捉えたまま、朧気な視界のまま瞳を見開く。

 視界の先に在るのは、あまりにも小さく、脆く、傷に塗れた背中。

 共に世界という枠組みを飛び越え、此処へと辿り着いた――空崎ヒナ(私の生徒)

 

 彼女は今、遂にその膝を折り床へと伏した。

 

 その姿を、背中を視界に捉え、既に全てを出し尽くしたプレナパテスの四肢に微かな力が籠る。

 彼女の涙が、苦しみが、痛みが、プレナパテスの身体を突き動かした。

 

 ヒナ。

 どうか、泣かないで。

 

 その巨躯がゆらりと揺らぎ、少しずつ上体が持ち上がる。

 生徒を想えば、こんな空っぽの、何も残されていない己にもまだ、やらなくちゃいけない事があると力が湧いて来る。指先一本、顔を上げる事すら億劫だったと云うのに、自身の奥底に沈んだ何かが、決して譲れない何かが、守るべき生徒の悲しみに呼応し身体を動かしていた。

 彼女の悲しみを理解する、苦しみを理解する、痛みを理解する。彼女が悲しみに、苦しみに、痛みに涙を流すのであれば――(先生)は立ち上がらなければならない。

 是を非としても、何としても。

 零れ落ちる涙を拭う指先さえ、私にはもう残っていないけれど。

 それでも――。

 

 その悲しみも。

 苦しみも。

 痛みも。

 

 

 全て(罪悪)は、私が背負うから。

 

 

 ズン、と。

 強く、強く床を踏み締める音がナラム・シンの玉座に響いた。

 重々しく鳴り響く金属音、ゆっくりと影を創る巨躯。膝を突き沈黙を貫いていた彼の者が、緩慢な動作で再び立ち上がろうとする。

 ゆっくりと影が伸び、黒色がヒナの矮躯を覆い隠した。

 背後より伸びる影、懐かしい気配に気付いたヒナが俯いていた顔を上げ、涙に塗れた声で呆然と呟く。

 

「――……先生?」

 

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