ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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遅くなって申し訳ありませんの!
今回、約32,000字ですわ~!


先生は、決して斃れない(諦めない)

 

『ぷ、プレナパテスが立ち上がります、先生ッ!』

「……っ!」

 

 アロナの切迫した声が先生の鼓膜を震わせる。沈黙していた巨躯が軋みを上げ、ゆっくりとその上半身を持ち上げる姿が見えた。

 先生は反射的に身を屈め、足元に転がっていたシッテムの箱を掴み取る。血で滑る指先、握力は既に限界に近く、ほんの些細な動作が顔を顰める程度には負担となる。

 プレナパテスの足先が、砕けた床を踏み締めた。錆び付け、欠けた仮面を持ち上げ、奥に灯る鈍い眼光が薄暗い空間に煌めく。

 

「―――」

 

 無言のままプレナパテスが片手を翳した。指先に渦巻く、目に見えぬ何か。

 次の瞬間、先生の目前で膝を突いた異なる世界のヒナ、その姿が掻き消えた。

 何の前兆もなく、ただ存在だけが切り取られるように忽然と、気付けば彼女はプレナパテスの背後へと転移していた。まるで庇うように、プレナパテスはヒナを背にして立ち塞がる。

 

「……まだ」

 

 ――立ち上がる事が出来るのか。

 

 先生の口から零れ落ちた言葉は、驚嘆と強張りを含む。目の前の存在が今尚蝕まれているであろう反動と代償を理解しているからこそ、腹の底から出た率直な感想が漏れ出た。

 そして、ふと自嘲するように唇を噛んだ。

 何を今更と思ったのだ。

 己が、他ならぬ己が、彼の限界に期待を抱くなど。

 

「……いいや、そうだね」

 

 苦笑し、血に塗れた己の身体を見下ろす。裂けた衣服に滲む赤も、彼方此方にこびり付いた生傷も、痣も震える膝も。そんな事は知った事かと、それでも地面を踏み締める己の両足。

 姿形こそ異なってしまったが、それでも本質は変わらない。

 

「貴方も、私も」

 

 持ち上がった視線が、プレナパテスの背後で呆然と座り込むヒナを捉える。

 守るべきものがある。

 立ち上がらなければならない理由がある。

 だからこそ、私達は――。

 

『せ、先生……!』

 

 アロナの声が驚愕に染まる。先生がシッテムの箱を見下ろすと同時、画面一杯にアロナが張り付き叫んだ。

 

『ナラム・シンの玉座に巨大なエネルギーが集中して……!?』

 

 先生の前方、大きく隔てられたプレナパテスと己の間。ナラム・シンの玉座、その中心にて明確な異変が起きていた。

 虚空に青白い光が生み出され、強い風が巻き起こったのだ。

 

「これは――」

 

 光を仰ぎ、先生もまた驚愕を顔に貼り付ける。最初は小さな灯火のようだった。だが光は瞬く間に肥大化し、まるで呼吸するかのように明滅を繰り返す。

 空気が震え、熱を持ち、吹き抜ける風が体を揺らした。重力すら歪むような圧迫感が肌を刺す。何かが起きようしているのは明白だった、しかしそれが何であるかを把握出来た者はいない。

 

「下がって、先生!」

「あなた様……!」

 

 鋭い声と同時に、ミカとワカモが即座に先生を庇い前へ進み出た。躊躇なく、反射に近い動きで彼女達は先生の前に壁を作り異変に備える。

 直後、虚空に生まれた青白い光が収束の限界を迎えたのか一斉に爆ぜた。

 その場に居た全員の視界が白に染まり、衝撃波のような光の奔流が空間を薙ぎ払う。全員が堪らず顔を背け、吹き抜ける風に身を低く構えた。

 

「わっ!」

「ちょっ……!?」

「アル様ッ!」

「コハルちゃん、手をっ!」

「う、うん……!」

「ヒフミ、私に掴まれッ!」

「アズサちゃん!」

「どぉわぁッ!?」

「お姉ちゃん!」

「ユズ!」

「だっ、大丈夫……!」

 

 混線する声、聞き覚えのある声だと思った。幻聴だろうか、先生を含め多くの生徒がその様に考えた。

 しかし、次の瞬間――光の中から、次々と人影が現れては落下を始めた。

 煌めいていた青白い光、空中から落ちてくる複数の影。まるで空間そのものが裂け、そこから吐き出されたかのように零れ落ちる彼女達は、突然の出来事に悲鳴やら焦燥やら口々に叫び響かせる。

 

「っと! C&C、全員揃っているな!?」

「はい、問題ありません……!」

「ちょ、コユキ危ないっ!?」

「えっ、待っ――ぐえッ!」

「カンナ局長、フブキ!」

「ぶ、無事だよ、何とかね……」

「ッ、RABBIT小隊、周辺警戒!」

「状況確認、離れるなよッ!」

 

 突然の事に思考停止し、放り出された格好のまま床へと叩きつけられる者、咄嗟に受け身を取り難なく着地する者。仲間を庇い、もつれ合いながら転がる者。互いに支えながら辛うじて着地する者。

 それぞれがそれぞれの状況に最善を尽くし、ナラム・シンの玉座へと雪崩れ込む。

 眩く煌めいていた光は、彼女達を吐き出すや否や光量を緩やかに落とし、そのまま暗がりの中に音も無く消え去った。

 

「貴女達は……」

 

 アコと互いに手を取り合いながら立ち上がるヒナの目が大きく見開かれる。隣のアコもまた、同様に息を呑んでいた。空間から人が現れた、光の色合いこそ敵方の空間跳躍とは異なるが――自然警戒は強まり、身構えてしまうというもの。

 

「――まさか」

 

 信じ難い現象を前に、先生も暫し呆然とする。然もすればプレナパテスの大人のカードによって顕現した生徒達かとも思ったが、どうも様子が異なる。

 現れた人影は、計二十六名。

 先生が慎重に現れた人影を一人一人注視すれば、どれもこれも見覚えのある顔であり、此処とは異なる場所で、しかし自分達と同じ様に戦っていたはずの生徒達だった。

 

 虚妄のサンクトゥム攻略作戦、地上に顕現したサンクトゥムの破壊を担当していた彼女達――それが今、どういう訳かこの場に集っていた。

 

『――生ッ、先生、応答して頂戴!』

 

 残光がまだ空間に瞬く中、シッテムの箱から切迫した声が響く。

 ノイズ混じりの通信音。それが思いもよらぬ出来事に空白となっていた先生の意識を強引に現実へと引き戻した。

 乱れた呼吸、指先に残る痺れ、血の纏わりついた皮膚を滑らせ、先生はシッテムの箱に触れる。

 

「……リオ」

 

 掠れた声で彼女の名を呼んだ。

 

『ッ、通信が繋がった! 無事なのね!?』

『ほら、だから云ったじゃないですか! あの先生がそう簡単にくたばる筈が無いんですよ……!』

 

 リオとカヤ、双方が早口で畳み掛ける声、理知的で冷静なはずの彼女らしからぬ焦燥が言葉の端々に滲んでいる。カヤに至っては先生の無事を確信していた様な口ぶりであったが、その語調は極めて不安定だった。

 

『まぁ、正直反応をロストした時は最悪の事態を覚悟しましたけれどね……! 今も反応自体は確認出来ませんが、ちゃんと生きているんでしょうね!?』

「―――……」

 

 一瞬、先生は迷った様に口を噤んだ。

 反応をロストと、今カヤはそう口にした。その意味を理解しているからこそ先生は慎重に思考を巡らせ、ゆっくりと胸元に手を当てた。

 

「あぁ、勿論だ」

 

 短い返答だった。

 半分真実で、半分は偽りである

 少なくとも、このナラム・シンの玉座が崩壊しない限り己の存在は証明され続ける。それを果たして生きていると表現して良いのかは分からないが、少なくとも赤に塗れた肉体は未だ朽ちず、この頭蓋も思考するには大事ない。

 

 通信の向こう側で、リオは暫し沈黙を守る。

 言葉を選んでいるのか、それとも此方を疑っているのか。通信は回復しても、映像の類は通っていない。此方の事細かな状況は、まだ把握されていない筈だった。

 やがて、ぽつりと声が零れた。

 

『――信じるわ、先生』

 

 その一言を聞き届け。戦場の只中で、数多の光と気配に囲まれながら先生はほんの僅かに肩の力を抜いた。あと少し、あと少しだけ、彼女達と同じ歩調で歩まなければならない。

 彼女達の未来を、この手に掴むまで。

 

『つい先程地上との通信も回復したの、同時にアトラ・ハシース中央にエネルギーが一点集中している状態も観測している、通信妨害が消えた事と云い、ナラム・シンの玉座に(そっちでは)一体何が起こって――』

 

 回線越しのリオの声は、既に普段通りの冷静な口調へと切り替わっていた。通信復旧とエネルギーの局所的な集中。発生源がナラム・シンの玉座となれば、先生達突入部隊に何らかの良くない事態が発生しているのは明らかである。

 口ずさむ問い掛けの裏に、僅かな緊張が混じっている事に先生は気付いていた。

 

「……たった今発生したエネルギー反応に関しては、恐らく地上のサンクトゥム攻略部隊がナラム・シンの玉座に空間跳躍して来た際に生じたものだと思う」

 

 先生は視線を生徒達に向けたまま、静かに告げる。ナラム・シンの玉座で周囲を慎重に伺いながら立ち上がる二十六名の生徒達。地上で戦っていた彼女達も、楽な戦闘では無かったのだろう。誰もかれも疲労困憊といった様子で、負傷していない生徒など一人たりとも存在しなかった。

 

『……は?』

 

 らしくない、リオの困惑に塗れた声。

 完璧に整えられていた筈の思考回路が一瞬空白に呑まれる。

 

『待って頂戴、地上の部隊がナラム・シンの玉座に空間跳躍を……?』

「うん、今目の前にサンクトゥム攻略部隊の生徒達が居る、各サンクトゥムに割り振られていた生徒達、その主力が全員だ」

『まさか、地上からウトナピシュティムとアトラ・ハシースの演算領域にアクセスしたとでも……? いいえ、あり得ないわ、それなら此方から気付ける筈、空間跳躍に必要な演算領域は箱舟でもない限り、でもそれなら一体、どうやって――』

「分からない、分からないが」

 

 リオの云う通り、理屈では説明がつかない。

 けれど、僅かに感じ取れるものもある。

 先生は掌を広げ、空間に残る微かな残滓に指先で触れる。青白い光の名残、微かに尾を引くそれ、光を通して伝わってくるのは優しさと懐かしさ、そしてほんの僅かな悲しみ――。

 

「皆が、力を貸してくれたのだと思う」

 

 それは推論ですらない、願望に近しい感情の発露である。

 だが、先生にはそう断じるだけの確信があった。

 身体の奥が軋んだのだ、彼方此方に刻まれた古傷がジクジクと痛みを発し、背中にのしかかる何かが、ずしりと重さを増した気がした。握り締めた掌から、するりと青の光はすり抜けて行った。

 

「な、なに、これ何処!? 何かすっごいSFっぽい内装だけれど……!?」

 

 高く反響する声が、空間の奥へと幾重にも跳ね返る。声の主であるモモイ自身が、その残響に驚いて目を丸くするほど、此処は異質な空間であった。見渡せば無機質な内壁が周囲をぐるりと囲み、所々走るラインはまるで生き物の呼吸のようにゆっくりと明滅している。

 床面には演算回路のような光の筋が走り、踏み出すたびに靴底の下で光が脈動する様な気配すらあった。空気はひんやりとしているのに、駆動音のような低い振動が足元から絶えず伝わって来る。

 

「も、モモイ、危ないから……!」

 

 困惑と興奮のまま一歩踏み出しかけたモモイの袖を、ユズが慌てて掴む。小さな手に込められた力は思いのほか強く、その必死さが伝わった。

 見た事も無い未知の空間。見慣れない技術に理解の及ばない構造。安全が保証されているとは限らないどころか、次の瞬間襲われても不思議ではない。ミドリの視線は床の光線や壁の発光部を忙しなく行き来し、同時に周囲に屯する自分達と同じような状況の生徒達にほんの少しの安堵を覚えながら、わずかな異変も見逃すまいと神経を尖らせていた。

 

「あっ、先生! 先生ですッ!」

「えっ、先生が居るの!?」

 

 その時、アリスが叫び、ミドリの視線が一点に釘付けになる。「先生」という言葉に、つられるように周囲の顔が連鎖的に向きを変え、空間の奥へと集中する。

 ざわめきが一瞬で収束し、代わりに驚きの気配が重なった。

 赤黒い染みが衣服を濡らし、滴が床に落ちて光の回路を淡く汚している。それでも膝は折れず、同様に複数の生徒らしき影に守られた大人の姿。

 

 ――先生だ。

 

 その姿を認識した瞬間、胸の奥に張り詰めていた糸が強く震え、一気に時が動き出した。

 

「せっ、先生!?」

「良かった、無事だったのね……!」

「という事は、此処は――」

 

 安堵と緊張が入り混じる。先生が生きている。一先ずその事実だけで、膨らみ続けていた不安が辛うじて踏みとどまる。だが、視界の端に広がる異様な光景が現実を突きつける。状況は依然として異常、寧ろ先生の存在が自分達が何処に飛ばされたのかを証明していた。

 

 最も早く冷静さを取り戻したのは、ハナコだった。安堵に緩みそうになる精神を引き締め、周囲の構造と状況を観察する。壁面の振動、床下から伝わる駆動音、そして――先生の存在と、自分達を挟む様に存在する異形の存在。

 

「空に浮かぶ敵の本拠地、ですか」

 

 感情を排し、事実だけを積み上げる。内部構造は単なる飛行船や航空機の域を超えており、既存のそれとは比較にもならない。即ちオーパーツや遺物、自身の知識の及ばぬテクノロジーの類であり、そこから導き出される結論は一つだった。

 

「……あぁ、その様だな」

 

 ハナコの呟きに、アズサの肯定が重なる。幾度も修羅場を潜ってきた彼女の直感と経験が、この状況の深刻さを余さず伝えていた。自然、愛銃を握る指先にも力が籠る。

 

「は、ハナコちゃん、それって――」

「わ、私達、今空の上に居るの……!?」

 

 ヒフミとコハルが、ほとんど同時に声を上げた。素直すぎるほど飾り気のない驚愕が、表情にそのまま浮かんでいた。つい先程まで地上――というよりもカタコンベという地下空間に籠っていた自分達が、今や雲よりも高い空域に存在する敵拠点の内部にいるという現実は、まるで理解が追いつかない。

 足元は確かに固い床なのに、この壁の向こうに広がるのは遥か下方の都市と流れる雲海とでも云うのか。

 あの青い光――自分達の内より滲み空間を満たした眩い閃光が、自分達を此処まで転移させたのか。とてもではないが、直ぐに呑み込めるような事ではなかった。

 

「キリノ、フブキ」

 

 低く、しかしよく通る声が空気を震わせる。混乱しかけた場の意識を一瞬で引き締めるような声だ。キリノとフブキは直ぐ傍から聞こえて来たそれに身を震わせ、それから静かに後退しながら指示を出す。

 

「先生を守れ、何としてもだ」

 

 即断、迷いのない指示だった。凡その状況を把握し、優先順位を定める。その判断基準は明確だ。ここが敵の本拠地であるならば、最重要は先生の生存と護衛である。

 

「も、勿論です……!」

 

 即座にキリノが応じる。喉の奥で緊張を押し殺しながら、それでも声は確かに力を帯びていた。摩訶不思議な状況に不安も恐怖も存在する、しかし使命感が彼女の体と心を支えていた。

 

「守るって、多分――」

 

 フブキの視線が、ゆっくりと前方へと向けられる。広々と空間の奥、光の回路が交差する暗闇の中で一際大きな影が佇んでいる。

 悍ましい気配を放つ、異形の何か。

 

「アイツから、だよね」

 

 声には、僅かな震えと――畏敬が混じる。

 単なる敵という言葉では片付けられない何か、恐怖だけでは説明できない圧力。視線を向けるだけで胸の奥を掴まれるような寒々しい感覚があった。

 

「あれが、今回の黒幕――?」

 

 誰の呟きかは分からない。だが、その感情は場にいる全員に共通していた。何であるかを知らずとも、直感が告げている。アレは、自分達の知る何者とも異なると。

 姿は人型でありながら、滲み出る気配は余りにも昏く、おどろおどろしい。いや、正確に云えば人型なのかすらどうかも怪しい。ただ細く長い指先がローブの中より覗くだけで、鉄仮面が顔を覆い隠しローブは体格の全てを包み込んでいた。

 確かにその場に立つ実体を持ちながら、しかしどこか歪で、現実から半歩ずれたような違和感を常に纏っている。ただ存在するだけで空気が重く、周囲の光すら沈むような圧迫感。同時に、その姿はどこか神秘的な威容すら感じさせる。古い伝承の中にのみ存在するはずの、世界の理から外れた怪物――とでも表現すべきか。

 

「アイツ、会議の時に現れた例の――ッ!」

「ハッ! なるほど、確かに『如何にも』な恰好じゃねぇか」

 

 打ち付けた腰を摩りながら立ち上がるユウカの脳裏に、サンクトゥムタワーでの光景が鮮明に蘇る。あの時もまた、唐突に空間を裂くようにして現れた異形の影。間違いない、あの時の存在と同一である。見紛う筈もない、それ程までに彼奴の気配は独特で強烈であった。

 一方、ネルは両腕を垂らし、愛銃を握り締めたまま超然とした姿勢を崩さない。辺りを満たす重圧も、背筋を這う悪寒すらも、まるで意に介していないかのように顎を僅かに上げ挑発的な笑みを浮かべる。敵がどれほど異様であろうと、強大であろうとも、戦いという一点において心構えは変わらない。既に負傷と疲労が蓄積した身であっても、その横顔には寧ろ僅かな昂揚すら浮かんでいた。

 

「異様な気配、明らかに異質な存在です、十分に警戒を」

「了解……云われなくても、軽く見れる相手じゃないね、アレは」

「RABBIT4、撃ち込めると思ったのなら遠慮なく撃ち込め、万が一の時は私が壁になってやる」

「う、うん……!」

 

 促される警戒と、それに応える各々の声。RABBIT小隊もまた、油断なく身構える。肩を並べた仲間達との間合いを測り、各々のポジションを堅持する。動き自体は訓練で何度も繰り返してきたもの、合図一つで連携が噛み合う、そうなるように何度も何度も。

 要塞内部を満たしていた低い駆動音すら遠のいたように感じるほど、場の緊張は高まりつつあった。

 呼吸の音がやけに大きく聞こえる。指先に伝わるグリップの冷たさ、引き金に掛けた力の微妙な変化さえも。

 

【――そうだ、それで良い】

 

 立ち上がったプレナパテスの耳に、声が届いた。

 それは鼓膜を震わせる音ではない、意志へ直接染み込むような、無機質な響きを伴う声だ。

 

あれ(空崎ヒナ)が果たせぬと云うのであれば、代わりにお前が果たすのだ】

 

 プレナパテスを囲う様に、目に見えぬ何かが暗闇より音も無く現れた。

 まるで蜃気楼の如く滲み出る輪郭。白の衣装と無貌の面に覆われた彼の者達――無名の司祭は色彩の嚮導者(プレナパテス)のみが知覚出来る存在として、その周辺をぐるりと囲み彼に語り掛ける。

 

【この世界は偽りである、偽りであるのならば正さねばならない】

【意思を持たず只粛々と――忘れられた神々をこの世界から追放し、終焉を呼べ】

【観測されうる全ての可能世界に終焉を】

【今や穢れてしまった言葉でしか表せない、忘れられた神々の産物に終焉を】

 

 身に纏った白とは正反対の、黒く、淀み切った視線が向けられる。

 座り込んだまま動く事の出来ない、空崎ヒナへ。

 そして、彼女の前に立つプレナパテスへ。

 延々と濁り、蓋をし、凝縮し切った激情の名残は目に見えない気配となってプレナパテスの精神を削る。

 

【全ての次元、全ての世界、全ての可能性から、忘れられた神々を消滅させる、その一瞬まで】

 

 それこそが、お前の存在理由(お前が此処に立つ理由)

 それこそが、我らが悲願。

 それこそが、堕落した神秘を取り戻し、太古の秘儀へ至る為の――。

 

【我々の与えた役割、色彩の嚮導者の名、お前自身が望んだように、その役割を、お前の(破滅の)責任を果たすのだ……ッ!】

 

 無名の司祭達はプレナパテスを囲んだまま、今尚己たちの前に立ち塞がる大人――先生を睥睨する。

 抱く感情は唯の一つ、彼の者が奇跡を行使するというのであれば、同等の奇跡をぶつけるまで。

 嗚呼、どうか全てをあるべき形へと戻したまえ。

 

 シッテムの箱。

 シャーケードの杖。

 サンクトゥムタワー。

 全ての歪みの主たる先生に――然るべき報いを。

 

 プレナパテス(先生)は音も無く、指先に力を籠める。異形の指先で抱えたシッテムの箱、その存在が確かな重みとして腕に伝わる。課された役割、果たすべき責任、己の存在理由。それは決して押し付けられたものではない。無名の司祭が嘯く文言など、己の心に何一つ波紋は広げない。

 

 これは――自ら選び取った道である。

 

 寄り添う小さな影と、錆び付き、罅割れた仮面の向こう側から覗く瞳。A.R.O.N.Aとプレナパテスの視線が、静かに交わった。

 

「先生……」

 

 喧騒の只中にあっても、その呟きだけは不思議と澄んで響いた。手に添えた馴染みの黒傘、指先で表面をなぞったまま彼女は真っ直ぐ先生を見つめていた。その瞳の向こう側に、空を想起させる色にどのような決意を秘めているのか。

 彼女は既に知っている。

 貴方が何を想い、何を願い、何を擲ち、何を選んだのか。

 だからこそ。

 

「分かりました、貴方が――」

 

 寄り添う黒の制服を靡かせ、A.R.O.N.Aは呟く。その表情は、これまで幾度となく隣に在り続けた思い出を懐かしむ様に、少しだけ歪んでいた。静かに目を伏せ抗うでもなく、責めるでもなく、淡々と彼の全てを受容する。

 貴方が生徒に寄り添い、先生として在り続けるように。

 私も、そう在らねばならない。

 

「貴方がそれ(その道)を、望むのなら」

 

 貴方に寄り添い、共に歩み、道を照らす――それこそが私の存在理由。

 

「なっ、何!?」

「あ、足元が揺れて――」

 

 呟きと同時、A.R.O.N.Aの姿が掻き消える。

 粒子のように空間に溶け、黒が光へと還元される。直後、地鳴りに似た音がナラム・シンの玉座に反響した。

 アトラ・ハシース全体を震わせる衝撃、爆音、熱波、床が大きく震え、頭上より粉塵が降り注ぐ。

 厚い障壁越しに爆発音が連続し、空間そのものが悲鳴を上げた様だった。

 

「うぉッ!?」

「ちょ、危なッ!」

 

 立っている事さえも困難な揺れ、足元がおぼつかなくなり、生徒達の中には尻もちをつく者も散見された。先生自身も思わず身を屈め、転倒を避ける為に膝を突く。

 ナラム・シンの玉座、その内壁が唐突に罅割れ、次々と吹き飛んでいた。金属が破裂し、爆炎が暗がりを染め上げる。火花と衝撃波が走り、大小様々な爆発が連鎖し視界が彩られる。

 しかしそれは無差別なものではない、これは制御された崩壊であると分かった。

 

『っ、アトラ・ハシース内部、各区画で大規模な爆発……!?』

 

 リオの声が、ノイズ混じりに響き渡る。途切れ途切れの音声、混線する警告音。その背後で何かが崩れ落ちるような轟音すら微かに聞こえ、状況の異常さを雄弁に物語っていた。

 

 次の瞬間、空間そのものが爆ぜた。

 

 凄まじい衝撃が床を突き上げ、空気が揺れる。先生は反射的に身を縮め、シッテムの箱を胸元にきつく抱き締めたまま、爆炎と衝撃からそれを守る様に背を丸める。熱風が突き抜け、火の粉が頬を舐める。

 

「あなた様、此方へ――ッ!」

「皆、先生の壁になって、早くっ!」

「アコ!」

「ヒナ委員長……ッ!」

 

 叫び声が交差する。名前が飛び交い、怒号と指示が重なり合う。その混沌の中で、生徒達はほとんど反射的に動いていた。考えるより先に手が動く、身を低くした先生を中心に、自然と円を描くように爆風や破片から先生を守った。

 各々が身体を盾代わりに身構え、愛銃を構える。飛来する瓦礫を正確に撃ち、砕けなかった破片を腕や肩で必死に受け止め、弾く。空間内に銃声と爆音が重なり、彼方此方に緋色の火花が散る。

 

「な、何、何なの!? 突然別の場所に飛ばされたと思ったら、爆発し始めたんだけれど!」

 

 モモイが放った混乱の叫び、それも当然だ。床が跳ね上がるように揺れ、足元が全く安定しない。天井からは露出した内部機構がスパークし、火花が雨のように降り注いでいた。爆発の衝撃と熱で剥離した金属片が弾丸のような速度で飛来し、床や防壁に叩きつけられて甲高い音を鳴らす。

 

「皆、防壁を展開するわッ! ノア、私の後ろに……! アリスちゃん、こっちよ! モモイ、ミドリ、ユズも! コユキッ、危ないから頭を引っ込めなさいッ!」

「う、うわぁああッ!?」

 

 ユウカがコユキの頭を思い切り押し込みながら、端末を操作して電磁防壁を展開する。

 電磁防壁が彼女を中心に張り巡らされ、飛び交う瓦礫や火花を逸らす。衝撃が加えられる度に防壁が波紋のように揺れ、衝撃を分散させた。いつまでも耐えられるような完全な防御ではない。だが一時を凌ぐには十分だった。

 

「アスナ、先生の傍に行け! お前の直感で危ねぇと思ったらすぐに動けッ!」

「うん、分かった……!」

 

 各々が瓦礫片を回避し、迎え撃つC&C。鎖を振り回すネルは怒号を響かせる。この程度で怯む連中とは思っていない、今重要なのは先生の安否だ。理屈ではなく感覚で危険を察知するアスナにとって、それは最も適した役割だろう。

 アスナは一瞬で頷き、迷いなく先生の傍へと駆け出す。揺れる床の上でもアスナの足取りは軽く、視線は常に周囲を走らせている。超人的な感覚が、飛来する瓦礫や火花のあらゆる方向を一瞬で彼女に知覚させていた。

 

「ヒフミちゃん、アズサちゃんは前方の警戒を! コハルちゃんは、先生の所に……!」

「う、うん……!」

 

 浮足立っていた補習授業部も、ハナコの声によって辛うじて立ち直る。ヒフミは慌ただしい手てつきで愛銃を構え、アズサは既に飛来する脅威への対処を始めている。コハルは震える両手を意志の力で握り込み、ハナコの言葉に従って先生の方へと駆け出した。

 不安定な床、何度も転びそうになるコハルの背後を、アズサとヒフミ、ハナコが援護し直撃する軌道で飛来する瓦礫片を銃撃で迎え撃つ。

 短い悲鳴を上げながら頭を抱え、それでも両足を緩めないコハルは、歯を食いしばって全力で駆け続けた。

 

「フォーメーション変更! 各自先生の安全を第一に迎撃を――」

 

 号令が飛ぶと同時に、RABBIT小隊の動きが変わる。混乱の只中にありながら、その切り替えは鮮やかだった。

 散開し生徒の影に守られた先生を中心に、脅威の排除に務める。爆発の衝撃で床が波打ち、視界が噴煙と火花で遮られても基本動作は崩れない。誰がどの方向を受け持つのか、言葉にせずとも身体が理解している。

 爆音が鳴り止まぬ中、銃声が規則的に重なる。飛来する破片を撃ち落とし、単独で対処できない場合は即座に横合いから支援射撃が飛んでくる。護衛対象を中心とした隊列は、爆炎の中でも確実に機能していた。

 

「ミヤコッ!」

「――!」

 

 その時、背後から声が飛ぶ。爆発音に掻き消されそうになりながらも、しかし確かに耳へと届いた。ミヤコは反射的に振り向き、先生を視界に捉える。

 

「彼女達を、頼む……!」

 

 彼女達――それが誰を指すのか、ミヤコは一瞬理解出来なかった。

 しかし先生の視線を追い、理解する。爆炎の向こう、視界の揺らぎの合間に見えたのは、倒れ伏す生徒の姿だった。爆炎が連鎖するナラム・シンの玉座、煙に半ば隠れた位置に、動かない影が横たわっている。

 

 戦闘不能に近い状態で取り残されているのか。

 ミヤコは一瞬だけ迎撃の手を止める。現在の状況、落下物の軌道と数、全員の残弾数、味方と思われる生徒達の配置。救助に向かえば迎撃の手は一時的に止まる、先生の防衛に穴が生じかねない。

 だが、先生の傍に集った必死の形相の生徒達を見て――彼女は決断した。

 

 即座に思考を切り替える。一も二も無く横合いへと全力で駆け出し、その姿をRABBIT小隊の面々が一瞬、視線で追った。

 

「RABBIT2、RABBIT4! 負傷者を回収します、援護を!」

 

 指示と同時に、愛銃を肩へと提げ替え、両手を空ける。戦闘姿勢から救助姿勢へ、爆風を縫うように身を低くし、瓦礫の間を縫って倒れ伏した生徒達の元へと駆け寄る。足元で火花が弾け、背後で何かが崩れ落ちる音が響いていた。

 

「RABBIT3、手を貸して下さい!」

「了解!」

 

 指名されたモエもまた、迷いなくホルスターへと愛銃を収納し飛び出す。弾ける火花を腕で払い、瓦礫を腕で蹴散らすようにして進む。要救助者は見た限り四名、一名は内壁に半ば埋まる形で項垂れており、残りは床に転がっている。ヘイローが確認出来るのは、一名のみ。

 まずは一番遠くに存在する、内壁に埋まった生徒の救助に当たる。何か、凄まじい力で飛ばされたのか、壁にめり込んだ体を引っ張り出す為に突き出された腕を掴んだ。

 

「っ、あれ、この子達って……」

 

 至近距離で顔を一瞥し、モエは漸く気付いた。煤と生傷に汚れた頬、見覚えのある装備と恰好だった。特徴的な白い外套に大口径の弾丸が備え付けられた弾帯、床に転がっている大型のガンケース。モエの脳裏に子ウサギ公園での記憶が過る。確かに、あの時増援として現れた生徒達だった筈だ。ベルトに刻印された髑髏の校章。

 

 後になって知った、その正体――脳裏を過ったほんの刹那、指先が止まる。

 

「RABBIT3、今所属は関係ありません!」

「―――」

「全員が同じ意志と目的を持って此処に居る筈です……!」

 

 その内面を見透かしたように、横合いからミヤコの声が響いた。爆音と銃声に負けない程に大きく、力強い叫び。過去の対立も、立場の違いも、この瞬間に於いては重要ではないと云い切る。

 守るべきは命であり、共有しているのはこの戦場と、先生が自分達に託したと云う事実であると。

 

「……了解っ!」

 

 モエは一拍呼吸を挟み、それから声を上げ全力で壁に埋まっていた生徒――ヒヨリを引っ張り出す。迷いを振り払うように力強く、傷と血に塗れた身体を抱き寄せ、肩に担ぎ上げた。装備重量も含め、ズシリとした重さが全身に圧し掛かる。だが支える両足に力を込め、ミヤコの方へと駆け出す。

 

 背後では援護射撃が途切れない。マズルフラッシュと銃声が常に肌を叩いた。RABBIT小隊の弾幕が瓦礫の飛来を抑え、救助経路を切り開く。

 爆炎が荒れ狂う只中で、飛び散った瓦礫を足先で退かし、ミヤコは倒れ伏した生徒――サオリとミサキの元へと辿り着いた。

 

「私は、良い、それより……仲間を頼む」

 

 再び意識を失ったミサキに覆い被さり、飛来する脅威から守っていたサオリの声は掠れている。喉を焼く煙と負傷の影響で、言葉には力が無い。それでも持ち上がる視線だけは力強かった。自分の状態がどれほど危ういか理解している筈だ、しかし彼女が最優先するのは仲間の安否。

 彼女達を逃がすまでは、何としても意識を繋いで見せると、覗く瞳が語っている。

 

「あなたも仲間も、全員助け出します、例外はありません――立てますか」

 

 そう云って徐に差し出された掌。

 揺れる炎に照らされ、爆風に煽られながらも、まっすぐ伸びたそれ。

 サオリは暫し、差し出された掌を見つめていた。反射的に持ち上がった指先、震える掌。血と煤に汚れた自分の手は、指の隙間に乾きかけた赤黒い跡がこびりつき、爪の間にも汚れが入り込んでいる。

 汚れた手だと思った、余りにも罪悪に塗れている――触れる事すら、躊躇ってしまう程に。

 

 だが、躊躇うサオリに対しミヤコはそうではない。

 緩慢な動作で持ち上がった掌を、彼女の掌が一切の躊躇なく掴んだ。

 掴まれた瞬間、強く、確かな力が返ってくる。サオリが驚きに目を見開くと同時、引き上げられる感覚、足元の不安定さがわずかに遠のいた。

 

「せ、先生、直ぐ治療してあげるからッ!」

「……コハル」

 

 爆煙の中をかき分けるようにして駆けていたコハルは、生徒達に守られた先生の傍へと滑り込む。円陣を組んだ生徒達の間を縫い、汗を滲ませ皺が出来るほどに握り締めた鞄を開け放ち、身を屈めた先生の直ぐ横で膝を突く。

 乱暴なほどの勢いで開いた鞄、留め具を弾き飛ばすように外し、中身を乱雑に取り出す。まずは出血を止めないといけない、どれ程の時間放置していたのか――シャーレの外套は既に赤黒く染まり切り、先生の半身は最早どこを見ても白色など残っていなかった。肩もそうだが、特に酷いのは脇腹だ、出血位置からコハルはあたりをつけ先生の外套を脱がせる為に掴む。

 

「っ、ひ」

 

 瞬間、ぐしゅりと生々しい水音が鳴った。思わず悲鳴を上げかけ、掴んだ指先に滴る赤に気圧される。

 だが、寸での所で踏み止まった。既に大量の血が流れた後なのだ、最早一秒たりとも躊躇う猶予は存在しなかった。

 

 怖気づいた自分を鼓舞し、包帯、止血剤、生理食塩水などを用意する。訓練で叩き込まれた動作が、反射のように手を動かした。断続的に鳴り響く爆発音。鼓膜を打つ轟音が思考を乱そうとするが、コハルは冷静な思考を保とうと努める。

 

「せ、先生、服を切るからね! 動かないで……!」

 

 普段ならば絶対に口にしない類の言葉だろう。だが、今のコハルにはそんな事を気に留める余裕も無かった。赤に塗れた外套に外傷用シザーを入れ、コハルはインナー諸共切断する。

 布を切った瞬間、吸っていた血が一気に溢れ服の下から熱気の様に広がった。切断した布を横合いに放れば、水音と共に床へと張り付く。

 

「ッ、な、何でこんな状態になるまで――」

 

 思わず、言葉に詰まった。先生の露になった側腹部を一瞥し、血の気が引いた。出血量からかなり酷い状態である事は覚悟していたが、想定よりも深い。創洞があり、辛うじて内臓が露出していない状態に見えた。万が一内臓が目視出来た場合、決して押し戻さない様にしなければならない。後は生理食塩水を沁み込ませたガーゼで覆って、乾燥させないようにしなければ。しかし、その場合は圧迫する事は出来ない。この状況は、その一歩手前だ。

 喉の奥がひりつき、視界が僅かに揺らぐ。

 コハルの瞳に、恐怖が過った。

 思い返すのは、先生は目の前で爆発に巻き込まれた――トリニティでの一幕。

 アリウスの生徒が爆発に巻き込まれて、先生はそれを助けようとした。助けようとして、大怪我を負った。その時自分は、ただ錯乱して泣き喚いて、何も出来る事なんて無かった。

 この状況は、あの時の無力と不安、恐怖を想起させた。トラウマだ、コハルにとってあの瞬間は今も尚掻き消す事の出来ない恐怖として根付いていた。

 

 だが――今は。

 

「……大丈夫」

 

 震えそうになった指先を、全力で握り締める。

 

「前までの私とは、違うんだから……!」

 

 奥歯を食い縛って、自分に云い聞かせる様に声を絞り出した。

 あの時とは、違う。何も出来ない事なんて無いように、今度こそただ泣き喚くだけの自分とは決別出来るように、コハルは今日まで努力を続けて来た。

 正義実現委員会のみならず、救護騎士団にも出向いて頭を下げ、何度も何度も知識と手順を叩き込まれた。万が一の場合に備えられるように、正義実現委員会の先輩達に報いる為に、補習授業部の仲間達を救えるように――先生を、今度こそ助けられるように。

 

 もう、怖くて何も出来ない、あの頃の自分じゃないのだ。

 

「ッ……!」

 

 動き出したコハルの指先は恐怖を置き去りにした。

 脇腹は止血帯が使えない、だからヘモスタティックガーゼを只管に用意し、そのまま創内に詰め込んで止血する。パッキングだ、血で滑る傷口へ躊躇なくガーゼを押し込み、更にその上から圧迫し固定した。

 コハルはそれら一切を躊躇なく実行に移した。爆発の振動が身体を揺らしても、銃撃の火花が首筋を掠めようとも、手元は一切ぶれない。

 

 その姿を見つめ、先生はこの様な状況にも関わらず笑みを零した。

 コハルの確かな成長を目の当たりにして、ただ嬉しく思ったのだ。

 血と火と煙に包まれた戦場の只中で、それでも未来へ進み少しずつ大きくなる少女の姿が、何よりも眩しく見えた。

 

 だからこそ――まだ自分も、足を止める訳にはいかない。

 

「リオ、脱出シーケンスの準備を頼む」

『――!』

 

 先生はコハルの処置に身を委ねたまま、痛みを押し殺しタブレットへ視線を落とすや否や告げる。画面の向こう側から、リオの戦慄が手に取る様に分かった。聡い彼女の事だ、これが何を意味するのか瞬時に理解するだろう。

 

『まさか、この爆発は……!』

「あぁ、どうやら向こうは――」

 

 一拍、間を置きながら先生は視線を鋭く尖らせる。

 噴煙と炎の向こうに立つ存在、是を非としても越えねばならない存在を睨みつける。

 

「アトラ・ハシースごと、私達を堕とす(屠る)つもりみたいだ」

 

 空間が軋み、アトラ・ハシースの外殻が崩壊を始めているのが分かった。浮遊を維持し制御を担っていたシステムが次々と沈黙していく。僅かに感じる浮遊感は、時間を経る毎に強くなっていくだろう。

 この爆発の規模、局所的な爆破では決してない。アトラ・ハシースそのものを崩壊させ、自分達諸共屠るつもりでなければ説明がつかない。万が一にも脱出に失敗し巻き込まれてしまえば、全てが灰燼に帰す。生存率は此処に乗り込む前に聞いた通り――那由他の果ての可能性。

 

「アロナ、アトラ・ハシース完全崩壊までの時間は――」

 

 轟音の中、先生は冷静にアロナへと問い掛ける。天井の一部が崩れ落ち、遠方で爆炎が柱のように立ち上った。

 

『先程の爆発で次元エンジンが全て大破した事を確認しています! 連鎖する小規模な爆発を含め、落下による空中分解、及び完全崩壊までの猶予は……』

 

 アロナは両手を忙しなく動かし、虚空に浮かんだホログラムモニタを叩く。爆発の規模からアトラ・ハシースの被害状況を予測、落下ルートと時間経過による崩壊進行度、それらを何度もシミュレーションする。

 そうして演算結果が導き出され、アロナは僅かな沈黙を挟み答えた。

 

『あと、六百秒(十分)です――ッ!』

 

 六百秒、数字にすれば何と簡素な事か。

 だが、その十分間こそ――生と死を隔てる境界線そのものである。

 

「リオ、六百秒だ、六百秒でアトラ・ハシースは崩壊する……!」

 

 先生は即座にリオと通信を繋ぎ、今しがたシッテムの箱とアロナが導き出した完全崩壊までの猶予時間を明かす。

 

『――ッ!』

 

 リオがコンソールを叩き、打鍵する音が聞こえて来るような気がした。後方支援の全てを担当する彼女にとって、その時間は意味を持ち過ぎる。

 

「脱出シーケンスの進捗は」

『箱舟内部に居る全員、地上の座標に空間跳躍させる手筈は整っているわ! ウトナピシュティムの演算領域を用いたシミュレーターによれば、失敗の可能性は万に一つも無い……!』

 

 力強い断言だと思った。崩壊寸前のアトラ・ハシースの内部で、それは救いの言葉である。

 流石、と先生は内心で賞賛を送った。この極限状況で取り乱さず、演算リソースを確保し、最適解を導き出す。これ程までに冷静で的確な進行は、彼女でなければ不可能だった筈だ。

 この短い時間で、本当に良く――。

 

『残念だけれど、ウトナピシュティム自体は飛行可能な状況にまでは手が回っていないわ――先生のカウントダウンが正確なら、ウトナピシュティムは放棄して全員で脱出シーケンスを用いるのが確実よ、直ぐに使用出来るよう、艦内の反応に合わせてセットしておくわ!』

「……頼む」

 

 頷き、僅かならが肩の荷が下りた心地になる。少なくとも脱出の道は確保された、その事実が先生の胸中に巣食っていた不安を取り除いてくれた。万が一、彼を打ち破る事が出来なくとも――生徒達だけは逃がす事が出来る。

 

『先生、脱出シーケンスの準備はこっちで済ませますが、アトラ・ハシースが大破してからシーケンスを使う場合、猶予は殆ど無いと思って下さいよ!? 少しでも落下が早まったり、爆発で粉々になったら意味がありませんから! その辺り、本当に頼みますからねッ!』

 

 差し込まれる焦燥を隠さないカヤの言葉、先生が口にした十分と云う数字を信用していない訳ではないだろうが、自身の命も掛かった状況では然もありなん。脱出シーケンス発動の瞬間まで、このアトラ・ハシース完全崩壊を防がなければならない。

 つまり、内部からの大規模な破壊行動の阻止は必須となる。

 

「――分かっている」

 

 静かに、先生は返答した。

 それは此方が絶対に阻止する。

 

「先生ッ!」

 

 爆煙を裂くように、アルの声が響いた。その声音は鋭く必死で、瓦礫が崩れ落ちる轟音の中でもはっきりと耳に届く。

 彼女は足元に転がる瓦礫片を蹴散らしながら振り返り、舞い上がる粉塵の中で先生の姿をしっかりと捉える。額には隠し切れない焦燥の汗が滲み、喉の奥がひりつくような緊張が呼吸を浅くしていた。

 

「突然こんな所に飛ばされて驚いたけれど……! 私達が脱出する手段って、あるのよね!?」

 

 問いかけは半ば確認であり、半ば懇願に等しかった。

 唐突な展開に驚き、得体の知れない存在に気圧されながらも、それでも彼女は虚勢を張る。自分が動揺すれば、それが便利屋68の士気を挫くと信じているのだ。強がりでも虚勢でも、それでも立ち続ける事に意味があると彼女は自身に云い聞かせる。

 

「大丈夫、後方支援を担当してくれている皆が脱出シーケンスを準備してくれている! 時間が来れば、皆で地上に帰れる筈だ!」

 

 先生の声は、崩壊の轟音を押し返すように響いた。それだけで張り詰めていた空気がわずかに緩む。脱出の手段はある、可能性が明確に示された瞬間、恐怖は制御可能なものへと変わる筈だ。

 ならば今、此処で為すべき事は――あとひとつ。

 

「どうやら、本当に良いタイミングでご主人様の危機に駆け付けた様ですね……!」

「全く、過去類を見ない程にハードな任務だッ!」

 

 アカネとカリンもまた、苦笑を浮かべながら視線を前へと向ける。他愛のない軽口のようでいて、その実、彼女達にとっては更に覚悟を固める為の呼吸のようなものだ。この拠点が崩壊するまでの時間、仔細は分からないが打倒すべきは一人。

 

「――兎に角、アイツを無力化すれば良いんだなッ!?」

 

 ネルが叫び、銃口を突きつけた。声は獣のように荒々しく、しかし理路は単純明快だ。此処に至った複雑な状況も、たった今崩壊を始めたこの空間も、傷付いた先生の姿も、全てを切り分ければ結論は一つに収束する。

 

 ――即ち、黒幕の打倒である。

 

 生徒達の構えた無数の銃口が、プレナパテスを捉える。

 重機関銃、突撃銃、サブマシンガン、狙撃銃、レールガン、拳銃、あらゆる口径、あらゆる銃口が一斉に突きつけられ、照準は微動だにせず固定されている。向けられるのは敵愾心、憎悪、嫌悪、侮蔑、ありとあらゆる負の感情。

 

 その光景に、プレナパテスは無言を貫く。

 

 炎に照らされた横顔が、赤い揺らぎの中で輪郭を浮かび上がらせる。崩れ落ちる瓦礫片から吹き上がった火花が鉄仮面を掠め、影と光が交錯していた。

 鉄仮面越しには怒りも悲しみも感じられない、ただ深い静寂だけが宿る。

 生徒達と己の距離は、高々数十メートル程度だろう。

 だがその間に横たわる精神的な距離は計り知れない。

 

 シッテムの箱を掴む指先に、ほんの僅かに力が籠った。

 胸中に湧き上がる、何とも堪え難い様々な感情があった。だがそれを表に出す事は許されない、その資格も無い。自身は選択し、委ね、果てに此処へと辿り着いたのだ。

 ならばこそ――果たさなければならない。

 是を非としても、何としても。

 

 あの日抱いた、最後の誓いを。

 

『先生、現在プレナパテスのシッテムの箱は負荷限界に近い状態ですッ! 無力化するならば、今しかありません!』

 

 緊迫したアロナの声が耳に届いた。自分にのみ響くその声に、先生は頷きを返す。

 

「あぁ、分かっているよ……!」

 

 プレナパテスとて、余裕がある訳ではない。悠然と立ち上がった様に見えて、その実内側ではあらゆる面で限界が近しい筈なのだ。

 先程の一戦を含め、互いに全力を尽くしての衝突だった。

 アトラ・ハシースに残された演算リソースとエネルギーの供給、サンクトゥムの顕現に守護者との衝突。シッテムの箱の残量、大人のカードに内包された多くの力を削り、両者ともに限界は近い。

 アロナの云う通り、攻め込むのであれば今しかない。

 アトラ・ハシースによるバックアップも途切れ、シッテムの箱の負荷限界によってプレナパテス本体に手が届くその瞬間まで。

 あと、ほんの少し。

 

「っ、動いた!?」

 

 誰かの声を上げた。崩壊するアトラ・ハシースの中心で、プレナパテスが――ゆっくりと、手を持ち上げたのだ。

 その動作は実に緩やかであった。まるで重い鎖に繋がれているかのように、あるいは膨大な圧力の中で抗うように。彼の細長く、薄汚れた包帯に包まれた指先が虚空をなぞる。

 瞬間、生徒達の間に緊張が走った。

 引き金に掛けられた指が、無意識に強張った。安全装置は外れている。あとは僅かな圧だけで銃声が空間を裂くだろう。プレナパテスの所作にどんな意味があるのか、何をしようとしているのか――判断するよりも早く、沈黙は破られた。

 

「発砲する――ッ!」

「テメェ等、続け!」

「皆さん、火力支援を!」

 

 叫びが重なり、ひとつの銃声がナラム・シンの玉座を裂いた。一度響けば、そこからは雪崩の如く閃光と銃声が続く。そもそもからして躊躇う必要など無いのだから。

 引き金が絞られ、撃鉄が落ち、火薬が炸裂する。銃声が連鎖し、轟音が重なり合い、閉鎖空間の内部で幾重にも反響した。

 鼓膜を震わせる衝撃、マズルフラッシュが瞬き、断続的な光が視界を白く焼き付かせる。吐き出された薬莢が甲高い音を立てて床を跳ね、転がった。

 

 飛来する弾丸の嵐。機関銃の連射が空気を震わせ、ライフルの精密射撃が一点を穿ち、サブマシンガンの弾幕が隙間を埋める。神秘を内包したそれらは、通常であれば装甲車両ですら蜂の巣にする火力を有している。人型の標的ならば、原形を留めないほどの破壊力、頑強な生徒であっても昏倒は免れないだろう。

 

 だが――プレナパテスへと弾丸が触れる寸前、青白い光が展開され、その結果を覆す。

 

 それは一瞬の閃きだった。目に捉える事の出来ない薄い膜のような何かが、プレナパテスの前面に展開されていた。まるで空間そのものが歪み、層を成したかのように、弾丸が触れた瞬間のみ波紋の如く揺れ動く。

 金属弾頭がその光へ接触する直前、軌道が僅かに逸れた。直進していたはずの弾が、見えない力に押し流されるように角度を変え、プレナパテスの身体を掠める事すらなく明後日の方向へと流れる。

 火花が散り、甲高い衝突音が連続する。火花と衝撃波だけが虚しく散り、プレナパテスはその中心で微動だにしない。

 

「なっ、硬い!?」

「嘘でしょ、どれだけ弾丸撃ち込んだと思って――!?」

 

 生徒達から困惑と驚愕の声が漏れる。撃ち込まれた弾数は十二分、少なくとも既存の防弾盾など苦も無く粉砕、貫通出来る程度には数も質も揃っている。にも関わらず、彼女達の目には無数の弾丸を浴びて尚、その身体に小さな傷一つ付ける事は叶わない、恐るべき堅牢さを備えている様に見えた。

 

「――違います!」

 

 戦況を冷静に見つめていたハナコが、白煙と閃光の向こうを険しい瞳で見据えていた。

 遠目には弾丸が相手の身体に防がれた様に見えるだろう、しかし実態は異なる。彼女は弾道の僅かな変化を見逃さなかった。

 

「神秘や材質で弾いているのではありません、弾丸が対象に着弾する直前に逸れています!」

「――ッ!」

 

 その言葉と同時に、幾人かの生徒が気付く。そもそもからして放たれた弾丸は相手の身体にさえ届いていない。プレナパテスの肉体に触れる前に、不可視の何かによって進路を強制的に曲げられている。

 よく観察してみれば、プレナパテスの周囲に弾痕が刻まれているのが分かった。床や内壁、周囲の瓦礫片、彼の身体を避けるように放射状の弾痕が増えていくのだ。

 それはつまり、ハナコが云った様に肉体的な堅牢さで防いでいるのではなく、弾丸の軌道が捻じ曲がっている事を意味する。

 

「サンクトゥムタワーで見た現象と同じ……!? あの時も銃撃の類は一切通用しなかったわ!」

「そ、そんな……!」

「なっ、何それ!? チートじゃんッ!」

 

 ユウカがサンクトゥムタワーでの出来事を思い返し、ユズとモモイが堪らず叫ぶ。こちらの攻撃、その一切が無効化され届かない。彼女達からすれば、正に卑怯と叫びたくなる様な現象である。

 純粋な火力も、数も意味を持たない。まるで弾丸の雨を意にも介さぬかのように、プレナパテスは超然とその場に在り続ける。その不気味さ、余裕を滲ませる姿勢こそが彼女達の焦燥と不安を煽った。

 

「そ、それなら、どうやって倒せば――!?」

 

 空になった弾倉に弾丸を込めながら、キリノは顔を上げ問うた。

 現象は分かった。だが理解したからと云って対策が出来るかどうかは別である。銃弾が通らない相手、常識が通用しない防御手段を持つ敵を前に、一体どんな手があると云うのか。

 

「構うなッ!」

 

 だが、生徒達の迷いを断ち切るように、先生の叫びが背後より響いた。

 

「展開されている防壁(ソレ)も無敵じゃない、処理限界は必ず存在する!」

 

 どれほど堅牢に見えようと、どれほど常識を逸脱していようと、攻撃と云う入力が積み重なれば、いずれ処理は追いつかなくなる。プレナパテスのシッテムの箱は、今その瀬戸際にあるのだ。

 

 コハルに手当された箇所を、先生は強引に結び直す。止血のための圧迫を自らさらに強め包帯を引き絞った。鈍い痛みが走り、詰め込んだガーゼに赤が染み出した。最早痛みは、先生にとって意識を失わない為の手段に成り下がっていた。

 ふらつく体に喝を入れ、シッテムの箱を抱えたまま強引に立ち上がる。足元が揺れ、視界が一瞬白く霞み、耳鳴りが止まない。両手を血に染め、鞄を足元に放ったままコハルが先生の肩を掴んだ。ふらつき、著しく体温の低下した先生の体を抱き締め、懸命に支える。

 

「物量だ、全員持っている弾を全部吐き出す覚悟で撃ち続けるんだ……!」

 

 血の気の失せた顔色で、しかし懸命に口ずさむのは防壁の突破方法。

 現状あの防壁を打ち破るには、純粋な物量で以て押し切る他ない。力の収斂と精密な技量に頼った一点突破ではなく、限界値を踏み越えさせるまで叩き続ける最も単純で効果的な方法。

 処理能力を飽和させ、演算を破綻させる、それこそが唯一の活路である。

 何より、限界は既に見えているのだ。アロナの報告――負荷限界に近いという確証がある、既に彼の持つシッテムの箱も余裕を持たない筈なのだ。

 それは同じシッテムの箱を持つ自分が、一番良く知っている。

 

「くふふッ! すっごく分かり易いじゃん、じゃあ持ってる爆薬と弾薬、ぜーんぶブチ込んじゃって良いよね!」

火力支援なら(お掃除なら)、何であれお任せを――精一杯、ご奉仕致します!」

「オッケー! この破滅的なシチュエーション、もっと破滅的にしちゃっても良いって訳ね……ッ!」

 

 そうと分かれば、話は単純である。生徒達は各々の持つ愛銃に新たな弾倉を嵌め込み、持ち込んだ背嚢や鞄、大型のケースから爆薬の類を取り出す。崩壊寸前の敵拠点でさらに爆発を重ねるという破滅的な選択、それにすら喜悦を覚える者がいる。

 しかし、今はそれが唯一の活路であり、正解だ。

 

「全員で攻撃タイミングを合わせ、瞬間的な負荷を最大限まで高めます!」

 

 弾倉を嵌め直したハナコが叫ぶ。装填完了の硬質的な音が彼方此方から聞こえていた。あれが科学や技術に基づいた現象ならば、負荷を高める為にはまばらに撃ち続けるのでは非効率的である。より迅速に演算処理を飽和させるには、総量による散発的な攻撃よりも瞬間的な最大値の更新を狙うべきだ。

 故に呼吸を合わせ、この場に居る全員で瞬間最大火力を叩き込む。

 その意図が、言葉を介さずとも全体に伝播していくのが分かった。爆音が遠く響くナラム・シンの玉座で銃声はぴたりと止み、喧騒に包まれていた空間に不自然な程の静寂が落ちる。

 

「先生っ!」

 

 その静寂を破る様に、ハナコは振り向かず叫んだ。

 誰もがその瞬間に備えた。

 決を下すに相応しい者がいるとすれば、彼をおいて他にない。

 

 先生は即座にハナコの意図を汲み取った。自身を支えるコハルの体温が、此方を見上げる不安げな瞳が、乱れた呼吸が伝わって来る。静かに肺を使う。熱気と火薬の匂いを取り込みながら吐き出す。

 

「―――」

 

 先生は正面に立ち塞がるプレナパテスを改めて視界に捉えた。

 シッテムの箱の防壁に守られ、燃え盛る炎の中心で静止するその姿。背にしたヒナの身体は、その巨躯に隠れて目視出来ない。生徒を想い、守る為に――また同じ、異なる道を辿った生徒と対立し、立ち塞がる己自身。その道中を想う、失われた世界を想う、此処に至るまでの苦痛と悲哀を想う。

 仮面の奥で、あなたは今、何を想うのか。

 

 錆び付き、冷たい鉄仮面は語らない。

 

「攻撃、開始――ッ!」

 

 纏わりつく様々な感情を振り払い、先生は号令を掛けた。感傷は不要であった、或いはその感情そのものが彼に対する侮辱へとすら成り下がると思った。

 響かせた声に、生徒全員が反応を示す。

 

 そして空かさず――発砲、爆発が空間を塗り潰す。

 無数の銃声が完全に重なり、単一の衝撃音へと変貌する。マズルフラッシュが一斉に閃き、閃光が視界を覆った。最早弾丸は一つのうねりとなって展開された防壁へとぶつかり、薄暗い空間は真昼の輝きを取り戻す。衝撃は臓物を浮き上がらせ、爆炎と轟音がプレナパテスの周辺を次々と襲った。

 目に捉える事が出来なかった青白い防壁が、度重なる衝撃に激しく明滅する。これまで爆発や弾丸を容易く弾いていた膜が、今は明らかに不安定になっていた。光条が乱れ、波紋が暴れ、歪みが重なり合って蜃気楼の如く揺らぐ。

 演算処理が追いつかない為に生まれる現象だ。これだけの人数での一斉攻撃、流石のシッテムの箱であっても長時間の防御など不可能である。

 

 先生は静かに攻撃の全てを見守りながら、正確に秒数を数える。防壁展開からの経過時間、負荷による限界値の推測、アロナが云った通りそれはそう遠くない。

 思考を証明するかのように防壁表面に火花が散り始め、蜘蛛の巣のように亀裂が走り、次の瞬間――甲高い音を撒き散らしながら、防壁は硝子の如く砕け散った。

 

「……!」

 

 飛び散った破片が虚空に消える、主を守護する絶対の防壁が崩壊した。空間を歪ませていた不可視の力場が霧散し、周囲を覆っていた圧迫感が消え失せた。青白い粒子がプレナパテスの両脇を吹き抜け、ローブを揺らす。

 

『防壁崩壊(ダウン)を確認、今です――ッ!』

 

 その瞬間を、生徒達は逃さなかった。

 続けて飛来した弾丸が、今度こそプレナパテスの身体を強かに打つ。鈍い打撃音が響いた。弾頭がローブを突き抜け、鉄仮面や鎧めいた肩部装飾を捉え、外装の破片が飛び散る。

 破片が床を跳ねる甲高い音が、やけに大きく聞こえた。

 一歩、プレナパテスの巨躯が蹈鞴を踏む。風穴の空いたローブが、何よりも齎された結果を雄弁に語っていた。

 

「こ、攻撃が当たった!」

「これって、防壁が崩れたって事だよね!?」

 

 ハルカが声を上げ、フブキが目を見開きながら飛び散った外装破片を視線で追う。無敵に思われた防壁が破れた、その事実、目に見える形での突破口に自然と生徒達も浮足立つ。

 

「先生の仰った通りダメージがあります、これなら……!」

「このまま一気に押し切る――ッ!」

「皆、撃ち続けるのよッ!」

 

 ヒフミが叫び、カンナが吼えた。アルが腕を振り抜くと同時、再び銃声が轟く。今まで逸らされていたあらゆる攻撃が、確実に相手の肉体を削り、穿つ。一気に銃火が活気づいた。停滞し、淀んでいた空気が爆発する様に、怒涛の攻勢へと転じる面々。

 マズルフラッシュは最早暗闇を完全に拭い去り、飛び散る空薬莢と弾丸が銃声に混じって不協和音を奏でていた。

 

 夥しい数の銃火に晒されたプレナパテスの身体が右に、左に揺れていた。

 弾丸の衝撃に押されるように足先は床を滑り、シッテムの箱を両手に掻き抱いたまま僅かに前傾姿勢を取る彼は、しかしそれでも膝を折らない。弾丸がローブに穴を穿ち、肉体に突き刺さり、爆発が身体を削り内側を揺さぶる、鉄仮面に大口径の弾丸が命中し、半ば仰け反り、罅割れ爆炎に焼かれようとも――その両足はあらん限りの力で地面を捉え続けた。

 

「せん、せい……」

 

 異なる世界のヒナは、座り込んだままプレナパテスの背を見上げていた。

 地面を這い、力なく指先で床を掻く。飛び散る弾丸から、爆炎から、彼は文字通り自らの身を挺して空崎ヒナを守り続ける。

 飛び散る火の粉が、緋色の炎が両者を照らしていた。鉄仮面は深い陰影に包まれ、伺う事も出来ない。

 

「先生……」

 

 再び、異なる世界のヒナが震える声でその名を呼ぶ。爆炎と銃声が交錯する戦場の只中で、プレナパテスにはその声だけがやけに澄んで聞こえた。涙に濡れた瞳は、今なお壁となって立ちはだかる大きな背中を見つめ続ける。

 

「お願い、先生、此処で膝を突いて――」

 

 それは懇願だ。心の底から絞り出された、懇願だった。

 

 一体どのような力によるものか、異形の肉体はどれ程の銃火に晒されようとも原型を保つ。驚異的な堅牢さであった、然もすれば神秘に守られた生徒よりも余程。

 しかし、だからと云ってこれ程の攻勢に耐え切れる筈もない。

 飛び散った破片が地面を叩く。外装が軋み弾丸が表面を捉える度に緋色の火花が迸る。衝撃の波が幾重にも重なり、空間そのものが悲鳴を上げる中で、鉄仮面の表面が罅割れ、肩部外装は零れ砕ける。プレナパテスの巨躯は、一秒毎に削れ、穿たれて行く。

 

「もう、頑張らなくて良い……」

 

 ヒナは爪で床を掻き、指先を血で汚しながら僅かずつであってもプレナパテスへと這い寄る。その大きな背中に、ずっと傍に在り続けた彼に手を伸ばした。

 

「コイツ――ッ!」

「まだ前に出て来るの……!?」

 

 銃声と爆音に混じって、驚愕の声が上がった。

 プレナパテスは弾幕に晒されながら、しかし驚異的な堅牢さで以て一歩を踏み出したのだ。

 銃火の中心で、破壊と衝撃の奔流に呑まれながら、一歩、また一歩と前へ踏み出す。その動きは余りにも鈍いだろう、しかしこの攻勢の中で尚も前進を続けるという姿勢こそが、彼女達の間に並々ならぬ驚愕と畏怖を生んでいた。

 

「もう、苦しまなくて良い……!」

 

 背後から聞こえるヒナの声を背に、しかしプレナパテスは尚も前進を続ける。

 踏み締めた床がひび割れ、衝撃が周囲に伝播する。爆炎がローブを燃やし、幾多もの弾丸が身体を打ち据えた。周囲に散らばった潰れた弾頭は最早数える事も億劫になる程で、罅割れ、欠け始めた鉄仮面の向こう側からは、血に染まった包帯に包まれた何者かの肌が覗いていた。

 その皮膚さえも、飛来する弾丸を前に引き裂かれ、穿たれ、傷付いて行く。

 

ヘイロー(神秘)も感じられないのに、どうして!?」

「ッ、弾切れです、再装填しますッ!」

 

 尚も斃れぬ異形に対し、銃火は益々その輝きを強くする。

 空になった弾倉が弾き飛ばされ、新たな弾倉が叩き込まれる。異なる世界のヒナ、彼女の叫びが誰にも聞こえない。銃火に、爆炎に掻き消され、届いているのは唯一傍に在るプレナパテスのみ。

 だが、その中でも同じ――この世界の空崎ヒナだけは、プレナパテスに銃口を向ける事が出来なかった。

 ただ顔を顰め、歯を食いしばり、悲壮に満ちた視線を落とすばかり。

 

 だって彼女は知っている。

 彼が誰であるのかを。

 異なる道を歩んだ自分自身が、何を想い、何を願ったのかを。

 その道を想った時、自ら幕を引くその決意を、彼女は抱く事が出来なかった。

 

「もう、戦わなくて良い――ッ!」

 

 懸命に、その大きな背中に向かって必死に叫ぶ。もう十分だ、十分に頑張った、十分に苦しんだ、十分に悲しんだ。これ以上、一体何をする必要があるというのだ。

 もう良い、もう良いのだ。

 プレナパテス(あなた)はもう十分に戦った。

 

 だから――これ以上あなたが傷付き、苦しむのならば。

 

「これだけの集中砲火を受けて、まだ……!」

「いい加減に――ッ!」

 

 誰もが限界を感じている。数十秒に渡る集中砲火、これだけの損傷を与えられて尚も立ち続けるその姿に。

 

 ――もう、倒れてよ。

 

 誰かが、虚空に向かって叫んだ。それは最早、怒りや憎しみというよりも、祈りに近い感情を孕んでいた。

 

「――私は、救われなくて良いッ!」

 

 空崎ヒナの悲痛な叫びが、プレナパテスの背中を強かに叩いた。涙と共に放たれたその言葉は、どんな弾丸よりも重く、どんな爆弾よりも強く、彼の意志(精神)を揺さぶった。

 

 

 崩れ落ち、剥がれかけた鉄仮面の向こう側から――空色の瞳が煌めいた。

 

 

 ■

 

「ヒナ、最近は益々腕を上げたね」

 

 手元のスプーンをそっと動かしながら呟く。

 湯気の立つカレー、香辛料の香りが柔らかく鼻腔をくすぐり、食堂の穏やかな空気に溶けていく。対面に座る彼女は、面食らった様に顔を上げた。

 見慣れた制服ではなく、少しラフな格好。肩の力が抜けた装いでも、纏う空気は相変わらず凛としている。椅子の背に掛けられた綺麗に折り畳まれたエプロン、几帳面な性格がそのまま形になったようだった。

 口に運ぼうとしていたスプーンを止め、ヒナは目を瞬かせる。それから今一度手元に視線を落とし小首を傾げた。

 

「……そう?」

 

 自覚が無いというよりは、過度な評価を素直に受け取るのが照れ臭い、そんな声だと思った。此方も視線を落とし、ゆっくりと頷きを返す。

 

「うん、殆ど毎日食べているし、流石に上達が身に沁みて分かるよ」

 

 冗談ではなく、本心だった。

 火加減だとか、スパイスの使い方であるとか、具材の煮込み具合だとか、細かい所まで理解している訳ではないが最初の頃よりも明らかに味が深くなっている様に思えた。

 作っている本人は、余り違いを感じられないものなのだろうか。

 

 シャーレ居住区、食堂にて。

 既に夜も深まり、本来であれば当番の生徒も帰宅している様な時間帯であった。だと云うのに今、自分達は僅かな照明に照らされた広い食堂で黙々と食事を摂っている。

 ヒナの作ってくれた料理を口に運ぶのは、これで何度目だろう。

 最初は疲労困憊でコンビニに買い出しに行く事さえ億劫な姿を見て、善意からヒナが云い出してくれた事だった。普段碌な食事も摂らない、栄養食品とサプリメント、エナジードリンクに支配された肉体を不憫に思ったのだろう。

 

 週末に一度、五日に一度、三日に一度――気付けば毎日仕事終わりに、習慣になっていた。

 もう殆ど日常に近しい行為だ、日々の業務や会談、報告書に追われる日々の中でこうしてヒナと向かい合い、他愛のない話をしながら食事をする時間は実に贅沢だった。

 

 ヒナは頬を掻きながら、自身の作ったカレーをスプーンで軽くつつく。

 照れ隠しの仕草だった。目を細め、味を確かめるように一口運ぶ。

 

「そうね、もう十分な腕前だって太鼓判は押されているけれど、今でも時々フウカに教えて貰ったりもするし、前と比べれば随分と凝った料理も作れるようになったから――」

「でも、流石に大変じゃない?」

 

 スプーンを握ったまま、静かに問いかける。

 そう云うと、ヒナは一瞬唇を一文字に結んだ。

 

「ほら、風紀委員会の仕事もあるし、ただですら激務だよね? なのに毎日シャーレで食事を作って貰って、ヒナの体調が心配になっちゃってさ」

 

 それは本心だ、シャーレと同じようにゲヘナの風紀委員会とて激務である事は把握している。日々積み重なる書類の山、自治区の巡回に突発的な事件対応。ただですら血の気の多い校風のゲヘナでは風紀委員会が出動しない日など存在しない。

 それに加えて、自身の食事の世話など――。

 

「……もしかして、またアコに何か云われたの?」

 

 此方の投げかけた言葉に、ヒナは溜息交じりに答えた。

 図星だった、思わず喉奥から詰まったような呻き声が漏れる。

 ヒナはその様子を見て、苦笑を零した。

 

「別に、私の好きでやっている事だから良いのに」

 

 風紀委員会の仕事だって、滞りなく済ませているのだからと。

 そう口にするヒナであるが、それどころか最近のヒナは絶好調であると専らの噂である。事件の処理速度、判断も冴え渡り、周囲からの信頼と名声は以前にも増して轟いている。

 だがそれは同時に、何かしら無理をしていないだろうかという不安にも繋がった。

 アコに連絡を貰うまでも無い、自分自身このズボラな食生活を何とかしなければと考えていた。

 

「でも、ヒナの事が心配だっていうのは本当なんだ」

「んー……」

 

 此方が素直な感情を吐露すれば、ヒナは軽く頭上を仰いだ。天井を見つめ、思案する素振り。細い指先がスプーンの柄をくるりと回す。

 

「確かに、手間暇は掛かっているわね、自分の分も含めて二人分の食事を毎晩こうして作るのは」

「だよね? それなら――」

 

 頻度を減らすか、どこかで弁当でも買うか、或いはこれを機に自身も料理を始めるか――そう提案しようとして、ヒナの声がそれを遮った。

 

「それでも、私は続ける」

 

 そう云って、彼女は微笑んだ。これは自分で決めた日常だからと、その表情が何よりの答えだった。

 

「先生にはこうやって毎日、手間と愛情と栄養を摂って貰いたいの」

「―――」

 

 あまりにも直接的な表現に、今度は此方が面食らう番であった。

 香り立つカレーの向こう、穏やかな声音で紡がれたその言葉は冗談めいた響きも照れもなく、ただ真っ直ぐに差し出されたもので。

 咄嗟に返す言葉を失い、視線だけが宙を彷徨う。二人だけの食堂、そこに流れる静かな空気、食器の触れ合う小さな音さえ響かずに。窓の外に煌めく月光――その明かりさえ一瞬遠のき、代わりに面と向かって放たれた一言がじわりと熱を帯びて広がっていく様な感覚がある。

 

「そうじゃないと、魔法が解けちゃう」

「……魔法?」

 

 思わず鸚鵡返しに問い返せば、ヒナは僅かに目を細め、悪戯を打ち明ける無邪気な子どものように続けた。

 

「そう、魔法――あの子(アリス)に教えて貰ったの」

 

 こういう事も、魔法って呼べるんだって。

 

 その口ぶりはあまりにも柔らかくて、彼女はそう云って嬉しそうに笑った。厳格で、隙を見せぬ風紀委員長としての顔ではない、ただ一人の少女としての微笑みだった。

 この食事が、魔法。

 手元のカレーを見下ろしながら、口を噤む。

 

「そうね、アリス風に云うのなら、先生が無茶をしないように、健康的に毎日を過ごせるようにっていう魔法かしら」

「………」

「もしくは私がいなくなったり、先生が突然遠い場所に行ってしまった時でも、私が作った食事の味と匂いを思い出す魔法かも」

 

 その言葉に、自身は何かを口にしかけて、やめた。

 掛けられた言葉の裏に、どのような意図があるのかは凡そ察する事が出来たからだ。

 

「呼び方なんて何だって良いの、重要なのは先生が覚えている事」

 

 そう云ってヒナは、まるで此処に至るまでの過程を一つずつ思い返す様に言葉を重ねていく。材料を切り、火を入れ、味を見て、調整して――その積み重ねは、空崎ヒナが今まで辿って来た道に似る。

 

「これは先生の為に作った食事、ここまで作れるように試行錯誤した手間と時間、苦心と面倒、貴方の為だけに積み重ねた努力、尽力――それを毎日食べさせて、忘れない様にする」

 

 貴方の為だけに。

 真っ直ぐ此方を見つめる双眸、向けられる真剣さに、軽口で返す余地は無かった。この一皿を通して、彼女が重ねてきた時間を推し量る事は出来る。試作を繰り返し、味を調整し、誰かに教えを請いながら、少しずつ積み上げてきた努力の証だ。

 

「毎朝、毎晩、毎日、そこに在るのが当たり前になる様に、いざ口に出来なくなったら何となくでも寂しくなるように、コンビニのお弁当や栄養補助食品なんかじゃ物足りなくなるように、心を込めて」

 

 便利さや手軽さでは埋められない空白、それを空崎ヒナはわざと作る。味覚に、嗅覚に、記憶に、自分と云う存在を刻み付け、忘れない様に。

 

「もし先生が無茶な事をしようとしたり、どこか遠くに行こうとした時――私と過ごしたこの時間を、食事の味を、香りを思い出して思わず躊躇ってしまうように」

 

 その時、食堂に漂うカレーの香りが、急に輪郭を持ったように感じられた。

 漂うそれは最早、ただの料理の匂いではなく、確かに今ここで共有している時間の証明で、もしもこの香りを思い出す未来があるのだとしたら、それはきっと、彼女の告げた通り躊躇いを生むのだろう。

 そんな確信があった。

 

「――私は今、毎日、先生にそういう魔法をかけているの」

 

 どこか誇らしげに、どこか照れくさそうに、けれど絶対的な意志を宿して告げられた言葉は、己の体を僅かに硬直させた。それは力ずくで止める様な蛮行ではなく、鎖で縛るような束縛でもなく、ただ記憶と情で心に重りをつける様な。

 そんな遠回りで優しい魔法を、彼女は毎日、毎晩、己に食事を振るう度に丁寧に編み込んで来たのだと、ようやく理解した。

 理解した所で、どうしようもなかった。

 何故なら自分は、既にその魔法の只中に嵌ってしまったからだ。

 いや――既に嵌ってしまったから、きっと彼女は赤裸々に全てを明かしたに違いない。

 

「だから嫌々やっている訳じゃない、私は毎日好きでこうしている訳だから、先生が申し訳なく思う必要なんて全くない、私は日々の魔法が解けない様に、毎日面倒くさくても作って貴方に振る舞っているだけ」

 

 云い切ったその声は、彼女にとっての本心である。面倒だと笑いながら、その実、手を抜いたことなど一度もないことを知っている。

 

「そういうのは得意だから、ね」

 

 さらりと何でもない事の様に、彼女ははにかんで告げた。

 元来、空崎ヒナとはそういう生徒だ。誰よりも自分に厳しく、誰よりも公正で在ろうと努め、努力を努力と誇らない。人知れず積み重ねたそれは、気付けば遥か高みに届いている。彼女の魔法と呼ぶその正体は、結局のところ地道な継続と努力の賜物であり、誰かの為に手を動かし続ける優しさと、想う気持ちそのものなのだろう。

 だからこそ、己は暫し言葉に迷った。

 

「……参ったな」

 

 暫しの沈黙の後、堪らず漏れたのは降参の吐息に似た苦笑。真正面からの好意と情を突き付けられて、飄々と受け流す余裕はもう無い。

 此方もまた、照れくさそうに視線を落とし、それから改めて彼女を見つめ直す。降り注ぐ光の向こう、真っ直ぐな瞳がこちらを捉えていた。

 

「大丈夫だよヒナ、私は自分の意志で突然何処かに消えたりはしない」

 

 言葉にすることで、自分自身にも刻み込むように。

 無茶をしないと断言することは出来ない、危険を完全に遠ざける事も難しい、それが生徒の為であれば己は水だろうが炎だろうが、或いは奈落の底であろうとも飛び込むだろう。

 それでも――彼女の積み重ねた思い出を裏切らない様に、最後まで諦めず足掻く事だけは約束する。

 

 それだけは、約束出来る。

 

「ヒナの未来を、君達が大きくなって、自分の道を見つけて、その先に辿り着くまで」

 

 彼女だけではない。

 この世界で笑い、怒り、悩み、少しずつであっても成長していく生徒達すべて。無限の可能性を抱えた子ども達、彼女達と共に歩み、見届けること。

 どれほど時間が掛かろうと、どれほど遠回りしようと。

 己の出来得る限り――。

 

「――それまで、私はずっと傍に居るから」

 

 食堂の静寂の中に、言葉が静かに落ちる。誓いというには穏やかで、宣言というには柔らかい、それでも確かな重みを持った約束だ。ヒナのかける魔法に対して、自分が返せるのはこんなものだけ。だからこそ、誤魔化さずに真っ直ぐ告げる。

 湯気の立つカレーの香りが二人の間を満たしている。魔法と呼ぶにはあまりにも現実的で、けれど確かに心に残る時間がそこにはあった。

 

「……私は、その先の話も含めてしているのだけれど」

 

 僅かな沈黙を守った後、ヒナは少しだけ呆れたように、或いはむくれた様に告げた。先程までの真剣な色からは一転、此方を責める様な視線。己は肩を弾ませ、思わず横へと瞳を逸らした。

 

「あはは、流石に、その……ね?」

 

 誤魔化さず、なんて思考はものの一瞬で引っ込んだ。思わず乾いた笑いで濁そうとする。未来、と一口に言っても色々ある、生徒達が巣立つまで、その成長を見守り大人になるまで――口にした言葉はそれ以上の意味を持たない、筈だ。

 だが彼女にはそれだけでは不満であるようだった。

 

「もう」

 

 小さく零れた声。軽く息を吐き、ヒナはスプーンを置いた。食堂に響く、陶器の触れ合う控えめな音。

 それから彼女は恰好を崩して。

 

「――私は今だけじゃない、ずっとずっと未来まで、先生と一緒に居たいの」

 

 そんな風に、彼女はあまりにも綺麗に笑った。

 

 ■

 

 

 あぁ、そんな未来が存在したのなら――どれ程良かっただろうか。

 

 

 ■

 

 今となってはもう、想いを馳せる事すら難しい。

 思い出は過去となり、軈て罪悪となって背に降り注ぐ。そんな日々もあったと、そんな世界もあったと、嘗ての優しい日常を想い返す度に自身の選択と無力を思い知る。

 苦痛を知る事は恐ろしくは無かった。本当に恐ろしいのは、過ぎ去った思い出(日常)が二度と戻らぬと知る事だった。

 

 ヒナ、あの日一緒に食べたカレーは美味しかったね。

 最初は少し固めだったジャガイモが、凄く柔くなってコクも深くなっていたのを憶えている。最初の頃は確か、少し辛めの味付けだった。それが一緒に食べる様になって甘口に変わっていった。

 辛いのも良いけれど、甘いのも好きだった。きっとヒナは何気ない一言をずっと憶えていてくれたのだろう。それを嬉しく思う。

 君がそう願った様に、味も匂いも、まだ鮮明に思い出せるんだ。

 

 休日に一緒に遊んだゲームは、結局最後までクリアする事は出来なかったけれど。

 少ない休日を一緒に費やして、レベルアップの為にクエストを遊んだね。

 新しいダンジョンに入る度にわくわくした。分かれ道で右か左か選ぶとき、「ゲーム開発部の子達は行き止まりの方を喜ぶの」と云って、隅々まで探索しようとしていた。

 あの時のセーブデータは、まだ残っているのかな。

 エリクサー、アイテムバッグに沢山仕舞ったままだったね。

 ヒナの云っていた通り、もっと惜しみなく使っていればラストダンジョンまで行けていたかもしれない。

 私はいつも、まだ先があるんじゃないかって出し惜しみしていたから。

 その事は、いまだ心残りのままだ。

 

 一緒に行った遊園地、憶えているかな。

 ゲヘナの遊園地は色々と危険なアトラクションが多いからって、態々遠出して良い場所を探してくれたよね。いろいろな所を次々に回って、写真も沢山撮った。出来ればヒナと一緒にゲヘナの遊園地にも行ってみたかったけれど、君があんなに渋るならきっと理由があったんだろう。

 帰り道、二人でベンチに座ってぼうっと眺めた夕陽の煌めきは忘れられない。シャーレからも夕陽を眺める事は出来るけれど、あの日、あの瞬間、一緒に眺めた茜色はいつになく綺麗に見えたんだ。

 あの時の写真、実はシャーレの私室に飾ってあったんだよ。

 大切な想い出の一つなんだ。私の日々を支えてくれた掛け替えのない記憶そのものだ。

 

 本当に、本当に――多くのものを貰った。

 あの日々は幸福だったと断言出来る。

 だと云うのに私は、大人として、先生として失敗してしまった。

 失うべきではない、多くの希望を失った。

 

 たとえ君の隣に私が居なくても構わない。

 私が守るべき世界で、たった一人生き残ってくれた。

 君は私に残された、最後の希望(生徒)

 だから――。

 

 

 ――ヒナ(この子)の未来だけは、絶対に守ると誓ったのだ。

 

 

 ■

 

 強く、強く地面を踏み締める。

 

 プレナパテスは渾身の力で以て、退きそうになる体を押し留める。声なき声を上げた、既に失われた伽藍洞の四肢に、偽りの熱が籠った様な心地であった。

 鋼に勝る意思が、世界を隔てて尚も変わらぬ信念が、決意が、プレナパテスの身体を支えていた。

 既に朽ちた身なれど、人間としての器を失えど、汚泥と屈辱に満ちた体なれど、そこに通う心だけは決して朽ちず、折れず、毀れず、生前の煌めきの一切を失ってなどいない。

 

 (プレナパテス)は決して膝を折らない。

 どれ程の銃弾であろうと、苦痛であろうと、その歩みを阻むには不足である。

 

 そう、このキヴォトスに生きる多くの生徒が知っている。

 その信念を、鋼に勝る不屈の精神を。

 ずっとそうやって突き進んで来た、どんな困難だって諦める事をしなかった。ただ己の全てを賭して、何もかもを捧げて尚、胸に秘めた一念を貫き通して来た。

 人間として、大人として、何より――先生として。

 

 そうだ、大人の背中に。

 先生の背中に、守るべき生徒(守るべき子ども)が居る限り。

 

 

 ――先生()は、決して斃れはしない。

 

 

「ッ!?」

 

 飛来した弾丸を、細く異形の両腕が勢い良く振り払った。

 火花が散り、爆炎がうねる様にプレナパテスを照らす。影になった鉄仮面の向こう側、罅割れ、毀れ、黒に覆われた影に煌めく青。

 長い集中砲火に晒された彼の身体は満身創痍であった、防壁を展開する余力もなく、大人のカードを行使する猶予もない。襤褸雑巾の如く解れたローブと外装、鉄仮面を携え、外装の剥がれたシッテムの箱を抱える。

 

 だが彼は諦めない、プレナパテス(先生)は決して――その最後の瞬間まで、足掻き続ける。

 

「なっ、何、何なの!?」

「この力は――」

 

 それこそが大人の責務。

 先生の使命。

 艱難辛苦の果て、楽園を目指し走り続けた聖者の証明。

 

 数多の銃弾を総身に受けながら、プレナパテス(先生)は異形の掌を緩慢な動作で掲げる。穴が穿たれ、擦り切れ、解れかけた包帯を靡かせながら振り上げたそれに、次の瞬間、悍ましい力が溢れ出した。

 突風が突き抜け、生徒達が思わず顔を背ける程の勢い。風を生み、熱を生み、悍ましい煌めきを宿したソレは生徒達と先生を極彩色で照らし、ナラム・シンの玉座を光で満たした。

 

「なんだ、一体……!?」

「分からない、分からないけれど――」

 

 ――何か、凄く嫌な感じ。

 

 溢れ出すその色を目にしたアスナは、本能的に恐怖を感じた。彼女の持つ直感が、全力で警鐘を鳴らしている。

 あれは、決して触れてはならない類の力であると。

 

『アトラ・ハシースの箱舟、蓄積された全エネルギーがプレナパテスに集中しています……! 先生、急いで止めないと、あの攻撃は――ッ!』

 

 アトラ・ハシースが崩壊するよりも早く、この場に居る全てを破壊し尽くすだろう。

 

 空間を震わせる風音が警告の様にも聞こえた。天井を走る光の奔流が一点へと吸い込まれていく。構造材が軋み、内壁が剥離し、悲鳴のような振動音が重なり合う。箱舟そのものが、自らの全てを注ぎ込む様な光景。

 

「―――」

 

 その場に居る誰もが、発せられる力の凄まじさを理解していた。圧縮され、凝縮され、臨界を超えてなお増幅を続けるエネルギーの奔流。肌が焼けるような熱、骨の奥にまで響く振動、網膜を焼く光。

 シッテムの箱を抱き締めたまま、先生は突風に目を細める。吹き荒れるエネルギーの余波が衣服をはためかせ、足元を揺らす。それでも前傾姿勢で踏み止まり、力の限り拳を握り締める。

 

 罅割れたシッテムの箱は、その画面にノイズを走らせる。スパークする義手は指先を小刻みに震わせ、損傷と過負荷に耐えかねた回路が青白い光を散らしていた。最早自分に、此処に居る全員とリンクするだけの余力は残されていない。

 大人のカードを行使する力さえも、手札は既に全て切り終えた。

 文字通り、空っぽだ。

 先生はこの場所、この一瞬に辿り着く為に、全てを費やして来た。

 

 故に今、己に出来る事は一つ――ただの一つ。

 

「皆、聞いてくれ……!」

 

 ゆっくりと身を起こしながら、声を張り上げる。

 全てを費やし、空っぽになった己に出来る事。

 

「此処を乗り切れば、世界を、キヴォトスを救う事が出来る!」

 

 それは生徒達を信じ、託す事だ。

 

 生徒達の視線が、ゆっくりと先生を振り向く。絶望的な光景だろう、誰もが疲労に肩で息を繰り返し、刻まれた傷痕からは赤が滴る。額に大量の汗を滲ませ、それでも立ち続ける生徒達、並ぶ顔立ち、その一人一人と確かに歩いてきた時間と想い出がある。

 彼女達を誰よりも信じている。

 何よりも信じている。

 

 そうだ、プレナパテス。

 貴方は倒れないだろう。

 何故なら私は。

 私達は大人で、先生だから。

 守ると決めたのだ。

 この背中を、生徒達(子ども達)が見ているのだ。

 だから――。

 

「決着を付けよう、これまでの私達が辿って来た、旅路の全てに……!」

 

 先生は収斂する光に挑む様に、一歩を踏み出す。

 プレナパテス()がそうした様に、諦めを知らぬ不屈の心で以て歩みを進める。

 生徒達(子ども達)と共に肩を並べ、傷に塗れた右腕を掲げる。歯を食い縛り、必死の形相で、しかし彼女達に寄り添う様に。

 

 全てはあの日、想い描いた絵空事から始まった。

 でも、そう在れば良いと願う事は、貴い事なのだ。

 誰もが幸福で、屈託なく笑い合う事が出来る世界。

 ずっとずっと、願い、祈り、求め続けた未来――。

 それを想い、先生()は腹の底から、あらん限りの声で叫んだ。

 

「――あまねく希望(あまねく生徒)の、未来(明日)の為にッ!」

 


 

 次回『あまねく希望(生徒)の物語』

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