投稿遅くなって申し訳ありませんの!
極光を穿った青の閃光――アリスの放ったそれは文字通り剣の如く一直線に奔り、アトラ・ハシースの内壁を穿ち、彼方へと消えていった。
残されたのは青の混じった爆炎と宙を舞う火の粉、虚空を漂うただ一筋の蒼い軌跡。
その光景を見届けた誰かが決定的な一撃に、掠れた声で呟いた。
「や、やった……!」
「アリスちゃん、やったよっ!」
「アリス……ッ!」
凄まじい一撃を放ったアリスの光の剣は、その一射と共に常と青白い粒子を霧散させ、常と同じサイズへと再構成される。アリスは砲撃の後、ふらりと数歩後退りし、後方へと倒れ行く。彼女の小さな体を、ゲーム開発部とセミナーの仲間達が慌てて支えた。
その直後だった。
ナラム・シンの玉座が、強烈な振動と共に崩壊を始めたのは。
衝撃が内壁を次々と罅割れ、小規模な爆発が連鎖し、床を炎が激しく舐める。崩壊した分厚い壁の向こう側から覗く隙間、次の瞬間にはそこから激しい風が吹き込み、生徒達の身体を容赦なく叩きつけた。
ぐらりと傾いた足場に生徒たちは耐えきれず、反射的にその場へと伏せ、床へ這い蹲る。
「うわッ!?」
「か、風が入り込んで――ッ!」
「皆、手を……!」
アリスの放った一撃、そして極光によって引き起こされた破壊、それらはナラム・シンの玉座のみならずアトラ・ハシース全体を少なからず損傷させていた。厚く重なっていた外装は衝撃に耐えきれず無残に溶け、剥がれ落ち、破片となって吹き飛ぶ。巨大な構造材が裂け、歪み、まるで長い年月を経て崩れゆく遺跡のように内部を晒していた。
剥がれ落ち、裂けた壁の向こうから風が容赦なく流れ込む。
その隙間から見えるのは――外界。
今尚、落下を続けているアトラ・ハシースから覗く世界の景色、恐らく高度が中層にまで落ちたのだ。強烈な風は密度が高まった証明であり、微かな陽光が網膜に差し込んだ。
雲海が遠くで渦巻き、高高度故の未だ暗がりを孕んだ微かな青色がゆっくりと、しかし確実に流れていく。巨大な箱舟の残骸と共に、世界そのものが沈み込んでいくかのような光景。
「っは、かは――ッ!」
ミカやワカモに庇われたまま床を転がった先生は、思い出したかのように胸を激しく上下させ息を吸い込んだ。肺に流れ込む空気は冷たく、同時に熱く、焼けつくように喉を突き抜ける。凄まじい勢いで吹きすさぶ風のせいか、呼吸が上手く出来なかった。ぐらりと、視界が、脳が常に揺れている。
熱いのか寒いのか、痛いのか苦しいのか、何も分からなかった。ただどこか遠くから聞こえて来る生徒達の声を耳にしながら、先生は床に這い蹲ったままゆっくりと自分の手を見た。
震えが止まらなくなった指先、痛々しく紫色に腫れ上がった二の腕、それらの皮膚が黒く罅割れ、砂の如く崩れ始めた。
乾いた音を立てて表面が剥がれ、欠片が零れ落ちる。まるで長い年月を経た陶器が崩れていくように静かに、少しずつ、確実に。
「……は」
それを目視しながら、先生は指先を強く握り込んだ。
まだ、ほんの少し猶予がある。
それは僥倖であった。
『――先生、脱出シーケンスが完成したわ! ナラム・シンの玉座に集まった生徒分の起動権限を送信するから、今直ぐ確認して頂戴!』
体の下敷きになっていたシッテムの箱。そこから響くリオの声が、未だ朧げな先生の意識を強引に引き戻した。
息を吸い、吐き出し、顔面から赤を滴らせたまま上体を少しずつ起こす。甲高い音が耳元から響き、何だと視界をずらせば左腕の義手が完全に破損していた。溶け落ち、中途半端に折れ曲がったフレームが床に擦れて、音を鳴らしていたのだ。カタカタと張り付いた外装の一部が、床に跳ねて風に飛ばされ消えて行った。
『っく、あれ程大きな攻撃は駄目だと……! いえ、あれだけのリソースを要求したのですから、当然の流れですか……! ですがアトラ・ハシースの損傷から見て、これ以上はいつ爆発四散してもおかしくないですよ!?』
『先生達が脱出するまで、何とか支援出来る状態が望ましいけれど――!』
『どう考えても無理ですって! ウトナピシュティムにも火の手が回っているんですから!』
『――……分かったわ、これ以上は危険ね、あなたも退艦準備を!』
『そんなもの、疾うの昔に済ませていますよ!』
ウトナピシュティムとの通信回線も既に安定を失っていた。音声には酷いノイズが混じっていた。だが声は途切れ途切れになりながらも、リオとカヤの声音には十分な冷静さが残っていると分かった。
こんな状況でさえ、彼女達はぬかりなく準備を終えている。
『先生、外郭回廊の此処は中央より幾分か早く崩壊しますッ! 私達は先に脱出しますから、後は頼みましたよ!?』
『ウトナピシュティムの演算領域が完全に破壊される前に、脱出シーケンスの起動を急いで先生! 地上で待っているから、絶対に――……ッ!』
此方に向けた最後の言葉は、激しいノイズに飲み込まれていった。
通信が大きく乱れる。耳障りな雑音が断続的に弾け、やがて――ぷつりと、何も聞こえなくなった。
沈黙したシッテムの箱、画面に表示されていた波形がフラットを維持し、軈て自動的に通信が打ち切られる。先生はゆっくりと震える指先で画面に触れた。
すると新たなタブが開き、最前面に文字が表示される。
――『脱出シーケンス権限取得』
淡く発光する表示が、先生の影に覆われた暗がりの中で静かに躍る。座標指定は既にリオが設定しているのだろう、その下に示された項目、対象者の指定、及びシーケンスの使用可能回数――現在このナラム・シンの玉座に集っている生徒と、自分自身の分。
先生はシッテムの箱に手を添えたまま、ゆっくりと顔を上げる。
「皆、脱出を――……」
辛うじて身を起こしながら、先生は掠れた声でそう呟いた。胸を押し潰すような衝撃の余韻がまだ体内に残っており、声を発しようとするだけでも痛みを伴う。それでも腕に力を込め、崩れかけた床を掴みながら上半身を起こそうとする。周囲では未だ崩壊の振動が続き、軋む音が絶え間なく空間を満たしていた。
先生がゆっくりと顔を上げた時だった。
まだ燻り続ける爆炎の奥――揺らめく噴煙の向こうに、何かが蠢いた気がした。
炎の中からゆらりと伸びる影。
それに遅れて気付いた生徒達が目を見開き、愕然とした表情を晒す。
「う、そ……」
「まさか、まだ――」
誰かの声が、信じられないものを見たと云わんばかりに震えた。
注がれた視界の先、炎と噴煙の向こう側、崩れ落ちる瓦礫に混じって、その巨大な影は確かに存在していた。
裾が消し飛び、最早襤褸布と化した衣。焼け落ちざっくばらんに散った飾緒、鉄仮面に触れる垂布は閃光に焦がされ、すっかり黒ずんでいる。
プレナパテス――彼の異形は未だ、あのアリスの全身全霊を賭けた一撃でさえも耐え切り、その原型を保っていた。
足元を舐める炎、その直ぐ近くに音を立てて転がるタブレット、プレナパテスの指先から滑り落ちるシッテムの箱。明滅を繰り返し、青白い光を放っていた画面は軈て力なく消える。
それを一瞥もする事無く、プレナパテスは脱力し、まるで微動だにせず俯いたまま二度、三度、掌を震わせた。
――あぁ、漸く。
器の崩壊を悟りながら、プレナパテスは想う。
あまりにも長い、長い旅だった。
それが漸く終わりを告げる。
自身は、全てを成し遂げた。
そう思うとプレナパテスの体は秘めた意志に従う様にゆっくりと、音も無く傾き始めた。
限界を迎えつつある器が、鈍い音を立てて崩れ始める。辛うじて形を保っていた輪郭が少しずつ剥がれ、毀れていく。鉄仮面の破片がぱらぱらと足元に舞い、砕け散った装飾の欠片が床に跳ねて乾いた音を立てた。
まるで壊れかけた人形の如く、力なく前方へと沈んでいく巨躯。裂け、焼け焦げた垂布が目元を覆い、倒れ行くプレナパテスは鉄仮面の奥で瞳を細めた。
目前には、生徒達の姿があった。
世界は異なる、けれど本質は同じ――自身の愛した子ども達。
苦痛と絶望に満ち、それでも立ち上がり続け、最後まで抗い抜いた希望。
その姿を、プレナパテスは瞳に焼き付ける。
微かな笑みと共に。
彼女達は辿り着いた、この場所に。
彼女達は守り抜いた、この世界を。
彼女達は打ち破った、自身と云う困難を。
ならば、これで己の役割は――。
【――――】
そこまで思考が至り、ふとプレナパテスの意識が揺らいだ。
同時に感じ取る、自分に残された最後の希望。背後に蹲る一人の生徒の姿が脳裏を過った。取り残され、飛び散った瓦礫に混じり、抜け殻の様に蹲る小さな影。
じっと、自身の背中を見上げる瞳の色を。
――ヒナ
その名前を胸中で呟いた瞬間、崩壊の只中にあった器に熱が生じた。
希望と安堵を抱き、そのままに力尽きようとしていたプレナパテスの心に、最後の灯が宿る。
ゆっくり沈む行く両足が、無意識の内に前へと踏み出した。
血が滲み、擦り切れ、解れた包帯に包まれた足が炎越しに床を踏み締める。その巨躯が倒れ伏す寸前、揺れた身体を無理やり引き戻すように死力を尽くす。種火が足裏を炙り、伸びた影は炎によって大きく揺いだ。
ギチリと、全身から鈍い音が鳴った。
何を、全てを成し遂げた気になっているのか。
プレナパテスは己の惰弱さを罵った。この世界は己と云う絶望を乗り越えた、自身の屈した困難を退けた。それは喜ぶべき事であり、秘めた本懐は果たしたと云っても過言ではない。
けれど、まだ終わっていない。
終わらせては、いけない。
私の背中には、まだ――。
「先生、もう……」
プレナパテスの背後に蹲るヒナが、床に蹲ったまま弱々しく呟いた。届いた声はか細く、今にも泣き出しそうで、それを必死に堪えているように聞こえた。蹲った表情は見えない、だが目に見えずとも分かる。
理解した上で、膝を突く事は許されなかった。
「もう、良いよ……もう――」
プレナパテスの器は既に崩壊を始めている。もはや器が原型を保つどころか、立っている事さえ困難である筈だと云うのに。それでも尚、彼は覚束ない足取りで前へ進もうとしていた。
最早何の力も持たない伽藍洞の器で、焼け落ち、裂けた衣を靡かせながら緩慢な足取りで一歩、また一歩と進み続ける。
――私にはまだ、
「この――ッ!」
怒号にも似た声と共に、床に這ったまま生徒達が一斉に引き金を絞った。張り詰めていた緊張がついに弾けたかのように、銃口から閃光が連続して瞬き、耳をつんざく銃声が崩壊寸前の空間に重なり合って響き渡る。
放たれた弾丸は真っ直ぐプレナパテスへと殺到する。金属を強かに叩く様な金切り音、硬質的な何かを打ち据える鈍い衝撃音。幾つもの弾丸が面となってプレナパテスを襲い、鉄仮面が大きく跳ね上がり金属片が宙を舞う。鉄仮面は遂に耐え切れず、半ばから砕ける様に割れ落ちた。衝撃に押し出され、巨躯がぐらりと傾く。
一歩、二歩、三歩。
重い足が床を踏み外しそうになり、瓦礫を踏み砕きながら力なく蹈鞴を踏んだ。
明確に、プレナパテスが怯んでいた。
先程まで存在していた巨躯を覆う様な圧倒的威圧感はもうどこにない。銃撃を意にも介さなかった恐怖の象徴は、今や打倒可能な手負いの異形へとなり下がった。
それが、生徒達の戦意に火をつけた。
「明らかに効いてます!」
「アリスちゃんの光の剣、届いていたんだ……!」
「当然、あれだけの攻撃を受けたんだから、向こうだって限界の筈でしょ!」
「畳みかけろッ、相手はもう虫の息だ!」
「せめてここで、確実に――ッ!」
「仕留める!」
プレナパテスの弱々しさが、生徒達の希望に転じる。叫び声と共に、銃撃は更に激しさを増した。急速に落下するアトラ・ハシース、ナラム・シンの玉座にて炎に混じり、幾つもの閃光と火花が瞬く。空薬莢が次々と弾み、風に流され消えて行った。
先程までの強固な器はどこへやら、爆発も弾丸も通さぬかのようだったプレナパテスの身体が、今では容易く被撃を許す。
咄嗟に伸ばされたプレナパテスの指先に弾丸が命中し、細長い指先が数本裂け、千切れ飛んだ。
指の欠片が宙を舞い、床へと転がる。裂けた傷口から赤黒い色が噴き出し、薄汚れた衣と包帯へと広がっていく。全身に刻まれた銃創、染み込んだ赤はゆっくりと布地を濡らし、重たい斑点となって滲み出していた。
瞬く間に赤に染まる衣の向こう側、防壁も、器を保護する神秘も、恐怖も、権能さえ失った器は、子ども達の放つ弾丸を前に成す術なく立ち竦むばかり。
「もうやめてェッ!」
その惨状を目にした異なる世界のヒナの悲鳴が、プレナパテスの背後より響いた。
しかし、その声は轟く銃声や爆発に掻き消され、誰の耳にも届かない。
銃撃は止まらない、攻勢は留まる事は知らない、文字通り残り少ない全ての弾倉を吐き出さんと一気呵成に畳みかける彼女達を前に、プレナパテスの巨躯はものの数秒で穴だらけの木偶となる。
――最後に、託さねばならない。
半分に欠けた鉄仮面の奥。その暗い隙間から覗く瞳は猛攻を前に煌めきを宿す。空色の瞳、マズルフラッシュに遮られた視線が向かう先は立ち塞がる生徒達でも、彼女達が構える銃口でもない。
プレナパテスは自身を圧殺せんと殺到する弾丸を前に、僅かずつであっても歩みを進めようとしていた。赤を踏み躙り、ほんの数センチ、数ミリであっても前へ。
ただ一人、生徒達と共に進む一人の大人だけを真っ直ぐ見つめて。
――この世界の、
「ッ――」
瞬間、先生は胸の奥に走った何かに気付いた。
言葉にする事はできない、理屈では説明のつかない感覚。同じ存在だからこそ、感じ取った意志。
視線の先、崩れゆくナラム・シンの玉座の中で猛攻に晒されるプレナパテス――その鉄仮面の奥から覗く瞳を直視した時、強烈な決意のようなものが、視線越しに先生の全身を貫いた。
二人の間を、凄まじい爆発と炎が一瞬遮る。
ナラム・シンの玉座は、もう長くはもたない。リオ達が脱出した様に、自分達も一刻も早く地上へと転移しなければならない。
先生は奥歯を噛み締め揺れる視界と身体を叱咤し、尚も崩壊し続ける指先で上体を支える。無様に震える両足は振動に合わせて靴先を床に擦った。それでも構わず、全身に力を込め、そのまま身体を強引に起こす。
あれほどの攻撃を受け、身体を撃ち抜かれ、アリスの放った起死回生の光を受けて尚、プレナパテスは斃れない。ならば、自分だけが項垂れる訳にはいかない。こんな所で這い蹲っている訳にはいかない。
彼は果たそうとしている、己の役目を、使命を、責任を。
ならば己も、責任を果たさなければならない。
「アトラ・ハシースは限界だ、脱出を開始する……!」
震える声を押し殺しながら、シッテムの箱を見下ろし告げる。隣り合うアコが顔を顰め、咄嗟に反駁を口にした。
「ッ、でも、まだアイツは――!」
「
遮るように、腹の底から叫んだ。先生にとっての最優先はどんな状況、場所、世界であろうと変わらない。
生徒達の命と未来を守る。
それだけだ、それだけは絶対に譲れない一線なのだ。
「君達が生き残ってくれたのなら」
先生は擦り切れ、変色し、崩壊しつつある指先でシッテムの箱を叩く。
先程リオより譲渡された権限を呼び出し、起動コードと対象生徒を入力していく。アロナの補助もあり脱出シーケンスは何ら問題なく起動し、画面にシーケンスの進行状況が浮かび上がった。ウトナピシュティムの演算領域が完全に破壊されるよりも早く、シーケンスは完遂しなければならない。
完全崩壊までの時間は、然程残されていなかった。
「それが、私にとっての――」
■
「――えぇ、以降はシスターフッド、及び救護騎士団の現場判断に任せます」
そう静かに云い切ると、ナギサは手元の端末をゆっくりとテーブルに伏せた。
トリニティ自治区、ティーパーティー・テラスにて。
普段であれば穏やかなティータイムとささやかな談笑のための場所、整えられた中央広場を見下ろすテラス最奥、ティーパーティーの象徴とも言えるその空間は、本来静謐さと優雅さを併せ持つ。
しかし、現在のテラスは普段のそれとは大きく異なっている。
サンクトゥム攻略作戦に先駆けて設けられた対策本部として、様々な機材や書類がこれでもかと持ち込まれており、普段控えている傍仕えさえ席を外している。自治区内外を繋ぐ通信端末、紙媒体の情報を纏めた携帯端末に地図や戦術資料の束、走り書きのメモが積み重なり、整然としているはずのテーブルは御菓子の代わりに紙束を散らし、宛ら戦時の司令卓の如き様相を呈していた。
それでもナギサの手元には、何度も温めなおしたティーポットと幾つかのカップが置かれている。
こんな状況でも紅茶を切らさないのは、ナギサ自身口にしていた通り、もはや単なる嗜好ではなく精神安定剤としての側面が強いからだろう。戦況がどれほど逼迫しようとも、紅茶の香りだけはこの場所に残しておく。それが彼女なりの、冷静さを保つための儀式であった。
「ナギサ」
呼びかける声が開けたテラスの空気をわずかに揺らす。その声に応じ、ナギサはゆっくりと顔を上げた。視界の先にはテーブルの対面に座るセイアの姿があった。彼女は手にしていたペンを一度置き、問いかける。
「今の通信は?」
「トリニティ自治区に顕現したサンクトゥムの破壊、及び自律兵器、複製の掃討――全て完了したとの報告です」
言葉を終えると同時に、ナギサは小さく息を吐いた。手元の端末を指先で撫でつけながら胸の奥に張っていた緊張の糸がほんの僅かに解けていくのを実感する。
自分でも気づいていない内に随分と気を揉んでいたらしい。それも仕方がない事か、トリニティのみならずキヴォトス全域を巻き込んだ異常事態など――早々立ち会えるものではない。
「自治区境界線の自律兵器は守備隊が全て撃退、カタコンベ内部には念の為シスターフッドを中心とした部隊が留まっておりますが、サンクトゥム崩壊以降新しい敵性反応は確認出来ないと……」
「ふむ、何点か危うい所もあったが何とか凌いだ、という所か」
「えぇ、後は脅威が完全に退けられたのか、それを確認しなければなりませんが――」
ナギサは報告内容を整理するように、手元の用紙へとペンを走らせる。セイアは頷きながらナギサと同様に微かな安堵を滲ませた。
テラスからはトリニティの広大な敷地、その一端が一望出来る。
建ち並ぶ校舎群、聳え立つ別搭、美しい回廊に整えられた庭園。
目に入る光景は一見するといつも通りの学園の姿にも見えるが、よく観察すれば至る所で人影が慌ただしく動き回っているのが分かるだろう。
救護騎士団が担架を運びながら本部へと駆け込み、補給物資らしき箱を運搬する車両もちらほら、シスターフッドの本拠地となる大聖堂付近では再編成の為かシスター服の生徒達が絶え間なく出入りしている。
未だ硝煙の残り香は強い、それこそ紅茶で上書きできぬ程度には。
それでも出現した自律兵器の群れも、サンクトゥムの起動も、複製体の拡散も、何とか食い止める事が出来た。トリニティ全体が危機に陥る様な状況だけは回避する事が出来たのだ。今はその事を素直に喜び、安堵したいところであった。
「事態の緊急性を鑑みれば及第点だろう、後の議会に於ける諸々を考慮しなければ――という但し書きは必要だがね」
「それは……もう暫し後の事でしょう、今は目の前の事に集中しなければなりません」
セイアの放った言葉に、ナギサは苦々しい口元を隠す様にカップを持ち上げた。
彼女の云う通り、今回の一件はティーパーティーとしてもかなり切羽詰まった対応であった自覚がある。連邦生徒からの招集により各自治区との連携は取れていたが、各分派や派閥間の調整を待たずに決断した行動も多く、本来ならば事前に通すべき手続きをいくつも省略している。
緊急事態とはいえ、後になれば議会で問題視される可能性がある。一つの行動を起こせば、必ず賛成派と反対派というものは生まれるものだ。特に水面下での感情の機微は非常に掴み辛い。
ナギサは紅茶を胃に流し込みながら、静かに思考を回した。救護騎士団、及びシスターフッドと歩調を合わせる為にも、幾つか追加の資料と代表同士の口裏合わせが必要になるかもしれないと。
尤も、その辺りに関してはあまり不安には思っていなかった。以前と比べて両派閥との関係も――随分風通しが良くなったように思う。
秘密裏に会合の場を設ける事、承諾を得る事も然程難しくはない筈だ。
「念の為確認しておきますが、セイアさんから見て『嫌な気配』が残る場所はありますか?」
ナギサは徐にカップをソーサーへ戻すと、端末からホログラム投影によってトリニティ自治区の全体地図を表示させた。サンクトゥムの顕現したカタコンベから、各自治区と繋がる境界線。それぞれ赤くラインに区切られたエリアを見つめ、セイアは暫しホログラムを無言で凝視する。
「……いいや、トリニティ自治区内部には残っていないな」
少なくとも、今は。
地図を暫く眺めたセイアは、そう云って首を横に振った。
「或いは、感じられないだけという可能性も十二分に考えられるがね――全く以て、これ程確実性のない感覚を頼りにするのは、我ながら情けない話だよ」
セイアは自嘲気味にそう呟いた。ペン先をなぞりながら、視線はどこか遠くを見ている。かつては夢という形で訪れていた確かな未来の断片。それを失った今、残されたのは輪郭の曖昧な感覚だけだ。
予知夢は残酷なまでに未来を突きつけたが、この第六感は確定した未来を示す訳ではない。確証のない予感に身を委ねる事への葛藤と、それでもなお頼らざるを得ない現実とが、彼女の中で静かにせめぎ合っていた。
「ですが、その力に幾度も救われたというのも事実です」
ナギサはセイアの葛藤を感じ取りながら、首を横に振る。
予知夢を失ったとは云うが、ナギサからすれば異様なまでに鋭くなったセイアの第六感は最早予知夢と変わらない。理屈では説明できない彼女のそれは、以前と同様に幾度となく危機を回避し、最悪の事態を未然に防いできた。その積み重ねがあるからこそ、ナギサはこういった状況に於いて決してセイアの言葉を軽んじない。
尤も――その様な力が無くとも、彼女の言葉に耳を傾ける事に否やは無いが。
それに、予知夢を見ていた彼女は常に憔悴し精神的な圧迫感を覚えていた節がある。それが見えなくなっただけでも、ナギサからすれば歓迎すべき事柄であった。
「ひとまず、セイアさんの力でも感知できないというのであれば、トリニティ自治区内での戦闘はひと段落――という所でしょうか」
兎も角、セイアの結論を聞き届けたナギサは胸を撫で下ろす。
トリニティにセイアの直感が引っ掛かる程の脅威が迫っている訳ではないと、そう知れただけでも意味はあった。
「あぁ、後は……」
セイアはそう言いかけて言葉を切り、佇まいを正す。
そして、再び視線をナギサへと向けた。
トリニティの頭上に広がる空は、戦いの余韻を知らぬかのように静かで、澄み渡っている。あれ程赤く染まっていた世界はサンクトゥムの崩壊と共に蒼穹を取り戻し、雲は穏やかに流れ、淡い陽光が校舎を照らしていた。
だが、その静けさは逆に、どこか落ち着かない不安を呼び起こす。まるで嵐の中心を通り過ぎた直後のような、張り詰めた空白の時間である。
「カタコンベ内部から消失した補習授業部の四名、及び先生の警護にあたったミカの帰還を待つだけだ」
その言葉が放たれた瞬間。
ナギサの表情が、はっきりと険しくなった。
先ほどまでの気配は影を潜め、瞳の奥に鋭い緊張が宿る。指先が無意識のうちにカップの取っ手を強く摘み、白い陶器がかすかに軋む。
「ヒフミさ――……補習授業部の皆さんは、やはり
ナギサは重々しい口調で問いかけた。
普段ならば表で決して見せないような逡巡が、その声に滲む。手元のカップから立ち上る湯気がゆらゆらと揺れ、その向こうで彼女の表情がわずかに翳っていた。
「十中八九そうだろう、それに姿が見えなくなる前にメッセージがあったそうじゃないか」
セイアは断言しない。だが、その言葉には現状を冷静に受け止めた上で確度の高い判断が含まれている。
カタコンベ内部から補習授業部が行方不明になる直前。同行していたシスターフッド代表のサクラコに対し、短い音声メッセージが届いていた。
サンクトゥム破壊の影響により、これより補習授業部の四名がアトラ・ハシースへと転移する可能性がある旨。そして同様の現象が、他の地域でも同時多発的に発生しているかもしれないという事。
簡素な報告ではあったが、切迫した状況がその声から伝わってくるような内容だった。
「ですが送り主のハナコさん自身、推測を含むと前置きを入れていた程です、音声データ自体は私も確認しましたが、確かな事は何も分かっておらず……」
「こんな状況だ、確実な事など何一つ存在しないさ、ナギサ」
セイアは肩を竦めると、静かに云い切った。
それは決して後ろ向きな発言ではない、寧ろセイアからすれば現実をそのまま受け入れる覚悟のようなものだった。サンクトゥム顕現についても、アトラ・ハシースについても同様。誰も彼もその全貌を理解していない。何が起きているのか、なぜ起きているのか、そしてこれから事態はどこへ向かうのか。
確かな答えはどこにもなく、誰も掴んでいないのだ。
「――だから、私達は信じて待つんだ」
セイアはそう云って、不意に微笑みを浮かべた。
浮かべた表情には不思議な力がある。張り詰めた空気をほんの少し和らげ、胸の奥に溜まった焦燥を静かに鎮めるような、柔らかな強さ。
焦っても状況は変わらず、地上で空を見上げるばかりの自分達に出来ることは限られている。
だからこそ、信じる。
信じて待つのだ。
それもまた、戦い方の一つなのだと。
「こうやって待つ事が出来る事も、強さの一つだろう?」
「……えぇ、そうですね」
ナギサも、セイアの言葉に同意するように小さく頷きを返した。手元の紅茶を一瞥し、一息に飲み込む。彼女からすれば聊か優雅さとは離れた所作であったが、それが却って良い気付けとなった。
不安が消えた訳ではない。だが、腹は決まった。
自分達が今出来るのは、空で戦う先生の、彼女達の勝利を信じて、戻ってくる者達を迎える準備を整える事だ。
それはこれまでの日常を続けて行けるように努める事。
「――先生」
セイアが静かに名前を呟く。遠く離れた空の彼方で戦っているであろう友人達の、先生の無事を、ただ静かに祈る。
そのまま、そっと目を閉じた。
風が止み、テラスにわずかな静寂が訪れた。
■
「―――」
目を瞑ったのは、ほんの一瞬だった。
その一瞬で意識が溶けるように揺らぎ、足元の感触が曖昧になる。まるで現実そのものが薄い膜のように剥がれ落ちていく感覚。
それには覚えがあった、自身がいつも見たくもない予知夢に招かれる前兆そのもの。
「―――……?」
再び目を開いた時、視界には先程とは全く別の光景が広がっていた。
見覚えのある場所だ、それはどこか天守閣を思わせる高台。古めかしくも荘厳な造りの内装、手摺越しに広がる自然、空気に混じるどこか上質な木の香り――過去に訪れた事がある、あの奇妙な領域に酷似している。
空は現在の時刻とは異なる、幻想的な夕焼けに染まっていた。橙から紅へと移ろう色彩が雲の輪郭を溶かし、まるで絵画のように静かに広がっている。遠方には霊峰が聳え、連なっていた。その雄々しい姿は実に美しく薄紫に霞む山肌は空の色を映し込み、時間の概念そのものが曖昧になったかのような感覚をセイアに抱かせた。
一瞬、彼女は言葉を失う。
もしやまた、自分は予知夢に迷い込んだのではないか、と。
現実との境界が判然としないこの世界は、かつて彼女が幾度となく体験してきた感覚に良く似ていたから。
「ふむ、其方はそうして此処に至るか」
「……ッ!?」
不意にからかけられた声に、呆然としていたセイアの肩が大きく跳ねた。
反射的に振り返ると、手摺に腰掛けた影が視界に飛び込んで来る。
白狐の如き容貌、小柄な体躯に、どこか尋常ならざる気配を纏った人物。
指先に乗せられたキセルからは細い煙がゆらゆらと立ち上り、周囲には舞い散る桜の花弁が淡く光を帯びて漂っていた。幻想的でありながら圧倒的な存在感。まるでこの世界の主であるかのように、彼女は悠然とその場に佇む。
「こ、此処は――」
「さて、よもやこの様な形で再び相まみえる事になろうとはな、奇怪な事よ」
手摺に身を預けたまま彼女、クズノハは独り言のように呟いた。
視線は夕焼けに向けられたまま、セイアの方を見ようともしない。その態度がかえって、この邂逅の不可思議さを際立たせていた。
セイアは自身を落ち着ける為に二度、三度深呼吸を挟み、徐に額へと手を当てる。脈打つような感覚が頭の奥に広がり、現実感が再び揺らぎそうになるのを必死に抑えた。
戦々恐々としながら、彼女は問いを口にする。
「まさか、また私は……?」
「いいや、今回に限っては其方の云々で招かれた訳ではあるまい、この邂逅は云ってしまえば【最後の警告】、或いは『老婆心』とでも云い換えるべきか」
「警告に、老婆心だと? 待ってくれ、それは一体どういう意味で――」
予想もしていなかった邂逅、意図を掴みかねる言葉、セイアは戸惑いを隠さず顔を顰める。
クズノハはその様子を見て思案顔を晒した。唇を尖らせ煙を一つ吐き出し、桜の花弁がその流れに乗ってゆらりと揺れる。
「ふむ、てっきり妾を探し出すと考えていたが……」
ぽつりと零されたその言葉は、何やら含みを持っている。言葉はセイアに向けられたものではなく、彼女は自身を通して別の誰かを視ている様に思えた。
セイアの理解が追いつくよりも早くクズノハは指先で自身の顎先をなぞると、視線を細め徐に呟いた。
「どうやら
「―――」
先生――?
何故、今先生の名前が出て来るのか。
そんな疑問を抱いた瞬間、セイアの脳裏に唐突に蘇る光景があった。
視界の奥で何かが弾けるように、記憶の断片がフラッシュバックする。音もなく、しかし鋭い痛みを伴って、過去に見た【未来】が一瞬だけ鮮明に。
その記憶は、エデン条約の折、最後に見た予知夢。
胸の奥で苦々しい感情と堪え切れない激情が一瞬にして膨れ上がり、ぶわりと全身に冷汗が滲んだ。
目の前のクズノハが口にした意味を、セイアは漸く理解した。
「……まさか」
乾いた口から零れた声が、夕焼けに染まる空間へと溶けていく。零れた一言には、疑念と焦燥、そして強い恐怖が混じっていた。
「ほれ、救いたいと願うのならば疾く動くと良い」
煙を燻らせていたキセルの先も、今はぴたりと止まっている。
クズノハは小さな体を手摺に腰掛けたまま、僅かに前傾姿勢を取った。夕焼けの光が傾き、霊峰の影がゆっくりと伸びていく。
伸びた影の向こう側から、クズノハは鋭い眼光を瞬かせ告げた。
「――でなければ、手遅れになるぞ」
■
刻一刻と崩れ往くナラム・シンの玉座。外周部では早くも床の崩落が発生し、絶え間ない振動と小規模な爆発によって頭上からは細かな破片と火の粉が雨のように降り注いでいた。下手に足を踏み外す、或いは風に呑まれてしまえば外界に吹き飛ばされ高高度からの落下は避けられない。
最早戦闘を継続できる状況ではない、アトラ・ハシースそのものが限界を迎えつつあることは、誰の目にも明らかだった。
「―――」
そんな崩壊の只中で、アスナは不意に言葉にならない、悍ましい未来を本能的にかぎつけた。
理屈を超えた直感、本能――或いは彼女の知らない世界より、投げかけられた願いが齎した代物か。
それを感じ取った瞬間、凄まじい悪寒が体に奔る。心臓が大きく跳ね、背筋を冷たいものが這い上がっていった。
この瞬間、自分は何か、決定的な岐路に差しかかっている。
それは最早、アスナにとって予感ではなかった。
確信だ、必ずそうなるという確信。
瞬間、アスナは反射的に叫んでいた。
「――誰か、ご主人様を止めてッ!」
「はっ……?」
放たれた声は酷く切迫しており、傍に居た仲間達――C&Cの意識を一瞬で引き寄せる。プレナパテスの動向を警戒していた彼女達は、アスナの叫びに思わず動きを止めて面食らう。敵へ向けていた銃口が僅かに逸れ、トキを支えていたアカネでさえ呆気にとられた様子で呟く。
「あ、アスナ先輩?」
「突然、何を――」
戸惑いの声が重なる。プレナパテスを、敵を止めろと云うのであれば分かる。
しかし、先生を止めろとはどういう事か。何を根拠に、何を恐れているのか。アスナ自身ですら言葉にできない直感を他者が即座に理解できる筈もない。
だが、それを無視するには彼女の直感が余りにも鋭利過ぎる事をC&Cは知っている。
意図を把握出来ない、普段であれば多少の疑念はあれど即座に動ける肉体が――対象が先生であるだけで、強い迷いに支配される。
だからこそ、全員の行動が一拍遅れた。
そのわずかな逡巡が、決定的な間隙となった。
たったの数秒、指先一つを動かすには十分な時間。
「アロナ」
崩壊音と銃声の余韻が残るナラム・シンの玉座で、先生はシッテムの箱へ視線を落としたまま震えを抑え込むように画面へと指先を押し付ける。
画面に煌めく青、ブルーライトが彼の顔を照らし、その表情の影を深く際立たせていた。血を滴らせ、画面上に血痕を伸ばす指先が光を遮る。
「――脱出シーケンスの、起動を」
周囲の生徒全員を対象とした、アトラ・ハシースからの強制退去。対象の設定と転送準備、それがたった今終わった。
瞬時にシステムが反応し、脱出シーケンスが起動する。
ナラム・シンの玉座の至る所で青白い光が灯り始め、淡い粒子のような輝きが生徒達の身体を次々と包み込んでいった。
「わっ、わッ!?」
「なっ、何、今度は何!?」
「この光は――」
「脱出シーケンスの光です! 皆さん、落ち着いて……!」
唐突に体を包む光、足元がわずかに浮くような感覚、視界の端に光の輪が広がり、身体の輪郭が少しずつ曖昧になっていく。突然の現象に戸惑いを隠せない生徒達も、しかしそれが脱出シーケンスの前兆あると理解した瞬間、表情は次第に安堵へと切り替わる。
「よ、良かった、これで地上に戻る事が出来るんですね……!」
「皆、こっちに集まりなさい! 急いで!」
「うわぁ!? ば、爆発がめっちゃ近いですよぉッ!? は、早く、早く帰りましょうよ!?」
「RABBIT小隊は念の為、負傷者の近くに――」
「っ、すまない、助かる……!」
人数分の光が幾重にも重なり、崩壊寸前の空間を強く照らす。足元を揺るがす振動と、遠くで鳴り続ける爆発音が少しずつ迫っている気がした。そんな混乱の中で、生徒達はようやく訪れた脱出の機会に分かり易く胸を撫で下ろす。
互いに呼び合い、手を取り合い、転移の際に万が一が起こらない様に備える。吹きすさぶ風はなおも荒れ狂い、裂けた内壁の隙間から流れ込む風に飛ばされぬよう彼女達は必死に身を屈め、訪れるであろう帰還の瞬間を信じてその場に留まっていた。
「先生、私の手を――!」
ミカは先生へと寄り添ったまま、同じように身を伏せ彼の手を取ろうと動く。
先生の身体は既に限界を超えている、仮に地上へと帰還できたとしても直ぐに治療が必要な筈だ。最悪、自分が先生を担いで病院まで走っても良い、下手な車両に乗せるよりも早い自信がある――そんな事を考えて、先生の身体を視界に捉えた瞬間、ふと違和に気付いた。
最初はほんの些細な違和だった。
だが次第に、その気付きは波紋のように連なって大きく広がっていった。
「……先生?」
「………」
囁くような呼びかけに、先生は何も答えない。
シッテムの箱を見下ろす様に俯いたまま、口元を一文字に閉ざす。ミカの差し出した掌を包む光が、少しずつ輝きを強くしていた。煌めく青が、先生の満身創痍となった身体を照らしていた。
ちらほらと、ミカと同じ違和に気付く者が現れ始めた。
「―――」
「えっ、あ、あれ……?」
「……あなた様?」
ぽつぽつと、疑問の声が連なった。最初は至近距離で先生を囲う生徒達の顔に、次に少し離れた位置にいる生徒達が。
僅かな時間差で、先生の異変に気付き始める。
ただひとり――先生だけが、脱出シーケンスの対象に含まれていない。
転移の前兆である青白い光が舞う中で、先生だけはその輝きから取り残されていた。その事実に誰もが戸惑い、狼狽する。
「先生……? 先生にだけ、転送の光が出ていませんよ?」
「おい先生、何やっているんだ! まさか自分だけシーケンスの対象に設定し忘れたのか!?」
「こ、こんな状況ですから、焦ってしまうのは分かりますが――!」
「急いで下さい先生! この爆発の規模と風圧、そう長くは持ちません! 早くご自身の脱出を――……」
大多数の生徒がそれを純粋な設定ミスであると信じた。
或いは、生徒達を優先し自身の転移を敢えて遅らせたのかもしれないと。
方々より焦りを隠しきれない声が幾つも重なる。特にハナコは補習授業部の安全を確保しながら、先生の脱出シーケンス再設定を強く促した。
最早アトラ・ハシースの完全崩壊まで猶予はない、一刻も早い脱出が望ましい。
一際大きな爆発が発生し、アトラ・ハシースが大きく揺れた。
生徒達の間で悲鳴が響き、瓦礫が次々と落下し視界を覆う。足場のひび割れは目に見えて悪化し、遠くから構造材が崩れ落ちる轟音が絶え間なく続き、ナラム・シンの玉座と回廊を繋ぐゲートが完全に崩落、分断された。
「先生!」
ハナコが叫び、飛び散る火の粉を払いながら目を見開いた。緋色の炎に彩られた視界の中で、ゆっくりと持ち上がった先生の視線と、ハナコの視線が交わった。
「―――」
一瞬、時が止まったかのように感じた。
転移の光に包まれ、炎の煌めきに網膜を焼かれながら、彼女は全身を硬直させる。
飛び込んで来たのは、あまりにも真っ直ぐな瞳。
揺るぎのない静かな光が、その奥に宿っていた。
それはハナコが嘗て何度も見てきた先生の表情だった。
きっと、自分が知らぬ場でも似たような光を湛えていたのだろう。アビドスを救おうと動いた時も、ミレニアムで起きた騒動を解決した時も、シャーレ襲撃が発生した際も――エデン条約の時だって、そうだった。
彼はそうやって、常に自らの身を危険に晒して来た。
誰かの為に、何かの為に。
彼の胸に宿る
「――まさか」
瞬間、ハナコは全てを悟った。
「ごめん」
零れた短い言葉は、騒音と爆発に満ちた空間の中で不思議なほどはっきりと響いた。崩壊していくナラム・シンの玉座の只中で、先生はほんの僅かに顔を歪める。
次の瞬間、ミカが反射的に前へと身を乗り出し、先生の腕を強引に掴んだ。
細い指が力いっぱいに食い込み、逃がすまいとする意志が余さず伝わってくる。視線を向ければ、様々な感情が入り混じった一杯一杯のミカの表情が視界に映った。強張った彼女の表情筋が、これ以上ない程にミカの心情を表している。
だが、その行動に意味はない。
脱出シーケンスは既に起動しており、どれだけ身体的接触を行おうと転移は個別で行われる仕組みになっている。互いに手を取り合っていても、運命の分岐は容赦なくそれぞれを引き離すだろう。
青白い光は本格的にミカの身体を覆い尽くし、指先からわずかに輪郭が透けていく。
心臓が鼓動を打つ度に痛みを発した。臓物の奥底からヘドロの様な感情が湧き上がっていた。それを呑み下し、押し込み、蓋をして、先生は喉を震わせた。
「最後に、君達の想いを踏み躙った」
あまりにも静かに紡がれた言葉は、けれど崩落の音に掻き消される事無く。
意味を理解するのに、数舜の間を要した。
一拍間を置き、生徒達は漸く言葉の意味を理解する。声を発するよりも早く、本能が拒絶の感情を呼び起こした。
ハナコは床に屈んでいた姿勢から身を乗り出し、堪らず先生に向けて叫んでいた。
「此処に、残るつもりですかッ!?」
悲鳴染みた声は、崩壊音に負けじと耳に届いた。問いかけには、否定してほしいという願いが込められていた。だが優秀な彼女の頭脳は既に答えを見つけている。
指定された転移対象、先生の態度と言動、未だ健在の異形と崩落するアトラ・ハシース。
状況から考えて、恐らく先生は最初から――此処に留まるつもりだったのだと。
「なっ……!」
「何を考えているのよ、先生ッ!?」
「噓でしょ……!」
「ばっ――ッ!?」
次の瞬間、ナラム・シンの玉座に集っていた生徒全員が一斉に声を上げる。
怒りとも恐怖ともつかない感情が混ざり合い、発せられた叫びは乱れに乱れる。転移の光に包まれながら、生徒達の表情はみるみるうちに強張っていった。理解したくない現実が目前に突き付けられ、吹きすさぶ風に身を煽られながらも、彼女達の視線はただ一人光に包まれていない存在へと釘付けになる。
「先生、態々あなたが此処に残る意味などありません――ッ! 早く、私達と一緒に脱出を……!?」
「そっ、そうです! こんな場所に残っては、先生が……!」
「局長の云う通り、どう考えても意味ないでしょ!? ねぇってばッ!?」
「ちょっと先生、相手はもう戦えないわ! 放っておくだけで良い筈でしょ!? そうすれば勝手に居なくなるわよ! 違う!?」
「そうだよ、アルの云う通り、銃撃が通る今の状態なら此処の崩落に巻き込まれて終わる筈! それに先生ひとりが残っても――ッ!」
「ほ、ほら先生、ムツキちゃんと一緒に帰ろうよ! 怪我だって酷いんだからさぁ……!? これ以上無茶する理由なんて、どこにもないじゃん!」
「お、お願いします、せ、先生……! わ、私達と一緒に……! お願いします、お願いします、お願い、ですから!」
「単独で敵地に残るなど、その様な暴挙認められる筈が――! せめて、私達も一緒に……!」
「くそッ、ふざけるなよ先生っ!? 何で突然、そんな……! おい、RABBIT3! この脱出シーケンス、何とか止められないのか!?」
「無理だよ! そもそも制御権がこっちに無いし、オーパーツで制御する類のシステムなんて、どうやって弄れって云うのさ!?」
「あ、っ……う、ぁ――」
「何考えてんだ先生ッ! てめぇまさか、本気で云っているんじゃねぇだろうなッ!? 本気なら、マジでぶっ飛ばすぞこらぁッ!?」
「駄目だよご主人様! それは、絶対に……! だって、それじゃあご主人様が……!」
「待ってくれ、何でそんな……! 先生を置いて行くなんて、私達に出来る筈がないだろう!?」
「そうです! ご主人様のご要望とは云え、この様な事、到底承諾出来ません――ッ!」
「だ、駄目だ、駄目だ先生ッ! こんな結末、私は……! 現実は辛くて苦しくて、でも私達は、そんな世界でも皆笑顔で結末を迎えられる、そんなハッピーエンドを目指して……ッ!」
「は、ハナコちゃん、何とかなりませんか!? どうにか、何か良い、もっと良い方法が……! だ、だって、これじゃあ、本当に――ッ!」
「―――……っ」
「やっ、やだ、やだやだッ! こっ、こんな、こんな事の為に、私は頑張った訳じゃない――ッ! 先生ぇっ、先生ってばッ!?」
「せ、せん、せ――……け、ケイ、どうか、先生を――ッ」
「っ、ぅ、あ、アリス……! せ、先生……!」
「どうしよう、どうすれば、どうしたら――……お、お姉ちゃん!」
「わ、私は――ッ! アリス、ユズ、ミドリ……っ」
「ユウカ先輩! だ、駄目ですっ、駄目ですってば! 落ち着いて下さい! 気持ちはっ、気持ちはすっごく分かりますよっ!? で、でも……でもぉッ!」
「ユウカちゃん、危険ですッ! お願いですから、ユウカちゃんまで……ッ!」
「離して二人共ッ! 私も、此処に残るんだから! 先生っ、許しませんよッ!? 先生を置いて地上に帰還するなんて、そんな事――絶対に許しませんからねッ!?」
「また、あなたはそうやって自分一人で抱え込んで――ッ! 私も、委員長も置いて……っ!」
「っぅ、先生、まさか、向こうの私を――……?」
「だ、駄目だ、先生……! 私も、スクワッドも、まだ貴方に、何も返せていないと云うのに――」
「あなた様! せめて、せめてこのワカモに共をさせて下さいッ! どのような道を歩もうとも、その意志が奈辺に在ろうとも! ワカモは最期まで――あなた様のお傍に!」
「離さないから、絶対に……! 私は、
多くの想いが耳に届いた。
怒号にも似た叫び、懇願、祈り、哀願、慟哭――それらが全て混じり合い、雪崩のように鼓膜と心を打つ。
その度に背中にズシリとした、目に見えない重みを感じた。それは己が背負うべき責任であり、思い出であり、願いであり、罪悪であり、使命であり、此処まで歩んできた時間そのものだ。振り払うことも、見ないふりをすることも出来ない代物だ。
先生は片腕で身を支えたまま、全身を押し潰さんと圧し掛かる重さを噛み締めながら、徐に口を開く。
「ありがとう」
感謝の言葉は、存外すんなりと口を突いた。
自分でも驚く程穏やかで、けれど力強い声だった。朽ちかけた体を突き動かすには、その想いだけで十分だった。
軋む骨も、焼け付くような痛みも、苦しみも、今や遥か遠く。あらゆる痛みに、苦しみに、困難に打ち勝ち、今ここに辿り着けた理由はただの一つ――彼女達の存在だった。
だからどうか。
「どうか――」
自身を想う生徒達に、願う。
崩れゆく瓦礫の影が差し込み、揺らぐ炎の光が先生の表情を照らした。
炎に照らされ浮かべた笑みは、汗や血に塗れて尚涼やかで、どこか安堵すら滲ませていた。
まるで長い旅路の終わりに漸く辿り着いたかのように。
先生の腕を掴むミカの表情が大きく歪み、瞳が見開かれた。
だって、余りにも同じだったから。
そう、今度こそ助けると誓ったのに。
彼はまた、こんな風に笑って――。
「
君達に明日があるのなら。
私はそれだけで、報われると。
「っ、先せ――ッ」
先生を呼ぶ声は、最後まで形を成すことなく。
ナラム・シンの玉座に集っていた生徒達は、一際強い光の中へと掻き消えていった。目前に居たミカが、ワカモが、アコが、ヒナが――大勢の生徒達がたった一瞬で、跡形も無く。
別れの瞬間はあまりにも唐突で、まるで世界の一部が音もなく切り取られてしまったかのようだった。
そこにあったはずの気配も、温もりも、すべて一瞬で消え去ってしまう。
「―――……」
静寂が訪れる。
爆炎と崩落、風切り音だけが支配する静寂だ。それは決して安らぎを齎すものではなく、むしろ耳鳴りのように神経を締め付ける空白そのものだった。
誰の声も聞こえない、終わりを迎える為の舞台――先生はたった一人、崩壊するナラム・シンの玉座に取り残される。
『……脱出シーケンスの起動完了、生徒さん達は無事、地上へと帰還しました』
アロナの声が、酷く遠く聞こえた。どこか現実感を欠いたまま、景色だけが揺れ続ける。画面の電子的な光が明滅し、その刺激だけがかろうじて現実へと繋ぎ止めてくれる細い糸のように感じられた。
『シーケンス起動可能枠は、残り一枠です』
脱出シーケンスの対象設定項目が、淡く点滅している。画面に映し出された小さな表示が、まるで最後の選択肢を突き付けるように輝き続けていた。
『――あとは、先生だけです』
先生からの返事は無かった。
だが沈黙は、決して迷いを意味していなかった。
「っ、ぅ」
先生は死に体に鞭打って、額を床に擦り付けながら立ち上がろうとする。
上体を起こすだけでも精一杯だったというのに、それでも吹き付ける強風の中、プレナパテスと同じように自らの足で床を踏み締めようとした。
「……お互い、のッ」
血に塗れた歯茎を剥き出しにしながら、身を捩り、強引に足で床を捉えた。左腕の義手を喪失した分、バランスがとり辛い。
四方から吹き付ける風が体を揺らし、力が入り切らず無様に体を床に打ち付け、転がった。滴り落ち、広がった血の中に沈み込み、衝撃が頭蓋を揺らす。
コハルが処置した包帯に血が滲み、堪らず意識を飛ばしそうになった。冷たい床と生暖かい血だまりに這い蹲ったまま、先生は暫し呻き声を上げた。
それでも視界にプレナパテスが、彼が守った最後の
ギシリ、ギシリと、全身から何かが軋む音が聞こえていた。シッテムの箱を掴む指先が砕け、白い亀裂に覆われていた小指が完全に霧散した。風にのって消えて行く肉体の残滓を一瞥する事無く、先生は再び床に足を着ける。
強靭な意志だけが、朽ちた肉体を此処に繋ぎ止めていた。
「今度、こそ……」
最早、吹きすさぶ風の音も聞こえない。爆発も、爆炎の熱波さえ、何も感じない。
感覚が壊れ切った世界の中で、ただ目の前に佇むもう一人の自分を――彼が守り切った、異なる世界のヒナを見つめる。
プレナパテスが徐に、足を引き摺る様にして一歩を踏み出した。
ぎこちなく、力ない一歩だった。それでも彼は、先生の元へと歩みを進めた。
先生もまた、強風に煽られながら覚束ない足取りで、辛うじて立ち上がった。背を丸め、不格好に、シッテムの箱を抱きかかえたまま――両者は一歩、また一歩と、歩みを進める。
「責務を、果たそう」
不格好に、緩慢に、一歩ずつ。
軈て、相応の時間を掛け、両者は手を伸ばせば届く距離まで歩みを進める。今にも朽ちてしまいそうな、壊れかけの器が二つ。満身創痍だ、どちらも限界など疾うの昔に超えている。
けれど此処に立っている。
それが、私達の
「――
先生が呟き、プレナパテスを仰ぎ見た。
爆発が響く、吹き付ける風が擦り切れ、薄汚れ、血を吸った両者の衣服を靡かせる。
ナラム・シンの玉座に空いた大穴、吹き飛んだ内壁越しに見える外の世界。
外界に流れる薄暗い世界が僅かずつ――光を、青色を取り戻しつつあった。