ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ!
遅くなって申し訳ないですの、恐らくあと三話程で完結になりますわ!
本当に長かったですわね…。


誰が為に。

 

 ずっと――覚めない悪夢を見続けている気分だった。

 

 調印式の会場で先生を喪った時から、或いは自らの弱さを自覚した時からだろうか。

 その瞬間に刻まれた精神的な傷は空崎ヒナという存在を徹底的に壊し尽くしたと云って良い。立ち上がる勇気も、力も、何も持ち得ていなかった己は、優しい暮明に包まれた自室で崩壊していくゲヘナを、キヴォトスをただ眺めていた。

 全てから目を逸らし、全てから耳を塞ぎ、立ち上がると信じ続けた彼女達を裏切ったのだ。

 

 ――その事実がある限り、世界の誰が許そうとも、空崎ヒナ自身が己を許さないだろう。

 

 結局自分は、決して引き返せない状況にまで事が進まなければ、立ち上がれぬ程に弱かったのだ。

 

【アコ行政官主導で実行されたアリウス自治区侵攻作戦は、自治区侵入より二十六時間が経過した時点で、先遣隊・本隊共に連絡が途絶しました】

 

 アコを、チナツを、イオリを、大勢の仲間達を喪ったと知ったのは、彼女達が消息を絶ってから凡そ三日後の事であった。

 かさついた肌、力の入らない指先、碌に食事も水分も摂っていなかった為、自分の肉体が少しずつ衰弱しつつあったのは理解していた。ベッドに蹲って目を瞑る日々、そんな中ぼそぼそと、呟くようにして自室の扉越しに放たれたそれは、空崎ヒナにとっては余りにも認め難く。

 呆然とした心地のまま堪らずベッドを這い出し、外へと踏み出した時、既に世界は一変していた。

 

 誰もいなくなった街、教科書の代わりに弾薬を詰み、負傷者が寝転がった教室。所狭しと銃火器が立て掛けられた廊下、割れたガラスに散らばる瓦礫片、彼方此方から聞こえる呻き声、硝煙と血の香り。

 

 自治区間の戦闘は時を経る毎に激しさを増し、ゲヘナとトリニティは膠着状態に陥っていた。

 トップを喪い統制を失くしていたのはゲヘナのみならず、トリニティも同様である様だった。ティーパーティーは機能せず各分派がそれぞれ行動を開始し、情報部によればパテル分派首長が代理ホストとして幾つかの分派を取り纏め、同様にシスターフッドの代理代表と結託し、アリウス分校からの防衛を続けているらしい。

 

 ゲヘナとトリニティの大規模な衝突は、結局一度だけだったと聞いた。

 出現した幽体――複製と呼ばれる無尽蔵の兵力を相手取るのに、両校は注力しなければならなかったのだ。

 それが良いのか悪いのか、だが確実にトリニティとゲヘナの溝が大きく広がったのは確かだった。事実、現在代理ホストに追従する形で活動を続けている正義実現委員会は、声高にゲヘナへの対抗心を高めているらしい。

 それを主導しているのは、ハスミ副委員長と聞く。

 当然の事だろうと、空崎ヒナは鈍った思考で思った。

 

「委員長……!」

「委員長だ、帰って来てくれたんだ――ッ!」

「お、お帰りなさい、ヒナ委員長!」

 

 パジャマ姿のまま、のろのろと風紀委員会に顔を出した。罵倒される事を、怒鳴られる事を、傷付けられる事を望んでの事だった。

 それが当然だと思った――だが、現実は違った。

 

 自分が自室に引き籠ってから数週間と経っていない筈だった。

 だというのに、委員会の皆は誰も彼も疲弊し、憔悴しきっていた。

 包帯で腕を吊り下げる者、眼帯を着用する者、体中にガーゼを貼り付けた者、誰も彼もが痣やら生傷を作り、碌に治る前に次の戦地へと駆けて行く――自治区中枢、風紀委員会の拠点でコレだった。

 自分は彼女達が苦しんで耐えている間、ただ何もせず目を背け、耳を塞いでいただけだったというのに。

 

「ほ、本当は、アコ行政官と連絡が取れなくなった時点で、委員長を呼びに行こうと思ったんです! 何度も、何度もそうすべきだと思いました……! でも、アコ行政官も、イオリ隊長も、チナツさんも、ヒナ委員長は必ず、必ず自分から戻って来るからって――だ、だから、私達はっ! ずっと、ずっと待って……!」

 

 目の前の生徒はそう云って、ヒナの荒れた掌を強く握り締めながら号泣し、膝から崩れ落ちた。

 組織を纏め上げる主要な生徒が軒並み消息を絶ち、代理委員長として今日まで何とか風紀委員会を運営していた生徒だった。

 この状況、両肩に圧し掛かる重責は想像して余りある。

 

 ヒナは彼女を見つめながら自身の不甲斐なさ、弱さ、無責任さを恥じ、掌から伝わる彼女の熱と力強さを感じながら沈黙した。

 沈黙する他なかった。

 風紀委員会の仲間達はヒナを涙と共に受け入れ、その帰還を心の底から喜んだ。

 違うの、と叫びたかった。

 そんな風に、こんな風に、受け入れられる事など望んでいなかった。自分にそんな資格など存在しない。何でもっと早く来てくれなかったのかと、お前の責任だと、ぐるぐると布団の中で巡っていた言葉は、投げかけられるだろうと身構えていた言葉は、何一つ耳に入って来なかった。

 その事実がより一層、ヒナの自責の念を重くした。

 

「―――……」

 

 すっかり荒れ果てた風紀委員会、詰み上がった書類の山、散乱した治療器具、詰まれた弾倉を見上げ、碌に回らぬ頭で考えた。

 最早、風紀委員長として振る舞う事など出来なかった、今更自分に何が出来るのか、何をするべきなのか、何一つ分からないままだった。

 調印式から端を発したこの騒動は、既にキヴォトス全域に波及している。トリニティとゲヘナの対立、アリウスの自治区侵攻、迫りくる無尽蔵の兵力、トップ不在により統制を欠いた三大校、雁字搦めの連邦生徒会、シャーレの機能停止と――生死不明と発表された、先生の存在。

 

 それが表向きの発表である事は、既に大部分の生徒が察していた。

 久方振りに触れた外の情報は、空崎ヒナの中にある後ろ向きな感情を膨らませただけに過ぎなかった。

 空崎ヒナの中に、あの瞬間突きつけられた言葉がまだぐるぐると胸の内を巡り続けている。

 全てを投げ出し、此処に立った自分は何をすべきか。

 ヒナは自分自身に問い掛けた。

 

 ――一番最初に湧き上がったのは、『先生と皆の仇を取らなくちゃ』という想いだった。

 

 それはゲヘナ風紀委員長としてではない、空崎ヒナとして生まれた衝動だ。

 全てが変わったあの時の光景は、ヘドロの様に胸にこびり付いて離れない。それに、それは目の前の皆を、ゲヘナを助ける事にも繋がる。

 明らかな私怨、私情だった、けれど皆を助けられるという建前が僅かに彼女の背中を押した。

 決めた後は、体が勝手に動いた。

 

「私が、アリウスを止める(潰す)から」

 

 だから、皆は学園を守って。

 風紀委員会の皆に、自治区防衛に専念する様伝え、自身が単独で討って出ると吐き捨てた。

 途端、あらゆる声が室内に響いた。心配、焦燥、幾つもの不安の声、主要メンバーを揃えて行ったアリウス攻略作戦も失敗した今、二の前になるのではないかと風紀委員会の大部分が考えていたのだ。

 けれどヒナが振り返り室内の生徒達を一瞥した時、その案に反対を唱える者は誰も居なくなった。

 

「―――」

 

 空崎ヒナの放つ余りにもおどろおどろしい神秘の圧力に、気圧されたのだ。

 普段の彼女とは異なる、いや、普段の空崎ヒナも十分以上に畏怖の対象であった。

 しかし今の彼女は明確に異なる、触れた瞬間焼け落ちそうな熱と、鋭さ、危うさを孕んだ敵愾心の様なものに身を任せていた。

 立ち塞がるのならば、全て壊して往く。

 そう云わんばかりの威圧感と重圧。

 無言で自室に戻ったヒナは立て掛けていた愛銃を担ぎ、最早パジャマよりも長く身に纏っていた制服に袖を通した――パリッとした感覚が懐かしい、もう随分と昔の事のように思える。鏡に映った自分は、髪もぼさぼさ、目の隈は普段の数倍濃く、全体的に血色が悪い。

 だが、目だけはギラギラと鈍い光を湛えていた。

 

 風紀委員会の腕章は、身に付けなかった。

 その資格が自分には無いと強く思ったからだ。

 

 ■

 

 単独でのアリウス自治区侵攻――実に無謀な行いである。

 罰を求めていた。

 空崎ヒナという存在が消える為の、体の良い理由を探していた。

 苦しまなければならないと思った、痛みを感じなければと考えた。自分が何もしなかった時間、目の届かぬ場所で戦い続けた彼女達の為にも。

 その果てに、この命が潰えれば良いと。

 だが同時に、それに反する執念の様なモノも腹の奥底で燻っていた。

 きっと、心のどこかで想っていた。

 この命はあの人が、先生が文字通り全てを賭して守った命だ。

 それを乱雑に扱う事など、許されないと。

 だからもし手放すとすれば、『誰かの為でなければならない』と思った。

 アリウスへの単騎突入は、私怨と実利、そして建前を全て飲み込む事の出来る良い選択である様に思えた。

 

「……うん」

 

 大量の弾薬と僅かな食料、ハイドレーションパックに端末、ターニケットに手榴弾、最低限のものだけ背嚢に詰め込んだ。逼迫している風紀委員会の物資を自身が使う訳にはいかないと、大抵は自室のクローゼットから引っ張り出して来た。『何かあるかもしれない』と、几帳面に用意していた過去の自分に少しだけ感謝した。

 

 出立は誰にも告げず、深夜に行った。

 ただ全部終わったら連絡するとだけ書置きを残し、寮を発った。後ろめたさがあった、でも自分が居なくても風紀委員会は大丈夫だと――彼女達の為にも、最低限の掃除は請け負うつもりだった。

 

 ゲヘナ自治区は常に喧騒と共にある。

 銃撃、爆発、怒声、悲鳴――久方振りに目にしたゲヘナは、相も変わらず彼方此方から爆発と銃声が響いている。

 だが、今はその銃口を向ける先が違う。複製が自治区内に侵攻を開始しているのだ。複製は幾ら相手取っても次から次へと湧いて出る、調印式で相手取った連中と同じだ、幽鬼のように掴みどころが無く輪郭がブレる。真面に相手をするのは弾薬の無駄だが、戦力としては然程脅威ではない。

 尤も、空崎ヒナからすればではあるが。

 

 ヒナは道すがら複製と遭遇した時は、徒手格闘や愛銃を振り回し打撃で以て存在を掻き消した。日中は兎も角、深夜の連中は視認し易く良く目立った。極力住民や、他の生徒からは見られない様、姿を隠して動いた。これもまた、ヒナの中に巣食う罪悪感と後ろめたさから来る行動だった。

 

 ヒナの目的は複製の排除ではない、アリウスのゲヘナ自治区侵犯を阻止する事、そしてこの複製の根元を断つ事。

 そのためにはアリウス自治区に踏み込まなければならない。だが、ヒナはアリウス自治区が何処に存在するのかを知らない。

 アコ達が行ったアリウス攻略作戦の詳細、それを掴んでおくべきだったと今更ながらに悔いた。衝動に駆られ、殆ど情報を精査せずに飛び出した事が裏目に出ていた。

 だが、今更戻るという選択も取れない。

 

 アリウス分校、その自治区への道を掴む為に、ヒナは複製ではないアリウスの生徒を見つけては、拷問まがいの尋問を行い始めた。

 ガスマスクを着用した、白い外套を身に纏った髑髏と薔薇の校章。アリウスの装備は実に特徴的で分かり易い。自治区内を徘徊する彼女達を見つけては制圧し、一人一人分けて情報を聞き出した。大抵は裏路地や廃墟同然となった建物、ちょっとした人気のない屋内で尋問に及んだ。

 彼女達は思いのほか頑丈であった、一般的な不良生徒や傭兵と比較して口が堅い。そういう訓練を積んでいるのかもしれないと思った。

 けれど、空崎ヒナにとっては大した問題ではない。

 倫理観をかなぐり捨てて挑めば、大抵の生徒は口を割った。

 

「アリウス分校、自治区への入り方、知っている事を全て吐いて、今直ぐに」

「しっ、知らない、本当に、知らなくて、ま、まって、お願い、待って――……」

 

 自治区へと続く通路はトリニティ自治区、カタコンベ内部にあるとの事であった。しかし、大抵のアリウス生徒は自身の所属する自治区への道順を知らなかった。

 カタコンベはトリニティをして巨大迷宮と呼ばれる程に摩訶不思議な構造をしている。出入口は三百以上、加えて経路は常に変化し当てずっぽうで走破出来る程簡単な道ではない。

 やはり一般生徒を幾ら痛めつけた所で情報は得られない、アリウス側の要職に就いた人物を探すべきだろう。両手の指では数え切れない程の生徒を昏倒させ情報を引き出した後、ヒナはその様に考え――。

 

「な、なんで、ゲヘナの空崎ヒナは、スクワッドが戦闘不能にしたって……」

 

 その名前を、名称を耳にした瞬間。

 ヒナは自分の中にあった箍が弾け飛んだ音を聞いた。

 

「―――」

 

 気付けばヒナはスクワッドの名を口にした生徒を、拳を血まみれにしながら何度も殴りつけ、蹴飛ばし、か細い命乞いを、悲鳴染みた助けを乞う声を、何度も耳にしていた。

 それをヒナは、まるで他人事のように眺めていた。

 拳を振るい苦悶と悲鳴を耳にする度、自分の中に存在するヘドロの様な感情が蠢いた。

 だが可哀想だとは思わなかった。心が一切痛まなかったと云えば嘘になる、けれどそれ以上に鮮烈で明確な感情が罪悪感を塗り潰した。

 痣塗れの顔を覆いながら蹲るアリウス生徒を容赦なく殴りつけた時、想ったのだ。

 

 ――だって、アリウスは私から全部奪ったのに。

 

 結局、自治区へと繋がる情報を手に入れたのは寮を発って二日目の夜の事であった。

 情報を聞き出した後の生徒は、一切の装備を破壊し目立ちやすい路上に纏めて放置した。ゲヘナの生徒が見つければ、適切に処理してくれる事だろう。

 複製達が保護するのであれば、相手の動きを抑制する事にも使える。負傷兵という存在は、常に一定の戦力を食う事をヒナは良く知っていた。

 尤もゲヘナ側が先に発見した場合、ヘイローが破壊される様な結末を彼女達が迎える可能性もあった――しかし、ヒナは可能性を分かっていてその様な措置を取った。

 

 命に対する償いは、何を以て為されるのだろうか。

 その答えを、ヒナは一つしか知らない。

 

 ■

 

 複製は目に見える範囲だけ排除し、ゲヘナ自治区を発ったヒナは、そのまま人知れずトリニティへと侵入し、目途を付けていたカタコンベの入り口へと足を踏み入れた。

 郊外の自治区境界線近く、其処までトリニティの防衛網は敷かれていない。恐らく本校舎近辺や中央区の防衛で手一杯なのだろう。そうでなくともトリニティ自治区は広大である、隅から隅まで守り切る事は難しい。ましてや相手が奇襲染みた方法で出現するならば尚の事。

 故にカタコンベへの侵入自体は、実にすんなりと成功した。

 

 単独での自治区侵犯、普通に考えるのであれば隠密に徹し敵との接触、及び戦闘行為は極力避けるべきである。だがヒナは自重するつもりが一切なかった、正確に云えば――空崎ヒナは、アリウスと共に心中するつもりで足を進めていたのだ。

 

「てっ、敵襲……!?」

「カタコンベ内部に、どうして――ッ!」

「だが、たった一人で何が……!」

 

 ヒナは悠然と真正面から姿を現し、閉じた隔壁は力業で撃ち抜き、立ち塞がる生徒は例外なく全て戦闘不能に追い込んだ。正に鎧袖一触であった、体調は最悪に近しいというのに、何故か異様に力が滾っていた。湧き上がる神秘の密度でさえ、普段とは比べ物にならない程に力強かった。

 

「………」

 

 巨大迷宮の名に相応しいカタコンベの通路を走破した時、ヒナは廃れ、荒廃し、打ち捨てられたアリウス自治区へと辿り着いた。

 その光景を目にした時、少しだけ面食らった。

 其処は自治区と呼ぶには余りにも粗末で、凡そ生徒が活動する様な場所には思えなかったからだ。

 けれど、良く観察してみれば分かる。積まれた物資や微かに残る人の痕跡。罅割れた硝子に蔦が生え揃った廃墟同然の建物でも、奥を覗けば簡素な寝床と背嚢が転がっている。ならば、此処が彼女達の自治区である事は確かである。

 

「居たぞッ! 侵入者だ!」

「本当に、たった一人で――」

「ゲヘナの風紀委員長、スクワッドが始末したんじゃないのか……!?」

 

 この時点で空崎ヒナのアリウス侵攻は広く察知されており、アリウス自治区の防衛戦力と複製が集中的に襲い掛かって来た。

 しかし空崎ヒナを押し留めるには、アリウスの全力を賭して望まねばならない。中途半端な戦力など、文字通り一蹴であった。立ち塞がる数多の生徒を蹴散らし、複製を消滅させ、数多の弾丸に総身を叩かれながらも平然と歩みを進める彼女は低く問いかける。

 

錠前サオリ(スクワッド)は、何処?」

 

 打ちのめしたアリウスの生徒を締め上げ、足蹴にし、銃撃し、アリウスの寂れた道を往きながら彼女は何度も問いかけた。戦闘不能に追い込まれ、息も絶え絶えになったアリウスの生徒達は大体が自治区の中央、廃れた大聖堂の方角を示した。また幾人かの生徒が、「バシリカ」という言葉を口にした。

 ならばきっと、彼女は其処に居るのだろう。

 

 アリウスの深部へと迫る度、ヒナの足は少しずつ力強さを取り戻していった。石畳を踏みつける両足に熱が籠り、能面の如き表情に変化が起こる。

 漸くだと思った。

 後ろ向きな感情に支配されていたヒナの心に、復讐と云う明確な燃料が注がれる。何もかもが億劫で、自責の念に押し潰されそうで、自分なんかは消えてしまえば良いと思いながら、けれど同時に唯一絶対の怨敵であるスクワッドに対し――ヒナは自身でも制御できない憎悪と怒りをぶつけたいと願っていた。

 

 そうだ、彼女達は私から先生を奪った。

 大切な友人を、仲間を奪った。

 何て事の無い日常を奪った。

 唯一無二の、かけがえのないものを奪った。

 ならば報いを受けるべきだ。

 彼女達もまた、奪われるべきなのだ。

 与えられた痛みと苦しみ(奪われた命)は――。

 

 同じ、痛みと苦しみで(唯一無二の命で)以て支払われるべきなのだ。

 

「―――」

 

 そうして、空崎ヒナはバシリカに辿り着いた。

 幾つもの戦いを制し、生傷と痣に塗れ、けれど瞳だけはギラギラと輝かせて。愛銃を両手で力強く握り締めながら、半ば崩れ落ちた大聖堂の地下道を通り――バシリカの最奥、至聖所へと足を踏み入れた。

 

 其処で、求めていた怨敵を見つけたのだ。

 

「――……は」

 

 漸く果たせると思った。

 復讐を、仲間達の無念を、自身の弱さで失ったあらゆるものの清算を。

 それを想い張り付けた獰猛な、それでいて狂気的な笑みは、確かに至聖所に存在した錠前サオリをひと目見た時、徐々に、だが確実に力なく消えて行った。

 

 至聖所はその名の通り大聖堂の如き荘厳な空気を帯び、罅割れ砕け、欠けたステンドグラスが星々の明かりを受け床に色彩を落としていた。煌びやかで、神聖で、それは崩落し瓦礫がそこら中に撒き散らされていても変わらない。

 ただ一つ、その祭壇奥に鎮座する奇妙な十字架さえ存在しなければ――ヒナもまた、その美しさに目を奪われていたかもしれない。

 

 

 錠前サオリが、磔刑に処されていた。

 

 

 両掌を十字架に打ち付けられ、赤い茨の様な何かが彼女の全身に絡みつき、皮膚を穿っていた。彼女のヘイローは感じられず、磔にされた恰好のまま果てている。力なく垂れ落ち、微動だにしない彼女を目視した時――空崎ヒナは愕然とした表情のまま、一歩、また一歩と十字架に近付いて行く。

 

「錠前、サオリ……?」

「よもやこの至聖所に至る初めての招かれざる客人が、あの者(聖者)ではなく――子ども()とは」

 

 存外、分からないものですね。

 

 そんな風に此方を嘲る声がした、冷たい気配を放つ――艶やかな声だった。

 ぎこちなく視線を動かせば、散乱した瓦礫の影に混じってコツコツと音を立てて現れる影がある。純白のドレスを身に纏い、血の如く赤い肌を晒す何者か。彼女は地面に触れてしまいそうな程長く伸びた髪を靡かせながら、空崎ヒナへと歩み寄る。手にした扇子を勢いよく払い、その口元を覆い隠した。

 

「報告は受けています、確かゲヘナの風紀委員長でしたか? スクワッドが既に始末したと聞き及んでいましたが、どうやら正確な報告ではなかった様ですね……まぁ今更、落胆などしませんが」

「―――」

「……あぁ、コレが気になりますか?」

 

 彼女は泰然とした姿勢を崩さぬままヒナの前に姿を晒し、ステンドグラスの色彩を浴びたまま磔にされた錠前サオリを仰ぎ見る。

 ヒナは目の前の彼女、収集した情報から恐らくアリウスのトップ――マダムと呼ばれる存在である事を察知しながら、しかし彼女の言葉に耳を傾けるだけの余裕が無かった。

 分厚い硝子越しに他人事を眺める様な、そんな心地だった。

 ただ、心臓の鼓動だけが嫌に高く響いていた。

 

「本来であれば、この座はロイヤルブラッドの為に拵えたものだったのですが、スクワッド――錠前サオリは失敗しました、ですからまぁ、これは一種の罰であり、私にとっては代替手段、補填の様なモノです」

 

 全く、何の為に護衛させていたのか、裏切り者などに後れを取る等と。

 

 マダムはそう云って、忌々しそうに首を振った。仔細は分からなかった、けれど錠前サオリが何らかの咎を受け、この様な形となった事だけは漠然と理解した。

 理解は、した。

 だが、理解したから納得出来る筈もなし。

 ミシリと、ヒナの中で何かが音を立てていた。それは何だろうか、悲しみか、失望か、漸く己の全てをぶつけられる存在に辿り着いたというのに、それを透かされた事に対する怒りか。

 多分、全部だ。

 けれど、それ以上に。

 

「ですが既に聖者は消え、代替者とはいえ儀式は成功が確約されている、聊か順序と成果は異なりますが宜しいでしょう、一度為してしまえば新たな芽吹きを待ち、再び刈り取れば済む話――最早アリウスという地に固執する必要さえない」

「錠前サオリ、他ならぬ貴女が――」

 

 マダムが朗々と、何かを謳っていた。

 けれどヒナにとっては全てが意識の外にあった。彼女の視線はただ、真っ直ぐに錠前サオリだけを捉えていた。血を流し、磔刑に処され、苦しみと痛みの只中に果てた彼女の姿を――。

 そうだ、痛みがあった筈だ、苦しみがあった筈だ、ヘイローが破壊されるとはそういう事だ。

 だというのに、サオリは。

 

 口元に、安堵の微笑みさえ湛えていたのだ。

 

「どうして、そんな、満足そうな顔で……」

 

 貴女は苦しんだのだろう。

 苦しんで果てたのだろう。

 貴女が苦痛を与えた分、貴女も苦痛に喘がなければならない。

 当然の事だ、当然の事だというのに、どうして。

 そんな、満足げな最期を。

 

「再誕祝いです、事を為した暁には供物として、手始めに貴女を手折るとしましょう」

 

 マダムが、その背に巨大な光輪を背負った。至聖所に極彩色の光が満ち、暮明と星明りを拭い去り異様な重圧が肌を刺した。

 それを横目に、しかしヒナは静かに両腕を垂らしたまま俯いた。燻っていた火種が、あらゆる感情の行きつく果てが失われ、ヒナの全身を何か表現する事の出来ない、冷徹で、冷酷で、悍ましい何かが覆っていく様な感覚だった。

 あれ程までに煌めいていた瞳から光が失われて行く。後ろ向きで破滅的な感情であったとしても、空崎ヒナという存在を突き動かしていたあらゆる熱が消え去る。

 それをマダムは、諦観と受け取った。異形へと変貌する只中で、彼女は矮小な空崎ヒナの肉体を覆う様にその両手を広げた。

 

 空崎ヒナは想う。

 たった今、分かった。

 私達の生きる世界は、冷たくて、痛くて、苦しいだけだ。

 この世界は、ずっとそう在ったのだ。

 

 けれど。

 もし、そうならば。

 世界が冷たくて、痛くて、苦しいだけならば。

 そんな世界に生まれ落ちた私達は。

 一体、何の為に――。

 

「――あぁ」

 

 伸びる異形の影に覆われながらヒナは自身の掌にこびり付いた血を見下ろした。擦り剥け、痣を作り、幾つもの生傷を拵えた小さな掌。自分の血と他者の血が混じり合ったそれは、これまで彼女が辿って来た道そのものだ。

 痛みと、苦しみと、罪悪の証。

 それを見てヒナは確信した。

 

 そうか。

 私達は――。

 

 ■

 

 

 ――苦しむ為に、生まれて来たんだ。

 

 

 ■

 

 気付いた時、既に何もかもが終わっていた(変わっていた)

 

 崩落した地下通路、荒れ果てたバシリカ、遥か頭上から差し込む薄らとした月明り――至聖所には巨大な穴が穿たれ、罅割れ抉れた地面には一面に赤が咲いている。

 マダムと呼ばれた存在は、文字通りの肉塊と成り果てた。巨大な怪物とも表現出来る悍ましい存在へと変貌した彼女は、しかし本来の儀式によって得られる全盛の姿からは程遠く。

 空崎ヒナというイレギュラーを前に、儚くも散った。

 地面にへばり付いた亡骸を見つめながらヒナは空いた大穴より空を仰ぐ、曇天に覆われ微かに降り注ぐ小雨、その隙間から覗く月光を浴びて。

 

 何だか――妙な気分だった。

 月明かりに手を伸ばした時、擦り切れ、傷に塗れていた筈の指先が小奇麗に整えられているのを見て、ヒナは漸く自身の【変貌】を悟った。

 身に着けていた風紀委員会の外套はそのままに、けれど腕に縫い付けられた腕章。着慣れた制服は見覚えのないドレスに、パサついた髪は伸びきって視界を遮る。

 少しだけ、視線が高くなっただろうか。けれど、そんな事は一切気にならなかった。ただ内側から湧き上がる奇妙な破壊衝動と際限のない力に戸惑った。

 一つ確かな事はこの瞬間、自分の知る空崎ヒナは既にどこにも存在しないという事――それを薄らと悟った。

 

「………」

 

 血だまりを踏みつけ、ヒナは至聖所を後にした。戦闘の余波で、サオリの遺骸は降り積もった瓦礫の下敷きになっていた。それを見つけようとは思わなかった、ただ一刻も早くこの陰鬱で陰惨な場所から立ち去りたいと思った。

 翼を広げ、頭上の大穴目掛けて跳躍する。地面を踏み砕き、風を切り、雨雲に覆われた夜空目掛けて思い切り飛び出した。

 

「スバル、せん、ぱ――……」

 

 至聖所から地上へと一息に飛び出すと、大勢の生徒達が地面に這い蹲って倒れている光景が目に入った。マダムとの戦闘、空崎ヒナの自重を一切排した全力戦闘によって自治区の中央区画、彼方此方が吹き飛んだらしい。

 崩れ落ちた廃墟の下敷きになるもの、赤熱した極光に焼かれ爛れた皮膚をそのままに蹲る者、神秘砲の衝撃をもろに受け意識を飛ばしたもの。それらを見渡しながら、ヒナは静かに肺を使う。

 

「スバル、せんぱ……おき、起きて、下さい――…」

 

 直ぐ傍に、黒ずみ、全身が焼けただれた生徒に這い寄る影があった。何度も名を呼びながら、自身の流れ出る血さえ顧みず、生徒の名を口ずさんでいた。小柄で、四肢の細い生徒だった。血の滲んだガーゼと包帯に身を包んだまま、先輩と呼ぶ影の傍で蹲っていた。

 ヒナはそんな彼女達の姿を一瞥し、静かに瞳を閉じた。

 

 スクワッドのリーダー、錠前サオリは消えた。

 アリウスの支配者、マダムは打倒された。

 自治区の主要戦力さえ、徹底的に排除された。

 先生の、アコの、チナツの、イオリの、仲間達の仇は討った。

 過程に納得できずとも、対象は既にこの世から消えてしまったのだ――ならば、そういう事になるだろう。

 

 これで終わった。

 全部、終わった筈だ。

 

 ヒナは暫し曇天を見上げたまま小雨に打たれ、それからふと端末で伝えなければと思った。風紀委員会の皆に、ゲヘナにアリウスの壊滅を知らせなければならない。これで複製の出現も、自治区の侵犯も止まる筈だ。混沌に呑まれた状況も、これで幾分かマシになる筈だと。

 億劫そうに手を伸ばしたヒナは、外套のポケットから液晶の罅割れた端末を取り出す。短いメッセージだけ残そうとして、けれど指先から端末が音もなく滑り落ちた。

 何だか、力が入らなかった。

 軽い音を立てて滑っていく端末。降り注ぐ雨と月光がヒナの輪郭を淡く発光させ、液晶に月明りを反射させた。

 それを見てヒナは、不意にどうしようもない寂寥感を覚えた。

 

「……先生に、会いたい」

 

 ぽつりと口をついた言葉は、我ながら何とも愚かしいものだった。

 だが空っぽになった空崎ヒナにとって、合理的な思考など望むべくもない。

 気付けば一筋の雫が頬を伝っていた。

 零れ落ちた端末を拾い上げる事もせず、ヒナはふらふらと幽鬼の様な足取りで踵を返した。微かに聞こえる呻き声、助けを乞う声、それら一切を顧みる事無く荒れ果てたアリウスの道を往く。

 引き摺る愛銃の金属音が、妙に耳に残った。

 

 ■

 

 ただ、先生を求めてヒナは長時間歩き続けた。

 調印式後、先生の身柄は正義実現委員会が確保した事を知っている。だからヒナはカタコンベを脱した後、その足で真っ直ぐトリニティの本校舎へと向かった。

 ティーパーティーも、シスターフッドも、救護騎士団も、正義実現委員会も、全て本拠地は本校舎の存在する中央区画にある。

 其処に辿り着く事が出来れば、きっと会える筈だと思ったのだ。

 

「………」

 

 何だか、意識が朦朧としていた。

 アリウスで降っていた小雨は、トリニティの中央へと足を進める度に勢いを増している様に思えた。ぽつぽつと肌を優しく叩く程度の雨は、軈てバケツをひっくり返したかのような豪雨へと変わる。

 ばしゃり、ばしゃりと雨音と足音が響く、もう隠れて進む事さえ億劫だった。大通りの中心を、緩慢な足取りで進み続けた。

 誰かに何かを呼びかけられた様な気もする、銃弾を浴びせられた様な気さえ、けれどそれら一切にヒナは反応を示さなかった。

 ただ、進む道に邪魔だと思った時だけ愛銃を振るった。

 それだけで十分だった、他一切の意識は存在しなかった。

 

 ただ先生にもう一度、会う為に――それだけを思って、足を動かし続けた。

 

「――此処から先は、進ませないよ」

 

 そんな空崎ヒナの前に、立ち塞がる影があった。

 

「―――」

「この道を、貴女は通れない」

 

 ヒナが曖昧で、朧げな意識を取り戻したのは、その声を認識したからだ。

 薄暗いトリニティの街並み、圧し折れた街灯が微かな光量で点滅を繰り返し、辛うじて破損を免れた数本の街灯、電光掲示板が夜の闇を照らす大通り。伸びた長い影、弾痕が刻まれ爆炎に炙られた外壁、黒ずんだ其処にけれどハッキリと映り込む人影に、ヒナは顔を上げ視線を向ける。

 

「……やってくれたね、本当は私がアリウスを片付ける予定だったのに」

 

 声には僅かな苛立ちと、同時に遣る瀬無い感情が込められていた。

 土砂降りの雨が視界を遮る大通り、十数メートル先に立つ人影、纏ったケープを靡かせ純白の翼を震わせる彼女は俯いたまま、けれど傘も差さずに佇む。

 雨水で張り付いた前髪を指先で払い、人影は傍に差し込む街灯の明かり、その光の元へと足を進めた。

 

「戻りなよ、ゲヘナの風紀委員長」

「――ぁ」

 

 街灯に照らされたその顔を、姿を認識した時。

 ヒナは小さく声を上げた。

 

 ――聖園ミカ。

 

 ティーパーティー、パテル分派首長。

 現トリニティ総合学園、代理ホスト。

 つい先日まで、クーデターの首謀者として軟禁状態にあった彼女は、たった一人で空崎ヒナの前に立ち塞がっていた。

 月光と街頭に照らされた両者、ずぶ濡れの衣服を身体に張り付かせたまま、暫し沈黙を守る。

 ヒナは提げていた愛銃を、ゆっくりと握り直した。

 ミカもまた、片手に提げた銃口を微かに持ち上げる。

 雨音が、いつまでも響いていた。

 

「他の皆は下がらせたよ、此処には私達二人だけ――貴女とやり合うなら、足手纏いになるだけだから」

「………」

「大体、此処に何しに来たの? アリウスを潰したついでに、トリニティまでぶち壊しに来た?」

「……違う」

 

 緩く、首を振った。

 激しい雨音が続いているのに、随分静かだと思った。

 暗がりはどこまでも広がり、世界に彼女と自分しか存在しないかのような錯覚を覚える。何故だか嫌な気分ではなかった、目の前の彼女に親近感さえ覚えた。考え、ヒナは自らの思考に顔を顰めた。何故、そんな風に考えたのだろうと、ヒナ自身にも分からなかった。

 

「―――」

 

 けれど目の前の、聖園ミカの瞳を捉えた時、其処に渦巻く仄暗い感情、どうしようもない自責の念と罪悪感、破滅のみを救いとする危険な光を帯びた瞳に、ヒナは無意識の内に自身を重ねたのだ。

 ヒナはそう感じてしまった自分自身を、何よりも恥じた。雨水を吸い張り付いた前髪をそのままに、彼女は深く俯く。

 

「先生に」

 

 雨音に紛れ、ぽつりと声を発した。

 辛うじて聞き取れるかどうか、その程度の力ない声だった。

 握り締めた指先が、ドレスの裾を皺くちゃにする。

 

「先生に、会いに来たの」

「―――」

 

 その言葉を。

 今更、どんな顔をして宣うのだろうか。

 

「………」

 

 どんな罵詈雑言が飛んで来ても、今のヒナに反駁するだけの力も、余裕も存在しなかった。全てを受け入れ、それでも進むつもりだった。

 一瞬だけ遠のいた、静寂だと感じていた世界が一斉に雨音に支配される。

 総身を打つ雨の勢いが、冷たさが、自身の中に存在するあらゆる熱を奪い去っていく様だった。

 

 二人の間に、長い沈黙が降りた。

 この瞬間、聖園ミカは何を考え、何を想ったのだろうか。

 ヒナには分からなかった。

 分からなかったが、彼女は雨に打たれたまま二度三度唇を震わせ、それから云った。

 

「……トリニティ(此処)には、もう居ない」

「―――」

「こっちも一枚岩じゃないから」

 

 返答は素っ気なく、努めて感情を押し殺したものだった。

 現在のトリニティ内部の情勢は実に複雑である。学内でも主要な勢力であるサンクトゥス分派、フィリウス分派、その両陣営のトップは未だ目覚めず、ティーパーティーは代理ホスト権を持つミカが舵取りを行っているものの、潜在的な反乱分子は幾つも燻っている。そもそもからして、緊急事態とは云えクーデターを企んだ生徒を担ぎ上げようとする生徒など、純粋な実力を信仰するパテル以外に早々存在しない。

 それが表面化するのは、遠い話ではない筈だと。

 

「ミレニアムに行ってみなよ」

 

 不意に、ミカはヒナの後方を指差した。

 ヒナの顔がぎこちなく持ち上がる。

 

 アリウスが消えたとなれば、その矛先はゲヘナに向かうか、或いは――再びトリニティ内部での対立が激化するか、そのどちらかだ。

 辛うじて機能していた救護騎士団はそんなトリニティの内情を憂いて、先生の身柄を秘密裏にミレニアムへと引き渡していた。

 或いは、()の学園の技術力に期待を抱いていたのかもしれない。救護騎士団の意図を全て察する事は出来ない、だが今のトリニティに置いておくことは出来ないと判断したのは確かであった。

 今やトリニティは学園規模どころか、派閥単位での行動にすら支障をきたしている。

 振り上げた拳は降ろす場所を失い、次に殴りつける対象を探しているのだ。

 

 現状、空崎ヒナという存在の自治区侵犯は――起爆剤以外の何物でもなかった。

 

此処(トリニティ)から消えるなら、これ以上は何も云わない……さっさと出て行って」

 

 踵を返し、影を帯びたままミカは吐き捨てる様に云った。それが彼女なりの助言である事は明らかだった。

 

「―――……うん」

 

 ヒナは小さく頷き、俯いたまま力なく声を漏らした。視線の先にあるミカの小さな背中を見つめ、それからぎこちなく頭を下げる。

 

「ごめんなさい……それと、ありがとう」

「………」

 

 吐き出した謝罪と感謝は、果たして耳に届いたのだろうか。ヒナは再び力ない足取りで踵を返し、暮明の中へと歩き出した。ミカは暫しその場に留まった後――雨音に紛れ、本校舎へと戻る帰路へと一歩を踏み出す。

 恐らく、もう二度と会う事は無いだろう。

 

「お礼を云われる理由なんて無い」

 

 唇を噛み締めながら絞り出した声は、ミカ自身のものとは思えぬほどに酷い声だった。

 

 この物語(世界)の結末は決まっている。

 これは、搭に幽閉されたお姫様が運命の人にセレナーデを届ける物語ではなかった。

 そんな事は分かっていたのに、夢を見てしまった。

 

 恐らく今後、トリニティは荒れに荒れるだろう。

 ゲヘナを相手に大規模な戦争へと発展するにしても、内部での分派間対立が激化するにしても、どちらにせよ流血は避けられず、あの人が望んだ大団円など迎えられる筈もない。政戦の「せ」の字も知らぬ己では各派閥の調停も交渉も出来ず、浦和ハナコの協力があったとしても事が起きるのは時間の問題であった。

 王子様は消え、残されたお姫様は両手を血に染める道を往く。それはあの人が一番望まなかった筈の未来だったというのに。

 けれど、それこそが己への罰であるとミカは自身に云い聞かせた。

 

「……あぁ」

 

 そう云えば、あの子(サオリ)が云っていたと思い返す。

 ミカは土砂降りの雨を浴びたまま、静かに月光を仰ぎ見た。

 

 ――夢は、甘いものだって。

 

 ■

 

 空崎ヒナはミカの言葉通り、ミレニアムへと足を進めた。

 エデン条約から続く混乱は、ミレニアムでも同様に影響があったらしい。

 だがそれは、ヒナの想定していた方向とはやや違った形で表れていた。

 

 ミレニアム自治区に対し、正体不明の自律兵器が次々と押し寄せていたのだ。

 数日に渡る道中で、只管に無心で進み続けるヒナの前にも幾度となく件の自律兵器は現れた。球体と無数のケーブルで構成されたような、見た事のない類の自律兵器である。

 

 しかしそれは、不思議な事に空崎ヒナに対し敵意を向ける事をしなかった。

 まるで遠巻きに眺める様に――或いは、彼女の進む道を切り開くかのように振る舞っている様にさえ見えた。

 気のせいだろうか? だが、ヒナにとっては些事。どうでも良い事であった。

 寧ろ、周囲に生徒や市民の影がちらつかない分、まだマシであった。

 

 ドローンや自律兵器同士が撃ち合い、その戦火に紛れてミレニアムの中央区画へと進んだヒナは、しかし其処でも空振りに終わった。

 正確に云えば、先生の身柄は確かにミレニアムが預かっていた。

 しかし、ミレニアムの現状を鑑みて、自治区中枢ではなく遥か郊外――『要塞都市エリドゥ』という場所へと移送していたのだ。

 ミレニアムの生徒会長たる、ビッグシスターの独断であった。彼女はこういった事態に備えていた様だった。

 結局ヒナは、秘密裏にセミナーより情報を受ける形となった。当然、すんなりと事が進む筈もなし、だがこの時のヒナに意識らしい意識は無かった。ミレニアムとしても今更ゲヘナと事を構える余力はなく――紆余曲折の果て、ヒナは手にした位置情報を頼りにエリドゥを目指して発つ事になった。

 

 要塞都市エリドゥは高度な防衛システムを備え、大規模な学園の自治区中枢に負けず劣らずな戦力を揃えている。否、下手をすればそれ以上か――世界の破滅に備えた其処は、要塞都市の名に違わぬ。大量の自律兵器、奇妙なデザインながら圧倒的な戦力を誇る専用機、変幻自在の防衛装置、可変式の都市構造。

 

 それら全てを活用し、迫りくる自律兵器の大群を跳ね退け続ける彼の都市――その場所で漸く、ヒナは先生と再会した。

 

 先生との再会は、薄暗い暗室での事であった。

 エリドゥ中枢、厳重に隔離された地下室、まるで地の底の如く冷たくて、静かで、光も音も吸い込まれるような無機質な安置所。階段を一つ、また一つと降り、ヒナは外套を靡かせながら暗闇の中を進む。

 

「―――」

 

 視界の先に、差し込む光があった。

 中央に備えられた武骨な寝台、頭上には点灯する照明が一つだけ。全て彼の為に拵えたものなのだろう、病院に居た頃とは違う、無数のケーブルも計器も存在しない、先生はただ無地の貫頭衣を身に纏ったまま横たわっていた。

 あれだけ強固にこびり付いてた赤は綺麗に拭われ、表面の傷も大方塞がれている。少なくともヒナが見た限り、先生の姿は実に小奇麗なものだった。顔は安らかで、傍から見ればただ眠っている様にしか見えない。

 けれど、それは幻想だ。

 

「先生」

 

 愛銃を引き摺り、金切り音を立てながら先生の元へと足を進めた。室内に硬質的な不協和音が響いていた。

 先生と、乾いた唇でもう一度声を掛けた。

 返答は無かった。

 静謐な暗室に、ヒナの声が無情にも反響する。

 分かっていた事だった。頭でも、心でも、理解していた筈なのだ。

 彼は答えない、と。

 

 だって、もう死体だ。

 

「先生」

 

 雨水を滴らせたまま、緩慢な足取りで寝台の傍へと近付き、三度呼びかけた。

 けれど変わらず瞼は開かない、穏やかに、朗らかに、いつものように彼が答えてくれる事は無い。蒼褪め、綺麗に手入れされた唇は僅かも動かず、吐息は零れない。

 ただ、眠っているかのように静寂を守る――それが今の先生だ。

 意味が無い事だと分かっている。呼び掛けても、怒声を浴びせても、泣き縋っても、何一つ返って来る事はない。

 それでも堪らず名を呼び続けたのは、未だ幻想に縋っているからだろうか。

 ずっと、心の底では認めたくなかったのだ。全てを失った事を、一番大切だったものが手の中から零れ落ちてしまった事を。多くの大切なものを、奪われた現実を。

 

 今の今まで目を背け、直視を免れていた今が、一気に去来したような心地だった。

 

 視界に映る血の気の失せた土気色の肌も、呼吸の無い胸元も、閉じられたまま開く事ない瞼でさえ。その全てが空崎ヒナの生きるこの世界を、現実を表している。

 頭上から降り注ぐ一本の光源だけが、先生とヒナを静かに照らしていた。

 

「―――……」

 

 長い、長い沈黙があった。

 ただ、痛い程の静寂だけが二人の間に流れていた。

 ヒナは濁り、淀み、煌めきを失った瞳で以て先生を見つめ続ける。罅割れた唇に微かな痛みがあった。据えた火薬の香りと、血の匂いが鼻腔を擽る。まるで世界に二人だけになってしまったような錯覚。

 だが、それもあながち間違いという訳でもない。

 多くものを、人を犠牲に、空崎ヒナはこの場に立っていた。

 

「……もう」

 

 横たわる彼を見下ろしながら、ヒナは静かに拳を握り締めた。血に塗れ、赤を滴らせる指先が軋む。絞り出した声は、無様な程に震えていた。

 

 限界だった。

 

「もう、全部」

 

 涙は出ない、そんなものはもう既に枯れ果てる程流し続けた。そして今、此処で涙を流す事に意味はない。底の底まで、全てを出し尽くした感情の果て――その時人は、こんな気持ちになるのだと空崎ヒナは初めて知った。

 改めて目にした先生の姿に、胸の奥へと広がるのは、悲しみでも怒りでもない。

 底の抜けた空虚。

 

 それを人は、絶望と呼ぶ。

 

「壊しちゃおっか」

 

 歪に捻じ曲がった口元、細められた瞳、痛々しい嗤いで以て彼女は嘯く。

 あまりに酷い怪我を負うと、人は痛みを感じなくなる。 

 ならば、悲しみもそうなのだろうか。

 

「……おやすみなさい」

 

 もし、私達が苦しむ為に生まれて来たのなら。

 世界がずっと、冷たくて、痛くて、苦しいだけならば。

 

「――先生」

 

 その幕を引く事こそが、唯一の――。

 

 決して目覚めぬ先生に対し、ヒナは静かに別れを告げた。

 これ以上此処に留まると、自分の中にある何かが、変わってしまった何かが鈍ってしまいそうだったから。

 だからきっと、もう振り返る事はない。

 愛銃を担ぎ直し、踵を返したヒナは頭上より降り注ぐ光に背を向ける。照らされた煌めきを避ける様に、暮明へと足を進めた。

 瞼を閉じ、視界を暗闇に落とす。優しいそれは、少しずつヒナを包み込んで行った。

 

 ――あぁ、届かなかったのか。

 

 背後で、微かに音が聞こえた。

 寝台に横たわった先生の骸、綺麗に拭われた指先の傍から。

 ヒナの靴音に混じったそれは、けれど確かに彼女の耳に届いた。

 

「……?」

 

 ヒナの足が止まる。自分と先生しか存在しない空間、其処に響いた確かな異音。コツコツと規則正しく鳴り響いていた靴音が止まり、ヒナは息を潜める。

 

「今、何か……」

 

 音がした。

 瞬間、続く衣擦れの音、金属の擦れる音。何かが床を踏み締める様な音。それらが連続して響き、ヒナは思わず肩を弾ませた。

 それはヒナの引き摺る愛銃から発せられたものではない。もっと異質な、悍ましい気配を放つ何かで。

 振り返らないと決めた筈なのに、ヒナはまるで導かれるようにして背後を振り向く。

 

「―――……せ」

 

 瞬間視界に飛び込んで来た光景に、彼女は目を見開きながら息を呑んだ。

 

 ――でも、それでも。

 

 巨大な一つの影が、ヒナの足元に伸びていた。

 たった一本の光源を背に、先程まで存在していた先生の代わりに――いつの間にか佇む異形の怪物。

 錆び付き、冷たい光沢を放つ鉄仮面が光を反射し、鈍く煌めく。擦り切れ、乱雑に千切れた衣の裾が微かに揺れていた。

 ヒナは愕然と、自身の前に現れた異形を見上げていた。そんな筈はないのに、あり得ない事の筈なのに。

 空崎ヒナは、その名前を呟いた。

 

 俯き、膝を突いた異形――色彩の嚮導者(先生)が顔を上げる。

 

「……せん、せい?」

 

 それがどんな方法でも。

 どれ程の代償を支払う事になっても。

 どんな形であったとしても。

 

 ■

 

 

 罪悪(責任)は、私が背負うからね。

 

 

 ■

 

【―――】

 

 火の爆ぜる音、瓦礫が崩れ落ちる音に混じって、金属の擦れる音が耳に届く。

 爆炎と暴風の中、プレナパテスが遂に膝を折った音だった。

 

 欠けた指先で床を捉え、二メートルを超える巨躯が深く沈み込む。罅割れた床に全身から血が滴り、血だまりが緋色の炎を反射していた。砕けた仮面と肩の外装が破片を零し、パラパラと散らばる。膝を突いた分、背を丸め辛うじて立ち続けている先生と目線が合った。

 

「………」

 

 鉄仮面が剥がれ、薄らとした暗闇の向こう側から覗く、継ぎ接ぎと罅割れに犯された皮膚。

 引き攣る瞼越しに、空を想起させる瞳が煌めく。

 鏡写しの様な瞳が、暫し互いを見つめていた。

 

 ――きっと、その瞳でずっと見守って来たのだろう、彼女(生徒)の事を。

 

 語らずとも分かる、触れずとも分かる。

 私達は、心底同じなのだ。 

 どんな姿であっても、どれ程の代償を捧げようとも、ただ寄り添うべき子ども達の為にあらゆる困難を、苦痛を、悲劇を前に諦める事をしない。

 守りたいと願った、救いたいと願った、助けたいと願った。

 

 ――それだけを胸に、残り火となって尚も抗い続けたのが彼だった。

 

 その姿は愚かだろうか。

 無様だろうか。

 だが、その行いこそが私達をこの場所に導いた。

 先生としての信念が、大人としての意地が――立ち塞がるあらゆる困難と苦痛に勝り、結実を迎えたのだ。

 そこにあるのは、混じり気の無い純粋な願いだけである。

 たった一つ、ただの一つ、全てを擲ってでも手放さなかった願い。

 

【せい、と――……】

 

 掠れ、罅割れ、酷い声が耳に届いた。

 何年も、何十年も、声を発していなかった人間が、久方振りに絞り出したような声だった。

 プレナパテスの指先が、震えながら何かを取り出す所作を見せる。虚空の中で淡い光を灯し、微かな暖かさと共に顕現するソレ。

 それはボロボロになった、彼の切り札。

 

 ――擦り切れた、大人のカード。

 

 罅割れ、焦げ付き、元の色は何処にも無く、毀れてこそいないものの内包された力は既に底を突きかけている。ほんの少し力を込めて握り締めれば、直ぐにも砕けて霧散してしまう程度の力しか残されていない。

 それ程までに草臥れた大人のカードは、プレナパテスの器の限界をも示している。彼はそれを手に取り、夥しい赤を垂らしながら身を乗り出す。

 

 奇跡は既に望めず、この身では辿り着けなかった。

 救えず、守れず、助けられなかった数多の生徒達。

 それを想い、プレナパテスは全身を大きく震わせ、必死に手を伸ばした。

 自身の大人のカード(すべて)を差し出し、彼は懸命に声を絞り出す。

 

【生徒、達……を――」

 

 煌々と照りつける炎の中、一瞬プレナパテスの輪郭が朧げに揺らいだ気がした。纏う薄汚れた衣は純白の外套に、包帯に包まれた全身は人らしい肌に、鉄仮面に覆われた素顔は見覚えのあるものに。

 巻き付けた青の腕章が炎に照らされ、縁を鈍く光らせる。

 

 夜に覆われた水面の上、沈んだ教室の片隅で、瓜二つの顔が一瞬、ほんの一瞬互いを捉えた。

 

「――よろしく、お願いします」

 

 プレナパテス(異なる世界の先生)は膝を突いたまま深く、深く頭を下げた。

 

 爆炎と強風が、二人の間を凄まじい勢いで駆け抜ける。

 緋色の炎が網膜を焼いた時、静謐な教室は何処にも存在せず、目前には既に満身創痍のプレナパテスが深々と首を垂れ、大人のカードを差し出す姿がある。

 降り注ぐ火の粉を全身に被りながら、先生は暫しの間沈黙を守った。抱えたシッテムの箱から、アロナの息を呑む気配が伝わって来る。感傷に浸る時間は、余裕は存在しない。けれど、それでも容易く口を開く事は出来なかった。

 プレナパテスの紡いだ言葉に、絞り出した声に、託した願いに。

 一体どれ程の想いが宿っているのだろうか。

 

 ――(先生)だけは、知っている。

 

「私は」

 

 熱気を肺に詰め込み、声を絞り出した。

 最早、一音発するだけでも臓物を吐き出しそうだった。だがあらゆる感情を、悪心を、腹の中に押し戻した。口の端から赤を滴らせたまま、先生はその血で唇を湿らせる。

 

「私は、欲張りだから――」

 

 それは決して自嘲ではない。

 先生と云う存在の、確かな本質の一つ。

 ずっと、あの日見た夢を捨てられずに居る。

 それを欲深いと云わず何と云う。

 

 けれど己は、それを悪だとは思わない。

 思いたくない。

 そうでなければ、きっと――この場所に辿り着く事さえ叶わなかった。

 あの日夢見た理想こそ(捨てられなかった願いこそ)が、私達を此処に導いたのだ。

 

「彼女が、彼女達が寄り添って欲しいのは」

 

 胸元を強く握り締め、口ずさむ言葉は先生にとって様々な意味を持つ。

 己は同じような道筋を辿って来た、けれど同時に異なる世界で異なる結末を知っている。何度も、何度も何度も何度も繰り返し――だからこそ、今日まで胸の中に秘めて来たものがあった。

 

「きっと、この(今の)私じゃないと思うから」

 

 頷き、先生は静かに差し出されたプレナパテスの手を取った。

 互いに血に塗れた指先、それが静かに触れ合う。包帯越しに、最早感じる事の出来ない熱が伝わって来る気がした。最早器は熱を生まず、けれど胸に秘めた火種は今なお燻っている。

 

 私達は同じだ。

 同じ信念を持ち、同じ決意を抱き、同じ苦痛を味わって、この世界に辿り着いた。

 大筋が同じ世界で、同じ顔で、同じ内面で、同じ背景を持っていて。

 けれど、そんな世界であっても、同質の存在であっても――あらゆる世界に於いて生徒達と辿って来た道や紡いで来た絆は、きっと一つ一つが異なっていて。

 

 ――だからこそ、それは貴いもので。

 

あなた(先生)じゃなきゃ、駄目なんです」

「――………」

 

 (先生)は、その道程を否定したくないと思ったのだ。

 

 それだけは、否定しちゃいけないと感じたのだ。

 自分達の生きる世界、今この瞬間、目の前に居る生徒(子ども)達を通して、過去(嘗ての世界)を見る事は――きっと、いつか断ち切らねばならない事だから。

 それがどれだけ難しく、耐えがたく。

 己の罪悪に押し潰されそうになったとしても。

 

「――私達の強さは、諦めない事」

 

 そうですよね、と。

 先生はプレナパテスの掌を握ったまま、不格好に笑って云った。引き攣った口の端、唇から垂れ落ちる鮮烈な赤に、深々と下がっていたプレナパテスの顔がゆっくりと持ち上がる。

 大人だってやせ我慢をする。

 ただそれを、子ども達に見せないだけだ。

 

「だからきっと、次は」

 

 私達はきっと、愚直にしか進めない。

 だが――愚直ながらに進む事は出来る。

 

(生徒達)を」

 

 先生の浮かべた微笑みが、プレナパテスの瞳に反射した。多弁は要しない、同じ存在だからこそ確かに通じるものがある。熱気を帯びた空気を吸い込み、先生は真っ直ぐ自分自身を見つめた。

 

私達(あなた)自身の手で」

 

 自分自身さえ含めた、本当の意味で。

 幸福な、屈託なく笑い合える未来を――ハッピーエンド(大団円)を。

 今度こそ、あなた()自身で。

 

「――笑顔にしてあげて下さい」

 

 するりと、先生の指先がプレナパテスから離れた。

 

「……ッ!」

 

 瞬間、先生の掌に眩い光を放つ大人のカードが顕現する。

 四隅が砕け、僅かずつ崩れていく大人のカードは、しかし嘗てない程の極光と力を帯び、ナラム・シンの玉座と外界の暗がりを力強く照らした。

 残存する力、内包した光すべてを吐き出さんと煌めくそれは、爆炎の緋色さえ掻き消し、空間全てを塗り潰す様な力強さで以て掲げられる。先生の全身から異音が響き、四肢に走る白の亀裂が次々と拡大した。行使する力の巨大さに、器が加速度的に崩壊を始めたのだ。黒い皮膚が罅割れと共に剥がれ落ち、砕けて粒子のように消えて行く。莫大な力の奔流、光量にプレナパテスの瞳が絞られ、渦巻く風は外界より吹きすさぶ風を跳ね退けた。

 その只中で大人のカードを掲げる先生は、決然とした、余りにも眩い青を纏い宙を仰ぐ。

 

『せ、先生……ッ!?』

 

 先生の行為は、アロナをして想定外の行為だった。

 しかし、大人のカードを掲げる先生の表情に一切の翳りと躊躇は無い。

 きっと、最初からそうすると決めていたのだ。

 アロナは遅れて先生の真意に気付いた。

 

 気付いた時には、既に手遅れだった。

 

 ナラム・シンの玉座は未だ完全崩壊に至っていない。

 全ての時空、時間、可能性は繋がったままで、だからこそ為せる奇跡()がある。最早屍と化した器を強引に操る様に、プレナパテスの異形がそうやって形作られた様に。全ての時空と時間への通り道が存在し、可能性という希望の芽が繋がっているのであれば。

 それこそは自身の辿って来た足跡、指定した一点(着任初日)に存在の根幹を飛ばし重ねる、破滅と引き換えに形作る忘却と云う大前提さえ覆す、特大の奇跡。

 

 

 即ち――時間の逆行。

 

 

「私はもう、繰り返す事は出来ない」

 

 眩い光に、力の奔流に、全身を覆う風に身を任せながら先生は告げる。

 存在の摩耗は決して誤魔化せない、自身の終わりは既に定まっている。元よりこの旅路は片道切符、その事に異論はなく、後悔は無い。

 両手一杯に握り締めていた可能性(幾多もの道)は世界を跨ぐ毎に枯れ果て、己は次善の道を選んだ。

 選んでしまった。

 

「けれど、あなたは違う、あなたにはまだ可能性がある」

 

 自身の選んだ道が間違いだとは思わない。

 死力を尽くし、万手万策を以て望み、己の全てを賭した結果だから。

 己の全てを出し切って死力を尽くしても、誰もが笑い合える未来、そんな夢物語の様な結末に辿り着く事は出来なかった。

 

 ――だから託す。

 

 この世界も守り、貴方と最後の希望をも守る。

 そして今度こそ、この世界でなくとも、可能性の一つとして道を残すのだ。

 それこそが唯一、全てを賭して届かなかった己に出来る、最期の――。

 

「――先生」

「……ヒナ」

 

 掲げられた煌めく光に照らされながら、異なる世界のヒナは呆然と此方を見つめていた。プレナパテスの大きな背中、その影に覆われたまま丸々と見開かれた彼女の瞳を見返す。

 少し大人びて、けれどあの頃と同じように己を見上げる彼女を。

 

「……伝えたい事があるって、云ったよね」

 

 掲げられた光は、先生のありのままの姿を白日の下に晒した。

 遂に首元まで迫った黒の浸食は、痣も、生傷も、飛び散った血痕さえ飲み込んで肉体を蝕んでいく。流れ出る血さえも黒に呑まれ、掲げた指先の端から白い亀裂が走り、徐々に肉体が崩れていく。消滅した部位は決して戻らず、寧ろ輪郭は時間を経る毎に少しずつ削り取られ、歪になっていった。

 

「きっと、大丈夫」

 

 これはきっと、プレナパテス()も伝えたかった事だ。

 

「世界は楽しい事や綺麗な事ばかりじゃない、時には諦めて全部を投げ出したくなる事もあると思う」

 

 色々な悪意や害意に打ちのめされる事も。

 罪を犯してしまった結果、その重さに苛まれる事さえ。

 

 これまで辿って来た道を想えば、此処に至るまで感じて来た痛みも、苦しみも、何もかもがきっと世界の真実なのだろう。

 夢見た楽園は遥か遠く、進むたびに痛みと苦しみは大きさを増す。

 光差す場所で暗闇を、幸福の下で苦痛を、希望の先で絶望を思い起こす事は難しい。

 しかし、その逆はいつだって存在する。

 

「……それでも」

 

 他ならぬ彼女は叫んだ。

 世界はずっと、冷たくて、痛くて、苦しいだけだった――と。

 それはきっと真実だ。

 真実だと知っている。

 でも。

 

「それでもね、ヒナ」

 

 それでも、私は――。

 

「私は、そんな世界と、そこに生まれ落ちた全ての子ども達を」

 

 歯を食いしばって、歪であっても笑みを象る。

 そうだ、私は。

 先生は。

 そんな世界を。

 その世界に生まれ落ちて来た、遍く全ての子ども達を。

 心の底から。

 

 想い、先生は心からの笑みを浮かべ、告げるのだ。

 

「――愛しているんだ」

 

 ■

 

 どれ程の暗闇でも。

 どれ程の痛みでも。

 どれ程の苦しみでも。

 

 私からこの愛を、奪えはしない。

 

 ■

 

「先生」

 

 掲げた大人のカードが、遂に音を立てて砕け散る。

 掲げたカードの上部が煌めきの中に掻き消え、余波で奔る粒子はナラム・シンの玉座を一瞬にして巡った。残されたのはほんの切れ端程度、同時にプレナパテスとヒナの体が青白い光に包まれ始める。

 多くの生徒達を此処に運んだ光とは煌めきが違う、文字通り世界を超え、時間を超え、やり直す為の前兆。ヒナが自身を包み込む眩い光を見下ろし、少しずつ透けて消え行く身体を凝視する。

 先生はプレナパテスを見つめながら、ゆっくりと、力なく掲げていた掌を降ろした。

 砕けた大人のカードの残滓が、指先の黒と亀裂を照らす。

 

「私の――」

 

 呟き、先生は緩く首を振る。

 いいや、違う。

 そうじゃない。

 

「『私達』の生徒達(希望)を」

 

 ナラム・シンの玉座を包み込む光は徐々にその強さを増し、先生は残された大人のカードの切れ端を力いっぱい握り締める。固めた拳の隙間から、それでもカードは眩い光を放っていた。

 軋み、罅割れ、硝子が割れる様な音が続く。黒の浸食は根幹に達する。

 先生は一度大きく息を吸い込み、ヒナを、プレナパテスを――世界を覆う青色を眩しそうに見つめながら。

 

 それから深く、深く頭を下げ願った。

 

「よろしく、お願いします」

 

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