ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告、感謝ですわ~!
結末はエデン条約編で既に定まっていたのですから、唯々満足ですわ……。
ただ物語はもうちょっとだけ続くんですの。


(生徒)の為に。

 

 世界を超える煌めきは瞬く間に二人の体を覆い隠した。

 姿形も、声も、視線も、何もかも、ほんの瞬きの間に臨界を迎えた青の輝きは二人の姿を包んだまま、淡い粒子となって溶け消える。

 

「先生――!」

 

 最後に何か、ヒナが叫んでいる様に見えた。プレナパテスの腕を掴んだまま、此方に向かって懸命に何かを――。

 けれど焔の煌めきをも呑み込み、眩い光と一体になって散っていく両者の姿を見守る先生に、最早彼女の声は聞こえない。

 二人の姿が完全に見えなくなるまで、その光の一片すらも掻き消えるまで――先生は深く頭を下げ、無言でその場に佇み続けた。

 

 致命的な爆発がアトラ・ハシースを襲う。

 

 分離し空中を舞っていた次元エンジン区画が、同様に落下する中央区画付近で巨大な爆発を巻き起こした。飛び散る外壁の破片と熱風がナラム・シンの玉座全体を揺らし、足元が大きく弾んだ。徐々に傾きが大きくなる空間、隙間より入り込む爆炎は凄まじい勢いで内壁を焦がし咽る様な熱気が内側より肉体を蝕む。爆発の衝撃に耐え切れず先生はその場に堪らず転がった。衝撃で臓物が浮き上がり、床を舐める炎が先生の衣服を炙る。視界がぐらりと一回転した。

 

「っ、ぐ」

 

 凄まじい爆発は連鎖する、分離した他の次元エンジンが誘爆したのだろう。飛び散る瓦礫片は宛ら弾丸の如く、内壁諸共消し飛んだ瓦礫が虚空を穿ち先生の直ぐ傍を恐ろしい速度で通過し床を削り取った。

 生徒達が消えた今、飛来する瓦礫片から身を守ってくれる者は存在しない。防壁の展開どころか、シッテムの箱は辛うじて脱出シーケンスの機能を保持するだけで精一杯だった。身体の何処かに直撃すれば良くて致命傷、下手をすれば即死か。人間の頭蓋など、いとも簡単に砕いてしまうだろう。

 

『ッ、先生、アトラ・ハシースが墜ちます……!』

 

 ナラム・シンの玉座が、遂に決壊の時を迎える。

 崩落する天井は遥か上空の黒々とした宙を仰ぎ、分離し外界へと散っていく内壁だったものは爆炎と共に彼方へと消え、爆発と風圧によって罅割れ亀裂の走った床はゆっくりと四方へ散り始めた。

 足場が少しずつ消えて行く。其処から覗く広大な外界と吹きすさぶ風、上方へと流れる黒煙が視界を遮り容赦なく肺を犯す。蹲る様にして崩れゆくナラム・シンの玉座を見渡す先生は、アトラ・ハシース完全崩壊まで残り僅かである事を直感的に理解した。

 しかし、その事実に反し先生は表情を安堵に染める。

 

「――……これで、私は」

 

 全てを――全てをやり遂げた。

 

 苦難に次ぐ苦難、苦痛に次ぐ苦痛、悲劇と慟哭の果てに崩壊する肉体に満ちるのは、根源を苛む悍ましい痛みと寒気であった。

 しかし、それに勝る充足感にも似た熱が胸の内に燻っている。それは世界を跨いだ己の願い、想い、全てが繋がった事に対する安堵。繰り返した慟哭も、涙も、祈りも、全ては無駄ではなかったのだと。

 この背に降り積もった、彼女達の祈りも――漸く。

 それを想えば崩れ往く肉体の痛みや苦しみなど、無に等しかった。自身の肌を炙る炎の熱も、爆炎の衝撃も、悪心も、崩壊の痛みさえ。

 

「……ッ」

 

 懐に仕舞い込んだシッテムの箱を力いっぱい腕で抱き、握り締めた拳の中に残った一欠けらの大人のカードを見下ろしながら、先生は汗を流したまま微笑みを浮かべた。

 泣き笑いの様な、歪な笑みだった。

 

『先生、早く脱出をッ! 起動回数はあと一回残っています! このままでは、ウトナピシュティムも――』

 

 シッテムの箱よりアロナの声が響く。

 爆音と崩落音、熱波に歪んだ空間の中に彼女の声は良く響く。脱出シーケンスの使用枠は残り一枠、アトラ・ハシースの崩壊もそうであるが脱出シーケンスの演算を担うウトナピシュティムが完全に破壊されてしまえば、そもそもシーケンスの起動さえ出来なくなる。

 その前に早く、シーケンスを使って地上へ脱出すれば全て終わる。最早、いつまでもこの場に留まる理由はない。

 先生はアロナの声を耳にしながら、床に蹲ったままゆっくりと口を開く。残った力を振り絞り、赤く染まった奥歯を噛み締めた。ギチリと歯が軋む程に強く。

 

 己は使命を果たした――それは間違いない。

 

 この世界に於けるアトラ・ハシースは破壊の只中にある。船内に存在した全ての生徒は地上に帰した。異なる道を辿った空崎ヒナを、自分自身(プレナパテス)に新たな可能性を託した。

 先生と云う存在が打てる手は全て打ったと、そう云い切る事が出来るだろう。アロナからすれば、先生がこれ以上この場所で為せる事は何もない。

 

 だが彼女は、一つ忘れている。

 

「まだだよ――アロナ」

『……!』

 

 先生はアロナの声に応えながら、しかし緩く首を振る。血と汗の混じった濁った雫が顎先を伝い床へと滴った。握り締めた拳から、カードの輝きが呼応するように明滅を繰り返す。霞み、濁り、最早朧げな視界の中で見開かれた瞳に炎の煌めきが反射する。

 そうだとも。

 あと一人。

 ぎこちなく持ち上がった顔が、うねる爆炎を睨みつけた。

 

「まだ、私が手を伸ばせていない、最後の生徒が残っている」

 

 あと一人だけ、助けなくちゃいけない生徒(希望)が残っていた。

 

 這い蹲ったまま先生は握り締めた大人のカード、その断片を突き出す。途端、淡い明滅を繰り返す大人のカードの欠片に僅かな力が宿る。本来の煌めきに比べれば、余りにもささやかで――心許ない輝き。

 

『―――』

 

 沈黙が二人の間に流れた。

 爆炎は刻一刻と勢いを増し、先生の浸食し黒に染まった皮膚が砕け破片が風に攫われ虚空に漂う。握り締めた指先、亀裂の拡大した薬指が音を立てて崩れた。欠片を握り締める指は三本、漏れ出る光は少しずつ、けれど確実に規模を大きくする。

 沈黙はほんの数秒、崩壊の騒音に紛れながら流れた数秒が、アロナにとっては嫌に長く感じられた。

 

『な、何を――』

 

 アロナが愕然と、全身に奔る悪寒を自覚しながら。

 蹲り、苦痛に染まり尚も笑みを象る先生に対し、悲鳴染みた反駁の声を漏らした。

 

『何を云っているんですか、先生!?』

 

 アロナは心底理解出来ないと云わんばかりに教室から力いっぱいホログラムモニタを叩いた。電子的なそれは、しかし次元を隔て確かに硬質的な液晶を打ったような手応えを伝える。

 だって、此処にはもう誰も居ないではないか。

 ナラム・シンの玉座どころか、アトラ・ハシースにだって生体反応は存在しない。

 生徒達は地上に脱出した。

 プレナパテスも、異なる世界のヒナだって異なる世界に送り出した。

 このアトラ・ハシースに、ナラム・シンの玉座に残ったのは先生ただひとり。

 たったのひとりだ。

 

 

 ――これ以上、誰に手を差し伸べると云うのか

 

 

「私の肉体は……もう持たない」

『――!』

「分かっているだろう、アロナ」

 

 先生は苦痛を押し殺す様に、囁くような声量で云った。

 握り締めた掌、その隙間から漏れ出る光は煌めく炎にすら負ける程弱々しい。砕けた大人のカード、辛うじて残った断片は先生の掌の中で完全な虚無に溶けようとしていた。

 先生の肉体は、コレ(砕けた大人のカード)と同じだ。

 飛び散った破片を搔き集める事は出来ず、既に失われた(生命)は元には戻らない。この些細な断片さえ淡い光の中に溶けた時、先生は存在の根源を含めた一切を失うだろう。肉体も、魂すらも、先生と云う存在を構成する一切を代価として消失する。

 そしてそれは、直ぐそこまで迫る確定された未来である。

 覆す事は決して出来ない。

 

 奇跡とは、不可逆なものだから。

 

「この様子だと、地上に戻ったとしても多分、五分と生きられない」

『そっ、それは……でもっ!』

「だから、辛うじて代償(断片)が残っている内に」

 

 そう――今、この瞬間しかない。

 限界まで酷使された大人のカードが形を失い、砕け散り消滅を待つまでの僅かな時間。数分の余命を対価に得られるものなど分かり切っている、しかし残り滓とは云え侮るなかれ、主の救済装置は欠片となってもその機能を十二分に発揮する。

 断片を握り締めた指先に有りっ丈の力を籠め、先生は唸る様に告げる。

 崩壊は免れない、自ら選んだ運命は定まった。

 だが全てを捧げ朽ち果てる、その前に――。

 

「正真正銘、最後の願い(奇跡)を為す」

 

 淡い光を放つ掌――残された大人のカード、その断片が最後の煌めきを放つ。光は先生とシッテムの箱を中心に、激しく明滅を繰り返した。

 この掌に残されたのは僅かな力、今なお失われて行く奇跡の残光に過ぎない。本来内包されていた力に比べれば余りにも小さな光、儚い輝きだろう。

 けれど、それで良い。

 それで十分だった。

 

「私に、死者を蘇らせる力はない」

 

 一体どれ程待たせてしまったのか、それすらも定かではない。共に在った時間は長く、けれど歩んだ軌跡は流れた時間以上に長く感じるものだから。

 

「遥か過去に戻り、全てを救う力もない」

 

 けれど漸く果たす事が出来る。彼女との約束を、世界を隔てて尚共にあった彼女の献身に、報いる為にも。

 

「けれど、ただ肉体が失われただけならば――」

 

 思い、先生は願う。

 生命を一から創り出すのではない、神秘を与える力、心を与える力、そういった力を己は一切持たない。だがシッテムの箱を揺蕩う意識と器を繋げ、目覚めさせるだけならば道はある。

 異なる世界から意識を飛ばし、再びこの世界へと生まれ落ちた銀狼の様に。

 伽藍洞の器を用意し、其処に繋ぐだけならば。

 ナラム・シンの玉座(あらゆる可能性が存在する場所)であれば、万に一つも失敗は無いと知っているのだ。

 だから今、この瞬間しかない。

 ナラム・シンの玉座が崩れ去る前に、大人のカードが完全に消滅する前に。

 

『まさ、か――』

 

 愕然とした表情で硬直していたアロナがシッテムの箱、その画面に張り付き吐息を漏らす。罅割れ、凝固した血痕に汚れた液晶越しにアロナは蒼褪めた表情で必死に息を吸い込んだ。呼吸が詰まって仕方なかった、先生が何を望み、何を為そうとしているのか分かったからだ。

 だが、その選択は彼女にとって――。

 

『先生、駄目ですッ! それは、いけませんッ!』

 

 振り上げた拳で荒々しく液晶を叩く。意味が無い事だと知っている、けれど湧き上がり燻る感情を吐き出さなければ、どうにかなってしまいそうだった。既に陽光を失い、闇夜に沈んだ教室にアロナの悲痛な声が響く。頭上より降り注ぐ星明りが水面に反射し、アロナの姿を歪に浮かび上がらせていた。

 

「……ずっと、ずっと前から決めていたんだ、もし私が全て成し遂げられたとしても――皆が笑える、完全無欠の未来(ハッピーエンド)に辿り着いたとしても」

それ(断片)さえも砕いてしまったら、本当に……ッ!』

 

 そうだ、先生は想う。

 誰も犠牲にならずに、私の存在すら保たれ、遍く生徒を救う事が叶ったとしても。

 

 ――まだ、そこに足りない生徒が居るじゃないか。

 

「ごめんね、私は此処までしか辿り着けなかった、不完全な未来だ――そんな道の途中で、こんな選択をする事になるなんて」

『嘘、嘘、やめて、先生! 先生ッ!』

「……でもね、あの日、私達は誓った」

 

 そうだ、誓ったんだ。

 先生は掲げた拳を、煌めく儚い光を仰ぎながら瞳を細めた。

 アロナの叩く拳が赤らみ、何度も何度も液晶を叩く。異なる場所から声を響かせる彼女の執念は、シッテムの箱に一筋の亀裂を刻んだ。だが先生の意志を挫く事は出来ない。シッテムの箱を用いて身体制御をしていた道中ならば兎も角、最早先生の肉体は彼の意志一つで容易く運命を決め進む。

 それを止める術はない。

 アロナはよく知っている。

 彼の意志を挫く事が、どれ程に困難な事か。

 

「君達ならきっと、進んでいける――」

 

 先生の瞳が掲げた淡い煌めきを反射する。網膜に焼き付く輝き、けれど本当に捉えているのは瞬く焔、光の向こう側――宙の果てさえ超えた、これから生徒達が紡ぐであろう未来だ。

 彼はそれに想いを馳せ、眩しそうに口元を緩める。

 

『先生ッ!』

 

 奇跡は此処で終わりを迎える。

 けれどその後に、希望(子ども達)が残る。

 それは、とても意味のある事だから。

 

「希望があればどんな世界だろうと、どんな道だろうと、絶対に」

 

 先生は煌々と揺れる朱色の炎を浴びながら握り締めた拳を僅かに震わせ、一切の憂いを含まない声色で断じた。

 そうだとも。

 だって。

 

「君達にはいつだって、無限の可能性が広がっているのだから」

 

 どんなに険しい道だって。

 夢物語だと思える様な未来だって。

 皆が一緒なら、きっと。

 

 そうだよね――。

 

 

連邦生徒会長(アロナ)

 

 

 一際強い、破砕音が空気を揺らした。

 先生の掌にありったけの力が籠り、残った指先が大人のカードを完全に砕いた音だった。

 瞬間、溢れ出した青の奔流が先生を、シッテムの箱を、ナラム・シンの玉座を包み込む。煌めきは一瞬、瞬く間に過ぎ去ったそれは僅か一秒足らずの現象であり、同時に吹き荒れる青の光の中より――形作られる人影が一つ。

 シッテムの箱が強いノイズを発し、甲高い電子音を搔き鳴らした。

 

「あ、あぁ―――……そん、な」

 

 コツリ、と。

 微かな靴音が耳に届く。

 顕現した人影が、焔が舐める床へと静かに足を着けた。

 ゆらりと靡く白い、純白の制服。白を基調とした端正な装いは規律ある連邦生徒会のデザイン。首元まできっちりと閉じられた上着には控えめな装飾と徽章が配され厳格さと気品を感じさせる。胸元に煌めく証はこの様な状況でも綺麗な青を纏い、煌めく十字がヘイローを彩っていた。

 

 透き通るような淡い水色の髪は腰のあたりまでまっすぐに流れ落ち、炎の煌めきを受けるたびにほのかな青と桜色を帯び、内側に秘めた柔らかな色彩が静かに揺らめく。

 前髪は片目を覆うように長く垂れ、先生と同様にもう片方の瞳だけが覗いている。その瞳は澄んだ青で、普段は穏やかで同時に底知れない静謐さを湛えていた。

 だが今だけは、この瞬間だけは、その静謐な瞳さえ強い動揺を宿し、信じられないという心地で自身の姿を見下ろし視線を左右に散らしていた。

 

 随分と久しく目にしていなかった立ち姿、けれど見紛う筈もない。

 彼女こそ、シッテムの箱に留まり先生と共に数多の困難を乗り越えて来た、先生が最期に手を伸ばすと決めていた生徒(希望)

 

 ――連邦生徒会長、その人。

 

「ッ……!」

 

 強い振動と爆発、何かが崩れ落ちる大きな音が連続して轟く。

 火の粉と噴煙が周囲に撒き散らされ、咄嗟にアロナ――連邦生徒会長が肩を震わせ顔を上げる。見れば先生と彼女を分かつ様に幾つもの瓦礫が頭上より崩れ落ちていた。詰み上がったそれは無数のケーブルと剥き出しの構造物が顔を覗かせ、重圧に耐え切れず周辺の床が割れる。

 轟音がナラム・シンの玉座を駆け抜け、二人の立つ床に大きな溝が生まれた。

 

「っは」

 

 先生が掲げた腕を力なく降ろした瞬間、浸食により黒に包まれていた両足が音を立てて砕けた。

 這い蹲った格好のまま両足を失い、先生は床に額を打ち付ける。血に塗れた靴が転がり、中身を失った左袖、両足が強風に力なく靡いた。真面に動かせるのは右腕一本、暫し床を掻く右手を苦々しく見つめていた先生は、血を吐く思いをしながら近場の瓦礫まで何とか体を引き摺り、辛うじて肩から硬い瓦礫に凭れ掛かる。火の手がまだ、辛うじて回っていない箇所だった。ほんの一分に満たない時間だろうが、それでも身を守る事に意味はある。

 

 瓦礫に凭れ掛かったまま、熱気に満ちた空気を喘ぐ様に吸い込む。ビシリ、ビシリと、絶え間なく身体より響く鈍い音を聞いた。一秒ごとに黒は肉体を犯し、白い亀裂が四肢から胴へと、胴から胸元へ、果ては首元まで手を伸ばす。

 大人のカードを完全に砕いた今、身体の制御はおろか呼吸一つさえ億劫であった。

 

 最早碌に動かない指先を懸命に動かし、先生は懐に差し込んだシッテムの箱に辛うじて触れた。青白く点滅する画面を一瞥する事無く数度タップする、画面の向こう側にアロナの姿は――もう存在しない。

 だからこそ、最後の仕事はこの指で果たさなければならない。

 

「ま、待って……」

「だい、じょうぶ」

 

 炎と瓦礫、裂けた地面を隔てて言葉を交わす両者。燃え盛る緋色が二人を照らし、一歩、二歩と歩みを進める彼女はしかし詰み上がった瓦礫と炎に阻まれ、熱風が彼女の衣服と髪を巻き上げる。

 それでも構わず連邦生徒会長は瓦礫に手を掛け、純白の制服を汚す事さえ厭わず力づくで瓦礫を押し出し近付こうと身を乗り出した。

 だが――必死に伸ばすその手が、先生に届く事は永遠に無い。

 

「待って、下さい――先生っ!」

「大丈夫、だよ……」

 

 縋りつく声に対し、譫言の様に先生は答えた。

 声は掠れ、呼吸の合間に途切れながら辛うじて形を成している。最早それが意識しての言葉なのかどうかも定かではない。

 先生の瞳はもう、何処も捉えてはいなかった。力なく瓦礫に凭れ掛かったまま光の消えかかった瞳で口ずさむ。

 

 先生は懐に差し込んだシッテムの箱に数度触れた後、微かに聞こえた電子音を聞き届け、それから静かに指を垂らした。

 まるで役目を終えたことを確かめるかのような、力ない所作だった。その後シッテムの箱は懐より滑り落ち、先生の傍に転がる。赤いランプを点灯させ、ノイズを走らせる画面。かつて確かな導きを齎した光は今や断続的に明滅し、機能の限界を訴えるかのように弱々しい。

 けれど何とか間に合った。

 アトラ・ハシースが完全崩壊する前に、ウトナピシュティムが破壊される前に、文字通り最後の務めを果たしてくれた。

 

「――ッ」

 

 詰み上がる瓦礫を両腕で押し退ける連邦生徒会長の全身を、見覚えのある光が包み始める。

 淡く、しかし輪郭を覆うその輝き。

 それを知覚した瞬間、彼女の喉が引き攣る。

 この光は、生徒達を地上へと脱出させた、最後の――。

 

「先生ッ!」

 

 理解した瞬間、思考よりも先に身体が動いた。

 巨大な瓦礫を力づくで押し退け、掻き分ける指先に力が籠る。純白の手袋越しに爪が軋み、皮膚に角ばった突起が突き刺さる、ただ前へと進むことだけを選んだ。肌を舐める炎を一瞥もせず、彼女は瓦礫の僅かな隙間にすら体を捻じ込みながら必死の形相で叫んだ。

 

「先生、待って、お願いッ……! そんなっ!」

「だって、此処からなんだ」

 

 ゆっくりと彼女に向けられる視線。焦点の定まらない瞳が、ただ一度だけ彼女の存在を確かめるように揺れる。

 炎と詰み上がった瓦礫越しに見える、朧げな輪郭。崩れ落ちるナラム・シンの玉座、重なる崩落の轟音に包まれながらも先生の声は確かに耳に届く。

 一瞬、ほんの一瞬。

 先生の瞳に光が戻った。

 血と傷に塗れ、苦痛に苛まれる先生はそれでも尚――口元に微かな笑みを浮かべたまま力なく呟く。

 

「君達の、希望に満ちた未来は」

 

 柔らかな言葉に、揺ぎない信念と願いを込めて。

 熱気に歪んだ視界越しに、先生と生徒の視線が交わる。緋色に照らされた先生の唇が微かに震えるのが分かった。零れる吐息と同時に音もなく紡がれた言葉が、二人の願い祈った未来の景色を一瞬の内に、眩いばかりの煌めきで以て照らした。

 

 そう、此処から。

 此処から全ては始まるのだ。

 今この瞬間――この場所()こそが。

 

 

 ――あまねく希望(生徒)の始発点

 

 

「先生ぇッ!」

「責任は――」

 

 そこに、奇跡()がなくとも。

 

「私が、負うからね」

 

 その一言と共に連邦生徒会長の身体が完全に青の光へと呑まれた。

 

 崩壊の中心で、全てを失い、得たこの場所で、もう奇跡など残されていないとしても先生は己の責務を全うし見届ける。

 柔らかな光は瞬く間に彼女の輪郭を歪ませ、存在そのものを溶かしていくように広がり霧散した。髪の先から足先まで、滴り落ちた涙さえ、すべてが一瞬の内に跡形もなく。

 

 瓦礫の隙間より突き出され、必死に伸ばされた指先は先生の目の前で――掻き消えた。

 

 そこにあったはずの気配も、温もりも、影すらも残らない。まるで最初から存在しなかったかのように、ただ虚空を漂う青白い粒子の残滓だけがその場を彩る。

 先生の手元に転がったシッテムの箱が割れた電子音を鳴らし、ノイズ塗れの画面に最後の通知が届いた。

 

『脱出シーケンス――全枠起動完了(complete)

 

「――っ、は」

 

 中途半端に千切れ、砕けた両足を投げ出したまま、先生は詰まっていた息を吐き出した。

 零れたのは安堵の溜息だった、自分に残された全ての手段を尽くし、結末に辿り着いた事への安堵だ。

 アトラ・ハシースが大きく傾く。散らばった小さな瓦礫が床を滑り、次々と虚空へ投げ出され炎の向こう側に消えた。爆発が直ぐ傍で巻き起こり、吹きつける強風が黒煙と共に先生の全身を包み始める。

 

 耳を劈く轟音を背景に、先生はシッテムの箱、その罅割れた液晶を優しく撫でる。OSを失ったシッテムの箱は脱出シーケンスの完遂と共に画面を完全に暗転させた。

 良く此処までもってくれたと、先生は感謝の念を込めて何度も、何度も残った三本の指先で液晶を撫でつける。罅割れ、焦げ付き、血痕の残る画面はもう光を灯さない。

 先生と同じように長年共に在ったシッテムの箱もまた、己の役割を全うし果てた。

 

「私は――……」

 

 虚空に向け、ぽつりと掠れた声が漏れる。

 この身が果てる瞬間まで、やせ我慢(虚勢)を貫くつもりだった。

 

 瓦礫に凭れ掛かった先生の頸がゆっくりと傾き、瞼が少しずつ落ちていく。音がとても遠くから聞こえていた。何もかもが溶けて消えていくような、視界は少しずつ暮明へ、意識さえも曖昧になって眠る様に脱力する感覚、泥の中に沈んでいく様な柔らかさ。馴染みのある感覚だ、それは抗い難い誘惑であり、全ての終わりを予感させる安寧そのもの。

 

 ただ今までと異なるのは是を非としても、何としても斃れる訳にはいかないと死に物狂いで抗っていたその安寧に、今の己は身を委ねている事だった。

 全て出し尽くした、為せる事は全て為した、己の出来得る限りの道を必死に駆けた。

 だが――それでも心の片隅に残る感情。

 先生は小さく、ほんの囁く様な声色で呟く。

 

「私は、やり遂げたのだろうか……?」

 

 声に――答える者は居ない。

 

 それは此処に至るまで必死に駆け続けた先生が、最後に見せた疑念であった。

 これで本当に良かったのだろうか、これが自身の為せた最善だったのだろうか。そんな事を最後の最後に想い、思わず口ずさんでしまった。誰かを傷付ける事無く、もっと素晴らしい、自分の見つけられなかった良い(選択)があったのかもしれない、と。

 そんな疑念が胸の奥に、いつだって張り付いて消えない。

 

 けれど、自身の出来る範囲で全力であったのは確かだった。

 そこに偽りはなく、ただ純真な願いが一つあっただけ。

 生徒(子ども)の為に生き、生徒(子ども)の為に戦い、生徒(子ども)の為に抗い、生徒(子ども)の為に走り続け――この結末に辿り着いた。

 

 己の歩んだ道が正しかったかどうかは分からない。

 ただ、どうしても守りたいものがあった。

 だから、あの子達が未来を迎えられる物語なら、己がどれ程苦しくても構わないと思った。

 

 生徒こそが絶対である。

 その人生に、後悔はない。

 

「っ……!」

 

 不意に、先生の横顔に光が差し込んだ。

 陽光だ。

 暮明を裂き、崩れ落ちた外壁より差し込む眩いそれに思わず顔を顰め、背ける。見れば夜空に覆われていた世界が、徐々に明るさを取り戻し始めていた。

 

 アトラ・ハシースの高度が大分落ちて来たのだろう。当然だ、突入してから随分と時間が経ったように思う。

 黒に沈んでいたはずの世界は、いつの間にか淡く溶け始めている。群青が、紫が、ゆっくりと燃えるような橙へと移ろっていた。

 雲海の果て、水平線の一点から確かな光が滲み出している。視界に広がるのは陽光を淡く反射する白い雲海、何も邪魔するもののない綺麗な空――先生の愛した青色が少しずつ世界を包み込み、キヴォトスに広がっていく光景。

 

「あぁ――」

 

 瓦礫の影が長く伸び、砕けた外壁の縁を縁取るように金色が差し込んでくる。その光はまるで世界がまだ続いていくことを、何事もなかったかのように証明しているようで。

 差し込んだ陽光に照らされながら、先生は感嘆の声を発した。

 眩しそうに瞳を細めながら、何処までも広がる青を眺める。

 

 ――朝が来る。

 

 ナラム・シンの玉座が決壊する。

 黒煙が吹き荒れ、巨大な爆発が何もかもを吹き飛ばし、分離したナラム・シンの一部が虚空へと躍り出る。空間を塗り潰す爆炎の光は、崩壊の音も、焔も、軋みも、何もかも、すべてを遠くへ押し流していく。

 そんな中でも先生は微動だにせず、ただ穏やかな表情で視界に広がる青空と陽光を見守り続けた。

 

 

 この世界は醜く穢れていて、苦痛に満ちていると人は云う。

 そして楽園(エデン)は清く、美しく、素晴らしい喜びに満ちていると。

 

 

 けれど私は、私だけは。

 そんな事は、認めたくないと思ったのだ。

 

 何度も口にした、楽園(エデン)で待っていると。

 何の憂いも、不安も無い世界で、また会おうと。

 そんな世界が存在するのならば、それこそが救いになる筈なのだと。

 そう口にしておきながら、それでも私だけは――。

 私だけは信じていたのだ。

 

 この世界は。

 子ども達(生徒達)の生まれ落ちた、この世界は。

 きっと、何よりも美しいのだと。

 美しい筈なのだと。

 何処までも広がる様な、透き通った青が続いているのだと。

 

 楽園の様に何の憂いも不安も無い世界ではないのかもしれない。彼女が叫んだ様に、痛みも、苦しみも、冷たさも存在する場所だ。

 けれど、たとえ苦痛が、困難が、不安が、悲劇が立ちはだかろうとも。

 その続く道の先には、この世界には、誰もが望む様な幸福が、全員が笑顔で迎えられるような未来がきっとある筈だって。

 誰よりも、何よりも、私自身が。

 そう信じていたのだ。

 

 ――なんて、綺麗な青。

 

 腹の底から絞り出した吐息が罅割れ血の滲む唇を優しく撫でた。

 先生の意識が暗転するよりも早く強烈な爆発と熱波が巻き起こり、視界が緋色に呑まれた。積み上げられていた構造は意味を失い、支えを失った方舟が空そのものを裂くように四散していく。

 美しい青に彩られた空の上で炎が弾け、緋色の華が咲き誇る。

 

 アトラ・ハシースが墜ちる――あらゆる可能性(ナラム・シンの玉座)が途切れる。

 

 燃え盛る炎が先生の元へと雪崩れ込み、その全身を一気に吞み込んだ。同時に全ての床が崩落し、先生の肉体は周囲の瓦礫諸共冷たい外界へと放り出される。

 重力に引かれるよりも早く、爆風が軽くなった先生の身体を吹き飛ばし、肉体は緩く回転しながら広々とした空へと解き放たれた。

 荒れ狂う風が軽くなった先生の体を突き抜け、舞う黒煙と火の粉が遠のき、衣服の端に残った炎が風に引き延ばされ細く千切れるように尾を引く。浸食に罅割れた全身が爆発によって勢い良く砕け、破片は無情にも虚空へと散っていった。

 器が削られる、己という存在が消えていく、空に消えていく自分自身だったものの欠片を先生は見送る。けれど痛みも、苦しみも、先生はそれら一切を感じなかった。それを感じるだけの機能が既に残されていなかった。

 

 全身で風を切り星の重力を感じながら、人としての形すら失いつつある先生はそれでも落下の瞬間、反射的に役目を終えたシッテムの箱を抱きかかえていた。

 どうやら役目を終えてもまだ繰り返して来た習慣は抜けないらしい。一体どこに、こんな力が残っていたのだろうかと自分でも不思議に思う程に。罅割れた三本の指先が強固にシッテムの箱、その外装を掴んで離さない。

 

 空は余りにも広く、何もかもが遠く、静かだった。

 無数の瓦礫に混じり、ひとりの人間が宙を流れる星屑の一つとなって空の青と共に削れ消えて往く。

 雲の切れ間から差し込む光が、まっすぐにこちらへと伸びる陽光が、少しずつ大きく、力強く輝きを増していた。

 光が世界に降り注ぐ。

 遍く世界に、遍く空に、遍く学園に――遍く生徒(子ども)達に。

 

 先生は凄まじい勢いで流れていく視界の中、確かな暖かさで世界を照らす陽光を目に焼き付け。

 ゆっくりと、その瞳を閉じた。

 暮明に落ちた視界、それでも薄らと届く光。脳裏に過るこれまで辿って来た道、生徒達と紡いで来た絆、旅路の全て、祈り、願い、想い、これから彼女達が紡いでいくであろう未来すべて。

 それらが一瞬にして先生の全身を巡り、暖かな思い出を噛み締める様に胸に抱き、万感の想いを込めて――。

 先生は、空の青に包まれたまま呟いた。

 

 

「――夜明けだ」

 

 

 夜明け前が一番昏い。

 だが一度(ひとたび)陽が昇れば。

 

 世界はたちまち、光に満ちるのだ。

 

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