めっちゃ難産でしたの……でも、すっごく楽しかったですわ!
本作は恐らく、あと二話で完結になりますの!
空の上で、一人の大人が生涯を終えた。
生徒の為に生き、希望を信じ、未来の為に運命を覆し、全てを捧げた人間だった。
その生涯は困難と悲嘆に塗れ、全てを出し尽くした果てに辿り着いた結末は存在の完全消失。
ちっぽけな
比べるべくもないと、彼は嘯く。
彼が選び、彼が望み、彼が死に物狂いで勝ち取った未来。
これまで辿った数多の未来と結末と比較すれば何と穏やかな最期か。
世界は滅びず、遍く
故にこの道は、彼にとって最も善い結末だった。
■
だが、その結末を認めない者も存在する。
■
「――先生ッ!」
夜明けを裂く絶叫が轟いた。
黒々とした空間が、唐突に広がる青の只中より出現する。
ぽっかりと世界に穴が開いた様に、何の前触れもなく出現したそれから飛び出す人影。彼女は凄まじい勢いで落下する先生を目視するや否や、その黒々とした空間より躊躇いなく飛び出し、浸食に覆われ、砕かれ、人としての形を失いつつある先生の体を強引に抱き寄せた。
「っく……ッ」
風を切り、制御を失いつつある肉体。僅かに動かすだけで鈍痛が響き、止血したガーゼに血が滲む。飛び出した人影は既に満身創痍であった。身に纏ったドレスは嵐の如き弾幕を前に切り裂かれ、穿たれ、最早襤褸布の如き様相を晒す。それに包まれた肌も同様に、幾多もの痣と切傷、爆創、火傷が散りばめられ乱雑に巻き付けられた包帯とガーゼが痛々しく剥き出しの肌を彩っていた。
しかし、真新しいそれに赤を滲ませながら飛び出した彼女に躊躇は一切存在しない。
意識を失った先生の身体を抱えて落下する彼女――銀狼は必死の形相で先生の身体を両手で捉え、守る様に搔き抱いた。
「絶対に、助けるから……っ!」
唸る様に声を絞り出し、彼女は視界一杯に広がる先生の顔を覗き込む。
閉じられた瞼、蠢く浸食の黒、本人の意識は完全に喪失している。崩壊現象は先生の首を完全に覆い尽くし、顎先から頬へと手を伸ばしつつある。白い亀裂は全身に波及し、落下しながら砕けた破片が上空へと尾を引いていた。
アトラ・ハシースが墜ち、ナラム・シンの玉座が決壊した瞬間、可能性の混線が途切れ銀狼はこの場所へと転移する事が出来た。
本当にギリギリのタイミングだった。
異なる世界の空崎ヒナから逃れる為にゲマトリアの数ある拠点の一つに転移し、殆ど気絶する様な形で意識を手放した。そこから何とか自力で目を覚まし、死に体に鞭を打って最低限の処置を済ませ、先生を助ける為に転移を行い――この瞬間に至る。
ほんの少しでも転移が遅れていたら、或いは爆発のタイミングが早まっていたら、ナラム・シンの玉座決壊が遅かったら――銀狼はきっと、この瞬間に辿り着く事が出来なかった。
辛うじて、首の皮一枚繋がったと称するべきか。
しかし、それも儚い希望に過ぎない。
「もう一度、転移を……ッ」
銀狼は先生を搔き抱いたまま愛銃を投げ捨て、もう一度空間に穴を空けようと虚空に手を突き出し――失敗する。どれだけ命じようとも、力を行使しようとも、彼女を運んで来た黒々とした空間は生まれない。
「っ、やっぱり……!」
その結果を予測していたのか、銀狼は悪態を吐く。
空間の転移、その連続使用にはインターバルが必要となる。当然ではあるが空間転移とは本来であればアトラ・ハシースやウトナピシュティムといった規格外の演算領域を持つオーパーツでなければ成し得ない現象である。
彼女が戦闘に於いてこの転移を多用出来ない理由がそこにあった。
激しい戦闘の最中、座標を指定し正確に転移するのは困難を極める。加えてこの手の転移は絶望的な戦況に於いて無条件の離脱を可能とする為、ここぞという時に使用出来なければ意味が無い。
電光石火の速攻を仕掛ける為の初手か、或いは絶対的な安全が保障される撤退時の保険。銀狼は既に先生の危機に駆け付ける為、その手札を切ってしまった。
或いは、此処に他のゲマトリアのメンバーが存在していれば変わったのかもしれない。
だが、この場に存在しない者に縋る意味など無い。
「―――」
銀狼の瞳が、急速に鋭さを増した。
七万五千メートルという高高度に存在したアトラ・ハシース、次元エンジンの破損によって墜落し高度はかなり落ちた。それでもまだ、生物が生身で存在して良い高さではない。先生の肉体は崩壊云々に関わらず限界を迎えるだろう。神秘を持つ銀狼であっても危機的な状況なのだ、人間である先生の生存率は一体如何程か。
ならば、取れる手段は一つ。
「あなたが、救われない世界なんて……ッ!」
銀狼は覚悟を決めた。
元より、その覚悟はあった。
だが最善は、先生の生存と自身の生存の両立であった。
しかし自身の胸に掻き抱いた先生か自分、どちらかしか生き残れないというのであれば――悩む理由は無かった。
「世界が滅んでも、何を失っても! 貴方は、先生だけは――ッ!」
絶対に助けるって――そう皆と、約束したから。
自身の生存、延命は一切考えない。先生という存在を守る為だけに、銀狼は体に鞭打って残った神秘を振り絞る。試した事は無かった、自身ではなく他者の身体を神秘で強化するなど。
通常の器であれば不可能であったかもしれない、しかしゲマトリアが模索した神秘を獲得する為の足掻き、元より神秘を与えられた者でなければ我楽多同然の器、その研究成果となる自身の器ならば――或いはと考えた。
果たして、予感は正しかった。
土壇場で為したそれは確かに先生の身体を包み込み、体液の気化を防ぎ僅かな猶予を齎した。目に捉える事は出来ないが、他ならぬ銀狼には分かる。感覚として、自身の体と先生が繋がる様な感触があった。銀狼の身体を強固に守っていた神秘が先生を包み込み、その肉体を守護する。
何も知らぬまま墜ちていく先生の表情は安寧そのもので――。
「ッ、ぁぐ――」
だが代償もまた顕著であった。
神秘によって守られていた銀狼の身体が急激に苦痛を訴え始めたのだ。
息を吸い込む事さえ許されない。呼吸が成立せず、肺から急激に空気が抜け視界が狭まり色褪せる。酷い耳鳴りがした、方向感覚が曖昧になり背筋に怖気が走る。
これが神秘と云う名の絶対的な保護を限界まで削ぎ落された器の状態。それでもまだ、ヘイローという最後の砦が辛うじて彼女を生かしていた。
酷い頭痛がある、全身に違和感、関節が張って脹れる様な――先生を抱える腕から力が抜けそうになって、銀狼は辛うじて指先に力を込め彼の衣服を握り締めた。
「ホシノ、先輩――」
風切り音に紛れ、殆ど囁くような声で呟く。声を発するだけの空気が肺に残っていなかった。顔を歪めながら銀狼は徐々に遠のく視界の中で記憶を反芻する。ほんの一秒でも、一瞬でも長く先生を守る為に。
意識を保て、目を開けろ、そう自身に叫び続ける。自分が此処で力尽きれば先生を守る神秘の状態がどうなるか分からない。残留するならばそれでも良い、けれどもし、自身の存在と共に掻き消えてしまうのならば――。
「ノノミ、セリカ、アヤネ……っ!」
仲間達を、自分を此処に導いた彼女達の名前を絞り出す。脳裏に過る彼女達との記憶、想い出が全てを出し切った銀狼を辛うじて世界に繋ぎとめてくれる。
「皆、お願い……!」
ビシリと、硝子が軋む様な音がした。
先生の身体が崩壊する音ではない――銀狼のヘイローが罅割れる音だった。
視界が大きく揺らぎ、絶対に失ってはならない大切な何かが奪われて行く様な感覚。感じられた冷たさも、痛みも、苦しみも、色も、音も、何もかもが遠のいていく。少しずつ罅割れ、砕け、解れていく自身の存在。それを予感しながら先生を力いっぱい抱き締め、彼女は希う。
くしゃりと歪んだ銀狼の頬から、煌めく涙が風に乗って流れた。
「……先生」
どうか、私に――私達に。
「――生きて」
奇跡を。
■
「先生、どこですか!? 先生―ッ!」
「先生~!?」
夜明け前の空気はまだ冷たく、砂漠特有の乾いた風が頬を撫でていく。
淡く白み始めた地平線の向こう、太陽が顔を出す寸前の僅かな光だけが果てしなく広がる砂の海を朧気に照らしていた。
アビドス砂漠――視界を遮るものはほとんどなく、だからこそ、どこまでも続く無音と孤独が際立つ場所。その広大な砂の中で生徒達の必死な叫びだけが周囲に響き、風に乗って遠くへと引き延ばされていく。
「ご主人様! 返事をして下さい!」
「居るんなら声を上げろ、先生っ!」
砂地に足跡を刻みながら生徒達は散開し、互いに距離を取りつつも決して視界から外れないように動く。足を踏み出すたび、さらさらと乾いた砂が崩れ重さのない音を立てて沈む。
どこを見ても似たような景色ばかりだった。方向感覚さえ曖昧になりそうな視界の中、彼女達はただ「先生がいる筈だと」信じて声を張り上げ続ける。
胸中には制御出来ない不安が常に渦巻いている、退去前に先生の瞳を見た者は特に――寧ろ無事である可能性の方が低いかもしれないという事も。
それでも、それを口に出す者はいなかった。声にしてしまえば、それが現実になってしまう気がして。
だからこそ彼女達は声を張り上げ続ける。先生の生存を確かめるように、まだ希望があると信じる為に。
「アスナ、いつもみてぇに何となく分かんねぇのか!?」
「―――……」
ネルが砂を蹴り上げるようにして振り返り、苛立ちを隠さずアスナへと問いかける。その声には焦燥が滲み、普段の荒っぽさとは異なる、どこか切羽詰まった響きが混じっていた。
アスナの直感――理屈を超えた何かを捉える感覚に、これまで何度も助けられてきた。先生がひとり取り残された時、それを一番に察知したのは彼女だった。
だからこそ今回も、と。
だがアスナはゆっくりと視線を落とし、やがて静かに首を横に振る。俯いた表情は沈痛で、普段の余裕や能天気とさえ感じられる気配は微塵も見えない。
砂の上に落ちた影がわずかに震えた。
アスナの超人的な直感を以てしても、何も感じ取れない。
「………」
その事実が言葉にされるよりも重く、じわじわとC&Cの空気を沈めていく。
「――っ、陽が出てきましたね」
C&Cから少し離れた場所で砂漠を見渡していたハナコが僅かに目を細める。地平線の向こうから、じわじわと滲み出すように現れた光が砂漠全体をゆっくりと侵食していた。
夜の名残を押し退けるように淡い金色が広がり、冷え切っていた空気に微かな熱の気配が混ざり始めている。
彼女はその変化を敏感に感じ取り、思わず顔を顰めた。
生徒達の足元に長い影が伸びる。低い角度から差し込む陽光は彼女達の姿を歪めるように引き延ばし、砂の上に不安定な輪郭を描き出した。映り込んだ影は揺らぎ、かすかな風に撫でられて形を崩す。ハナコからすれば、まるで頼りない朧げな存在だと突きつけられている様で、視線に険しさが滲んだ。
「そ、それって、先生を見つけやすくなるって事よね……!?」
陽光が差し込み、視界が光に包まれ始める。差し込む光に希望を見出すように瞳を僅かに輝かせながら、コハルは期待を込めた声を上げた。
暗闇の中では見えなかったものも、これで見つかるはずだと。
そう信じたい気持ちが表情にはありありと浮かんでいた。
陽が出たという事は、これで夜間よりずっと視認し易くなる。単純はあるが、確かな理屈だ。その一縷の望みに縋るように、コハルは喜色ばんだ顔を補習授業部の面々に向けた。
「……いいえ、森林や都市ならば兎も角、此処一帯は砂漠地帯ですから」
だがハナコの返答は淡々としていて、現実的であった。
「砂漠は昼夜で寒暖差が激しい環境です、今は寒気がする程ですが、陽が昇ると気温が一気に上昇し始めます、蜃気楼による誤認も多くなるでしょう」
「え、えっと、それじゃあ、逆に見つけづらくなるって事……ですか?」
「昼間に人力で捜索する事は正直かなり難しいと思います、風が強まれば痕跡も辿れなくなりますし、航空捜索の要請が届いていたとしても一番近い場所から到着まで時間は掛かりますから――」
ヒフミの不安げな問いに対しても、ハナコは言葉を濁さない。
寧ろ、その一つ一つを丁寧に積み重ねるように状況の厳しさを示していく。気温の上昇、視界の歪み、消えゆく足跡、そして外部支援の遅延――そのどれもが彼女達の捜索を阻む要素であり、一刻を争う僅かな希望を削り取っていく現実そのものである。
砂の表面を撫でる風が微かに強さを増す。細かな砂粒が舞い上がり、先ほどまで残っていた足跡の輪郭を曖昧にしていくのが分かった。直ぐ足元の様子は、時間そのものが先生の存在を消していくかのようで、誰の胸にも不安を刻みつける。
「ハナコの云う通りだ、それに私達の体力も万全じゃない、そもそもの物資も乏しい上に長時間の捜索を想定した装備を持ち込んでいない、そんな状況での長時間の捜索は――最悪、私達諸共この広大な砂漠を彷徨う羽目になる」
アズサもまた、ハナコとは別の目線で同じ現実を見据えていた。声は低く抑えられているが、中には強い緊張と歯がゆさが宿っている。
自分達が倒れてしまえば、それこそ何もかもが終わる。救助する側が救助される側に回る危険性――それを理解しているからこそ、彼女の表情は優れない。
だが、それでも。
「で、でもっ、諦めるなんて絶対に嫌です!」
「そっ、そうよ! 先生なら、きっと……!」
ヒフミとコハルは一歩も譲らない。どれほど状況が不利であっても、どれほど理屈がそれを否定しようとも、意思だけは決して折れない。
感情では誰もが同じ想いであった、アズサも勿論。先生は大切な存在である、けれど補習授業の皆も大切だった。
だからこそアズサが敢えて言葉にした事を、ハナコは察していた。
アズサに強く握り締められた拳を一瞥し、彼女は努めて平静を装いながら告げる。
「――今は兎に角、出来る限り手を尽くしましょう」
今出来る事はそれだけだ。互いに顔を見合わせるでもなく、ただ別々の方向を見据えながら、しかし思いだけは一つに束ねる。理性と感情、そのどちらも手放す事は出来ない。
ならば、手を伸ばせる範囲だけでも必死に守るしかないのだ。
この指先が届く限界まで、この視界が許す限界まで、そして心が折れない限界まで――彼女達は砂の上を踏みしめ、再び足を動かす。
「リオ会長、先生は本当に脱出出来ているんですよね……!?」
張り詰めた空気の中で、ユウカの声が鋭く響いた。乾いた喉から絞り出すようなその問いには理性で抑えきれない動揺が滲んでいた。
彼女は無意識のうちに愛用の端末を握り締めながら視線をリオへと向ける。答えを求める目は普段の冷静さを何とか保とうとしながらも、揺らぎを隠し切れていない。
「脱出した私達は同じ地点に出現しました、座標のズレも殆どなく、多少の距離があったとしても視認出来る距離です、であれば先生の姿が見当たらないのは一体――」
ノアが続ける。指先で首元を擦りながら状況を整理する口調は平静を装っているが思考は明らかに焦りに追い立てられている。
先生の指示により起動した脱出シーケンスは、生徒達を殆ど近しい地点に転移させた。
それはどれ程遠くとも百メートルは離れていない。確実に肉眼で視認出来る範囲である。
しかし、いくら周囲を見渡しても先生の姿が見えない。脱出シーケンスによって転移した存在がある程度近しい地点に出現するのであれば、それが意味するところは明らかである。
怖気すら覚える予想が言葉の末尾を曖昧に濁らせた。
「も、もしかして、シーケンスが失敗……しちゃったんですか?」
コユキは蒼褪めた表情で、恐る恐る口にした。その可能性は誰もが胸の奥で一度は過ったものだったが、あえて言葉にしていなかったものでもある。
「………」
コユキの声が耳に届いた瞬間、周囲の温度がさらに一段低くなったように感じられた。感情は伝搬し、不安は明確な形を伴い身体を凍らせる。誰もが否定してほしいと願いながら、リオを注視する。
「……いいえ、脱出シーケンスは確実に作動したわ、私達がこうやって地上に生還出来ている時点でそれは疑いようのない事実よ」
「考えられるのはシーケンスの起動が遅れた、または演算領域の損傷によって一人だけポイントがズレてしまったのか――或いは」
リオは否定を口にした。声は揺らがず断定的で、彼女なりの理論に裏打ちされた確信が込められていた。
カヤがリオの言葉を継いで思案顔のまま答える。しかし言葉を紡ぐほどに、その先に続く別の可能性が影の如くチラつく。セミナー組とカヤの間に僅かな沈黙が落ちる。
「考えたって仕方ないよ、今は兎に角、動いて……動いて、探さないと!」
「あ、アリスも――……ッ」
その停滞を打ち破るように、傍で様子を伺っていたモモイが叫んだ。思考よりも先に身体を動かす事を選ぶ彼女は焦燥と不安が入り混じり重苦しい空気の中であっても変わらず、強引にでも前へ進もうとする力を帯びていた。
声に背を押され、砂上に座り込んでいたアリスもまた立ち上がる。
「あっ……!」
「アリスちゃん!」
しかし、踏み込んだ足は砂に沈み、力がうまく伝わらない。がくりと唐突に膝が折れ、体勢を崩し蹈鞴を踏む。アリスは驚いたような表情で自身の体を見下ろし、表情を歪めた。
砂上に突き刺さり、持ち上げようとした光の剣が――あまりにも重い。
名も無き神の力により再構成され、あれ程巨大な勇者の証と為った光の剣でさえ易々と支え切った身体が、今はまるで云う事を聞かない。震える指先を凝視するアリスの体を咄嗟に掴みながら、ミドリとユズが咄嗟に叫んだ。
「む、無理しないで……!」
「そうだよ、光の剣であんな無茶をしたばっかりなんだし……!」
二人の声が重なる。心配と制止、そのどちらもが滲んだ呼びかけに対し、アリスは即座に首を振った。
「……アリスは、平気です!」
歯を食いしばって声を絞り出した。誰の目から見ても分かる虚勢であった。身体は明らかに消耗しており、嘗てない不調を訴えている。自身の中に存在した
それでもアリスの瞳だけは強く、絶望を拒むように前を向いた。
彼女の中にある声なき力が、限界を超えた身体を無理やり動かしていた。
倒れている時間など無い、項垂れる暇など無い、モモイの云う通り――ただ少しでも、ほんの一歩でも動くべきなのだ。
だって。
「勇者は一番辛い時にこそ――先頭に立って、進むんです!」
放たれた言葉は、彼女自身を奮い立たせるための
震える足で、大きく一歩を踏み出す。
愛銃の光の剣を掴む腕が突っ張り、外装が砂を擦る音が微かに響いた。巨大な光の剣を引き摺る軌跡は一直線ではなく、わずかに揺れながらも、それでも少しずつ前へと続いていく。
「おい、RABBIT1!」
「―――……」
「RABBIT1ッ! ミヤコっ!」
「っ」
乾いた風がRABBIT小隊の間を突き抜けた。砂粒が舞い上がり朝の光を反射してきらきらと瞬く。その光の中で、ミヤコはただ一点、果てしなく広がる空を見上げていた。何も遮るもののない空は朝の暮明と夜明けの煌めきが同居し、とても幻想的に見えた。空はこの世界に生きる者にとってあまりにも広く、遠い。
そこにあるはずの何かを探すように、あるいは思考が完全に停止してしまったかのように、彼女の視線は焦点を失っていた。
その小さな肩をサキが強く揺すった。
現実へと引き戻すような、力強い指先だった。
「なにボサっと突っ立っているんだ! 私達も先生の捜索に動くんだろう!?」
「この広い砂漠で、人ひとり見つけるのはかなり骨が折れるかもしれないけれど、諦めるって選択肢は――当然、無いよね」
「み、ミヤコちゃん……」
サキの叱咤にモエの冷静な補足が続き、さらに控えめながらも心配を滲ませたミユの声が重なる。耳に届く仲間達の声が、止まりかけていたミヤコの時間を再び動かしていく。
気付けばRABBIT小隊全員が此方を見ていた。
それぞれの視線が小隊長であるミヤコへと集まっている。責めるでもなく、不安視する訳でもない、ただ待っているのだ。判断を、号令を、彼女の声を。
隊長であるミヤコが、再び動き出すその瞬間を。
「―――」
ミヤコは数舜言葉に詰まり、それから自身を恥じる様に目を伏せる。
自分だけが立ち止まっていたという事実、不安と絶望に呑まれたほんの一瞬の空白を。
「……えぇ、そうですね」
短く、けれどハッキリと声を発する。肩に提げた愛銃をそのままに、両手を広げ強く頬を張った。乾いた音が自分自身への戒めのように響く。鈍い痛みが頬に広がり、意識がはっきりと現実へ引き戻された。
茫然自失としている暇はない。状況は一刻を争う。時間が経てば経つほど、捜索の難易度は跳ね上がるだろう。環境は味方にならない。ならば、せめて自分達が止まらず考え動き続ける事。
それだけが、今尽くせる最善だった。
「RABBIT3、ドローンを使用して上空より人影を捜索出来ますか?」
「生憎、飛行型は全部使って手元に無いんだよね、地上走行型はあるけれど砂漠での運用は想定していない奴、元々市街地戦を想定した装備だったし、活用できそうなヤツは限定的」
「となると、自分の足で探すしかないか――
「う、うん……! 観測装備、持っていくね……!」
矢継ぎ早に意見が交わされ、先ほどまでの停滞が嘘のようにRABBIT小隊の思考は研ぎ澄まされて行く。現在の装備で利用可能なリソースを洗い出し、現状で為せる最善の方法を模索する。
元々廃墟、封鎖区画のサンクトゥム攻略を担当していた彼女達である、装備は当然市街地戦を想定しており航空ドローンは既に消耗、地上走行型はこの環境下では性能を発揮できない。防塵対策に高温対策、
それでも手段がゼロではない限り諦めると云う選択肢は存在しない。
生きている筈だと、彼女達は自分に云い聞かせた。
「カヨコ、何か分かったかしら!?」
便利屋68の面々は当初周囲の光景に戸惑いを見せ、ただ闇雲に歩き回るのではなく、自分達が今どこにいるのかを把握しようと周囲へと視線を巡らせていた。
果てしなく続く砂の波の中に、わずかでも手掛かりとなる地形の特徴を見出そうとする。何より此処がアビドス砂漠であるというのならば、自分達が戦闘を行っていた場所からどの程度離れているのか。
風に削られた砂丘の稜線、露出した岩盤、遠くに点在する起伏――それらを一つ一つ照合しながら現在地を割り出そうとするその姿は、まるで地図のない海を航海する者の如く。
「あっちの露頭、
カヨコが静かに、しかし確信を帯びた声で告げる。
彼女が指先が示す先、砂の海の中にぽつりと突き出た岩の塊――風雨に削られ孤立したその地形は、確かに見覚えのあるものに見えた。
彼女の記憶の中にある転移前の風景と照らし合わせ、その位置関係を頭の中で組み立てる。思考は冷静で、透徹している。
だが反対に胸中は今にも溢れんばかりの激情が滾っていた。
それを必死に押し殺し、カヨコは努めて平静を装う。
「そっ、それなら急いで連絡を――っ!」
「大丈夫だよ、もうメガネっ娘ちゃんに連絡入れているから!」
焦りを露わにするハルカの声を遮るように、ムツキが端末を操作しながら応じる。指先で端末を器用に操作しながら表情にはいつもの調子が残っていたが、その奥には僅かな強張りが潜んでいる。
通信状況は決して万全ではない、だが元々砂漠地帯での戦闘を想定していた便利屋68には事前に通信状態が整備されている。
砂漠という環境は、地上からの捜索にはあまりにも不利である。だが上空からならば話は変わる筈だ。広範囲を短時間で確認できるのならば、わずかな希望が繋がる。通信が届き、増援が来るまでの時間――その間に出来る事は限られているだろう。
それでも何も手を打たないよりは遥かに良い。
「フブキ、キリノ、そっちは!?」
「だ、駄目です、それらしい影は何も――」
「お願いだから、こんな結末はやめてよ先生……! 後味悪くて、仕方ないって……!」
呼びかけに応じる声は上方から返ってくる。ヴァルキューレの三人は既に近くの砂丘へと登り、少しでも視界を広げようとしていた。
砂丘の頂から見渡す景色はあまりにも単調で、そして残酷でもある。起伏はあるものの全てが似た形状をしており、此方の遠近感すら狂わせる。陽光が強まり始めたことで砂の表面は眩しく反射し、視界の奥ではかすかな揺らぎが生まれていた。
フブキは砂上に膝を突きながら掌で陽光を遮り、目を見開いて先生の影を捉えようと必死になる。漏れ出た言葉は湧き上がった感情そのものだ。理屈ではなく、ただ「そうであってほしくない」という願いが、そのまま口から溢れ出た。
「っ、アコ、私達も先生の捜索を――」
掠れた吐息と共に、ヒナが辛うじて身体を起こす。
砂に沈んでいた愛銃を引っ張り上げ、半ば強引に立ち上がろうとするが足は思うように力を伝えてくれない。全身に走る痛みと倦怠感、疲労が彼女の行動を咎めていた。
そんなヒナを慌てて止めるアコ。
彼女はか細い腕を掴み、無理にでも動きを止める。腕を掴んだ指先には、いつになく強い力が込められていた。
「ヒナ委員長、まだ動ける様な状態では――ッ」
「それは、先生だって同じでしょう……!」
訴えるアコに対し、ヒナは即座に云い返した。身体は弱っているはずなのに、滲む感情だけは強まっている。寧ろ、絞り出した声に込められた意思は普段以上にさえ感じられた。
こんな時に、じっとしてなんていられない。頭では理解している。自分の状態が万全ではないことも、このまま動けば危険だということも、碌に動けない自分一人加わった所でどうにもならない事も。
だが、だからと云って納得できる筈もない。
満身創痍なのは、皆同じなのだ。自分だけが膝を突く理由にはならない。寧ろ、誰もが限界の縁に立っている今だからこそ、動かなければならないのだと。
「手を貸して、アコ……!」
「ヒナ委員長――」
アコの肩を掴み、震える声で懇願するヒナに、アコは静かに息を呑んだ。ヒナを掴んだ掌が震え、微かに開いた唇から躊躇の息が漏れる。身体は限界を訴えているのに、心だけがそれを許さない――感情は、嘘を吐かない。
「―――……」
ミカとワカモの両名は、言葉を失ったままただ視線だけを遠くへ向けていた。
風が吹き抜ける度に足元の砂がわずかに流れ、その輪郭を崩していく。二人はその間、一切動く事が出来なかった。ただ呆然と空を、遥か彼方に存在する彼の残影を追っていた。
強い情念と執着の反動――とでも云うべきか。
大切だった、何よりも大切だったからこそ、それを失ってしまったかもしれないという絶望的な現実が、何よりも重い圧力となって彼女達の心と体を押し潰さんとしていた。
然もすれば心が壊れてしまう程に。
泣き喚く事が出来ればどれ程良かっただろう、慟哭を響かせる事が出来ればどれ程楽だっただろう、それすらも許さぬ程に二人の精神は捻じれ歪み、圧迫され、思考の一切を許さなかった。
これまで紡いで来た一切の道、希望、未来、それらが一切断たれた様な心地であった。
否、実際彼女達からすればそれこそが現実なのだ。
先生が存在しない世界など――もはや、何の意味も。
「……これが、私達の」
罪悪の結末。
サオリは項垂れ、砂地に蹲ったまま歯を食い縛る。
乾いた砂が膝の下でわずかに崩れ、指先が無意識に拳を象る。噛み締めた言葉は途切れ、その先を紡ぐことが出来ない。胸の奥に溜まった何かが喉元で引っ掛かり、吐き出すことも飲み込むことも許さないまま、ただ彼女の呼吸を乱した。
「―――……サッ、ちゃん」
「っ!」
耳に届いた小さな声が、サオリの沈黙を破る。
直ぐ傍で砂上に横たわっていたアツコが目覚めた。仰向けに転がったまま、視界の端に映るサオリの顔を見上げる。眩しさに耐えるように細められた視線が、ぼやけた世界を少しずつ明瞭に捉え始めた。
乾いた唇がわずかに動き、かすれた呼吸が漏れた。
「あ、アツコ……! 目が覚めて――」
サオリは弾かれたように顔を上げ、すぐさまアツコの傍へと身を寄せる。砂に膝をついたまま身を乗り出し、その小さな手を強く握り締めた。彼女の存在がそこにあることを確かめるように、何度も、何度も。
「みんな、は……」
定まらない視線のまま周囲を緩慢な動作で見渡すアツコは、自身の状態よりも先に仲間の安否を問うた。サオリは砂塵と血に汚れた目元を乱雑に拭い、安心させる為に務めて柔らかな口調で云った。
「無事だ、ヒヨリも、ミサキも……!」
「……良かった」
言葉にすると同時に、胸の奥に溜まっていた緊張がわずかに解ける。アツコの表情がふっと緩み、安堵がそのまま顔に浮かび上がった。ヒヨリも、ミサキも、負傷はしているがアツコの直ぐ傍で砂上に横たわっている。
家族が生きている。皆が無事で、傍にいる。
それだけで、アツコにとっては十分だった。
けれど――。
「――なら、先生は?」
もう一人、大事な人が居る。
続けて放たれた問い掛けが、静かにサオリの胸を刺した。
「っ」
問い掛けにサオリは硬直する。まるで時間が止まったかのように彼女の動きがぴたりと。震える唇で答えようとして、けれど言葉が詰まる。喉の奥まで出かかった言葉は形を成す前に崩れた。
何と伝えれば良いのか、何と答えれば良いのか、分からなかった。
ただ一つ確かなのは――傍に、求めた姿はないという現実だけ。
「……サッちゃん?」
純朴な、疑いを知らない声がサオリの名を呼んだ。
サオリは声を発する代わりに、アツコの手を握り締める指先に力を込めた。
力はまるで縋るようでもあり、同時に自分自身を繋ぎ止めるためのものでもあった。
さらさらと砂が音を立て、直ぐ脇を流れていく。残酷な風音だけが、沈黙を埋めるように響いていた。
「――あなた様?」
そんな中、砂漠の只中で呆然と佇むワカモは不意に何かを感じ取ったかのように呟いた。
鈍く沈んでいた眼光が、微かな火種の如く灯ると同時に、彼女は弾かれたように顔を上げ目を凝らす。
その視線の先――少しずつ世界を染め上げる陽光の向こう側に、確かな影を見た。
「っ!」
迷いは一瞬たりとも存在しなかった。ワカモは砂を蹴り上げ、一心不乱に走り出す。足場の悪さなど意に介さず、ただ一直線に。
ミカもまた、同様の感覚を覚えていた。身構えるよりも早く、その場に立ち尽くしていた両足は砂を踏み締め、ワカモの後を追う。
何かに導かれるように、抗えない衝動に突き動かされて。
「っ、な、何――?」
「あっ、あれ、あれって人影じゃない……っ!?」
二人の突然の動きに遅れて反応した者たちも、次々に視線を上げる。眩むような陽光の中、揺れる熱気の向こう側。確かにそこに影があった。人の輪郭を持つそれは、蜃気楼ではないと何故か分かった。
驚愕と、まさかという感情が連鎖する。疑念と希望が入り混じり胸を強く締め付けた。
「ッ、もしかして――!」
誰かが呟いたその言葉は、誰もが抱いた思いの代弁だった。力ない足取りは一歩、二歩と勢いをつけ、軈て動ける全員が小さな人影目指して必死に駆け出す。
「居たのか!?」
「人影があるって、向こう側に……!」
「なら、きっと!」
その場の誰もが同じ奇跡を思い描いていた。
沈みかけていた感情が一気に浮上し、崩れる足場に足を取られながらも構わず前へ進み続ける。転びそうになっても、自身の疲労や負傷などどこかに掻き消え、ただ一心に。
「先生っ!」
「先生ッ!」
「先生……!」
影の立つ砂丘は思った以上に高く、砂の坂道を這う様にして登っていく。胸の奥で膨らむ期待が、尽きかけていた力を湧き上がらせた。砂を踏み締め、指で掻き、小高い砂丘の頂きに踏み込む。
「あなた様――ッ」
いの一番に駆け出したワカモが、涙を堪え名を呼ぶ。
そして――ようやく頂に辿り着いたその先、陽光を背にして静かに佇む誰か。
風に揺れる純白の衣、眩むような白は陽光によく映える。砂塵の中にあって、あまりにも異質で、あまりにも鮮明な存在感。その背中を視界に捉えた時、辿り着いた生徒達は次々と言葉を失った。
「う、そ」
「……まさか」
頂きに踏み込んだ瞬間、全員の足が揃って緩む。死に物狂いの勢いは失われ、代わりに重たい静寂が場を支配する。自らの呼吸音すら聞こえて来るような気がした。
その姿を見間違えるはずがなかった、特徴的な容貌、立ち姿、纏う気配――すべてを彼女たちは知っている。
忘れる筈がない、たとえ一年に近い空白が存在したとしても、記憶の奥底に焼き付いた姿であるのだから。
「連邦、生徒会長……?」
誰かの震える呟きは、乾いた風に掻き消された。
そこに立っていたのは、彼女達が求めていた先生ではなく。
長らく行方不明とされていた、連邦生徒会長その人であった。
「――先生」
彼女は背後に集まった気配に気付いていた。
だが振り返ることはなく、ただ俯いたまま静かに先生の名を呼ぶ。頭上に煌めく幾つもの光、アトラ・ハシースの崩壊によって散り散りになった構造体が霧散していく。それがまるで流星の様に夜明けの空を奔っていた。
零れた声には感情の起伏がほとんど感じられない。ただ深く沈んだ何かが、僅かに滲むのみ。
これが結末なのか。
これが私達の辿り着いた答え――駆け抜けた物語の終わり。
先生が全てを費やした、
俯いた連邦生徒会長は自分自身に問いかける。
――いいや、違う。
■
『ずっと妬ましかった、いや、恨んでいたのかな』
D.U.総合病院――深夜。
街の喧騒も遠く、シャーレ襲撃の騒動を経て未だ目覚めぬ先生のために用意された病室の一角は、まるで時間そのものが停滞しているかのように静かで、色を持たなかった。無機質な電子音が規則正しく鳴り続け、人工呼吸器が奏でる機械的な呼吸のリズムが、彼の存在をかろうじて繋ぎ止めている。
その音の合間を縫うように、ひとりの影が佇んでいる。
傍らの小型医療ワゴンに安置され、ほのかに光を宿した画面を点灯させるシッテムの箱。その淡い光に照らされながら、彼女――銀狼はまるで誰にも聞かれてはならない秘密を打ち明けるかのように低く、囁くような声で語り掛けていた。
当然銀狼はシッテムの箱を、その中に存在するアロナを認識していない。
だが彼女は知識として知っている。
一瞬の事であった。
気付けば、という表現が正しい程に唐突に、彼女は夜の闇に紛れて病室へと現れた。未だ目覚めない先生を云々する為ではないのだろう――それは彼女がシッテムの箱を、彼女の目から見れば単なるタブレットを見つめ語り掛けている事から明らかであった。
『あんな結末を引き起こしたのに、貴女は先生の一番近くに居て、信頼されて――』
『………』
『でも多分、私のやり方は間違っていたんだろうね』
ぽつりと零れた銀狼の言葉は、静寂の中でやけに重く響いた。
彼女は自嘲する様に、ほんの僅かに口元を歪める。零れた笑みは笑いと呼ぶにはあまりにも歪で、痛々しいものだった。多くの犠牲を支払った、是を非としても救いたいと思った――それが正しいとは思わない、ただそう在って欲しいと願っただけだ。
けれど、その道は。
『私は結局、先生の力になれなかった、無理矢理先生の道を捻じ曲げようとしたって、意味がないのにね』
言葉を吐露する程に奥底に沈んでいた感情が滲み出てくる。悔恨と自責の念、そしてどうしようもない無力感。それらが混ざり合い、彼女の全身に重く絡みつく。
『それが、やっと分かったよ』
誰に聞かせるでもなく、あるいは自分自身に言い聞かせるように、彼女は小さく息を吐く。そうだ、これは先生への告解であり、仲間達への懺悔であり、独白だ。最早聞き届ける者の存在しない、独りよがりな。
けれど決して無意味ではない。
意味を与える為に、銀狼は先生の目覚めぬ内に此処へと足を運んだ。
『だから、最後に託す』
告げると同時に、これまで力なく俯いていた顔を上げる。暮明に沈んでいた表情に青白い光が差し込んだ。瞳には先程までの揺らぎとは異なる、ある種の決然とした光が宿っていた。
彼女の指先が、シッテムの箱に触れる。
『――ゲマトリアの力を借りて作り出した器がある、それを先生自身と繋ぐ事が出来れば、多分先生の存在を繋ぎとめる事が出来る』
名を、【パルーシアの再現】
再臨を意味するそれは来る終末の刻に備え、ゲマトリアが総力を挙げて形作り、黒服が最終調整を施している最中の器である。彼の聖者を世界に繋ぎとめ、傍らに存在する者として残す。完全には不可能だろう、だが断片的であっても浸食に抗う事さえ叶えば――可能性はある。
『けれど私達が用意出来たのは仮初の器に過ぎない、【大人のカード】は存在そのものを削る、奇跡の行使によって先生という存在が完全に摩耗すれば、助ける事は出来ない』
何もかもが予定通りとはいかない。そもそも未だ完成とは云い難い代物であり、故に仮初。恐らく器が完成するよりも早く、彼の者はこのキヴォトスを再び見つけ出すだろう。
加えて用意したそれが本当に器として機能するかどうかすら分からない。
成功の保証など、どこにも存在しない。
『チャンスは一回、何もかもが不安定で、確定された未来なんてない』
銀狼は自ら語りながら実感する。なんと無謀で、無茶で、危うい賭けに等しい行為か。凄まじい困難である事は誰の目から見ても明らかである。
それこそ、これが成就するのは――文字通り【奇跡】のような可能性。
けれど、もし。
ほんの僅かでも、その可能性を掴む事が出来るのなら。
『先生すら選ばなかった様な、そんな大きな奇跡が起きるとすれば』
銀狼は静かに見つめる。
シッテムの箱を――その中で佇む、
目に見えずとも分かる。向けられる眼差しには、これまで抱えてきた感情のすべてと、最後に残された願いが込められている。
どれだけ希っても、力を求めても、世界を超えても尚、その手は届かなかった。
だから、そんな未来に至る可能性があるとすれば。
それはきっと。
『それはきっと、
だから。
羨望も、嫉妬も、悔しさも、その全てを擲って。
銀狼は暗闇の中で眠る先生を暫し見つめ、それから静かに頭を下げ告げた。
『……私達の先生を、どうか、お願いします』
――連邦生徒会長
■
「―――」
言葉にならない想いが胸の奥で確かに渦巻き、連邦生徒会長の心を軋ませた。
ただ、その沈黙の中でさえ彼女の内側では幾つもの記憶が鮮烈に蘇り、途切れることなく流れ続ける。
記憶の中で此方を見据える彼女の幻影が、砂漠の只中に立つ連邦生徒会長の背中を押した。
幾度も歩み、迷い、選び、戦い、そして踏み越えて来た軌跡――その一つ一つが、今この瞬間の彼女を形作っている。
彼女の手元には色褪せた小さな一枚のカードが握られていた。
それこそは
表面は使い古されたように擦れ、所々欠けた今にも砕けてしまいそうな代物。しかし内に秘められた力は未だ失われてはいないことを彼女は知っている。本来この世界に生きる先生へと託されたそれは、転移の瞬間――彼女の手元へと移っていた。
――これが正真正銘、最後の選択
■
『チャンスは一回、何もかもが不安定で、確定された未来なんてない』
■
銀狼の言葉が脳裏を過った。
幾度も、幾度も。
視線は、遥か上空――今もなお帰還の叶わぬ場所にいるであろう先生へと向けられる。届くはずのない距離、救える筈がない状況、それでも確かにそこに居る彼を思い描きながら、彼女は静かに息を整えた。
心に、決意が宿る。
「れ、連邦生徒会長、一体今までどこに……」
「………」
背後から恐る恐る、困惑と驚愕を滲ませた生徒が歩み寄る。砂を踏みしめる足音が、乾いた空気の中でやけに大きく響いた。最初に声を上げたのはカヤだった、愕然と、僅かに震える声で疑問をぶつけた。其処に立つ誰もが同様の感情を抱いている事は明らかであった。
しかし、今はその疑問よりも優先するべき事がある。
「そんな事より、先生は――ッ!?」
震えるカヤを押し退け、ミカが叫んだ。
切羽詰まった、鬼気迫る表情であった。
先生が立っているべき場所に今まで行方不明であった連邦生徒会長が佇んでいる。
その事実はあまりにも唐突で、突然で、理解が追いつかず感情が定まらない。
「皆さん」
「……!」
そんな彼女達に対し、緩慢な所作で振り返る連邦生徒会長。靡く純白の外套が音を鳴らし、長い髪がふわりと躍る。彼女の背後には僅かずつ昇る太陽の光が差し込み、砂漠の地平線を越えて伸びた光が彼女の輪郭を明確に縁取っていた。
――夜明けが来る。
夜の名残をわずかに引きずった空は、東の地平から静かに色を変えはじめている。深い群青はやがて薄らぎ、淡い蒼へと溶け、その境目に滲むようにして桃色と橙が幾層にも重なっていた。
空はすでに完全な目覚めへと向かい始めていた。
青は一層澄み渡り、雲は金色から淡い白へと変わり始める。だがその移ろいの中にも、確かに刻まれている——ほんの僅かな時間だけ許された、燃えるような朝焼けの余韻。
「っ……」
差し込む眩い光に生徒達が思わず瞳を細める。濃い影が連邦生徒会長の姿を包み、超然とした立ち姿も相まって神秘的とも云える光景が生まれる。
彼女を照らす陽光はただの自然現象ではなく、まるでこれから選び取ろうとしている未来そのものを象徴しているかのように、熱く、眩く、輝いて見えた。
「どうか、私に力を貸して下さい」
その中で彼女は一歩、前へと踏み出す。
決して大きな声ではなかった。
それでも不思議と遠くまで届く声だった。砂漠という遮るもののない空間の中で、彼女が発した声は真っ直ぐに、集った生徒達一人一人へと伝わった。
「私が姿を晦ましていた理由、これまでの事情、何故私が今此処に立っているのか、疑問に思う事、問わねばならない事は数え切れない程あるでしょう」
ですが今は何よりも優先すべき事が――助けたい
今尚煌めく、この空の上に。
ゆっくりと、彼女は空を仰ぐ。乾いた砂漠の空はどこまでも澄み渡り、果ての見えない蒼穹が広がっている。その中で、彼女の瞳はただ一点を捉えていた。
この宙の向こう側、遥か彼方に存在していた巨大構造体――アトラ・ハシース。
その砕けた残骸がほんの小さな点となって、空に白い軌跡を描いて流れていく。
無数の残骸に混じって一際煌めく、流れ星に似た一筋の光がゆっくりと遥か彼方を奔っていた。
目に捉える事さえ叶わない、曖昧なほどに遠く、手の届かない場所。それでも確かにそこにいる存在。
彼女にとっては、絶対に見失う筈のない光。
「あの人を助ける為に、この場に居る全員……」
呟きながら、彼女はゆっくりと色褪せた大人のカードを掲げる。
残された奇跡はごく僅か、これだけでは到底届く事の無い未来。
だから必要だった、一人でも多くの協力が、希望が、願いが――。
「……いいえ、この世界に
それはきっと、一人では成し得ない奇跡。
だからこそ、この世界に生きる者たち、その一人一人の
陽光が煌めく、朝日に照らされた生徒ひとりひとりを見つめる。その瞳に宿った意志を彼女は真っ直ぐ受け止める。
何が本当に正しいかなんて、きっと誰にも分からない。
罪悪も、未来も、幸福の形さえも。
けれどこれが、あなたが苦しむ物語なら。
「……ッ」
連邦生徒会長が息を吸い込み、遥か彼方を見据える。まるで
彼女は朝焼けに染まる蒼穹を臨み、あらん限りの力を振り絞り叫んだ。
「――これから、奇跡を起こします!」
それだけは、絶対に間違っていると思うから。
「―――……」
彼女が微睡より目を覚ました時、世界は何もかもが白く染まっていた。
ひらり、ひらりと視界にチラつく白色、寝転がった自分の背中に伝わって来る冷たさ、痛みすら覚えるそれに目を瞬かせ、ゆっくりと身を起こす。
「こ、こは――?」
渇き、表面が切れた唇で呟いた。
場所は――街のどこか、なのだろうか。
随分静かで、殺風景な所だと思った。正面に見える古びた外壁の建物、その外れにある簡素な建物。錆び付き、雪を被った幾つかの自転車を目視し、此処が駐輪場なのだと理解した。
不意にぶるりと身を震わせる。暫し沈黙を守った後、彼女は自身の周囲を彩り舞い散る白が何であるかを理解した。
「雪……」
周囲に積もった冷たさ、肌を刺す様な冷気の正体はそれだ。曇天から降り注ぐ雪は周囲一面を覆い尽くし、口から零れる吐息は直ぐに濁った。
見れば自身が身に纏うのはみすぼらしい襤褸切れ一枚、どうりで寒い筈だと掌を擦り合わせ、サイズの合わない襤褸布を掴んで体に巻き付ける。よく見れば自身の体は傷だらけで、小さな掌には沢山の痣が散りばめられ、乾いた血がべったりと張り付いていた。節々が痛む、足先から頭の天辺まで、呼吸一つすら鈍痛を伴った。
何で自分はこんなに傷だらけなのだろう。
何で自分はこんな所に居るのだろう。
何で自分は――こんなにも。
「さむ、い」
思考は即座に、自身の体を蝕む冷気に遮られた。
こんな穴だらけの布切れ一枚で、一体どうやって冬空の寒さを防ぐと云うのか。どれだけ体に巻き付けようとも、その生地は吹きすさぶ風ひとつ遮ってはくれない。風に靡く短い髪に首を埋めながら、彼女はじっとその場で寒さを堪え続ける。
「おやぁ、こんな所に誰かいるなんて珍しいねぇ」
「っ……!」
間延びした、随分呑気な声が聞こえた。
意識せず肩が跳ね、思わず座ったまま後退った。
その声を耳にした瞬間、何故か心臓がきゅっと痛みを発したのだ。
「ん、あれ?」
「この子は……?」
ざくり、ざくりと。
雪を踏み締める音、それから伸びる二つの影。
咄嗟に顔を上げれば、緩慢な足取りで此方に向かって来る誰かの顔が見えた。
片方は小柄で、何だか気怠そうな気配を纏った人物。もう片方は疑念と警戒、それと僅かな心配を含んだ気配を持つ人物。厚手のコートに身を包んだ彼女達は、この寒空の下で碌な衣服も身に纏わず縮こまる矮躯を目視し、ゆっくりと膝を折った。
「ねぇ、どうしたのこんな所で?」
「………」
髪を一つに縛り、水色のマフラーを身に着けた少女が問うた。問い掛けに、けれど答える術が無かった。彼女自身、その理由を知らないのだから。
唇を固く結び沈黙を守るボロボロの少女を前に、二人は困ったように顔を見合わせた。
「見たことがない制服ですが、いえ、そもそもこれ、制服でもないんじゃ――」
「うーん」
黄金に似た、眩い髪の彼女が蹲った少女の身に纏う衣服を指差し告げる。
少女が身に纏う、黒い襤褸切れにしか見えない代物――だがよく観察すれば所々に小奇麗な装飾の影が見え隠れし、元はドレスの様な形状だったのかもしれないと思った。
本来は上質な衣服だったのか、しかしそれにしてはサイズが余りにも大きすぎる。小さな体格の少女からすれば、それは酷い状態も合わさり正にただの大きな布切れだった。
「ねぇ、何処から来たの? 所属している学園は? お家はどこ?
「……分かんない」
矢継ぎ早に投げかけられるそれに、正直に答えた。その場に座り直し、膝に顔を埋めながらぶっきらぼうに発せられた声。何処から来たのか、所属している学園はあるのか、此処に何の目的でやって来たのか。
「えっ!? わ、分からないって……」
「本当に、何も分からない」
驚きの声を上げる目前の人物に対し、少女は素直に答えを重ねた。どれだけ問われても答えは同じだ。少女の中に残っているものは、何一つない。今この握り締めた襤褸切れ一枚、それが自身の全てだった。
「もしかして、記憶喪失って奴かなぁ?」
「そんな記憶喪失って、えっと、ど、どうしましょう……!?」
「ん~」
二人が顔を寄せ合い、困った様子で言葉を交わす。話した限り、どうにも嘘という感じでもない。少女の状態は本人の言葉を裏付ける、これ以上ない程の説得力を持っていた。誰がこんな雪の日に襤褸切れ一枚で出歩こうと考えるのか。ましてやこんな、痣だらけの矮躯を見せられてしまえば尚の事。
桃色の髪をした少女は暫し首元のマフラーに指を掛けながら思案する素振りを見せ、それからポンと掌を打って云った。
「取り敢えず、校舎に連れて行こうか」
「えっ!? 一緒に行くんですか!?」
「流石に放ってはおけないでしょ、訳アリっぽいし」
へらりと笑って、何でもない事の様に告げる少女に対しもう片側の少女は驚きと困惑の声を上げた。
しかし、どうにも意思は固い様だ。
この寒空の下、ぱっと見て悪人でもない子を放置するなんて出来ないよ、と。
彼女はそう云って首元のマフラーを無造作に解く。
「取り敢えずコレ、巻いておきなよ」
「ん……」
「そんな薄着じゃ、寒いでしょう?」
彼女は何の躊躇もなく薄汚れた少女の目と鼻の先まで踏み込むと、その剥き出しの肩と首元に水色のマフラーを優しく巻き付けた。柔らかな生地に、ふわりと香る優しい匂い。ぎこちなく視線を上げると、朗らかに微笑む彼女と目が合う。
「どう、少しはマシになったんじゃない?」
「……うん」
巻き付けられた暖かなマフラーに口元を埋め、徐に目を閉じる。
「――暖かい」
肉体的な話だけではない、精神的な――心の奥から暖まる様な何かを感じた。吹きすさぶ寒風が今だけは気にならない。暫しそうやってマフラーに顔を埋める少女。
「小鳥遊ホシノ」
「……?」
「おじさんの名前だよ――ほら、立って」
彼女――ホシノはそう云って掌を差し出した。
あまりにも無造作に差し出されたそれに面食らって、一拍置いて恐る恐る手を取った。力強く、暖かな掌が少女の指先を掴み体を引き起こす。細く、血の滲んだ両足が冷たい剥き出しのコンクリートを踏み締めた。
「えっと、私は十六夜ノノミです」
「自分の名前は分かる? それとも、それも憶えていないかな」
「……名前」
二人の名前を聞いて、少女は暫し目を泳がせた。
此方を覗き込む二人組、ホシノとノノミ。
少女は向けられる視線にたじろぎながら、自分の中にある記憶を掘り起こす。空っぽだと思っていた己の中に、ふと湧き上がる何かがあった。
「―――……ぎん」
「ん、銀?」
その何かに導かれて、掠れた唇で衝動的に答えようとした。
けれど、誰かが開きかけた唇に手を当て――諭された様な気がした。
そっちは違う、と。
「……ううん」
緩く首を振って、息を吸う。
ぎゅっと胸元で握り締めた指先が、擦り切れた黒い
「……私は、砂狼」
顔を上げ、二人の瞳を真っ直ぐ見返しながら答える。
「砂狼、シロコ」
それが、私の名前。
この世界に存在する――私自身の名前だ。
「じゃあ、シロコちゃんだね! よろしく」
「あ、えっと、その、よろしくお願い致します、シロコちゃん!」
「―――……」
シロコちゃん。
■
【うへぇ、シロコちゃん、おじさんまだ眠いよぉ……昨日も夜遅くまで動き回っていたから、もうちょっと、あと五分だけ寝かせてぇ~……】
【シロコちゃん、今日は来週分のおやつを買いに、ショッピングに付き合ってくれませんか? 今日は色々と新しい
【あっシロコ先輩、丁度良かった! 実は倉庫の整理をしていたら幾つか売れそうな物品が見つかって……先程査定を頼んだ所なので、校門まで一緒に運んで頂けませんか?】
【シロコ先輩、さっき凄く良いバイトの求人を見つけたの! これ、この時給と内容すっごく良くない!? ……いや、銀行強盗の方が儲かるとか、それ絶対ホシノ先輩に怒られるからやめてよねッ!?】
■
「……ありゃ、どうしたのシロコちゃん?」
不意に、ホシノが驚いた様に目を瞬かせた。
目の前のシロコが急に涙を流し始めたからだ。大粒の涙がひとつ、また一つと頬を伝って落ちていく。突然のそれに面食らい、ノノミは慌てて自身の鞄に手を突っ込んだ。
「もしかして、何処か痛い所でもあるんじゃ――凄いボロボロですし、えっと、確か消毒液とか、絆創膏なら手元にありますから……!」
「……ううん」
直ぐに手当てしようと身を乗り出すノノミに対し、シコロは緩く首を振った。目元を慌てて乱雑に拭って、もう一度マフラーに顔を埋める。何となく、その恰好が一番落ち着いた。自分はずっと、これに包まれていたかのような気さえした。
「ただ、その……」
涙を流したのは痛かったからではない。
それだけは、決してない。
これは、この感情は――。
シロコは恥ずかしそうに、けれど同時に嬉しそうに、徐に二人を見上げると精一杯、不格好ながらに口元を緩めて。
くしゃくしゃの笑顔と共に告げた。
「――なんだか、懐かしくて」