ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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これまでの全てに感謝を。


全ての愛する人々の為に(遍く未来の笑顔の為に)

 

【――……】

 

 泥の中に埋もれたような心地だった。

 

 意識は微睡、どこまでも深く沈降していくようで、それでいて完全に失われることもなくただ曖昧な境界を漂い続けている。

 全身を包むひんやりとした冷たさは、水に浸されているかのように均一で、重さも輪郭も希薄だった。言葉に出来ない虚脱感が四肢の先まで絡みつき、それが自分の感覚なのかすら判然としない。

 

 痛い程の静寂――音が無いのではなく、静けさそのものが圧となって押し寄せるような。

 

 己が歩みを始めて、どれ程の時間が経過しただろうか?

 ただ時間を忘れる程に、夜空を仰ぎ歩く。

 

 視界に広がっていたのは現実感の希薄な光景。

 頭上には数え切れないほどの星々が散りばめられ、濃淡を帯びた煌めきの川が夜空を縦断している。その輝きはあまりにも鮮烈で、まるで空そのものが生きているかのように錯覚する程だった。

 

 見覚えのない、見知らぬ場所だった。

 だが、不思議と恐怖はなかった。

 ただ、自分がここにいる理由だけがぽっかりと抜け落ちていた。

 満天の星空と、その夜空を反射する水面。

 波一つ立たない鏡のような水が空をそのまま写し取り、上下の境界を曖昧にしている。歩くたびに微かな揺らぎが光を歪め、まるで星々の中を踏みしめているかのような心地。

 

【………】

 

 何故だか、此処を進まなくちゃいけない気がした。

 理由は分からない。

 ただ、この足を止めることが何か、途轍もなく罪深い事の様に思えて仕方なかった。

 

 足元には自分を導くかのように一本のレールが敷かれている。

 水面の上に、不自然なほど真っ直ぐに延びるそれは確かな実体を持ちながら、この幻想的な景色から浮き上がることなく溶け込んでいた。

 冷たく、物云わぬ、ただそこにあるだけの鉄の道。

 それが遥か彼方まで続く道標となった。

 

 この道は、一体どこまで続いているのだろうか?

 視界の果てを越え、星の彼方へと繋がっているかもしれない。

 こんなレールがあるというのなら、此処は元々列車が走っていたのだろうか。それを辿るように今、自分は歩いている。それは何故だろう。本来あるべき姿から外れた行為に、違和感だけが残る。乗るべきものに乗らず、ただ歩いている理由とは。

 或いは、途中下車でもしてしまったのだろうか。

 この果てしない(水面)で、何故そんな事を。

 

 分からないまま、夜空に覆われた世界を見つめながら、闇雲に歩みを進めた。

 足音はほとんど響かず、水面を揺らす微かな波紋だけが前に進んでいる証だった。星々は相変わらず瞬き続け、レールは歩けども歩けども水面の向こう側に伸び、ただひたすらに終わりは見えない。

 

「ねぇ、そっちじゃないわよ」

【……?】

 

 そんな己の歩みを咎める存在が居た。

 静寂と星の海に満たされたこの場所において、本来ならば自分以外の気配など感じ取れなかった筈なのに。

 だが、その声は確かな質感を伴って耳に届き、意識の奥を揺さぶった。

 

 いつの間にか――と表現する他ない程に、唐突に、突然に彼女は直ぐ隣に現れ、此方の腕を力強く掴んだ。

 

 気配も、足音も、兆しすらなかった。彼女の手は驚く程に鮮明な温度を持っていて、この冷え切った世界の中では異質なほどに生々しく、腕を捉える感触が、ぼやけていた自分の輪郭を無理やり引き戻してくる様な。

 

【―――】

「全く、アビドスでもよく迷子になっていたけれど、こんな場所でもそうなの?」

 

 彼女は薄汚れた外套を身に纏ったまま、呆れた様子で此方を見つめていた。

 羽織った外套は彼女の長い旅路を物語るかのように擦り切れ、ところどころに砂や埃の痕が残っている。それでも、佇まいには奇妙なまでの自負が宿っていて、只人ではない何かを感じさせた。

 

「まぁ確かに、貴方って良く思い出してみたら結構うっかりな所とかもあったわね、そういう所が愛嬌と云えば、そうなのでしょうけれど」

 

 どこか親し気に、或いは懐かしそうに。

 彼女の声音は軽口のようでありながら奥底には温もりが滲んでいる。それは単なる知人に向けるものではなく、もっと深く、長い時間を共有した相手に向けるものだと直感できた。

 勘違いでなければ、彼女の口調には深い親愛が込められている様に思う。

 その響きは、記憶のどこかを微かに揺さぶる。だが掴もうとした瞬間、霧のように指の隙間からこぼれ落ちていく。

 自分の知らない自分を鏡で見せられている様な気分だった。

 

【………】

 

 あまりにも優しい口調で宣うものだから、暫く呆気にとられた。

 警戒も疑念も抱く暇すらなく耳に届く声に包み込まれるように意識が緩み、ただ立ち尽くしてしまう。

 

「ふふっ、そんな呆然とした表情の貴方を見るのは初めてね」

 

 彼女はそう云って、楽しそうに笑った。

 笑みはどこかいたずらっぽく、それでいて隠し切れない喜びを含んでいる。再会を果たした者が見せるような、安堵にも似た柔らかさがそこにはあった。

 

「ほら、ぼやっとしないで」

 

 トン、と。

 優しい力で背中を押された。

 一押しは決して強くない。それでも曖昧な感覚に支配された己の中では十分すぎるほどの確かさを持ち、停滞していた両足を強引に前へと押し出した。

 一歩、二歩と、蹈鞴を踏んだ両足、踏み締めた水面が大きな波紋を起こす。

 

 気付けば、自分の進んでいたレールの横に――全く存在しなかった、もう一つの道が生まれていた。

 

 それは先ほどまで確かに無かったはずのものだ。

 だが今は当然のようにそこに在り、彼女はこれまで己が辿って来た(レール)ではなく、そちらへと己を導いた。

 まるで、これから進むべき道を最初から知っているかのように。

 

「しゃんとなさい、貴方は私の……」

 

 振り返ると、此方を押し出した格好のまま彼女は堂々と胸を張る。

 星空を背負うその輪郭は、どこか誇らしげに輝いている。少しだけ大人びた、けれど芯は何一つあの頃から変わっていない――それは地獄だろうと楽園だろうと、はたまた魔道であろうと関係ない。

 長髪を靡かせ、羽織った愛用のコート(外套)を指先で払う彼女は、その瞳に変わらない信頼と親愛を込め叫んだ。

 

「――私達の経営顧問なんだから!」

 

 満天の夜空に彼女の声が響き渡り、声が遠く溶けていく頃には、既に彼女の姿はどこにも無かった。

 

 気付けば影さえ残らず消えていた。

 まるで最初から存在していなかったかのように。

 先ほどまで隣に立ち、触れていたはずの温もりすら現実だったのか疑わしくなる程、唐突に。

 

【………】

 

 己はその場に取り残されたまま、しばらく立ち竦んだ。何をするべきかも分からず、ただ、消えてしまった彼女の余韻だけを視線で探した。探す理由すら曖昧だというのに、何故だかその影を惜しんでいる自分自身が居た。

 しかし幾ら待てども捉えられない彼女の残影に、軈て首を緩く振り、ゆっくりとその両足を動かし始めた。

 彼女に背中を押された方向へと、漠然とした足取りで。

 

 一歩、また一歩と重ねるうちに――何故だか、己の歩みは重くなっていく様な気がした。

 先程までと同じはずの水面が、わずかに抵抗を持っているような。

 足を上げるたびに見えない何かに引き止められているような。

 錯覚だろう、そんな筈はないと分かっている。だというのに何故か、その重みを振り切る事が出来なかった。

 

 ■

 

 また暫く歩き続けた、彼女が示した通りに背中を押された道を。

 どれ程の時間が経ったのかは分からない。

 空は変わらず星に満ち、水面は静かにそれを映し続けている。歩いているはずなのに、やはり道の終わりは見えない。延々と変わらない視界には、奇妙な停滞感が付き纏った。

 

【ん……?】

 

 不意に、くっと袖を引かれる。

 感触はあまりにも小さく、か細いものだったが、それでも確かな抵抗を持ってこちらを引き止めた。

 

「せ、先生、こっちでは、無いです」

 

 見下ろすと、小柄な影が私の衣服を握り締めていた。

 滑り落ち顔を覆う長いくせ毛。ダボっとした衣服から覗く手は華奢で、頼りなく見えるほど細い。それでも決して離すまいとする意思が込められていて、指先を微かに震わせながらもしっかりと此方を掴んでいる。

 伸びた袖に釣られるように、思わず身を屈めた。

 彼女は此方が顔を覗き込むと、恥ずかしそうに、どこか申し訳なさそうに視線を彷徨わせた。

 

「こっちには、皆が居ますけれど……でも、先生が戻るべき場所は、違います」

【………】

 

 戻るべき場所とは、何だろう。

 皆とは誰だろう。

 

「だっ、大丈夫です」

 

 唇が疑問を口ずさむよりも早く、彼女は忙しなく口を開いた。言葉を選ぶように、しかし躊躇う暇も惜しむように必死で。衣服に掛かった彼女の指が、一際強く己を引いた。

 

「きっと、戻れます」

【……戻れる?】

「はい」

 

 戻るって、何処に。

 口に出そうとして、言葉を呑み込んだ。

 何故なら、目の前の少女が余りにも優しく微笑むから。

 笑みは不安を押し隠すようなものではなく、純粋に信じている者のそれだった。根拠など必要としない、ただ『きっとそうなる』と疑わない強さを持った色だ。

 浮かんだ表情に触れた瞬間、問いかけるべき言葉は行き場を失い、腹の奥底へと沈んでいった。

 

「だって、先生を待っている人達が沢山居るんですから」

【………】

「だから、こんな所で立ち止まっちゃ駄目です」

 

 そう云って彼女は何度も頷いた。

 仕草は幼くも見える、けれど彼女自身が内に秘めた信念、或いは矜持と呼べるものはあまりにも強固で。

 

「やっぱり冒険の最後は、皆笑顔になれるようなエンディングじゃないと」

【……冒険の、最後】

「はい、皆に教えて貰ったんです」

 

 彼女はそう云って、何かを思い出す様に目を閉じる。

 口元に浮かぶ微笑みには懐かしさと、少しの誇らしさが混じっていた。

 皆と共有した時間、これまで歩んで来た道、その中で得た言葉や想い出、冒険の記録は今もなお彼女の中で息づいていて。

 

「勇者の冒険、その最後は」

 

 だからこそ、誰よりも信じているのだ。 

 目を開き、先ほどよりもずっと明るく、一切の疑念を抱かない純粋な輝きを宿した笑顔を浮かべた彼女は。

 自身の胸元を強く叩きながら、迷いのない声で断じた。

 

「――やっぱり、笑顔(ハッピーエンド)で終わるものですから!」

 

 握られていた袖が、不意に揺れた。

 気付けば何の前触れもなく、そこに居た筈の彼女の姿は何処にも見えなくなっていた。顔を上げて周囲を見渡す、けれど影さえ捉える事は出来ない。引かれていた袖が力なく垂れ、空虚な風が頬を撫でた。

 

【……笑顔】

 

 唇より零れた言葉が、やけに重々しく沈んでいく。

 それは己の根幹を強く揺り動かす響きを伴った。

 

 自分はずっとその言葉に――何か、諦めきれない何かを抱いていた様な気がした。

 

 忘れていたはずの何かが、彼女達と触れた事をきっかけに蘇りかける。だが、その全体像は朧げなまま、欠けたままだ。

 

【………】

 

 与えられた余熱が冷めぬ内に、己は再び歩みを進めた。

 消えかけの灯火を追うように、残された微かな熱を頼りにして足を動かす。水面に刻まれる波紋は先ほどよりも僅かに力強く広がり、夜空の星々を揺り動かした。

 

 ■

 

「あ、やっと来たじゃん、もう待ちくたびれたよ~」

 

 静寂と共に、また暫く歩き続けた先。

 水面の只中で屈み込む誰かの影を視界に捉えた。

 星を映す鏡の中央にぽつりと浮かぶその姿は、最初はただの曖昧な影にしか見えなかった。だが声と共に輪郭がはっきりと浮き上がり、やがて一人の人物として像を結ぶ。

 

 彼女は此方に気付くと、ぱっと表情を変化させて大きく腕を振る。仕草は無邪気で、どこか遠慮がなく、こちらの戸惑いなどお構いなしに距離を詰めてくるような勢いがあった。

 

 屈んでいた人影は緩慢な動作で立ち上がると、小走りで駆け寄って来た。水面を蹴るたびに小さな波紋が広がり、星の光が弾けるように揺れる。

 足取りは軽く、直ぐ手前で足を止めた彼女は此方を覗き込む様に上体を沈めた。

 

「えっ、何その顔? 私だって最低限の礼儀位はあるよ、知っているでしょ?」

 

 彼女は此方を覗き込むや否や、そのような事を宣った。こちらの表情を確かめるように、じっと視線を合わせてくる。

 意外そうな顔を――していたのだろうか。

 自分では分からない。感情の動きは確かにあるのに、それがどのように表情へ現れているのかがいまいち掴めない。

 浮かんだ表情を確かめる様に自身の頬を撫でた。

 

「此処ってドーナッツも無いしさ、手持ち無沙汰でしょうがなかったんだよね~、って事でホラさっさと進もう? 行先は私が知っているから」

【ぁ……】

 

 此方を覗き込んでいた彼女は所在なさげに垂れていた己の手を遠慮なく取り、勢い良く歩き始めた。

 握られた手はしっとりとした温度を持ち、ごつごつとしたマメが感じられた。引っ張られる力も強く、こちらの意思など関係なく前へと進ませる活力がある。されるがままに足を進めた。拒む理由も、止まる理由も見当たらないから。

 ただ彼女の手に引かれて、長く伸びたレールの上を共に歩き始める。

 

「それにしても先生って真面目だよねぇ、色んな事背負い過ぎって云うか、途中でそんなモン知るかぁ~! ってならない訳?」

【………】

「我慢できるって云っても、色々限度っていうものがあるでしょ普通」

 

 歩きながら、彼女は呆れたように振り向き云った。

 緩く細められた瞳が此方を捉える。紡がれるのは軽口のようであり、同時にどこか棘がある。だがそれは責める為のものではなく、むしろ相手を理解しているからこそ出てくる、憂慮と配慮とでも表現すべき代物だろう。己は返す言葉が無く、どこか誤魔化す様に視線を逸らした。

 身に覚えのない事の筈なのに、胸の中に何とも表現し難い苦々しい感情が湧き上がって来る気がした。

 

「って、今頃云っても仕方ないかぁ」

 

 何て云ったって、先生だし。

 そんな風に苦笑を零す。

 目の前の彼女は、自分の事を良く知っている様だった。

 ズキリと、胸が痛む。

 憶えていない事が、何故だか泣きたいほどに苦しかった。

 

「もっと早く、知っていたら良かったのにね……いや知ろうとしなかったのは私の方か」

 

 軽く笑い飛ばす仕草の裏に、一瞬だけ影を帯びる。言葉の端に滲むのは後悔か、それとも別の感情か。それを追う間もなく彼女は再び前を向き、変わらぬ足取りで此方を導いていく。

 突然、一際強い力で腕を引かれた。

 

「ほら、この先だよ、さっさと進んだ進んだ!」

【わっ……】

 

 躊躇う間もなく勢いよく前へと身体が傾き、足元の水面が大きく揺れた。バランスを崩しかけながらも、咄嗟に足を踏み出して体勢を立て直す。数歩蹈鞴を踏み、彼女の前に立った。

 波紋が幾重にも広がり、星の光を歪めながら静かに消えていく。

 

「ねぇ先生、今更っちゃ今更だけれどさ」

 

 振り返った己に、彼女は誇らしげに胸を張って口角を上げる。星明りに照らされた彼女の姿は、不思議なほど鮮明に映った。浮かぶ表情はどこか勝ち誇ったようで、それでいて楽観的な無邪気さをも孕む。

 

 これは自分の中で辿り着いた答え、随分と長い遠回りをしたけれど――。

 

「私も色々経験して分かった、やっぱり息抜きは大事、っていうか効率的にサボった方が良いって! 何事もテキトー位が丁度良いんだよ、きっと!」

 

 軽やかに、何ら悪びれなく彼女は宣う。

 特に先生は、もっとサボった方が良かったと。

 日々の小さな事でも、或いは――もっと大きな、運命を賭した事であっても。

 それで幾分かでも、苦しみが和らぐのであれば。

 時には両手を挙げて、誰かに縋る事も大事だったのではないだろうか。

 

「なんて、今更口にするには遅すぎって感じだけれど」

 

 そう付け加えて、彼女は徐に腕を上げだらけた敬礼を見せる。

 露骨に曲がった指先はふざけているようでいて、どこか照れ隠しのようでもあり、ほんの少しだけ真剣さが混じっているようにも見えた。

 

「向こうに着いたら、コノカ局長……じゃなかった、副局長とかカンナ局長、キリノに云っておいて? 放っておくと、際限なく根詰めちゃうから、私は――まぁ、どうせ勝手にサボるでしょ」

 

 さらりと告げられた自身への後ろ向きな期待。

 己はその言葉を、どこか他人事のように聞いていた。

 言葉は理解出来る。名前も、関係性も、役職さえも。だが、それに紐づくはずの記憶だけが変わらず欠落していた。

 誰だろう、誰に彼女の言葉を伝えれば――思い出せないことそのものが、強い罪悪となって己の感情を掻き乱す。

 

「じゃ、後はよろしく!」

 

 軽々と、何て事のないように。

 まるで次の瞬間にもまた会えるかのような気安さと共に掌を振った彼女の姿は――そのまま影の如く消えた。

 音もなく、余韻すら残さず、やはり瞬きの間に。

 

【………】

 

 再び訪れる静寂。

 彼女の纏っていた陽気さが僅かに残影として残っている様な気がしたが、触れる空気は冷たく水面は静寂を保つ。暫しその場に立ち竦み、それからゆっくりと、歩みを再開した。

 今度は背中を押されることも、手を引かれることもない。

 それでも、足は自然と前へと動いてくれた。

 星を映す水面を踏みしめながら、見えない終着点へと向かって、ただ一歩ずつ進んでいく。

 それだけしか、今の己には出来ない。

 そう云い聞かせて――。

 

 ■

 

「あっ、ご主人様!」

【―――……】

 

 また暫く歩き続けると、周囲を頻繁に見渡す誰かの姿があった。

 静まり返っていた水面の世界で、その人影だけが落ち着きなく動き回っている。故に、良く目立った。

 足取りは軽く、あちこちへと向きを変えながらまるで何かを探しているかのようだった。

 

 彼女は幾つもの波紋を生みながら方々を歩き回り、此方を見つけるや否や表情を明るくさせて一目散に駆け寄って来る。

 その変化はあまりにも分かりやすく、見つけた瞬間にぱっと花が咲いたように顔が輝いた。迷いも躊躇いも無く、ただ一直線にこちらへと向かってくる姿は、この場所の無機質さを忘れさせるほどに生き生きとしていた。

 

「もしかしてまた、アスナに会いに来てくれたの!?」

【………】

「あははっ! 何が何だかって顔しているね? アスナも同じ! 此処ってどこだろうね? 分からないから一緒に進もう!」

 

 何かを口にする暇さえなかった。

 矢継ぎ早に言葉が紡がれ、疑問を差し挟む隙間もなく会話が進んでいく。

 一方的に捲し立てた彼女は此方の腕に抱き着き、そのまま実に緩やかな足取りで歩みを始めた。

 此方へと駆け寄って来た勢いとは対照的に、彼女の歩みは穏やかで、どこか寄り添うようなリズムを刻んでいる。抱え込む様にして掴まれた腕に感じる重みは軽く、しかし確かに感じる温もりが、星々が照らす水面の冷たさをわずかに和らげていた。

 

「それでね、その時もリーダーってば作戦無視して暴れちゃって! その後修繕費がどうの、事後処理が大変だって色んな所から怒られちゃって――」

 

 彼女は長い長いレールの上を歩きながら、友人達との出来事を嬉々として語る。

 言葉の端々に、共に歩んだ彼女達への信頼や親しみが滲んでいて、語る事そのものを楽しんでいるような、そんな明るさがあった。

 己はそれに、時折ぎこちない相槌を交えながら耳を傾けた。生憎と快活な笑みも、大袈裟な反応さえ示す事は出来ないが、耳に届く彼女の声と隣に寄り添う温もりが、自分の中で欠けた何かを満たしていく気がした。

 

 彼女との道中は実ににぎやかで、心地良いものだった。

 この空虚な世界の中で、そこだけが切り取られた日常の一片のように、柔らかな光を放っていた。

 けれど不意に、彼女が足を止める。

 暫し立ち止まった彼女に、思わず問いかけた。

 

【……どう、したの?】

「ん~……」

 

 彼女は何か違和感を抱いた様に空を仰ぐ。

 満天の星空は変わらず視界一杯に広がっている、だが彼女の視線は瞬く星々を見透かそうとするように、じっと動かない。

 それから自身の顎先を撫で、小首を傾げた。

 

「私も良く分からないんだけれど、何となく、ご主人様は来ちゃいけない気がして……」

【……?】

 

 実に曖昧で要領を得ない返答だった。

 何となく、勘という事だろうか。

 釣られるように星空を仰ぐが、この眼にはただ広大で幻想的な夜空ばかりが映る。

 此方には分からない何を、彼女は感じ取った様だった。

 

「ごめん、ご主人様! やっぱりあっちに進んで、あっち!」

【あっ】

 

 そのまま抱えられていた腕を解かれ、横合いへとそっと押し出される。

 先ほどまでの暖かさが嘘のように冷たい空気が腕を撫で、しかし決して突き放すわけではない優しさを残したまま、彼女の手は離れていく。

 

 歩いていたレールの上から外れ、数歩後退する。

 水音に混じってカコンと、金属音がした。

 自分の足が硬い何かを踏み締める様な音。見下ろせば――異なるレールが自分達の直ぐ横に、もう一本現れていた。

 今まで見えていなかったはずの道、だがまるで最初からそこに在ったかのように遥か彼方まで伸びている。

 

「うん、やっぱりそう! ご主人様は向こう側の方が良いカンジ!」

 

 彼女は隣り合うレールを踏んだ此方を見て、満足そうに頷いた。

 表情には満足げな色があり、自分の選択が正しいと疑っていない様だった。ひらひらと片手を振り、その場で数歩ステップを踏んだ彼女は水飛沫を上げながら云う。

 

「もうちょっと、楽しんでからこっちに来てよ、ご主人様!」

【……楽しむ?】

「そう!」

 

 彼女は何ら臆することなく肯定を返す。

 声はあまりにも自然で、彼女にとって「楽しむ」という行為がどんな状況であっても特別なものではないかのように響いた。

 いいや、きっとそうなのだろう。

 だって、彼女は――。

 

「やっぱりどんな事だって、精一杯楽しまないとっ!」

 

 それだけ告げて、彼女はそのまま水飛沫と共に消えた。

 言葉だけを残し、他の皆と同じように。網膜に焼き付いた、彼女の煌めく笑顔が幻影として浮かび上がる。己はその影を呆然と見つめたまま胸中で呟いた。

 

【楽しむって、一体何を――】

 

 分からない。

 分からないけれど。

 胸の奥に燻る何か。それを衣服の上から握り締めたまま、自身の前に伸びる長い長い(レール)を一瞥する。

 たった今消えた、天真爛漫な彼女に導かれ踏み締めた道。

 

 

 この道は、苦しい気がする。

 

 

【………】

 

 自身の胸元を掴んだまま、大きく息を吐き出した。

 空気を吸い込んでも、どこか満足せず息苦しさが残る。息と共に吐き出したはずの暗澹たる感情はいつまでも胸の内に留まり続け、まるで内側から体中に染み渡るようだった。

 指先に力を込めて衣服を握り締めることで、辛うじて自分という輪郭を保つ。

 

 苦しいという予感があった。

 けれど引き返すには、余りにも長く歩み過ぎた。振り返った先に見えるのは、やはり何処までも続いている様な長い長い(レール)。行き先と同じ、終点の見えない道だ。

 ゆっくりと再び持ち上げた足先が、水面を踏み締める。

 

 進めば進む程――やはり両足が、背中が、全身が重くなる。

 水面を踏みしめるたびに、見えない何かが絡みついてくるような抵抗を覚えた。足取りは遅々とし、背は引かれ、意識そのものが後ろへと引き戻されようとしているかのようだ。

 けれど、分からないままに道を歩き続ける。

 理由も、目的も、行き先も曖昧なまま。ただ歩くという行為だけが己の存在を成り立たせ、それに縋るように一歩を重ねていった。

 

 ■

 

 また、随分と歩き続けた。

 時間の感覚は既に失われている。

 それでも、長い距離を歩いたという実感だけがじわじわと蓄積していた。

 

 ある時気付く。

 背後に気配があると。

 それは微かな違和感から始まり、やがて確信へと変わっていく。振り返らずとも、そこに誰かが居ると分かった。足音は無い。水面を揺らす波紋も感じない。微かな水音さえも。

 それでも、確かに距離を保ちながら付き従う気配だけが背中に張り付いて離れない。

 

【……ん】

 

 その存在を確信すると同時に、背中を掴まれた。

 不意の接触だった。

 驚くほど静かに、しかし確かな力で衣服を引っ張られる。振り向こうとした瞬間、此方の動きを制するように掴む手に僅かな力が込められた。抱き着いた細い両腕が、此方を制止する。

 

【……えっと】

「こっちは、見ないで下さい」

 

 思わず疑問の声が漏れた。けれど背後から届く震えた声を聞いた瞬間、振り向く気力は失われた。必死に抑えようとしているのが分かるほどに、発せられた声は不安定で、今にも崩れそうな危うさを孕んでいる。

 己はただ、背中に感じる微かな気配に身を預ける事しか出来なかった。

 

「ごめんなさい、突然、こんな事」

【………】

「先生に、合わせる顔が無くて……」

 

 絞り出されたそれには、深い後悔と自己否定が滲んでいるように思う。

 顔を見せられない理由があるのだと、声だけで伝わって来た。振り向かせまいとする所作が、かえって彼女の心情を雄弁に物語っていた。数舜、何か言葉を口にしようとして――やめた。

 伝わって来る悲壮感を前に、どんな言葉を掛ければ良いのか分からなかったのだ。

 

「助けられなくて、ごめんなさい」

「弱くて、ごめんなさい」

「勇気が無くて、ごめんなさい」

 

 背中に押し付けられ、くぐもった言葉がぽつりぽつりと零れる。その一つ一つが告解か、或いは懺悔の如き重々しさを伴っていた。すすり泣きが聞こえる、押し殺した吐息、抑えきれない感情が震えとなって背中越しに伝わる。

 無意識の内に両の掌を開閉させていた。

 

【……よく】

 

 何かを、口にしなければならないと思った。

 

【よく、分からないけれど】

 

 視線を彷徨わせながら、途切れ途切れに紡ぐ。彼女の言葉が自分に向けられたものなのかも定かではない、どんな言葉を掛けるべきなのかも分からない。

 分からないけれど、放っておくことは出来なかった。

 伝えなければならないと思った。

 

【君は、悪くないと、思う】

 

 辛うじて言葉になったのは、そんな曖昧な代物だった。

 根拠なんてどこにもない。

 それでも、口から出た言葉は自然と胸の内から浮かび上がって来たものに違いない。正しいとか、正しくないとか――そんな事は重要じゃなかった。

 ただその瞬間、確かに自分はそんな風に思ったのだ。

 

 静寂と沈黙、鼻を啜る様な音が背後より聞こえた。

 自身の背中を掴む指先が、一際強く衣服を握り締める。

 

「……本当は、薄々分かっていたんです」

 

 先生なら、そう云ってくれるって。

 

 彼女はそう云って吐息を零した。涙の中に、ほんの少しだけ安堵の色が差した様な、柔らかな音がした。

 

「……狡かったですね、私、えへへ」

 

 自嘲するような、照れるような、曖昧な笑い声。密着する様に、縋る様に接していた気配が少しだけ遠ざかった。背中に感じていた暖かさが消え、足音に代わる水音が耳に届き、小さな掌が己の背中をそっと押す。

 

「振り返らず、そのまま真っ直ぐ進んで下さい」

【………】

「私は、私の居場所に、先生は、先生の居場所に――それが一番、良い事ですから」

 

 中途半端に踏み出した足先が、迷う様に水面を潜った。振り返らずにと彼女は云った、合わせる顔が無いとも。

 けれどこのまま、本当に彼女を目にする事無く進むべきなのか。

 強い葛藤があった。

 

「RABBIT小隊の皆を、よろしくお願いします」

 

 その名を口にする声は、確かな信頼と願いを含んでいて。

 

「あのっ……!」

 

 迷い、歯を噛み締めながら振り向く事をせず歩もうとする。ただ直後、何を伝えるべきか、一瞬だけ迷ったような気配と共に上がる声。

 それから深く、頭を下げたのだろうか。

 水飛沫が上がる音がした。

 

「――ありがとうございました、先生っ!」

 

 投げかけられた最後の声は、これまでの全てを込めたように真っ直ぐだった。

 後悔も、謝罪も、全てを越えて、それでもなお残った純粋な感謝。

 

【っ――】

 

 堪らず、振り返っていた。

 鳴り響く水音と共に振り返った先に、けれど既に人影はどこにもなく。

 声の主は忽然と姿を消していた。まるで最初からそこに何もなかったかのように。

 

 深く、深く息を吸い込む。

 胸元を抑えながら歯を食い縛った、痛みがあった、苦しみがあった――鈍く、しかしどんどんと大きくなっていくそれは、確かに自分の内側から発せられているものだった。

 理由は分からない。

 それでも、その痛みや苦しみを否定する事は出来ないと、確信の様なものが自分の中にあった。

 

【………】

 

 己は、彼女の感謝を受け取る資格がある存在だったのだろうか。

 

 ■

 

 歩く、歩く、ただひたすらに――歩き続ける。

 答えを見出せぬままであっても足は止まらない。止める理由も、止まる勇気も持ち合わせていなかった。

 

 前を見据えていた視線は、いつの間にか足元に落ちていた。

 どこまでも続くこの道の彼方を見つめるだけの力が、自分の中から失われているのが分かった。

 水面に広がる波紋は次第に弱々しくなり、踏み出す一歩一歩がどこか頼りなく感じられる。胸中に存在する疑念が、不安が、湧き上がる罪悪感が――彼女達と言葉を交わす毎に、その温もりを感じる毎に、強く、大きくなっていくのだ。

 これは一体、何なのだろうか。

 この感情の、罪悪の出所は。

 分からない。

 

 分からない事が――何故だか、とても苦しい。

 

「あれ、先生?」

 

 直後、前方から水音がした。

 水を踏む確かな足取りが、静寂を破ってこちらへと近付いてくる。

 力なく俯いていた顔を上げれば、また別の人影。

 星を背負うように立つその輪郭は、曖昧なこの世界の中でもやはりくっきりと浮かび上がって見えた。自分よりもずっと背の低い影が、此方を見つけるや否や嬉々として駆け寄って来る。

 

「にはは、先生~! もしかして、迷子だったりします?」

 

 溌剌とした声。軽やかで、弾むような響きが周囲に広がる。その明るさは静謐な夜空に似合わなくとも、不思議と耳に心地よく届いた。

 

「しょーがないですねぇ、私が案内してあげますよ!」

 

 彼女は立ち尽くす己の周りをぐるぐると回りながら、どこか悪戯っぽく告げる。

 水面を軽快に踏みながら、楽しげに円を描く彼女の動きは、まるでこの場所そのものを遊び場にしているかのようだった。

 くるりと回るたびに星の光が揺れ、軽快にステップなどを踏みながら歩き出した彼女の背中を慌てて追う。「ほら、こっちですよ!」と振り返った彼女が手招きする、先導するその背は小さくも頼もしく、迷いのない足取りで前へ前へと進んでいった。

 

 少し大きくダボついた白い上着、二つに結った髪を揺らしながら機嫌よく鼻歌を奏でる彼女は、時折此方を振り返りながらも何がそんなに楽しいのか――瞳に夜空の星々を反射させながら笑っていた。

 

「此処はアレですね、馬鹿みたいに湧いて来る自律兵器も居ないですし、銃声も悲鳴も聞こえませんから悪くは無いんですけれど、静かすぎる上にゲームとかも無いからすっごい暇で――」

【………】

「ここまで何もないと、ある意味書類仕事とか、雑用でもこなしていた時の方がまだマシだったのかなぁ~とか思ったり……正直この感じ、初期の反省部屋とか思い出してなんかすっごく嫌なんですよ! あの部屋、最初は本当に何も無くて、出来る事なんて精々が天井のシミを数える位で――あ、でも掃除が行き届いていたので天井にシミなんて全然ありませんでしたけど!」

 

 右へ左へ、所在なさげに身を揺らしながら語る彼女。言葉は軽快で、内容は何故か具体的な情景を伴って脳裏に浮かぶ。喧騒と混乱に満ちた日常、それとは対極にあるこの静寂。

 不意に振り返った彼女は、此方を伺いながら首を傾げた。

 

「っていうかどーしたんですか、そんな辛気臭い顔をして?」

【………】

 

 能天気に、或いは楽観的に問われたそれ。

 気付かぬ内に顔に出ていたのか。沈黙を続ける――思い詰めた気配を纏う己に、気付いていた様だった。咄嗟に頬に手を当て息を詰まらせる。言葉にされたことで、曖昧だった感情が輪郭を持ち始めた。

 

 堪らず足を止めた。

 水面に広がる波紋、止まった己に気付き、釣られて彼女も足を止める。

 先程まで絶え間なく続いていた彼女の声が途切れ、代わりに己のか細い呼吸音が響いた。

 

【私は……】

 

 囁くような声量で、言葉を落とした。

 何かを吐き出さなければという衝動だけが先に立った。自分の中に渦巻く感情を余さず言葉にするのは難しい。

 

 ずっと続く――水平線の彼方まで伸びるレールを見た。

 

 未だ果てが見えないその道は、ただ愚直なまでに一直線に伸びている。星を映す水面と溶け合い、どこまでも遠くへと繋がっているようにさえ見える長い長い道は圧迫感すら伴って視界に映った。

 ずっとこの道を歩き続けた。

 彼女達に背を押され、示され、導かれ。

 けれど、私は――。

 

【私は、この道を往ってはいけない気がする】

「―――」

 

 彼女はその言葉を聞いて、少しだけ驚いた様な素振りを見せた。

 軽やかだった表情が、ほんの一瞬だけ固まる。変化は微細で、しかし確かに彼女の内側に生じた感情を示していた。

 

「それは、どうしてですか?」

 

 それから此方の顔を覗き込んで、努めて何でもない口調で問い掛ける。先ほどまでの気軽さを残しながらも、声には隠しきれない真剣さが混じっていた。

 

【……置いていけないんだ】

 

 返答はするりと、自分でも驚くほどに迷いなく発せられた。

 考えるよりも先に、言葉が口をついて出た。それは理屈ではない、もっと根源的なところから湧き上がってきたような感覚だった。

 

「置いていけないって、何をです?」

【……分からない】

 

 首を緩く横に振る。自分で発しておきながら、おかしな事だと思う。

 けれど自分は大切な何かを此処に、自分の後ろ(過去)に残してしまっている様な気がするのだ。

 

 背後を振り返っても何も見えない。これまで歩んで来た長い道、星空と水面、どこまでも続くレールだけが暮明に存在するだけだ。それでもこの道には、辿って来た道には己が忘れてしまった何かが、決して置き去りにしてはいけない何かがあるのだと。

 苦々しく、思い詰め、顔を歪めた己は精一杯訴える。

 

【分からないけれど、大切な、大切な何かを、私は……】

 

 だから己は――これ以上進む事を躊躇っている。

 この先へ進んでしまえば、本当に取り返しのつかない何かを手放してしまいそうで。

 そんな漠然とした恐怖が、不安が、胸の奥底に沈殿していた。

 

【約束、したんだ】

 

 約束、と己は口にした。

 その約束の輪郭さえ朧げだというのに。

 誰と交わしたのか、何を誓ったのか、詳細は何一つ思い出せない。ただ重々しい感情と言葉だけが、自分の中に強固な楔として残っている。

 何と曖昧で、朧げな言葉か。

 けれど己が拘泥するその何かは、絶対に手放せない程に大切だった筈で――。

 

「先生」

【……?】

 

 不意に数歩、彼女は自分との距離を詰めた。

 視線を向けた己は、直ぐ目の前まで迫ったその影に少しだけ驚く。

 近付いた彼女の瞳には、先ほどまでの無邪気さとは違う静かな色が宿っていた気がした。

 

「四葉のクローバーは、探すものではないらしいです」

【……四葉のクローバー?】

 

 唐突な言葉だった。

 意味を掴み損ね、思わず瞬きをする。

 此方の反応を見越してか、彼女が指先を立て己の胸元を優しく突いた。

 

「四葉ばかり探して、三つ葉を無視するのは、悲しい事だと思いませんか?」

【………】

 

 彼女は楽しげに笑う。

 四葉ばかりを追い求め、足元に無数にある三つ葉を見落としてしまう事。

 それは特別な何かばかりを掴もうとして――既に持っているありきたりで、ありふれた日常(大切なもの)を失うことだ。

 それは辛くて、苦しくて、悲しい事だと思うから。

 

 きっと多くの人が大切で、大事に想うものというのは存外近くに転がっているものなのだ。特別な四葉なんて無くても、幸福なんてものはきっと幾らでも見つける事が出来る。

 自分の足元に目を向ければ、今直ぐにでも――少なくとも、彼女はそうだった。

 

「にははっ、前は良く分かりませんでしたけれど、ねっ!」

 

 くるりと身を翻し、彼女は己の横へと並ぶ。

 そしてそのまま両腕で此方を掴むと、力強く前へと押し出した。

 

「ほら、この道を進んで下さい! 私は此処までなので!」

 

 促されるままに一歩を踏み出す。

 水面が揺れ、波紋が広がる。踏み出した一歩は重々しい水音を立てた。

 困惑と疑念の表情で彼女を見つめれば、どこまでも溌剌とした笑みが此方を照らした。

 その笑顔は星々に負けない程に明るく、翳りがない。この無機質で透明な世界の中で、そこだけが鮮烈な色を持っているかのようだった。

 

「大丈夫です! 四葉のクローバーは無いですけれど……」

 

 未だ進む事に難色を示す己に、彼女はそう云って此方の手を取り、二度、三度、力強く握り締め上下に振った。

 その動作は幼子のように無邪気で、温かい。触れた掌から彼女の熱が伝わってくる。此方を見上げる彼女の表情が、ぱっと花開いた。

 

「でも、兎は幸運の印らしいですよ? にははッ!」

 

 弾むような笑い声が響く。

 静寂の中へ溶け込みながらも、いつまでも耳の奥に残り続けるそれ。

 

【……!】

 

 するりと、彼女の掌が抜け落ちた。

 手元に落ちていた視線を上げれば、同時に姿も見えなくなる。

 瞬きの間に掻き消えた人影、指先に残った僅かな体温だけが彼女が存在した証明であった。

 

【………】

 

 足元に広がる波紋を凝視し、暫し沈黙を守る。けれどいつまでも立ち竦む事は出来なかった。先程まで存在した彼女もまた、己に道を示して消えた――進む事を、望まれていた。

 指先を握り締め、再び歩みを再開する。

 掛けられた言葉を、与えられた温もりを、真摯な願いを、無駄には出来ないと――そう思ったから。

 

 ■

 

 歩みは遅々としていた、前へと送り出す足はどんどん重くなる。

 一歩踏み出すたびに、全身へ鉛のような重さが積み重なっていく。

 胸の奥に引っ掛かったままの「何か」が、進むほどに強く、自分を止めようと足掻いていた。

 

 どれだけの時間を歩き続けたのだろうか、景色の変わらない世界の中で正確な距離を測る事は難しかった。いや、そもそもそれにどれ程の意味があるのだろうか。疲労は無い、けれど内側に積もる様々な感情が己の体を容赦なく蝕んでいた。

 

【本当に――】

 

 本当に、この道を進んで良いのだろうか。

 

 湧き上がる疑問は、今まで何度も胸の奥を叩いていた。だが無理やりにでも進み続け押し込めていたそれらが耐え切れなくなったように吹き上がった。

 

 遂に、足が止まった。

 

 踏み出そうとした片足が、中途半端な位置で水面を打った。まるで足元の水面そのものが自分を縫い留めているかのように、全身が重く沈み込む。

 導く人影も、何もない水平線。空を仰いでいた視線は足元に落ち、水面に反射する煌めきばかりが視界に入った。

 

「――先生」

 

 静寂の中に声が響いた。

 何度も、何度も耳にして来た呼び声。

 意識するよりも早く、身体が先に応えた。その名を呼ばれた瞬間、微かに肩が震える。釣られるようにして、緩慢な動作で顔を上げた。

 重く沈んでいた視線をゆっくりと持ち上げ声の主を探すように前を見据える。

 

【………】

「ふふっ、先生のそんな表情を見るのは、あぁ、何だか新鮮ですね」

 

 きっと、酷い顔をしているのだろう。

 今度は自分でも分かった。胸の奥に積もり続けた迷いと苦悩が、そのまま表情へ滲み出ているのだと。

 

 彼女は黒く染まった修道服に身を包み、ウィンプルで目元を隠した、敬虔なシスターの様に見えた。

 星空の下、纏う黒は闇に溶け込みながらも輪郭を失わない。静かに佇む姿には厳かさと慈愛が同居していた。

 彼女は此方を優し気に見つめながら一歩退き、進むべき道を示す様に手を差し伸べる。

 

「さぁ、行きましょう、此処からは私の道ですから」

 

 歩く気力など尽きていた。

 全身を覆う倦怠感、胸に積もる重さは呼吸すら息苦しく感じる程。

 けれど彼女にそう促された瞬間、体の奥底から辛うじて僅かな力が湧き上がって来た。

 彼女の声には、不思議な安心感がある。咎める訳でも、励ます訳でもなく、ただ隣に立つだけで前へ進ませるような何かが。

 促されるままに一歩を踏み出すと、彼女は小さく頷き横へと並ぶ。まるで最初から、自分がこうして歩き出すことを知っていたかのように。

 

 双方の歩みは実に緩やかであった。

 互いの呼吸はほとんど響かず、水面に広がる波紋だけが夜空を揺らす。

 暫しの静寂を守った後、彼女は口火を切った。

 

「話したい事は沢山あった筈なのですが、不思議です、いざこうして顔を突き合わせると言葉は幾らでも浮かんで来るのに……それを口にしようとは思えない」

 

 両手を下腹部で揃えたまま、彼女はしずしずと足を進める。

 姿勢はどこまでも落ち着いていて、歩き方一つ取っても品位が滲んでいる。此方の歩幅に合わせて、所作にはどこか悠然とした気配が漂っていた。

 

「無粋だからでしょうか? 今更、こんな状況でと、そう理性が囁いているのかも」

【………】

「ですが言葉を着飾っているつもりはないのです、ただ貴方に伝えたい言葉があった、どうしても訴えたい事があった――それは感謝であったり、怒りであったり、懺悔であったり、本当に様々」

 

 自身の胸元に渦巻く様々な感情を一つ、また一つと丁寧に取り出し、彼女は続けた。

 紡がれる言葉は率直でありながら、ありのままの感情をぶつけるのではなく、大切なものを壊さぬよう慎重に扱うような響きを伴った。

 或いは、それこそが彼女の云う着飾った言葉なのかもしれないとも。

 それからふと気付いた様に指先で唇を撫でた彼女は、くすくすと忍び笑いを漏らす。

 

「ふふっ、そう考えるとまた、大人という存在も完璧ではないのでしょう」

 

 いえ、それはずっと前から分かっていた事です。

 呟き、彼女は首を横に振った。

 完璧などとは程遠い――だからこそ迷い、苦しみ、悩み、それでも誰かに何かを伝えようと足掻く、他者を理解しようと努める。

 それこそが何よりも貴く、大切な事だと云うのに。

 

「駄目ですね、小難しい言葉ばかり捏ね繰り回して……私の悪い癖です、貴方が居なくなってから、この悪癖ばかりが顔を覗かせていた気がします」

【私、が……?】

「えぇ、この感情はもっと単純で、何より暖かく、大切なものなのに」

 

 彼女はそう云って、此方を眩しそうに見上げた。

 向けられた視線はまるで遠い光を見るように、遥か彼方の情景を想う様な切実な色を発していた。

 複雑な言葉で飾り立てる必要など本当は無かったのだ、それはきっと言葉を尽くす程に遠ざかってしまう類の、或いは大切であるからこそ単純であって欲しいという願いに等しい。

 

「あぁ、本当に――一瞬の事です」

 

 不意に、足が止まった。

 彼女の声と共に、これまで静かに続いていた歩みが唐突に終わりを迎える。

 

「私は、此処まで」

 

 そう告げた彼女は音もなく一歩退いた。動作はあまりにも自然で、彼女の目の前に見えない壁が生まれたかのような。

 僅かに空いた隙間、一歩分の距離――その距離は近いはずなのに、不思議と実際以上に遠く感じられた。

 

【―――……】

 

 ゆっくりと振り向くと、いつの間にか彼女の身に纏う衣服が変わっている事に気付いた。

 つい先ほどまで身に纏っていた黒に塗れた衣装は消え失せ、その代わりにどこか懐かしい、飾り気のない純白の制服がそこに在った。

 

 懐かしいという感想を抱いた瞬間、何故だか胸を強く締め付けられた。

 遠い記憶の断片のようなものが喉奥に刺さり、同時に、もう二度と戻れないという強烈な懐古と後悔が胸を抉った。

 

 彼女の髪を飾る白いリボンが、静かに揺れていた。

 風など吹いていないはずなのに、純白のリボンだけが音もなく揺れ動き、水面へ小さな影を落とす。

 彼女はそのリボンを抑えながら、ゆっくりと口を開く。

 

「……ねぇ、先生?」

 

 厳粛で静寂を好む月の如き様相から、宛ら温和で些細な日々に幸福を見出す様な太陽の如く。

 彼女は纏う気配を一変させ、此方を見つめる。

 

 先ほどまでの荘厳さは薄れ、代わりにそこに佇むのは、日常の中で笑い、悩み、学び、遊び、大切な誰かと共に時間を過ごしていた一人の少女だ。

 消えたウィンプルとベールの向こう側から、美しいライムグリーンの瞳が瞬く。

 瞳は柔らかな光を宿し、どこまでも穏やかにこちらを映していた。

 

「貴方と一緒に過ごした、補習授業部(大切な友達)との日々」

 

 紡がれる言葉と共に、彼女の表情はさらに柔らかさを帯びる。

 まるで大切な宝物を胸の内からそっと取り出すように、丁寧に記憶の中の日々を思い返すように。

 

 客観的な正解ではない、打算や効率とは真逆の、ただそう在りたいからという理由だけで選び取った道だった。万人はきっと無駄であると断ずるだろう、なんという遠回りで、脆くて、非合理な道だろうかと嘆くかもしれない。

 

 だがもし、非合理な選択にこそ人間性が宿るのならば。

 その人間性(非合理)こそを、生涯の中心に据えたならば。

 

「あの日常は何よりも貴く、きらきらと毎日が輝いていて……」

 

 彼女は噛み締める様に目を伏せ、それから己の求めた日常の一部である彼を見上げた。

 未練も、後悔も存在する。

 けれど今は、今だけは、確かにあの日、あの日々に存在した幸福を慈しむような色だけが宿した。

 涙は零れなかった。

 代わりに、心からの感謝と喜びを以て伝えた。

 

「――とっても、楽しい毎日でしたね!」

 

 別れ際、浮かんだのは実に彼女らしい、屈託のない笑顔だった。

 何も憂う事は無く、恐れる事は無く、ただその瞬間、日常を心の底より楽しんでいた頃の笑顔。

 彼女にとっては疾うの昔に失われた、日常の中で溢れていた、何て事の無い表情だった。

 だが、その『何て事の無いもの』こそが、きっと彼女にとって最も掛け替えのない宝物だったのだと――。

 

 その日常こそを、浦和ハナコは何よりも愛したのだ。

 

【―――……】

 

 己が彼女の笑顔に言葉を失っている間――他の人影同様に、彼女もまた瞬きの間に消えた。

 別れを惜しむ間もなく、その輪郭は星明かりへと溶ける。つい先程まで感じられた気配は既になく、星々は何事も無かったかのように瞬き続けていた。

 例外は無かった。

 誰もが己に言葉を残し、道を示し、そして消えていく。

 

 まるで、その為だけに世界に、この場所に――留まり続けたのだと云わんばかりに。

 

 暫く、その場から動く事が出来なかった。

 足が止まる。いや、止まったのではない。動かそうという発想さえ湧かなかった。

 彼女の、彼女達の笑顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。

 あの何気ない、ありふれた日常の中で浮かぶ笑顔。何よりも眩しく、温かく、そして取り返しのつかないほど遠いもの。

 震えた唇が、微かな音を鳴らした。

 己の意思によるものではなかった。

 

【……ハナコ?】

 

 不意に漏れた、誰かの名前――それは全くの無意識だった。

 何もかも、記憶を含めた何もかもを忘却した己が思考よりも早く紡いだ名前。

 

 たった今、つい先程まで、目の前にいた生徒(彼女)の名前だった。

 

【そう、だ】

 

 瞬間、自分の中で何かが軋む様な音がした。

 何故、忘れていたのだと内なる自分が叫んだ。どうして思い出せなかった、どうしてこんなにも大切な事を、自分は曖昧なまま――堪らず掌で顔を覆い、よろめく。

 水音が響いた、蹈鞴を踏んだ両足が無様に震える。指先が額へ触れた瞬間、内側から何かが弾けるような感覚が走った。

 視界がぐらりと揺れ、水面に映る星々が歪む。

 

【そうだ、私、は……】

 

『ほら、ぼやっとしないで』

『しゃんとなさい、貴方は私の、私達の経営顧問なんだから!』

『皆に教えて貰ったんです』

『勇者の冒険、その最後はやっぱり、笑顔(ハッピーエンド)で終わるものですから!』

 

【……私は】

 

『私も色々経験して分かった、やっぱり息抜きは大事、っていうか効率的にサボった方が良いって! 何事もテキトー位が丁度良いんだよ、きっと!』

『じゃ、後はよろしく!』

『もうちょっと、楽しんでからこっちに来てよ、ご主人様!』

『やっぱりどんな事だって、精一杯楽しまないとっ!』

 

【私は】

 

『RABBIT小隊の皆を、よろしくお願いします』

『あのっ……! ありがとうございました、先生っ!』

『大丈夫です! 四葉のクローバーは無いですけれど……』

『でも、兎は幸運の印らしいですよ? にははッ!』

 

【私は――ッ!】

 

 遍く世界の記憶、感情の雪崩、それらが一瞬にして己の――先生の全身を貫き、その生涯を強烈に照らした。

 気付けば腹の奥から唸り声とも慟哭とも取れる、歪で低い声が漏れていた。

 

【待って――ッ!】

 

 駄目だ。

 駄目だ、駄目だ、駄目だ!

 それだけは駄目だッ!

 

 煌めく夜空を仰ぎ、痛い程に拳を握り締めて叫ぶ。

 脳裏に、根幹に、己という存在そのものに焼き付いた数多の記憶(思い出)があった。絶対に忘れてはいけない事であった、忘れる事は許されない事だった。

 積もり積もった数多の罪悪は、この長い道を道を歩き続けている間――己に訴えかけていたと云うのに。

 

『貴方と一緒に過ごした、補習授業部(大切な友達)との日々』

『あの日常は何よりも貴く、きらきらと毎日が輝いていて……』

 

 躊躇なく、全力で水面を蹴った。

 レールを蹴飛ばす、硬質的な音が水音に混じって響く。伸ばした指先が暗闇を掴む、引き攣った喉奥から悲鳴染みた叫びが轟いた。

 

【待ってくれ、ハナコッ!】

 

 

『――とっても、楽しい毎日でしたね!』

 

 

 この道(苦難の道)を歩んだ私は、何よりもその笑顔を守りたかったのに。

 

 今まで辿って来た長い道を、暮明に続く道を全力で逆走する。

 我武者羅に駆ける両足が激しい水飛沫を起こし、全身がずぶ濡れになる。

 彼女達が進んで欲しいと望んだ道を拒み、必死の形相で叫び続けた。

 

 全て、全て思い出した。

 自らを想い消えていった数多の人影、世界、記憶、その残影を追い求め不格好に足掻く。止まる事は許されなかった、それ程までの業を、罪悪を積み上げたのは己自身だった。

 

【アルッ! ユズ……っ!】

 

 叫んだ、彼女の消えた夜空に向かって何度も、何度も。

 彼女達が最後に残した想い、託した願い、それを知り、理解し、それでも尚己はこの道を往く事が出来なかった。

 途端、視界が急に暮明に落ちた。ふっと、右半分が唐突に光を失った。

 

【ッ……!?】

 

 よろけ、何だと思えば突然どろりと流れる何か。

 それは己の右目から溢れ、頬を伝い、顎先まで流れ落ちる。左腕で抑えようと持ち上げた瞬間、肩先から左腕全体が音を立てて砕けた。

 黒々しく変色したそれは硝子の如き脆さで以て破片を撒き散らし、ぼとぼとと水音と共に水面へと沈んでいく。急激な視界と重心の変化に転倒しかけるも、辛うじて堪え力強く一歩を踏み締める。

 余った左袖を靡かせ、滴る赤を気にも留めず顔を勢いよく上げた。

 

 戻る事は許されないと、目に見えない何かが拒絶している様だった。

 

【フブキ、ミユッ!?】

 

 喉が壊れる程に叫んだ。

 けれど、再び彼女達の姿を捉える事は――叶わない。

 

【ぐぅッ……!】

 

 次に変化が起きたのは、右足だった。

 水面を勢いよく踏み締めた右足が凄まじい音と共に砕けたのだ。

 突然の事で、対応出来る筈も無かった。受け身も儘ならず水面に叩きつけられ、レールに腹を打ち付けた。衝撃で肺から空気が抜け強烈な鈍痛と身を包む冷たい水が呼吸を妨げた。

 残った左足もまた、ビシリ、ビシリと不穏な音を立てる。

 体が云う事を聞かない。四肢だけではない、体中の内臓が軋み抉られる様な痛みを発し身体を押し付ける重力が十倍にも、二十倍にも増した様な心地だった。

 

【アスナ、コユキ――ッ!】

 

 だが、それが何だと云うのか。

 痛みも、苦しみも、身体を蝕む何もかもが今この瞬間、己を突き動かす衝動に大きく劣る。

 諦めない、諦める訳にはいかない。

 先生は残った右腕を大きく伸ばし、水面を這いずった。

 

【私はっ……!】

 

 必死に顔を上げ、水飛沫を上げながら叫び続ける。

 程なくして散り散りになった両足は、そのまま全身に黒い歪を残した。必死に足掻き、レールを掴む右手の指先も変色を始め、小指から順に一本、二本と砕け霧散した。

 黒の浸食は道を戻れば戻る程、叫べば叫ぶほど体を蝕む様だった。それを凝視しながら、奥歯を噛み締める。

 

【私は、皆をっ、君達を……ッ!】

 

 呼吸さえも儘ならない状況で、夜空を仰ぎ顔を歪めた。

 消える、消えて往く――己と云う存在が夜空に溶けるかのように、容赦なく。

 それでも這い蹲って、先生は是が非でも道を戻ろうとする。これまでの道を、彼女達と歩いて来た道を。

 その影を、生徒達の背を追い続ける為に。

 何度も、何度でも、どんな姿に成り果てようとも。

 

【駄目だ、置いていけないッ! 置いて行っちゃいけない! 君達をっ、私が、私が取りこぼしてしまった、多くのものを――ッ!】

 

 だって――。

 

【だって、だって私はっ……!】

 

 足掻き、巻き上がる水飛沫と共に、ずっとずっと堪えて来た血の混じった重い涙が幾度も流れ落ちた。それは飛沫に混じって頬を濡らし、絶え間なく滴るそれこそが他ならぬ己の本心であった。

 

 くしゃくしゃになった表情をより一層酷く歪ませながら、私は夜空に瞬く星々の中に消えた彼女達へと叫んだ。

 

【私は、君達と、共に(一緒に)――ッ!】

 

 擦れ、振り絞った声は声なき叫びを響かせた。

 生きて共に笑いたかった。

 何て事の無い日常を一緒に歩みたかった。

 その成長と無限の可能性が紡ぐ未来を見守りたかった。

 けれどそれが、それが叶わぬのならば――。

 

 積み上げた数多の悲劇()に報いなければ。

 その犠牲と献身に、殉じなければ。

 そうでなければ――私は。

 

「先生」

 

 慟哭を響かせる先生の耳に、語り掛ける声があった。

 大粒の涙を流し、見っともなく水面に這い蹲る己に伸びる影。聞き覚えのある声だった、思わず体を硬直させ息を呑んだ。荒い呼吸をそのままに見上げた先、此方へと落ちた影を辿れば――水面に佇む、一人の生徒の姿があった。

 

【――……シロコ】

「ん」

 

 星々の光さえ吞み込むような黒のドレス、星明りを反射する銀髪、長く伸びたそれが揺蕩う水面に影を落とし――世界を跨ぎ、先生の為に全てを擲った彼女は、再び目の前へと現れた。

 

「ずっと、考えていた」

 

 水に塗れ、涙に塗れ、血に塗れ、それでも手を伸ばし続けた先生の元へと彼女は歩みを進める。水音に混じってヒールがレールを打ち、金属音が木霊していた。ゆっくりと歩み寄る彼女の姿を、先生はただ言葉を詰まらせ、見上げる事しか出来なかった。

 何故彼女が此処にいる、もしかしてシロコもまた――そんな疑念を口にする事さえも出来ずに、血の滲む唇を震わせる。

 

「この思いが、皆の願いが、その背中に降り積もっているって分かっていたのに」

 

 願ったそれが重荷となり、枷となり、先生の背中を押し続けた。

 理解していた、分かっていた。

 それによって先生がどれ程の苦しみを味わう事になるのか、どれ程困難な道を往く事になるのか。

 きっと皆、分かっていたのだ。

 

 それでも――。

 

「けれど、それでもね……先生」

 

 屈み込み、這い蹲る先生へと顔を近付けたシロコ(銀狼)は云う。その表情を柔らかな微笑みに変えて、何処までも透き通った色と共に。

 

先生(あなた)じゃないと、駄目なんだよ」

 

 プレナパテス(別の道を歩んだ貴方)へと、そうした様に。

 

 これまで共に在った遍く生徒(砂狼シロコ)が知る先生とは――貴方なのだ。

 同じ信念を持ち、同じ決意を抱き、同じ顔で、同じ内面で、同じ背景を持っていて。

 けれど、どんな世界であっても、同質の存在であっても――あらゆる世界に於いて生徒達と先生が辿って来た道や紡いで来た絆は、きっと一つ一つが異なっていて。

 

 ――だからこそ、それは貴いものだと貴方は云った。

 

 先生が辿って来た遍く世界、多くの生徒達が共に過ごし、信頼し、愛したのは目の前の先生なのだ。

 同じ世界で生きた先生(貴方)でなければいけないのだ。

 

 だから。

 

「ねぇ、先生」

 

 シロコは静かに掌を伸ばす。先生の血と涙に塗れた頬を優しく撫でつけ、その涙を拭う。

 過去、自分は同じ言葉を投げかけた。

 けれど今度は――少しだけ違う。

 これは永遠の別れとなるだろう。

 けれど絶望に覆われた世界の中で、一縷の希望に全てを委ねる為のものじゃない。

 

「―――」

 

 星々が瞬く夜空に、淡い光が差し込み始めた。

 先生が歩き続けた(レール)の向こう側、水平線の彼方よりほんの少し、ほんの僅かな陽光が差し込む。

 

 ――夜明けだ。

 

 夜と朝の境界が、音もなく溶けていく。

 世界を覆っていた星々の煌めきは、まるで深い水底から薄紙を一枚ずつ剥がしていくように淡さを増し、その果てに滲む空が紫、藍、薄紅へと儚く色を変えていた。

 鏡のように凪いだ水面が黄金を反射し、やがて遥かな水平線の彼方に眩い金色が灯る。

 

 ほんの僅かな輝きだった。

 夜の名残に埋もれそうなほど弱々しい光。

 だがそれは確かに、夜に染まった世界を内側から少しずつ照らし始めていた。

 

 薄桃色の雲が、その光を受けてゆっくりと染まっていく。

 冷たかった空気は次第に柔らかさを帯び、静寂だけに支配されていた景色へ、陽のの気配がゆるやかに流れ込む。

 

 その只中で、シロコは優しく先生の頬を名残惜しそうに撫でつけ。

 それから泣き笑いの様な、少しだけ寂しそうな笑みと共に告げた。

 

「――どうか、生きて」

 

 

 貴方の愛した、生徒達(希望)一緒()に。

 

 

「―――」

 

 それは呪いだ。

 呪いだった筈だ。

 

 彼女の口にした言葉。

 背に降り積もり続けた幾つもの願い。

 取りこぼした多くの希望(可能性)

 彼女達が口ずさんだそれは、先生という存在を常に前へ前へと押し続けた。

 

 いいや――今なら分かる。

 

【っ……!】

 

 陽光の反射する眩い水面、そこに這い蹲った先生の体を――ぐんと引っ張る何かがあった。唐突なそれに、先生の体は抵抗する事も無くシロコと引き離される。

 それはずっと、ずっと彼の背中に纏わりついていた数多の願い。彼をこの瞬間まで歩ませ、進み続けていた理由が無数の見えない手となって、先生の身体を引き戻そうとしていた。

 歩き続けた理由が。

 全てを背負い、己に犠牲を強いて来た理由が。

 生きる理由へと。

 

 己が背を向けた道を、彼女達が示した道を――陽が差し込み、眩い明日(世界)へと繋がる道へと。

 積もり積もった多くの願いは、先生を力強く引っ張っていく。

 

 シロコ、と。

 掠れ、掻き消えてしまう様な声で叫んだ。彼女の影が、皆の残影が、どんどん遠くなっていく。世界が離れていく。先生はそれでも必死に手を伸ばす、伸ばし続ける。

 けれど伸ばした掌は彼女へと届く事は無く――シロコはただ、眩しそうに去り往く先生を見守っていた。

 

 背に募った数多の願いが、先生を包み込む。

 この世界から押し出していく。

 それを理解し、知覚し、嗚咽を殺し、涙を零し、一杯一杯の感情を胸に秘め――先生は眩いばかりの陽光を仰いだ。

 

 自らの力の及ばぬ状況に、何もしない事が最良であり得ることを認め。

 何も出来ない現実を受け止め。

 何かをした気になる事を戒め。

 自らの中に巣食う不安や恐怖と戦い。

 

 大切な人の無事を心の底から願う事を――『祈り』と呼ぶならば。

 

 自ら背負ったそれは呪いなどではない。

 彼女達の、それこそは。

 

 

 なによりも真摯な、祈りだったのだ。

 

 

 ■

 

「―――」

 

 規則的な電子音が聞こえる。

 静寂の中で一定の間隔を刻み続けるその音は、まるで沈みかけた意識を現実へ引き戻すための楔の如く。

 

 薄らと、意識が浮上した。

 深い泥濘の底から無理やり引き上げられるような、暗く冷たい海の底に沈んでいた身体が、ようやく水面へ近付いていく様な。

 

 自らを覚醒させたのは――痛みだ。

 全身を焼くような鈍痛。骨の軋む感覚、皮膚の裂けるような熱、肺の奥を掻き毟られるような息苦しさ。それら全てが己の肉体がまだ生きているという事実を叫んでいた。

 慣れ親しんだ苦痛だった、だからこそ僅かな驚きもあった。

 自分にまだ、何かを感じるだけの力が残っている事に。

 

「――……って、は……う」

「まだ――……」

 

 声が聞こえた。

 けれど遠い、酷く遠い。

 水面の中にいるような、くぐもった声だった。

 厚い膜を隔てた向こう側から響いてくるようで、言葉は断片的にしか聞き取れない。

 

 少しだけ強く、息を吐き出す。

 強くと云っても、ほんの些細な違いに過ぎない。良く観察しても分からない程度の変化だっただろう。

 それでも肺の奥に溜まっていた空気が震えながら漏れ、同時に胸部へ鋭い痛みが走った。

 

「……?」

 

 誰かが近付いて来るような、そんな気配があった。

 規則正しい足音、衣擦れの音。何かの機械が作動する微かな駆動音に混じって、世界の音が徐々に輪郭を持ち始める。

 

「今、先――確……」

「は? そん――……もう――以上、目を――……」

「でも――……」

 

 声が、聞こえる。

 幾人かの声が。

 抑えた声量の中に、隠し切れない緊張と微かな期待。

 

 身体は――動かない。

 己の意思では指先一つ動かすことが出来なかった。手足の感触さえ朧気である。どこまでが自分の身体で、どこからが外界なのか、その境界線すら曖昧だった。

 

 けれど分かる、生きている――生きて、痛みを感じている。

 痛みがあるならば、自分はまだ終わっていない。

 終わっていないのならば、足掻く余地は幾らでもある。

 

 その一念が、ほんの僅かに身体を動かした。

 残された右手の指先が、ピクリと弾む。

 些細な所作であった、けれどそれを皮切りに己の肉体は確かに、僅かずつであっても覚醒に向かっていった。

 瞼が震え、少しずつ意識が明瞭になっていく。

 

「―――先……ッ! 先……の意――……戻――ッ!」

「はや―――会長……ッ! 他―――!」

 

 誰かが大きな声を発した。

 それまで抑え込まれていた緊張が、一気に弾けたような声音だった。

 それから何か慌ただしく、足音が増えていく。扉を引き駆ける音、何かの電子音、遠くから叫び声。静かだった空間が一気に騒がしさを帯びていく。

 

「―――……」

 

 喧騒に意識を叩かれながら、ゆっくりと瞼を開ける。

 凄まじく重かった。まるで鉛でも載せられているかのような重い瞼を、時間を掛けて少しずつ押し上げる。

 僅かに開いた隙間から、滲んだ光が視界へ流れ込む。

 最初の数十秒は、真っ白で何も見えなかった。

 そこから徐々に白い天井、ぼやけ輪郭の曖昧な照明、視界の端で明滅す幾つものランプが辛うじて形を得る。

 

 眩しいとは思わなかった。

 だって此方を覗き込む、誰かの影があったから。

 照明の大部分を遮り、いつの間にか此方を覗き込んでいた彼女は――残された右目を開き、未だ定まらない視線で自身を見上げる先生を認め、薄らと微笑んで云った。

 

「――お帰りなさい、先生」

 

 目元に隈を拵えた、連邦生徒会長。

 さらりと流れた長髪が、先生の頬を擽る。

 普段の凛とした面影を残しながらも、表情には隠し切れない疲労が刻まれていた。

 長い時間、眠ることすら惜しんで奔走していたのだと、こんな滲んだ視界でも分かった。

 

 それでも彼女は嬉しそうに笑っていたのだ。

 張り詰めていたものがようやく解けたように。

 安堵と歓喜を滲ませながら。

 目尻に、僅かな涙を滲ませて。

 

「………」

 

 先生は未だはっきりしない視界の中で、ゆっくりと自分の意思で息を吸い込む。肺へ流れ込む空気は痛みを伴ったが、それすらどこか懐かしく感じられた。

 

 それから薄らと唇を二度、三度震わせると。

 すっかり衰えた表情筋を不器用に微笑ませ、掠れ切った声で答えた。

 

「――ただいま」

 


 

 先生が全てを費やし、生徒の為に戦い続け、犠牲と引き換えに未来を勝ち取る物語。

 けれど、先生が生徒を救う様に。

 生徒が先生を救う物語だって、在る筈なのだ。

 

 次回 最終回

Re; Aoharu.(ブルーアーカイブを、もう一度。)

 

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