「なんか、最近の先生ってえっちじゃない?」
「えっ……?」
補習授業部、空き教室にて。
本校舎から程よく距離の空いた離れの校舎、常通り人気のない空き教室に集まった補習授業部の面々は、不意に漏らしたコハルの呟きに顔を上げた。ノートに走らせていたペンの音が止まり、静寂が一瞬支配する。時折吹き込む春風がカーテンを揺らしていた。
「それは、つまり――」
アズサは真剣な面持ちのまま口を一文字に結び、沈痛な面持ちで問いかける。
「……先生は、死刑という事か?」
「そ、そうじゃなくてッ!」
思わぬ方向からの指摘に、コハルは顔を真っ赤にして声を荒げた。思わず立ち上がり、反動で椅子が後退する。いや、まぁ時々「あれ、これ死刑じゃない?」と思う時もあるのだが――今回の件とは少し方向性が異なる。
「違うのか?」
「えっと、そういう意味じゃなくて、今までの先生は何て云うか、鬼気迫る気配? みたいなものがあって、いつも何かに身構えている様な感じで――」
咳払いを挟みながら椅子に座り直したコハルは小難しい表情でペンを握り直し、その先端を天井に向けながら言葉を捏ね繰り回した。
思い返せば先生は常に見えない何かと戦っている様な、自分達の知らない未来に備えている様な素振りが多々あった。或いは、それこそキヴォトス全域に影響を及ぼした未曾有の事件を予期していた故のものだったのかもしれないが、兎に角あの一件以来、シャーレの先生は随分と纏う気配を変えたように思えた。
少なくとも、コハルの目にはそう映った。
「それがなくなって雰囲気が明るく、柔らかくなったっていうの? なんかこう、隙を見せてくれるようになったっていうか、何て云うか……」
いざ言葉にするとなると少し難しい、優しくなったとは少し違う。先生は元々生徒に対して真摯だったし、優しさも持ち合わせていた。先生自身が生徒との間に引いていた線を取っ払った、という表現が正しいだろうか? それまで内に秘めていた大小様々な感情を、偽ったり隠す事をしなくなった。
ハナコはコハルの言葉を聞き、自身の頬を撫でつけながら然も理解を示す様に頷いた。
「なるほど、それがコハルちゃん風に云うと、『えっち』であると――素敵な表現ですね」
「そっ、そうだけどそうじゃないの!」
言葉の綾だから! そんな声が部屋に響く。
つい普段口ずさんでいる単語が出てしまっただけで、本質的には異なるのだ。接し易くなった分、魅力的になったと表現しても良い。それはコハルだけではない、多くの生徒が実感している事の筈だ。
「……成程、確かにコハルの云いたい事も分かる、先生の雰囲気は以前に比べて随分と変わった」
教科書を閉じたアズサは、深く頷きながら肯定を示す。表現として正しいかは横に置いておいて、雰囲気が変わったという一点に於いては議論の余地はない。
「そうですね、恐らくは以前の事件で何か心境の変化があったのでしょう、良くも悪くも――その影響は各所に色濃く残っていますから」
「私だってそうだ、以前の事件も踏まえた上で先生を守るための備えは十全に整えなければならないと、そう強く実感した」
キヴォトスを覆った赤い空、打ち立てられた虚妄のサンクトゥムと――アトラ・ハシースの方舟。
それらの残した影響は復興をある程度終えた現在でも散見される。
分かっていた事ではあるが、力が無ければ守る事は出来ない。特に前触れもなく顕れる悪意や害意から大切な人を守るには、常日頃より準備と警戒、そして心構えを必要とした。どれもアリウス時代に徹底的に叩き込まれた事だ、トリニティに身を移してからも血肉となったそれらは決して朽ちてなどいないが――それでもやはり、アズサとて思う所はあった。
平穏は善い、安寧は素晴らしい、だが備えを忘れてはいけない。
先生もきっと、そんな心持ちだったのではないだろうか。
「そう云えば、ミレニアムは先生専用の強化外骨格も検討しているのだったか」
「えっ、義手とかは聞いていましたが、そんなモノまで?」
「あぁ、どうもそうらしい」
ヒフミはアズサの言葉に、ふと記憶を思い返す。確かに以前トリニティに来校した時、先生はバイクに跨っていたか。しかも通常の二輪型ではなく浮遊するバイクであった。物珍しく、ちょっとした人だかりになっていた事を覚えている。
今考えるとあのバイクもミレニアム製の物だったのだろう、あんなものが作れてしまうしまうのだから身を守るための強化外骨格の開発も容易いのかもしれない。その手の分野に明るくないヒフミからすれば想像する事しか出来ないが。
「えぇ、義手や義足を担当している方々の開発でしたね、車椅子と云う名のバイクもそうですが」
「……えっ、先生が乗っていたあれって車椅子だったんですか!?」
いや、待って欲しい、ヒフミは混乱した。記憶を思い返すが、何度思い返しても車椅子には見えなかった。そんな心情がありありと表情に出たのだろう、「開発者曰く、ですが」とハナコは困ったように云った。
「ハナコは開発を担当している生徒と交流があるのか?」
「えぇ、連邦生徒会主導の有識者会議で何度か」
連邦生徒会長が復帰して以降、シャーレ復興と支援を目的とした会議が度々開催されていた。大抵は各学園の生徒会メンバー、或いは代表的な部活動、及び委員会のトップが招かれるが、時折内外問わず推挙された生徒が招聘され参加資格を得るケースもあった。
ハナコの場合はセイアやサクラコといった面々がその見識と才覚を評価し会議内で推挙、トリニティの代表者、その一員として参加する流れとなった。
「私も招聘された際に多少耳にしてはいました、強化外骨格の開発ネームは確か、『先生ガーディアン』だったかと」
「ふむ、先生ガーディアンか」
「……何か、ちょっと安直じゃない?」
アズサは何かを考える素振りを見せ、コハルは素直な所感を吐露した。分かり易さはある程度大切だろうが、だとしても何の捻りも無いように感じたのだ。
「ですがコハルちゃん、開発ネームを耳にしたミレニアムのゲーム開発部の部長が、突然泡を吹いてロッカーに閉じ籠ったというお話もあります」
「えっ」
ハナコが真剣な面持ちでその様に告げると、コハルは目を丸くし戸惑った。
「な、何で……?」
「それは分かりません、或いはミレニアムに於いては何か特別な意味を持つ名称という可能性もあります」
「なるほど、トリニティで例えるなら『ユスティナ聖徒会』のようなものか」
「そ、そう云われると何だか途端に威厳のある名称に感じられるような……」
とてもそうは思えないが、ミレニアムの生徒にとっては違うのかもしれない。これは所謂学園間の文化の違い――というものだろうか。ヒフミは漠然とその様な事を考えた。
「――むっ、誰か来るな」
「えっ」
不意にアズサが席を立ち、机の横に立て掛けていた愛銃を掴んだ。遅れて微かに聞こえる靴音、相変わらず彼女の察知能力は凄まじい。昔は予めトラップやら何やらを仕掛ける程に念入りであったが、此処最近は身構え警戒する程度に留まっている。これも成長なのだろうか、少なくとも良い方向に進んでいるとは思いたい。
「失礼します、浦和ハナコさんはいらっしゃいますか?」
扉がノックされ、名指しされたハナコに視線が集まった。彼女は声を返しながら席を立ち、教室の扉を開ける。
ハナコの背中越しに黒いウィンプルと制服が揺れていた。
「ハナコさん、サクラコ様より――」
「えぇ、分かっています、時間帯は――」
ハナコと現れた生徒は小声で何かをやり取りし、ほんの十数秒程度で会話を終える。最後に一礼して去っていく生徒を見送りながら、ハナコは静かに扉を閉めた。
「シスターフッドの方ですか?」
「えぇ」
「もしかして、また事件か何かあったんじゃ……」
「いえ、そういう訳ではありません」
問い掛けにハナコは緩く首を振った。彼女の纏う気配は常より、少しだけ張り詰めている様に思える。だが表情は柔らかく、補習授業部の面々に負担を掛けまいと本人は努めて何でもない事の様に振る舞った。
「どちらかと云えば未来への備え――でしょうか」
言葉に嘘はない、以前の事件で遭遇した複製や自分自身について――シスターフッドには公にされていない様々な情報や秘儀が眠っている。それらに関して表層のみ浚い、多少の知恵を貸す程度のものだった。
ハナコ自身、シスターフッドという組織に踏み込み過ぎている自覚があった。本来であれば所属もしていない生徒に明かせる類のものでもない事も。或いはそこに打算的な思惑を見出そうとすれば容易だという事も、第三者から見れば己がどのような立場に映るかも――しかし、それでも尚ハナコには足を止められない理由があった。
アズサはそんなハナコをジッと見つめ、ふと呟きを漏らす。
「ハナコ、最近は何だか、シスターフッドの制服を見る度にどこか寂しそうな目をしているな」
「えっ、そうなんですかハナコちゃん!?」
「―――」
流石の観察眼であった。
自身の胸中をストレートに当てられ、ハナコは一瞬言葉を詰まらせる。三人の視線が此方を捉えていた。含まれるのは不安や心配といった分かり易いもの、これで虚勢を張るのは余りにも。
「……否定は出来ませんね」
はぐらかすのは野暮であった。
「やっぱり、その……カタコンベで戦った、もう一人の――」
「えぇ、その通りです」
コハルがおずおずと問いかければ、苦笑交じりにハナコは感情を吐露した。
「異なる世界とは云え、そういった可能性もあったのだろうなと、まざまざと見せつけられてしまいましたから」
記憶を思い返し、ハナコは自身の抱いた感情を反芻する。
幸福と不幸、希望と絶望、喜劇と悲劇――浦和ハナコが辿った、幾つもの運命。
何か一つ、ボタンの掛け違いがあればきっと、あちら側に立っていたのは自分だったかもしれない、と。
「だから私がこうしてこの場に立っていられるのは、とても幸運な事なんだと思います」
頭で理解するのと、この身で苦痛と共に味わうのは全く異なる。その慟哭も、憎悪も、悪意も、殺意さえ――或いは其処に込められた願いも、祈りも、全て血肉となってハナコの中に息づいている。
故に断言できる。
自分は幸運であったと。
今こうして、此処に皆で存在していられる事自体が奇跡なのだと。
「そうだな、ハナコの云う通りだ」
ハナコの言葉に、アズサは深く共感を示した。その言葉に反駁するつもりはない、きっと自分達がこの未来に辿り着けたのは凄まじい幸運で、文字通り奇跡に近い事なのだと。
けれど――アズサは同時に想う。
「けれど私達は自らの意志で戦って困難を乗り越えた」
「………」
「それは幸運でも何でもなく、皆のお陰だと思っている」
抗う意思が、諦めない心があったからこそ辿り着けた。それが無ければ可能性さえ生まれなかった。元より那由他の果て、挑む事が馬鹿馬鹿しくなるような確率だったのかもしれない。
だがそれでも、その瞬間走り出さねば――手を伸ばさなければ、ほんの砂粒に等しい可能性さえ取りこぼした筈なのだ。
だからこそアズサは、ハナコの目を真っ直ぐ見つめ断じる。
「辛くて苦しくて痛くて、それでも諦めなかった結果が今なんだ――誰かひとりでも欠けていたらきっと、こうやって皆でまた勉強する事も出来なかったから」
「アズサちゃん……」
その日常を噛み締め、感謝する。
元よりその様に生きていた、アリウスで育ったアズサにとってこの場所は奇跡の塊のような場所だから。だがアズサはあの戦いを経て今この瞬間、何て事の無い日常を享受できる毎日に対し、より深い感謝を抱く様になった。
平々凡々、代り映えしない日々、皆で集まって何気ない雑談に花を咲かせる、勉強に勤しむ、買い物に出かける――それがどれだけ素晴らしく、幸運な事か。
心の底から嬉しそうに、この時間を噛み締めるアズサを前にしてコハルは唇を一文字に結び、それから手元に視線を落とすと意気消沈した様子で額を机に擦り付けた。
「まぁ、皆で集まってやることが補習授業っていうのも、悲しいけれどね……」
「こ、コハルちゃん!」
そっ、それはそうかもしれませんが……! ヒフミのフォローが虚しく響く。そうだ、皆で集まってやりたい事は沢山ある。買い物に出かける、スイーツ店巡り、映画を見に行っても良い、はたまた花見だって。
だというのに今こうして集まってやっているのは補習授業――正確に云えば赤点を取ったが故の自習である。
「あんな大事件があった後の試験だったんだ、そう気を落とす必要もないぞコハル」
「でもハスミ先輩やツルギ委員長は当然の様に上位をキープしているし、イチカ先輩も、マシロも、あ、赤点を取った生徒なんて正義実現委員会の中で私だけ――うぅっ!」
アズサが泰然とした姿勢のまま告げれば、コハルはペンを強く握り締めたまま涙目で己の不甲斐なさを嘆いた。確かに大変な事件であった、精神的にも肉体的にも限界ギリギリまで酷使した出来事だっただろう。
しかし、だからと云って赤点を取って良い理由にはならない。何なら自分よりも遥かに多くの現場に繰り出し、戦い続けていた筈の先輩方は軒並み高得点を取っているのだ。それと比較すれば己の何と不出来な事か、と。
「お、落ち込まないで下さいコハルちゃん! 大丈夫です、次の試験で挽回しましょう!」
「因みにヒフミちゃんはどういった理由でまた補習になったのですか?」
「えっ」
席を立ち必死にコハルへエールを送り励まそうとするヒフミに対し、ふとハナコは疑問をぶつける。補習授業部が結成されるのはこれで何度目だろうか、凡そ理由は分かっているものの――ハナコはとても楽しそうに問いかけていた。
「あ、えぇっと、それは……」
ヒフミは視線を左右に彷徨わせ、両手の指先を忙しなく擦り合わせ、それからおずおずと恥ずかしそうに答えた。
「わ、私は、そのぅ、ペロロ様が区画復興キャンペーンで現地に行かないと買えないグッズ販売を、えっと、し、試験の当日に……あはは」
「――ふふっ、ヒフミちゃんらしいですね」
モモフレンズ、特にペロロ様が絡むと豹変する彼女は相変わらずブレない。それが例え重要な試験日であろうと何だろうと、自分の『好き』を貫く姿勢には清々しさすら覚える。
元より、然程点数が悪い訳でもないヒフミである、彼女が此処にいる時点で理由は察せられるというもの。
「因みにハナコちゃんは……」
「あら、仲間外れは悲しいじゃないですか♡」
「あ、あはは」
そしてそれは、ハナコも同様であった。
■
補習授業部の面々は暫くの間雑談を控え、勉学に励む事と相成った。
元より補習の為に集まった面子である、各々が教科書、参考書と視線を行き来させペンを動かし続ける。時間が合えば顧問であるシャーレの先生が時折様子を見に来て教鞭を振るう事もあるが、本人が多忙な為そういった機会は月に数える程度しかない。
故にこういった静かな自習は補習授業部の面々にとって慣れたものである。
もし万が一自分一人では解決できない問題に直面した時も、大半はハナコが先生の役割を担った。
彼女がトリニティきっての才媛である事は既に周知の事実である。ハナコ本人は大多数の生徒にそういった目で見られる事を疎んでいたが、自身の知見や知識を補習授業の仲間に伝授する事に対しては一切の抵抗がない様子だった。
「――という形ですので、ここまで理解出来れば問題ない筈です」
「あ、ありがとうございます、ハナコちゃん!」
参考書の該当文を指先でなぞりながら、ノートにすらすらと淀みなく文字を綴るハナコ。「ひとりは寂しい」、そんな理由で毎度補習授業部へと身を置き続ける彼女はその気になれば全ての教科で満点を取り続ける事も可能だろう。説明はとても分かり易く、ヒフミの経験上彼女に自習の範囲で疑問を投げかけ返って来なかった事は一度としてなかった。
「それにしても、本来の授業ペースから考えると凄いスピードで進んでいますね、この参考書も全て解き終えてしまいそうです」
「それもハナコちゃんのお陰です、これなら次のテストもバッチリだと思います!」
「えぇ、ヒフミちゃんならきっと」
自信満々に拳を握り締めるヒフミに対し、ハナコは穏やかに肯定を返す。尤も、またモモフレンズのイベントと重ならなければ――という但し書きが付くだろうが。
「そうだ、これを機にコハルに聞いておきたい事があったんだ」
「ん、アズサ……?」
一心不乱にテキストと向き合っていたアズサとコハルの両名。
ハナコやヒフミと異なり、ある意味実力で補習授業部へと身を置き続ける彼女達は授業のペースに追いつく為に必死である。そんなアズサは不意に動かしていたペンを止め、隣り合ったコハルへと顔を向けた。
突然声を掛けられ小首を傾げるコハルであったが、彼女のノートを一瞥し得意げな表情を浮かべる。
「あ、もしかしてまた分からない所でもあったの? し、仕方ないわね、私が教えてあげるわよ――!」
既に習った所ならば自分でも教えられる。頼られる事は嫌ではない、寧ろ普段は戦闘でも勉学でも誰かに頼ってばかりである為、誰かに頼られる事はコハルの自尊心と正義感を大いに満たした。
「うん、実は……」
真剣な面持ちでペンをノートの上に置いたアズサは、コハルの瞳を真っ直ぐ見つめながら口を開く。
「コハルに、『えっち』な事を教えて欲しいんだ」
「えっ――?」
背後で何かが倒れる、けたたましい音がした。
ヒフミが椅子から転げ落ちる音であった。
その隣ではハナコが目を丸くして、口元を隠しながらアズサを凝視していた。
一瞬教室の時間が停止する、そう錯覚する程に世界から音が消えた。開け放たれた窓から吹きすさぶ春風が全員の髪を撫でる。
「あ、あっ、アズサちゃん……!?」
「あらあら♡」
ヒフミが愕然とした、何が何だか分からないといった様子でアズサの名を呼び、ハナコは一拍置いて満面の笑みを浮かべる。
コハルは口を何度か開閉させ、額に自分でも良く分からない汗を滲ませながらぎこちなく問いかけた。
「な、何で……?」
声は震えていた。自分でも理解出来ない焦燥感のようなものが、じわじわと背中から這い寄って来るような感覚だった。
「コハルはいつも云っている、えっちな事は駄目、死刑だと」
真剣でイノセントな、どこまでも真っ直ぐな瞳のままアズサは続ける。コハルは反駁の術を持たなかった、だってそれは口癖のように自分が方々で云い放っている事だったから。
「私も流石に死刑になるのは嫌だし、周りの友人がそうなるのも避けたい、先程の先生の話だってそうだ」
腕を組んで何度か頷いて見せるアズサ。彼女がこのトリニティに身を寄せ、そして補習授業部という居場所を見つけてそれなりの時間が経過している。しかし、未だ知らない事も多い――他者にとって常識であっても、アズサにとっては異なるような例は決して少なくなかった。
日常生活然り、戦闘に於いての心構え然り。
そして、コハルの口癖である『えっちな事は駄目、死刑』も同様に。
アズサは『えっち』というものが分からなかった。
コハルの言葉から駄目な事は理解していたが、死刑に値する程の罪悪であるという実感も薄かった。
故に――。
「だからまず、どのような内容がその死刑に該当するのかを把握しておきたい」
「………」
「こういった事はアリウスでも全く教わらなかったし、その手の知識が豊富なのは普段口にしているコハルか、物知りなハナコか、或いは先生くらいしか心当たりがない」
コハルは絶句した。
顔を赤くしたり、蒼くしたり、様々な感情と思考がぐるぐると巡っていた。
まさかそういう風に見られているのとか、いやそもそも先生に聞くとはどういう事とか、ハナコが絡んできて絶対大変な事になるとか――兎にも角にも感情の洪水が荒れ狂い、コハルから一切の余裕を奪っていた。
「私個人としてはやっぱり同学年のコハルに教えを乞いたいのだけれど、駄目だろうか?」
「だっ、ぅ、ぁ……」
小首を傾げ純粋に問いかけて来るアズサに対し、コハルは暫くの間呻き声を返す事しか出来なかった。教える、誰が、何を? 自分がアズサに、えっちな事を。石像の如く硬直しながら考える。それは駄目ではないだろうか、死刑案件ではないだろうか、と。
しかし、彼女が自分の妄想するそういった不純な動機を持っていない事は明白で、そこには純粋な疑問と生真面目さだけがある訳で――。
「まま、待って下さいアズサちゃん!」
「ヒフミ?」
最も早く再起動を果たしたのはヒフミだった。机に掴まりながら慌てて身を起こし、教科書やノートが床に散らばる事も厭わずにアズサへと訴えかける。顔は羞恥で真っ赤に染まり、頬にはじんわりと汗が流れていた。
「流石に、そのぅ、えっと、そういう事はですね――っ!」
「まぁまぁまぁまぁ、良い事ではありませんか」
しかし、そんなヒフミの肩を掴みながら強引に椅子へと座らせる影が一つ。
ハナコである。
彼女はとても――それはもう楽しそうに笑みを深めながら、上機嫌にヒフミを椅子へと押し込んだ。ヒフミはバランスを崩しそのまま椅子に腰を下ろす形となり、彼女の背後に佇みながら肩を押さえつけるハナコは何て事のないように、ヒフミの顔を覗き込むと告げた。
「過程はどうあれ、そう云ったものも知識である事に変わりはありませんし、これも一つの補習授業という事で……♡」
「い、いやいやハナコちゃん! 流石にこれを補習と云い張るのは無理が……っ!」
「むぅ――」
何かを期待する様子で学習を勧めるハナコ。焦燥と共に反駁し立ち上がろうと足掻くヒフミ。そんな両者を交互に見つめながら腕を組んだまま唸るアズサ。
何だかよく分からないがハナコは学習に賛成で、ヒフミは反対らしいと――どうしたものかと思案するアズサの視界に、目を見開いたまま微動だにしないコハルの姿が映った。
「………」
「コハル?」
名を呼ぶも反応が無い。軽く手を振ってみるが視線も動かない。ハナコはそんなコハルの様子に目を瞬かせる。
「あら、コハルちゃんがフリーズしてしまいましたね」
どうやら予想外の出来事に脳が処理限界に達してしまったらしい。これではアズサに『えっち』な事を教える等と、夢のまた夢だろう。
そう判断したハナコは口元の笑みを深くしながら自身の首筋を撫でる様に指先を動かす。指に触れた制服が僅かにズレ、静かに肌を見せた。
「そういう事であれば、私がひと肌脱いで――」
「はっ……!?」
その瞬間、コハルが我に返った。
彼女のセンサーが明確な『えっち』の可能性を捉えた瞬間であった。
椅子を蹴飛ばす勢いで立ち上がり、コハルは振り向きハナコに向かって叫ぶ。
「だっ、駄目! 絶対駄目! そんな事云って物理的に脱ぐつもりでしょ!?」
「あらあら、勿論比喩ですよ?」
顔を真っ赤にして鼻息荒く叫ぶコハルに、ハナコは両手を軽く振りながら答える。しかしその笑みは余りにも意味深で、コハルが納得できる要素など何一つ存在しなかった。
「く、ぅう……っ!」
コハルは考える、大量の冷汗を流しながら必死に。
ハナコに任せるなんて出来ない、論外であると。ハナコの事だ、あれこれ理由を付けて表層的な部分に限らず、もっとディープな、それこそ恋愛小説や漫画なんて目ではない、トリニティで御禁制とされる薄い本の内容に近しい事まで教えかねない。いや、絶対にそうなるという確信がある。
どう考えても危険であった、それならば自分が――その様に考えるのは自然な流れである。
「わ、分かった」
辛うじて。
本当に辛うじて、吐息の様な囁きが口をついた。
「お、教える……わ、私が、教えるから――!」
「ふふっ、残念です♡」
コハルの過酷な表情を一瞥したハナコは、口ではその様に宣いながらも非常に悦ばしいと云わんばかりに何度も頷く。椅子に座ったまま呆然と成り行きを見ていたヒフミは、愕然とした、それでいて不安げな表情を隠せなかった。
「ほ、本気なんですか、コハルちゃん……!?」
「ありがとうコハル、助かる」
アズサはそんな皆の胸中などつゆ知らず、普段通りの佇まいで感謝を口にした。改めてコハルと向かい合った彼女は両手を膝の上に置き、真剣な表情を崩さず身を乗り出す。
「それで、えっちな事とは具体的などんな事なのだろうか?」
「……そ、それは」
数秒程間が空いた。コハルが口元をまごつかせながら視線を左右に揺らすと、更に身を乗り出したアズサが促す様に頷いた。
「それは?」
「それは~?」
「―――……」
ハナコがとても楽しそうに、何なら体を左右に揺らしながら合いの手を入れる。ヒフミはアズサとコハルを交互に見つめながらハラハラと息を呑み、コハルは二度、三度深呼吸を挟みながらゆっくりと口を開いた。
「きっ……」
「き?」
コハルの掌が机を叩き、それから彼女は吹っ切れた様に、半ば自暴自棄になって叫んだ。
「き、キスの事よッ!」
■
――後日、トリニティ中央区郊外の裏路地にて。
人通りの少ない地区郊外、その夕刻。綺麗に整備、清掃された表通りから少し脇にずれ、影に覆われた細い裏路地。差し込む夕暮れに紛れ、ざらついた外壁に身を寄せながら並び立つ二つの人影があった。
片方はトリニティの制服に身を包みながら、両手で愛銃を確りと保持し裏路地の奥を油断なく警戒する小柄な生徒――白洲アズサ。
もう片方は帽子を深く被り、口元を無機質なマスクで覆った白い外套を羽織る生徒――錠前サオリ。
事の発端は、サオリの端末に第三者経由でメッセージが届いた所から始まる。
第三者とは云うまでもなくシャーレの先生である。現在アリウス・スクワッドの連絡先と所在を正確に把握している者は非常に限られており、先生はその数少ない人物の一人であった。
先生経由でサオリは、「どうしても直接話したい事がある、可能な限り早く」というアズサからのメッセージを受け取り、そのメッセージに添付された暗号から指定されたこの場所へとやって来たという流れだった。
サオリにとって郊外とは云えトリニティの中央区に足を踏み入れるのには抵抗があったが、アズサのメッセージを無視するという選択肢はなかった。
「サオリ」
果たしてサオリが待ち合わせ場所に辿り着いた時、アズサは影に紛れる様にして一人待機していた。
「………」
サオリは自身を見つめる彼女の視線から逃れる様に帽子を深く被り直し、万が一の場合に備えて退路を視線でなぞりながら無言で壁に背を預けた。サッと周囲を確認したが、罠らしい罠も見当たらない。
茜色が差し込み、アズサの足元を僅かに照らす。
両者がこうして顔を合わせるのは随分と久しぶりの事であった。
ましてや先生やスクワッド、補習授業部の面子を通さず二人きりで対峙するなど、下手をすれば調印式での事件以降初めての事であったかもしれない。その事を考えると妙な気まずさと、自責の念がふつふつとサオリの胸中に湧き上がって来た。
故にこうしていざ顔を合わせて尚、中々口を開く事が出来ずにいたのだが――。
「サオリ、聞きたい事がある」
「……何だ」
口火を切ったのはアズサであった。
以前と変わらない、超然とした口調であった。
久しぶりだとか、元気であったかだとか、そんな当たり障りのない挨拶をすっ飛ばして本筋に切り込むその実直さは相も変わらずといった所か。
両者は互いに反対方向を見つめながら言葉を交わす。アズサは純粋にスクワッドの、サオリの安全を確保する為。
サオリは自身の中に渦巻く罪悪感と後ろめたさから、アズサの瞳を直視出来ずに。
「サオリは――」
「………」
果たしてどんな言葉が飛んで来るのかと、ひそかに拳を握り締めながら身構えるサオリ。
どのような言葉であっても真正面から受け止めるのだと、悲壮な覚悟で以て視線を足元に落とし。
そんな彼女に対し、数秒の沈黙を経てアズサは問うた。
「キスをした事はあるか?」
「……は?」