「……アズサ」
たったそれだけの声を絞り出すのにかなりの時間を要した。
沈黙はサオリが必死にアズサの意図を読み取ろうとした結果であり、しかし全て徒労に終わった。
眉間に皺を寄せそれでも必死に思考を回すサオリは、真剣な面持ちで此方を見上げるアズサから視線を外し首を緩く振る。
「先生経由でメッセージを受け取り、何事かと急行してみれば――久方振りに顔を合わせて一言目が、それか」
一体どういった意図での問い掛けなのか、そこに至るまでの過程も、背景も、何もかも。少なくとも今のサオリにとっては何一つ理解出来ない状況であった。
「正直、全く話が見えて来ないぞ」
「重要な事なんだ、キス、接吻、ちゅー、云い方は何でも構わないが」
そんな困惑を滲ませるサオリに対し、アズサはしかし一切の態度を変えない。云い方を変えれば良いというものでもないだろうに。アズサは直立不動で此方を見上げたまま一歩、二歩と詰め寄って来る。サオリはその出所不明の圧にたじろぎながら口を固く閉ざした。
「それでどうなんだ、経験は?」
「………」
「答えてくれ、サオリ」
何故そうも拘るのか、キスの一つのや二つで何が分かると云うのか。
しかし、アズサ本人が真剣である事は確かに伝わって来た。少なくともそうするに足る理由が、アズサの中には存在している様だった。
帽子のつばを下げて視線を遮るサオリは、一度深呼吸を挟むと渋々記憶を掘り返す。
「アリウスで受けた救護訓練を忘れたのか、アズサ? あの手のものに、生徒同士の人工呼吸の実践訓練があっただろう」
呟きながらサオリは自身の胸元を親指で指す。
万が一心肺が停止した場合に備えて、アリウスの生徒はその手の対処法が叩き込まれている。アリウスに於いて生徒は使い捨ての駒同然であったが、だからといって救護知識が全く与えられない訳ではない。
ましてやスクワッドはマダム――ベアトリーチェが最も重要視していたロイヤルブラッド、アツコを率いた部隊である。彼女の喪失は決して認められず、サオリ含め部隊員は緊急蘇生法を含めた応急手当の類を十二分に叩き込まれていた。
エデン条約の折、ミサキが橋の上より身投げしようとしていた際サオリが強気に対峙していられたのは、そういった背景があったからだ。
「唇同士の接触の事を指しているのであれば、スクワッド全員がお互いで既に……」
「いいや、あれはカウントしない、あくまでそう云った目的や感情を持って唇を接触させる事が重要なんだ、キスとはそういうものらしい」
「………」
だがどうやら違うらしい、アリウスで学んだ緊急蘇生法はアズサ曰くカウントしないとの事で、サオリは再び口を一文字に結ぶ羽目になった。そこに何の違いがあるのかも分からないが、サオリは自身の無知を自覚するが故に深く言及する事を避けた。
「それで、どうなんだ?」
どうなんだ、と問われても。
サオリは返答に窮し、改めてアズサに視線を向ける。だが瞳に映るのはどこまでも真っ直ぐ、真面目な表情で此方を見上げる彼女の姿だけだ。これほどまでに愚直な視線を向けられると、答えを避ける事が何かとてつもない悪事を働いている様な気分になる。
唇を開き、閉じ、また開く――今ほどマスクを着用していて良かったと感じた事は無かった。困惑し、苦り切った表情を晒さずに済む。
「……ある訳ないだろう」
辛うじて絞り出した声は、風に溶けて消えてしまいそうな程力なかった。
「そうか、良かった」
サオリの凄まじい葛藤の末に吐露した答えに、何故か胸を撫でおろすアズサ。何故そこで安堵する、怪訝な表情を隠せないサオリ。
「良かった……?」
「うん、それがあると、大変な事になる」
「大変な事とは、何だ」
キスとやらの経験一つで、何が大事になるというのか。真剣な表情で問いかけるサオリであったが、アズサから返って来た答えは予想の斜め上の代物であった。
「キスはえっちな事だから、死刑になってしまう」
「……は」
「少なくとも、トリニティではそうらしい」
一瞬思考に時間を取られた。
死刑? 死刑とはつまり――ヘイローを破壊されるという事か。
「まさか」
サオリは驚きと疑念半々といった様子で呟いた。表の世界でそのような事がまかり通る筈がない、と。しかし自身が表の世界に於ける常識や法について無知である事は自覚していた。世俗に疎い自分が、何故あり得ない等と断言出来よう。
だが、しかしこれは余りにも――。
「サオリがそうならなくて、良かった」
自身の常識とかけ離れた現実に、焦燥と困惑を滲ませ視線を彷徨わせるサオリであったが、アズサは安堵交じりに笑っていた。
「………」
両者の間に沈黙が流れる。
サオリからすれば目の前の光景は、実に複雑な心境となるものであった。
一度は完全に袂を別った間柄である、ヘイローを壊す覚悟さえ固めた相手だ。そしてそれは、アズサとて同様だろう。
互いに本気で憎み合い、いがみ合い、果てに一線を超える事さえ厭わなかった。守らなければならない存在が、家族が、居場所があったからだ。片やその場所でしか生きられないと思っていた、片や閃光の如く一瞬でも陽光のように暖かな場所を知った。
互いに唯一無二の世界を守る為に必死だった。
そんな相手から、アズサからその様な言葉が漏れるなど――サオリが口を噤むのも当然であった。
自身が後ろめたく想い、罪悪感すら抱く事柄がアズサにとっては既に過去の事で何ら頓着していないのだと突きつけられた気分だったのだ。けれどそれは決して悪い事ではない、いつまでも過去に囚われ続ける自分と違いアズサは前を見ているのだから。
いつだってそうだった。そこには罪悪の有無などでは決して測れない、もっと根本的な部分で彼女は、
「一応、スクワッドの皆にも聞いておいて欲しい」
壁から背を離したアズサは軽く裾を払うと、そのままサオリに告げた。
「それは、キスの経験があるかどうかを聞けと、そういう事か」
「うん、そう」
「……本気か?」
「当然」
まぁ、そうだろうな――サオリはそんな言葉を呑み込む。
アズサが冗談半分でこの様な事を口走る手合いでない事は良く知っている。本気で、スクワッドの皆の身を案じての事なのだと。内容は聊か突拍子もないものだが、そこに込められた善意だけは明確であった。
「それじゃあ、くれぐれもよろしく頼む」
それだけ口にして愛銃を担ぎ直したアズサは、その場を悠々と去っていく。靴音が狭い路地に反響した。白い羽と共に揺れる小柄な背中をサオリは無言で見送る。
「………」
去り行く背中に何か、声を掛けるべきだと思った。
感謝か、謝罪か、それとも――湧き上がる感情はサオリ自身、綯交ぜになって良く分からなかったけれども。
「そうだ、サオリ」
だがサオリが口を開くよりも早く、アズサは路地の出入り口で不意に足を止め振り返った。サオリは一瞬肩を震わせ、それから顔を上げるや否や自身の胸中を悟られぬ様に奥へ奥へと感情を押し込む。
「……何だ、まだ何かあるのか」
まさか他にも素っ頓狂な事を聞いてくるつもりかと、そんな気配を放つサオリに対しアズサはふと、何でもない事の様に云った。
「いつかスクワッドの皆と、どこか遊びに行きたい」
「―――」
声は清々しい程に晴れやかで、何の含みも無かった。あまりにも毒気が無さ過ぎて、サオリは一瞬呆気にとられた。
「美味しいお店を沢山学んだんだ、楽しい事も、綺麗な場所も、それを皆にも教えたい、費用は私が負担するから」
「……アズサ」
朗々と希望を語る彼女に対し、サオリは堪らず低く、唸るような声と共に首を振った。
「私達スクワッドは追われる身だ、ゲヘナやトリニティだけではない、個人的な恨みを持つ生徒も多い」
腕を組み、壁に背を預けたままサオリは続ける。スクワッドが犯した罪、それは多くの生徒が知る所である。赦す者も居る、だが赦さない者も居る、それは当然の事である。
その恨み、憎悪は以後、どれだけ時間が経過しようとも、或いはスクワッドが天に届く善行を積み重ねようとも消える事はないのだろう。
それをサオリは、アリウスは――良く知っている。
「だから、不用意な接触は……」
「知っている」
しかし、アズサはきっぱりと首を横に振った。知らぬはずがない、当然の事だ。知っていて尚、アズサは再びスクワッドと時間を共にする事を望んだ。
互いに立場は変わってしまった、大切だと思う場所も、時間も。
「この世界は苦しい事も、辛い事も多い、きっとそういう側面の方がずっと大きくて、私達が感じる事が出来る幸福にも限りがあるのかもしれない」
永遠は存在しない。どれだけ大きな幸福でもずっとは続かない。いつか必ず終わりは訪れる。
どれだけの時間を重ねても、全ては虚しく消える運命なのかもしれない。
けれど――。
「けれどそれだけじゃない、そういう世界が、楽しい場所が、美味しいものが……そういう一面も世界には沢山あるんだって、皆にも知って欲しいんだ」
影があれば光がある。辛い事もあれば、幸福だと思える事もある。絶望があれば希望がある。世界は片側だけじゃない、全てがいつか消えてしまうのだとしても、きっと無意味でもなければ無価値でもない。
皆と過ごすこの一日、一瞬にはきっと大きな意味があるから。
そうやって世界の素晴らしさを分け合えば、この奇跡のような日々はもっと輝くと思うのだ。
少なくとも白洲アズサは、そう在る様に努めたい。
「先生だってきっと、そう云うと思うから」
これは
アズサはそう云って照れくさそうに笑った。
路地裏に差し込む夕焼けが、アズサの輪郭を淡く包んでいた。
「―――」
差し込む陽光に網膜を焼かれながら、サオリはそっと瞳を細める。目前に立つ小さな少女、茜色を背負ったアズサの姿は、あらゆる面で眩く見えた。
誰にも知られず、冷たく昏いコンクリートに芽吹き、自ら咲く意味さえ否定された野花は。踏み躙られても折れる事を知らず、いつの間にか陽光を存分に浴び大輪の花を咲かせようとしている。
どれ程の逆境であっても諦める事を、望む事を、希望を手にする事を止めなかったアズサだけが辿り着けた場所――それが今、彼女の立っている所なのだと。
サオリはそれを改めて見せつけられた心地だった。
「お前はやはり、本当の意味で陽の当たる場所に……」
口をついた囁きは、吐息に混じり掻き消えた。伸びる影がサオリ足元まで迫り、彼女は咄嗟に足を退く。
差し込む夕焼けを避ける様に、両者は光と影に分かたれた。
微かに聞こえた声にアズサは小首を傾げる。
「ん、何か云ったか、サオリ?」
「……いいや」
緩く首を振り、サオリは無言で背を向けた。それは陽光の暖かさから目を背ける様に。今の自分には彼女の姿が余りにも眩く、素晴らしいものに見えた。その眩さと暖かさを一度知ったからこそ、再びそこに足を踏み入れるには勇気が必要だった。
この足先が陽光の只中へと再び踏み出すには、どれ程の時間が必要だろうか。今はまだ分からない、自分達を取り巻く状況はいつだって不穏で、向けられる悪意には際限がない。終わりが来るかどうかさえも定かではないのだ。
「アズサ」
けれどいつか――。
「お前が私達スクワッドの元を離れたとしても、その過去は消えない」
「………」
「だから」
それはアズサにどのように聞こえただろうか。アリウスの元で学んだと云う昏い過去を、苦痛を忘れるなという警句だろうか。
違う、そうではない。
サオリにとって白洲アズサという生徒は嘗て同じ道を歩み、同じく血を流し、耐えがたい苦痛に苛まれながら――それでも異なる結末に辿り着いた存在だ。
奇跡の情景であり、憧れであり、そして。
自身が手にできる筈がないと決めつけていた、そんな眩い希望を掴んだ
「そんなお前に――後輩に奢らせる訳にはいかないな」
振り向き、サオリは口元を緩めた。
だからいつか。
いつか私達が罪を償ったと、そう口に出来た時が来た、その時は。
「費用は私が出す、これでもそれなりに稼げているんだ、だから良い店を紹介してくれ」
「………」
口元を覆うマスクを静かに取り外し、サオリは素顔を晒す。嘗ての彼女からは想像できない様な爽やかで、優し気で、少しだけ不器用な笑みが覗く。
アズサは一瞬、面食らった様に目を見開いて。
それから同じように笑みを浮かべて云った。
「――うん、分かった」
約束だ。
「またね、サオリ」
「あぁ」
何か月後、何年後、何十年後かは分からない――けれど、そう遠くないだろうという予感もある。
再び背を向け路地裏の暮明に消えて往くサオリに、アズサは声を掛ける。背中越しに手を掲げたサオリはもう振り返ることなく、少しだけ嬉しそうに応えた。
「またな、アズサ」
■
「あっ、お帰りなさい、サオリさん……!」
「おかえり、サッちゃん」
「リーダー、遅かったね」
D.U.郊外、セーフハウスにて。
寂れた小さなテナントビル、その地下に人知れず存在するセーフハウス。先生が万が一の事態に備えて秘密裏に所有するその場所を、スクワッドは当面の拠点として借り受けていた。
アズサとの密会を終え、帰還したサオリを迎えるヒヨリ、アツコ、ミサキの三名。「無事で良かったです」と何事もなく帰って来た事に胸を撫で下ろしながら、ヒヨリはビニール袋に詰められた野草らしきものを突き出して見せた。
「きょ、今日はアツコちゃんが山菜を一杯獲って来てくれたんです……! 今夜もお腹いっぱい食べられそうですね、えへへっ……!」
「山林の方にお出掛けしたら偶然沢山生えていたの、全部貰っちゃうと駄目だから一部だけ摘んで来た」
「……あっちの方は花粉が酷いから、私は行けなかったけれどね」
満面の笑みを浮かべるヒヨリに、鼻を啜りながら仏頂面を晒すミサキ。春先の花粉はミサキにとって天敵である、それも仕方のない事だろう。
今日はサオリが不在という事で依頼は受けず、銃火器のメンテナンスや補給に充てた休養日であった為、各々好きに動いていたらしい。サオリは愛銃をガンラックに立て掛けながらビニール袋に詰められた山草を感心した様に覗き込んだ。
中に入っているのはコゴミ、ワラビ、フキ、アサツキなど――良くもまぁこれだけ見つけたものだと思う。
「態々山にまで行って取って来たのか?」
「うん、ある程度稼げるようにはなっても節約は大事、いつ何があるか分からないし、それに知識も偶には使わないと忘れちゃうよ」
ブラックマーケットの人から教えて貰ったスポットもあるし、確かめるついでにね。そんな風に云ってアツコは屈託なく笑う。
「折角ですし、この間買ってみた調味料なんかも色々使って料理してみましょう!」
「それなら冷蔵庫に食材もまだ結構あるし、鍋とか作ってみても良いかもね、足りなければ買い出しに行っても良いし」
「良いね鍋、皆で囲って食べるの、楽しそう」
「………」
取り敢えずアク抜きから、なんて喋りながら食事の準備を始める面々。恐らく自分が帰還するのを待っていたのだろう。
以前であれば食事何て栄養補給が出来れば全部一緒だろうと断じていたかもしれない。些細な楽しみを見出す余裕がある事、その事にサオリは深く感謝した。
「なぁ、お前達」
和気藹々とするスクワッドの面々を前に、外套を脱ぎながらサオリはアズサに頼まれていた事を思い出す。
「ん、はい、何ですか?」
「……?」
「リーダー、どうしたの」
正直気は進まない、だが自分一人だけで判断できる事でもない。サオリは一瞬視線を逸らし、それから一拍置いて僅かな羞恥を滲ませながら問いかけた。
「キスをした経験は、あるか?」
カコーン、と。
子気味良い音が部屋全体に響き渡った。
ヒヨリが手に持っていた空鍋を落とした音であった。それ程の衝撃が彼女の中に奔ったという証左なのだろう。動揺を隠さず視線を彷徨わせたヒヨリは、震える唇をそのままに呆然と呟く。
「き、きす……ですか?」
「えっと」
戸惑った様にミサキが言葉を詰まらせる。どのような事態にも諦観と悲観を抱くが故に泰然自若と構える彼女にしては、珍しい狼狽姿でもあった。
そんな中、アツコだけは頬に指先を当てながら普段通り思案する素振りを見せた。キス、キス、と呟きながら小首を傾げる。
「それって、もしかしてお魚の話?」
「アツコ、それは多分違う……リーダーが云っているのは唇でする、接吻の事でしょ」
「あぁ」
天然を発動するアツコに対し、ミサキが苦々しく訂正する。
魚の
少なくとも「したことがあるか」、という問いならば十中八九唇同士の接触を指す筈だと。
問題は何故、リーダーことサオリがその様な事を聞いて来たのかという部分であるが、ミサキにもまるで見当がつかなかった。
ヒヨリは蒼白となって恐る恐る問う。
「と、突然どうしたんですか? もしかして何か、悪い物でも食べたんじゃ……」
「いや、リーダーに限ってそんな事あり得ないでしょ」
そうでなければ、こんな意図も意味も分からない様な質問を投げかけて来る筈がないと、ヒヨリはそう云いたげである。
しかし、当のヒヨリならば空腹で拾い食いも辞さない覚悟を持つだろうが、サオリに限ってその様な醜態を晒すかどうか聞かれると――まずあり得ないだろう。
ましてや現在、自分達はそこまで食事に苦しい生活を強いられている訳でもないというのに。そんな状況で言動が可笑しくなる様な拾い食いなど論外であった。
「でもまぁヒヨリの云う通り、普通じゃないのは確か」
「サッちゃん、外で何かあったの?」
「……いや」
流石に普段の様子と違い過ぎるとミサキとアツコが問いかければ、当の本人は何か云い辛そうに視線を逸らした。まるで後ろめたい何かがあるような。
そんな仕草にふと何かに気付いたのか、アツコが「あぁ」と手を打った。
まるでサオリの中に秘められた真意に今気づいたのだと云わんばかりに。
「もしかして、先生とキスでもしたの?」
「なッ!」
「うぇえッ!?」
「―――……」
突拍子もない言葉であった。
しかし、そうであるのならば納得出来る理由でもあった。
あまりの衝撃にヒヨリが顔を赤く染め、同時にミサキの瞳から光が消えた。
元より何処か淀み昏い瞳をしていたミサキであったが、今は泥中に沈むが如く濁り切っている。
一瞬の内に渦巻くのは疑念、失望、諦観、自己嫌悪、嫉妬、羨望、後悔――最早全てを切り分けるのは不可能な程に混ざり合ったそれは、タールの様に煮立ったどす黒い気配と共に直視するサオリの肌を刺した。
「ち、違うっ、決してそういう事では……ッ!」
「うーん、でもそうなると、何で突然そんな事を云い出したのか――」
慌てて首を振り、否定を口にするサオリ。
アツコは疑問符を浮かべながら言葉を続けるが、対面するサオリとしては気が気ではなかった。兎に角ミサキの目が痛く、恐ろしく感じた。その内彼女の感情が
話が拗れては大事になる、これは素直に話すしかないと、サオリがそう判断するのにそう時間は掛からなかった。
「アズサから皆に聞いてくれと頼まれたんだっ!」
「……アズサから?」
アズサの名前が出た途端、ミサキの瞳に光が差し込み再起動を果たす。
突拍子もない言葉はサオリ本人の意思に由来したものではなく、他者の介在があってのものだと。
「あ、あぁ、そうだ……!」
髪を乱雑に掻いたサオリは脱いだ帽子を自身のベッドに放り、「というか、今日の呼び出された内容って、もしかしてソレ?」と訝し気に此方を伺うミサキに頷きを返した。
「キスって、なんでそんな事アズサが気にする必要があるの?」
「何か私達も知らない事情でもあったんでしょうか……?」
「その、何だ、少しややこしい話なんだが」
何と説明したものか、順序立てて話した所で疑問が増えるだけだろう。しかし、話さないという選択肢はない。サオリは自身の経験した事を率直に、ありのまま皆に伝えた。
「あいつ曰く、何でもキスはえっちな事だから、トリニティでは死刑になるのだとか」
「……は?」
四人の間に沈黙が降りた。
全員の視線がサオリに集中し、当の本人は居心地が悪そうに肩を揺らす。「本気で云っているのか?」と無言の圧さえ感じた。皆の疑念は尤もであった、何ならサオリ自身も抱いた感情である。しかし、事実そのように伝えられたのだから仕方がない。それ以上説明の言葉をサオリは持ち得なかった。
「……何で死刑?」
「分からない、呼び出された場所が場所だったからな、長居は避けた、だから詳細までは……」
トリニティ自治区の中央近くとなれば、腰を据えて長話出来る場所でもない。万が一発見でもされてしまえば、文字通り正義実現委員会が飛んで来るだろう。いや、その前に群衆に囲まれて
どちらにせよ、自分達にとっては死地に近い場所だからこそ早々に話を切り上げて離脱した判断が間違っているとは思わない。しかし、どういった経緯でこの話が持ち上がったのかはサオリをして不透明であった。
分かったのはえっちな事は死刑である事、そしてキスがそのえっちに該当するという事だけである。
「だが、私達はこの世界――特に表の世界について、まだまだ知らない事が多い」
「………」
「或いは、私達が知らないだけでえっちな事は死刑になると法で定められているのかもしれない」
サオリは強張った声色で呟きを漏らす。
荒唐無稽な話にも聞こえる、しかしこの話はサオリ達スクワッドに限って云えば、決して無視できない不安要素を孕んでいた。
恐らくアズサもその危険性を悟っていたからこそ、此方にこの話を持ち込んで来たに違いない。
サオリにはその確信があった。
自分達は表の世界に於ける常識に疎い――他者にとっての当たり前が、自分達の当たり前ではない事を自覚している。その乖離が大きければ大きい程、自分達も知らない間に取り返しのつかない過ちを犯しかねない。
それはスクワッド全員が望まぬ事であった。
「き、キヴォトス全域に於いて、ですか? トリニティ自治区内部特有の校則などではなく……?」
「少なくともトリニティでは、と口にしていたが――こうして流浪の身である私達にまでアズサが態々聞きに来たという事は、その可能性もあると考えている」
「他人を消す事よりも罪が重いなんて……ブラックマーケットでもそんな話、聞いた事がないけれど」
「うーん」
ミサキは訝し気な表情を崩さず、仏頂面で疑問を呈する。自分とて表裏問わず細かなマナー、ルールに関しては未だ学んでいる最中ではあるが、その様な法は一度として耳にした事が無い。はたまた明文化されていない、ブラックマーケットやその手の日陰者に多い不文律、暗黙の了解という奴なのか。
アツコは頬を指先で軽く叩きながら、頭上を仰ぎ思案に耽る。
「サッちゃん、キスをすると死刑になるの?」
「あ、あぁ、アズサはそう云っていた」
サオリは一瞬言葉を詰まらせ、羞恥を押し殺しながら答えた。「……その、えっちな事だから」、と。
「つまり、えっちな事をすると死刑になるってこと?」
「……恐らくは」
「え、えっちな事って、ぐ、具体的には、その、どのあたりまで……?」
ヒヨリの問い掛けに、その場に居た全員が黙り込んだ。
そもそもの話、スクワッド全員が『えっち』というものに対し知識が無かった。当然である、アリウスに於いて必要なのはその日生き残る為の知恵と知識――それは大部分が戦闘に紐づいたものであり、余分な何かを抱えるだけの肉体的、精神的な余裕など存在しなかったのだから。
だが、漠然とどういったものなのかは把握していた。故にミサキが溜息交じりに答える。
「キスが駄目な時点で、大抵の性的な接触は全部駄目なんじゃない」
「性的な接触とは、何だ」
「私も詳しい訳じゃないけれど、胸とか下半身とか、触ったらアウト、つまり死刑って事」
ミサキは対面に立つサオリの胸元、それから太腿辺りを指差す。ヒヨリが好んで読んでいる雑誌、はたまた恋愛漫画や小説には、時折そういった描写が挟まれていた。現実とどの程度の差異があるかは分からないが、強ち大きく外れている訳でもないだろう。
「ば、馬鹿なっ、それでは日常生活すらままならんぞ!?」
ミサキの対面に立つサオリは愕然とした表情で自身の体を掻き抱き叫んだ。不意の接触は戦闘行動では日常茶飯事、絶対に避けられない上あまりにも範囲が広すぎると思ったのだ。それが本当ならば戦闘どころか、日常生活にさえ影響が生じてしまう。
「えっちな事って云うくらいだから、そういう意思とか、下心が無いなら良いんじゃない?」
緊急避難的な、と。アツコは腕を組んだまま指先を立てる。もしミサキの言葉通りであるのならば、殆どの住人が処罰対象者になってしまうのではないだろうか。
そう云うとサオリは険しい表情で黙り込み、重々しい声を漏らした。
「……流石に、この辺りを曖昧にする事は出来ない、知らず知らずの内に罪悪を重ねるのは、もう沢山だ」
「なら、どうするのリーダー? ネットで軽く調べてもどれが本当でどれが嘘かなんて、私達だけじゃ確信が持てないし」
「ぐ、具体的な部分を知ろうにも、そんな事、教えてくれる人なんて――」
「……ひとりだけ、居るよね」
思い悩むサオリ、ミサキ、ヒヨリに対し、不意にアツコがその様に告げた。三人がアツコに視線を向けると、彼女は一切の迷いなど存在しないかのように、微笑みさえ浮かべ云い放った。
「自分達だけじゃ判断出来ない――こういう時、絶対に信じられる、味方になってくれる大人が」
もし誰かに縋ろうとした時、脳裏を過る不安。
弱みにつけ込んで自分達を陥れるかもしれない。騙して利益を貪ろうとするかもしれない。はたまた何かを奪おうとしているのではないか。悪巧みをしているのではないか――そんな疑念を一切挟まず、絶対的な信頼を抱ける相手。
そんな人物はキヴォトス広しと云えど、スクワッドにはたった一人しか存在しない。
「……あぁ、そうだな」
アツコの言葉に、サオリは深く頷いて見せる。視線をヒヨリ、ミサキに投げかければ彼女達も同意見なのか、「そ、それなら安心ですね」とヒヨリは胸を撫で下ろし、「……今の所、それが確実か」とミサキは仏頂面のまま肯定を返した。
方針は定まった、サオリはポケットから端末を取り出し連絡用アプリを立ち上げる。
「教えて貰おう、『えっちな事』について」
告げ、サオリは数少ない連絡先の中から一人をタップする。
もう二度と、過ちを犯さない為に。
自分達は学び続けなければならない。
「――シャーレの先生に」