「という訳で、『えっち』について教えてくれ先生」
「―――……」
先生にとって、実に久方振りの思考停止であった。
人はあまりにも想定外な事態に直面すると思考が止まり硬直する。先生の場合そういった事態は決して少なくなかったが、アトラ・ハシースの騒動が収まって以降平和な日常が続いていた為、思考さえ吹き飛ぶ様な衝撃は本当に久しく感じられた。
シャーレ・オフィスにて。
目前には「至急相談したい事がある」と一報を入れ、シャーレへと訪問したスクワッドの面々が佇んでいる。デスクには山積みの書類が影を落とすが今や些事である。真剣な表情でとんでもない事を口にするサオリに対し、先生は眉間を緩く揉み解す。
「ちょ……っと、待ってね」
今色々と考えを整理をしているから、と。
先生は数秒程時間を貰い、寝不足で茹った頭に喝を入れる。ここ数日、普段のお礼も兼ねて各自治区を飛び回った為に後回しにされていた書類仕事を頑張り過ぎたのかもしれない、どうにも幻聴染みた声が聞こえた気がした。
佇まいを正し、先生は改めてスクワッドの皆へと笑いかける。
「ごめん、もう一回良いかな?」
「『えっち』について教えてくれ、先生」
「あぁ、聞き間違いじゃなかったのかぁ」
一縷の望みは容易く砕かれた。
三徹の果てに、終ぞ幻聴が聞こえて来たのかと思ったが、しかしどうやら幻聴ではなかったらしい。先生はどこか菩薩の如き表情で以て天を仰いだ。何故そんな事を自分に聞きに来たのか、其処に至る経緯が全く見えてこなかったからだ。
そんな先生に対し掌を翳したサオリは、酷く申し訳なさそうに弁明する。
「分かっている、本来であればこの様な事を異性である先生に教えを乞うべきではないと、常識に疎い私達だがその程度の分別は持ち合わせているつもりだ」
「あー、いや……」
「だが私達も本気なんだ、ある程度経験を積んだとはいえ表側の情報では何が嘘で真実か未だ分からない事も多い上、頼れる人も少ない」
真偽の判別は重要であると。そう力説する彼女の言葉は正しい、正しいのだが何故そんな真剣な表情で『えっち』について問うて来るのか、そこが分からない。
「と、特に重要な事は、ちゃんと信頼出来る人に教えて貰った方が良いと思いまして」
「その点、先生なら安心でしょ? どんな形であれ、ちゃんと向き合ってくれるって知っているから……他に頼れるような人も居ないし、ね」
「以前先生も、分からない事は何でも聞いて良いって云っていたよね?」
ヒヨリ、ミサキ、アツコの順に言葉を重ねる。全員が納得し信頼を抱いた上でシャーレへと足を運んだ事が強く感じられた。最後にサオリは先生を真っ直ぐ見つめながら、はっきりとした声で以て断じる。
「――私達はこれ以上、罪を重ねる訳にはいかないんだ」
「い、いやぁ」
その在り方は美しい。その実直さも、真面目さも、彼女達の魅力である。彼女達の為になるのであれば己に出来る事全てに喜んで協力しよう。どのような分野であれ惜しみなく知識と知恵を貸し、力になる事を約束するとも。
しかし、何故よりにもよって――。
「えっとね、確かにそれも必要な知識と云えばそうかもしれないけれど、でも流石にこれは……」
「頼む、先生」
事情が事情な為、動揺を押し殺しながら何とか軌道修正を試みる先生に対し、サオリはゆっくりと身を沈め始めた。肩に提げていた愛銃をそっと床に降ろし、両手を付く構えである。
その素振りを見せた瞬間、先生はぎょっと目を剥き車椅子から身を乗り出した。
「頼れるのはもう、先生しか……」
「わーッ! 分かった、分かったから顔を上げてサオリ!」
いつの日か雨に打たれたまま、項垂れる彼女の姿を幻視した先生は堪らず叫んだ。元より生徒に頼られ、請われては断れない。ましてやこうも真摯な目と態度、信頼を向けられてどうして首を横に振れるか。
自分の尊厳や羞恥心程度で彼女達に報いる事が出来るのならば、喜んで先生はそれらを投げ捨てるつもりであった。
だが、その前に。
先生は床に這い蹲り頭を下げようとするサオリの両手を握り締めながら、困ったように笑いかけた。
「……取り敢えず、何で知りたいのか、その理由だけでも教えて欲しいな」
■
「――という訳なんだ」
「あー……」
此処に至るまでの過程を一通り聞き終えた先生は遠い目をして息を吐き出した。
凡そ、何故この様な事態になったのかは理解した。恐らくアズサも良かれと思って問うたのだろう。どのような内容であれ、そこに悪意はなく、スクワッドを想う善意だけが存在する筈だ。
その事を先生は嬉しく思う。
互いに一度は対立した仲である、しかし今は異なる道を歩んでいたとしても、それぞれが良き未来を目指して一歩ずつ進んでいる。過去だけに囚われず、相手の事を案じ、必要であれば手を差し伸べる。
それはきっと、彼女達が此処まで歩んできたからこそ叶った事なのだと想った。
そう、今回相談された内容はどうであれ――それは貴い事だ。
先生は遠い目をしたまま自分にそう云い聞かせた。
「アズサから伝言を頼まれた時、そんな気配は無かったのだけれど、そっかぁ、えっちなのは死刑ね、うん、そうだね……」
先生は曖昧に頷きを挟みながら、なんとも表現し難い表情を浮かべた。決して間違いではないのだが、間違いではある。
そもそも何故その部分だけが彼女達の中で明確な結論として定着しているのか。
恐らく、恐らくだが――ハナコかコハル辺りが十中八九関わっている様な気がしてならない。いや、関わっているのだろう、そんな確信が先生の中にはあった。
何せ「えっち」と「死刑」はコハルの口癖である。何かの拍子でアズサがそれに言及し、ハナコ辺りが悪戯心を出した結果、コハルがその場凌ぎでそれらしい事を口走った――という所か妥当だろう。その場に居合わせずとも、先生にとっては目に浮かぶ様であった。
「その、えっちな行為というのは本当に、それ程罪深い行いなのか?」
「ん~……」
サオリが戦々恐々とした表情で問いかける。普段であれば危険を前にしても容易く動揺を見せない彼女が、今は先生の返答を待ちながら不安げな表情を隠せずにいた。
背後にいるスクワッドの面々も、心なしか気配が強張っている。
ミサキも、ヒヨリも、アツコも。それぞれ表情には差があれど、先生の口から告げられる返答を真剣な面持ちで待っていた。
彼女達にとっては真偽が分からない以上、軽々しく取り扱えない問題なのだろう。というか、もしえっちなのは駄目、死刑が言葉通りならば、自分は何度処断されているのだろうかと、先生はその様な事を考えた。
多分、両手両足の指では決して足りないだろう。いや、数える事自体が虚しくなる程度には足りない筈だった。
「罪深いかどうかは兎も角として、取り敢えずそう云った事で死刑になる事はまずないから、そこは安心して欲しいかな」
「そ、そうなのか……!」
先生が苦笑と共に答えれば、サオリは露骨に胸を撫で下ろした。張り詰めていた肩からも分かりやすく力が抜けていく。どうやら本当に、これまでその言葉を深刻なものとして受け止めていたらしい。
過去と境遇を考えれば然もありなん。他者からすれば聊か大袈裟に映るかもしれないが、当人たちからすれば死活問題だ。
「やっぱり、そんな事だろうと思った」
ミサキは薄々分かっていたとばかりに肩を竦める。
もっとも、その声音には確信していたというよりも、自分の予想が正しかった事への安堵が僅かに混じっていた様に思う。
「さ、流石に想像がつかないですもんね、いきなり死刑だなんて……」
ヒヨリは露骨に恰好を崩し安堵する。大丈夫だろうと漠然と考えてはいたが、万が一、億が一と、僅かな可能性でも残っている限りヒヨリの中に存在した不安は少しずつ肥大していた。それが否定された今、漸く彼女は普段通りの緩んだ笑みを浮かべる事が出来た。
「そっか、良かった、ちょっと安心」
アツコも感情的には半々だったのか、薄らと笑みを浮かべた。完全に信じ切っていた訳でもなく、けれども完全に疑っていた訳でもない。だからこそ、先生の口から明確に否定された事でようやく不安の種が取り除かれたといった様子だった。
「しかし先生、それならアズサの情報は間違っていたという事だろうか」
一先ずの安堵を抱えながら、ふとサオリは疑問を零す。
どういったルートで入手した情報なのかは分からないが、アズサなりに何らかの懸念があって問うてきた事だろう。
サオリにとっては、それが気掛かりであった。
なにより単なる冗談や戯れにしては、あまりにも具体的かつ物騒である。少なくともアズサ自身はその話を何らかの形で耳にし、それをスクワッドにも伝えておくべきだと判断するに足る理由があった筈なのだ、と。
「アズサは具体的に何て云っていたんだい?」
「確か、アズサ曰く、キスはえっちな事だから死刑になると」
緊急蘇生法などは除外されるらしいが、と付け加える。詳しい事は何も、そう云うと先生は眉間に皺を唸った。
「キス、キスか……まぁ確かにえっち、かな」
流石に死刑になる事はないけれど、言葉を選びながら先生は言葉を漏らす。
キスは確かにえっち、そう伝えられたスクワッドの面々は顔を見合わせ、ヒヨリが控えめに手を挙げた。
「じゃ、じゃあ先生、それなら、む、胸とか下半身を触るのはえっちなんでしょうか?」
ヒヨリが自身の体に軽く触れながら問うてくる。恐らく彼女なりにキスという行為を基準として、他にどのような行為が「えっち」に分類されるのかを確認しようとしているのだろう。
しかし言葉にするにつれて徐々に羞恥心が湧き上がって来たのか、声は僅かに上擦っていた。
「んー、それは大体えっちだね」
先生はヒヨリを一瞥した後に顔の角度を上向きにして答えると、ヒヨリはやはりそうなのかとばかりに、「え、えっちなんだ」と呟いた。死刑にならない事は分かった、しかし今度は「何処までがえっちなのか」という疑問そのものが彼女達の中に残った。
「……下半身って一言で云っても大分範囲が広いけれど、足に触る程度でも駄目な訳?」
ミサキが首を傾げる。確かに下半身という言葉だけで一括りにしてしまうには、その範囲はあまりにも広い。単に足先などに触れる事と、それ以外の部位に触れる事まで同じ意味として扱ってしまうのは雑すぎるだろうと。
先ほどから話を聞いていたミサキにとっても、その辺りの曖昧さは気になっていたらしい。
「それはー……程度と場合によるけれど、状況によってはえっち」
「ふぅん、状況ね」
先生の答えを聞き、ミサキは納得したような、それでいて完全には納得していないような、何とも微妙な表情を浮かべた。
「えっちな事って、思ったより複雑で、線引きは難しいんですね……」
どうやら、えっちというものには明確な境界線が存在する訳ではないらしいと。ヒヨリは困ったように身を縮めた。死刑になるという極端な話から始まった為、もっと明確な基準が存在するものだと思っていたのだろう。
スクワッドの面々にとっては、えっちの定義とやらが実に難解に見えた。
「複雑と云えば複雑かな、相手との関係性であるとか、故意かそうではないかとか、状況によって本当に変わって来るから、行為や部位によってえっちか否かを決めるのは……うーん」
さて、どう伝えたものかと本格的に先生は頭を悩ませた。
あまりにも踏み込んだ部分に言及すれば流石に問題にならないだろうか――そんな懸念も当然存在する。そもそもの話、えっちとは何かという問い自体が一周回って何かとても哲学的で、深みのあるものに感じられてきて仕方がない。
えっちは死刑という文言から何故こうも発展するのか、感嘆と困惑が禁じ得ない。
「そもそも、えっちというのは悪い事なのか、先生?」
そこでサオリが、根本的な疑問を口にした。
何がえっちなのか、何処からがえっちなのか、それ以前に。
そもそもの話、えっちとは罪悪であるのか。
飾り気がなく、純粋過ぎる疑問に先生は一瞬面食らった。
「それは――」
先生は口を開きかけて、そこで言葉を止めた。
これもまた、実に回答が難しい。
悪い事かと問われれば一概にそうとは云えないだろう。しかし、何の説明もなく安易に肯定するのも違う。少なくとも今この場で求められているのは、単純な知識の説明に留まらない。
あぁでもない、こうでもないと、頭の中で言葉を捏ね繰り回しながら小難しい顔で唸る先生の姿を見て、アツコがふと思い出したかのように手を打つ。
こんな風に思い悩む先生の姿を、アツコは嘗て見たことがあったのだ。
「そう云えば以前先生に質問した時、答えて貰えなかったアレも『えっち』なのかな」
何気なく零されたその一言に、先生の思考が止まった。
以前、答えられなかった質問。その言葉だけでは流石に何の事を指しているのか分からなかったが、続く『えっちなのか』という声を耳にした瞬間、心当たりが浮かび上がって来た。
「……もしかして、前にも似たような事があった訳?」
「うん、その時も先生、今みたいにすっごく困った顔をしていたから」
だから憶えていたと、アツコは懐かしそうに頷きを返した。
隣で聞いていた他の面々も、アツコが何を問うたのか気になったのだろう。自然とその視線が彼女へと集まっていく。
「以前先生に質問したってアツコちゃん、一体どんな事を聞いたんですか?」
「えーっとね、その時は確か……」
ヒヨリに尋ねられ、アツコは頬に指を当てながら思い返す様に天井を仰ぐ。
以前、先生と二人で話していた時の事。その時は何か必要に迫られてという訳でもなく、揶揄い半分、純粋な好奇心半分という感じではあったが。
あの時も確か、今と同じように先生が狼狽して言葉を濁していた。
そして、その時口にした質問は――。
「子どもって、どうやってつくるのか……だったかな?」
「子ども、ですか?」
ヒヨリが心底不思議そうに首を傾げた。
その言葉の意味自体は理解出来ているのだろう。けれど、それが先程まで話していた事と何故繋がるのか、分からないといった様子であった。
「………」
対して先生は、すぐには答えなかった。いや、答えることが出来なかったというのが正解だろう。視線は横に泳ぎ、じっとりとした汗が背中を流れ始めた。
「子どもか……そんな事、考えた事もなかったな」
「あんな環境で考える事でもなかったし、当然と云えば当然だけれど」
サオリとミサキは目を瞬かせ、嘗ての境遇を思い返し苦々しい声を漏らす。
子どもがどうやって出来るか等と、まともに考えた記憶などなかった。アリウスで生きていた頃には今日をどう生き延びるか、如何に家族を守るのか、そればかりを考えていた。未来に新たな家族を持つことなど、考える余裕があるような環境ではなかったのだ。
ミサキもまた同様である。
そもそもからして自分達とて子どもなのだ。そんな自分達が「子どもをつくる」という側の立場について考えたところで、実感が湧かないのも無理はない。
そういった事柄は全て大人の領域に属する事であった。そしてアリウスに於いて大人とは――絶対的な支配者であり、恐怖の象徴でもあった、マダムそのものである。
しかし、そんな二人の事情など知ってか知らずか、アツコは興味を失うことなく先生を正面から見つめていた。
「ねぇ先生、子どもをつくる事は『えっち』なの?」
その一言が投げかけられた瞬間、先生は身体を強張らせる。
スクワッド全員が此方を見る。まるで示し合わせたかのように一斉に向けられた視線、先生は百面相を披露しながら口元をまごつかせた。
「……えっと、それは」
顎先を伝う汗、何故こんなことになったのかと苦悩せざるを得ない。
相手は純粋であるからこそ疑問をそのまま口にする子ども達である。下手に誤魔化せば余計な疑問を生み、かといって詳しく説明しすぎればそれはそれで別の問題が発生する――というかこういった事に関しては、可能ならばBDや別の形で保健体育を受けて欲しいというのが先生の本音であった。いや、彼女達の現状を思えばそういった環境が無いからこそ自分を頼ってくれたのだろうが。
この状況を連邦生徒会やヴァルキューレの皆に発見されたらどうなるだろう。多分、大変な誤解が生まれる事だけは確かだった。
数秒の沈黙を経て、先生は葛藤と共に重苦しく声を絞り出す。状況が状況とはいえ、生徒の為ならば協力は惜しまないというのは本当だった。
「……えっち、だね」
それはもう、ドストレートなえっちである。
先生自身、口にした直後に何とも言えない居心地の悪さを覚え、眉間に深い皺が寄っていた。
しかし、そんな先生の苦悩など知る由もなくアツコはどこか興味深そうに、「へぇ」と声を上げた。その反応を見て、先生は嫌な予感を覚えた。
彼女の口元が微かに、ほんの微かに笑みを象った様な気がしたのだ。
案の定、アツコはここぞとばかりに詰め寄った。
「それじゃあ、それって悪い事?」
「……い、いや、一概に悪い事とは云えなくて」
一歩、アツコが先生に詰め寄った。先生は真っ直ぐ向けられる視線に耐えられず、あらぬ方向を向く。
それは誰かを傷つけるために行うものでもなければ、単純に「悪い事」と断じてしまえるものでもない。それは互いの意思や責任、そして生まれてくる生命に対する覚悟まで関わってくる――生命の営みである。
けれど、それを今ここで一から説明するのは非常に困難であった。ましてや彼女達の過去を考えれば、単純な常識として説明してしまうことにも躊躇いがある。軽々しく扱いたくないという想いの裏返しであった。
先生はそんな考えを頭の中で整理しながら、何を伝え何を今は伝えずにおくべきなのか、再び答えに窮することになった。
「じゃあもし仮に私達がえっちだったら、死刑にならなくても何か罰則とかはあったりするの?」
「……いや、程度にはよるけれど、そんなものは無いよ」
答えながら、先生はキヴォトスで生活する生徒達の恰好を思い出した。幸いにして――という表現が正しいのかどうかは分からないが、この学園都市ではかなり露出度の高い制服を好む生徒も多い。
どこぞの風紀委員会の行政官然り、百鬼夜行の陰陽部副部長然り、特異現象捜査部の暑がりなメンバー然り、ユスティナ聖徒会の覚悟の角度然り。それぞれ身体的な理由であったり、伝統であったり、実用性を追い求めた結果であったり、趣味であったり、各々着用する理由は異なるがそういったものに関して寛容な土壌がキヴォトスには存在した。
そういった意味では、それこそ余程の事がなければ罪に問われる事はあるまい。
先生は「ただ――」と前置きして。
「……君達にそういった行為を強要する相手がいたのなら、大人でも、子どもでも、相手が何者であろうとも、それは絶対に悪い事だよ」
それだけは何を置いても、確りと伝えておかなければならない。
先生は佇まいを正し、先程までの動揺や苦悩を腹の奥底に押し込み、真剣な面持ちで断言する。その時は自分の身を第一に動いて欲しい、と。
アリウスの皆はキョトンした表情で互いを見つめ合うと、戸惑った様子で問いかけた。
「お、大人って、それは先生も含めて、ですか?」
「勿論」
そこに例外は一切存在しない。
「具体的には?」
「例えばそうだね……さっきの足を例に挙げるならば、それこそ足に触れたり、舐めたり、口に含んだり、頬擦りしたり、匂いを嗅いだり、踏んで貰ったり、顔を埋めたり、挟まったり――」
先生が腕を組んで深く思案に耽りながらやけに具体的な事柄を挙げれば、不意に「ふっ」と鼻を鳴らしたサオリが冗談でも聞いたかのような反応を示した。
それはヒヨリやミサキも同様であった。
「あぁ、いや、すまない先生、あまりにも予想の斜め上過ぎてな――他の大人がどうかは知らないが、先生がその様な真似をする筈がないと思って」
「そうですね、全然想像も出来ませんし」
「っていうか触れるだけなら兎も角、後半は意味が分からないんだけれど」
皆が皆、あり得ない、そんな事をする筈がない、想像も出来ないと口々に呟いた。そこにはシャーレの先生という大人に対する何か、他とは隔絶した絶対的な信頼を感じさせる色があった。
「………そっか」
先生はそんな彼女達を眺めながら、とても綺麗な笑みを浮かべる。それ以上の言葉は絞り出す事が出来なかった、背中の汗は刻一刻と勢いと冷たさを増していた。
先生は自分が何か途轍もなく悪い事をしている様な気がしてならなかった――いや、事実そうなのだろう。何だか無性に窓硝子を突き破って外に飛び出し、自分を罰したい気分であった。
「うーん」
「……どうしたの、アツコ」
けれどスクワッドでただ一人、アツコだけは他の面々と異なる様子を見せた。指先で唇をなぞりながら思案するアツコ、先生が彼女の名前を呼べばアツコは至極真面目な顔で云い放つ。
「えっとね、私は別に、先生に胸とか足を触られても全然嫌じゃないなって、そう思って」
「うぇええッ!?」
「あ、アツコ!?」
「………」
唐突な暴露にスクワッド全員が驚きを示し――いや、ミサキだけは何やら驚愕と同時に仄暗い視線を向けていたが――当の本人は指先を擦り合わせ、恥ずかしそうに微笑みながら続けた。
「舐められたり、頬ずりされたり、匂いを嗅がれるのもまぁ、恥ずかしいけれど……先生なら良いかな」
「―――……」
先生は掌で顔を覆い、天を仰いだ。この子はやはり、分かっていて揶揄っているのではないか。思わずそんな風に考えてしまった。
「あ、アツコ、突然何を云い出すんだ!?」
「そっ、そうですよ! それになっ、舐められたり、匂いを嗅がれるなんて、そんな……!」
「だってサッちゃんも、ヒヨリも、ミサキだって、先生が相手なら嫌じゃないでしょ?」
振り返ったアツコが純真無垢な瞳で皆に問いかければ、「そ、それは――」とサオリを始めとした仲間達は途端に勢いを失くす。先生がその様な事をする姿など想像も出来ない。
しかし仮に、万が一、億が一、先生がそういった事を望んだのならばどうだろう。
「―――っ、ぅ」
サオリは想像し、一拍後には顔を真っ赤にして黙り込んでしまった。帽子のつばを掴んで深く被り直し、目元を隠す。ヒヨリは両手で帽子を掴みながらあわあわと忙しなく視線を泳がせ、ミサキは憮然とした表情の中に一抹の羞恥を滲ませながら口を一文字に結んだ。
返答は口にせずとも、一目瞭然であった。
「……もうさ、大人が君達に何か悪い事を働いたなら、全員死刑で良いんじゃないかな」
そんな皆の反応を見届けた先生は、天井を見上げたまま自暴自棄に呟く。その姿はまるで抜け殻の如き様相だった。
「先生、どうしたの急に?」
「アツコ、私はね、大人だけれど、それ以前に先生なんだよ」
顔を覆う義手、それの纏う手袋のひんやりとした感覚が熱を冷ましてくれる気がした。
「先生が生徒に対して手を出すなんて、そんな事は絶対にあっては――」
「でも先生と生徒の恋愛は禁止されていないって、ヴァルキューレとか連邦生徒会が発表していたよ?」
先生の意思外より、唐突に決定打が放たれた。
アツコは小首を傾げ問う、「合意なら良いんでしょう?」と。
沈黙していたスクワッドの面々が、愕然とした表情でアツコを見ていた。アツコは徐に外套のポケットに手を入れると、端末を取り出してタップする。
「えッ、そうなんですか!?」
「……それ、本当?」
「うん、結構最近だけれど、皆似たような事を検索しているのか上位の検索ワードに入っていたから」
ほらこれ、と。
言葉と共に突き出された端末の画面には、大きく取り沙汰されたクロノスの記事が表示されていた。記事トップに貼り付けられた画像には記者であるシノンと共に並ぶ連邦生徒会の面子が映っている。
何故か垂れ幕の如き長紙を突き出し満面の笑みを浮かべる連邦生徒会長、苦り切った表情で額に手を当てるリン、赤ら顔で困ったように微笑むアユム、面倒そうにだらけきっと姿勢でケラケラと笑うモモカ――連邦生徒会長が突き出す幕に綴られた文字は、「先生との恋愛は合法」と。
――一体何をやっているんだ、
先生は胸中で叫んだ。心なしかシッテムの箱越しに事態を見守っているプラナが溜息を吐いたような気がした。
「えっと、そ、それじゃあ別に私達が受け入れたら先生が大人でも、ぜ、全部合法って事です……よね?」
「記事に書いてある事が事実ならそうなるでしょ、当事者同士が良しとする場合なら、悪い事なんて何もないって」
「だ、だが、これは余りにも……素直に信じて良いのか、この内容は!?」
「クロノススクールの記事だし、何より連邦生徒会長の名前も顔も出した上で適当な記事を書くのは難しいんじゃないかな、連邦生徒会だって確認するだろうし」
それなら、本当に。
四対の瞳がジッと先生を捉えた。先生は努めて彼女達と視線を合わせない様に、掌で顔を覆ったまま天を仰ぎ続けた。見なくとも視線を感じた、何かじっとりとした空気が流れ始めた気がする。この影と云う名の防壁が無くなった時、何か途轍もなく悪い事が巻き起こりそうな予感が――確信があった。
「あのね先生、もし先生が良いなら――」
「ちょーっと、待ってね!」
しかし、アツコはその様な壁など知った事ではないと一足跳びに距離を詰めて来る。先生は咄嗟に声を張り上げ、彼女を制止した。その先の言葉を予期しての制止であった。
「私達じゃ、駄目?」
「―――」
するとアツコは、ちょっぴり悲しそうな、寂しそうな表情で呟いた。
先生はその表情を目にして、腹の底から苦し気な呻き声を上げた。ぐっと胸元に無視できない痛みが走る、それは物理的なものではなく精神的な重圧と罪悪感から来るものだった。
「やっぱり魅力とか無いかな、そういう事とか、勉強して来なかったし」
「え、えっとぉ……あっ、でもリーダーはそういう化粧品とか、香水とか、色々見ていましたよね!?」
「わっ、私か!? それはそうだが、いやしかし、あれは単に気になっただけで何も……!」
「……はぁ」
「違う、違うんだ皆、魅力がないとか、そういう事じゃなくてね――」
しどろもどろになりながら、先生は必死に弁明を試みる。自分でも何をどう話せば良いかなど分からないが、少なくとも大人として、先生として、仮にそれが許されていたとしても倫理や道徳として如何なものかという点を力強く語って聞かせなければならないと思った。
そんな焦燥し切った先生に対しアツコは薄らと微笑み、自分達を指差す。
「先生、私達の事好き? 愛している?」
「愛しているよッ!」
「じゃあ何も問題ないよね? 私も先生を愛しているから、愛している人同士が結ばれるのは当然の事だよ」
「問題だらけだよォ!」
最早平静を装う事さえ出来なかった。
遍く生徒を愛している――だがソレとコレとは別問題なのである。
その愛と云うのは隣人を愛する様な、男女間、異性間に向けるそれではなく、彼女達が仮に男性だったとしても等しく愛する類のものである。
愛とは感性である、決して意欲ではない。誰かを、何かを欲したからといって愛せる訳ではないし、ましてや愛さねばと思ったから愛せるものではない。
先生はただ、自分の生徒達を愛しているのだ。
それだけが真実であった。
「それじゃあ……私達、えっちじゃないのかな」
「―――」
今度こそ先生は絶句した。
皆の前にまるで息の根が止まった様な、青白い顔を晒した。
彼女達がえっちではない? それは明確な嘘である。生徒は皆魅力的で、素敵で、それぞれの素晴らしさに満ちている。それを否定する事は決して出来なかった。その場凌ぎの嘘を吐く事さえも、今の先生にとっては吐血に比肩し得る苦痛を伴った。
「ぐぅ……ッ!」
「せ、先生!?」
突如として先生の口から漏れた、苦悶のような声。
何の前触れもなかった。つい先ほどまで車椅子に腰掛け、いつも通りに会話を交わしていた筈の先生が唐突に身体を傾けたのである。車椅子が僅かに軋み、先生の身体がそのまま座面から滑り落ちる。咄嗟に手を伸ばす暇すらなかったのか、先生は床に四つん這いになり、両手を突いたまま深々と項垂れた。
その姿はまるで全身に何十倍にも膨れ上がった凄まじい重力が掛かっているかのようだった。肩は震え、背中は小刻みに上下している。声色もまた迫真そのもので、ただ事ではない雰囲気だけが周囲に重く漂い始めた。
「――罪深い人生を送って参りました」
「ど、どうしたんだ先生、確りしてくれ……っ!」
それを見たサオリ達はぎょっと驚き、慌てて這い蹲った先生の傍に駆け寄った。突然の異変に、何か深刻な体調不良でも起きたのではないかと誰もが一瞬本気で心配したのである。
サオリは先生の肩に手を掛け、顔を覗き込もうとする。しかし先生は頑なに顔を上げようとしなかった。床に突いた両手は微動だにせず、やがてその口からは嗚咽を堪えるような涙声が漏れ始める。
「ごめん、ごめんねサオリ……!」
「何を謝るんだ、先生が謝る理由なんて――」
「あるんだッ!」
力強い、半ば絶叫に近い声だった。
あまりの勢いに、サオリの言葉が途切れる。先生は床に伏した姿勢のまま、何度も首を横に振った。
ずっと前から皆に謝らなくちゃいけない事があるのだと。
胸の奥に抱え込んでいた罪悪感を、今こそ吐き出さなければならない。そんな悲壮な覚悟すら感じさせる様子で、先生は震える息を吐き出した。
「私は、私は先生なのに……!」
声を絞り出しながら、先生はぐっと唇を噛み締めた。
その言葉に込められた後悔の深さを察したのか、サオリは思わず息を呑む。先生がここまで取り乱すほどの事態とは、一体何なのか。固唾を呑んで見守る一同の前で、先生はゆっくりと顔を上げた。
「正直サオリ、君のその、露出したお腹をえっちな目で見ていたんだッ!」
「なッ!?」
突然の告白に、サオリは一瞬で顔を赤く染め上げた。
あまりにも予想外の内容だった。先程まで深刻な体調不良か、あるいは何か取り返しのつかない事件でも起きたのかと思っていたというのに、蓋を開けてみればまさかの告白である。
サオリは思わず目を見開き、反射的に自身の腹部へと視線を落とした。
「そ、そうだったのか、気付かなかった……」
呟きながら、サオリはそれとなく自身の腹部を腕で抱える。今まで何気なく晒していた肌を急に意識してしまったらしい。先生が自分をその様な目で見ているなんて、夢にも思わなかった。
しかし嫌悪感は無かった、寧ろ何か説明できない――高揚、充足感にも似たものが僅かに滲み上がった様な気がする。形はどうあれ先生に必要とされているという事実が奇妙な色としてサオリを困惑させた。
「だ、だが先生、アツコの云う通り私も、別に先生であれば――」
「わぁああアアッ!」
サオリの言葉を最後まで聞くよりも早く、先生は悲鳴にも似た声を上げた。その勢いは凄まじく、先生は首を何度も横に振りサオリの言葉を必死に掻き消そうとした。
それは駄目だ、それだけは駄目なのだ。そんな切迫した思いが、先生のなけなしの理性と信念を総動員させていた。
しかし、サオリの方は何がそこまで問題なのか分かっていないらしい。赤らんだ顔のまま驚いた様に目を瞬かせ、先生の慌てぶりを困惑と共に見守っていた。
その無垢な反応が、かえって先生の胸を締め付けた。
「ひ、ヒヨリは、困り眉とか、健康的な太腿も、おへそだってえっちだしッ!」
「うぇっ!? わ、私もですか!?」
まさか自分も対象にされているとは思っていなかったヒヨリは、仰け反りながら思わず身を掻き抱く。先程までの流れからして、サオリのような魅力的な人物が対象になるものだとばかり考えていた。まさか自分にまで矢印が向くとは、完全に想定外である。
しかも、困り眉、健康的な太腿、おへそ。凡そ先生の口から出て来るものとは思えないワードにヒヨリはみるみるうちに顔を赤くしていった。
「で、でも、私のはえっと、さ、サオリ姉さんと違って綺麗なおへそじゃ……」
「皆違って皆素敵! 皆えっちなんですッ!」
先生は力説した。
決して力説すべき所ではなかったが、嘘は吐けなかった。
むしろ、ここまで来ると妙な使命感すら抱いているようだった。目を見開き、拳を握り締め、まるで世界の真理を説くかのような勢いであった。何故そこまで断言出来るのか。何故そこまで自信満々なのか。それは先生にも分からなかったが、生徒の魅力を語るのであれば真剣でなければならないという謎の強迫観念があった。
余りにも力強く断言するものだから、一拍置いてヒヨリは滲み出る自己肯定感の波に「えへっ、へへ……!」とだらしなく笑った。
つい先程まで、自分のおへそに対して何らかの劣等感すら覚えていた少女とは思えない表情である。
「ねぇ先生、私は? 私の事はどういう風に見ているの?」
その様子を見ていたアツコが、今度は自分の番だと言わんばかりに声を上げた。先生の前で足を揃え、屈み込んだアツコが前のめりになって問いかける。距離が近い。あまりにも近い。
しかし、それを指摘する者はいなかった。何しろ、先程から本人が恥も外聞も投げ捨て一番危険な距離感で会話をしているのである。周囲が何かを言えるような状況ではなかった。
先生は顔を上げ、ニコニコと屈託なく笑い続ける彼女を見上げる。
「アツコは……アツコは御清楚! お花の香りで細いおみ足が眩しいッ!」
「ふふっ、そうなんだ」
至近距離から勢い良く放たれたソレにアツコは満足げに頷いた。どうやら彼女にとっては、これで何の問題もなかったらしい。先生の口から繰り出される独特な褒め言葉を、アツコは一切疑うことなく受け止めている。むしろ、先程から常に楽しそうですらあった。
「……………」
ひとり、誰よりも後方で腕を組んだまま黙り込むミサキ。
そんな彼女はしかし、先程からずっと硝子玉の様な瞳で這い蹲る先生を見つめていた。
腕を組み、壁に寄り掛かり、いかにも興味がないといった姿勢を崩さないミサキ、しかし視線だけは先生から一度も離れていなかった。
然もすると先生の醜態に失望している様にも見えたが――その実、何かを期待する様な色を纏っている事に皆は気付いていた。
期待していた。
その瞳に煌めく光は、明らかに何かを期待していた。
ただしそれを指摘しても本人は絶対に認めないだろう。認めるくらいなら、その場で舌打ちのひとつでもしてみせるに違いない。そして先生は、そんな彼女の視線を見逃さなかった。
「ミサキはもう、存在自体がえっちッ!」
「……は? 何それ、意味が分からないんだけれど」
ミサキは顔を背けると、これ見よがしに鼻を鳴らしながら吐き捨てた。だが反応は早かった。先生が言い切った直後には、既に顔を背けている。まるで自分の纏う気配を悟られたのだと、その事実を認めたくない様な素振りだった。
尤も、耳の先がほんの少し赤くなっていることについては本人も周囲も敢えて触れなかったが。
「――って云うか私だけ抽象的過ぎ、もうちょっと具体的に云ってよ」
そして、まさかの追加注文が飛び出した。呆れたような、刺々しい口調ではあったが、云っている事は純粋な期待の裏返しである。他の皆には困り眉だの、太腿だの、おへそだの、花の香りだのと具体的な評価を与えているというのに、自分だけは存在そのもの。
ミサキとしては、そこがどうにも納得いかなかったらしい。彼女は努めて不満げな気配を滲ませる。
「えっとね、気怠い雰囲気とか、ダメージジーンズから覗く眩い肌とか、そういう所が素敵で……! あ、でも包帯は悲しくなるから、どうしても傷つけたくなった時は、代わりに私の肌を傷付けて構わないからねッ!」
「……そんな事、出来る訳ないでしょ」
先生は即座に答えた。
そこだけは先程までの暴走気味な勢いとは違っていて、声色にも、言葉にも、一切の迷いがない真摯な色が伴った。ミサキは一瞬だけ目を細める。唇を尖らせ、自分の首元と手首に巻き付けた包帯を撫でつけた。
「知っているよ、ミサキは優しい子だから」
先生はふっと恰好を崩す。ミサキは何かを口にしようとして、言葉が出なかった。しかし、先生はそんな彼女の反応を待たなかった。いや、待てなかったのかもしれない。
口を開いた以上、伝えたいことが次から次へと腹の底から溢れ出していた。
「そんなミサキだからこそ、きっと自分の事も大事に出来るって信じているんだ……!」
「………」
先生の総評を聞き届けたミサキはややあって、「ふぅん」と興味がない素振りを貫きながら髪を指先で巻き取った。先程までの、いかにも不満そうな態度はどこへやら。視線を逸らし、髪を弄り、口元を僅かに引き結ぶ。
それだけで彼女が何を思っているのか親しい者には簡単に伝わった。
もっとも、そのことを指摘しても本人は絶対に認めないだろうが。
「けれど、そんな大切な皆を、私は、私はえっちな目でッ……!」
「わっ」
唐突に立ち上がる先生。這い蹲り、自己嫌悪と罪悪に打ちのめされていた彼はしかし、まるで何か重大な決意を固めたかのように身を起こした。勢いに気圧されたアツコが思わず声を漏らし、後ろに身を逸らす。
車椅子が反動で後ろへ滑り、床の上で小さな音を立てる。
「それでも私は、先生なんだぁァアーッ!」
誰に向けた宣言なのか、何に対する決意なのか。ただひとつ確かなのは、先生が今、己の中で何かとんでもなく壮大な戦いを繰り広げているということだけである。
先生はそのまま声高に己の矜持を叫びながら、シッテムの箱を抱えると一息にオフィスを飛び出した。両開きの扉を勢い開け放ち、廊下へと駆け出していく。
いや、駆け出したという表現では生ぬるい。まるで背後から何かに追い立てられているかのような勢いで先生は廊下を爆走していった。その背中からは、先程までの羞恥と葛藤と謎の使命感が、いまだに凄まじい勢いで立ち昇っているようだった。
そしてオフィスの中に残されたスクワッドに向かって、「帰り道気を付けてねェーッ!」と最後の叫びを残した。廊下の遥か向こう側から聞こえて来た声に、スクワッドの面々は呆然とした表情を晒す。
数秒の沈黙。
やがて、廊下の向こうから先生の足音が全く聞こえなくなってから、各々がぽつりと呟いた。
「せ、先生……」
「は、走って行っちゃいましたね、も、もの凄い勢いで」
「うん」
開け放たれたままの扉。その向こうへと消えていった先生の背中を思い返し、四人はしばらくの間互いを見つめ合う。
「……先生なりに、色々と譲れない一線とかがあるんでしょ」
ミサキが不意に肩を竦め云った。
色々と溜め込んだり、積み重ねたもの、今回はそれが爆発してしまったと、そういう事なのだろう――というより、自分達が追い詰め過ぎたのだ。
最初はただ疑問をぶつけただけだった。
それがいつの間にか、先生の口から次々と飛び出す評価を面白がり、先生が自分達をどう見ているのかを問い詰め、さらに踏み込んだ質問を重ね、挙句の果てには先生本人をあそこまで狂乱させるに至る。
先生の立場を想えば、あの取り乱し様は当然の流れだったのかもしれない。
尤も、だからといって自分達の行動を深刻に受け止めているかといえば、そうでもなかった。先生がらしくもなく取り乱し廊下を爆走していった光景を思い出すと、どうしても口元が緩みそうになる。
「っていうかアツコ、ちょっと暴走し過ぎ、先生が困るって分かり切っているでしょ――此処に来た目的からも大分逸れちゃったし」
「ふふっ……うん、ごめん、ちょっと楽しくなっちゃって」
ミサキが呆れたようにアツコへ視線を向ければ、本人は悪びれた様子もなく、柔らかな笑みを浮かべていた。
「――先生」
唯一、サオリだけは心の底から心配そうに先生の去っていった廊下を見つめていた。
あれだけの勢いで走り去り、取り乱す先生の姿は見たことが無かった。義足に慣れてからというもの、先生の脚力は常人のそれを上回り、今やオートマタとも良い勝負が出来る速さで駆ける事が出来るのだ。
途中で転んでいないだろうか、誰かにぶつかってはいないだろうか、怪我をするような事態になっていないだろうか――あるいは今頃どこかで、頭を抱えていたりしないだろうか。
そんな心配が次から次へと浮かんで来る。先生の身を案じるサオリの横顔は真剣そのものだった。そんなリーダーの姿を見ていたミサキは、ふと彼女の服装へ視線を落とし指差した。
「取り敢えずサオリ姉さん、お腹は隠したら?」
「……は?」
サオリが振り返り、思わず間の抜けた声を発した。
あまりにも唐突な指摘だった。何故今、そんな話になるのか本気で分からなかった。
「えっち、らしいし」
「………」
先程の先生の発言を思い出し、サオリは僅かに眉を寄せた。確かに、先生は自分の腹部についても言及していた。しかし、だからといって今まで気にも留めていなかった服装を急に改めろと云われても戸惑うしかない。
指摘され、サオリは唇を引き締めると腹部を掌で隠した。サッと頬に赤が滲む。
「そ、そうだな、今まで気に留めた事は無かったのだが……先生の前では、外套の前を留めるべきなのかもしれない、な」
サオリは自分の外套をそれとなく掴み、佇まいを正す。そして、ほんの少しだけ外套の前を閉じるような仕草をして見せた。その姿を見たヒヨリが慌てたように口を開く。
「わっ、私もスカートをやめて、ミサキさんみたいにズボンを履いた方が良いでしょうか……?」
「でも、ヒヨリと私は同じような感じだよ?」
ヒヨリとアツコは自分の服装を見下ろし、それからミサキの方へ視線を向けた。
先程の先生の発言を思い返せば、確かに気になるところではあった。だがそもそもの話、生徒の多くはスカートを着用している。服装自体は不自然な恰好ではない筈なのだ、だと云うのに態々服装を変える必要があるのか。
本来であれば――ない筈なのだが。
先生があれほど力強く「えっち」と断言した以上、気になってしまうのも仕方がないのかもしれない。
「もしかしたら先生、素足の方が好きなのかもね」
さっきも足に関する事ばっかりだったし、と。アツコは面白そうにそう宣った。
先生の発言を思い返してみれば確かに足に関する評価は多かった。細いおみ足、健康的な太腿、そしてミサキのダメージジーンズから覗く肌だったか。そう考えると先生が何を好むのかについて妙な仮説が立てられそうだった。尤も本人に確認することは暫くの間は難しそうではあるが。
「逆にミサキ、スカートとか履いてみる?」
「―――……」
アツコがそんな事をミサキに問い掛ければ、ほんの一瞬彼女の表情が固まった。そして、ゆっくりと視線を自身の足元に落とす。
先生は素足が好き――その言葉は真に迫っている様に思う。あの反応と各々を褒めた内容を考えれば大きく外れてはいまい。
ならば自分がスカートを履いた場合、先生はどのような反応をするのだろうか。
そんな疑問がミサキの脳裏をふと過った。それを見た先生が、先程のように大袈裟な反応を示したのなら――いや、別に先生の反応が気になるわけではない。ミサキは内心で湧きあがった感情を即座に否定する。
ただ少し、気になっただけだ。破けたジーンズから覗く肌を掌で覆いながら、ミサキは口元をまごつかせた。
「……考えておく」
ぽつりと口を突いた言葉、まんざらでもなさそうなそれに、隣り合ったヒヨリが無言で目を見開いた。まさかアツコの揶揄い染みたそれを本当に検討するとは思っていなかったのだろう。
ミサキはそんなヒヨリの視線に気付くと、眉を顰めながら「……なに」とぶっきらぼうに問うた。
ヒヨリは何でもないとばかりに、ただ無言で勢い良く首を横に振る。
「と、取り敢えず、当初の目的だった死刑か否かは知れた」
サオリがおずおずと切り出す。これ以上この話を続けていては、また何か良くない事態に発展しかねないと感じたのだ。そもそも今回ここへ来た目的は既に達せられている。先生も居ない以上、長居する必要は無かった。
「……一度、セーフハウスに戻ろう」
サオリの言葉に三人はそれぞれ頷きを返し、そそくさとシャーレを後にした。
こうしてアズサとの密会に端を発した今回の騒動は幕を閉じる事となる。
尚、先生が一体何処に走り去っていったのか――それをアリウスの四人が知るのは、もっと後の事であった。