ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に救われる命があります。


それでも彼女は手を伸ばす、届かぬ星へと手を伸ばす

 

「ふぅ~……っ」

 

 深く、息を吐き出してその場に座り込む。制服が汚れるのも厭わず――或いは、最早どこも汚れているからかもしれないが――地面に腰を下ろした先生の元に、アビドスの面々と便利屋が集まった。その表情に見えるのは、偏に先生への心配。

 

「先生、大丈夫?」

「傷口、開いたりしていないでしょうね――!?」

 

 シロコが先生の肩に手を置き、セリカが口調とは裏腹に心配げに先生の顔を覗き込む。先生はそんな彼女達に笑みを返しながら、軽く手を振った。

 

「大丈夫だよ、ただちょっと、疲れただけさ……ケホッ」

 

 何でもないかのようにそう云うが、先生の顔色は酷いものだった。心なしか、目の下に出来た隈も濃くなっている様に見える。明らかな強がりだ、それは誰の目から見ても明らかだった。

 ホシノはそんな先生の姿を直視し、強い後悔の念を抱く。無意識の内に握り締めた拳が、軋む。

 

「……ごめん、先生――遅くなって」

 

 後悔と怒り――それを向ける対象は自分自身。ホシノの滲ませるそれに、先生は何かを口にする前に、悲しみを覚えた。

 昼寝をしていたなんていうのは、勿論嘘だと分かっている。アビドスの皆を心配させない為の方便だと、或いはアビドスの面々も心の奥底では感じているのかもしれない。ただ、複雑な表情を浮かべるアビドスを見ていると、妙に胸が苦しくなった。こんな事でアビドスの結束が崩れるなど微塵も思ってはいないけれど、優しい嘘で誰かが傷つくのは嫌だった。少なくとも、自身の目の前では。

 それは先生のエゴだ、けれど、だからこそ最後まで貫かねばならなかった。

 堪え所だと、大人としての責任を果たすべきだと、先生は奥歯を噛み締め、笑う。

 

「いいや、こんな事、誰も予想出来なかったよ、運が悪かっただけだ、ホシノが悪い事は何ひとつない、何一つだ」

「………」

 

 そう云って、先生はホシノの頭に手を置こうとして――血のこびり付いた右手に気付き、慌てて左手を伸ばした。ホシノは先生の右手に気付き、小さく唇を噛む。

 だから己は詰めが甘いのだ――先生は自身を内心で罵った。

 

「ゴホッ、んんッ、便利屋の皆も、巻き込んじゃって悪かったね」

「なっ、それは……! 私達の台詞よ、その、一歩間違えたら取り返しのつかない事になっていたのだし……!」

「せ、先生っ……!」

 

 便利屋の皆に水を向ければ、いの一番にハルカが駆け寄り、先生の前で膝を突き、深く頭を下げた。それはもう、地面に頭を打ち付けて死んでやると云わんばかりに。

 

「ご、ごめんなさい、わ、私なんかを庇ったばっかりにっ、ひ、酷い怪我を、こ、これは、ししし、死んでお詫び――」

「はい、ストップ」

 

 頭を下げるハルカの肩を掴み、無理矢理引き起こす。正面に見えた彼女の顔は、涙と鼻水で汚れ、酷いものだった。思わず苦笑して、先生はハルカの涙を指先で拭う。

 

「折角頑張ったのに、ハルカが死んじゃったら私の努力が水の泡だよ、それは悲しいな」

「あ、あぅ……――」

「今度、柴関でラーメンの一杯でも奢ってくれたら、それで良いよ」

 

 そう云って笑う先生に、ハルカは目を丸くして、それから申し訳なさそうにおずおずと云った。

 

「で、でも柴関は、もう――」

「何とかするさ、任せて」

 

 先生が告げ、アビドスを見れば――彼女達は力強く頷き、笑って見せた。

 

「ん、復興に関しては私達も手伝う」

「私達の大好きで、大切なお店ですから☆」

「そうですね、微力ではありますが、全力を尽くします!」

「当然よッ! ゲヘナの連中に絶対弁償させてやるんだから! でも、その前に――……!」

 

 柴関の復興に積極的な姿勢を見せる対策委員会。この調子なら、そう遠くない内に復興が叶うだろう。態々他所の自治区から食べにくる常連だって居るのだ、便利屋もそのひとつ――決して、夢物語ではない事を先生は知っている。

 そんな事を考える先生の傍にセリカは屈み込むと、ふと先生の頬に手を当て、呆れたように口を開いた。

 

「ほら、先生も病院に行かないと! いい加減、顔色ヤバいわよ?」

「あー、はは……まぁ、今回はちょっと無理した自覚があるからね……ケホッ」

 

 軽く咽ながら先生が肩を竦める。自覚はあった。

 どうやら薬の効果が切れかけているらしい。元々その場凌ぎの投薬、二本打ち込んだ所で何時間と効果が保つ代物ではない。

 

「ん、先生は私が病院まで背負って行く、任せて」

「あー……おじさんが背負おうか? ほら、シロコちゃんも戦闘で疲れているだろうし」

「私でも大歓迎ですよ~☆」

「べ、別にどうしてもって云うなら、また私が背負ってあげても良いけれど?」

「――駄目、これは譲らない」

「あ、あの、わ、私でも、全然……」

「しッ、ハルカちゃん、ちょっと面白いから此処で見てよッ」

「……悪趣味」

「先生をおんぶする権利……そういうのもあるのね」

「み、皆さん……」

 

 いつの間にか勃発した、『誰が先生を背負って行くか選手権』、アヤネとしてはそんな事よりも迅速に先生を病院に搬送したいので、救急車を要請したいのだが、互いに火花を散らせて見つめ合う仲間の姿に中々云い出すことが出来ない。便利屋はアビドスの内輪揉めを楽しそうに見つめ――笑顔だったのは大体ムツキだけだが――そんな姿を苦笑交じりに眺めていた先生。

 しかし、ふと胸に手を当て、僅かに顔を顰めると先生は声を上げた。

 

「――ごめん、一つ頼まれ事をしてくれないかな?」

「……頼まれ事?」

 

 先生の傍に立っていたカヨコが疑問の声を上げる。じゃんけんでかたを付けようとしていたアビドスの面々も、先生の声に視線を向けた。先生はタブレットに位置情報を出しながら、アビドスと便利屋の皆に見えるように掲げ続ける。

 

「実は向こうの通りに、乗り捨てられた車があったと思うんだ、多分風紀委員会との戦闘が始まったから、アビドスの住人が車を捨てて逃げたのだと思うのだけれど……今、ちょっと本気で体調が悪いから、少し借りられたらなぁ~って思って」

 

 そう云って、「どうかな」と問いかける先生。勿論、病院まで乗せて貰ったら、ちゃんと洗って元の場所に戻しておくつもりである。持ち主には謝礼を渡そう。

 そう口にする先生の提案に生徒達は顔を見合わせ、思案顔を見せた。

 

「それは……でも、確かに今の先生を背負うよりは、安静かもしれませんね、それに今から救急車を手配するより、そちらの方が早いかも――」

「緊急事態って事で、持ち主も許してくれるんじゃない~?」

「ん~……そうですね、怒られちゃった時は一緒に謝りましょう!」

「先生をおんぶ出来ないのか、残念――でも分かった、先生の安全第一、それなら見て来る」

「な、なら、私は書置きを用意しておくわ!」

「……うん、頼むよ」

 

 どこか安堵した様な顔で、頷く先生。皆の端末に位置情報を送り、それを頼りに早速車の元へ移動しようとする中――ホシノが一人手を挙げた。

 

「――うへ、それならおじさんは此処で先生の事見ておくよ」

「あー……出来ればホシノも、車の方、見て来てくれないかな?」

「? そんなに大人数で見に行く必要ありますか? 万が一の事を考えて、最低一人は傍にいた方が良いかと……」

 

 そうアヤネが問いかけると、先生は気まずそうに頬を掻いて呟いた。

 

「あー、ほら……ほら砂に埋もれていたり?」

「砂嵐なんて起こっていないじゃない……」

 

 セリカが呆れたように呟けば、先生も苦笑を零すしかない。何ならもう数人残すべきではと提案するアヤネに、先生はあれこれ理由を付けて車に向かうよう説得した。流れ弾に当たっているかもしれないから、状態の確認は皆でやった方が早いとか。もしキーが刺さっていなかったら、申し訳ないけれど一応車内を探して欲しいとか。タイヤが砂に捕られていたら、皆で押し出して欲しいとか、殆ど屁理屈染みた代物だったが、一応の理解は得られた。

 カヨコやアヤネ、特にカヨコは訝し気な表情であったが、一先ずホシノがこの場に残るという事で決定する。

 

「良く分からないけれど、それじゃあホシノ先輩、先生の事宜しくね!」

「行って来る」

「お願いしますね!」

「あはは、先生ちゃんと大人しくしているんだよ~?」

「い、行ってきます!」

「………」

 

 結局、ホシノに先生を任せ、便利屋とアビドス組は先生の見つけたという車両の確保に向かった。彼女達の後姿を見送りながら、ホシノは溜息を零す。

 

「ふぅ……皆、あれだけの事があったのに――強いね、本当に」

 

 柴関の半壊、先生の負傷、風紀委員会との戦闘――自分が居ない間に、本当に色々あった。しかし、今、兎にも角にも心配なのは先生の体調だった。迫撃砲が叩き込まれた場に居たという話だが、もしそれが本当ならとっくに死んでいる筈である。しかし、あぁやって戦闘指揮を執っていたという事は、自分が思う程、重症ではなかったのか、或いは単なるやせ我慢か。

 血塗れの制服を横目に、ホシノは口を開く。

 

「えっと、それで先生、傷とか体調の方は……――」

「ゲホッ、こほっ……んん、傷、体調ね、えっと、ゴホッ、こほっ!」

 

 座り込み、背を丸めた先生が咳き込む。

 唾でも気管に入ったのかと、ホシノが屈んで先生の背中を摩ってやれば、先生は手で口を抑えたまま静かに震え出す。

 

「先生?」

「ゴホッ、ケホッ、えほッ、ぐッ――」

 

 咳は、妙な水っぽさを含んでいた。湿った音、というのか、嫌な咳の仕方だった。

 ホシノが眉を顰めながら先生の名を呼べば、大丈夫と云わんばかりに先生がホシノの前で軽く手を振るが――その途中で、限界が訪れた。

 

「ぇッ、ごほッ――げェッ……!」

 

 座っていた体勢から姿勢を横に逸らした先生が、地面に向けて赤を吐き出す。びしゃりと吐き出されたそれは、砂利の混じった地面に赤黒い華を咲かせ、ホシノの背筋を凍り付かせた。

 

「ちょ、せ、先生ッ!?」

「が、ッ、ぅえ、かひゅ、はッ、か、ァ――ッ!」

 

 体を丸めた先生が、何度も何度も血を吐き出す。地面に吐き出される赤が、青白く染まった先生の顔色をより悪いものへと見せる。泡の混じった鮮血は砂利と地面の中に溶け、同時に先生の手を斑に染める。

 呼吸が、酷く荒かった。寧ろ今まで、何故無事だったのか分からない程の状態だった。ホシノは唐突な先生の体調悪化に、頭が真っ白になる。

 いや――唐突ではなかった、少なくとも先生にとっては。

 先生はずっと堪えていたのだ、こうなる事を、必死に、文字通り血を呑み込む思いで。本来ならば生徒達を遠ざけ、路地裏かどこかで血を吐き出し、何食わぬ顔で戻る予定だったのだ――それが、まさか。

 

 呼吸困難に陥った先生の視界に、涙目で自身に縋りつくホシノの姿が映る。

 その涙が、底を尽きかけた先生の気力に、僅かな力を与えた。震える腕を必死に動かし、先生は制服の内ポケットから一本の注射器を取り出す。細長いプラスチックに覆われたそれは、クラフトチェンバーから固定化したEC――三本の内の、最後の一本。

 それを先生はキャップを外し、自身に打ち込もうとして――唐突な鈍痛と嘔吐感に、思わず手放してしまう。

 軽い音を立てて転がる注射器、それはホシノの目の前で止まった。

 

「ぐ、ぅぁ――ひゅッ、はッ、ァ……ッ!」

「っ……な、なにこれ、先生、どうすれば良いの!?」

 

 蒼褪めた表情で注射器を拾い上げたホシノは、か細い呼吸を繰り返す先生に問い掛ける。しかし、最早先生に応える力は残っていなかった。胸を抑えたまま蹲る様に横たわり、ただ苦しみに耐えるのみ。少し気を抜けば、意識が飛びそうだった。呼吸が――息が、続かない。痛みに思考が乱される。即効性があるものの、持続性に難があるECの効果が完全に切れた。加えて、負傷度合いは確実に悪化している。当然だった、寧ろ此処まで動けた事が奇跡だった。

 

「注射器……先生が、これを取り出したのなら、打てって事? これを打てって事で良いんだよねッ!? ど、何処に――」

 

 ホシノは拾い上げたそれを強く握り締めながら、先生の服を掴む。先生がこの状態で取り出した代物なら、恐らく治療か、痛みを和らげるものか、それに準ずる薬品なのだと推察する。

 注射――何処に打ち込む? 普通に考えるのならば腕だ。先生の着込んだ服を捲る余裕も、それだけの考えもホシノにはなかった。兎に角、一刻でも早く打たなければという焦燥感だけがあった。藻掻く先生の腕を掴み、内心で謝りながら袖を捲り上げたホシノは、そのまま二の腕の辺りに注射器を突き立てる。幸い、針などは無いタイプであった為、素人のホシノでも簡単に打ち込む事が出来た。

 軽い空気の抜ける様な音と共に、薬品が先生に打ち込まれる。

 

「――………カハッ! ハッ、ゼッ、ゼェ、うッ……ぐゥ――」

 

 一瞬、痛みに声を上げた先生。ホシノは注射器を脇に放り投げながら、先生の背中を撫で続ける。

 

「せ、先生? ねぇ、大丈夫なの……!?」

「ハーッ、すッ、か、はー……ぜーッ――」

 

 ホシノは、薬品の効果がそれ程早く出るとは思わない。しかし、頼むから効いてくれと願う事しか、今のホシノには出来なかった。この場で、件の男にキヴォトス最高の神秘と煽てられた彼女は、余りにも無力だった。

 或いは――自分がもっと早く合流出来ていれば、こんな事にはならなかったのか?

 そもそもアビドスを離れなければ、こんな事にならなかったのではないか? 

 あの時、先生を呼び止めていれば――先生の苦しむ姿を見ていると、あらゆるこうしていれば(IF)が頭を過った。その殆どが、自分の軽挙と思慮の浅さを後悔するような代物だった。思わず、痛い程に唇を噛み締める。噛み締めた歯が皮膚を食い破り、口内に酷い血の味が溢れた。

 先生がもし、万が一、死んでしまったら。そんな最悪な想像すら脳裏に過る、それ程に目の前の先生の状態は、ホシノから見ても直視し難いものだったのだ。

 けれど、目を逸らす事は出来ない。歯を食いしばり、表情を苦痛に歪めて尚、耐えなければならない現実がそこにはある。それは、ホシノの罪悪そのものだった。

 胸に宿る自分が、今こうして無力を晒す自分(ホシノ)を背後から見つめ――罵る。

 

 あの時、私が先生を呼び止めていればこんな事にはならなかった――そもそも、こんな事になるなんて、分かる筈がないじゃないか、私は先生とは違うのに。

 もっと早く合流出来ていれば、先生はこんなになるまで無茶はしなかった――なら、あの呼び出しを無視しろと云うのか、あれはアビドスの今後を左右し得る話だった。

 そもそも私がもっと強ければ、あのゲヘナ風紀委員会も此処に来なかった――そんな単純な話ではない、私の手は、そこまで広くもなければ大きくもない。

 また喪うのか、先輩(会長)の時みたいに、私はまた、守れずに――そんな事を考えるな、違う、先生は違う、五月蠅い、黙れ黙れ黙れ黙れッ!

 

「――黙ってよッ!? 先生は違うッ、いなくなったりしないッ!」

 

 胸の中にジワリと広がる恐怖と不安に、ホシノは圧し潰されそうになった。先生から流れる血、震える体、荒い呼吸、悪化していく顔色、それらすべてがホシノの感情を嘲笑うかのように感覚を揺さぶり続けた。それに対抗する為にホシノは叫んだ、胸の中に巣くうもう一人の自分は、ホシノの抱く罪悪感そのものだった。

 叫ぶと同時に、涙が出た。それが悲しいからなのか、悔しいからなのか、情けないからなのか、ホシノにはもう分からない。ただ、どうしようもない程に不安で、悲しくて、堪らなかった。

 

「はーッ、はーっ、は、はーッ……――」

「ッ――先生? 先生ッ!」

 

 先生の呼吸が、焦点が、徐々に整う。それが薬効なのか、或いはただの小康状態なのかは、ホシノに判断はつかない。ただ先生の血に塗れた手を強く握り締め、ホシノは先生の背中を摩り続ける。

 

「は――コホッ……大丈夫、だよ、ははッ、ちょっと、ゲホッ、(むせ)た……だけ」

「咽ただけって……ッ、こんな、血まで吐き出してッ!」

「トマト、ジュースさ……」

「これの、どこがッ――!?」

 

 先生は力ない笑みを浮べて、云った。この期に及んで尚、何でもない様振る舞おうとする先生に、ホシノの顔がくしゃりと歪んだ。それ程までに、頼りないのか、自分は。そう思ってしまう程に、先生は優しく、強く――残酷だった。

 いや、違う、ただ先生は生徒に心配を掛けまいと虚勢を張っているだけだ。それは分かっている。先生は大人だ、どこまでも大人なのだ。自分は先生にとって守るべき対象で、頼るべき対象ではなかった。戦力としてならば兎も角、平時の自分はこんなにも弱く、脆く、頼りない。それを突き付けられたようで、ホシノはきつく唇を噛み締め、俯いた。先生に、そんな意図がないと分かっているのに。何も出来ない自分が、役に立てない自分が、情けなくて、無様で、嫌いで嫌いで、仕方なかった。

 それを声に出すべきではないのに、云うべきではないのに。弱いもう一人のホシノが、言葉を紡ごうと口を開いて――。

 

「先生、私は――ッ!」

「――少し、退いてくださる?」

 

 声は、直ぐ真後ろから降って来た。

 どこか感情を押し殺したような、冷たい声。ホシノが驚きと共に振り向けば、其処には狐の面を被った和服の少女が立っていた。先生は緩慢な動作で首を動かすと、背中越しに彼女を見つめ、呟く。

 

「ワ、カモ……」

「はい、あなた様――このワカモ、あなた様のお傍に」

 

 云うや否や、彼女はホシノを押し退け、手にぶら下げていた小型のケースを開いた。中には薬品と思わしき注射器とアンプルがずらりと並んでおり、ホシノは突然の事に目を瞬かせる事しか出来ない。ワカモはその中から迷いもなく一本の注射器を手に取ると、日に照らして表記を注意深く確認する。

 

「こほッ! ゴホッ……それは、TVS-148……かい?」

「はい、シャーレ医療庫から拝借致しました」

「……どうせ、なら……151番を、使ってくれ、ゲホッ」

「――151」

 

 先生の言葉に、ワカモの視線がケースの中へと落ちる。並んだ注射器とアンプルを順に眺め、『TVS-151』の表記を見つけた。手に持っていた注射器を一旦戻し、先生の指定した注射器を手に取る。プラスチックケースを取り外しながら、ワカモは問い掛けた。

 

「……副作用は」

「――ちょっと、痛いだけさ」

 

 ふっと、苦笑いとも、強がりとも云える笑みを零す先生。それを見たワカモは一瞬、仮面の奥で目を閉じ――それから注射器を先生に近付けた。

 

「ちょ、ちょっと待ってよ、先生に何を――!?」

「見て分かりませんか、御救いするのです、この御方を」

 

 ワカモはホシノの言葉に視線を向ける事もなく、ただ淡々とした口調で云った。淡々とはしていたが、そこには邪魔をするならば撃ち殺してやると、そんな悍ましい感情すら見え隠れしていた。

 ホシノは先生とワカモを交互に見つめ、それからぐっと歯を噛み締め、ワカモの反対側へと回って先生の手を握り締める。選択肢はなかった。

 

「……先生、打つ箇所は?」

「ゴホッ……胸に直接、頼む」

「――承知致しました」

 

 小さく頷いたワカモは、先生の服を掴む。

 こんな状態でなければ、尻尾を振り回して喜びたいような仕草――しかし、余りにも強い血の匂いがワカモに現実を認識させる。せめて、痛みが無いように――そんな事を想いながら先生の制服を捲ったワカモは。

 

 視界に広がる夥しいまでの傷痕に、言葉を失った。

 

「これ、は――?」

「ぇ……――」

 

 反対側から覗き込んでいたホシノは、思わず叫びそうになり、手で口を抑える。同時に、先生を握り締める手に、強く力が籠った。

 ホシノの目に映るのは腹から胸にかけて広がる大小様々な傷、小さな切創から爆創、銃創、擦過傷、刺創まで、或いは先の戦闘で負ったものかと疑ったが、それにしては余りにも傷口が古すぎた。既に塞がり、色と凹凸の歪んだそれは、もはや古傷だ。

 恐らく――先生が、このキヴォトスではない、どこかで負った傷だと思った。キヴォトスに来てから負ったにしては、余りにも多すぎる。まるで傷の上から傷を作る様に、夥しく連なるそれは何か、目に見えない情念が籠っている様にも思えた。

 ふと、ホシノの脳裏に、嘗て先生と交わした言葉が過る。

 踏み込んではいけないと、そう自分に言い聞かせた筈なのに。それを裏付ける様な証拠が目の前に現れ、どうしようもなく心臓が早鐘を打った。そんな話があるのか? あり得るのか? でも目の前のこれはどうだ? 先生は、本当に? 考えるな、違う、そうじゃない、今、大事なのは――。

 言葉を失い呆然とする二人に、先生は苦痛に顔を歪めながら、恥ずかしそうに、云った。

 

「アビドスに来て、結構、経つからね……腕や足は兎も角、こっちは、サボっちゃったよ……こほッ!」

「――…………っ」

 

 その言葉に、ホシノの表情が歪む。ワカモは仮面で表情は分からなかったが、確かに強い感情の揺らぎをホシノは感じた。腹や胸周りの傷と、不自然な程綺麗な先生の腕――そこから推察するのは、それ程難しい事ではなかった。

 ワカモは仮面の奥で強く歯を噛み締め、注射器を握る。思う所はある、尋ねたい事だって、山の様に。けれど、あらゆる感情と疑念を呑み込み、ワカモは役目を全うする。今此処で必要なのは、感情的になって喚き散らす木偶ではない。理性的に考え、行動し、先生を救う生徒だった。

 

「……信じております、あなた様」

「あぁ――頼む」

 

 強く、ワカモは言葉を紡ぐ。

 先生が頷く様を見届け、ワカモは注射器を一息に先生の胸元に打ち込んだ。薬品のメモリが目減りし、先生の体内へと消えていく。その様子を二人は、固唾を飲んで見守った。

 

「………うッ――ゴホッ、えほっ! おぇ、ガ、ゲェッ!」

「っ、先生ッ!」

 

 打ち込んで、一拍――その薬品がどういうものなのか、ホシノは良く理解していない。しかし明らかに異常をきたした先生が再び血を吐き出し、胸を掴んで蹲る。ホシノは涙を流しながら先生の手を握り締め、ワカモを見て叫んだ。

 

「ねぇ本当に大丈夫なのッ!? これ、打っちゃダメな奴だったんじゃないよね……!?」

「っ………!」

 

 ワカモは空っぽになった注射器を握り締めたまま、先生の肩を掴み、唯々沈黙を守る。纏う雰囲気だけは一秒ごとに重くなっていた。しかし、心配は杞憂であった。ワカモの打ち込んだそれは確かに効果を発揮し、暫くすると先生の発作が収まり、呼吸が細く、しかし規則的となる。微動だにせず、蹲ったまま沈黙を守る先生に、両名が恐る恐る語り掛けた。

 

「先生……先生?」

「あなた様……?」

「――……」

 

 先生は地面に横たわり、虚ろな目で二人を見ていた。

 その口が小さく、囁く様な声量で、言葉を紡ぐ。

 

「ご――め……少し、ね、む――」

「……先生?」

 

 声は、殆ど吐息と変わらなかった。しかし、虚ろながらも裏に秘めた意思だけは伝わった。ワカモは先生の手を一度強く握り返し、笑顔で以て告げる。

 

「――えぇ、あなた様、万事このワカモに……お任せ下さい」

 

 先生はその一言を聞き届け、ゆっくりと瞼を閉じ――そのまま意識を失った。

 

「せ、先生……?」

「……意識を失っただけです、落ち着いて、然るべき場所に搬送を」

 

 告げ、ワカモは先生の衣服に手を伸ばす。再び目に入った、その夥しい傷跡に顔を顰めながら、捲れていたシャツを正す。それから開いていたケースを閉じると、ケースを先生の傍に寄せ、静かに立ち上がった。

 

「先生を、どうぞお願い致します、私は別途――やるべき事がありますので」

「……何処に行くのさ」

 

 ホシノが去り行くその背中に声を掛ければ、ワカモは足を止め、振り返ることなく告げた。

 

「……答える必要がありますか? 先に云っておきますと、確かに私達はこの御方の為という共通の目的で動いておりますが――私は貴女達(アビドス)の味方ではありません、徹頭徹尾、先生だけの味方です」

「……そう、ワカモ、って云っていたよね、確か」

「えぇ」

 

 ホシノも、先生の手を握ったまま俯き、振り返ることなく口を開く。

 互いに背中越しで会話する様は、酷く不気味で、空気は張り詰めていた。

 

「七囚人、災厄の狐――ワカモ……それで合っている?」

「その呼称、この御方の前では控えて頂けると――物騒な評判は、御耳に入れたくないので」

「……何でそんな生徒が先生の傍にいるのか、それは聞かないよ」

「賢明ですね」

 

 呟き、ワカモは肩越しにホシノの背中を見つめる。

 その瞳には、隠しきれない苛立ちが含まれていた。

 

「正直、先生をこのような事に巻き込んだ貴女方アビドスを、私は良く想っておりませんので――」

「……ッ!」

 

 その一言に、ピクリとホシノの肩が跳ねた。

 彼女の傍に転がった、砂に塗れた盾を一瞥し――ワカモは吐き捨てるように云う。

 

「守れない盾に何の意味がありましょう? いっその事、嘗ての様に牙を研いでは如何ですか」

「ッ――お前に、何が……!?」

「二度喪う事は、文字通り地獄と存じます」

「ッ……――!」

 

 その言葉に、振り向き、犬歯を剥き出しにして睨みつけたホシノの体が、固まった。強く握り締めた拳が震える。頬を流れる涙の残滓に、ホシノは嘗て味わった地獄の記憶を思い出した。底の底、心の奥に蓋をして、丁寧に丁寧に隠していた、ホシノという少女の根源。他者に容易に触れられたくない、自分の記憶は自分のものだ、誰に触れられ、誰に許すかは、自分で決める。少なくとも、手前勝手に触れられて気分の良いものではない。

 けれど、それを指摘された時、ホシノは漸く自分の感情に気付いた。

 何で、自分はこんなに取り乱したのか――先生が、嘗て先輩と呼び慕った彼女と同じ位、大切だからだ。

 今、自分の居場所にいる、対策委員会の仲間達と同じ位、信頼を、好意を寄せているからだ。

 先生(導く人)だからだとか、シャーレ(偉い人)だからだとか、そういう事ではない。生徒の為に必死になって、アビドスの為に奔走し、全力で手を差し伸べてくれる人だから。ホシノは先生を信じ、受け入れたのだ。

 

 ――そんな当たり前の事を、ホシノは今、漸く自覚した。

 

「その御方は私にとっても大事な、命に代えても守りたい御方です、故に『怠惰』を晒す貴女に、助言を――」

 

 狐面に手を掛け、僅かにずらし瞳を露出させるワカモ。

 金色の瞳と、色合いの異なる蒼穹の瞳が、交差する。片や憎悪と恐怖を、片や憐れみと怒りを抱き、彼女は口を開いた。

 

「既に身に染みて理解しているとは思いますが、喪ってからでは遅いのですよ、足掻きもせずに喪った時、貴女を一番責めるのはきっと――貴女自身です、小鳥遊ホシノさん」

 

 そう告げ、ワカモは踵を返し、今度こそ立ち去った。

 その背中を見つめながら、ホシノは俯き――声を絞り出す。

 腹の底からせり上がった声は、低く、唸る様だった。

 

「そんなの――云われなくたって、分かってる……ッ!」

 

 分かっている、このままでは駄目なのだと。先生は善人だ、生徒を想う――聖人だ。それはホシノの直感から来るものでしかないが、それ程的外れなものではないと強く思う。この人はきっと、生徒の為に身を削り、生徒の為に足掻き、生徒の為に苦しみ――きっと、生徒の為に死ぬ。

 助けたい、救いたい、力になりたい――そんな風に思わない筈がないだろう、手を取ってあげたいと、少しでもその荷を分けて欲しいと、そう思うに決まっている。

 

 ――けれど、この(ホシノの)手は小さいのだ。

 

 余りにも小さくて、短くて、このキヴォトスの中にある、アビドスというちっぽけな居場所を守るだけで、精一杯なのだ。

 救おうと、守ろうと、必死になって搔き集めた平穏は、いつの間にか掌からすり抜け、ぽろぽろと落ちていった。両手一杯に握り締めていた筈の未来は、いつの間にか随分と小さくなっていて、気付けばホシノは自分の居場所を守るだけで精一杯の、そこから飛び出す事も、踏み出す事も出来ない弱い少女に成り下がっていた。

 喪った事で大事なものを知り、守る事の難しさを知った少女は、宝物を得る代わりに、臆病になったのだ。

 

 アビドスと先生――両方を救うには、余りにも頼りない、この両手。

 

 ホシノはそれをぎゅっと、握り締め、先生の胸に顔を埋める。

 小さく呟いた、「ごめんなさい」の一言は――誰の耳に届く事もなく、風の中に掻き消され、消えた。

 

 ■

 

「さて――」

 

 意気消沈するホシノに背を向けたワカモは、ひとり建物の壁をよじ登り、屋上から撤退する風紀委員会を眺める。隊列は整然、足の遅い部隊を先頭に、一番の後方にはヒナ委員長が全体を見渡しながら進行している。

 ワカモは愛銃を肩に担いだまま静かに――呟いた。

 

「そろそろ()しますか、あの女(風紀委員)

 


 

 

 アビドスの皆が先生に対して感情を自覚したのに、ホシノおじさんだけそれがないっていうのは不平等だよね? だからちゃんと意思表明しなきゃ、私は先生を救いたくても救えないし、手を伸ばしても届かないし、気持ちだけで体が動かない、弱くて臆病で先生と仲間を喪う事に人一倍恐怖心を抱いている生徒ですって伝えてあげなきゃ。可愛いね♡ でも大丈夫、先生を信じて。どれだけホシノが自分を嫌悪しても、否定しても、先生は絶対にホシノを見捨てないし、けなしたりしない。どれだけの傷を負っていても、どれだけの苦痛があったとしても、強く抱き締め、頭を撫で、「大丈夫だよ」って云ってくれる。

 

 どんな困難でも生徒の為ならば耐えられる。

 どんな障害でも生徒の為ならば乗り越えられる。

 文字通りどんな犠牲(先生限定)を払っても、どんな悲惨な結末(先生限定)が待っていても、先生は生徒達が居る限り、希望ある未来を信じて進み続けられるんだ。

 だから見ていてねホシノ、君の大好きな先生の雄姿を……!

 

 良いなぁ、羨ましいなァ、この世界の大多数の生徒は。

 先生に想われて、その無尽に等しい愛を享受しながら、何の心配も憂いもなく、ただ諾々と希望ある明日を信じられる今は眩しくて楽しくて仕方ないよなぁ。これから続く未来には楽しい事や嬉しい事が沢山あって、自分達と先生が仲良くそこで笑い合っている未来が、当たり前の様に広がっていると、そう無垢なまでに信じられる今が、どれだけ幸せなのかを知らないんだろうなぁ。

 

 その平和は先生が血反吐を撒き散らしながら歩み続け、人生すべてを掛けて築き上げた、血で固めた砂の城だという事を、彼女達は空を見上げるばかりで気付いていないんだ。だから足元が崩れ始め、はじめて自身の足元を見ろした時、血塗れの先生の上に立っている自分の姿に愕然とするんだ。先生の些細な違和感や、謎の多い部分に触れずに、鈍感に、優しさに、無垢に生きていたからこそ。

 けれどその無垢こそが、優しさこそが、鈍感こそが、先生の望んだありし日の生徒の姿だから、先生はそれを責めたりしないし、寧ろそうなってしまった事で、自分を死ぬほど責めるんだ。ただただ、彼女達の平和を、平穏を、日常を守れないのは自身の力が、考えが、想いが足りないからだと。

 

 それが不信だとか、自己嫌悪だとか、そういう感情から生まれたものではない――ただ生徒を信じ、想っているからこその行動なのが一番辛いんだよ。分かっているの先生? 素敵だね♡ うぅ、先生の血反吐撒き散らす姿が格好良すぎて直視できない……毎秒血を吐いて先生……。

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