独自設定のオンパレードに御注意下さい。
払暁、ホシノは聳え立つビルの前に立っていた。いつも呼び出される時はこのビルで、指定された階まで誰の手を借りる訳でもなく足を進めるのだ。
踏み込んだ吹き抜けのエントランスは人の影など全くなく、だと云うのに施錠も電子ロックも掛かっておらず、まるでホシノがこの時間に来る事が分かっているかの様に彼女を迎え入れた。
エレベーターホールに進むと、無言でボタンを押し込み、開いた扉を潜る。押し込む階層は手慣れたもので、最上階付近のもの。エレベーターの硝子越しに見えるキヴォトスは、暁が過ぎた今、腹が立つ程に綺麗で――ホシノは硝子に手を張り付け、暫くの間その光景に見入った。
朝霧が裂く陽光は鮮烈で、ホシノは徐々に小さくなっていくそれらを眺めながら唇を噛み締める。
この景色を見られるのも、最後かもしれないと――そう思ったから。
■
「――お待ちしていましたよ、ホシノさん?」
「………」
部屋に踏み入ったホシノを待っていたのは、黒いスーツを着込んだ異形の人型――黒服。
彼はいつも通りデスクに肘をつきながら、笑っているのかそうでないのか、良く分からない罅割れた顔面を此方に向けている。ホシノの様子をじっと観察していた彼は、ふと首を僅かに傾げると、どこか愉快そうな口調で云った。
「ふむ、これは、これは……どうやら契約について考えて頂けた御様子で――」
「……分かっているのなら、さっさと契約書を出して」
「クックックッ……そう慌てずとも」
肩を竦め、くつくつと笑いを漏らす黒服をホシノは不快そうに眺める。黒服は緩慢な動作でデスクの中からファイルを取り出すと、その中から一枚の用紙を抜き出し、ホシノの前に差し出した。
「此方です、どうぞ内容を良く吟味した上で、サインをお願いいたします……ククッ」
「………」
ホシノは黒服の前まで足を進めると、差し出された用紙とペンを引き寄せる。勧誘の話を聞いた事はあっても、こうして契約書を目にするのは初めてだった。
綴られた内容は凡そ、彼が口にしていたものと同じ事を、遠回しに理解し辛く固めた代物。それらを順に上からなぞったホシノはふと、とある一文で目を止めた。
「……この、生徒としての全権利の移譲、というのは」
「文字通り、ホシノさんの全てを頂く――という事ですよ」
ホシノの問いかけに飄々とした様子で答える黒服は、組んだ手で口元を隠しながらホシノを見据えていた。
「ホシノさんの生徒としての基本的な代物は当然、肉体的なものから精神的なものでまで、全て――あなたが保有している全権が私に移譲されます」
「つまり……奴隷って事?」
「やや古風な言い回しですが、概ね間違いはないかと」
「は――」
思わず、乾いた笑いが漏れた。
それは失笑だった。
「こういう所で、妙に細工をしたりしないんだね、もっと遠回しに云ってくるものだと思っていたよ、お決まりでしょう? あんたの見る、映画とかでも」
「……【契約】は重要です、其処に嘘があってはいけません、知識不足や認識の違いによって生まれるものは兎も角、相手に説明を求められたのなら、私はきちんとお話しします」
「……そう」
吐き捨て、ホシノは綴られた文を再び目で追い始める。
特に気にかかる内容は――無い筈だ。文言こそ異なるが、ホシノの身柄を引き渡せば、アビドスの借金を肩代わりするという内容は同じ。
負担する金銭は全体の九割、凡そ十億に近いアビドスの借金の内の、九割。
つまり、この身に九億近い金額が付いたという事になる。たった一人の生徒、子どもに。思わず、笑い出したくなった。こんな小さな体の女に、一体それ程の価値が本当にあるのかと。だが、高く買ってくれるというのなら構わない、精々高く買い取って、伽藍堂の己を知って絶望してくれと。
ホシノは強くペンを握り締めた、これからの未来、碌な結末など望めないだろう。文字通りの奴隷、自由は許されず、命令には絶対服従、ホシノという全てを明け渡す代わりに得られる金銭が――これだ。紙面に落としていた顔を上げ、目前の黒服を見る。
深淵のような黒と、ホシノのオッドアイが交差した。
「これにサインすれば、アビドスの借金は――」
「えぇ、綴られた金額分、確りと私共が負担致しましょう、約束します」
数秒、二人は視線を動かさず、互いを見つめ続ける。
そして不意に目を伏せたホシノは、深く、深く息を吐き出し、頷いた。
「――分かった」
告げ、ペンを持ち直す。署名欄にペン先を近付け、震えそうになる指先を強く戒める。
これで、ホシノという少女はアビドスから消える。
けれど少なくとも、アビドス高校は残り、対策委員会の皆も助かる。
そして――先生も。
最後に脳裏を過ったのは、砂漠塗れのアビドス高校、先輩が守ろうとしたちっぽけな校舎。そして一人ぼっちになった自分の元に集った、四人の仲間達。彼女達の笑顔、仕草、自分を呼ぶ声。最後に加わった、大嫌いな筈の大人。
自分ひとりだったのなら、きっとこんな道は選ばなかっただろう。けれど、最後に皆を救えると思うと――存外、悪くない心地だった。
ホシノは笑みを零す。それは、諦観や自嘲による笑みではない、ただ、安堵から来る笑みだった。それを見た黒服が少しだけ驚いたような顔をしたのが印象的だった。最後にこいつを驚かせることが出来たのなら、まぁ、悪くない気分だ。
そしてホシノは、ゆっくりと署名欄にペンを走らせ――。
「悪いけれど――その契約、待ってくれるかな?」
そのペンがインクを垂らすよりも早く、部屋の扉が勢い良く開け放たれた。
振り向けば、僅かに息を弾ませた先生の姿。見慣れたシャーレの制服に、青い腕章。普段通りの先生が、其処に居た。
思わず、目を見開き、呟く。
「――……先生?」
「やぁ、ホシノ、こんな早い時間に奇遇だね」
まるで散歩をするように、そんな軽々しい言葉を吐き、先生は部屋の中へと足を踏み入れる。
ホシノは何故、という疑問を抱くと同時、先生の特異性を思い出し、くしゃりと顔を歪めた。
「何で此処に、いや、そっか、先生なら――……」
未来を知っている先生なら、此処に辿り着く事も出来るだろう。
「――前の私も、こうしたんだね?」
「………」
その言葉に、先生は何も答えなかった。
ただ、悲しそうに微笑むホシノを一瞥した後――額に青筋を浮べながら、黒服に目線を向けた。
黒服は先生が現れて尚、デスクに腰を下ろしたまま沈黙を守っている。ホシノの横に立ち、その肩を掴んで後方へと押しやった先生は、見下ろす形で黒服と対峙した。
「さて、初めまして……で良いのかな、『黒服』さん」
「……えぇ、シャーレの先生」
先生の声は淡々としていた、反し、黒服の声色は――どこか、高揚感を孕んでいた様に思う。妙な間があった。それが何であるのか、ホシノには分からなかった。
「……と云っても、私個人としてはあなたに注目していたので、初めましてという感覚はないのですが」
「盗み見か、趣味の悪い」
「御寛恕を、何せ私達は中々表に出られない存在なもので――」
分かっているでしょう、とでも言いたげに頸を緩く振り、薄ら笑いを張り付ける黒服。先生は彼を感情の読めない瞳で見つめる。
「しかし、此処に来たという事は……彼女の契約を阻止しに来た、という認識で宜しいので?」
「あぁ、それで間違いないよ」
「成程、何とも、先生らしい事で」
「それが、大人の責任だから」
その言葉を聞いた黒服は、静かに目を細めた。
「大人の責任、成程、成程――あなたのスタンスは理解しました、少々私のソレとはズレがあるようだ、しかしだからと云ってあなたをどうこうするつもりはありません、先生……私達は同胞に成り得る存在だ」
「同胞?」
「率直に云うと、先生、私はあなたに仲間になって欲しいと考えている」
「ほう――?」
黒服がどこか、仰々しい仕草で手を広げて見せた。滲む感情は、期待と歓喜。先生はそれを、訝し気な声色と共に迎える。
「あなたの能力、素質、性格、信条、理念――あぁ確かに、これが件の存在かと納得しました、しかしどうにも……納得はすれど、【理解】ができない」
「………」
「あなたは『崇高の器』だ、何故そんな、先生などという面倒な真似をなさっているのですか? 以前、このキヴォトスの全てを手に入れた時だってそうだ、あなたはこのキヴォトスに君臨する事が出来た――否、今でもやろうと思えば出来る、その力も、仕込みもある筈だ……何故、そうしない?」
黒服は、心底分からないと云った様子でそう口にした。それは純粋な疑問だった。黒服が先生の立場であったのならば、何の逡巡も、躊躇いもなくキヴォトスに君臨し、思うがままに崇高へと手を伸ばすだろう。しかし、先生はその立場にありながらその選択肢を手放し、ましてや先生等と云う
これは決して口に出さない事ではある、それを言葉にすれば先生との溝が決定的になると黒服は理解しているからだ。しかし、同時に理解出来ない事をそのままにしておくつもりは毛頭ない。
故に問い掛ける、崇高の器足る貴方の望みは何だと。
「……それは、私の望みではない」
「先生の望み――それは何です?」
僅かに身を乗り出し、黒服は重ねて問うた。その姿勢からは、確かな先生への敬意と興味が透けて見えた。
金ではないだろう、名誉でもないだろう、そんな俗物的なものでこの先生が動く筈がないという――揺らがぬ信頼がある。
故に知りたい、彼が欲しがるものとは一体何だ? それが自身に用意できるものであるのなら、黒服は惜しむことなく自身の持つ全てを使って先生に差し出すだろう。彼がゲマトリアの一員となってくれるのであれば、どれ程の対価も、どれ程の時間も、どれ程の労力も惜しくはない。そう思わせるだけの素質が先生にはあった。
ホシノの件に関してもそうだ、最初は単なる研究の一環として欲していたが――海老で鯛を釣るのだ。ホシノという海老が、先生と云う鯛を引き寄せた。
是が非でも欲しい、仲間に迎え入れたい。
黒服が注視する中、先生はその瞳を真っ直ぐ目の前の彼に向け、告げた。
「生徒に寄り添い、教え、導く事」
「―――」
それは、酷くシンプルな答えだった。
彼は本質的に――何も欲していない。
ただ、生徒と共に過ごし、教え導く事こそが喜びだと、腹の底からそう信じているのだった。
それを聞いた瞬間、黒服は自身の頭部を思い切り殴られた様な衝撃を覚えた。
無論、物理的なものではない、それは精神的な衝撃であった。
自身の知らぬ、全く未知の価値観を示され、それに衝撃を受けた。そしてその清らかな精神性と、どこまでも広大な博愛を認識した時、黒服は唯々――感服した。
「――……成程、これが、救世の器という事ですか」
黒服は呟き、吐息を漏らす。
どこまでも素晴らしい人物であった、あぁ、これは【器】だと、そう納得するしかなかった。その精神性、博愛、強固な信念、どこまでも利他的で、自身を顧みぬ覚悟。人間として極まった存在。他者の思想を受け入れ、共感を示し、否定せず、同時に自身の中に確固たる信念を持ち合わせている。何処までも広く、深い懐。
何物にも染まらぬ白、彼の色彩は――純白だ。
黒服は心底恐怖し、尊敬の念を抱き――同時に渇望した。
「……どうあっても、彼女の契約を認めませんか?」
「勿論、悪いがホシノは連れて帰らせて貰う」
「………」
深く背を折り曲げ、先生を見上げる黒服。二人の視線が交わり、暫しの間沈黙が下りる。
ホシノが口を挟む隙も無く、二人の大人は唯々無言の圧力を交わし続けた。
軈て黒服がふっと肩から力を抜き、それからホシノが書こうとしていた契約書を引き寄せ、告げる。
「――宜しい、では連れて帰ると良いでしょう」
「……何?」
それは唐突な言葉だった。或いは、こんなあっさりと片が付く筈がないと確信している先生は、黒服を胡乱な瞳で見つめていた。
「随分とあっさりしているじゃないか、彼女の為に、長い間計画を練ったのだろう?」
「えぇ、まぁ否定は致しません、金銭も時間も随分費やしました、その損失はそれなりに大きいでしょう、何よりアビドス自治区が手に入らないというのが大きい――ですが、この広大な自治区より、そのホシノさんより、魅力的な『者』が私は欲しい」
「……魅力的なもの?」
「えぇ、そうです、自治区も、ホシノさんも諦めましょう、代わりに――」
黒服の腕がゆっくりと持ち上げられ、その指先が――先生を指した。
「――先生、あなたを頂きたい」
瞬間、銃声が鳴り響いた。
それは唐突な銃声だった、ホシノも、アロナすら反応出来ない――完璧な隠形。
先生が気付いた時、背後に庇っていたホシノは銃弾を受け、その小さな体が崩れ落ちる。
「痛ッ!?」
「ホシノ!?」
先生がよろめいたホシノを受け止めた途端、彼女の体が大きく跳ね、その瞳が見開かれた。体が妙に強張り、同時に思い通りに動かない。
「なに、こ……れ、から、だッ、しびれ……!?」
ホシノが震える指先を凝視しながら、呂律の廻らない舌で呟く。普通の銃弾ではなかった、一発喰らっただけで手足が痺れ、まともに話す事すら出来なくなっていた。倒れ伏したホシノを抱きしめながら、先生は被弾した箇所を指先で撫でつける。弾丸はホシノの肩に着弾していた。しかし、弾丸自体はどこにも見当たらない。
「その銃弾は特別性でして、私の友人の作品です、殺傷能力はありませんが、このキヴォトスの生徒であれば一時的に全身が麻痺する――相変わらず良い仕事ですね」
「ッ……!」
黒服の言葉を他所に、先生は銃弾の飛来した方角を睨みつけた。
丁度、部屋の影になる場所、ずっと其処に潜んでいたのか、或いは自分達が入室してから密かに侵入したのか。
先生が敵愾心と共に影を睨みつければ、徐々にその姿が露になる。
黒いドレス、伸びた銀色の髪、見慣れたヘアピン――そして、変わらぬ瞳の色。
その姿を見た瞬間、先生は言葉を失くし、唇を震わせた。
彼女は只、先生の姿を認め、微笑む。
嬉しそうに――懐かしそうに。
「……先生、久しぶり」
「――シロコ?」
言葉は、虚空に溶けて消えた。
成長した背丈、伸びた髪、殺伐とした雰囲気、凡そシロコとは異なる大人びた外見。
ホシノは自身を銃撃した犯人を目視し、思わず驚愕の声を漏らす。
「し、ロコ……ちゃん?」
「――いやホシノ、違う! 彼女は……!」
「ん、やっぱり先生なら、直ぐに気付いてくれると思った」
そう云って彼女――シロコは満面の笑みを浮べ、先生に手を差し伸べた。
「約束通り――救いに来たよ、先生」
■
彼女――シロコはどこか、無機的な雰囲気を感じさせる生徒だった。抑揚のない口調に、クールな印象。しかし胸に秘めた情熱、感情は苛烈で、一度それが外へと吹き出せば留まる事を知らない。クールだが、活発で、仲間意識の強い少女。
それが、目の前の彼女はどうだ?
先生はホシノを抱きかかえたまま、目の前のシロコを見上げた。
銃口を下ろし、ただ先生を優し気に見下ろす視線は、先生の良く知るシロコと変わらない。しかし、彼女からは微かに甘い匂いがした。その匂いは、先生の嗅ぎ慣れたものだ。極限まで死に近づいた者が放つ――死臭。
彼女にはそれが、酷くこびり付いていた。
先生はシロコを見上げたまま、ゆっくりと口を開く。
「――君は、やはり」
「ん、そう、先生の考えている通り、まだアレフに収束する前の私だよ、先生は全部……引き継いでいるんでしょう?」
「……あぁ」
頷き、先生はホシノを強く抱きしめながら目の前のシロコを睨みつける。
瞳には、確かに敵意が宿っていた。何であれ、ホシノを銃撃した時点で仲間だと思う事は出来ない。しかし、それでも瞳には迷いがあった。
「【前】の世界で生徒会長のヘイローは喪われた、シッテムの箱も物理的に破壊した、少なくとも私の観測した世界では……でもこうして先生はまだ旅を続けている、どうせ、その新しい契約の箱に意地汚く根付いているのでしょう? ――ねぇ、連邦生徒会長」
「………」
「アロナ、とか云っていたかな、その箱の制御AI」
「っ!」
彼女の口から出た名前に、先生は思わず肩を震わせた。
それを見たシロコは薄らと浮かべていた笑みを僅かに濃くし、軽く首を振って見せる。
「――あぁ、驚かないで先生、大丈夫、勿論私達にはその『アロナ』とかいう存在は認識できないし、干渉も出来ない、その逆は出来てもね、酷い奴だよ、自分は私達に干渉出来るのに、私達には干渉できない領域に逃げ込むなんて……生身で降りて来ている先生を見習って欲しいくらい」
「……どうやって、此方側に渡ったんだい?」
「――やっと私を見てくれた」
先生の強い眼光が、シロコのそれを射貫いた。
先程とは異なる、確かな意思の込められたそれにシロコは嬉しそうに笑う。
憎悪でも、怒りでも、悲しみでも、歓喜でも、先生に向けられた感情ならば、何だって良い。
硝子玉の様に、伽藍堂な瞳でなければ何だって。
「どうやって渡ったのか? 良いよ、勿論話す、先生に隠し事はしない」
「………」
「正確に云えば私は渡った訳じゃない、前の世界の私はちゃんと、キヴォトスと一緒に沈んだ、だから私の肉体は喪われているし、厳密に云えば私は先生が思い描いている世界のシロコじゃない――分岐世界の時間遡行なんて奇跡、先生以外は使えないよ」
「ならば――」
一体どうやって。
その言葉を遮る様に、シロコは淡々とした口調で続けた。
「でも、手段がない訳じゃない、特にこの屑共……ゲマトリアの神秘技術は凄くて、ミレニアムも吃驚の超技術が沢山ある、効率は凄く悪いけれど限定的に【魂】だけを飛ばす方法があるんだ」
「――……まさか」
「そのまさか、だよ」
目を伏せ、呟く様な声量で肯定を返すシロコ。
ぞっと、先生の脳裏に恐ろしい予感が過った。
神秘と魂、それは強い結びつきがある代物。契約に儀式、例外的だが僅かな可能性を持つ手段は存在する。けれどあくまでそれは可能性だ。他世界に対する魂の跳躍など、どれ程の対価が必要なのか想像もつかない。それは云ってしまえば、【崇高】に近しい領域なのだから。
それこそ、キヴォトスを赤に染めた、あの女と同じ事でもしなければ。
そして、それを肯定するかのようにシロコは頷き、告げた。
「――【契約】を結んだ、対象はキヴォトス全域、対価は『先生と同じ世界への同行』……神秘の転炉とは良く云ったものだと思う、良く燃えたよ、薪としてあの世界はとても優秀だった」
「―――」
――燃やしたのか、キヴォトスを。
文字通り全てを、
それは、絶句する等と云う心地ではまだ足りない。
文字通り、先生は全てに裏切られた様な想いだった。それを行ったというのが、目の前のシロコだというのだから、その衝撃は如何程か。先生は無様にも口を開閉させ、胸中に湧き上がるあらゆる衝動と感情を抑えるのに必死だった。
痛い程に抱きしめられたホシノは、僅かに震える先生の体に気付き、吐息を漏らす。見上げた彼の表情は――本当に、酷いものだった。
それを見て憐れんだのか、それとも少しでも先生の負担を和らげようとしたのか、シロコは淡々とした様子で云った。
「気にしないで先生、どうせ沈む運命にあったキヴォトス、崩壊するのが先か、燃えるのが先か、そんな状況だったから――アビドスの皆は、快く送り出してくれた」
「……彼女達も、燃やしたのか?」
辛うじて、言葉を紡ぎ出す。
大切だった仲間、共に守ったアビドス、その場所すらも、彼女は燃やしたと云うのか。
口の中が嫌に乾いていた、喉が引き攣った。嘘だと云って欲しかった。
けれど、その問いかけに対しシロコは悲しそうに――そして寂しそうに、肯定した。
「――これは、皆で決めた事だから」
その声には、言葉以上の重みが含まれていた。
「皆の命を対価として、私は此処に立っている、皆が望んだのは先生の安寧、平穏、平和、ただそれだけ……それを叶える為に、私はキヴォトスを薪とした」
「ッ――!」
その言葉を聞いた瞬間――思わず、握り締めた拳に鈍痛が走った。
誰が。
誰が、そんな事を望んだというのだ!?
先生は一瞬、憎悪に己を忘れかけた。目の前にいるシロコに、あらゆる負の感情をぶつけてやりたい心に支配された。握り締めた拳が軋み、嚙み締めた歯が剥き出しになる。
しかし、踏み留まる。
違う、そうではないのだ。
そういう風に、『望ませてしまった』のは――自分が原因だ。
それは、自身が生徒に押し付けた代物と同じ。
すべては、
目の前に立つ、このシロコは、自身の背負う罪悪そのものだった。
「……そんな顔も出来るんだね、先生」
シロコは目の前の先生を見下ろしたまま、そう呟く。
彼女の視界には嘗て見た事のない、先生の本質――それが僅かも覆い隠されず、剥き出しになった表情として映っていた。
「……なら、今回ゲマトリアが例外的に動いていたのは」
「……気付いているんでしょう? この
そう云って窓に自身の手を翳すシロコ。彼女の体は確かに――現在、先生の知るそれとは解離してしまっている。意図してそうなった訳ではないだろう、魂とは人の本質、そして肉体の輪郭だ。
先生の肉体が『そう』であるように、彼女もまた、魂に引き寄せられる形で変質したのだろう。
「あぁ、安心して、対価はそんなに大事なものじゃない、『未来知識の一部』を話しただけ、それを他の塵屑と共有しているかどうかは知らない」
「………」
「……バタフライエフェクトとか、未来がどうこうとか、考えているの先生? そんなの私にとっては関係ないよ、先生以外はどうでも良いの」
「……それは、この世界が、再び沈んでもか」
「当たり前だよ」
何でもない事の様に、彼女はそう云った。
先生を再び見つめた瞳に、
「――私にとっては、世界よりも先生が大事なのだから」
それが彼女にとっての全て。
世界と先生を秤にかけ、それでも尚、ひとりを選ぶ精神性。
――世界の為に誰かが犠牲になるのは良くて、誰かの為に世界が犠牲になるのは駄目なのか?
そんな事は、決してない。
あって良い筈がない。
人も世界も平等だ。
少なくとも、
「……なら何故ホシノを狙った? シロコの肉体を構成出来る術があるのなら、態々神秘を内包する生徒を狙わずとも――」
「肉体は只の器に過ぎない、魂なき伽藍堂に神秘は宿らないよ――分かって聞いているんでしょう、先生?」
先生は強くホシノを抱きしめる。
ホシノは、先生を見下ろすシロコを、信じられない様な目で見ていた。
「なに、を……」
「ん?」
「何を、いって、いるの……シロコちゃん……!?」
震える指先を動かし、必死に問いかける。
シロコはそれを、何の
「……その様子だと、先生の秘密は知っているんだね」
「おじ、さん、が……勝手に、推測した、だけ……だよ」
「ふぅん……まぁ良いよ、別に知った所でどうなる訳でもない、アナタは確かに小鳥遊ホシノだけれど、私の知っているホシノ先輩ではない――邪魔なら殺すだけ、動かなければそれ以上痛い思いはしないで済む、だからじっとしていて」
そう云って、再び銃口を向けるシロコ。
装填されている弾丸は、恐らく非殺傷のものだろう。ホシノと同じ特別製の代物か、そうでなくとも人間の自身ならば一発で行動不能になる。
生徒に銃を向けられるという光景が、先生の胸と記憶を強烈に刺激する。フラッシュバックする炎と慟哭が、先生の中に燻る罪悪と後悔の火種を煽った。
腕の中にいるホシノが先生の袖を強く引き、蒼褪めた表情で必死に訴える。
「せ、んせ……にげ、て……ッ!」
「……大事な生徒を見捨てて、逃げられる筈がないだろう――!」
ホシノの声に、先生は歯噛みしながら首を横に振った。
こんな状況でホシノを置いて逃走する? 論外だ、大人としても、先生としても。
「どうか先生、抗わないで頂きたい、あなたは戦う術を持っていないでしょう」
「………それは、どうかな」
相変わらず、デスクに座ったまま抑揚なく宣う黒服に、先生は虚勢を張る。
確かに、状況は最悪だった。あらゆる想定外の出来事が、完全に先生の意思と計画を挫きに来ている。
しかし、これで諦めがつく程度の意思しか持たなかったのならば、そもそもこの世界に降り立つ事もなかったのだ。先生は覚悟を決め、胸ポケットへと手を伸ばす。
流石に彼女の存在は――【反則】だった。
「――大人のカードを使おうと思っているの、先生?」
「っ!」
その言葉に、思わず伸ばした手が止まった。
自身を見下ろす無機質な瞳、それを見た先生は、思わず苦笑を漏らす。
「使わせると思う? 知っているよ、そのカードの代償――そんなもの、先生に使わせる訳ない」
「なら、見逃して欲しいのだけれど――」
「それは駄目、先生はきっと、この世界でも生徒の為に心と体を削るから……今此処で、絶対に先生を止める」
そう云って、彼女は片手で構えた拳銃に両手を添える。
その照準を、確りと先生に定めて。
「私のやっている事が先生の願いと想いを踏み躙る行為だって事は理解しているよ、けれど、それでも――これ以上、先生が傷だらけで歩く姿は見たくないから」
「っ……!」
その言葉に、辛うじて堪えていた先生の顔がくしゃりと歪んだ。
それが利己的なものであれば良かった、己の欲望を満たすだけの、傲慢な考え方であれば良かった。彼女は云う、これは先生の願いと想いを踏み躙る行為だと。結局は自分が苦しむ先生を見たくないからという、酷く自分勝手で自儘な行いだと。
けれどその願いの根底にあるのは、好意であり、信頼であり、想いであり、尊いものの筈だった。誰かを想うその感情は、決して悪しきものなどではない。それは善性の発露だ、彼女が大事に温めていた、アビドスと共に育んだ優しさそのものなのだ。
けれど彼女は自身の為に消えた命、存在、神秘、それを投げ捨てる事も、振り払う事もせず――背負ったまま、真っ直ぐに先生を見つめる。
それは――
「私の我儘で、先生の願いを絶つ――恨まれても、憎まれても、嫌われても構わない、それが私の望む未来、過去の全てを薪にくべてでも、果たしたい約束……嫌われる事を恐れて、動けなかったあの女と私は違う、先生はもう頑張った、十分過ぎる位に頑張ったんだよ、だからもう、休んでも良いんだ」
「そんな事が、許される筈がない――」
項垂れ、先生はそう、呟く。
積み重ねた時、積み重ねた想い、それは長ければ長い程、強ければ強い程、より巨大な罪悪となって己に降りかかる。それを背負って尚歩き続ける人生は地獄だ。
しかし、それを降ろしてしまえば、これまでの道も、犠牲も、想いも、信頼も、全て無駄になる。何の為に此処まで歯を食いしばって歩んで来たのか、何の為に此処に居るのか。
何の為に、私の大切な生徒達は――。
それを降ろす事だけは、しちゃいけない。
彼女達の想いを、涙を、慟哭を、信頼を、あの笑みを――裏切る事だけは。
「……私は、私の持つ責務を果たす、大人として、先生として、これは――私が選んだ道だ」
「あぁ――先生なら、そう云うと思ったよ」
目を伏せ、シロコはふっと、儚い笑みを浮べた。
「だから私は、私の全てを使って先生を救って見せる――例え今此処で、先生を撃ってでも」
「シロコ……ッ!」
ゆっくりと引き絞られる引き金。
先生の叫びと、銃声が重なり、
――朝はまだ、訪れない。
此処でクロコに撃たれて、クロコと一緒に動けない先生が「イチャ♡ラブ」しながら崩壊していくキヴォトスを眺める純愛書きたかったけれど我慢した私を褒めて。