先生の翳した光は、軈て人型へと収束する。
それが何なのか、先生以外の誰も知らない。ただ周囲の皆は固唾を飲んで、その膨大な神秘が齎す奇跡を眺めているしかなかった。手を、足を、腕を、髪を、光は象る。
「――漸く、お会い出来ましたね……先生?」
声がした、それは光の中から発せられた声だった。
肩に羽織ったコートを靡かせ、光は色を取り戻す。それは、銀の髪を持った女性だった。小ぶりな羽に、ゲヘナの改造制服を纏う彼女は、先生へと真っ直ぐ向き合いながら足を進める。眩い程の光を放っていたそれが掻き消えれば、残ったのは先生より十センチ程身長の低い――高貴を纏う女性。
彼女はヒールの音を響かせながら先生の目の前に立つと、その手に握っていた銃を取り落とし、そっと両手で先生の頬に触れた。
浅く、吐息が漏れる。彼女の手に伝わる暖かな感触、冷たい、死人の肌ではない――真っ直ぐ自分を射貫く、意思の籠った先生の瞳。
その事実を認め、彼女の口元が己の意思を無視し緩む。
何度も、何度も、彼女の手が先生の頬を夢中で撫でた。今までの分を取り戻すように、或いは夢でない事を確認するように。
「うふふっ……あぁ、ふふふッ、あは――!」
滲み出た笑みは、軈て哄笑へと。
口元を吊り上げ、目を見開き――泣きながら、彼女は大声で笑った。
「あははハハハッ!? 本物の、本物の先生ですわッ! 何度お目に掛かっても飽きないお顔……! えぇ、えぇ! 何度も、何度も何度も何度も! 夢に見て、輪郭をなぞり、思い返したお顔ですものッ! 私が違える事などあり得ませんッ! 先生ッ! 先生!」
先生の頬に触れ、唇を指先でなぞり、何度もその輪郭をなぞる彼女に見える感情は――歓喜。放っておけばそのまま先生の全身を手で触れて回りそうな様子に、しかし当の本人は動じることなく、ただ少しだけ悲しそうに、そして嬉しそうに目を細めながら口を開いた。
「――ハルナ」
その瞬間、ピタリと目の前の女性――ハルナの動きが止まった。
そして先生を見上げ、その表情を惚けさせる。
「あぁ……またその様に、名前を呼んで頂けるのですね――」
「当然だよ、どれだけの時間が過ぎても、ハルナは私の生徒なのだから」
「……その言動、正しく――ふふっ」
ハルナが先生の頬に手を添えたまま、その胸元に顔を埋める。そして肺一杯に懐かしくも愛おしい人の匂いを詰め込むと、その頸筋から流れる血を指先で払いながら、ゆっくりと問いかけた。
「ところで、私の先生……――このお顔を流れる血は、誰の仕業ですか?」
「………」
先生は答えなかった、答える必要が無かった。
彼女は足元に転がった愛銃を爪先に引っ掛け、跳ね上げると、そのまま掴み取る。そしてゆっくりと振り向き、未だ太陽の如き深紅を掲げるベアトリーチェを一瞥した。
「……あぁ――また貴女ですの」
「何だ……【これ】は――?」
ベアトリーチェは、何か反応を返す事が出来なかった。それ程までに目の前の――理解できない存在に、意識を奪われていた。
それは、神秘の塊としか表現できない。
それは、奇跡としか云いようがない。
ゲマトリアという特殊な環境に身を置いたからこそ分かる、目の前のこの、成長した姿を見せる
『先生が掲げたカードが、人型となった』――表現として正しいのは、これだ。
怪物。
正しく、目の前のこの生徒は、ベアトリーチェにとって怪物そのものだった。
「随分とまぁ、懐かしいお顔です事……相も変わらず醜く、無様で、汚らわしい――一度見れば十分なお顔、あぁ、先生の傷はあなたが? もしそうなら、少々許せそうにありませんわね……先生、宜しくて?」
愛銃を抱えたハルナが、まるで塵を見る様な目でベアトリーチェを見つめる。その瞳には何も存在しない、殺意も、敵意も、戦意も、あるのは只――苛立ちのみ。
それは道端にある小石に躓いた時に、腹を立て蹴飛ばすような、そんな何気ない動作のひとつ。自身に視線を向けたハルナに対し、先生は一つ頷いて見せる。
「――頼むよ」
「……えぇ、えぇ! どうぞ私に頼って下さい、あなたのハルナに――ふふっ」
先生に頼られた、その事実にハルナは久方ぶりの充足を覚える。
先生の声が、己の名を呼ぶ度に。
先生の指先が、己の穿つべき敵を指す度に。
自身は今まで得られなかった、あらゆる感情を取り戻す事が出来た。
愛銃――アイディールに神秘が籠る。
「さて、お相手して差し上げますわ――突き抜ける、優雅さで」
髪を手で掬い上げ、払う。
収束された深紅の太陽にも怯えず、躊躇わず。彼女は一歩を踏み出す。
「――と云っても、既に満身創痍の御様子、その程度の神秘しか残っていないのなら……」
「――?」
呟き、足元の瓦礫を蹴飛ばすと何段か重なったそれに足を乗せた彼女は。
両手で愛銃を握り締め、スコープ越しにベアトリーチェを見た。
そして、冷酷にも告げる。
「――一発ですわ」
瞬間――銃声とは思えぬ、爆音が鳴り響いた。
それは、正に桁違いの一撃だった。
ハルナが引き金を絞った瞬間、強烈な衝撃と閃光が走り抜け、彼女を注視していたアビドス、ワカモの体が風圧によって押し出される。まるで臓物が持ち上がる様な感覚だった、視覚、聴覚、触覚、全てに訴えかける衝撃波。
そして放たれた弾丸は、光の線としか呼べない様な圧倒的速度、そして威力を以て――ベアトリーチェの胸元を撃ち抜く。深紅を撃ち出す余裕はなかった、そんな反応をする暇などなかった。正しく、『瞬きの間』に、ベアトリーチェは自身の肉体を穿たれていた。ベアトリーチェの肉体を貫通した弾丸が、遥か宙の向こうへと消え、雲を裂き、消し飛ばす。青白い軌跡と残滓が、唯一目視出来た弾丸の道筋だった。
ゆっくりと自身の体を見下ろすベアトリーチェ。
掲げた腕の先、収束していた深紅の太陽が霧散し――震える声で呟く。
「……ばか――な」
「――御免あそばせ」
胸元には、弾丸一つが空けたとは思えぬ程、巨大な風穴が覗いていた。
思い出したかのように、ベアトリーチェを覆っていた深紅が色を喪い、その全身が色褪せる。まるで枯れる華の如く、花弁を閉じ、項垂れたベアトリーチェはゆっくりと嘆きの言葉を吐いた。
「何故、どうして……私は、私の……!?」
「
漏れ出る深紅が尽き果て、ベアトリーチェの姿も人型へと回帰する。僅かに残っていた領域が残滓となって消え、周囲は見覚えのある世界を取り戻した。砕け、溶け落ちたアスファルト、それのみがこの激戦を証明する傷痕。人の形を取り戻したベアトリーチェが、ゆっくりと地面の上へと放り出された。
「く、ぐぅッ……!」
「……終幕、ですわね」
這い蹲り、唸るベアトリーチェにゆっくりとした足取りで近付くハルナ。彼女は呟き、そっとベアトリーチェの額に銃口を向ける。その瞳には変わらず、何の色も見えない。ただ冷たい感情だけが物理的な圧力を伴って、彼女を威圧していた。
「先生に傷をつけた事、後悔してお逝きなさい――あなたに、
告げ、その引き金に力を籠めた。ベアトリーチェは歯を噛み締め、ハルナの銃口を睨みつける。しかし、弾丸が発射される寸前、ハルナの肩に手が置かれた。見れば先生がハルナの直ぐ傍に立ち、ゆっくりと首を横に振る。
「ハルナ――」
「………」
声は小さかったが、確かに届く。
ハルナは数秒、目を閉じ、それから息を吐き出す。吐息には、様々な感情が混じっていた。
引き金に掛かった指が、ゆっくりと離れる。
「……――相変わらずですのね、先生」
「ごめんね、でも……これが私だよ」
「えぇ、良く存じております」
あなたは、
■
「素晴ら、しい……素晴らしいっ! 何という、何と――!」
声が漏れた。それは堪え切れぬ称賛だった。目前に広がるこの光景、先生の語って見せた信念、在り方、そして彼が切った文字通りの切り札。その存在が、先生の覚悟の顕れであり、彼の歩んだ軌跡そのものだった。
その昏くも眩く、到底常人では到達できぬ道と在り方に、黒服は感嘆の息を吐く。
先生がどのようにしてあのような境地に至ったのか、考察する事に意味などないだろう。先生の立つあの場所に至るまでの道は、到底合理的な道筋ではないのだから。
或いは――狂気に等しい信頼と想いの為せる業か。恐るべきは、その性質、一点の曇りもない善の側面。人は見返りを求める物、或いは生物的な性質として無償の愛を抱く事はあるだろう。しかし、先生のソレは違う。解脱、精神的超人、悟り、それらのどれもが先生には当てはまらない。先生のそれは、『後天的』に獲得したものではない。
彼は、生まれた時より『そう』であったのだと理解するのに、そう時間は必要なかった。
だからこそ、その奇跡を目の当たりにした時、黒服は感動し、感嘆し、先生に対し惜しみない称賛の念を抱いた。
「あれは一つの到達点……完成に限りなく近い、しかしただの生徒が、どの様にしてあれ程の――よもや、先生の教えとは、導きとは、『そういう事』だと仰るのか……?
「黙れ」
横合いで、じっと地上の様子を凝視していた銀狼が吐き捨てる。
まるで熱した石に水を被せる所業、その程度で黒服の熱意と歓喜は収まらなかったが、彼女の声に含まれる強烈な苛立ちと殺気に黒服は口を噤んだ。彼女は一秒たりとも先生から目を離す事無く、血走った目のまま告げる。
「私の先生を、崇高だなんて塵の様な言葉で呼ぶな……私の前で、二度とだ」
「――ククッ、これは、大変失礼を……少々気が高ぶってしまいました」
僅かに緩んだネクタイを引き締めながら、黒服は喉奥で嗤いを噛み殺す。
「……先生」
銀狼は、目下血に塗れながらベアトリーチェを見下ろす先生を凝視し、呟く。
分かっていた事だった、先生がその身を削る事は。あの切り札を切る事さえ、銀狼には予想出来ていた。それを阻止する為に、自分は此処に立っている筈なのだ。
故に、憎むべきは――それを阻止できなかった自分自身。
ぎちりと、銀狼の拳が軋む。しかし、後悔と反省は必ず次に生きる。今回は失敗した、それを彼女は認める。
だが、二度目はない。
幸い一度だけならば代償は重くない。決して軽くもないが――呼び出された生徒は単独、銀狼が観測した限り先生は最大で【六人】の生徒を同時に呼び出す事が出来ていた。それを考えれば、必要となる代償も軽減される筈だと、銀狼は自身の爪を噛み思案した。
――大丈夫だ、まだ、致命的な失敗は犯していない。
取り返しのつく範囲、先生はまだ喪っていない――銀狼はそう、自分に言い聞かせる。
「先生のあれは正に神秘の畢竟、ですが少々代償が気掛かりですね、余り多用はして欲しくありませんが……兎も角、私は一度戻ります――銀狼さんは如何しますか?」
「……撤退する」
黒服に言葉を返し、屈んでいた状態から立ち上がる。割れたガラス破片を踏みしめながら背を向ければ、どこか意外そうな表情で彼は云った。
「おや、てっきりベアトリーチェの始末をつけるのかとばかり」
「必要ない」
背中越しに振り向き、地上で這い蹲るベアトリーチェを一瞥した銀狼は呟いた。
「――
声には侮蔑の感情のみが籠っていた。その事に黒服は肩を竦める。
「それに今、先生に挑んでも勝てない、分かっている筈」
「えぇ、とても良く、理解しましたとも」
二人の視線が先生の傍に侍る――
圧倒的な神秘を身に纏い、消耗したとは云え変貌したベアトリーチェを一撃で沈めた生徒。戦闘技術だけならば、決して負けるつもりはない。しかし、内包する神秘、地力があまりにも違い過ぎる。重戦車に拳銃で立ち向かう様なものだった。
それに関しては黒服も同意なのか、羨望と敬意を込めた視線を件の生徒に向けながら頷いて見せる。
「変身も出来ない私達が挑めば、文字通り存在ごと抹消されてしまう、そんな一撃でしたね……ククッ」
嗤い、黒服は虚空に手を翳す。すると何もない空間に歪みが生じ、ぽっかりと穴が空く様に光景が捻じ曲がった。ベアトリーチェが行った深紅の領域、あれに近しい神秘技術の一つ。自身の領域への一方通行だが、使い勝手は悪くなかった。
「では、一度帰還しましょう、こちらへ」
「ん……」
促されるまま、銀狼は足を進める。そして虚空の手前で一度振り向くと、先生を取り巻くアビドス――この世界の彼女達を見つめ、呟いた。
「――精々限りある今を噛み締めなよ、アビドス」
先生は、絶対に迎えに行くから。
告げ、彼女は虚空の中へと消えていく。
黒服はそんな彼女の背中を見送りながら、小さくその頸を振った。
「ククッ、難儀な生き方ですね、銀狼さん」
それを良いとも、悪いとも黒服は口にしない。
ただ、楽な道ではない事は確かだ。想い人と敵対しようとも、嫌われようとも、憎しみを向けられようとも。ただ相手を想い、自身の我儘だと嘯く。
それもまた――愛。
「ですが、個人的に応援させて頂きますよ――彼は、
呟き、笑みを零しながら黒服もまた――虚空の中へと消えて行った。
■
「終わりだよ、ベアトリーチェ」
「ぐ、ぅ、先生……ッ!」
倒れ伏したベアトリーチェを前に、先生は告げる。ベアトリーチェは手で地面を叩きながら、ゆっくりと体を起こそうとした。しかし、既に全力を尽くし、欠片も余力のない彼女は震えるばかりで立ち上がる様子はない。
それでも尚、ベアトリーチェは先生に敵意の籠った視線を向けていた。
「まだ、まだです、私はまだ、事を起こしてすらいないッ……! バルバラも、アリウスも、
「分かっているとも――けれど、理解した筈だ」
そんな彼女と視線を合わせるために、先生は屈む。そして、彼女の瞳を真っ直ぐ見据えながら断固とした口調で告げた。
「あなたは早期に私を潰す為に、シャーレの基盤が盤石ではない今、その身を晒してまで襲撃を選んだ……その結果、あなたは失敗し、私の生徒達に敗北したんだ」
「ッ……!」
「あなたが何を企んでいるのかを私は知っている、その上で断言しよう――あなたは、私には勝てない」
「っ、よ、良くも……ッ!」
その、何処までも確信に満ちた云い方に。
砂塵を握り締めたベアトリーチェが、犬歯を剥き出しにして唸った。
「良くも私にッ、その様な言葉をぉ……ッ!」
向けられる憎悪と敵意、そして殺意。その視線を真正面から受けながら、先生は目を逸らさずに続ける。
「だからこの話はこれで終わり――そうだろう、ゴルコンダ?」
「ッ……!?」
「――えぇ、全く以てその通り」
先生の言葉に応えたのは、低い、妙な声色。或いは、どこか機械的な口調だった。
気付けば、ベアトリーチェの傍に首のない人影が立っていた。
紳士然とした立ち姿に、杖を持ったコート姿の男性。彼は片腕に額縁を抱え、そこには黒い肌にシルクハットを被った人影、その後ろ姿が映し出されている。本来人の頭部が在るべき場所からは黒い靄が噴き出しており、不気味な雰囲気を纏っていた。
その、常識外れな存在の出現に、生徒達は息を呑む。
動揺を見せなかったのは先生と、隣に立つハルナのみ。
彼は小さく腰を曲げると、額縁を抱えたまま告げる。
「挨拶は省略するとしましょう、私達は以前、お会いしていたでしょうから」
「……こっちでは、初めまして、だけれどね」
先生がそう云って肩を竦めると彼は笑う様な動作を見せ、先生と向き直った。
「戦うつもりはないんだろう?」
「勿論、勝てる自信が微塵もありません、ご存知の通り、皆がマダムの様に怪物へと変われる訳ではありませんから」
そう云って、彼は手の中にある額縁をハルナに向ける。彼女は目を細めながらも、どこか不快感を滲ませている。しかし、銃口を向ける事はなかった。先生とハルナ、そして周囲で警戒心を露にするアビドスとワカモを一瞥し、彼はベアトリーチェに言葉を投げかける。
「……凡そ、予想はしておりましたが、マダム、これで明らかになりました――先生はあなたの敵対者ではありません、そしてやはり、これはあなたの物語ではない」
「っ、くぅ――……!」
「やはり元からある筋書きに介入するのは美しくありませんね、それにこのようなテクストは少々、私の好みではないのです、友情と努力で苦難に打ち勝つ物語? 私の望んでいたのはもっと文学的なものだったのですが――」
「今、何と仰いまして……?」
その言葉に、ハルナがぴくりと反応した。
握り締めた愛銃のグリップが軋む。
「あぁ、ご気分を害してしまったのなら申し訳ありません、どうか早まらずに――私とて、崩壊の引き金は引きたくありません」
「………」
「キヴォトス動乱――この世界でも起こすおつもりですか?」
瞬間、ハルナの腕が瞬いた。
片腕で愛銃を振り抜き、彼――ゴルコンダの持つ額縁、その角ギリギリを銃撃する。微かに掠めた弾丸が彼のコートを裂き、弾丸は後方にあった瓦礫を粉砕、砂塵を巻き起こした。
ハルナは血走った目で目の前のゲマトリアを睨みつける。
「二度と――……」
「………」
声は、これ以上ない程の憎悪と殺意を孕んでいた。
「――私の前で二度と、その名称を使わないで頂けますか」
尋常ではない圧力に、倒れ伏していたベアトリーチェをはじめ、周囲の生徒達も固唾を飲む。ゴルコンダはそんなハルナの感情を一身に受けながら、ゆっくりと腰を折った。
「……重ねて、非礼を詫びましょう――」
声は、淡々としていた。怯えも、恐怖も、そこには見えない。
ただベアトリーチェの傍に屈みこむと、その肩に手を置いた。
「マダム、起きて下さい、今回の実験は失敗です」
「ゴル、コンダ……!」
屈んだ姿勢から先生に体を向けると、彼は告げた。
「それでは、失礼致します」
彼の体と、ベアトリーチェの周囲、その空間が歪み始める。
徐々に解離していく現実と空想、その狭間の中でベアトリーチェは先生を見つめていた。
「――……先生、確かに私は、敗北しました、業腹ですが、それは認めましょう……!」
俯き、歯を軋ませる彼女は息を大きく吸い込み。
そして最後に、彼女は先生を指差し、云った。
「……しかし、最後に笑うのは――私です……!」
■
先生達の戦っていた戦場から、凡そ後方
ビルの貯水槽、その下に潜り込み狙撃銃――アイデンティティを構え、スコープを覗き込む水色の髪をした生徒。
腰に巻いた弾薬ポーチには大柄な20mm口径弾が並び、彼女は身の丈もあるその銃を指先で撫でつけながら、その口元に引き攣った笑みを浮べた。
「えへへ……」
スコープの中心に見えるのは生徒に囲まれた、頭ひとつ大きい大人の男性。
彼女はレティクルのやや上に対象の体を重ねながら、ゆっくりと息を吐き出す。
彼女――アリウススクワッド所属、槌永ヒヨリの扱う狙撃銃、アイデンティティの口径は20mm。元々対戦車ライフルとして運用していたそれは、直撃を許せばキヴォトスの生徒ですら一撃で昏倒させる威力を秘めている。戦車の分厚い正面装甲を抜くための代物なので、当然と云えば当然。
そして、そんなものを只の人間に撃てばどうなるのか――火を見るよりも明らかだった。
「――その傷、痛いですよね、苦しいですよね……何で、そんなに頑張れるんですかね、痛い筈なのに、苦しい筈なのに……」
戦闘の一部始終をスコープ越しに見ていたヒヨリは、そんな事を呟きながら引き金に指を掛ける。あの先生に、戦う力はない。弾丸一発で血を流すような人だ、それは当然だった。
だというのに彼は矢面に立って、生徒と共にあの恐ろしい主へと立ち向かっていた。
彼の横顔が薄らと見える。
その顔を脳裏に焼き付けながら、ヒヨリは卑しく、笑った。
「リーダーから頂いた、あの時のお弁当、とても美味しかったです、温かいご飯とか本当に久々でした……そんな人を狙撃しないといけないなんて、へへ――人生、苦しい事ばっかりですよね、えへへ」
風が吹く、ヒヨリの髪が靡く。
先生の血に塗れた横顔が、ゆっくりと陽に照らされる。
「でも、そんな苦しそうにするくらいなら、此処で全部終わらせた方が良いのかもしれません」
陽が昇り――朝が来る。
「――せめて、痛くない様に、一発で……仕留めますから」
告げ、ヒヨリの指先に力が入った。
弾頭は、痛みを感じる間もなく先生を穿つだろう。ある意味それは、彼にとって救いなのかもしれない。否、これは救いであって欲しいと、これから殺す彼に対する罪悪感を僅かでも和らげるために、そう思いたい自分の罪悪の発露だった。
それを噛み締め、ヒヨリは――彼を。
「その狙撃、ちょっと待って貰える?」
「えっ……」
その引き金が絞り切られる寸前、声がヒヨリの鼓膜を叩いた。
慌てて振り向けば、自身を見下ろす人影。表情は影になって見えなかった、しかし纏った制服と髪色で、それが誰なのかヒヨリは理解する。その瞳は、大きく丸を描いた。
「あ、あなたは確か――」
「初めまして、になるのかなぁ? サオリとは面識があるけれど、スクワッドとは別に全員と顔合わせした訳じゃないし……うーん、まぁ細かい事は良いかな」
彼女はヒヨリの構えていた狙撃銃の傍に歩み寄ると、それを軽い力で蹴飛ばす。「あっ」、と声を上げた時にはもう遅かった。自身を見下ろし、覗き込む黄金色の瞳に、ヒヨリは言葉を失う。
「――その人を撃たれちゃうとね、私、凄く、すごーく、困っちゃうの、だからやめて欲しいな~ってお願いに来たんだ……ねぇ、分かるかな?」
「そ、そんな事を、えっと、云われても……わ、私も、その、命令、でして……」
「うんうん、分かるよ、あのクソ――マダムって主人から指示されたんでしょ? でもほら、私も一応さぁ、あなた達との契約者な訳じゃん? だからクライアントの意向にも、ちょ~っと沿って欲しいなぁって」
ヒヨリの震えた声色に理解を示す素振りを見せながら、彼女は何度も頷いて見せる。白い、天使の様な制服が風に靡き、彼女の淡い桃色の髪が宙を舞う。
「大丈夫だよ、何か云われたら、『最初から先生は、狙撃を警戒していた』って云えば良いんだもん、あの人は用意周到な人だから、マダムも疑ったりしないって!」
「あ、あぅ……」
ヒヨリが云い淀む。命令は、彼女にとって絶対だった。そもそも逆らうという発想自体が存在しなかった。けれど目の前の彼女は、それを認めないと云う。そして力づくで敢行しようにも、それを行うだけの力がヒヨリには無かった。彼女は狙撃手、前線での撃ち合いや格闘戦闘など、スクワッドの中でも最弱。
それが分かっているからこそ目の前の少女は笑みを深め、そして問いかける。
「それに――本当は撃ちたくないんでしょう?」
「っ……!」
ぴくりと、ヒヨリの指先が震えた。
答えはなかった、けれど目の前の少女の笑みはより深くなった。
結局、それが答えのようなものだった。
ヒヨリは少女の顔を見上げ、恐る恐る問いかける。
「り、リーダーは、この事を……」
「勿論伝えたよ、そうしたら『現場の判断に任せる』って云っていたかな」
「げ、現場……私の……」
その言葉に、ヒヨリは何度も舌の上でリーダーの回答を転がす。ややあって、ふっと肩を落としたヒヨリは、相変わらずの引き攣った笑みを浮べながら、呟いた。
「え、えへへ……私、こんなんばっかりですね」
云うや否や、彼女は身の丈はあるガンケースを掴み、少女に蹴り倒された狙撃銃を回収した。そして遥か遠くに見える先生を眩しそうに見つめると、目を伏せ口を開く。どうせ、自分に嘘は吐けない。
「て、撤退します、これで多分、私達はもっと苦しくなると思いますけれど、へへ……元から、苦しい人生ですから……」
「――苦しい人生だからこそ、最後には希望があるべきなんだよ」
ヒヨリの言葉に、少女は酷く透明な笑顔で以て答えた。
そんな声が返って来るとは思っておらず、思わずヒヨリは俯いていた顔を上げる。視界に、笑みを浮べる少女の顔が映った。朝日に照らされ、影の消えた少女の微笑みは、とても綺麗だった。
思わず、見惚れてしまうくらいに。
「……なんてね? さ、何時までも此処に居たら見つかっちゃうし、早い所、降りよ!」
「は、はい、そうですね……」
肩を叩きながら少女に促され、ヒヨリは慌ててガンケースに狙撃銃を収納し、屋上を後にする。その背中に続きながら、少女は先生のいる方角へと顔を向け、呟いた。
「――先生、またね、次会う時は……きっと」
呟きは、風に掻き消える。
ややあって、彼女は瞼を閉じ、数秒その場に佇む。
そして再び目を開いた時、彼女は驚いた様に周囲を見渡し、呟いた。
「……ぁ、あれ――ここ、どこ……?」
■
「……終わった――か」
呟きは、先生のものだった。
タブレットを抱きしめたまま、先生は空を仰ぐ。その体には、酷い倦怠感が漂っていた。流れ出る血をそのままに佇む先生に、ハルナは声を掛けようとする。しかし、それよりも早く別れは訪れた。
「――ぁ」
ハルナが、自身の手足から立ち上る光の残滓に気付いた。青白い粒子、光が自身の手足から立ち上り、崩れていく。その肉体が、神秘が、徐々に掻き消えていく。奇跡は起こる、けれどそれは決して永遠ではない。
その事実にハルナの顔から血の気が引き、抱えていた愛銃が音を立てて地面に転がった。
「あ、ぁ……あぁ! そんな、そんなッ! こんな、こんなに早いなんてっ、嘘、嘘ッ! 嘘ッ!?」
叫び、必死に消え行く残滓を掴もうと足掻き、取り乱す。しかし宛ら煙の様に、掴もうと広げた手をすり抜け、空へと還っていく光に、ハルナは大粒の涙を流して先生に縋りついた。
その表情には、絶望と悲壮と恐怖が張り付いていた。
また、あの場所に帰るのか。先生のいない、冷たい世界に、何の色もない無機質な世界に。それは酷く恐ろしい事だった、一度その温もりを思い出してしまったからこそ、残酷なまでに自身の世界の寂しさを自覚したハルナは、尊厳も恥もかなぐり捨てて先生に縋り、訴えた。
「いや、嫌ですわッ! 私は、まだッ……! 還りたくッ……! 先生ッ、先生っ! 私はあなたと離れるなんてッ、もう、もう二度と……――ッ!」
強く、衣服を握り締め、離れるものかと全身で叫ぶハルナを、先生は思い切り抱き締めた。
「あぅッ……――!?」
力強い抱擁。
嘗て、このような事をされた事などなかった。どこまでも真摯に、大人として、先生としての立場を守っていた先生らしからぬ行動。先生とて、正直に云えば同じ思いだった。心の中は、彼女に負けず劣らずあらゆる感情が渦巻き、酷いものだった。けれどそれを微塵も表に出す事無く、飲み下し、腹に仕舞いこみ。彼は消えゆくハルナを抱きしめたまま、目を瞑り、強く――懺悔と、希望と、信頼と、願いの籠った声で以て告げる。
「――
その言葉に、ハルナは目を見開いた。
そして何かを云おうとして口を開き、けれど漏れ出るのは己の吐息ばかり。
やがて一度強く唇を噛むと、一粒の涙をそっと流し、目を閉じた。
震える腕を無理矢理動かし、先生の背中へと回す。
「――……ずるい人」
結局、最初に漏れ出た声は、それだけ。
彼女は暫く先生の抱擁を感じた後、徐にミニバッグに括り付けられた、たい焼きのストラップを取り外すと、そっと先生に握らせた。
立ち上る光は徐々にその規模を拡大し、ハルナの体は透け始める。
「なら、約束です……愛する御方と一緒に、一番好きな、食べ物を――……」
ストラップを先生に押し付け、一歩、離れた彼女は下手な笑みを浮べる。泣き顔を誤魔化すような、我慢するような――そんな表情。ぽろぽろと涙が零れる、とめどなく溢れ、それでも尚笑顔を浮かべて去ろうとする彼女の姿に。
先生の胸が、ぐっと苦しくなった。
「もう一度」
そして、
「………」
先生は、残滓となって霧散し、空へと還るハルナを見上げる。手の中に残ったストラップは、僅かばかり先生の手の中に残り――けれど、軈てストラップも光となって砕けた。
その様子を見つめながら、先生は拳を強く――強く握り締め、深い息を吐き出す。
彼の表情がどんなものであるか、ホシノは表現する術を持たなかった。
「先生……その、今の生徒は――」
どこか恐ろしそうに、或いは気まずそうに、ホシノが問いかける。けれど先生がホシノに顔を向けることなく、空を見上げたまま彼は呟いた。
「――夜明けだ」
「……ぁ」
皆の横顔に、眩い陽が差し込む。見れば夜が明け、陽が昇り始めていた。暗闇が掻き消え、キヴォトスに光が満ちる。皆が目を細め、差し込む朝日を眩しそうに見ていた。
音は無かった。気が付けば、カイザーの私兵との戦闘も収束していた。穏やかな朝が、キヴォトスに訪れていた。
先生の手に、そっと暖かな感触が触れる。
見れば、ホシノが先生の手を握り締めており、その指先は僅かに震えていた。それが疲労から来るものではないと先生は理解していた。だからホシノの指先を握り締め、呟く。
「私は、何処にも行かないよ」
「…………」
ホシノは朝日を見つめたまま、強く、強く、先生の手を握り締める。先生はそれに応えながら、ただ静かに昇る朝日を見つめ、云った。
「私は――先生だからね」
こうして――アビドスとカイザーコーポレーションの戦いは、終わりを告げたのだ。
尚、この後ぶっ倒れて緊急搬送された模様。
やせ我慢は大人の特権。
えっ、それで取り乱す生徒の顔が見たい? な、なんて酷い事を云うんだ……! あなたに人の心はないのか……ッ!?
しかし、自分が救えなかった罪悪の形をまざまざと見せつけられるのってどんな気持ちなんだろう。自分が救えなかった生徒を呼び出して、成功し続ける世界を見せつけて、「生徒と一緒で幸せで~す、いぇーい、ピースピース」する先生は控えめに云って地獄に堕ちるべきでは? そこんとこどう思います先生、ねぇどんな気持ち? どんな気持ち? という訳で贖罪として先生の手足を捥ぎます。
因みに何故呼び出した生徒がハルナだったのかと云うと、私が好きだったからです(威風堂々)。エデン編で感情の流入が起きて、「あ、あら……ごめんなさい、何故か先生のお顔を見ていたら、涙が……」って展開やりたかったの。ゆるして。
次回、アビドス編エピローグ。
ちなみに狙撃の阻止が失敗した場合、ハルナが狙撃寸前で気付いて先生を押し出すも、弾頭は先生の左腕に直撃して、そのまま肉片撒き散らしながら先生は地面に転がる。その状況に嘗てのキヴォトス動乱で先生が死んだ瞬間フラッシュバックしてハルナが絶叫し、カウンタースナイプで神秘EXスキルぶっぱ、ヒヨリの狙撃ポイントをビルの上層ごと消し飛ばす。直撃は免れたものの、余波だけでヒヨリは重症。
ハルナは銃を投げ捨てて先生に縋りつき、先生は血塗れの状態で何かを云おうとするけれど、時間切れでハルナ強制送還。最後まで嫌だ嫌だと叫びながら先生に縋りついて、最悪の幕切れのまま退去。アビドスとワカモが血の気の引いた顔をそのままに、必死に措置を施して、やがてカイザー私兵を掃討し終わった皆が見るのは、片腕が無くなって血塗れの先生。そして差し込む朝日、幻想的~。
この件でベアトリーチェは先生の腕を奪ってやったとニッコリ、サオリはヒヨリが重傷を負ったと聞いて憎悪をたっぷり、他学園は先生欠損報告を聞いて黒幕に激おこ。
尚、このルートに入るとエデン条約編のラストで、クロコが背後からベアトリーチェ本体の頭をぶち抜く。舞台装置に興味はない、しかしそれはそれ、これはこれ、こいつは先生の腕を一本千切った奴だから殺す。
スクワッドと和解した後も、ヒヨリは多分先生に対してめちゃ後ろめたい感情を抱き続けるので敢え無く没に。
本当はハルナが消え行く前にアビドスとかワカモとか、先生の周りにいる生徒に対して怨念に等しい呪いと嫉妬の言葉を紡ぐ様子も描写していたのだけれど、想った以上にドロドロのドッロになってしまって、「やっべ、これだと透き通る様な世界観で送る学園×青春×RPGのブルーアーカイブではなくなってしまいますわッ! わたくしの透明感で隠さなければ!」と修正。ラストの後味が悪いと何かもやっとしてしまうし、もっとヤベー奴を召喚する話は後書きで書けば良いの精神。でいじょうぶだ! 後書きがあればいきけぇれる! 何なら何人か別の生徒を呼び出す話を自分で書いて、自分で読んで、心をぽかぽかさせていた。これぞ自給自足の醍醐味、こうして世界に平和は訪れた。おぉ先生、寝ておられるのですか。サオリとかベアトリーチェに対する憎悪マシマシだから、先生の負傷と合わせて怒り二万パーセントEXアタックで塵も残らん。多分先生が止める間にトドメ刺すと思うんですけれどぉ……(名推理)
最終章めっちゃ後書き我慢したから捥ぎ欲がすんごい。多分エピローグの後書きで爆発するか、エデン条約編の後書きで爆発するわ。めんご。よし、先に謝ったから許されましたわね! 寛大なお心に感謝ですわ!
エピローグは多分そんなに長くないので(後書き除く)、いつも通り明後日に投稿致しますわ! それからエデン条約編か、閑話を挟むと思いますので、それに対する今後の方針とかも併せて文字に起こしますの!
所で第一章のアビドス編でこんなに文字数と時間が掛かっている訳ですが、マジで私がエデン条約編書くんですの? 正気です? もしかしておハーブとかキメていらっしゃらない? 二~三百万字想定とかマジで頭ぶっとんでましてよ? 誰か私の代わりに書いて下さらない???