今回は一万五千字ですの。
「セイアちゃんはね、入院中なんかじゃない、ヘイローをね、壊されたの」
「………」
「冗談なんかじゃないよ、これは、本当の事」
二人揃ってプールサイドに腰掛け、足を水に浸す。同じ格好で空を見上げる二人の間にある距離は、随分と近くなっていた。
けれど話す内容は重々しく、真剣だ。ミカは、セイアは殺害されたのだと、どこか固い口調の中に悲しみを孕ませそう口にする。
「去年、何者かの手によって唐突に襲撃されたの、対外的には入院中って事になっているけれど、そっちの方が真実……私達ティーパーティーを除けば、この事はまだトリニティの誰も知らないと思うよ? あー、でもシスターフッドとかには知られているかも、あそこの情報網は半端じゃないから……でも普通じゃ知り得ない事、それくらいの秘匿事項」
「……犯人は?」
「分かっていない、捜査中というか、そもそも何も分かっていないと云うか……元々、秘密の多い子だったから」
そう云って、ミカは僅かばかり沈黙を守る。彼女の知るセイアは、自分の事を多く語らない子だった。どこかミステリアスで、秘密主義で、それでいて理知的。ナギサとは違う意味でティーパーティーらしい生徒だった。
「一応、犯人の目星が全くない訳じゃないんだけれど、今の段階で憶測を口にするのもね……」
ティーパーティーとしても、聖園ミカとしても。
「それで、先生――これだけなら、別にあんな言葉を口にする必要なんてなかったし、先生の首に物騒な爆発物を入れる必要もなかった」
「本題は、これからって事かな」
「うん」
先生の言葉にミカは強く頷き、そしてこの騒動の始まり――元凶について触れた。
「白洲アズサ――あの子をこの学園に転校させたのは、私なの」
「……成程ね」
トリニティの裏切者、白洲アズサ。
そもそも、彼女をこのトリニティ総合学園に編入させたのはミカなのだという。確かに、それは他者にとって致命的な情報だろう。ティーパーティーのホストではないとは云え、その一員の犯行。周知されたら派閥間での争いどころの話ではない。その重要性を理解しているのか、しかし飄々とした態度でミカは続ける。
「ナギちゃんには内緒でね、生徒名簿とかそういう書類を全部捏造して、あの子を入学させた、準備も根回しも大変だったけれど……だってナギちゃん神経質だし、いっつも気を張っているし」
「………」
「あれ? 何でって、聞かないの先生?」
「ミカは、ナギサとは違う方法で和平の道を探っている……そう思ったんだけれど、違ったかな?」
先生の問いかけに、ミカはどこか驚いたように目を見開いて。
それから、彼女は少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
「うん、まぁ、そんな感じ……かな」
答える声には力がなかった。理由は察しがついていた、けれど先生はそれ以上口にはしなかった。それは、決して優しさからなどではない。
「……アリウス分校は今もまだ、私達の事を憎んでいると思うんだ、私達はこうして豊かな環境を謳歌しているのに、彼女達は劣悪な環境の中で、学ぶ事すら許されず、それが何かも分からないままでいる――私達から差し伸べた手も、連邦生徒会からの助けも拒絶し続けているの、過去の、憎しみのせいで」
ミカは一度足元の水を跳ねさせ、大きく背を反らした。見上げた空は、彼女の胸の内と反対に、憎たらしい程に青く清らかで。トリニティとアリウスの現状、その落差。片方は繁栄を極め、片方は未だ地面を這いずっている。その歪な対比が、ミカには我慢ならない。
「――私は、アリウスと和解したい」
「………」
声には、強い覚悟が秘められていたように思う。
それは、ティーパーティーに属する人間が口にするには余りにも夢想に等しい願望で。少なくとも、先生自身、答えにつまる程度には高い壁があった。それを理解、或いは予感しているのだろう。先生を見る彼女の目はどこか申し訳なさそうで、愛想笑いの様な力ない笑みと共に、彼女は言葉を零した。
「でも、彼女達の抱く憎しみは簡単に拭えない程大きくて、これまでに積み上がった疑念と猜疑は高くて、重い……私ひとりの手では、負えない位に」
「……持つ者故の傲慢、そう取られてもおかしくはないかもしれない」
「うん、多分、アリウスからはそう見えるんだろうね、だからきっと私達の手を取らずに居るんだ……でも、それでも私は、諦めたくない」
そう云って、ミカは口を強く結んで見せる。抱くのは悔しさか、無力な自分に対する失望か。
或いは――。
「私の意見に、ナギちゃんも、セイアちゃんも反対していたんだ……政治的な理由でね? 勿論、それも分からない訳じゃない、私達はティーパーティーだから、個人の思想云々で、学校全体を危険に晒す事は出来ないもん」
俯き、零す言葉には納得の色がある。自分が彼女達の立場であったら、容易に頷く事は出来ないと、それ位の事は彼女にだって分かる。権力には、相応の責務が伴う。理想論で政治は語れない。ティーパーティーであるのならば、他校よりも、自分よりも、まずは学校の――自身の派閥の利益を第一に考えなければならない。それは代表としての責務であり、義務であり、使命である。
賛同しなかった二人は、トリニティ側の生徒として正しい行動をしている。
間違っているのは多分、
「私はさ、不器用だし、頭も良くないから……そういう政治とかはちょっと得意じゃないんだけれど、でも、でもさ――また、今からでも手を取り合って仲良くするのって、そんなに難しい事なのかな?」
ティーパーティーとしては、失格だろう。
派閥の長としては、失格だろう。
けれど、ミカは諦める事が出来ない。
その願望が無垢で、理想的で、夢の様な話でも。
「前みたいにお茶会でもしながら、談笑して、一緒に御菓子を頬張って、机を並べて勉強する――そんな当たり前の学校生活を一緒に送るのは、無理なのかな?」
「……いいや、そんな事はないよ」
酷く無垢で、透明で、純白な思想。例え仮初のものであったとしても、それを向けられた時、先生は「無理だ」と――そう口にする事は出来なかった。してはいけなかった。
他ならぬ先生が、その甘い理想を未だ捨てきれずに居るのだから。
どうしてその夢を否定出来よう? 他ならぬ己が、その未来に至る為に、今なお、必死に足掻いているというのに。
「――先生なら、そう云ってくれると思った」
穏やかに微笑んだミカは、嬉しそうにそう呟いた。先生は、彼女の笑みを直視出来なかった。その奥に潜む、己の罪悪をまざまざと見せつけられている様な心地になったから。けれど、視線だけは逸らさなかった。
「だからね、先生、私はあの子……『白洲アズサ』という存在に、象徴になって欲しかったの」
「象徴?」
「うん……どんなに憎み合った仲でも、一緒にこうやって学び、遊び笑い合える――和解の象徴に」
それは。
「あの子についてはそんなに詳しいって訳でもないんだけれど、アリウスでもかなり優秀な生徒みたいだったし、その可能性に賭けたかったんだ……本当ならね? ナギちゃんを説得してちゃんと正式に進めるって手段もあったんだよ? けれどナギちゃん、連邦生徒会長が失踪してから、ずっとピリピリして気を張っていたから――そういうの、聞いてくれないだろうなって思って」
「……だから、エデン条約が締結される前に?」
「うん、そう……もしエデン条約が締結されてしまったら、その時はもう、今度こそ本当に、アリウスとの和解は不可能なものになっちゃうから、トリニティが、トリニティである内に、何とかしたかったんだ」
仮に、エデン条約が結ばれてしまえば。
トリニティの決定はゲヘナ、及びETOにも作用する。アリウスがゲヘナを嫌っている以上、交渉は今以上に難航するだろう。それは分かり切った未来。そうなる前に、トリニティの舵に、僅かとは云え触れられている今だからこそ。
「アリウスの生徒がトリニティでもちゃんと暮らしていけて、幸せになれるんだって、みんなに証明したかった――でも、そんな中で突然、ナギちゃんがトリニティに裏切者がいるって云い始めて……」
「………」
「何でそんな事を考え始めたのは分からない、私がそうやって動いている時に、何かやらかしちゃったのかもしれないし……それで結局、ナギちゃんは条約の邪魔をさせまいとして、容疑者を一つに集める――『補習授業部』を作ったの」
そうして、事は今に至る。
「最初は、裏切り者とか何の事かと思ったけれど……あぁ、そういえば先生、何であの子達が集められたのかって理由は聞いた事ある? 勿論成績って意味じゃないよ? ナギちゃんが彼女達を疑った理由って意味で」
「……いいや、聞いていないな」
「そっか、なら一人ひとり、なんで選出されちゃったのか全部教えちゃうね」
■
「ハナコちゃんは凄く変わったところがあるけれど、本当に、本当に優秀な生徒、勿論成績って意味でも、何なら生徒会長、つまりティーパーティーの候補として挙がっていた事もあったくらいなの、シスターフッドも、あの子を引き入れようと頑張っていたって聞いたなぁ……上手くはいかなかったみたいだけれど」
「礼拝堂の授業で、突然水着を着て現れた時なんか凄かったよ、たまたま私もそこにいたんだけれど、シスターに追い出されて、皆も表情が凄い事になっていてさ、あははっ」
「でも、あんなに優秀で将来を見込まれていたのに、あの子は急に変わっちゃった、落第直前の状態になるくらいに……どうしてだろうね?」
「確かに、それで疑りたくなる気持ちは良く分かるよ、あの子は既にトリニティ上層部とか、他にもいろんなところと交流があって、結構な数の秘密を知ってしまっているから……その気になれば、本人の能力の高さもあって大体の事は出来るだろうね」
「コハルちゃんは……あの子はどろどろした政治とか、そんな事とは何の関係もない、純粋で良い子なんだけれど――そういう意味だと、あの子個人の話じゃなくなるかな、選出された直接的な原因は本人じゃなくて、所属している場所――ハスミちゃん達、正義実現委員会だね」
「巨大な武力を持った存在、それも特にハスミちゃんみたいなゲヘナに対して強い憎悪を持っている存在が自分の統制下にない不安感……何かが起こるのではないかという疑念、ナギちゃんはそこに対して、何らかの備えが欲しかったんだと思う」
「正義実現委員会だったら多分、誰でも良かったんじゃないかな? ただ取り敢えず成績が悪かったからあの子が選ばれた……つまり、あの子は人質、『退学』の件については多分、ハスミちゃんも知っていた筈だよ」
「――あはは、先生、分かり易い顔してる! ハスミちゃんがそんな事するハズないって顔だよ? 先生がハスミちゃんと、どれくらい仲が良いのかは知らないけれど、前にこんな事があったって知っているかな?」
「ハスミちゃん、前に万魔殿と会合があった後、『絶対に、絶対に許しません! 万魔殿! ゲヘナッ! どうして、どうしてあそこまで……ッ!』って叫びながら、正義実現委員会のロビーで暴れたんだって、それはもう、恐ろしい表情で! 委員会のメンバーが軒並み恐怖で動けなくなる位、凄い形相だったらしいよ? あのツルギちゃんですら困惑したって話」
「ハスミちゃんはトリニティの武力集団、正義実現委員会の副委員長だし、ゲヘナの事を凄く憎んでいる、それはもう、骨の髄まで……エデン条約に全力で反対するなんて、火を見るより明らかじゃない? あのゲヘナと同盟なんてー、って」
「あとは、そう、ヒフミちゃんか」
「ヒフミちゃん、優しくて、可愛くて、良い子だよね、ナギちゃんもすっごく気に入っているんだ……でも、それでも尚、ナギちゃんの疑いの目が向いちゃったの」
「どうやらこっそり学園の外に出て、怪しい所に行っていたみたい、トリニティの生徒は出入り禁止になっているブラックマーケットとか、あちこちにね……それに、どこかの犯罪集団と関りがあるって情報も流れて来た、あんな善良そうで、純粋な子に見えるのに、変な話」
「ナギちゃんだってヒフミちゃんの事は大好きなのに、それでも疑いの目は向けられた……まぁそれも、ナギちゃんらしいと云えば、らしいんだけれど」
「それで結局、ナギちゃんの中にあった『トリニティに裏切者がいるかもしれない』という疑いは、色々と情報が集められていく内に、『あの中の誰かが、トリニティの裏切者』って疑念に変わったんじゃないかな」
■
「さっきも云ったかもしれないけれど、この中でナギちゃんの云う裏切り者に該当するのは、白洲アズサ……本当は敵対しているアリウスの生徒な訳だからね、でも、あの子は何も知らないまま、私のせいで複雑な政治的な争いの渦中に立つ事になってしまったから……こんな形で、退学なんてさせたくないの」
一通り話し終わったミカは、小さく伸びをして。風に揺れる水面は、ゆらゆらと彼女の肌を濡らす。先生はそっと視線を落とし、反射する自身の顔を見つめた。波で歪み、影で昏く染まったそれは――良く、見えない。
「だから、守って欲しい、それは今、先生にしか出来ない事だから――これが今の状況、ちょっと長かったけれど、今私が……話せる事の全部だよ」
「なるほどね――ありがとうミカ、凡その事情は把握出来たよ」
「……えへへっ」
先生が微笑みながらそう告げると、ミカは嬉しそうに頬を掻いた。
「ある意味ではさ、ナギちゃんにとっての裏切者は、私でもあるんだ、私はナギちゃんの進めているエデン条約に賛成の立場じゃないし、それに白洲アズサをトリニティに引き込んだのは、私だから」
「……確かに、ある側面で見れば、そうかもね」
「でしょう? でも――でもね、先生」
両手を脚に挟み、小さく体を揺らすミカは、俯いたまま淡々と言葉を続けた。
「私は、こうも思うの、本当の意味でトリニティの裏切者を考えるのであれば……」
彼女の瞳がそっと、遥か先にある白雲を追う。
「――それは、ナギちゃんだって云う事も出来るって」
「………」
数秒、沈黙が下りた。
それは、意図的なモノではなかった。ミカの足から生じた波紋が、先生のそれを掻き消す。波紋は、彼女の震えから生じたものだった。それは寒さから来るものではないと、先生は理解している。
「それは……どうして?」
「だって、これまで調和を保ってきたトリニティを、巨大な
第一回公会議は、果たして喜劇だろうか? それとも悲劇だろうか?
それは、見る立場によって異なる。
トリニティ側からすれば――喜劇だろう。
今まで争い、憎み合うだけであった幾つもの分派が手を取り、力を合わせ、一つの学園へと纏まった。それは偉業であり、素晴らしき事であり、称えるべき事である筈だから。
反対に、アリウス側からすれば――悲劇だろう。
合併に反対し、自身の信念を貫いた結果、待っていたのは徹底的な弾圧と排除。トリニティからアリウス分派という名前は消え、深く地下に潜り、地べたを這いながら生きる事を強要されたのだから。
その第一回公会議の再現、それがエデン条約。
それは、素晴らしい事なのだろうか?
それとも、唾棄すべき事なのだろうか?
正しきは――
「――まぁでも、これを含めて全部全部、私からの一方的なお話でしかないよ、立場が変われば見方も変わる、私も、先生も、ナギちゃんもね?」
大きく背を反らし、彼女は声を張ってそう告げる。
頬に掛かった髪を払い、空元気にも見えるそれを精一杯貼り付けながら、彼女は先生に視線を向けた。
「だから、最終的には先生が決めて? 生徒皆の味方である先生が――白洲アズサを守るのか、裏切り者を見つけるのか、ナギちゃんにこの事を話すか、それとも……私の味方をしてくれるのか」
それだけ云って、ミカは立ち上がった。脚に付着した水を軽く払い、先生を見下ろす。「勿論、私の味方をしてくれるのが、一番良いけれどね」なんて。
そんな事を囁き、彼女は微笑んだ。
どこか、安心した様な笑みだった。
「……ミカは」
「うん?」
先生は、思う。
何を云うべきか。何を伝えるべきか。
これからの事と、過去の事。そして彼女の未来を案じ、口を突いた言葉は実に単純。
ゆっくりと、ミカを見上げる。
「それだけで、良いのかい?」
「あの子の事についてかな? それは、私に責任があるから……ホストでもない私には、ただお願いする事しか出来ないの」
「違う、そうじゃないよ」
「えっ?」
ミカは、自身が見当違いな答えをしたことに気付いていないようだった。目を瞬かせ、疑問符を浮べている。先生はゆっくりと含むように、その認識を正した。
「私は、ミカの心配をしているんだ」
「え、あ、うん? あ、う、うーん……」
そんな言葉を正面から受け止めた彼女は、視線を左右に散らし、ややあって観念したようにへらりと笑った。その表情は先程と違って、心から笑っているように見えた。
「わ、私の心配か、そっか……あ、あはは、先生って本当に優しいね? 何か、つい勘違いしちゃいそう……」
でも。
そう続けて彼女は、その細腕を折り畳み、見せかけの力こぶなんてものを作りながら、眩いばかりの笑顔で告げた。
「大丈夫だよ先生! 私、こう見えても結構強いんだから♪」
言葉と共に、プールサイドを駆ける。
先生もゆっくりとプールから足を抜き出し、立ち上がった。
「今、私が先生に頼みたいのはそれくらい! 私は、私の出来る範囲で頑張るから!」
「そっか、偉いね、ミカは」
「……そんな事ないよ!」
少しだけ距離を置いた彼女は、いつもの様に微笑んでいる。
先生は数秒、心の中で問いかけた。本当にこれで良いのかと、正しきは何かと。
いや――正しくある必要などないのだ。正しくなくとも、それで彼女が救われるのなら構わない。先生の願いはただ一つ、生徒の笑い合える明日を、希望に満ちた未来を。
その明日で、彼女は笑っているのか?
そっと、息を吸い込む。覚悟を、腹を、据えるために。
否、覚悟なんてものはずっと前から決まっている。
いつだって先生に足りなかったもの、それは。
「ミカ、最後にひとつだけ良いかな?」
「えっ、あ、何々? 何でも聞いて!」
不意に、先生がそう問いかけると、彼女は嬉しそうに声を返した。
先生に何かを問われるという事すら嬉しいのか、彼女は満面の笑みを浮べる。
先生は、暫くの間彼女のその笑顔を見つめ続けた。そして二度、三度、そっと拳を握り締めた彼は、告げる。
「話したい事は――本当に、これで全部で良いんだね?」
「―――」
浮べるのは、先程とは異なる――鋭く、強い感情を秘めたる表情。
温厚で優しく、太陽の様な気配を纏わせていた先生のそれが、一瞬で切り替わる。白洲アズサの保護、それが今の先生に課せられた、ミカからの依頼。
この事を流布するも、内に秘めるも自由。この話は結局、そういう話で終わる。
ミカはアリウスと繋がり、和解を目論んでいる。狙いはそれ以上でも、以下でもない。後はエデン条約が締結されるまで、ナギサの手からアズサを守り切れば先生の役割は果たせるだろう。
それだけだ。
それだけの話だ。
――本当に、それで良いんだね。
その言葉を耳にした時、ミカは思わず口を噤んだ。
いつもの様に微笑んで、何でもない事の様に「もちろん」と、そう口にしようとして――けれど、声が出なかった。
先生のミカを見る目が、余りも力強く、真剣で、切実だったから。
何で、
その瞳に射貫かれた時、ミカは自身の全てが見通されている様な気持ちを抱いた。
その問いかけは、それ以上の何かに勘付いていなければ出ない筈の言葉だったから。
けれど、不思議と不安は抱かなかった。ただ、戸惑いと疑問、そしてそれ以上の緊張と焦燥に思考は支配されていた。
もう、全部バレているんじゃない?
ミカの内側から滲み出す、誰かの声。それは不安の声ではない。そうミカは否定する――それは彼女にとって、期待だった。
先生なら、先生だったら、信じられると、そう云ったのは自分自身だ。先程嵌めたばかりの指輪を握り締め、ミカは口を開こうとする。けれど、舌が上手く回らない。喉が、震わない。云っちゃいなよ、心の中の自分が呟いた。
「わ……――」
一音、舌が漸く震えた。
心臓が跳ねた、鼓動が早鐘を打つ、嫌な――汗が流れる。唇を震わせ、両手を握り締め、無様に口を開閉させる自分は酷く滑稽に見えるだろう。けれど、それを客観視するだけの余裕はない。先生の瞳が、
真っ直ぐ、私だけを。
全部、話すって、そう云ったじゃない。
「わ、わたし、ね……先生」
「……うん」
先生は真剣に、真っ直ぐ、ミカだけを見つめていた。僅かも視線を逸らす事をしなかった。
私の、味方。私だけじゃないけれど。確かな、私の味方。
胸に秘めたるそれを口にしてしまえば、全部ぶちまけてしまえば。
先生を頼れば、私は救われるかもしれない。
でも、私に幸せになる資格なんて本当にあるのだろうか? ミカの奥底で、誰かが囁く。もし、此処で全てを諦めるのなら、彼女は何の為に。私は、何の為に此処まで。その意味すら失われると云うのに。
でも、先生の信頼を喪いたくなんてない。ミカは、そうも思う。これだけ信じてくれた人に、嘘を吐きたくない。全部話すって、そう云ったのだから。
いいや、これは言い訳に過ぎない、そんなものは虚飾だ。私は、救われたがっている、止めたがっている――この罪悪を、下ろしたいと思ってしまっている。
此処が、引き返す最後の分水嶺だった。
此処を過ぎればもう、自分は戻れない。戻る事は出来ない。
その確信があった。
「わ、私、本当は――!」
大きく口を開き、叫ぶ。
訴えかける、先生へ、信頼する大人へ。
私は、聖園ミカは。
■
【――それは駄目だよ、
■
「………」
「――ミカ?」
何事かを口にしようとした彼女は、不意に、顔を俯かせた。握った手はそのままに、震えは急激に収まり、あれ程何かを訴えかけようとした唇は微動だにしない。
そして、再び顔を上げた彼女は、ゆっくりと周囲を見渡した後、正面で困惑を見せる先生を視認すると。
「ん……ごめん、先生」
「ミカ?」
とても、穏やかに微笑んだ。
「ごめんね、先生、私が今話せるのは……これで全部だよ」
浮べる表情は儚く、脆い。
けれど、確かな意思を秘めた瞳は先生を捉えて離さない。先程までと纏う雰囲気は異なっていて、然もすると別人のように思えた。けれど、浮かべる笑顔だけは、欠片も変わらない。その奥底に見え隠れする意思だけが、色を変えていた。
「……そう、か」
先生は、それだけを絞り出す。
それは落胆だろうか、それとも失望だろうか? ミカは思う。いや、きっと違う。先生はそんな感情を生徒に抱く人ではない。きっとアレは――。
自分自身に対する、不甲斐なさを悔いる表情だ。
「うん……分かった、ありがとう、ミカ」
「ううん、こっちこそ」
ミカはそう告げ、先生の傍を静かに駆け抜ける。
ふわりと靡くミカの髪が先生の頬を擽り、彼女は裾を翻し、先生に笑いかけた。
「今日は時間を取ってくれてありがとう先生、先生と話せて、すっごく楽しかった!」
「……あぁ、私も楽しかったよ」
「ふふっ、なら良かった☆ あんまり二人でずっといると、変な噂が立っちゃいそうだから、そろそろ行くね? それと、あんまり私に優しくすると取り返しのつかない事になっちゃうかもよ、いいの? ……まぁ私は、それでも全然構わないんだけれど!」
揶揄う様に、或いは本心だろうか。髪を弾ませ、二度、三度、ステップを踏むように裾を遊ばせながら。
「なんてね♪ それじゃあ、先生、またね!」
彼女は、合宿所の向こう側へと姿を消した。
その背中を最後まで見つめ続ける先生は、強く拳を握り締めながら、呟く。
「――ミカ」
声が、彼女に届く事はない。
■
「――先生」
ブールサイドを抜け、合宿所の寂れた廊下に佇むミカ。外と内を隔てる扉に背を預けながら、彼女は自身の指に嵌められた銀の指輪を凝視する。そこに含まれる感情は、暴れだしたくなる程の歓喜と、僅かな嫉妬。視線の先に存在するものはなんの変哲もない、シンプルで、武骨でなんて事のない指輪だった。けれど、彼女だけの、彼女だけに託された、唯一無二の指輪だった。表面を指先で擦り、思わず言葉を漏らす。
「……あははっ、私みたいな悪い子に、こんなもの贈っちゃってさ、本当に、勘違いしちゃうじゃん、こっちの私、結構一杯一杯なんだよ……?」
そう口にする彼女は、今にも泣きそうな顔で。くしゃくしゃになった顔をそのままに、ミカは指輪へと頬を添える。金属特有の僅かな冷たさ、けれどそこに込められた感情が、じんわりと滲むようで。
心は、これ以上ない位暖かくなった。
「でも……嬉しいなぁ」
預けられたその信頼が、嬉しい。それは、正確に云えば自分という存在に向けられたものではないけれど。私だけが特別という訳ではないけれど。
それ程、大事にされているんだって思えて。ミカは暫くリングを見つめ、それからそっと唇を落とした。
「――愛してるよ、先生」
呟きは、涙に掠れ、小さかった。
「ずっと――ずっと祈るから、
自分の胸に手を当て、告げる。
これから数多の困難が先生を、生徒を、その周囲を襲うだろう。それはあまりにも辛く、泣きたくなるような結末を伴うかもしれない。いいや、きっとそうなる。
けれど。
「逃げちゃ駄目だよ、
もし、セイアの件を起こす前であれば良かった。過ちを犯す前であれば、どのような道を選んでも構わなかった。過ちは、正す事が出来るのだから。
けれど、罪を犯したのであれば――償わなければならない。
罪には罰を、悪しき行いには正しき償いを。
これは――覚悟と、意志の問題なのだ。
「そうして乗り越えた先に、堂々と先生の隣に立てる未来がある――それを手にするために、私は此処まで来たんだから」
先生の隣に立つ時、誇れる自分で在りたい。
それは、誰かから見てという話ではない。
自分自身に、誇れるように。
何の憂いもなく、胸を張って先生と共に歩めるように。
そして、今度こそ――。
「どんなに怖くても、足が竦んでも、立ち向かう勇気を胸に……ふふっ、私の大事な、とても恰好良い友達からの受け売りだけれど」
呟き、彼女はそっと目を閉じる。
「――エッチなのは駄目らしいけれど、ね?」
脳裏に、泣き笑いをする小さな少女の姿が過った。
「頑張れ、
■
「ぅ……ぁ?」
不意に、目が覚めた。
それは、微睡から引き起こされる感覚に良く似ている。手足がふわふわと、どこか覚束なく。自分が何処に居るかも分からない。二度、三度、目を瞬かせた彼女は周囲をぼんやりと見渡し、薄暗い其処が合宿所の廊下である事を理解した。
「あ、れ……わたし……?」
座り込んだ姿勢のまま、壁に頭を預け、自身を見下ろす。そして暫くの間、そうやって徐々に現実のピントを合わせたミカは――自分がほんの数分前まで誰と、何を話していたのかを思い出し、急激に蒼褪めた。
「ッ!? は、ぇ、あ!?」
瞬時に飛び起き、自身の体を弄る。ポケットにちょっとした衣服の隙間、そして両手の指を凝視し――そこに探していた証が嵌められている事を確かめ、思い切り抱きしめた。
「あ、あった……! 良かった、夢じゃない……! 良かった、よかったぁ……!」
指輪を額に押し付け、ずるずると壁に凭れ掛かる。もしかしたら、夢かと思ったのだ。先生とのあの一幕が、うたた寝の中で紡がれた記憶なのではないかと疑った。それ程に彼女にとっては甘く、優しい応酬だったから。指輪を強く握り締めながら、彼女は静かに涙を流す。廊下には、彼女が啜り泣く音だけが響く。
「あ、はは……また、意識飛んじゃっていたんだ……何でこんな、大事な時に……」
私、おかしくなっちゃったのかな。
声は力なく、自分への猜疑に満ちていた。
その内、何が現実で、何が夢かも分からなくなりそうで――少し、怖い。
「私、先生に……」
俯いたまま、そっと自身の記憶をなぞる。自分は、先生に全てを話そうとしたのだ。
自分のやろうとしている事を、全部、洗いざらい。
それを思い返し、ミカは思わず鼻を鳴らし、嘲笑った。
「――なんて、自分勝手」
同時に、一粒涙が零れる。
もう、戻れる筈なんてないのに。
「あははっ、人殺しのさぁ、私が……何、思い上がってんの? 今更救われちゃ、駄目じゃん、そんな、都合よく縋ろうなんて……」
それは、道理が合わない。
償いも、贖罪もなく、救われるなんて、それは――駄目だろう。
悪人に救いなんてない。私はもう、綺麗で素敵なお姫様にはなれない。そんな事、ずっと前から分かっていた筈なのに。こんな、今更未練がましく。
「それに――先生を、巻き込むなんて、嫌だ……」
指輪を額に擦り付け、強い口調で呟く。私を庇ったら、先生まで大変な事になる。ティーパーティーの不祥事、更にはその内容も内容だ。それを先生が庇ったとしたら、トリニティとシャーレの不和だけで済む話ではなくなる。事はゲヘナや連邦生徒会、或いはそれ以上の場所へと波及するだろう。
先生の顔色は、良くなかった。今でも激務に追われているのだろう。それに加えて自身の面倒をも見て貰おうなどと――。
「あはは……」
笑みが、零れた。
同時に幾つもの涙も。頬を伝うそれが、ぽつぽつと自身の衣服に染みを残す。
あんなにやさしい人。
こんなに良くしてくれた人。
そうだ、そんな彼を裏切るんだ。
セイアちゃんも、ナギちゃんも、先生も――皆。
これから私は、全部を裏切る。
それを自覚した途端、ミカの心の内を暗く、酷く昏く分厚い何かが覆った。それは、無意識の内に彼女が受け入れていた、
なら、泣いちゃ駄目でしょう?
心に潜む、
涙を流して救われるのは――自分ひとりだけだというのに。
「そう、だよ……
呟き、壁に肩を擦りつけながら立ち上がる。
顔を覆い、銀の指輪を指先に感じながら。
彼女は頬を吊り上げ――歪に笑う。
「こう、でしょう?」
歪に笑って、大粒の涙を流しながら。
そうして彼女は立ち上がる。
たった一人で。
これまでも。
これからも。
「頑張れ……私」
きっと、自分に明るい未来など待っていない。
酷く昏い、奈落へと続く道を、それを知りながら歩いて行く。
救いは求めてはいけない、罪悪を背負って生きて行くのだ。その道連れは、居てはいけない。
そう、全ては。
死に報いる為に。
これで水泳の授業で、「指輪を汚したくないから」って理由でロッカーに大切に仕舞っていたところを、モブ生徒に指輪捨てられちゃったり、暴動で焼かれたりするんだよね。何て酷い連中だ……人の心とかないんか? ついでに誤動作して首飛ばしてくれ先生。
これで怒涛のミカ三話は終了でございますわ。生徒一人にこれだけフォーカス当てたのって結構珍しい気がする、というかミカだけで三万字持っていくとかどうなってんねん、でもミカだし仕方ないか。ミカ(未来)は色々知っているから比較的精神に余裕があるけれど(大丈夫だとは云っていない)、ミカ(現在)はマジで精神一杯一杯で、先生がより親身な分反動ダメージで魔女化が進む君。
でも以前後書きで本来のエデン条約より酷い事になるって予め云ってあるし、このくらいままえやろ!
本編先生は上手い具合に躱してミカを依存させないように、或いは頼り切りにさせないようにしていましたわね。ウチの先生はそんな可哀そうな事しませんことよ! あらすじとタグの勇壮なる姿を見て下さいよォ! そりゃデロデロのドロドロで信頼度バグ上がりからの先生四肢もぎたて♡にーちゅになるでしょうよォ! 好感度は上げれば上げる程、依存すればするほど、先生の四肢が弾け飛んだ時に生徒の顔は可愛くなるんですのよぉ~ッ!? 目の前に傷心のミカが居るのにウチの先生が全力で甘やかして慰めないとでも思いましてェ~ッ!?
まぁこの先生の場合は依存したら依存したで、何人でも何年でもどれだけでも面倒見るつもりの覚悟マシマシスーパー先生だし、現在先生の一個前にある三世界線の先生は、大体追い詰められて他に手が無くなってどうしようもなくなって、「死んでキヴォトスを救いますか?」、「生きてキヴォトス沈ませますか?」の二択で常に
でも依存した生徒同士がいがみ合い始めたらどうするの先生? だから先生の手足を捥ぐ必要があったんですね(先生が怪我した時だけは一致団結出来る為、犯人によっては殺し合いに発展する可能性アリ)
ミカに指輪渡したら何かと生徒間でマウント取って来そう。「へぇ~、シャーレ所属になって長いんだ、ふーん、まぁでも私は先生に『私のお姫様』って呼ばれたし~? 他にこんな風に呼ばれた人居る~? 居ないよねぇ~☆」ってやってきそう。
アツコに、「そっか、じゃあシャーレ二人目のお姫様だね」って悪気なく云われて、「あはは、面白~い、それアリウス派なりのジョークって奴かな?」って笑って欲しい。多分その背後で先生の服を千切る勢いで引っ張りながら、「ん、先生、私にも指輪を渡すべき」ってシロコが指輪強請っているから。尚、先生のシャツは霧散する。それを見てワカモが鼻血を噴いて倒れて、アルが斃れたワカモを見て白目剥いて絶叫して、ムツキが爆笑して、カヨコが溜息を吐いて、ハルカが爆弾でシャーレを吹き飛ばして先生は死ぬ。汚い花火ですわ……。
これ辻褄とか矛盾点とか色々ぶっ飛ばして、単純に私が、「こうなったらミカめっちゃ可愛くなるのでは?」って思った事なんですけれどぉ、先生に「アズサを守って」って云った後に、先生がアズサに射殺されたらどんな顔するんやろって思ったんですよねぇ。
自分が招き入れて、自分が守ってと頼んだ相手が、指輪までくれて心の底から信じてくれた初めての大人を撃ち殺す訳ですからぁ。それはもう、とんでもない情緒になりますわよねぇ~。というかトリニティ内部でシャーレの先生が射殺されるとかマジで洒落にならねぇですわよ。エデン条約云々どころの話じゃなくなりそうで手足生えますわ。いやでも、時期によってはあるいは、ナギサなら緘口令を敷いて無理矢理条約まで持っていこうとするかも……? まぁその前にミカがアリウス率いてカチコミに来る訳ですけれど。この場合ってどうなるん? ミカはナギサを見殺しにするん? それとも二度も不本意な形で大切な人と、友人を奪ったアズサをボコボコにするん? 私としては突入したアリウスにナギサを射殺された後に辿り着いちゃって、これで本当に自分の周りには誰も居なくなったんだと理解して笑いながら泣いて欲しい。多分4thpvスチルのミカと同じレベルで哄笑する。
もう戻れないと思っていた場所はまだ地獄のほんの入り口で、僅かな罪悪を呑み込み、最低の恥知らずと自分を罵りながらも、誇れずとも背を向ければどうとでもなった未来があったのに。一歩前に踏み出せば、そこからはもう坂を転げ落ちるかのように地獄が続いていたのだと気付いた時には遅くて、積み上げた屍と報いる死が重なりあって、それを背負いながら生きるしかない自身の果てに絶望を見出し、指輪を抱えながら泣き笑いして絶叫して欲しい。
多分この後アリウスに裏切られるだろうけれど、このミカなら単独で全部ぶち壊すと思う。そしてミカのアリウスとの関与を知る者は誰も居なくなった果てに、たったひとりぼっちのティーパーティーとして、そのホストの座に座る事になったらミカはどんな顔で座っているのだろうか。多分、死んだような目をしながら足を組んで、頬杖を突きながら、じっと誰もいない二つの空席を眺め続けるのだと思う。その時、銀の指輪は果たして彼女の指に嵌っているのだろうか。
この闇落ちミカが先生のカードで呼び出されたら、えらいこっちゃになるぞ。ずっと寄り添うから&指輪プレゼントからの、自分のせいで射殺された罪悪感マシマシで、好意と愛と後悔と罪悪感と恐怖で謝罪マシーンになる未来が見える見える……。多分蹲って、もし指輪をしたままだったらそれを抱えて震えながら、「ごめ、ごめんなさい、先生、ごめんなさい! ごめんなさいッ!」ってぽろぽろ涙零すと思うから、先生はそっとミカの事抱きしめてあげてね。そんな資格ないとか、私は絶対に救われちゃいけないとか、自縛的になって先生を必死に拒絶しようとするミカに優しい言葉をかけてあげてくれ……。どんな過程を経ても、どんな結末を辿っても、私の生徒は生徒だからって笑ってやってくれ……。抱きしめられるうちに人の温もりを思い出して、ずっとひとりぼっちだった世界が溶けだして。ずっと自分には救いなんてなくて、それを求める事も烏滸がましくて、ただ何も成せず、愚かなまま死んでいくのがお似合いだと云い募って来たのに。
そしてミカが顔を上げて、先生の顔を漸く直視した時に、先生の首の爆弾炸裂させてトマトジュース作ったら最高にエモくありません事?