ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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自制しなくて良いって云われたのでブッパしますわ。
25,000字ですわ。
私わるくないですわよ。


遍く人を照らす光に

 

 先生の洗濯物喪失から数分後。

 保護膜を貼り終え、ゆったりとしたスラックスにTシャツを着込んだ先生は明日の資料を纏めながら、静かにその時を待っていた。

 軈て、就寝時間が過ぎ、五分ほど時計の針が進んだ頃。 

 コンコン、と。部屋のドアが控えめにノックされた。

 先生は無言で立ち上がり、そっと扉を開く。

 

「失礼します」

「どうぞ、今日は少し遅――」

 

 そこまで口にして、先生は目の前の人物が自身の想像した生徒ではない事に気付いた。

 扉を開いた先、満面の笑みで立っていたのは――水着姿のハナコ。

 彼女は普段と異なる部屋着の先生を上から下まで眺めた後、何とも大人びた表情で微笑み、口を開いた。

 

「こんばんは、先生」

「………」

 

 思わず、先生は体を硬直させる。完全にヒフミが来るものだと思って油断していた、何の疑いも躊躇いもなく扉を開けていた。ここ数日、彼女との会合が当たり前の様に行われていた為、考える間もなく体が動いていた。

 ハナコは先生の胸元に手を置くと、軽い気持ちでそっと押し出す。しかし、彼女にとって軽い力でも、先生にとっては違う。数歩部屋の中へと押し込まれた先生は、そのまま後ろ手に扉を閉めるハナコを眺める事しか出来なかった。

 

「ふふっ……こんなに簡単に開けちゃうなんて、不用心ですねぇ♡ 先生は私達と比べて体が強くないんですから、襲われたらひとたまりもありませんよ?」

「あ、いや……」

 

 これは、生徒に対して使う言葉ではないと理解しているのだが――妖艶な、としか表現できない表情を浮かべるハナコを前に、先生は言葉を詰まらせた。唯一の出入り口を閉ざされた先生は視線を左右に散し、それから困ったように告げる。

 

「というか、ハナコ……どうして水着なんだ」

「あぁ、これについてはお気になさらず、パジャマなので」

「……水着が?」

「はい♡」

 

 そんな事、ある? 先生はそう思ったが、しかし口に出す事はしなかった。決めつける事は良くない。実際に、そういう人も居るかもしれないのだから。実際、ハナコがそうだ。

 

「うふふっ、それより先生、ちょっと相談したい事がありまして……」

「相談したい事?」

「えぇ――」

 

 ハナコはそう云って先生の傍に身を寄せると、耳元に顔を近付け囁いた。

 

「……アズサちゃんの事について、少し」

「………」

 

 その表情は、恰好や雰囲気に反し真剣だった。先生は数秒程、何かを考え込む様な素振りを見せた後、頷く。

 

「……分かった、取り敢えず座って」

「ふふっ、ありがとうございます」

 

 そう云って先生は、一先ずハナコの話を聞く事にした。ハナコには椅子を勧め、流石に水着だけでは冷えるだろうと備え付けのタオルケットと、ヒフミにも淹れていたココアを用意する。予め彼女が来た時用に温めていたケトルから湯を注いでいると、先生の使用していたベッドに腰掛けているハナコの姿が見えた。彼女は何故が満足げな表情で座り心地を楽しみ、これ見よがしに深呼吸などして見せる。

 

「んー……この辺り、先生の匂いがしますね♡」

「恥ずかしいから、あんまりそういう事は云わないでね……」

 

 どうかそんな風に人の匂いを嗅がないで欲しい、とても恥ずかしいから。

 

「それで、話っていうのは――」

 

 先生が席に着き、そう切り出した所で――ノックが鳴り響いた。

 続け様に、向こう側から聞き慣れた声が。

 

「し、失礼します、先生、いらっしゃいますか?」

 

 それは、紛れもなくヒフミの声で。先生が声を上げるよりも早く、彼女はドアノブを軽く捻った。いつもの時間帯ならば、起きて待ってくれていると考えていたのだろう。実際それは正解で、先生は先程までヒフミを待っていたのだから。

 鍵も掛けられていない扉はヒフミの行動に応え、簡単に中を晒す。

 

「あれ、開いて……?」

「あ、ヒフミ、今――」

「あっ、先生、昨日より遅い時間になってしまってごめんなさい、実は……――」

 

 そして扉を開けた先で、ヒフミは見てしまった。

 水着姿を惜しげもなく晒し、先生のベッドに腰掛けるハナコの姿を。

 

「………えっ」

「………あら」

 

 ヒフミは水着姿のハナコを凝視し、ハナコは夜分遅くにやって来たヒフミを凝視する。

 ハナコからすれば彼女の口ぶりから、昨日もこの時間帯に先生と会っていたのは確実で。

 ヒフミからすれば、先生がこんな夜遅くに水着姿の生徒と二人きり、しかもベッドに座っている様子から何やら只ならぬ空気を感じ取り――二人だけの空間で、片や生徒は水着姿、何も起こらない筈もなく……。

 

「ほ………」

「ほ?」

 

 ヒフミは、段々と想像を膨らませていくにつれて赤面し、思い切り明後日の方向へと発想を飛ばした。

 

「本当に失礼しましたぁ!? ご、ごめんなさい私っ、そ、そんな事をしているとは知らずに……! ぜ、全然知らなかったんです、本当ですっ! え、い、一体いつからお二人は!?」

「――ヒフミちゃん、今『昨日より遅い時間』って云いませんでしたか? 云いましたよね? つまり昨晩も来たという事ですよね!? そうなんですよね!? こんな時間に? 先生と二人きりで? この密室でいったい何を!?」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!? またあとで……は駄目ですよねっ!? ど、どうすれば良いですか、今晩はやめた方が良いですか!? 知らなくてごめんなさい、間に入ってごめんなさい、空気壊してごめんなさい……っ!」

「待って下さいヒフミちゃん、詳しく教えてください! 昨晩はお二人で何をしていたんですか、今晩は何をする予定だったのですか!? 是非説明を、いえ、いっそ今から私の目の前で実際に再現を……っ!」

「二人共ごめん、今、もう夜だから、皆寝始めている頃だから……!」

 

 ■

 

「す、すみません、取り乱してしまって……」

「いえ、私の方こそ、早とちりをしてしまいました」

 

 先生が割って入り、苦慮する事数分。あのまま放置しては自身の風評と状況証拠からとんでもない勘違いが起きそうだった為、簡単ではあるもののお互いに事のあらましを伝え、何とか誤解を解く事に成功した。

 

「それで、ヒフミちゃんは先生と……」

「あ、はい、これからの補習授業部について、色々と」

「そうでしたか……夜な夜な抜け出していたのは、そういった事だったんですね」

「はい……一応今は順調に事が進んでいますが、備えあれば憂いなしとも云いますし、油断は出来ませんから――それで、ハナコちゃんも先生に相談したい事が?」

「えぇ……アズサちゃんの件で」

「アズサちゃんの……?」

 

 ハナコがやや言葉を濁らせながらそう告げれば、ヒフミは思い当たる節が無いのか、疑問符を浮べていた。

 

「よろしければ、ヒフミちゃんも一緒に聞いて頂ければと思います」

「い、良いのでしょうか、その、元々は先生に相談したかった事では……?」

「構いません、ヒフミちゃんは私達補習授業部の部長ですし、それに遅かれ早かれ、耳に届く事かと」

「わ、分かりました、そういう事でしたら――」

 

 背筋を正し、どこか緊張気味な面持ちのヒフミ。ハナコはそんな彼女と先生に視線を向けると、心配げな表情で告げた。

 

「実はアズサちゃん、毎晩のように何処かへ出かけては、夜明けまで戻って来ない事が続いているんです」

「えっ、夜明けまで、ですか……?」

「はい」

 

 そうしてハナコが語って聞かせた内容は、凡そアズサが睡眠をとっているとは思えないという事。そして、自身が目の届く範囲で彼女が眠った姿を殆ど見た事が無いという事であった。先生はその言葉に、深刻な表情を浮かべ呟く。

 

「それは……確かに心配だね」

「そうなんです、最初は慣れない場所で眠れないのかと思ったのですが、そうではない様子で……私は、アズサちゃんが夜にちゃんと眠っているところを殆ど見た事がありません」

「そういえば私も……アズサちゃんはいつも先に起床していますし、私より早く寝ている事もなかった様な――」

 

 ヒフミはここ数日の生活を思い返し、アズサが寝入っている姿を見ていない事に気付く。彼女は何だかんだと云って就寝は遅く、起床は早い。云われてみれば、彼女が床に入っている姿を見た覚えがなかった。いつも精力的に動き、超然としていた為、気付かなかった。

 

「……アズサちゃんが一体何をしているのかは分かりません、ですがそろそろ多少無理矢理にでも寝かせて休息をとらせてあげないといけないのでは、と」

「……そっか」

「それに何だかアズサちゃん、どこか……凄く不安そうで」

 

 そう口にするハナコは、どこか思案顔で。彼女が心底アズサの身を案じているのが分かる。

 

「どんな事情なのかは分かりませんが、補習授業部の仲間として、友人として、どうにかその不安を少しでも軽減してあげたいんです、きっと、このままだと倒れてしまいます」

「それは、確かにその通りですね……」

「それと、先生とヒフミちゃんも、ちゃんと寝ないと駄目ですよ? 毎日こうやって夜に集会をして、明日に備えるのは立派だと思いますが、疲労は蓄積しますから」

「あ、あはは……その、仰る通りで」

 

 ヒフミは、申し訳なさそうに頬を掻く。しかし、これからの事を思うと動かずにはいられない――そういう不安や、焦燥と云った感情も先生は痛い程理解出来た。その理由を知らず、ハナコは言葉を続ける。

 

「確かに試験も大切ですが、ただ落第というだけです、身体の健康と比べられるようなものではないと思いませんか?」

「それは――」

 

 ヒフミはその言葉に思わず、先生に視線を向けた。そして、先生がそっと一つ頷きを返せば、唇を噛み締め、唸るような声で口を開く。

 

「普通であれば、そうだったのかもしれません、でも……今回は、違うんです、今回だけは……!」

「――ヒフミちゃん……?」

「ただ、ただ落第で済む話ではないんです……! あと二回、どちらの試験も不合格だったら……!」

 

 俯いていた顔を上げ、正面を強い視線で射貫くヒフミ。その、強烈な意思と悲壮を孕んだ瞳を向けられたハナコはたじろぎ、その体を僅かに仰け反らせた。

 

「――退学なんですっ! 私達は、トリニティを去らないといけないんです……ッ!」

「え……退学? ヒフミちゃん、それはどういう……いえ、まさか、その様な事、校則上成り立ちません、退学には様々な手続きと理由が必要で、そんな簡単に――」

「………」

「……先生?」

 

 ハナコは、まさかという表情と共にそう述べた。彼女からすれば突拍子もなく、あり得ない話に聞こえたのだ。しかし、残念ながら事実は異なる。実際に補習授業部は退学の危機にあり、それは先生も知るところ。沈黙を守る先生と、焦燥と不安を隠しきれなくなったヒフミを前に、ハナコは浮かべていた表情を、徐々に困惑と疑念のものへと変えた。

 

「まさか、本当に――?」

「……はい、これは、嘘でも何でもありません」

「――詳しく、聞かせて頂けますか?」

 

 ハナコの真剣な声が、部屋の中に響いた。

 

 ■

 

「……成程、そのような事が」

「はい、これは本当の事なんです……」

「ヒフミちゃんと先生の様子から、嘘である事は疑っていません、それにしても――残りの試験全て不合格であれば、全員退学だなんて……元々試験の仕組み自体おかしいと思っていましたが、シャーレの超法規的権限ですか」

 

 一通りの事情をヒフミと先生から聞き終えたハナコは、その顔を微かに歪めながら思案に暮れる。彼女自身、疑問自体は感じていたのだ。補習授業部という例外的な部活動の発足、それに伴うシャーレの先生招致。それに、この部活動から抜ける為の条件も酷く非合理的だ――トリニティという校風の中で、他者と手を繋いで仲良く協力しなければ退学などと、云ってしまえば、学校自体が出来ていない事を一生徒に押し付ける皮肉である。昨今の派閥間争いを見て来たハナコからすれば、明らかな方便に見えて仕方なかった。

 

「あ、そ、そういえばハナコちゃん、本当は成績が良いんですよね? 一年生の時に、三年生の難しい試験まで全部満点でしたし……!」

「………」

 

 ヒフミの、ふと思い立った様な言葉にハナコは思わず言葉を詰まらせる。その表情を見たヒフミは、はっとして申し訳なさそうに声を潜めた。しかし、今は藁にも縋りたい状況であり、もし彼女が本当に態と点数を取っていないのなら、少なくとも懸念の一つが無くなるのは確実で、更に言えば補習授業部全体の助けになる事も期待出来た。その可能性を、ヒフミは見過ごす事が出来ない。

 

「あの、ごめんなさい、模試の為に昔のテスト用紙を探していて、その途中で、えっと、見つけてしまって……」

「そう、ですか」

「どうして今は、あんな点数を? わざと、ですよね……?」

「……ごめんなさい、知らなかったんです、失敗したら、まさか全員が退学だなんて」

 

 俯き、酷く後悔した表情で呟くハナコ。彼女からすれば、まさに寝耳に水だろう。自身の成果如何によって、全員の進退――退学が決まるなどと、想像もしていなかったに違いない。

 

「――いいえ、知らなかったからと云って、許されるものではありませんね……私は、私自身のエゴで、皆さんを巻き込むところでした、沢山の準備をしてくれた先生にも、ヒフミちゃんにも……アズサちゃんとコハルちゃんにも、申し訳ない事をしました」

 

 そう云ってハナコは、普段の温厚な笑みを消し去り、真剣な表情で二人に深く頭を下げた。

 

「ごめんなさい、先生、ヒフミちゃん」

「い、いえ、その……」

 

 ヒフミは、ハナコのその様子に慌てて手を振る。彼女らしからぬその佇まいは、ヒフミを戸惑わせるには十分な雰囲気を放っていた。

 

「……ヒフミちゃんの云った通り、私の点数はわざとです」

「や、やっぱり……! ハナコちゃん、どうしてそんな……?」

「それは……ごめんなさい、云えません――私の、凄く個人的な理由なのです……ですが、それで皆さんが被害を受けてしまうのは、私の望むところではありません」

「ハナコちゃん……」

「安心して下さい、最低限みなさんが退学にならないよう、今後の試験は頑張りますので」

 

 そう云ってハナコは微笑み、今後の試験に於ける尽力を約束した。一先ず、これで一つ肩の荷が下りた事になる。先生はそっと息を吐き出し、ハナコに向かってそっと頭を下げた。どんな理由であれ、皆の為に矜持を曲げてくれた事には感謝を示したいと思ったのだ。

 

「ありがとう、ハナコ」

「っ、いえ、先生にそのような、感謝して頂く事では……元々、私の我儘ですし――むしろ、私が謝罪するべき事です、裸で手をつくだけで足りますか先生……?」

「いやそれは逆にやめて頂けますと……!? 今後頑張って貰えると聞けただけで、私は安心しましたので!」

「そうですか……」

「な、何でちょっと残念そうなんですか……?」

 

 僅かに肩を落とすハナコを前に、ヒフミは本気で疑問の目を向けていた。残念ながら彼女の趣味嗜好はヒフミの理解の外らしい。

 

「ところで、この事実を知っているのはヒフミちゃんと先生だけですか?」

「えっと、そうですね、今のところは、私達だけで……」

「そうでしたか、となると、アズサちゃんの不安は試験に起因するものではなさそうですね、何か私がまだ知らない事がある、と……いえ、それ以上に今は、この補習授業部の存在そのものが気になりますね」

 

 そう呟き、ハナコは頭の中で自身の持つ情報を並べ、整理した。補習授業部が一体どういう場所なのかは理解出来た。先生を巻き込むことにより、例外的な退学処置を可能にしたという点も。そうなれば必然、このような命令を下せる場所、人物は限られる。

 

「ミカさん、には無理でしょう、まぁこんな事を企むのは、恐らくナギサさんでしょうか? しかし、どうしてエデン条約を目の前にして、このような……今は内部、外部共に目を光らせ、目が回る程の忙しさでしょうに――」

 

 腕を組み、指先で自身のそれを叩きながらハナコは思案する。

 エデン条約を前にしたトリニティは、決して一枚岩などではない。そもそも三分派がそれぞれ独自の思想を持っているというのもそうだが、表の顔で賛成しつつも、裏の顔では――何て云うのは良くある話である。

 それに、このエデン条約が締結されたのなら、その功績はナギサの一派のものとなり、一歩先を行く形となるだろう。当然、残りの二派は面白くない。水面下ではどのようなやり取りがあるのか、ハナコは想像するだけで顔を顰めたくなった。

 内部だけでもそのような面倒がある上に、ゲヘナに対しての動きにも目を光らせる必要がある。防諜対策をはじめ、エデン条約に向けた会合、仔細の突き詰め、ETO創設後の段取りから細かい配分など、凡その形は既に出来上がっているとは云え、相手に出し抜かれない様常に気を張る必要がある。

 考えるだけでも、ティーパーティーのホストが行うべき事柄は多岐に渡った。その様な中で、何故こんな面倒事を……?

 

「寧ろエデン条約が目前であるからこそ……? ある種、これは内部の引き締め……いえ、そうではありませんね、態々シャーレを巻き込んで、退学というカードまで切ったのですから、それ以上に何か、トリニティにとって致命的なものが――」

「わわ……っ」

 

 呟き、ヒフミのどこか驚愕を含んだ視線を他所に、ハナコは没頭する。

 余計な事をするなという生徒に対する見せしめであるのなら、退学なんて強力なカードを切る必要はない。もっと穏便な処分で十分な筈だ、過度な見せしめは顰蹙を買う、それは彼女も理解している筈だった。となると、そもそもシャーレを組み込む必要すらない。ならば、それを押して尚、それ以上の意味を持つ、トリニティにとって致命的な『何か』を持つ生徒が集められたのだと考えるのが自然だった。

 そして、ナギサという生徒の思考から、退学というカードを切ってまで見過ごせない致命的な要因とは何か。

 ハナコは、一つの推論に辿り着く。

 

「……成程、この補習授業部は、大方エデン条約を邪魔しようとしている疑惑のある容疑者達の集い、というところでしょうか」

「……凄いな」

 

 思わず、先生が呟く。ハナコはその言葉にそっと微笑みながら、今頃優雅に紅茶を啜っているであろう主犯を思い肩を落とした。

 

「ナギサさんらしいと云いますか、相変わらず狡猾な猫ちゃんですねぇ」

「ね、猫……?」

「この補習授業部に関しても、どうせなら纏めて処理してしまった方が効率的、というロジックでしょうか? 何だか私達、洗濯物みたいな扱いですね」

 

 その言葉に先生は苦笑を漏らした。ナギサが口にした表現は、もっと直接的で酷いものだったが――態々口にする必要もないだろう。

 

「先生も、ナギサさんにしてやられた形でしょうか?」

「……そうなるかな、元々私は成績が振るわない生徒達を助けて欲しいと云われて、この補習授業部の担任に就いたから」

「成程、先生の善意を利用して役割を担わせ、その実シャーレの超法規的権限を利用している、先生も忙しい身でしょうに、全く……ですが、逆に云えば先生は純粋に私達の為に頑張って下さっていたのですね」

「それは、まぁ、私は先生だし」

 

 資料集めや整理、それに普段の授業に模擬試験の作成。後半についてはヒフミの手伝いがあったとは云え、それら全ては純粋に生徒の為に用意しているものだ。それは理解しているのだろう、ハナコはいつも通りの温厚な笑みを浮べ、感謝の言葉を口にした。

 

「……ありがとうございます、先生はやはり良い人ですね、ふふっ♡」

「よしてくれ、私は私の仕事をしているだけだから」

「――御謙遜を」

 

 ハナコの視線が、部屋の片隅に置かれた人形に向けられた。それは、合宿初日に先生が約束してくれた、御褒美代わりの補習授業部人形だった。軽く布を被せて隠しているつもりなのか、ハナコは心の中で感謝の念を抱く。業務でもない事を率先して行い、生徒の為に尽くす、これが善人でないのならば何であるのかと。

 

「ハナコちゃん、凄いですね……ちょっとした情報から、そこまで考えられるなんて」

「いいえ、元々上層の情報には詳しい方でしたから」

「だとしてもですよ……ナギサ様は、トリニティの裏切者、それを私に探して欲しいと仰っていました」

「ふふっ、トリニティの裏切者ですか……何ともナギサさんらしい表現です、ティーパーティーのホストである彼女の計画を邪魔したら該当する、とも考えられるロジックですし……アズサちゃんは書類の時点で怪しかったので、疑われるのも無理はありませんね、コハルちゃんも、正義実現委員会という所属を考えると人質という観点では多少納得が出来ます、しかし――」

 

 そこまで告げ、ハナコはヒフミに目を向けた。その瞳には、疑問の色が濃く浮かんでいる。

 

「ヒフミちゃんは何故ここに? ナギサさんとも親しかった筈ですし、私にはそれらしい理由も思い当たらないのですが……」

「あう、わ、私もやっぱり容疑者なんでしょうか……?」

 

 ヒフミは呟き、意気消沈する。成績の件は仕方ないとしても、自分も容疑者としてナギサに疑われていた事を自覚し、もの悲しい感情と、何とも云えない寂しさを覚えたのだ。少なくともヒフミは、ナギサという生徒に対し――本当なら恐れ多くて口には出来ないけれど、友達だと、勝手にそう思っていたから。

 

「た、確かに親しくして頂いていましたが……ど、どうして私なのでしょう? その、私にもちょっと、分からなくて」

「あー……っと、ね」

 

 ヒフミがそう告げれば、先生はどこか気まずそうに声を上げる。その様子に何か知っているのだと感じたハナコは、先生に疑問を投げかけた。

 

「先生、何かご存じで?」

「まぁ、うん、そうだね……」

「せ、先生、私、何かやっちゃいましたか……?」

 

 ヒフミは、どこか戦々恐々とした様子で先生に問う。その、酷く不安そうな様子に、これは黙っておくのも良くないかと考え、先生は慎重に言葉を選びつつ口を開いた。

 

「ここだけの話にして欲しいんだけれどさ、ほら、ヒフミ、その――」

「その……?」

「アビドスで、何て云うか、水着――」

「えっ……水着? 一体なん……の――あ、ああぁああッ!?」

 

 理解するまで、一瞬間があった。水着、という単語にヒフミは首を傾げ、更にアビドスという単語に目を瞬かせる。アビドスで水着、何の関連性が、そう思い、しかし思い当たる事柄が一つだけある事に気付いた。そう、口に出す事も憚られる、ブラックマーケットでの出来事である。

 彼女は以前、ブラックマーケットでも最大規模の銀行に対し強盗を敢行していた。しかも、その主犯格として祭り上げられた状態で。

 

「え、あ、あれ、アレですか!? アレが原因なんですかっ!? い、いえ、確かにやらかしてしまった自覚はありますけれどもっ!?」

「水着? ヒフミちゃん、アビドスで何か、水着になってはっちゃけたりしたんですか? 一体どのように? どこで? どんな水着で?」

「ち、違いますっ、制服ッ、制服でしたからぁッ!」

 

 正確に云えば、制服にたい焼きの紙袋を被って――だが。

 

「んんッ、兎に角、ヒフミ自身に原因がある訳ではないのだけれど、色々と誤解が重なってね……ん、いや、誤解かな、これ?」

「ご、誤解ですよ! あれは何と云うか、流れと云うか、やむにやまれぬ、というか……!」

 

 ヒフミは慌ててそう弁解する。彼女自身、決して自分から望んだ事ではない。不本意な事であったのは確かだった。

 

「……分かりました、何やら訳ありみたいですし、深くは聞かない事にしますね」

「うん……ありがとう、ごめんね、ハナコ」

「いえ、人は誰しも知られたくない事の一つや二つ、あると思いますから」

 

 そう云って微笑むハナコ。しかし、何故だろう、彼女がそう口にすると何か卑猥な事を隠している様な事に感じてしまうのは。ヒフミも何か言いたげであったが、これ以上何かを口にして墓穴を掘るのを嫌ってか、ぐっと言葉を呑み込む様な仕草を見せた。ハナコのどこか、「私は分かっていますよ」とばかりの菩薩の様な視線が辛かった。

 

「……兎も角、アズサちゃんとは後で少しお話をしてみた方が良いかもしれません、その他についても幾つか、私の方で確認してみます」

「うん、お願い」

「何かありましたら、私達の方でも情報を共有して頂けると嬉しいです」

「分かりました……という事は私も、この深夜の密会に参加させて頂けるという事でよろしいですか? うふふっ、嬉しいです♡」

「し、深夜の密会、ですか」

「えぇ、深夜の密室で、三人寄り添って秘密の遊びだなんて……ドキドキが止まりません♡」

「そ、その云い方はちょっと……」

 

 まるでこの部屋でイケナイ事をしている様な云い方ではないか、先生は思わず唸りを上げた。成程、けしからん。

 

「っと、そろそろ良い時間だ、明日に備えて寝た方が良いね」

 

 時計の針は既に、深夜に差し掛かろうとしていた。

 

 ■

 

「んぅ……といれ……トイレ……」

 

 薄暗い廊下を、月明かりのみを頼りにふらふらと歩く。不意に催し、ベッドを抜け出したコハルは未だ眠たげな瞼を擦りながら、覚束ない足取りで進んでいた。既に時刻は深夜を回り、周囲は静けさに包まれている。夏の夜は肌寒く、コハルはずり落ちそうになる体操服を何度も手で直しながら頭を揺らして周囲を見ていた。

 

「……あれ? ここ、先生の部屋」

 

 ふと、コハルは先生の部屋から明かりが漏れ出ている事に気付く。扉の隙間から差し込む光は、先生がまだ起きている証拠だ。こんな夜中に、一体何をしているのか。コハルは内心で疑問符を浮かべる。超健康優良児ことコハルは、時計が十時も回れば既に眠気がやってくるという体質だ。大抵は十一時には布団の中だし、そうでなくとも日付を跨ぐ前には必ず夢の中に居る。そんな彼女にとって、真夜中の時間帯というのは未知の領域――さらに先生が大人である事を加味すると、何かこう、イケナイ事をしているのではという好奇心が芽生えて来た。

 しかし、そんな妄想と共に猫目になりかけたコハルは、慌てて頭を振り思考を追い払う。恐らくだが、また夜遅くまで授業の準備や、模擬試験の問題を作っていたりするのだろう。先生の事だ、きっとそうに違いない。

 

 ――いつも迷惑ばっかり掛けているし、ちょっとくらい手伝ったり、してあげても……。

 

 コハルはそんな心配半分、好奇心半分、後はほんの少しの下心に従い、そろそろと先生の部屋、その扉の前まで足を進めた。

 

「先生、こんな時間まで起きて、一体何して――」

「それでは先生、ありがとうございま……あれ?」

「!?」

 

 そして、いざコハルがドアノブに手を伸ばそうとした瞬間、扉は独りでに開き――中からヒフミが顔を覗かせた。コハルは突然の邂逅に飛び上がり、そしてその友人が今しがた先生の部屋から出て来たという事実に驚愕し、思わず叫んだ。

 

「ひ、ヒフミ!? こ、こんな夜遅くに、先生の部屋で一体何を……っ!?」

「ふふっ、ではまた、夜の密会を楽しみに――あら?」

「……………!?」

 

 そして、更に続く第二波。

 ヒフミに続く形で現れたのはハナコ、それも――水着姿で。

 それは最早、中で何をやっていたのかという状況証拠としてはこれ以上ない程に完璧で、コハルの頭の中ではヒフミと先生とハナコが大乱闘で、スマッシュで、シスターズで、『シャーレの先生、参戦!』で真っピンクだった。

 

「さ、三人、三人でっ、夜の密会……!? 馬鹿、ヘンタイ! 淫乱族ッ!」

「ご、誤解です!?」

「あら、ふふっ♡」

 

 真夜中の廊下に、コハルの絶叫が鳴り響いた。

 


 

【サクラコ様の絆ストーリー】

 

「ふぅ……」

 

 重く、魂が抜け落ちてしまいそうな溜息が漏れた。それが無意識の内に漏れ出た事に気付き、また溜息を吐きたくなる。目の前には山積みの書類、座っていると向こう側が見えなくなりそうな程に重なり、その天辺に手は届きそうにない。今日は通常より早くこの席に着いたというのに、その量は減っている様には思えず――。

 肩を軽く回し、ペンを持つ手を開閉する。骨が鳴る音が聞こえて、彼女――サクラコは思わず苦笑を零した。

 

「サクラコ様、追加の書類を――」

「……其処に置いて下さい、後で処理します」

「あっ、はい、わかりました!」

 

 そんな彼女の元へ届けられる追加の書類。表に出すべきではないと分かっていながら、思わずげんなりとした顔を晒してしまう。

 件の条約以降、ティーパーティーの権威は失墜し、シスターフッド、救護騎士団、ティーパーティーがそれぞれ直接的にしろ、間接的にしろ政に関与する事と相成った。そのトップに位置するサクラコの業務も随分増え、特にトリニティ全体で動く事があるとコレだ。サクラコとしてはトリニティの政治になど全く関わりたくもないし、興味もないが――外からはそう見られないだろう。恐らく、ミネ団長も同じような境遇にある筈だが。

 

「あの人は、きっと弱音なんて吐かないでしょうね……」

 

 呟き、サクラコは自身の頬を軽く張ると、ペンを握り直した。

 どちらにせよ、やらねば終わる事もない。

 

「さて、では仕事の続きを――あら?」

 

 再び書類と向き直った所で、再びノックの音。サクラコは恐らく、また追加の書類だろうとあたりを付け、努めて声色を維持しつつ声を出した。

 

「……どうぞ、追加の書類でしたら、そこに」

「――やぁ、サクラコ」

 

 しかし、扉を開けて入室して来た人物、その思わぬ声に顔を上げる。扉の前には、シスターフッドの中ではあまり見ない、白い制服を着込んだ人物が立っていた。いつも通りの涼やかな笑みを浮べつつ、彼はサクラコを見る。

 

「っ、先生?」

「おはよう、突然ごめんね?」

 

 驚きの表情を浮かべるサクラコは、暫しの間思考を停止させる。こんな朝早くから一体、先生がシスターフッドに何の用事だと。まさか、また業務が増えるのだろうか? その事を考えると、先生と会えた喜びと、この先の会話を思い、苦しさが半々と云った所だった。先生はそんなサクラコの前まで足を進めると、くたびれた彼女の表情を伺い、苦笑を零す。

 

「……やっぱり、思った通りだ」

「えっと、何か此方(シスターフッド)にご用事でも?」

「うん、用事というか、何と云うか――」

 

 サクラコの顔色が明らかに悪い。これは、思った以上だなと先生は思考しつつ、彼女の顔をじっと注視していた。当のサクラコは、最近肌の手入れも出来ていない事に気付き、慌てて顔を背ける。

 

「な、何でしょう? 余り直視されると、その……」

「あぁ、ごめん、ヒナタやマリーから相談があってね、それにハナコからも……サクラコが業務で根を詰め過ぎているから、何とかして欲しいって」

「! 皆が、その様な――」

 

 並ぶ名前に、彼女は驚いた様な表情を浮かべる。その気遣いを嬉しく思いながら、サクラコはそっと微笑んだ。

 

「それは、有難い事ですね……しかし、これは私がやらねばならない事です、皆の気持ちは嬉しいですが――」

 

 自身の職務を放棄する訳にはいかない。自分が一日休めば、その分シスターフッドの歩みは数日遅れ、そこから他の派閥との擦り合わせが一週間遅れ、結果的にトリニティ全体の動きが一ヶ月遅れる。巡り巡って、というものだ。辛くないと云えば嘘になるが、責任感の強い彼女からすれば、決して許容できないものだった。

 

「……まぁ、簡単に頷いてくれるとは思っていないよ」

「では――」

「――という訳で、無理矢理休暇を取って貰います」

「……えっ」

 

 先生ならば分かってくれるだろうと、安堵し胸を撫で下ろした瞬間、先生が二度、響かせるようにして手を叩いた。瞬間、開く執務室の扉。そこから入室してくるのは見慣れた二人組。

 

「し、失礼します……」

「お、お邪魔いたします……」

「えっ、ヒナタ? それに、マリーまで……!」

 

 唐突な登場に目を白黒させるサクラコ。そんな彼女を横目に、素早くサクラコの背後に回り込んだ先生は、彼女の肩を確りと掴む。

 

「流石にシスターフッドの執務作業を外部の生徒に任せる訳にはいかなかったので、マリーとヒナタに業務を変わって貰う事にしました、二人の分担は心優しいボランティアの生徒達が担当してくれるから、安心してね!」

「えっ、えっ……?」

「さぁさぁ、今日はもう休憩の時間だよ~」

 

 云うや否や、有無を言わさず彼女の体を椅子から立たせる。そしてそのまま背中を押すと、執務室から押し出すようにしてぐいぐい前進させた。サクラコは突然の事に狼狽えながらも、マリーとヒナタに視線を投げかける。

 

「え、あ、ちょ、先生? ま、マリー? ヒナタ?」

「流石に、その、最近頑張り過ぎていると思いましたので……」

「サクラコ様にも休息が必要かと……」

「という訳で、ご案内~」

「あ、先生、ちょ、ま、待って下さい、私には、私の役割が――っ!」

 

 しかし、彼女が全てを云い切るより早く――執務室の扉が音を立てて閉まった。

 先生とサクラコの背中を見送った二人は、そっと溜息を吐き出す。

 

「……ふぅ、少し強引でしたけれど……良かったのでしょうか?」

「こうでもしないと、サクラコ様は休んで下さらないでしょうし……」

「――そうですね、責任感の強い方ですから」

 

 そう云って二人は互いに顔を見合わせ、苦笑を零した。それを肩代わりするのも、仲間の、友人の役目だろう。机の上に鎮座する書類の山を前にして、マリーとヒナタは腕捲りをし、強い意気込みを見せた。

 

「……さて、私達も、私達の役割を果たしましょう、サクラコ様が安心して休めますように」

「は、はい! 頑張りますっ!」

 

 ■

 

「はい、という訳で到着しました、トリニティの中庭です」

「………?」

 

 麗らかな日差し、心地良い風、そして爽やかな空気。整然と手入れされた芝生に、左右を彩る並木。中央には広場とは異なる小さな噴水も完備され、正に中庭といった風景。本校舎内部にあるそれは、見慣れた景色ではあるが利用した機会は数える程しかない。突然の事に目を白黒させているサクラコは、ただ茫然と目の前に広がる光景を眺めていた。おかしい、私は先程まで書類の山と格闘していた筈だというのに、私は、一体、何を……?

 

「――さぁ、サクラコ、今日は何をしたい? このまま宿舎に帰って一日寝て過ごすも良し、本を読んで優雅に過ごすも良し、どこかにお出掛けするならそれも良し……あっ、戻って仕事っていう選択肢はないからね、二人の気持ちが無駄になっちゃうから」

「……ふぅ」

 

 サクラコは隣でニコニコと微笑む先生を眺めながら、暫くして息を吐き出す。執務室で零したものとは異なる、重いものではなく、それは呆れと僅かな喜色の含まれた溜息だった。

 

「先生は、何と云うか……こういう時だけは強引ですね、いつもは生徒を立てて下さるのに」

「それ位、サクラコが頑張り過ぎていたって事だよ」

 

 先生がそう云うと、サクラコは頬を紅潮させながら視線を逸らした。彼女自身、自覚はあったらしい。そして周囲に生徒の姿が無い事を確かめると、渋々と云った体で休暇を呑み込んだ。

 

「……分かりました、此処までお膳立てされては休むしかありません、有難く休暇を頂きましょう」

「それは良かった――それで、ご予定は?」

「御一緒して下さるので?」

「当然、そう頼まれているからね」

 

 そんな先生の言葉に、サクラコは少し考える素振りを見せると。

 

「それなら……一つ、前々から気になっていた場所が」

 

 どこか、瞳を輝かせながらそう告げるのだった。

 

 ■

 

「このチーズ・デラックスケーキを一つと、特製濃厚プリンを一つ、あとスノウクリームパフェに、紅茶を一つ下さい、あとは……――あっ、先生は如何なさいますか?」

「……えっと、じゃあこの抹茶プリンと、彼女と同じ紅茶で」

「は~い、注文承りました~!」

 

 先生とサクラコの注文を聞き届け、店員は元気に走り去って行く。

 

「……行きたい場所って、此処の事だったんだ」

「えぇ、前々から目を付けていたのですが――」

 

 そう云って嬉しそうに周囲を見渡すサクラコ。二人がやって来たのは、トリニティ自治区郊外にある、小ぢんまりとした喫茶店であった。平日である事も相まって、ちらほら人の姿は見えるものの、休日程ではない。メニュー表を指先でなぞりながら、サクラコはとても楽しそうに笑っていた。

 

「平日に学業や仕事を放って来る訳にもいきませんし、立場上気軽に出歩ける訳でもありませんので……こういう時位しか、来る機会がありません」

「そっか、じゃあ今日はお腹一杯食べないとね」

「えぇ、云われずとも、普段食べられない分堪能させて頂きます」

 

 その言葉に、先生は思わず笑みが零れる。それをどういう風に捉えたのか、サクラコは不満そうに眼を細めた。

 

「先生、何かおかしなことでも?」

「あぁ、いや、ごめん、ただ皆スイーツが好きなんだなぁって思って」

「……もしかして、私以外の方とも此処に?」

「放課後スイーツ部の皆とね」

「あぁ――」

 

 先生がそう口にすると、彼女は納得の色を見せた。

 

「確かに彼女達なら、トリニティ自治区の甘味は軒並み味わい尽くしていそうですね」

「おかげで私も随分この辺りのスイーツに詳しくなったよ……今度からは、甘味の差し入れを持っていくね? 甘いもの、かなり好きみたいだし」

「いえ、その様な事は……」

「それとも――」

 

 頬を紅潮させ、視線を逸らしたサクラコを前に、先生はテーブルに肘を突いて微笑んだ。

 

「たまにこうして、二人で抜け出してデートでもしようか?」

「でー………――っ!?」

 

 その言葉に、サクラコは自分が今、どういう状況なのかを理解する。

 異性が二人、喫茶店で相席をしつつ歓談する。これは確かに、外から見ればデートなのでは? 遅まきながらその思考に至った彼女は、先程の数倍顔を紅潮させ、僅かに腰を浮かせると早口で捲し立てた。

 

「い、いえ先生!? これは私の休暇なのですから、で、でっ、デートなどでは決して……!?」

「あははっ、ごめんごめん、ちょっと揶揄っただけだよ」

「からかっ……!? ま、全く、先生は――!」

「そうじゃないなら、今度からはちゃんと休息も取ってね?」

 

 声のトーンを少し下げ、先生は心配げにサクラコの目元をそっと拭う。そこには、化粧では隠しきれない疲労の痕が残っていた。

 

「ちゃんと眠れている? 顔色、良くないから」

「……大丈夫です、体調管理はきちんと行っていますので」

 

 呟き、サクラコは先生の指先をそっと押し戻す。その表情はどこか陰があり、いつも凛とした彼女らしくないものだった。それを自覚しているのか、どこか重々しい口調で彼女は呟く。

 

「何だか最近、その……妙に落ち着かなくて」

「落ち着かない?」

「はい、何か、こう……嫌なものがやって来るような、酷く、不安になるような――」

 

 そう云って、サクラコは自分の胸元を撫でる。漠然とした不安、出所の分からない恐怖、まるで悪夢を見た後、その内容を覚えていないのに、ただ恐ろしかった事だけを記憶している様な――そんな不快感。

 最近、そういった感情の波が良く彼女を襲っていた。しかし、そんな原因不明の漠然とした代物を相談した所で、どうなるものでもない。

 きっと、気のせいだろう。或いは忙しさに精神が少し弱っているのかもしれない。彼女は自分にそう言い聞かせ、首を振った。

 

「……いえ、忘れて下さい、きっと先生の云う通り疲れているのでしょう――帰ったらゆっくりと眠って、疲れを取ります」

「……そっか」

「お待たせしました~、此方ご注文の品です~!」

 

 言葉が途切れた瞬間、まるで図ったかのように注文品が届く。

 次々とテーブルに並べられる品々、ケーキに、パフェに、プリンに、紅茶。それらを前にした時、サクラコの纏っていた先程までの陰鬱な気配は消え去り、その瞳は物理的に輝いてすら見えた。

 

「これは、この輝きは……まさに……!」

「……さて、それじゃあ暗い話はこれでおしまいにして、頂こうか?」

「は、はい! では、さっそく――」

 

 そう云って、待ちきれんとばかりにフォークを手に取り、逸る気持ちを抑えながらケーキに先端を差し込み、掬い上げる。そして目前まで持ち上げたそれを、どこか恍惚とした表情で見つめながら――一口。

 

「……ん~っ!」

 

 口に入れた瞬間、彼女は満面の笑みを浮べ、先生はサクラコの背中に満開の花を幻視した。

 

「はぁ~……このような立場になった事を後悔してはいませんが、やはりこういったものを普段から食べられない事だけは、少々残念に思いますね……あむっ」

「甘味、余程食べたかったんだねぇ」

「えぇ、それはもう!――簡単には食べられない状況に在るというのに、あのスイーツは美味しいですとか、どこどこの御店が新作を出しましたとか、そう云った話ばかり耳にするものですから……殆ど、生殺しです」

「確かに、トリニティではその手の話題に事欠かなさそうだ」

「はい、ティーパーティーのナギサさんなど、紅茶の添え菓子として甘味調達を頼んでいるという話ですし、甘いものが嫌いな女性は中々居ませんよ」

「なるほどね……ハスミなんかも、似たような事を云っていたなぁ」

「えぇ、そうでしょう、そうでしょう」

 

 彼女は、良く分かるとばかりに頷く。そして二度、三度、ケーキを口に運んだ後、ふと、何かを思い立ったとばかりに目を瞬かせ、咳払いをした。

 

「んんっ……それはそれとして、先生?」

「うん?」

 

 先生はプリンを掬い、口を開いたまま疑問符を浮かべる。

 彼女はそんな先生の間抜け面を見つめながら、酷く真剣な表情で言葉を紡いだ。

 

「一応……い・ち・お・う、ですがっ……デートと口にしたというのに、他の女性の名前をそう出すのは如何なものでしょう? その、一般的なデートの在り方として、あまり褒められた事ではないかと思いまして――」

「―――」

 

 その言葉に、先生は面食らった様に硬直し。

 そしてサクラコが再び、「先生?」と名を呼べば。

 先生は思わず破顔し、大口を開けて笑った。

 

「あははははっ!」

「せ、先生? 何故笑うのですか!?」

「あぁ、いや、ふふっ……ごめんね? 悪気はないんだよ、ただその、何て云うか――」 

 

 笑みを噛み殺しながら、先生はとても――とても嬉しそうに云うのだ。

 

「サクラコの新しい一面が見れて、嬉しくて、つい――」

「あっ……」

 

 そう口にされて、サクラコは自分でもらしくない事を口走ったと、漸く気付いた。シスターフッドのトップとして肩肘を張り、あらゆる物事に真剣に取り組み、教義を一とし真摯に日々を生きる。シスターとしての在り方に、他者に嫉妬を示すなんて規範は存在しない。それは、全く以て彼女らしからぬ言葉だった。

 それはどこにでもいる、普通の、ありふれた少女が口にするべき言葉だ。

 

「す、すみません、先生、その、私らしくもない、立場を忘れて――」

「いいや、シスターフッドとしてではなく、ただの一生徒として――私の前では、そう在ってくれた方が嬉しいんだよ」

「………」

 

 続けざまにそう告げられ、サクラコは思わず俯き気味にフォークを齧る。行儀が悪い事は分かっていたが、今だけは先生を正面から見る事が出来なかった。

 何と、無様な。

 内心でそう悪態を吐く、どのような場所であれ、時であれ、シスターフッドの誇りを忘れず、教えを守る。それがサクラコの在り方の筈であった。

 だと云うのに、この人は――。

 

「ずるい人ですね、先生(あなた)は――」

「大人は、そういう生き物らしいよ?」

「全く……」

 

 呟き、サクラコは少々乱暴にケーキを切り分ける。そしてその内の一ピースを突き刺し、先生の口元に差し出した。それは、吹っ切れた彼女なりの報復であり、挑発でもあった。顔を赤くしたまま、どこか挑む様な視線でサクラコは問い掛ける。

 

「――なら……責任を持って今日は付き合って貰いますからね、先生?」

「勿論」

 

 応え、先生はそれを口に含んだ。

 まさか、躊躇わず口に含むとは思っておらず、サクラコは思わず言葉に詰まる。先生は口元に付着したクリームを指先で拭うと、目の前で言葉を失う彼女に微笑んだ。

 

「――サクラコの、気の済むまで」

「っ……!」

 

 顔を背け、背筋を正すサクラコ。先生は笑みを噛み殺しながら抹茶プリンを掬い、サクラコに差し出す。

 

「こっちの食べるかい? 美味しいよ? ほら、あーん……」

「け、結構ですので! 私は、私の分だけでお腹がいっぱいです……!」

「えー、サクラコからやって来たのに……」

「せ、先生っ!」

「うぉっ!? ご、ごめんて……」

 

 羞恥心が天元突破したサクラコが、先生の腕を掴む。その力強さに先生は苦笑を浮べ、慌てて謝罪を口にした。

 その後、なんやかんやあり、「喫茶店ではお静かに」と注意を受けて二人で平謝りしたり、スイーツ巡りをして、マリーとヒナタの為にお土産を買ったり、公園に寄り道してクレープを半分こしたりしちゃって。

 休日としては、少し歩き疲れてしまったけれど。

 

 こんな一日も、そう、全く以て――悪くない。

 

 サクラコは強く、そう思うのだ。

 

 ■

 

【あまねく希望の終着点。】

 

 ■

 

 古き良き大聖堂。

 そのステンドグラスから差し込む光は、紅く、昏い。

 それは、世界(キヴォトス)終焉の兆しであり、外宇宙からの侵略、その証左でもあった。

 吹き抜けのステンドグラスは酷く幻想的で、だと云うのに今は恐ろしく感じる。立ち並ぶ木製の長椅子、その中心に敷かれるカーペット――そこに点々と続く、血痕。

 荒い息を必死に整えながら、先生は呼吸を繰り返す。厳粛で静謐な空間の中に、その音だけが響いていた。

 

「ぐ、ふぅ、はぁ……ッ……!」

 

 たった一呼吸、肺を使うだけで――骨が、軋む。

 まるで全身が締め付けられているかのような痛み、倦怠感。先生は床に落ちた己の手を見る、指先(末端)から黒く、罅割れていく、己の肉体。こんな状態になっても尚、未練がましく抱えているシッテムの箱を覗き込めば、其処には酷い顔をした己の顔が映っていた。血に塗れ、黒ずみ――極彩色の瞳をした、先生(わたし)

 

「――随分と、酷い、顔じゃないか……」

 

 思わず、呟く。

 笑おうとして、けれど痛みに引き攣った声しか出なかった。アロナが見たら、きっと頬を膨らませて怒るに違いない。いや、もっと酷いかな、一日位、口をきいてくれなくなるかもしれない。そんな他愛もない事を考えて、先生は前に進もうとした。けれど、身体はもう、いう事を聞いてくれそうにない。

 この、大聖堂にやって来るだけで精一杯だった。

 先生はカーペットに座り込み、長椅子に肩を預ける。動こうとしなければ、随分と楽になる気がした。憎たらしい程に美しい硝子が先生を見下ろす。

 何故、この場所を選んだのか――自分でも、良く分かっていない。

 惨めに人目を避けて、這い蹲りながら、こんな場所に、どうして、私は――。

 

「っ、はぁ、ハッ! いたっ、先生――!」

「っ……!」

 

 不意に、先生ではない声が聖堂に響いた。

 彼がゆっくりと振り向けば、其処には見覚えのある生徒が立っていた。彼女はいつもとは異なる、やや乱れた格好と髪のまま、息を弾ませ先生を見つめる。開け放たれたままの扉を駆け抜け、彼女は先生の名を呼んだ。

 思わず、呆然と彼女の名前を呟く。

 

「サク、ラ……コ?」

「やはり、此処にいらっしゃいましたか……!」

 

 先生の声は、掠れていた。最早、声と判別するのも難しい程に。

 彼女――サクラコは愛銃を抱え、足早に先生の元へと進む。そして近付けば近づく程分かる、先生の容態。彼女の表情が険しくなるのが見えたのだろう、先生は地面に腰を落とした格好のまま、そっと半身を隠すようにして身を捩った。

 彼女は先生の傍に屈むと、自身でも驚く程、緊張に強張った声を発した。

 

「……先生、手を」

「………」

「先生」

 

 俯いたまま、何も口にしない先生に痺れを切らし、サクラコは強引にその腕を掴む。そうして触れた感触に、思わず顔が歪んだ。指に伝わるそれは、最早柔く、脆く、脆弱だった。

 少し掴んだだけで――崩れてしまう程に。

 

「……これは、何ですか?」

「あはは……え、っと……なん、だろうね?」

 

 そう云って、必死に表情を取り繕うとする先生。笑おうとして、けれど口元が引き攣り、上手く笑えない。サクラコは、そんな先生の表情を直視し、思わず歯を食い縛った。然もすれば、叫び出したくなる様な衝動に駆られたからだった。掴んだ先生の腕の先は、真っ黒に歪み、罅割れていた。それを必死に隠そうとする先生は、余りにも痛々しい。この期に及んでも、最後の一線を踏ませようとしない先生に、彼女は叫んだ。

 

「あなたはっ……また、全部抱え込んでッ! 何故、そうも――!?」

「ごめん、ね……こればっかりは、私がやるべき……事だったから」

 

 呟き、痛みに呻く。声には、殆ど力が籠っていなかった。然もすると、次の瞬間には意識が飛びそうになるのか、先生の吐息が強弱を繰り返す。

 

「先生? 先生……!」

「……これは、代償――なんだ」

 

 ぽつりと、先生はそれだけを呟いた。代償? サクラコは口の中で繰り返す。

 この肉の体に潜むソレが原因でもあり、そして――今まで積み重ねた、奇跡の代償でもある。このキヴォトスという世界を守るために、幾度となく切った不可逆の奇跡。それが今、目に見える形で先生を蝕み始めた。

 先生にとっては、ただ、それだけの事。

 

「代償? 先生、それは何なんですか? それを、治す手段は……!?」

「………残念だけれど、ない、かな」

「っ、此処には救護騎士団だってあります、それにゲヘナの救急医学部でも、ミレニアムサイエンススクールにだって、協力を仰げば……!」

「――無理、なんだよ」

 

 サクラコらしからぬ、焦燥を滲ませた叫びに先生は淡々と答えた。表情は、穏やかであったとさえ思う。それは、全てを受け入れている様に思えて、彼女にとっては我慢ならぬ事であった。諦めを滲ませる何て、先生らしくない。彼は、こんな状況を幾度も乗り越えて来た。ならば、今度も――そう思ってしまう。

 けれど、事実手が無いのだから仕方がなかった。それを先生は懇々と説く。

 

「奇跡は、不可逆だ……なら、その代償もまた、不可逆だろう……?」

「そのような事は――!」

「それに、状況は良くないが……最悪じゃない」

 

 呟き、先生は手にしたタブレットを見た。既に電源が切れ、真っ黒なモニタ。そこに映る酷い顔の自分を直視する度に、苦笑が漏れる。今にも泣きそうな、情けない顔じゃないかと。

 二度、三度、電源ボタンを押し込むが――やはり、起動しない。先生は自身の指に備え付けられた銀色を見て、それをそっと握り込んだ。シャーレも、サンクトゥムタワーも、今は只の塔に過ぎない。

 切り札(奇跡)も、起きない。

 

 なら、先生に出来る――最期の役目は。

 

「サクラコ……」

「っ、はい、先生……!」

 

 サクラコは先生の傍に跪いたまま、俯き、声を絞り出す。

 先生は、最後の力でそっと、懐から何かを取り出した。

 それは、シャーレに支給されてからずっと――一度も使う事がなかった、先生にとって馴染ないもの。ある意味このキヴォトスで生きる人々にとっては必需品で、先生にとってはそうではないもの。

 連邦捜査部、シャーレのエンブレムが刻まれた――拳銃だった。

 サクラコは、取り出されたソレを、愕然とした表情で見つめる。

 最悪の想像が、頭を過った。

 

「――……先生?」

「ごめ、んね……もう、腕を、動かす……のも、億劫なんだ」

 

 途切れ途切れの言葉と共に、差し出される拳銃(ソレ)

 サクラコはそれを、この世で最も恐ろしいモノを見るかのような目で見ていた。

 これから先生が何を云い出すのか、彼女には分かった。

 分かっていて、どうか間違っていますようにと願った。云わないでくれと、口にしないでくれと、自分にそれを任せないでくれと。その役割だけは、私に担わせないでくれと。

 痛烈に、切実に、これ以上ない程、強く思った。

 けれど、現実と云うのはいつも彼女に牙を剥く。

 先生の黒ずんだ手が、サクラコの手に、拳銃を押し付けた。

 サクラコの表情が、遂に歪んだ。その唇が震え、目尻に涙が滲んだ。先生は、もう殆ど見えなくなった目で、彼女を見る。真っ直ぐ、その瞳を。

 

「――頼むよ」

 

 その一言だけが、聖堂に響いた。

 サクラコはただ、じっと俯いたまま、肩を震わせる事しか出来なかった。

 

「……他に、手段はないのですか」

「……うん」

「……先生が助かる方法は、ないのですか」

「内に、入られちゃった、から……難しい、ね」

「……時間を掛ければ、きっと」

「生徒、達を……汚染、させたく、ないんだ……」

 

 此処で私諸共死ぬのが、恐らく、最も被害が少なく済む。

 その言葉に、サクラコは思わず床を殴りつけた。彼女らしからぬ、やり場のない怒りや悲しみ、憎悪と云った感情に流された結果だった。聖堂の床が砕け、カーペットが窪む。彼女は荒い息を繰り返しながら、自身の頬を伝う涙を自覚した。涙が止まらなかった。感情の波が向けられるのは、自分だ。何も出来ぬ、自分自身。こうして、嘆き、悲しみ、怒り、狂い掛ける事でしか己を保てぬ弱さ――それこそ、自身が捨て去りたかった筈のものなのに!

 先生は、そんな彼女をただ、じっと見つめていた。

 

「……ごめん、サクラコ……ごめんね」

「――……謝らないで下さい、先生」

 

 それは、私達の台詞の筈だ。

 その言葉を、サクラコは辛うじて飲み込んだ。それを口にした所で、返って来る言葉が容易に想像出来たからだった。それは、これから散り行く先生にとって重荷でしかない、背負うのは私だ、私達だ――それだけは間違ってはいけなかった。

 サクラコは静かに立ち上がる。震える指先で、受け取った銃の安全装置を弾き、そっと構える。

 何て事の無い拳銃だった、普段扱い慣れた愛銃に比べれば羽の様な軽さだった。

 けれど今は、何よりも――重い。

 それも、仕方ない事かもしれない。その銃口を、絶対に向けないと誓った相手に向けているのだから。だから、視界が滲むのも正常で、銃口が定まらないのも正常で――。

 

 ――古い、経典の話ではありますが。

 

「先生、先生……」

「う、ん……何、だい……?」

 

 構えた銃口が震えた。いや手全体が震えていた。引き金に伸びる指先が、凍る様に冷たい。グリップを握る手に力が入らない。油断すると、歯が鳴り始めそうだった。それは恐怖だった、或いは、それを上回る何かだった。

 人は、それを以て絶望と呼ぶ。

 

 ――主が人と成る奇跡を『受肉』と云い、それは主の性質に人としての性質を付け加えるのだと云います、主である事をやめるのではなく、御子である主のまま人となられるのだとか。

 

「こ、こんな、こんな最期の為に、あなたは……先生は、此処までやって来たのですか……? こんな、こんな……報われない、最期の為にっ……?」

 

 ――主でもあり、人でもある、半分ずつなどではなく、どちらの性質も完全に備える存在……主が人となって下さり、私達と共に歩み、寄り添って下さる、本来罪を嫌う筈の主が。

 

 涙交じりの声に、先生は答えない。

 ただその首が揺れ、最早頭を保持するだけの力もなく、視線が左右へと散り始める。浸食が進んでいる――きっともう、話す事さえままならない。首元まで滲み出す黒色は、先生の頬を食い尽くさんと手を伸ばす。

 サクラコの言葉を聞いているのか、いないのか、それすら分からない程に先生の体は崩れかかっていた。或いは、このまま何もせずにいるだけでも、先生はその存在を喪うだろう。けれどその先に待つのは――先生ではない何かだ。(奇跡は起こらず、必然が残る)

 

 ――それは、とても幸せな事だと思いませんか?

 

「わ、た……し、は――」

 

 先生の朧げな瞳が、サクラコを捉えた。

 もう、何も映していないであろう、極彩色の瞳が。

 もう、見えていない事は確かだった。それでもサクラコは、必死に笑おうとした。

 笑おうとして――失敗した。

 先生の瞳に映る自分は、大粒の涙を流しながら引き攣った笑みを浮べる、道化の様な顔をしていた。

 嗚呼、これでは、先生が安心して往けないだろう。そう自分に言い聞かせるのに、出て来るのは嗚咽と、涙と、震えばかり。

 

 ――私達と、人となられた主の違いは、たった一つ。

 

 無意識に、サクラコの手が伸びた。崩れかかる、先生の頬に。

 もうじき冷たくなるであろう、その()だらけの頬を。

 優しく、慈しむように、そっと、彼女の指が撫でた。

 

 ――罪を持つか、持たぬか。

 

「やだ……」

 

 先生、あなたは良く、罪悪という言葉を使っていましたね。

 

「撃ち……たく、ない……ッ!」

 

 腹の奥から、声を、言葉を、絞り出す。

 俯き、全身を震わせ、歯を打ち鳴らす彼女は赤子の様に背を丸め――けれどその指は、確かに引き金に届いた。

 あれ程凍り付き、伸びなかった指先が、漸く。

 銃口の揺れが酷い、狙いなど付けられない。

 

 嫌だ、撃ちたくない、殺したくない。何でこんな事になった? 何でこんな結末になった? 

 酷い、誰が、どうして、誰を憎めば、誰の責任で、どこで間違った。どうすれば、何をすれば、許せない、この人は――こんな死に方をするべき人ではないのにッ!

 

「サク……ラ、コ」

「ッ……!?」

 

 先生の声が、サクラコの鼓膜を震わせた。

 その、崩れかかった手がそっと、銃口に添えられる。

 ぴたりと、銃口が先生の額に吸い付く。

 それを、サクラコは涙に塗れた表情で、見つめる。見つめるしかない。

 震えが――止まる、止められる。

 二人の視線が、重なって。

 サクラコは、呆然と声を返した。

 

「は……い、先生――……」

 

「……――ありがとう」

 

 ■

 

 (あか)が明ける。

 

 世界を覆っていた朱色が、蒼天へと塗り替わる。

 空は蒼く、雲は白く――聖堂に差し込む光は美しく、その紋様を照らし輝かせる。

 外から、誰かの歓声が聞こえた。暴走していたあらゆる存在が消滅し、消え去って行くのが分かった。先生の持っていたタブレットの電源が、再び入る。通信網が、回復する。

 一斉に鳴り響く、通知音――生徒達からの歓喜の声。

 先生が全てを解決したと信じて疑わない、無垢の声。

 

「あぁ……――」

 

 サクラコはそっと息を吐き出す。硝煙を立ち上らせる銃を手放し、その場に座り込む。自身の足を濡らす赤色を呆然と見つめながら、ただ、息を。

 胸が苦しかった、言葉はなかった。ただ、自分の為した結果だけが目の前に横たわっていた。その結末を、分かっていたと云うのに、結局最後まで自分は、自身の意思すら貫く事が出来なかった。

 ただ、先生に云われるがままに、先生に手を引かれるがままに――ありがとう、だなんて云わせて。

 微笑みを浮べたまま息絶えた、その表情が――。

 

「あ、ああ、ぁああ……――」

 

 頭を抱え、蹲る。先生の黒ずみ、崩れ落ちた腕に縋る。微かな体温を感じさせるソレに、嗚咽を零しながら。

 

 私は、正しきを為した。

 救いを、為した。

 これが、私が最後に出来る先生への恩返しであった。

 

 タブレットが鳴る。

 生徒達の歓声が響く。

 

 先生に送られるメッセージは(軈て怨嗟に変わる声は)、止まらない。

 

 

 この後、急激に空が元の蒼穹に戻った事に喜ぶ補習授業部と、唐突に脅威が去った事に疑問を抱くハナコが、「もしかしたら――」と仮説を立て、古聖堂に向かって欲しい。そこで呆然とした表情で座り込むサクラコと、長椅子に寄り掛って、静かに息絶えている先生を目撃するんだ。ヒフミは最初、それを眠っているだけか何かだと思って、「先生……!」と歓喜の表情で突撃するんだけれど、先生がどうなったのか察したハナコが、「待って、ヒフミちゃん……!」って叫んで、アズサも遠目から先生の状態を察知し、「ヒフミ!」って叫ぶんだけれど、その時にはもう直ぐ傍まで駆け寄ってしまって、額を撃ち抜かれた先生を見つけるんだ。うぅ、満面の笑みを浮べていたヒフミが徐々に血の気を喪い、「せ、んせ……い?」って力なく呟く姿を想像するだけで胸が暖かくなっちゃう……。

 

 生徒を傷つけたくないという想いからの先生独りよがりルートに入ると、多分こんな結末なんじゃないかなぁ。守護者相手に何度も切り札を切って、黒服から注意されていたのに、何度も何度も。それでも身を切り捨て続けた結果、侵略者と一緒に心中する事を選ぶんだから生徒達可哀そう……。

 

 因みに本編でもカードを使い過ぎるとこのルートに入りますわ~! 本編でも外伝(前世界)でもそうですけれど、先生には最後の最後に、たとえどれ程上手く事を運んで、生徒全員を救ったとしても、【必ず最期に絶大な代償と共に大人のカードを使う】必要がありますので、それまでに、ほんの少しずつでもカードを使っていたら、その積み重ねでアボンしますわよ~ッ! まぁこれは現時点での先生の結末なので、書いている途中に気が変わるかもしれませんが、その可能性は限りなく低いですわ~ッ! だって先生には最後まで苦しんで欲しいし。

 生徒に見られながら大人のカードを使って、その指先から徐々に罅割れ、黒ずみ、急速に死に向かっていく先生を眺めるのも一興でしてよ~? ほら、エンディングですわよ、泣きませんと。

 生まれた時は皆周りが笑って、あなたが泣いていましたわ。だから死ぬ時くらい、あなたが笑って、周りが泣いている最期を迎えたいですわね! 夢が叶いましたわ~ッ!

 よかったね先生。

 

 皆さんが何で前回我慢したのって云うから、ブッパしましたわよ。

 これが私の覚悟で過酷ですの。

 今回何万字になると思いまして? 今回25,000字ですわよ。一話にしては重すぎますわよマジで。1日10,000字投稿レベルじゃありませんの。私の中で「本編より文字数少ないからヨシ!」の理論が崩れますわ、理論は大事ですわよ、どれくらい大事かというとお弁当について来る緑のギザギザの奴くらい大事ですわよ。あれって何の役割で入っていますの? 見栄の問題ですの? 幼稚園とか保育園の壁に貼ってある草みたいな見た目ですわよね。

 因みにこういう「先生死亡シーン集、生徒の泣き顔を添えて」がBOOTHで百円で販売されておりますわ。興味のある方は探してみて下さいましね。大体実装されている生徒分は全部書きましたので。中には書き込み過ぎて五万字くらいいった生徒もいらっしゃってよ! 

 

 嘘ですわ。そんなもの存在しませんの、騙されてはいけませんわ。一回云ってみたかったんですの、「差分は〇ァンティアで!」とか、「〇OOTHで販売中です!」とか。何かクリエイターっぽいじゃありませんか。でも残念ですが今出せるものは全てハーメルンで無料公開されている分しかありませんの。ごめんあそばせ。

 それとサクラコ様、実装おめでとうございますわ、やはり覚悟を見せた方は違いますわね……私も、今回覚悟を示させて頂きましたわっ! 先生も手足を捥がれる覚悟をしておいてくださいねッ! エグイ角度のハイレグ着ろって意味ではございません事よっ!

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