ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に感謝の先生捥ぎ。


あなたはまだ、憶えていますか。

 

 トリニティ自治区、外郭大橋。

 その端へと車両を停車させ、先生はひとり夜空を見上げていた。大騒動の後だというのに、外郭地区は何事もなかったかの様に静寂で満ちている。シャーレの外套を羽織り、両手をポケットに入れたまま先生は小さく息を吐いた。

 

「ふーっ……」

 

 流石に、吐息が白く濁ったりはしないが、それでも頬を撫でる風は冷たく、先生はふと、アビドスでの夜を思い出す。向こうの夜も、確かこんな風に肌寒かった。

 

「やっぱり、夜は冷えるな――」

 

 そんな独り言を呟いていると、向こう側から光が差し込んだ。それは、ゲヘナの校章を掲げた装甲車のヘッドライト。黒い車体を夜の中に馴染ませながら、甲高いブレーキ音と共に車両は先生の傍へと急停止した。そして扉を乱雑に開け、飛び出す影が一つ。

 

「――お待たせしました、死体はどこですか?」

「……セナ、物騒な事云わないで」

 

 一見、装甲車とも見紛うそれ――緊急車両十一号から飛び出して来るや否や、その様な事を口走る彼女、セナに先生は苦笑を零す。

 先生の前へと立った彼女は白い髪をナースキャップで纏め、救急医学部の腕章を身に着けている。彼女は先生の周囲をざっと見渡した後、自身の言動に気付き、そっと頭を下げた。

 

「……失礼しました、先生、死体ではなく負傷者でしたね、偶に混同してしまって」

 

 いや、彼女の場合、偶にというか殆どの割合でそうだ。

 そんな言葉を呑み込んだ先生は、ポケットに入れていた両手を取り出し、そっと微笑む。

 

「久しぶり、セナ」

「えぇ、お久しぶりですね、先生」

 

 彼女は能面の様な表情を僅かに緩めながら、そう告げる。

 初対面だと分かり難いが、これでも彼女は確かに喜んでいる。口角の上り幅具合から見るに、大分、いや、かなり、だろうか。

 

「……個人的には先生との仲を進展させておきたいのですが、今は負傷者が先です」

 

 彼女は自身の頬を軽く手で叩き、そう云うや否や肩に掛けたポーチから端末を取り出す。液晶には今回受け渡しされる物品(犯人・人質)リストが表示されており、それを下までスクロールしながらセナは口を開いた。

 

「えー……納品リストには、新鮮な負傷者四名と人質一名、と書かれていましたが」

「新鮮……うん、えっと、一応彼女達は後ろの護送車に――」

「そちらでしたか」

 

 先生が云い終わるより早く、聞くや否や護送車の元へと駆け出すセナ。仕事熱心というか何と云うか、しかしそれもまた彼女らしいところだろう。その背中を見送る先生は、そっと肩を竦めながら運転席の正義実現委員会にハンドサインを送る。

 

「……全く、いつも通りね、あの子は」

「――ヒナ」

 

 不意に、聞覚えのある声が響いた。

 そちらの方に顔を向ければ、助手席から飛び降りる風紀委員長の姿があった。

 

「久しぶりね先生、いつぶりかしら……ところで、此処で何を?」

「トリニティとゲヘナの仲介役として、って云えば分かるかな」

「――そう、政治的配慮、って奴ね」

 

 先生の返答を聞いたヒナは、これ見よがしに溜息を吐き肩を竦めた。恐らく、彼女としても政治の絡む云々は避けたかったに違いない。心なしか、その表情はうんざりとしている。

 

「此処にヒナが居るって事は、そっちも?」

「えぇ、問題にしたくないのはこちらも同じだもの、だからこそ、公的にはこうして風紀委員会ではなく、こっちの『救急医学部』が来たって事になっているの……私は基本的に付き添い役」

「そっか、救急医学部はゲヘナでも政治的に関わり合いが薄い部活だもんね」

「そういう事」

 

 呟き、彼女は腕を組んだまま護送車の方へと目を向ける。そこには後部扉から美食研究会の面々を引き連れるセナの姿があった。一応、歩ける生徒の足枷は解き、緊急車両十一号へと乗車する様促す。美食研究会も事ここに於いて抵抗するつもりはないのか、粛々と指示に従って護送車から下車していた。

 

「――では、そちらの車両に」

「ん……」

「あら――」

 

 そして、先頭を歩くハルナとヒナの視線が交わる。

 

「ふふっ、ヒナさん、お久しぶりですわね」

「ハルナ、相変わらず……いや、詳しい話は帰ってからで」

 

 いつも通りの態度を貫くハルナに、ヒナは酷く面倒そうな表情を浮かべ、告げる。

 

「あの、セナさん☆ ちょっと私の腕の角度があり得ない方向に曲がっているのですが、診て頂けます?」

「うぇ、よ、酔った、吐きそう……」

「ぐーぅ……すぴぃ~……」

「た、助かった……」

 

 ハルナの後に続々と続く美食研究会。

 その最後尾で胸を撫で下ろすフウカを見て、ヒナは目を見開いた。

 

「あら、給食部の……今日一日見ていないと思ったら、こんな所に――今、学園でジュリが……いや、やっぱり説明は帰りながらで」

「えっ、な、何ですか、その不穏な台詞は……」

 

 私が不在の間、一体何が――そう呟き、戦慄するフウカは不憫に満ちていた。

 果たして彼女が報われる日は来るのだろうか。今度、何か高い調理器具とか、可愛い食器セットとか、総合ビタミンゼリーとか、持っていこう。先生は心の中でそう決めた。

 

「せ、先生も、ご迷惑をお掛けしました……今度、シャーレまで美味しいご飯を作りに行きますので!」

「あぁ、いや……寧ろ、大丈夫かい、フウカ?」

「――あはは、何と云うか、もう慣れっこ……ですかね」

「…………そっか」

 

 死んだ目で呟くフウカに、先生は言葉を失った。

 強く生きてくれ、フウカ、私に手伝える事があったら幾らでも手を貸すから……。

 先生には、心の中でそう呟く事しか出来なかった。

 

「先生、お世話様でした☆」

「うぅ……せ、せんせ、また今度~」

「すやぁ………」

「うん、まぁ、何と云うか、程々にね……?」

 

 アカリ、ジュンコ、そして爆睡するイズミが続々と緊急車両十一号へと乗り込んで――というか詰められていく。イズミを担いだセナは座席へとイズミを放る様に投げ込み、しかし当の本人はそんな乱雑な扱いを受けても一向に目を覚ます気配が無い。その睡眠の深さは羨ましくも感じてしまう。尤も、正義実現委員会の用意した強力な睡眠薬が原因の殆どだろうが。

 

「ふふっ、先生、色々と配慮して頂いた様でありがとうございます、今度、ゲヘナにいらした際は何か美味しいものでおもてなし致しますね」

 

 最後尾で振り向き、車両に足を掛けたハルナはそう云って先生に笑い掛ける。その表情は何の憂いもなく、いつも通り凛々しく、優雅で、このような騒動を巻き起こして尚、微塵も罪悪を感じさせない。それはある意味の長所であり、または短所であり。

 その微笑みが、いつかの幻影と重なった。

 

『なら、約束です……愛する御方と一緒に、一番好きな、食べ物を――……』

 

 先生は胸に湧き上がる感情を努めて押し込み、蓋をして、そっと微笑んで見せた。感情を抑え込むのは、得意だった。だから表情を取り繕って、いつも通り、何てことないように振る舞える。けれど、滲み出す感情は僅かな色を残し。

 どこか寂しそうに、悲しそうに、けれど同時に――嬉しそうに、先生は笑った。

 

「うん、楽しみにしている、私も……たい焼きを買って、会いに行くから」

「あら――」

 

 その一言と、滲み出る(感情)に、ハルナは面食らった様に目を見開いて。

 

「――えぇ、その日を心から待っております」

 

 ハルナは、華が咲いた様に笑った。

 彼女らしい、心からの笑みだった。

 心の底から、そう思っているのだと分かる輝きだった。

 そんな彼女の目尻から涙が、一粒零れ落ちる。

 綺麗に笑ったまま、たった一粒だけ。

 

「あ、あら……?」

「ハルナ?」

 

 ハルナは、自身の手を頬に当て、その感触で自身が涙を流しているのだと自覚した。一滴、たった一滴。その涙を指先で拭い、ハルナは目を瞬かせる。どうして自分が泣いているのか分からない、といった風に。

 

「ごめんなさい、変ですわね? 先生を見ていたら、何か、急に――」

「………」

 

 涙を流し、一番戸惑ったのは、流している本人だった。微かに濡れた指先を見つめながら、彼女は首を傾げる。悲しい訳ではない、寧ろ嬉しい位だ。先生と共に食べるたい焼きは、とても美味しい。自身の求める美食に最も近い位置にあるものだと、そう胸を張って云える。それをまた味わえるというだけで胸が躍る程に。

 だというのに、何故か――今だけは、酷く胸が苦しかった。

 

「……何処か、痛む場所でも?」

「いえ、身体はどこも問題ありません……恐らく、砂でも入ってしまったのでしょう」

 

 横でやり取りを見ていたセナが、そう問いかけ、ハルナは首を横に振る。二度、三度、胸に手を当てたまま深呼吸を繰り返したハルナは、いつも通りの姿勢を取り戻し、先生に向かって謝罪を口にした。

 

「――失礼致しました、先生、どうやら想像以上に、ふふっ、私は先生との会食を心待ちにしていた様です」

「……そっか、うん、それなら、なるべく早く会いに行くよ」

「えぇ、お待ちしておりますわ」

 

 告げ、ハルナは踵を返した。

 背中越しに先生の瞳を真っ直ぐ見つめ、彼女は綺麗に笑う。

 

「それでは先生――また」

「うん――またねハルナ、美食研究会の皆も」

「えぇ、また今度☆」

「た、たい焼き、私の分も……うぅ」

「すぴぃ~……」

「……うるさい、早く入って」

 

 個性を前面に押し出した美食研究会を緊急車両十一号へと押し込んだヒナは、そのまま乱暴に扉を閉める。セナは中の様子を一度確認し、ヒナの元へと歩み寄ると報告を口にした。

 

「――積載完了しました、出発の準備は整っています」

「そう……少し待っていて」

 

 そう云って、ヒナはセナに待機を命じると、確りとした足取りで先生の傍へと駆け寄る。ふわりと、彼女の髪が先生の頬を擽った。それ程に近い距離だった。

 

「……ヒナ?」

「――先生、トリニティで一体何をしているの?」

「……私かい? 今は、補習授業部って所で担任をしているけれど――」

「それはもう知っている、色々と情報部から報告は受けているから、私が云っているのは、中立的組織であるシャーレが何故、こんな時期にトリニティにいるのって話――これではまるで」

 

 そこまで口にして、不意にヒナは口を噤んだ。そこから先の言葉が、先生に当てはまるとは到底思えなかったからだ。先生が、一つの学校に肩入れする――場合によってはあり得るだろう、けれどそれは明確に善悪が別れた場合のみ。今回の件で、先生がそのような私情に走る訳がない。そんな信頼が彼女の中にはあった。

 

「……やっぱり今のはなし、気にしないで――先生がそんな事をする訳がない」

「……色々と複雑でね」

 

 呟き、先生は緊急車両十一号の傍で待機するセナを見る。タブレットで時間を確認すれば、時刻は既に深夜に差し掛かろうとしていた。こんな時間まで彼女達を拘束するのは心苦しいが、情報の共有は重要だった。

 

「――ヒナ、少し時間はあるかな?」

「……先生と話す時間なら」

「助かるよ」

 

 ■

 

「成程……先生も結構複雑な状況にいるのね」

 

 一通りの事情を聞き終わったヒナは、両手を組んだまま静かにそう呟いた。目を閉じたまま眉間に皺を寄せる彼女は、普段の風紀委員長モードに近い。銃を持っていない分、多少威圧感は和らいでいるが、それでも思う所があるのだろう。その感情が雰囲気として漏れ出ている。

 

「うん、本当なら全部の学園、全生徒、平等に手助けしてあげたいのだけれど――」

「……目の前で困っている生徒が居たら、先生は迷わず助けてしまうでしょう?」

「――仰る通り」

 

 どこか呆れたようなヒナの言葉に、先生は苦笑と共に頷く。どうにも、こればかりは性分だった。理想をいえば完全な中立、そして遍く生徒に平等な助力を約束したい。けれど先生の体は一つで、手は二つ。差し伸べられる数にも限界があり、一度に全ての生徒を助ける、という行為は物理的に不可能だった。

 

「それにしても、トリニティの裏切者ね……」

 

 ヒナは夜空を見上げ、そんな声を漏らす。

 

「見方一つで敵・味方は裏返るし、立場によっても正義は変わる、絶対的な真実何て、分かりっこない」

「それでも私は助けたいと思う、皆を、諦めずに」

「……先生らしいわね」

 

 そう云って、ヒナは肩を竦める。寧ろ、そう口にしない先生がいたら疑ってしまっていただろう。ヒナは聞いた情報を頭の中で整理しながらも、先生に向かって問いかけた。

 

「……と云うか、こんなトリニティの内情、ゲヘナの私に話して良いの? 一応、平和条約を結ぶ相手ではあるけれど、トリニティにとっては仮想敵でしょう」

「ヒナはこういう事、云い触らしたりしないだろう?」

「それは……そう、だけれど」

「なら問題ない、信頼しているからね」

 

 そう云って片目を瞑る先生。これがマコトやサツキなどであれば逡巡したであろうが、彼女であれば別だ。絶対に悪い様にはしないという信頼がある。それを感じ取ったのか、ヒナは目を瞬かせながら小さく息を吐いた。

 

「……そういうのが、先生の悪い所」

「……悪い所なら、直した方が良い?」

「別に、今のままで良いわ――私にだけなら」

 

 呟き、彼女は肩に掛かった髪をひと房、指先に巻き付けた。それが彼女の照れ隠しである事を、先生は当然理解している。どこか生暖かい視線を感じ取ったのだろう、ヒナは咳払いを一つ漏らすと、努めて淡々とした様子で云った。

 

「話を戻すけれど、エデン条約が軍事同盟って見方」

「うん」

「興味深い見方ではあると思う、ただ少なくとも私はそう思わない……アレはれっきとした平和条約、私はそう考えているわ」

 

 軍事同盟による超強力な武力集団の誕生、確かにそういう見方をする事は出来るだろう。或いは脅威に感じる学園も存在するかもしれない。しかし、仮にそれが目的だとすれば――介入出来る程の余裕があるかどうかはさておき――連邦生徒会が見過ごすとは思えない。

 それに――。

 

「条約によって結成されるエデン条約機構、あれを武力集団と捉えたところで、ナギサ単身で統制出来るものじゃない、万魔殿のマコトもナギサと同様の権限を持つ事になるのだから」

「……確か、他のティーパーティーや万魔殿のメンバーにも、権限が分割されるんだっけ?」

「そう、だからエデン条約機構――ETOが誰かひとりの意思で暴走するような事は考え難い、勿論その全員が協力して……なんて事態になれば、理論的にはあり得るかもしれないけれど」

 

 そこまで口にして、ヒナは呆れたように続けた。

 

「そもそも、そんな事が出来るのなら、初めから両学園の統合でも何でも出来た筈だもの、理論的に可能なだけであって、まず考えられない」

「……仰る通りで」

 

 ヒナの言葉に、先生は苦笑を漏らしながら同意を示す。

 確かに、制度上可能である事と実際に可能かどうかは別だろう。ましてや万魔殿とティーパーティー全員が現時点で手を組む事は考え難い。それが可能であったのならば、そもそもエデン条約などというものは存在しなかった。

 

「それに、マコトは誰かと協力するなんて事が出来ない性質だから」

「……マコトはエデン条約に賛同しているのかい?」

「賛同というか、多分、何も考えていないんじゃないかしら? そもそも、ゲヘナ側でエデン条約を推進したのは私だから」

「それは――」

 

 ヒナのその口調から、彼女の心情が透けて見えた。ましてや、彼女を良く知る先生からすれば――彼女の思う事など、察して余りある。

 

「ヒナ、もしかして……重みに感じているのかい?」

「………」

 

 声は、夜に溶けて消えた。ヒナは何も答えず、ただそっと目を伏せるのみ。何かを口にしようとして、けれど言葉を呑んだヒナは、ただそっと呟くように云った。

 

「そういう聡い所も、先生の悪い所ね……いえ、これは見方によるかしら」

「ごめん……直截的だったかな」

「別に良い、間違ってはいないもの」

 

 答え、彼女は伏せていた目を夜空に向けた。

 ヒナは既に三年生。情報部に在籍していた頃からゲヘナ風紀委員として活動し、随分と時間が経った。この活動を嫌った事はない、大変な仕事ではあるが必要な事だと理解している。そして自分が、その活動の中で重要な役割を担っている事も。

 けれど、ふと思ったのだ。

 

「ETOが結成されたら、今よりも遥かにゲヘナの秩序はマシになる筈、そうなったらもう、私が風紀委員長じゃなくても良いでしょう? ――良い加減、引退も悪くないと思って」

「……そっか」

 

 ヒナの言葉に、先生はそっと頷いた。それが彼女の望みであるのならば、先生から口を出す事はない。

 外部からも云われている様に、現在のゲヘナは風紀委員長のヒナという重石があって、初めて成り立っている状態だった。もしこの状態で風紀委員長が切り替われば、ゲヘナの生徒は嬉々として自儘に振る舞い、その統制を喪うだろう。

 ある意味、ゲヘナ風紀委員会、その最強と呼ばれる存在は抑止力なのだ。

 しかし、ETOが結成されれば風紀委員会の負担も随分と減るだろう。取り締まる存在が単純に二つに増え、その戦力も十二分となればヒナが抑止力を務める必要性は薄まる。

 良い加減、別の生き方を探しても良いのかもしれない。

 そんな風にヒナが考えたのは――先生と出会ってからだった。

 

【貴女は事実、人の上に立つ器の様です、ですがそれ自体を貴女は疎んでいる……場所さえ違えば、望むように生きられたものを】

 

 いつか、厄災の狐に掛けられた言葉が脳裏を過った。

 その通りだった、ヒナは今のこの環境を、或いは自身が存在しなければ崩れてしまうこの状況を疎んでいる。その強大な力を持つが故の苦悩、或いは立場的な疎外感。自身がこれ程の苦労を買っている最中、他のゲヘナの生徒は自由気ままに日々を謳歌している。自身が書類や警邏に精を出している間に、普通の生徒は勉学に励み、スポーツに励み、自身の好きなものを極めようとしている。その事実を理解しながらも、彼女は三年間、風紀委員会という場所に在籍し続けた。幸か不幸か、それを背負ってしまえるだけの責任感と実力が、彼女にはあったから。

 

 どれだけ頑張っても、褒められる事はない。

 どれだけ結果を出しても、疎まれる事しかない。

 ゲヘナという大きな箱庭に於いて――風紀委員会は異質なのだ。

 自身を肯定する全ては、風紀委員会の中にしかなかった。

 

 何の憂いも、気負いも、政治的な背景をも持たずに、先生の隣を歩く生徒を見る度に――ヒナは、そんな事を痛感させられる。

 最初から持っていたその小さな願望を肥大化させたのは、先生の隣で屈託なく笑う、彼女達の姿だった。

 

「――なら、その時はシャーレにいつでも遊びに来て、歓迎するよ」

「……ありがとう」

 

 先生は、そんなヒナの欲しい言葉を簡単に掛けてくれる。或いは、ゲヘナ風紀委員長というポストにない自分など、関わる価値もない――なんて思っていたのに、先生はあっさりと願っていた声をくれるのだ。

 風紀委員長の席を退けば、今よりも時間に都合は付けられるだろう。そうなればシャーレに足を運ぶ時間だって、好きな様に都合が付けられる。その免罪符を手にしたヒナは、先生の声に心からの微笑みを返した。

 

「風紀委員長、そろそろ時間が――」

「……ん、分かった」

 

 セナがポーチに入れていた懐中時計を開き、告げる。ヒナはその言葉に頷くと、羽織ったコートを靡かせ踵を返した。セナが運転席に乗り込み、緊急車両十一号のエンジンを始動させる。ヒナは助手席の扉へと足を進めながら、背中越しにふと問いかけた。

 

「――補習授業部の事は、先生が守るのよね?」

「うん、勿論」

「……そう」

 

 ――羨ましい。

 

 声は、風に掻き消されて届かなかった。それはただ、先生に構って貰える、褒めて貰える、共に在れる、その場所に居る彼女達に対する――嫉妬だ。

 だから、これは先生に伝わらなくて良い。伝わらないで欲しい。

 ゲヘナ風紀委員会の長が、その様な嫉妬心を抱いているなんて知られたくない。それはきっと、恥ずかしい事だから。

 

「――ヒナ」

「? 何、せん――」

 

 けれど、先生は声が聞こえずとも、目が見えずとも、生徒を理解する、してくれる。

 不意に名前を呼ばれ、振り向いた彼女が見たのは、大きく手を広げる先生の姿だった。思わず目を丸くし、声を上げるより早く――先生の両腕が自分を抱きしめる。

 ヒナの小さな体を、先生の大きな体が覆っていた。

 

「ふぐッ……!? せ、先生!? ちょ、な、何して……!?」

「――ごめんね、あんまり顔を見せられなくて」

 

 その一言に、ヒナは自身の感情を先生に見抜かれたのだと直感した。それは、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな心地だった。暴れ出そうとしていた両腕は硬直し、先生の外套を強く掴む。

 

「メッセージでも、直接シャーレに来ても、何だって良い……寂しくなったら、何時でも私を呼んでくれて良いから」

「………」

「いつ何処に居たって、駆けつけるよ」

 

 ヒナの鼻腔を、先生の香りが擽る。いつもと少しだけ違う香り。恐らく、シャーレではなくトリニティで生活をしている為だろう。自分だって忙しいだろうに、こうやって心を砕いてくれる先生を感じる度に、ヒナは歓喜の念を覚えると同時、そんな自分を浅ましく思う。

 まるで、じゃなくて――まんま子どもだ、私は。

 

「ごめんね、そう云って私がただ寂しいだけなんだ……だから偶には、メッセージの一つでも頂戴――それじゃあ!」

「――あっ」

 

 先生はお道化た様にそう云って、ヒナの体から離れる。そしていつも通りの笑みを浮べながら、トリニティ側の護送車へと走り去っていった。ヒナは、どこか名残惜しそうに、その背中に向かって手を伸ばす。

 

「――風紀委員長、どうしました?」

「……ごめん、今行くわ」

 

 いつまで経っても乗り込んで来ないからだろう、セナが窓を開け顔を覗かせる。ヒナは先生の背中をじっと見つめながら、努めて何でもない様に答えた。踵を返し、今度こそ助手席の扉を開いて乗り込む。セナはそんなヒナの横顔を、どこか訝し気に見つめながら問いかけた。

 

「先生と、何か?」

「……下らない政治の話よ」

「そうですか」

 

 告げ、シフトレバーをドライブに入れ直し、ゆっくりとアクセルを踏み込む。隣をトリニティの護送車がすれ違い、その窓から手を振る先生の姿が見えた。ヒナは咄嗟に持ち上がりそうになった手を抑え、目を閉じる。

 

「セナ」

「はい」

「――大人って、凄いのね」

「………はい?」

 

 ■

 

「何だか怒涛の一日でしたね……」

「そうですね、夜のお散歩がこんなハードな事になるなんて……」

「うん、でも楽しかった」

 

 合宿所へと帰還した補習授業部。

 軽く食事を済ませた後、シャワーを浴びて宿泊部屋へと集まった面々は、どこか疲れた様子を見せながらベッドに腰を下ろす。まさかちょっと夜に出歩こうとしただけで、このような騒動に見舞われるとは思ってもいなかった。楽しくなかった訳では決してないが、やはり疲労が勝るというもの。

 しかし、そんな皆の中でも比較的元気な姿を見せる者が二名。初めての夜歩きを体験したアズサと、先程からどこか締まりのない笑みを零すコハルである。

 

「……えへへ」

「コハルちゃんはあれからずっと嬉しそうですね? やはり、ハスミさんと共闘出来たからですか?」

「そうよっ、悪い!? ハスミ先輩と一緒に戦えるなんて、初めてだったし……私が役に立てたなんて、嬉しい……! えへ、えへへへっ……!」

 

 そう云って両の頬を抑え、ハスミとの共闘を思い返しているのか体をくねらせるコハル。それを見守る皆の目は、どこまでも優し気なものだった。

 

「うふふ、それは何よりです♡ あとはハスミさんが願っている通り、落第を免れないといけませんね?」

「わ、分かってる! 大丈夫よ! わ、私はエリートなんだからっ!」

「うん、きっと大丈夫だ、私達なら乗り越えられる」

「……取り敢えず、もう遅いですし、そろそろ寝ましょうか? 明日の勉強に支障が出ると良くないと思いますので」

 

 ヒフミがそう云って、壁に掛けられた時計に目を向ける。時計の針は既に日付を跨ぎ、夜更かしというには少々深すぎる時間帯に突入していた。自然、眠気も滲むし欠伸も出る。

 

「そうですね……先生もそろそろ戻って来る頃だと思いますが――」

 

 ハナコがそう口にするのと、扉が控えめにノックされるのは殆ど同時だった。向こう側から、先生のくぐもった声が響いて来る。

 

『ごめん、皆起きていたかな?』

「あっ、はい、お帰りなさい、先生!」

『ただいま、皆疲れているだろうから、扉越しに失礼するね――今日はお疲れ様、ゆっくり休んで』

「あ、ありがとうございます! おやすみなさい!」

「うん、お休み先生」

「お休みなさい♡」

「お、おやすみ……」

『おやすみ』

 

 告げ、先生はそっと扉から離れる。遠ざかっていく足音を聞きながら、ヒフミは電灯のスイッチに手を添えた。

 

「……それでは、今日もお疲れ様でした、皆さん」

 

 ■

 

 ――真夜中。

 

 寝息を立てる補習授業部の中で、そっと起き上がる影が一つ。衣擦れの音をなるべく立てないようにベッドから足を抜いた彼女は、月明かりの差し込む部屋の中で、そっと他の皆の顔を覗き込む。

 

「すぅー……」

「んむ………」

「――………」

 

 自分以外の皆が寝入っている事を入念に確認し、彼女はそっと部屋を抜け出す。

 廊下に出ると、肌寒い空気がそっと彼女の頬を撫でた。小さく二の腕を摩りながらも、極力足音を立てないように、目当ての部屋へと足を運ぶ。

 時刻は既に暁に差し掛かろうとしていた。外はまだ暗闇に支配されているが、もう一、二時間もすれば少しずつ空は明るんでくるだろう。

 こんな時間に起床したのは、対象が必ず寝入っている時刻を狙いたかったからだ。実質的な睡眠時間はかなり短くなるが――一日、二日程度は何て事はない。

 

「………」

 

 少し歩くと、目当ての部屋が見えて来る。扉の隙間から光が見えない事を確かめ、対象が寝ている事を確認。ドアノブに手を掛けそっと捻ると、扉は容易く中を晒した。

 鍵を使わない何て不用心な――なんて思うけれど、補習授業部の宿泊部屋も鍵は使用していない。先生が悪意を持って部屋に入ってくるなど、誰も考えていないからだ。

 そしてそれは、先生本人もそうなのだろう。生徒が悪意を持って自分の元へとやってくるなど、考えてもいないに違いない。

 いや、或いは――そう思いたいだけなのか。

 

 扉をそっと開き、中を覗き込む。途端、ふっと香る、甘い匂い。それは先生が良く飲んでいる、ココアの香りだった。体を半分差し込んで中を覗けば、テーブルの上には飲みかけのココアと授業資料が置かれている。恐らく帰還後、遅くまで明日の準備に追われていたのだろう。ベッドにはタオルケットを首元まで被り、仰向けで寝息を立てる先生の姿。

 いつも温厚で、大人然とした表情はそこにはなく、どこかあどけない、無垢な寝顔があった。抜き足差し足で先生の枕元に立った生徒は、そんな先生の寝顔をじっと見つめる。

 何というか、とても新鮮だった。大人、先生という要素を全て抜き取って、ただの一人の異性として彼を見た時、初めて目にできる様な素顔だった。

 多分、彼のこんな姿を見れる生徒はそう多くない。そう考えると、少しだけ得をした気分になれた。けれど、残念ながら彼女の目的は先生の寝顔を眺める事ではない。

 彼女は、自身の本来の目的を果たすべく――そっと先生の体に手を伸ばし。

 

「――ふふっ♡」

 

 素早く、振動を感じさせない軽やかさで、先生の隣へと身を滑り込ませた。

 

 ――朝起きた時、隣に生徒が添い寝していたら、先生はどんな顔をするのでしょう?

 

 彼女、ハナコはそんな事を考え、思わず笑みを零す。それは、悪戯を好む彼女の本質が剥き出しになった揶揄いの笑みであり、歓喜の笑みであり、そして期待の笑みでもあった。

 被ったタオルケットを指先で摘まみながら、そっと先生の肩を撫でつける。しかし先生は余程疲れていたのか、欠片も気付く気配を見せず、昏々と眠ったまま。このまま、先生の寝顔を朝までじっと眺めるのも良いだろう。或いは、本当に寝入ってしまっても良い。先生が朝起きた時のリアクションを見られるのなら、何だって構わなかった。

 もしくは体操服を脱ぎ捨てて、裸で横たわるのも悪くはない。態と下着や体操服を脱ぎ散らかし、床に散乱させておけば何とも『それらしい』ではないか。

 

 そんな事を考え、忍び笑いを漏らすハナコ。

 ふと、閉じたカーテンの隙間から月明かりが差し込んだ。月光を遮っていた雲が途切れたのだろう。光は先生の首に刻まれた真新しい赤いラインを照らし、そっと、ハナコが目を細める。

 不意に、ハナコの視線が先生の首元へと吸い寄せられた。

 

「……?」

 

 それは、何か引っ掻き傷のような、小さな傷痕が見えたからだった。鎖骨の少し上に見える、肌の凹凸。もしかして、先生は猫でも飼っていたりするのだろうか? そんな事を考えて、先生の胸元を覗き込み。

 

 ――そこに刻まれた、夥しい数の傷痕に絶句した。

 

 薄らと月明かりに照らされる、先生の肌。その悉くは醜悪な傷に覆われ、埋め尽くされている。銃創、切創、挫創、刺創、擦創、裂創、爆創――ハナコの分かる限りで、傷の種類はそれほどに上った。悲鳴を上げなかったのは、奇跡に近かった。

 先程までの浮ついた感情が欠片も残らず吹き飛び、ハナコはひゅっと息を呑む。自身の血の気が引いて行くのが良く分かった。

 それは、明らかに自分(ハナコ)が踏み込んで良いラインを超えていた。

 

 先生は、これを隠していたのだ。

 

 ハナコは合宿初日、プールサイドで拾い上げたシート、膜の様なものを思い出す。肌色のアレはきっと、この傷を覆い隠すための代物だった。最初は一体何かと、色々と推察し、終ぞ結論が出なかった代物だが――ここにきて、その用途を理解した。

 そして、それを見られたと理解した時、先生がどんな表情をするのか、ハナコには予測が付かなかった。怒るだろうか? 悲しむだろうか? 少なくとも、良い感情を抱く事はないだろう。先生から明かしたのならば兎も角、こんな、盗み見る形何て――。

 それは、先生に嫌われてしまうかもしれないという確かな恐怖だった。ハナコは、先生に嫌われるという未来を恐れ、後悔していた。或いは、此処で知られぬ様に踵を返せば、今までの関係を続けられるかもしれない。そんな、狡い考えがハナコの脳裏を過る。

 しかし、それは出来ない。それだけは、駄目だ。

 ハナコの中にある、強い感情が叫ぶ。

 先生の秘密を見てしまった罪悪感。

 嫌われてしまうかもしれないという恐怖。

 踏み込んではいけない領域に、勝手に踏み入ってしまった後悔。

 どうして先生は何も話してくれなかったのだという悲しみ。

 何も気付かずにのうのうと過ごしていた自身への怒り。

 様々な負の感情が、ハナコの胸内に満ちる。

 

 けれど、それ以上に――今のハナコは。

 

「――……ん」

「っ……!」

「――あれ、ハナコ……?」

 

 先生の寝息が乱れ、そっと閉じられていた瞼が開く。その瞳に、確りとハナコの姿を映して。先生の瞳に映るハナコの表情は――酷い顔だ。

 けれど同時に、何か強い意志を秘めた目をしていた。

 ハナコは、咄嗟に手を伸ばし、先生の両手を掴んだ。そのまま体を動かし、馬乗りになる。何の抵抗も出来ぬまま、先生は組み敷かれ、ハナコと先生の視線が交わった。

 月明かりが、二人の顔を照らす。

 

 恐怖もある。

 後悔もある。

 けれど、それ以上に。

 

 ――今を逃したら、一生、先生が遠ざかってしまうような気がしたから。

 


 

 先生が生徒に襲われてハナコッ! な展開に、何てならないから安心してね。ただハナコが先生に大分重たい感情を抱いていた事を自覚するだけだから。ミカが記憶持ちって事は、周りにいる生徒にもその影響が及ぶ訳で。実は影響を一番受けているのはナギサだったりする。そんでもって、多少繋がりがあったハナコにもフラグが立つ。後半はセイアも大なり小なり受けるかなぁ。

 

 そんな事より、ナギサ様とトキ実装って本当ですか。この間ミカが来たばかりだっていうのに限定二人ですか。本気ですか。

 どうしよう、石、ないよ。ミカで二百連したし、メグとカンナもあったし、サクラコ様でもガチャひいちゃったし。でもひかないという選択肢はないの、ひかなきゃ、駄目なんだ。

 切るしかない、此処で、切り札を、私の人生、肉体、精神、時間、全てを削って生み出される奇跡を起こすしか……! もってくれ私の体ッ……アロナ真拳、四百連だぁあアアッ!

 

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