ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告ありがとうございますわ~!
今回一万八千字ですの。
これ、もう三日に一回じゃなくて二日に一回にして文字数減らした方がよろしくて??


身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれ

 

 押さえつけた手が、微かに震える。先生は、未だに霞む視界をそのままに目を見開き、自身を見下ろすハナコを凝視していた。ハナコの髪がさらりと滑り落ち、先生の頬を擽る。

 

「っ、ハナコ、一体何を――」

 

 漸く再起動を果たした先生が、何かを口にしようとして。

 けれど、自身を見下ろすハナコの表情を見て、思わず言葉を呑み込んだ。

 まるでカーテンの様にハナコの髪が先生とそれ以外を区切り、淡い月明かりが先生の顔を鮮明に映し出す。傍から見れば情事の様、けれど二人の間に甘い空気など欠片も存在しなかった。

 

「先生、あなたは……――」

 

 ハナコが、そっと呟く。

 舌が異様に重かった。まるで自身が、これ以上ない程の罪を犯しているかのように感じてしまう。けれど、それを呑み込んで尚、ハナコは云った。

 

「あなたは、一体何を抱えているのですか?」

「………」

 

 ハナコは、先生だけを真っ直ぐ見ていた。

 一瞬、先生は一体何の事だと云い掛けて、視線がそっと自身の体へと落ちる。合宿期間中、不意の事態に備え腕や足といった部位には保護膜を貼り付けていたが、腹部や胸元、背中と云った部位には全く手を付けていなかった。首元から覗く傷跡、振動で捲れ、露出した腹部。それを目にした先生は納得の色を見せ、そして苦笑を零す。

 それ以外に、反応のしようがなかった。

 

「……こんな夜中に、他人の寝床に入り込むなんて、悪い子だ」

「お叱りは後ほど、甘んじて受け入れます、しかし今は――」

 

 無言の催促に、先生は酷く居心地が悪そうに視線を逸らした。先生の手を掴むハナコの手に、力が籠る。

 

「只の、古傷だよ……別に、珍しくもない」

「これ程の傷を負って珍しくないと、笑えない冗談です、先生」

 

 その自覚があるのか、先生は沈黙を返す。少なくとも、一つ二つの古傷ならば珍しくもない。しかし、これほどの傷を刻んだ肉体を持つのは――キヴォトス広しと云えど、先生位なものだろう。その確信があった。

 

「……それに、良く見れば分かります、この傷は真っ当なものではありません――明らかに、人間が許容できないレベルの致命傷が幾つもあります」

 

 そう云って、ハナコの先生を押さえつけていた指先が、先生の腹を擦る。ハナコが馬乗りになった反動で捲れたシャツの隙間から、凄惨な傷跡が見え隠れしていた。

 

「私も専門ではありませんので、救護騎士団の方達程詳しい訳ではありませんが」

 

 ハナコの手が、そっと先生のシャツを胸元まで捲り上げた。改めて直視するその余りにも鬱々しい傷跡に、思わず感情が暴れ出しそうになる。それを、微かに眉を顰めるだけで堪えた彼女は、淡々とした口調で続ける。

 

「――肺に、心臓、肝臓、腎臓、胃……バイタルゾーンに、幾つもの銃創や刺創が見られます、普通なら、これほどの負傷を受けて生きていられる筈がありません」

「………」

「しかし、先生は現にこうして暖かな体で此処に居る――これは、酷く矛盾していると思いませんか」

 

 先生の傷痕には不可解な点が多い。「死なない様に付けられた傷」などではない、ただどこまでも相手を殺害する為の――『殺すための傷』が殆どなのだ。ハナコは専門家ではないし救護騎士団の様に人体のエキスパートという訳でもない。無論、それなりの知識を蓄えている自負はあるが、素人目に見ても先生の肉体は歪だった。

 こんな数の負傷――普通なら、疾うの昔に死んでいる。

 

「運が、良かったんだ」

「否定はしません、そういう事もあるでしょう、今は医学の進歩も目覚ましいですから……ですが」

 

 脳の中央を弾丸が通過し、助かった。一見バイタルゾーンに直撃しているように見えるが、骨や肉で弾道が逸れて助かった。その場で十分な処置環境があり助かった。

 そういう、望外の幸運が重なって生き延びる事はあり得るだろう。限りなく低い確率であっても、決してゼロではないのだから。例え臓器が駄目になっても、人工心肺や臓器移植という手段もある。

 しかし。

 

「一度や二度ならば理解出来ます、しかし、この傷はそんな程度ではない、十や二十、或いはもっと、先生は『死に至る負傷』を受けている筈です……そして、そんな何度も幸運が続くと信じられる程、私は無垢ではありません」

 

 幸運や奇跡というものが、どれ程得難い代物なのか、ハナコは知っている。

 滅多に起きないから、確率の向こう側にあるからこそ、幸運と呼ばれ、奇跡と名付けられたのだ。それが十も二十も重なれば、それは最早幸運でも奇跡でもない。

 運命だ。

 

「……ハナコは、私がアンドロイドだと云ったら、どうする?」

「どうも――人であっても、なくても、先生は先生です、その感情は決して揺らぎません」

「それは……嬉しいな」

「でも、そうではないでしょう?」

 

 ハナコの、どこかはぐらかさないで欲しいという、追及の感情を孕んだ言葉に、先生は小さく頷いた。

 

「……あぁ、私はアンドロイドなんかじゃない、ごく普通の――普通の人間だよ」

「そう、でしょうね……アンドロイドならば、傷を傷のままにしておく必要性がありません、先生は人間です、紛れもなく――だからこそ、分からないんです」

 

 数秒、二人の間に沈黙が落ちる。

 先生と接する箇所から感じられる熱が、彼の生きている証明。先生は機械ではない、アンドロイドではない。肉の体を持ち、感情を持ち、意思を持ち、人としてキヴォトスに生きている。

 こんな、沢山の傷を抱えながら。

 先生の声が、静謐な部屋の中に響く。

 

「……ハナコは、私の何が知りたい?」

「私は――」

 

 先生の、真摯な瞳がハナコを見返した。

 問われ、彼女は気付く。

 ハナコという存在は、先生の――。

 

「……私は、先生の――」

 

 呟き、口を噤んだ。先生を見つめる視線が揺らぎ、その手を掴む指先に力が籠る。自分は、ハナコは、一体先生の何を知りたいというのだ? 改めて問われた時、ハナコは自身が抱くそれの不透明さに動揺した。

 その傷の生まれた経緯か? それとも傷つけた相手か? 或いは、そんな体を持つ先生に対する疑問そのものか? いざこうして自身の感情に名札を付けようとした途端、その輪郭が酷く曖昧である事を知り、掴みかけた実感がするりと手をすり抜ける。

 それは先生を思い遣る優しさと、自身の混沌とした感情が混ざった、酷く独善的で、けれど押さえつけておく事が出来ない、好意と信頼の発露だった。

 

「……ハナコ?」

 

 声は、彼女の鼓膜を震わせた。けれど、それに反応するだけの余裕がなかった。

 私は――何を知りたい? それを知って、どうする。

 問い掛け、考える。

 傷付けた人物を見つけ出し、復讐するのか。その経緯を聞き、可哀想にと慰めるのか。どちらにせよ、それは自身の自己満足に他ならない。それを先生が望んでいない事など、分かり切っている。それでも尚自儘を通すのか、自分は。自問自答に対する答えは、到底論理的なものではなかった。腹の奥から湧き上がる、鈍い感情によってハナコはそれを自覚した。

 

「……先生は、時折、遠くを見ます」

 

 ぽつりと、彼女は呟く。それは、先生に対する答えというよりも、彼女が自身の感情、その輪郭を捉えるために口にしている様にも見えた。先生は良く、遠くを見る。それは物理的な話ではない。

 

「その目は、私達じゃない……そう、私達を通じて、別の誰かを見ている様な気がして――」

 

 口にして、ハナコが思い返すのは、ふとした授業の際中。

 或いは、食事の最中(さなか)

 先生が補習授業部を見る目は暖かく、いつも慈愛に満ちている。生徒の成長を喜び、絆を育む姿を尊び、その困難に立ち向かう姿を見守る瞳だった。先生の目だ、大人の目だ、彼らしく実直で、誠実で、温かい。ハナコの大好きな瞳だった。

 

 けれどその瞳の中に、僅かな寂寥感が混じっている事を、ハナコは知っていた。

 先生は時に、酷く綺麗に、そして寂しそうに笑う。

 

「心は、確かに私達へと向けられているんです、その視線も、感情も、確かに目の前の私達を向いている筈なのに、何故か……どこか、虚しい」

「―――」

 

 ハナコの言葉を真正面から受け止めた先生の視線が、揺れる。

 ハナコと先生の視線が、再び交わった。

 ハナコはその瞳の中に、僅かな動揺を見て取った。

 

「――到底、論理的な話ではありません、証拠も何もない、ただの私の感情的な話に過ぎない、我儘な秤です、けれど……何故か、間違いだとは思えなくて」

 

 その感情が、見間違いなどではないのなら。

 その色が、ハナコの思う通りであるのならば。

 ハナコの鼻先が、先生のソレに迫り、至近距離で彼女は問うた。

 

「先生、あなたが私達を見る目は、最初から優しかった、私達に理解を示してくれた、どこまでも真摯に私達と向き合い、信じてくれた、それは何故ですか……?」

「……それは、私が先生だから」

「先生だから、そう在るのが当然だと、その在り方には敬意を表します、けれど、そうじゃない……そうではないんです、先生――私が知りたいのは、その仮面の奥(素顔)……先生の視線には、私達の育んで来た時間以上の【何か】があると、私はそう思うんです」

「………」

「――私は、あんな風に笑える人を、先生しか知りません」

 

 ハナコは、人を観察する事に長けている。

 それはずっと、このトリニティという箱庭の中で生きていく内に養われた代物。自身が天才だ、ティーパーティー候補だ何だと祭り上げられていた時から、その声に応え、斯く在れかしと己に課していた時から。

 彼女はずっと、周りを見ていた。見続けていた。

 だから先生が笑う時、仮面がある事に彼女は気付けた。先生は生徒と喜び合う時、心の底から嬉しそうに、華が咲いた様に笑う。

 そして感情を隠す時、それがどんな状況であれ、生徒にそれを察して欲しくない時――先生はとても、とても綺麗に笑うのだ。

 寂しさを覆い隠すように、感情を秘めるが如く、何て事はないと、そう言い聞かせるように。

 

「……ごめんなさい、これが先生にとって踏み込まれたくない領域なのだと、何となく理解しています、私なんかが土足で入り込んではいけない場所なのだと――けれど、私は」

 

 ハナコの指先が、先生の皮膚に食い込む。制御できない巨大なうねりが、ハナコの胸の内で暴れ回っていた。先生にとって、自身はただ一人の生徒に過ぎない。その善性と信頼を、彼女は信じている。けれど、自分は唯一無二にはなれない。それが理解出来るからこそ、彼女は踏み込むことを躊躇った。自身にその資格はあるのかと、自問自答した。

 ――けれど、もう無理だ。

 こんな傷跡を知ってしまって、先生の抱える何かの片鱗を手にした時。

 ハナコが抱いていた、最後の一線は、容易くその背中を押した。

 くしゃりと顔を歪めたハナコが、唇を震わせ、告げる。

 

「――あなた(先生)に、そんな顔をして欲しくない」

「ッ……!」

 

【――これ以上、先生が傷だらけで歩く姿は見たくないから】

 

 まただ。

 先生は、自身の仮面が罅割れた事を自覚した。

 

「先生、私では、あなたの助けにはなれませんか? その重荷を預けるに足る生徒には、なれませんか? 先生の心を、ほんの少しでも癒す事も出来ませんか?」

「――違う、違うんだよ……ハナコ」

 

 身を捩らせ、先生は云う。今にも泣きそうな、酷い顔を晒したまま。

 

これは(古傷は)、私が背負わなくちゃならない(もの)なんだ、もし、ハナコを不安にさせたのなら謝る、ごめん、本当にごめん……だから、そんな事はどうか云わないで欲しい」

「なら――」

 

 ハナコが問う。

 懇願する。

 どこまでも真剣に、無垢に。

 

「教えてください、先生の、あなたの抱える重荷を、そして分けて下さい、ほんの少しでも、私を信じてくれるのなら」

「………」

 

 先生の、噛み締めた歯が軋みを上げた。ハナコの目には、今まで見た事もない、先生の苦悩に塗れた、追い詰められた表情が映った。そうさせているのが自分だと、そんな表情をさせてしまっているのが己だと、ハナコは自分に云い聞かせる。ずきりと、ハナコの胸が痛んだ。

 

 ――信じている、信じているとも。

 先生はそれを、声を大にして云いたかった。伝えたかった。叫びたかった。

 先生が生徒を信頼するのは当然の事だ。それを目に見える形で示せるのならば、どれ程分かり易く、煌々とした輝きを放つ事か。証明出来る術があるのならば、喜んでその手を取りたい。

 けれど、ハナコの欲する証明の方法は、自身の抱える罪悪を(つまび)らかに晒す行為に外ならず、それは先生が到底許容できない選択肢の一つであり、また罪悪を一つ増やす行為であり、先生は思わず呻いた。

 

 ――酷い、酷い話ではないか。

 

 互いに泣きそうな顔で、瞳を突き合わせて。

 生徒は先生を思い遣り、その重荷を分けて欲しいと口にする。

 先生は生徒を思い遣り、これは私が背負うべきだと口にする。

 その根底にあるのは善意であり、優しさであり、配慮であり、信頼であり、好意であり――それは互いが、互いを大切に想っている証明だ。

 その優しさと善意が、互いを傷付けるなど。

 本当に、酷い話だった。

 

 ――何を今更。

 

 先生の心が云った。

 分かり切っていた事だろうと、理解していた事だろうと。

 そして、もう何度も体験した事だろう、と。

 自身が歩んで来た道は、『そういう道』なのだ。

 そしてこれから歩む道も、また――【こういう道】なのだ。

 

 泣き叫び、銃口を向ける生徒を退け。地面を這い、行かないでと懇願を口にする生徒を振り払い。怒り、拳を振り上げる生徒に背を向けて。

 真っ直ぐ、ただ一点を見て歩き続けた。

 それが先生に課せられた使命であり、果たすべき役目であり、その道が、苦痛の果てにある、未だ見えぬ理想(生徒皆が笑い合える世界)に通じていると信じているから。

 だから、この歩みを止める事は出来ない。

 この苦痛を知る者は――最低限で良い。

 (いわん)や、自身から打ち明けるなど――論外の極み。

 

 痛みに鈍感になる事が、大人の条件であるのならば。

 きっと、己は。

 

「……それ程までに、先生は――っ!」

 

 ハナコが、顔を歪ませたまま、悲鳴染みた声を上げた。その沈黙が、先生の答えだと思ったから。

 耐え切れず零れた涙が一滴、先生の頬に落ちる。その冷たさを心に刻みながら、先生は云う。酷く苦り切って、儚くて、何度も何度も傷ついて、その度に立ち上がって、次こそは、今度こそはと歩き続けた果てにある。

 不格好で、歪で、ありのままの、素顔で。

 

「……ごめんね、ハナコ――ごめん」

「――ッ!」

 

 この罪悪(想い)は、絶対の悲しみを約束するから。

 だから、この口から話す事は絶対にない。

 例えそれが――ただ、早いか遅いかの違いであっても。

 

「――分かり、ました」

 

 声は、感情を噛み殺し、震えていた。ハナコはあらゆる激情を飲み下し、堪える。自身の我儘で先生を傷付けてしまった事実も、結局自身が何も得られなかった虚しさも。そんな、自分に対する不甲斐なさも――全部。

 押さえつけていた先生の手を放し、彼女は上体を起こす。先生を覆っていた髪のカーテンが消え、そっと月明かりが差し込んだ。

 

「……突然すみませんでした、先生、お体の傷の事については、誰にも口外しないとお約束します」

「……ありがとう」

 

 虚しいやり取りであった。或いは、嵐の前の静けさと云うべきか。ベッドから降りたハナコは、僅かに乱れた衣服を正し、先生に向き直る。その表情は、陰になって良く見えなかった。

 

「この事について、私がハナコを怒る様な事はないから……気にしないでくれると嬉しい」

「それは……」

 

 先生の声に、ハナコは言葉を詰まらせる。

 口元をぎゅっと一文字に結び、彼女らしからぬ重々しい気配を纏ったまま、静かに頭を下げた。

 

「……出来得る限り、善処します」

 

 それが、精一杯だったのだろう。彼女は頭を上げると踵を返し、そのまま扉の元へと足を進める。冷たいドアノブを握って、ハナコは呟いた。

 

「……今日は、もう部屋に戻りますね」

「うん――また明日、ハナコ」

「はい――また明日、先生」

 

 ハナコの体が、扉の向こう側へと消えて行く。

 その背中を見送り、先生ひとり、そっとベッドに倒れ込んだ。スプリングが軋みを上げ、先生は腕を自身の額に打ち付ける。今は、痛みすら愛おしい位であった。

 

「……間抜けが」

 

 自身に向けた罵倒は、小さく、部屋の中で萎んで消えた。

 

 ■ 

 

「………」

 

 廊下へと身を晒したハナコは、後ろ手にドアノブを握ったまま、静かに息を吐き出す。その瞳は前髪に隠れ、俯いたまま微動だにしない。数秒、数十秒、何かを思案するように佇むハナコは、大きく息を吸い込み、歯を食い縛った。

 彼女なりに、感情を噛み締め、飲み込む為に。

 

「――先生のあの口ぶり……」

 

 ハナコは、先程までの先生とのやり取りを頭の中で反芻する。手にした情報は、決して多いとは云えない。けれど、何も知らなかった頃と比べれば、正に雲泥の差。先生に関する情報――少なくとも表向きの情報は、既に頭の中に入っている。

 

「確か、先生が前に関わっていた学校の名前は」

 

 呟き、ハナコは窓の外から差し込む月光を仰ぎ、拳を握り締める。

 先生の名前が一躍売れる切っ掛けとなった騒動。キヴォトスの中でも僻地にあり、広大な砂漠の中にある小規模な学校。嘗て先生は、そこの部活――実質生徒会の顧問を務めたという。

 その学校の名前は、確か――。

 

「――アビドス、でしたね」

 

 ■

 

「あっ、先生、おはようございます!」

「おはよ、先生……」

「うん、おはよう、ヒフミ、コハル」

 

 翌日、食事を済ませた先生が教室へと向かう廊下を歩いている最中、丁度同じように教室へと向かっていた補習授業部の面々と顔を合わせた。ヒフミはいつも通りの笑顔で、コハルはやや眠たげに挨拶を口にする。

 先生はそれに笑顔で応え、視線を少し後ろに向けた。

 

「ハナコも――おはよう」

「――ふふっ、おはようございます、先生♡」

 

 そう云って、いつも通り――本当に何ともないように笑うハナコ。

 昨日の事など微塵も感じさせない態度に、先生は彼女の天性の才を感じ取り、少しだけ胸が痛んだ。

 ――きっと彼女は嘗ても、『こういう風に』振る舞ったのだと、そう思って。

 

「そう云えば先生、アズサちゃんを見ていませんか? 朝起きた時、見当たらなくて……」

「――多分、先に教室に向かったんじゃないかな?」

 

 疑問符を浮かべるヒフミに、先生はそう云って教室の扉に手を掛ける。そして押し開け中に足を進めると、どこか気合の漲ったアズサの声が飛んで来た。

 

「遅い! おはようっ!」

「……おはようアズサ、随分早いね」

 

 見ればアズサはペンを握って問題集と向き合っており、やる気十分、気合十分といった様子。先生はそんな彼女の様子にやや驚きながら、穏やかに挨拶を口にした。

 

「あ、アズサちゃん、姿が見えないと思ったら……もう勉強を始めていたんですか?」

「うん、陽が昇る前には既に此処で予習、復習をしていた」

 

 ヒフミが驚いた表情でそう問いかければ、どこか誇らしげに問題集を広げて見せるアズサ。頁はかなり進んでおり、例題や設問には殆どチェックマークが刻まれていた。

 

「ふふっ、やる気満々ですね、アズサちゃん」

「当然だ、何せ今日も模擬試験がある……だよね、ヒフミ?」

「はい、勿論です、アズサちゃんはその様子ですと、もう模試への準備は万全という感じですね!」

「うん、第二次学力試験まで二日しか残っていないし、いつまでも皆に心配をかける訳にはいかない、そして今回こそ……ッ!」

 

 そう云って鼻息荒く拳を握り締めるアズサ。心なしか、その背後には煌々と燃え盛る炎が見える程だった。コハルはその様子に気圧され気味で、思わず呟く。

 

「す、凄い気合入ってるじゃん……」

「試験範囲の予想問題も、もう何周もしてある、準備は完璧だ」

「っ、わ、私も負けないんだから! 正義実現委員会のエリートの力、見せてあげる!」

「では、私も精一杯頑張るとしましょうか♡」

 

 アズサの気合、熱意が伝播し、眠たげだったコハルやハナコと云ったメンバーも気合を入れ直す。そんな彼女達を横目に、先生はアズサの机の元へと足を進めた。

 

「その前に、アズサ……朝ご飯、ちゃんと食べた?」

「うん? 一応、オートミールは口にしたが……」

「栄養素的には問題ないかもしれないけれど、どうせなら暖かいご飯を食べて欲しいからね……はい、これ」

 

 そう云って、机の上に置いたのは布の包み。アズサは差し出されたそれと、先生の顔を交互に見て、それからそっと包みを解く。すると中から、ラップに包まれた三つのおにぎりが顔を覗かせた。

 

「これは……」

「さっき厨房で作って来たばかりだから、まだ暖かいよ、中身はこんぶ、梅、ツナ、一個ずつね」

「………」

「あれ、ごめん、苦手なもの入っていたかな?」

 

 アズサの沈黙をそういう風に捉えた先生が、どこか申し訳なさそうにそう口にすれば、アズサは慌てておにぎりを手に取り、首を横に振る。

 

「あ、いや、違う……あ、ありがとう、先生、有難く頂こう」

 

 ラップを剥き、徐に一口。外側の海苔を口の端に付着させながら、アズサは暖かな白米を噛み締め、微笑んだ。

 

「――うん、美味い」

 

 丁度良い塩味が体に沁みて、その暖かさが活力となる。正直、栄養的にはオートミールだけでも十分であったが、そう云えば、と。アズサは朝、一人で口にしたオートミールの味気なさを思い出した。

 料理としては同じ簡素なものなのに、初日、プールサイドで食べたサンドイッチは、とても美味かった。そして今、こうして誰かに作って貰ったおにぎりもまた、とても美味い。

 

 ――次からは、皆と一緒に食べよう。多分……いやきっと、そちらの方が断然美味い。

 

 あっという間に一つ目のおにぎりを平らげ、二つ目を手に取ったアズサを尻目に、ヒフミ達は顔を見合わせる。

 

「……折角の勢いですし、アズサちゃんが食べ終わったら、早速模擬試験を始めましょうか」

「えぇ、そうですね♡」

 

 鉄は熱い内に打て。

 モチベーションと勢いというものは、実際大事なものだった。

 

 ■

 

 ――第三次補習授業部模擬試験

 

「よし、皆、解答用紙と問題用紙は行き渡ったね?」

 

 先生が机に座り、自信に満ち溢れている皆を見渡す。これで模擬試験も三度目、最初と比較すると随分慣れたものだった。先生の視線が時計をなぞり、それぞれの生徒に問題や解答用紙に欠落が無い事を確認する。

 そして、時計の短針が真上を指し。

 

「それじゃあ――試験開始!」

「っ!」

 

 先生の宣言と同時に、補習授業部の面々は一斉にペンを取り、問題用紙を裏返した。

 模擬試験は通常の試験と同じく、前半は基礎的な問題が殆どで、後半に発展問題を備えている。以前はその、基礎的な問題の部分で躓いていた訳だが――。

 

「……うん」

「ふふっ♡」

「こ、これ、知っている筈……えっと、んと、んんん……あっ!」

 

 所々ぎこちないものの、彼女達のペンはすらすらと解答用紙の上を滑って行く。ペンを動かす事も出来ず、頭を抱えて唸っていた以前と比較すれば、正に雲泥の差であった。ヒフミは空欄を片手間に埋めながら、他の面々の様子を伺い確かな手応えを実感する。

 

 ――皆さん、以前と比べて手の動きが早くなっています……! これなら、もしかすると!

 

 所々唸りながらも、確かにペンを動かしているコハル。頷き、スラスラと手を動かすアズサ。いつも通り、笑みを浮べ空欄を埋めるハナコ。ヒフミはそんな彼女達を尻目に、ペンを強く握り締め、問題用紙へと向き直った。

 

 ■

 

「よーし、お疲れ様、皆……それじゃあ、試験結果を発表するよ?」

「は、はい、お願いしますっ!」

 

 テスト終了後、用紙を回収し採点を行った先生は、その採点結果を見つめながら声を張る。コハルは心配半分、期待半分といった具合。アズサはいつも通り澄まし顔だが、どこか達成感が見て取れた。ハナコは変わらず、笑顔のまま。恐らく一番緊張しているのはヒフミだろう。固唾を飲んで先生の手元を注視している。

 先生は一つ咳払いを挟み、結果を口にした。

 

 第三次補習授業部模擬試験、結果――

 

 ハナコ―六十九点 合格

 アズサ―七十三点 合格

 コハル―六十一点 合格

 ヒフミ―七十五点 合格

 

 その言葉を聞いた時、皆の空気が一瞬固まる。

 全員の視線が先生の手元に注がれ、教室から音が消えた。

 

「や――」

 

 そして、ヒフミが震えながら拳を握り締め、爆発するように両手を突き上げ叫ぶ。

 

「やりましたぁッ!?」

「ほ、本当っ!? 嘘ついてない!?」

「………!」

「あらあら♡」

 

 ヒフミ、歓喜の爆発を皮切りに、先生の元へと群がる補習授業部。先生がひとりひとりに解答用紙を手渡せば、彼女達(アズサとコハル)はどこか信じられない様子で自身の解答を見つめていた。

 しかし、何度紙面を見つめようがその結果が変わる事はなく。赤いペンで示された数字は、自身の合格を如実に物語っている。

 

「凄いです! アズサちゃん、六十点どころか七十点を超えてしまいました! 本当に凄いです! 頑張りましたね……っ!」

「……うん!」

「コハルちゃんも、たったこれだけの期間で合格ラインを越えて来るなんて、凄いです! やりましたっ!」

「ゆ、夢とかじゃないよね……? ほ、本当に……!」

「夢なんかじゃないよ、これはきちんと皆が頑張った結果だ」

 

 先生が満面の笑みと共にそう告げれば、コハルの解答用紙を持つ指が震え、若干涙目になりながらも喜びを噛み締め、拳を突き上げた。

 

「……あはっ、あははっ! そ、そうよ! こ、これが私の実力なんだからッ! 見たかっ!?」

「はい! これぞ正義実現委員会のエリートです、さすがです! それに、ハナコちゃんも……!」

「……運が良かったですね、うふふっ、良い感じの数字です♡」

 

 ハナコは先生から手渡された解答用紙、そこに記載された『69』の文字を見て、嬉しそうに告げる。ヒフミはそんな彼女の手を掴むと、俯き、小さく震えながら声を絞り出した。

 

「よ、良かった……! 本当に、良かったです……っ!」

「ひ、ヒフミちゃん?」

 

 ハナコの手を掴んだヒフミは、笑いながら涙を流していた。それは、安堵と歓喜の涙だった。元来、情に厚いヒフミである。彼女にとって目下一番の問題は、アズサでも、コハルでもなかった。目に見えない、確かな傷を抱えたハナコであった。

 もし、点数を取れない理由があるのなら、それを強要する事が彼女にとってどれだけのストレスになるか、どれだけの苦痛を与える事になるか。元々、彼女の学力は微塵も疑ってはいない、ただ彼女が傷付く事、ヒフミはそれだけが唯々、心配だった。

 

「は、ハナコちゃんに以前何があったのか、どんなものを抱えているのか、私にはまだ分かりません、けれど……それでも、良かったです……! こうやって、皆で笑って合格点を取る事が出来て……ッ!」

「ヒフミちゃん、そこまで――」

 

 鼻を啜り、涙を流しながら笑いかけるヒフミを見て、ハナコは思わず言葉に詰まった。彼女のそれは、自身(ハナコ)の事を心から考えてくれているのだと分かる態度だった。

 他人の為に涙を流せる、それがどれだけ尊い事か――きっと彼女(ヒフミ)は、それを知らないのだ。

 

「……ごめんなさい、ヒフミちゃん、そしてありがとうございます――そんな風に、真剣になってくれて」

「ずびっ、い、いえっ! 前の実力を直ぐ取り戻せるよう、私もお手伝いしますから……! 何でも、相談して下さいね……っ!」

「えぇ、ご心配をお掛けしました」

 

 そう云って、そっとヒフミを抱き締めるハナコ。両腕から伝わる暖かさと震えに、ハナコは静かに瞼を閉じた。

 この居場所だけは、守りたいと、そう強く思う。

 だって、こんなにも暖かい場所を――ハナコは他に知らないから。

 

 ■

 

「という事で、約束通りモモフレンズグッズの授与式を始めます……っ!」

「――ッ!」

 

 宣言するや否や、準備していた大量の縫い包みを教室へと持ち込むヒフミ。アズサの目が分かり易く輝き、反対にコハルとハナコの表情が引き攣る。

 

「あはは……」

「………」

「さぁ、どうぞ! 皆さん好きな子を、欲しい子を自由に選んで良いんですよっ!」

 

 そう云って手を広げ、とても良い笑顔を浮かべるヒフミ。立ち並ぶモモフレンズグッズを前に、彼女は自信満々。実はあの後、アズサ以外には不評だった事もあり、密かにラインナップを増やし、ペロロサウルス(ミニ)やウェーブキャット(マフラー)など、変化球めいた代物も揃えているのだ。

 アズサは我先にと飛びつき、周囲をぐるぐると回って吟味している。その様子を眺めながら、ハナコとコハルはそっと身を引いた。

 

「なるほど、となると……むむっ!」

「えっと、私は謹んで遠慮しますね……」

「わ、私も……」

「あ、あうぅ、そう、ですか……」

 

 そんな二人の言葉に、残念そうに項垂れるヒフミ。折角ラインナップも増やしたのにと、内心で臍を嚙む。しかし、無理強いは出来ない。好きという感情は、誰かに押し付けるものではないとヒフミは良く理解していた。断られた時は素直に身を引くのも、布教活動に於いて大事なのである。

 

「ど、どうしよう、私は……私は……! だ、駄目だ、この中から選ぶなんてそんな難しい事……! あの黒くて角の生えたのも良いし、眼鏡のカバも……!」

「か、カバではなく、ペロロ様は鳥なのですが……」

「どうすれば……このどちらかを選ぶなんて、私には……!」

 

 頭を抱えて蹲るアズサ。その表情は真剣で、本気で悩み、迷っていた。視線はモモフレンズグッズを端から端まで行き来し、その度に選択肢が増える。いっその事、交渉して貰える品数を増やして――等という選択肢はアズサの中に存在しない。最初から、貰える品物は一つ、そう云われていたからだった。

 その言葉をアズサは真剣に捉え、故に苦悩している。

 

「私には、無理だ……頼むヒフミ! 私の代わりに選んで欲しい……!」

「わ、私ですか?」

 

 悩み、悩み抜き、それでも尚決められないという判断を下したアズサは、半ば逃げ出すような格好でヒフミに縋りついた。唐突なパスに驚愕を隠せないヒフミ。しかしアズサの懇願に近い視線を受け、僅かな逡巡の後、モモフレンズグッズと向き直る。

 

「わ、分かりました! えっと、スカルマン様と、ペロロ博士ですよね……強いて選ぶとすると――」

 

 ヒフミは真剣な眼差しでモモフレンズグッズを見つめ、まずアズサが直前まで悩んでいた二択に絞った。スカルマン様はやや大きめの縫い包みで、ペロロ博士は人が抱きしめられる程度の大きさ。骸骨らしい模様をしたスカルマンと、眼鏡をしたペロロの縫い包み。互いの背景を考え、今の彼女に相応しいグッズは――。

 

「……こちらの、インテリなペロロ博士でどうでしょうか!?」

「……! よし、じゃあこの子にするっ!」

 

 ヒフミがペロロ博士の方を取り上げると、アズサが大きく頷き、ヒフミから縫い包みを受け取った。初めて縫い包みを手にしたアズサは、その指先から伝わる妙な弾力と暖かさに感動する。

 

「実は、このペロロ博士は物知りで、勉強も出来るという設定なんです、まさに今、お勉強を頑張って、凄い成長をしている真っ最中のアズサちゃんにぴったりかなと!」

「なるほど、そうなのか!」

「ちょ、ちょっとだけ勉強をし過ぎて、おかしくなっているという裏設定もあるのですが……」

「そ、それ大丈夫なの……?」

 

 コハルが思わずそう口走るが、ペロロ博士の表情を見ると、とても大丈夫とは思えなかった。いや、それは博士に限らずペロロ全般に云える事ではあるが。

 

「――うん、気に入った! ふわふわで、本当に可愛い、好き、えへへ……」

 

 そう云って縫い包みを抱きしめるアズサ。一頻り頬ずりをして満足したアズサは、満面の笑みでヒフミに礼を云った。

 

「ありがとう、ヒフミ、これは一生大切にする!」

「あ、ありがたいですが、そこまで言っていただけるとちょっと吃驚してしまいますね……!? ですが、私も嬉しいです、それはアズサちゃんがやり遂げたからこそですよ」

「うん、それでも同時に――友達から貰った、初めてのプレゼントだから」

 

 呟き、抱えた人形を強く抱きしめる。アズサにとってこれは、ただのプレゼントではないのだ。

 大きな――とても意味のある、大事なプレゼントだった。

 

「これからはこのカバの事を、ヒフミだと思って大事にするから!」

「そ、それはちょっと恥ずかしいですね!? あ、あとカバではなくペロロ様は鳥でして……」

 

 アズサは相変わらずペロロの事をカバだと思っている様だが、そのニコニコ顔を見ているとヒフミも強く云えない。まぁ、アズサちゃんは幸せそうだし、誤解を解くのは追々でも――そんな風に考え、そっと笑みを零した。

 

「……良し、それじゃあ、私からも皆にプレゼントがあるんだ」

「えっ、先生からも、ですか?」

「うん、補習授業部の皆に、これを――」

 

 ヒフミの問いかけに頷き、先生は教卓の裏にあった紙袋を取り出す。そして中を開くと、丁度掌サイズ位の人形達が目に映った。

 

「……あら♡」

「わっ……!」

 

 教卓の上に取り出された、その小さな人形達に視線が集まる。コハルが覗き込むようにそれらを見つめ、先生に問い掛けた。

 

「先生これって、もしかして――」

「うん、頼まれていた補習授業部の人形だよ」

「これは、素晴らしい出来ですね♡」

 

 先生が制作した人形は、補習授業部の皆が揃って横に連なったもの。一人ひとりの大きさは指先より少し大きい程度で、特徴を捉えたデフォルメがされている。左から順にハナコ、コハル、アズサ、ヒフミ、そして先生。連なったそれらはワッペンの様にも見えて、五人並んでも大きさは掌に収まる程度だった。

 

「キーホルダーみたいに持ち歩けるようストラップ付だから、鞄とかに付けてくれると嬉しいかな」

「わぁ……! す、凄いです、先生、これを自作したんですか!?」

「まぁね、全部手作りだから既製品みたいに全く同じ……っていうのは難しかったけれど、出来得る限り均一に作ったから」

 

 アズサが皆と同じように人形を覗き込み、息を呑む。

 彼女はペロロ博士を抱えたまま、どこか戦々恐々とした様子で先生に問いかけた。

 

「これは……わ、私も貰って良いのか? それとも、コハルやヒフミ、ハナコの分だろうか……? 私はもう、ヒフミから素晴らしいご褒美を貰っているのだし……」

 

 そう云って、口元をペロロ博士の頭部に埋めるアズサ。その瞳は、卓上の人形を捉えて離さない。勿論、先生がひとりの生徒を仲間外れにする筈もなく、先生は紙袋の中から四人全員分の人形を取り出し、笑った。

 

「勿論、これは補習授業部皆の為に作ったものだから、遠慮なく持って行って」

「そ、そうかっ! ありがとう、先生!」

 

 その言葉にアズサは破顔し、皆がそれぞれ人形を手に取る。

 文字通り数量限定で、此処にある四つしか存在しない代物だ――いや、正確に云えば、先生の部屋にある試作品を含めれば五つ。皆はストラップを摘まみながら人形をあらゆる角度から眺め、その感想を語り合っていた。

 

「ふふっ、アズサちゃんのこの顔、そっくりですね♡」

「む、そ、そうだろうか……? 自分だと、その、良く分からない」

「確かに……意気込んだ時のアズサちゃん、こんな感じですよね、こう、フンス! って感じで――」

「ヒフミは相変わらずあの気持ち悪い鳥を抱えているんだ……」

「こ、コハルちゃん! 気持ち悪い鳥ではなくペロロ様です!」

「先生のデフォルメは、何と云うか……凄く簡素ですね?」

「うん、ぱっと見、子どもの落書きにも見えるが……これはこれで味がある」

「この笑顔の感じはそっくりですよね!」

「――あ、ハナコの人形も何か持っているけれど、先生、これは?」

「それはね、カーマスートラだよ」

「カー……え、なに?」

「あらあら♡」

 

 ハナコがどこか照れたように、或いは嬉しそうに笑う。どうかハナコの表情から察してくれると嬉しい。

 アズサは左手にペロロ様を抱きかかえ、右手で皆の人形を包み、どこか落ち着きなく足踏みしていた。彼女にとって、今日という日は忘れられない一大イベントになるだろう。

 何せ――。

 

「大変だ、一日に大切なものが二つも出来た……!」

「えぇ、これは大事にしないと、ですね♡」

「その……ありがと、先生」

「うん、どういたしまして」

 

 皆が皆、人形を大切に包み、笑顔を見せる。ヒフミはストラップの伸び具合を確かめながら、早速とばかりにペロロ様のバッグを持ちだすと、そのファスナーにストラップを括り付けた。その状態でバッグを背負い、軽く弾んで見せる。彼女の動きに合わせ、人形が上下に揺れていた。

 

「えへへ、ど、どうでしょう? 変じゃないですか?」

「えぇ、とってもお似合いですよ、それなら、私も――」

 

 ハナコは頷き、自身も人形をポーチに括り付ける。コハルもそれを見て、同じように見様見真似でストラップを括った。

 

「む、む……私は――」

 

 アズサは、皆がバッグやポーチに人形を括り付けるのを見て、少し悩む素振りを見せる。彼女も教材用のバッグや戦闘用の背嚢は持ち込んでいるが、彼女達の様に常用している訳でもなく、肌身離さず持ち歩いている訳でもない。何となく、大事ではないものに付けたくなくて、悩みに悩んだアズサは、人形を胸元の留め具に括り付けた。制服は毎日着用するし、着替える際に一々取り外しするのは手間だが、逆に云えば絶対に失くさない。

 

「あら、アズサちゃん、そこに付けるのですか?」

「うん、ここなら絶対に失くさないし、紐が切れたりしても気付けるから」

「流石に胸元だと、ちょっと邪魔じゃない……?」

「問題ない、バリスティックベストと比べれば全然軽いし」

「それは、比較対象がおかしい様な……」

 

 胸元に補習授業部の人形をぶら下げ、ふんすと鼻を鳴らすアズサ。どうだ、これは名案だろうとばかりに胸を張るアズサを前に、ハナコは苦笑を零した。本人がそれで良いというのであれば、それ以上何も云うまい。

 

「と、ともあれ、これでやる気は十分です! この調子で成績を上げて、皆で補習授業部を卒業しましょう!」

「おーっ!」

 


 

 

 ――これが夢なのだと、私は知っている。

 

 

 ■

 

「――せい、先生ッ!」

 

 声が、聞こえる。

 それが誰のものか、酷くノイズの混じった音からは判別が出来ない。ただ、誰かが必死に、自身の名前を呼んでいる事だけは確かだった。小さく揺れる体、揺すられているのか。けれどその感覚は曖昧で、夢心地だ。

 大丈夫、直ぐ起きるよ――そう口にしようとして、けれど舌のひとつも動く事はなかった。ただ、か細い呼吸音だけが口元から漏れていた。

 歪んだ視界の先に、自身の指先が映る。うつ伏せに転がったまま、赤いそれの中に沈む――先生(わたし)

 

「――大丈夫です、まだ息はありますっ! ヒフミちゃんのバッグが、ギリギリのところで先生を救ってくれましたっ……!」

 

 誰かが、自身の体を弄っている。その触れた場所が、酷く痛んで、思わず呻いた。赤が、視界を埋めていく。体が怠い、息が、続かない。喧騒が周囲に響いていた。誰かの駆ける音、叫び声、悲鳴、怒声、皆が、私の名前を呼ぶ。

 私――わたし、は?

 

「――せ、せんせい!? 先生っ!」

「っ、コハルちゃん、揺らしてはいけませんッ! 何方か、医療班を、早くッ!」

「お、おいッ! 至急救護騎士団を呼んで来い! 急げよッ!?」

「は、はいっ!」

 

 直ぐ傍で、幾人もの生徒が声を張っていた。うつ伏せになったまま、そっと視線を動かす。血が額を流れ、片目を覆っていた。

 ふと、歪んだ視界の先に、見覚えのある顔が映った。

 

「ぇ、ぁ………え……?」

 

 涙を流し、頬に赤を付着させた――聖園ミカ(私の友人)だった。

 所々制服が薄汚れ、破けているものの健在。しかし、その顔には真っ赤な血と煤が付着し、その視線は座り込んだ自身に縋りつく様な恰好で倒れ伏す、先生(わたし)を見ていた。どこか信じられない様に、受け入れられないとばかりに、彼女は唇を震わせる。

 

「な、に……これ………?」

 

 震える声で、彼女は云った。

 瞳孔を開き、震える指先を何度も先生に向けては引っ込め、首を横に振る。その事実を認めたくないと、こんなのはあり得ないと。だって、だって彼女の考えていた結末は、こんな筋書きではなかった。そうだとも、仮に失敗するとしても、こんな、こんな結果には――。

 

「ぇ、ぅ、そ……でしょ、はは……せ、先生、が……なんで、私なんか、庇って――……」

「――ミカさん! ミカさんッ! 確りして下さ……ッ、確りしなさいッ!」

 

 ハナコの、強烈な平手打ちがミカの頬を打った。甲高い音が鳴り響き、ミカが目を見開く。震えたままゆっくりとハナコへと視線を向けたミカは、その血に塗れた手で頬を抑えながら、呆然と呟いた。

 

「ぁ――あ、う、浦和、ハナコ……?」

「惚けている場合ではありませんッ! いち早く治療しなければ、先生はっ――あなたはティーパーティーの一員でしょう!? 今為すべき事をっ、為せる事を為しなさいッ!」

 

 ハナコの真剣な、それでいて涙の混じった絶叫に、ミカは小さく何度も頷いた。

 呆然としたまま、けれど云われた事は理解出来ると、喉を震わせる。カラカラに乾いた口内、唾を呑み込むと、酷い鉄の味がした。

 

「あ、そ、そう、だよね、そう……先生、っは、早く、治療……しない、と――」

 

 両手を先生に伸ばし、その背中に――押し付ける。

 血が、どんどん溢れて来る。赤黒いそれは、一向に止まる気配がない。その、妙な暖かさがミカの両手から零れ落ちる度、先生の死が一刻一刻と迫っている様で、背筋が凍った。

 慌てて、ミカは自身のケープを脱ぎ捨て、先生の傷口に押し当てる。血を吸い、変色したケープは重く、ものの数秒で溢れてしまう。これが果たして意味のある行為なのか、彼女には分からない。ただ、ミカは小さく、「先生、先生……」と呟きながら、傷口を抑える事しか出来なかった。

 ――それでも、血は止まらない。

 

「……あぁ、ぅあああッ! やだッ! 先生、せんせぇっ!? 起きて、起きてよぉ!?」

「――っ、コハルちゃん! コハルちゃん、落ち着いて下さいッ! 駄目です、今はっ!」

 

 最初に限界が来たのは、コハルだった。辛うじて自制出来ていた感情が決壊し、涙を流し、狂乱しながら先生に向けて必死に手を伸ばしていた。ヒフミは、蒼褪めた表情のまま立ち竦んでいたが、コハルの声に辛うじて意識を取り戻し、背後から彼女を抱きしめる様に押さえつける。

 今は、身体を揺する事さえ恐ろしく感じた。ほんの、些細な刺激でさえ――先生の死に直結してしまう様な気がして。

 

「あの――後ろ姿は……ッ!」

 

 声がした。

 アズサの、聞いた事のないような声だった。

 

「あいつ、は……ッ!」

「え、あっ、アズサちゃんッ!? 一体どこに!?」

「―――ッ!」

 

 銃の安全装置を弾く音。次いで、弾倉を切り替える音。ヒフミが気付いた時、既にアズサは駆け出し、人の群れの中に飛び込んでいた。その、純白の制服が黒に紛れ、見えなくなる。

 

 ヒフミが最後に見たアズサの瞳は――憎悪と憤怒に満ちていた。

 

「――ま、待って! 待って! アズサちゃんッ!?」

「ああぁあッ、先生ぇええ!?」

「っ、こ、コハルちゃん……! 暴れないでっ、ぁあ、ううぅ……ッ!」

 

 ヒフミは、アズサに手を伸ばし、けれど今にも駆け出そうとするコハルに体を引っ張られ、その場で堪えるのに一杯一杯だった。辛うじて我慢していた涙が溢れ、ぼろぼろと頬を伝う。周囲は、喧騒に満ちていた。血と、火薬と、硝煙の匂い。平和だった、つい数日前が、まるで嘘みたいに。

 黒ずみ、ボロボロに裂けたペロロのバッグをヒフミは見つめる。

 

「ど、どうして……なんで、こんな、事に……ッ!?」

 

 そのファスナーに取り付けられた補習授業部の人形は――先生だけが焼け焦げ、千切れていた。

 

 ■

 

「っ、はッ!?」

 

 飛び起き、大きく息を吸い込む。自身の胸を掴んだまま、荒い呼吸を繰り返す彼女は、自身の体に手を這わせ、何処にも傷が無い事を確かめる。肩、背中、腕、痛みはない、怪我もない――ただ、脳裏にこびり付いたリアルな体験だけが、感覚として肉体に残っている。大きなベッド、月の綺麗な夜、自室を模したその部屋で、彼女は再び目を覚ます。

 

「ぅ、は、はッ! はぁ……うぅ、ッ!」

 

 頭を抱えて、思わず唸った。

 それは、ここ最近何度も繰り返された行程だった。

 此処もまた――夢の中。

 彼女は夢の中で、夢を見る。

 何度も、何度も、何度も。

 

「また、またこの予知夢……っ!?」

 

 叫び、自身の顔を覆う。声なき絶叫を上げ、喉を震わせる。それが仮初の肉体で、実体は未だ病床の上であると理解して尚、その感情を吐露せずにはいられなかった。背を丸め、大きく息を吐き出し、彼女は呟く。

 

「は、はは……これでも、まだ、序盤なのだよ先生……? まだまだ、これから、苦しい事が、辛い事が、目を背けたくなる様な事が、沢山待っているんだ……何もかもが虚しく、全てが破局へと至るエンディング……なのに、何故」

 

「――どうしてあなた(先生)は、信じ続けられるんだ(諦めないんだ)……?」

 

 ■

 

 先生、もしかしてまだ、自分が死なないとでも思っているんじゃないのか?(純愛百二十パーセント)

 エデン条約のミサイル着弾までは、手足は無事だとか、そこまで大きな怪我はしないだとか、そんな風に思っていたりしたんじゃないか?

 そんな酷いことしないから安心してね♡ 苦しんでいる先生の姿は凄く素敵だから、沢山の生徒に見て貰おうね。私もその為に、精一杯頑張りますわ~~!!

 少しずつ、日常は浸食されるのですわ。ほんの少しずつ、足元から順々に。そして予知夢っていうのは大抵、どんどん悪くなるものなのですわ。特に、先生に関しては。素敵ですわね~~~~!!!

 

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