補習授業部、第三次特別学力試験前、最終日。
明日の試験に向けて、今日だけはきちんとした睡眠を取ろうと決め、日付変更前にベッドへと横になった補習授業部の面々。久方ぶりのちゃんとした就寝に、ヒフミ、コハルの両名はすぐさま夢の中へと誘われ、そっと寝息を立てている。
そんな中、動き出す影が一つ。
「………」
彼女、アズサはいつもそうしていた様に音もなく起き上がると、同じ場所に用意していた制服と愛銃を掴み、足音を殺して部屋を後にする。今日はきちんと休むと口にしておきながら、彼女はその約束を反故にした。
「………」
その背中を、横たわりながら薄目で確認していたハナコ。
彼女もまた、同じように起床する。用意していた制服を掴み、端末をポケットに押し込む。
そして立て掛けられていた彼女の愛銃――
■
「――アズサ、日程が変わった」
「………?」
「明日の午前中だ、約束の場所で命令を待て」
トリニティ郊外、廃墟。
いつもと同じように報告を済ませたアズサは、しかし常と異なる言葉に身を強張らせる。彼女――アリウススクワッドのサオリは淡々とした口調で計画の実行を告げた。それはアズサの予想していた数段早い動きで、思わず焦燥を顔に出してしまう。壁に背を預け、月に照らされたサオリを見据えながら、アズサは思考を巡らせる。
「ま、待ってサオリ、明日は……」
「何か問題が?」
「……まだ準備が出来ていない、計画よりも日程を早めるのは、リスクが大きすぎる」
アズサはそう云って、計画が時期尚早である事を告げた。計画は、慎重に実行されるべきだ。そうでなければ今まで集めた情報、用意した物資、そして根回しが無駄になってしまう。それは避けなければならない、リスクは僅かであっても回避するべきだ。突発的な好機に逸っては、結果的に悪い結果になりかねない。そう力説し、自身の正当性を主張する。それは、別段おかしな事ではない。メリットよりも堅実性を取る事は、それはそれで合理的な思考である。
サオリはアズサの主張を全て聞き届け、その言葉に目を閉じる。
数秒、間があった。アズサはその沈黙を前に冷汗を掻き、息をのむ。
「お前の言葉にも、一理ある、計画を前倒しにするリスクは確かに少なくない」
「な、なら……!」
「――だが、明日の決行は既に確定事項だ、計画を前倒しにするリスクよりも、この機を逃すデメリットの方が大きいと判断した、準備が出来ていないのならば出来ている範囲で構わない……最低限、動ける準備はしておけ」
「………っ」
アズサの言葉は、サオリの決定を覆すには至らない。思わず歯噛みし、俯く。そんなアズサの傍に歩み寄ったサオリは、その肩に手を置くと淡々とした口調で告げた。
「明日になれば全てが変わる、私達アリウスにも、このトリニティにも、不可逆の大きな変化が起きる事になる」
これは、歴史の転換点だ。そう云ってサオリはアズサの瞳を覗き込む。
このキヴォトスに於いて最大規模の学園として君臨してきた一角、そのトリニティを崩す。これが実現すれば、キヴォトス内に於けるパワーバランスは崩壊し、その椅子に新たな学園が座る事になるだろう。
そして、その座を勝ち取るのは――彼女達アリウスだ。
「トリニティのティーパーティー、そのホスト――桐藤ナギサの
言葉は、どこまでも冷たい響きを伴っていた。
その為に、アズサはトリニティに潜入した。その為に彼女はこんな『場違い』な場所に立っている。この制服も、紡いだ絆も、過ごした時間も――全て偽物。
この場所にやって来て、手に入れた本物なんて、ひとつもない。
アズサは俯いたまま、静かに口を開く。
「……分かっている」
「あぁ、お前の実力は信頼しているよ、上手くやれ――
「――了解」
頷き、アズサは無言で踵を返す。割れた硝子片を踏みしめながら、薄暗い廊下を歩いて行くアズサ。その背中を見送るサオリは、ふと声を上げた。
「アズサ」
「……?」
顔を上げ、振り向くアズサ。月明かりが彼女の髪に反射し、その白が躍った。サオリは口元を覆っていたマスクを外し、素顔を晒しながら問いかける。その瞳は真っ直ぐ、彼女の胸元にぶら下がった、補習授業部の人形を見つめていた。
「――忘れていないだろうな、『Vanitas Vanitatum』」
それは、アリウスの根幹を成す言葉。
幼い頃より言い聞かされて来た、唯一無二の真理。
「……全ては、虚しいもの」
呟き、アズサはその一句を口ずさむ。
「どんな努力も、成功も、失敗も……全ては、無意味なだけ」
そう、彼女はそう教えられてきた。
幼い頃から、どんな理不尽も、暴力も、運命も、全ては虚しく、無意味で、だからこそ何も考える事はなく、何も想う事はなく。ただ粛々と、ただ淡々と、大人の言葉に従えば良いのだと。失敗すれば殴られ、蹴られ、反抗すれば食事は与えられず、牢の中で日々死を待つのみ。
――大人の言葉に従い、反抗せず、将来に希望を抱かぬ様に務め、祈らず、幸福を求めず、無意味に生きて、無意味に死ぬ。
それがアリウスだ。
それが
それが――自分達に許された全てだ。
それを想い、アズサは告げる。
「――一度だって、忘れた事はない」
「……あぁ、それで良い」
その答えを聞き届け、サオリは小さく頷いて見せる。
希望を持ってはいけない、幸福を求めてはいけない、それは自分達にとって毒にしかならないから。
「先生には、まだ手を出していないんだな」
「……うん、先生に怪しい動きはない、下手に手を出したら私の立場が危うくなる」
「そうか――ならば良い、決行と同時に先生への始末もつける」
「………」
呟き、サオリは再びマスクを着用し口元を隠す。先生を抹殺する事は既に決まっている、そしてその手段も――。アズサは何も云わない、何も云えない。
「生徒として近付けば始末するのは簡単だろう、先生は――お人好し、だからな」
その声には、何の感情も込められてはいなかった。
「では明日……準備を怠るな」
そう云ってサオリは踵を返す。アズサは去り行く彼女の背中を暫く見つめ、自身もまた身を翻した。最後に残るのは、音の消え去った廃れた回廊のみ。割れた窓硝子から差し込む月明かりが、雲に遮られる。
「………」
そして、去り行く二人の後姿を――ハナコは物陰からずっと見つめ続けていた。
■
第三次特別学力試験、前夜――自室でひとり最後の確認を行っていた先生は、就寝前にも関わらず制服姿でタブレットを操作していた。勿論それは、これから起こる事を事前に知っているからであり、そして万が一の襲撃に対応する為のものである。タブレットに表示されるのは、現在の各派閥の動きとその凡そのタイムスケジュール。先生はそれらをじっと見つめながら、ただ時を待つ。
すると、不意に自室の扉がノックされた。先生が声を上げるより早く、そのドアノブが捻られ影から顔を覗かせる生徒がひとり。
「こ、こんばんは先生……まだ、起きていらっしゃいましたか?」
「ヒフミ……」
どこか申し訳なさそうに、そう口にしながら顔を見せたのはヒフミ。彼女は不安そうな面持ちで扉を開けると、小さく頭を下げた。先生は椅子から立ち上がり、彼女の前に立つ。
「どうしたの、もしかして、眠れない?」
「は、はい、その……緊張と不安で、へへ……」
頬を掻き、俯くヒフミ。その目元には未だ薄らと隈が見え、疲労も抜けきっている様には見えない。時計を見ると、時刻は既に午前三時、十一時に就寝した事を考えると睡眠時間は四時間ほどか。この一週間の中では比較的長い睡眠と云えるが、十分とは云い難い。そんな感情を覗かせながら先生は何かを口にしようとして、しかし唐突に廊下から顔を覗かせた新たな生徒に、思わず言葉を呑み込んだ。
「ふふっ、私も来ちゃいました♡」
「あ、ハナコちゃん……」
「――ん、皆、何しているの……?」
「こ、コハルちゃんまで?」
顔を覗かせたのは、ハナコとコハル。ハナコはトイレのあった方向から、コハルは彼女達の寝室の方から目を擦り、歩いていた。結局、アズサを除いた全員が起床している事になる。コハルは何度も目を擦りながら眠気を振り払うと、どこか申し訳なさそうな表情をするヒフミと、相変わらず笑みを浮かべているハナコに指を突きつけ、云った。
「明日は試験なのに、何しているのよ、休む事も大事だって云ったのはそっちでしょ……? っていうか、起きたら部屋に誰も居ないし……まあ、緊張する気持ちは凄く分かるけれど」
「……す、すみませんコハルちゃん、どうしても寝付けなくて」
どこか怒気を見せるコハルに、ヒフミは謝罪を口にする。ハナコはそんなコハルに小さく謝りながらも、先生とコハル、ヒフミの三人を見渡しながら、真剣な表情を見せた。
「実は先程、シスターフッドの方々と少し会って来たんです、色々と調べたい事がありまして……」
「調べたい事?」
「はい、明日、私達が試験を受ける予定の第十九分館についてなのですが……」
そう口にした途端、ヒフミとコハルの表情が分かりやすく蒼褪める。思い返されるのは第二次特別学力試験。あの時も、掲示板の内容が変更されたのは唐突だった。
「ま、まさかまた場所が変わって……!?」
「いえ、そうではありません、ただ――」
俯き、ハナコはどこか云い辛そうに言葉を続けた。
「この後、第十九分館には大規模な正義実現委員会の派遣が決定されていて、建物全体を隔離するとの事でした」
「えっ、は!?」
「建物を、隔離……?」
「はい、エデン条約に必要な重要書類を保護する――という名目でティーパーティーから要請があり、建物全体を正義実現委員会として守る厳戒態勢に入ったとか」
「な、なにそれ……」
そんな話、聞いていない。コハルは思わずそう漏らす。正義実現委員会を一時的に離れている以上、情報の伝達が無い事は別段驚くべき事ではないが、だとしても本校舎の生徒が知っている様な事さえ告知されていないのは明らかに意図的なものだった。そんな彼女の驚愕を他所に、ハナコは続ける。
「それから、どうやら本館の方にも戒厳令が出ている様です、昨日から妙に静かだったのは、このせいみたいですね」
「か、戒厳令……? そんなの、初めて聞きました……」
「恐らく、誰一人あの建物への出入りは許されません――エデン条約が締結されるまで、ずっと」
ハナコはどこか、重々しい気配を纏いながらそう告げた。エデン条約締結までの、建物封鎖。それはつまり、立ち入りが許されないという事だ。一般生徒も、行政官すらも、そして勿論――この補習授業部も。
思わず、コハルは声を荒げる。
「ちょ、ちょっと待って! それなら私達の試験はどうなるの!?」
「つまり、こういう事だろう――試験を受けたいのであれば、正義実現委員会を敵に回せ、と」
「え……――」
先生の淡々とした声に、ヒフミは思わず息を詰まらせた。正義実現委員会を、敵に回す? その言葉に一番動揺したのは当然、コハルだ。彼女は分かりやすい程に取り乱し、服を握り締めながら叫んだ。
「そ、そんな……! わ、私がハスミ先輩に事情を説明して……!」
「……いや、それはやめた方が良い、ナギサはハスミに裏側の理由を知らせていないだろうし、それにハスミが私達を助ければ、それはティーパーティーに対する明確な離反行為と取られかねない、その場合、ハスミも正義実現委員会を追放されてしまう可能性がある」
「なっ、う、ぁ――うぅ……そ、そんな……!」
先生の冷静な指摘にコハルは思わず絶句し、俯く。建物に入らなければ試験は受けられない、しかし建物全体は封鎖されており、そこの防衛として正義実現委員会が出動している。つまり、正義実現委員会を突破しなければ試験会場には入れない訳で――。
その身内同士ですら衝突を厭わない悪辣な策に、ハナコは呆れた息を吐く。
「全く――第二次特別学力試験の時も思いましたが、どうやらナギサさんは、本気で私達を退学させようとしているようですね」
「ど、どうして、そこまで……」
ヒフミは思わず、そんな言葉を吐く。例え退学させるという目的の為とはいえ、ここまでやる必要があるのか? そんな疑念が胸に渦巻いた。先生を危険に晒し、試験内容に手を加え、あまつさえ仲間同士で銃を向け合う様に仕向ける。
こんな仕打ちは、最早――。
「――私のせいだ」
不意に、声が響いた。
廊下で立ち竦んでいた補習授業部の面々は、声の響いた方向へと顔を向ける。
そこには薄暗い廊下の中、窓から差し込む月明かりに照らされたアズサが立っていた。彼女は制服姿で、愛銃を抱えたまま佇んでいる。その顔は、影に覆われ視認できない。
「あ、アズサちゃん! どこに行っていたんですか……!?」
「………」
ヒフミは思わず声を上げ、駆け寄ろうとする。
しかし、それを止める人物がいた。動き出そうとしたヒフミの肩を掴み、どこか刺々しい気配を放つ生徒。
「えっ、あ――は、ハナコちゃん……?」
「――アズサちゃん、私達に云うべき事があるのではありませんか?」
そう、いつもとは異なる調子で云い放つハナコ。アズサは、そんな彼女の姿を見て、ぎゅっと唇を噛んだ。仲間から向けられる視線、困惑、不安、信頼――そして、僅かな敵意。
俯いた顔をそのままに、妙に緊迫した空気が流れる。ヒフミは唐突なそれに困惑顔で、コハルに至っては目を白黒させている。
アズサは数度深呼吸をし、愛銃の銃口を地面に垂らして、努めてフラットな口調で言葉を紡いだ。
「……ハナコの云う通りだ、皆、先生も、聞いて欲しい――話したい事が、あるんだ」
「アズサちゃん……?」
「アズサ、ど、どうしたの……? 具合でも、悪いの?」
ヒフミとコハルが、どこか様子のおかしいアズサを見て問いかける。アズサの持つ愛銃が、カタカタと震えていた。
「そんなに、震えて……よ、良く分かんないけれど、寒いなら――」
「――ずっと、隠していた事があった」
コハルが堪らず駆け出そうとして、けれどそれを遮る様にアズサは声を張った。夜の廊下に、彼女の悲鳴染みた声が響く。びくりと震えたコハルが足を止め、目を見開きながらアズサを見つめる。
「でも、ここまで来たらもう、これ以上隠しておけない……いや、隠しておきたくない」
床を見つめながら、アズサは言葉を絞り出す。腹の底から紡がれたそれは、酷く震えていて、弱々しかった。けれど、黙っておくことは出来ないと、聞いて欲しいと。アズサは胸元にぶら下げた人形を握り締める。
補習授業部の人形、その友愛の証を握り締めながら、アズサは声を出そうとする。
「わ……――わたし、は……」
云わなければならない。
伝えなければならない。
だから――声を出せ。
そう自身の体に命じるのに、喉が震えない、舌が、回らない。脳裏を過るのは、補習授業部として過ごして来た一ヶ月に満たない日々。
皆で合宿所の掃除をして、プールサイドでご飯を食べて、先生の持ち込んだテーブルゲームでちょっと遊んだり、普段はしない雑談なんかに興じてみたりして、朝の弱い友人と一緒にシャワーを浴びて。
皆で洗濯をして、それを泥だらけにして、水着で体育館に集まって話したりして。夜に学校を抜け出して悪さをして、けれどそのスリルが楽しいのだと笑い合って、勉強の成果が出て人生で初めてのプレゼントを二つも貰って、本当に嬉しくて。
辛かったけれど、皆が同じ場所を目指して頑張って、苦手で、不得手な勉強だけれど、漸くそれが楽しい事なのだと分かって来て、もっともっと、皆とこうして過ごしたいと、そう思って――思えて。
けれど、此処までだった。
アズサという少女が結んできた絆の全ては――偽物だ。
どれだけ楽しくても、どれだけ捨て難い絆でも。
それは持っていてはいけないものだから、全ては虚しいものだから。
だから――。
「――アズサ」
「……ッ!?」
ポロリとたった一粒だけ涙が零れ落ちた時、先生の低い声がアズサの耳を揺らした。肩を跳ねさせ、顔を上げる。その暗闇の向こうに、先生は佇んでいた。
真剣な、けれど優しい顔で。
「先生……」
「大丈夫」
彼は、告げる。唯一アズサの正体を知っていながら、けれど最後まで生徒として慈しんでくれた先生は。真剣に、真摯に、どこまでも強く。
「皆を、信じて」
「―――」
その声に、アズサはあらゆる感情を呑み込んだ。胸元の補習授業部人形を握り締め、歯を食い縛る。そうだ、ずっと云い続けて来た事じゃないか。
例え、虚しくとも。
例え、無意味であっても。
それまでに抗った事実は、時間は、紡いだ絆は。
きっと、無意味なんかじゃないと、そう思うから――。
息を、吸い込む。
恐怖がある、不安がある、これを口にした後に、仲間達から、友人から、どんな目で見られるのかという恐ろしい想いがある。
けれど、それでも、もう偽りたくない。
それで全てが壊れる事になっても、この胸に、皆と紡いだ思い出がある限り。
――自分は、戦い続けるから。
「……ティーパーティーの、ナギサが探している、トリニティの裏切者は」
補習授業部の皆が、アズサを見る。その視線に晒されながら、アズサは一歩前に踏み出す。窓から差し込む月明かりがアズサを照らし、そのどこまでも真剣な、そして強い意思を秘めた瞳を晒した。
「――私だ」
「こっちだよ、ヒヨリ、ミサキ、此処に隠れよう」
「さ、サオリ姉さん……」
「しーっ! 静かに、もっと頭を下げて」
「は、はいぃ……」
「………」
アリウス自治区。倒壊した市街地、その中央道。彼女達が滅多に踏み込むことが無い表道にて、サオリ、ヒヨリ、ミサキの三人は息を潜め顔を覗かせる。
裏路地でひっそりと、誰にも見つからないように生きている彼女達は、襤褸布に近いシャツとパンツのみを着用し、近場にあった建物の間に身を差し込む。散乱した木板やベニヤ板、瓦礫を隠れ蓑に表通りに目を向ければ、幾人もの人だかりが見えた。
その更に向こう側に、サオリ達も見た事もないような、清潔で装飾品に彩られた女性の姿が見えた。何枚も重ねられたそれに遮られ、顔や体格は視認できないが艶やかな紫の髪が風に靡く様は印象的であった。
サオリに頭を抑え込まれ、挙動不審に周囲を見渡していたヒヨリは、その絢爛華麗な姿を見て思わず問いかける。
「さ、サオリ姉さん、あの中央に居るのは誰ですか? す、す、すごくきれいな服を、き、着ているけれど……」
「私も良く知らない……偉い人なんじゃないかな」
ヒヨリの視線をなぞり、同じ人物を視界に捉えたサオリはそう呟く。豪華な衣服を着込み、沢山の護衛に囲まれた人物。物々しさを感じるが、同時にどこか高貴な気配と尊さを感じる。学のない自分達ではその人物がどれだけ偉くて、凄い人物なのかは分からないが、きっとあんな凄い服を着れる位の人だ。自分達が思っているよりもずっと凄くて、偉い人なのかもしれない。そんな事を考える。
すると、その行列を見ていたミサキが言葉を漏らした。
「……周りの声からすると、お姫様なんだって、高貴な血を引いているとか、何とか」
「お、お姫様!? お姫様なんですか!? す、凄いですねぇ、世の中には、本当にお姫様もいるんですね? わ、私達のような底辺とは違って……」
告げ、ヒヨリはその目を輝かせる。お姫様だとか、王子様だとか、そういうのはもっと、絵本の中の登場人物に過ぎなくて、現実になんて居ないとずっと思っていた。けれど実際に見たお姫様は本当に綺麗で、襤褸布何か身にまとう自分達とは全然違う世界に生きていて――ヒヨリはどこか眩しそうに、嬉しそうにしながらゆっくりと歩く彼女を見つめていた。
「飢えたりもしないだろうし、怪我だって、しないでしょうし……み、道端の隅っこで寝たりもしないですよね? 多分、おっきなベッドを独り占めして眠るんです、そうですよね……?」
「う、うん……良く知らないけれど、そうなんじゃない?」
お姫様という存在に全く詳しくないサオリは、その表情を困惑に染めながらも頷く。自分達には想像も出来ない生活だが、お姫様という位なのだ、多分そういう生活をしていても可笑しくはない。
その返答を聞いたヒヨリはへらりと口元を緩め、自分の傷だらけで、がさつき、所々血の滲んだ両手を見下ろしながら云った。
「えへへ……この世の中には苦しみしかないと思っていましたけれど、あんなに綺麗で、幸せに過ごせているお姫様も居るんですね……! 何だか感動です……! うわぁぁん!」
「きゅ、急に泣かないでヒヨリ! バレるでしょう!?」
「す、すみませんサオリ姉さん、で、でも、うわぁああん!」
お姫様を見て泣き出したヒヨリ、その口元を慌てて掴むサオリは思わず冷汗を流す。彼女達にとって、世界は苦しいもので、残酷で、不公平だ。何も持たず、野垂れ死ぬ様な孤児が殆どのこの場所で、あんな綺麗で、満ち足りた人がいる事。こんな世界にもそんな人が居るのだと云うだけで、何となくヒヨリは救われた様な気がした。それが涙という形で頬を伝い、サオリはこんな時、どんな表情をすれば良いのだと困惑する。
しかし、そんな二人を他所にミサキは酷く冷めた目で行列を見ていた。ゆっくりと歩き続けるお姫様、その両脇に侍る、銃を持った兵士達。
「……お姫様って云っても私達と変わらない境遇か、もしかしたらそれ以下の扱いだと思うよ」
「……?」
どこか、吐き捨てる様な云い方だった。
先程まで大泣きしていたヒヨリは、その零れ出た涙を拭うとミサキを疑問の目で見上げる。壁に寄り掛り、目を細めたミサキは漠然と行列を眺めながら続けた。
「パレードに見えるけれど、あれは人質を敵に送る行列だよ、内戦中だからなのかな……こんな事も、あるんだね」
「ひ、人質……ですか?」
「うん、あのお姫様もきっと、監獄で飢える事になる、食べ残しを貰えたらラッキー程度の生活になるよ」
だから、あんなにも足は重く、気配は昏く、息苦しい。
騒いでいるのは周りだけだ、あの渦中にいる女性の感情はどんなものか。嵐の様にごちゃ混ぜになっているのか、或いは最早凪の如くなのか。しかし、結局のところ行きつく先は同じ。
即ち、諦観と屈服。
この場所に立った時点で、彼女に選択肢はなく、意味など無い。
全部――無意味だ。
「ぅ、あ……」
「――やめて、ミサキ、ヒヨリが怖がっているでしょ」
「………」
その事実を知った瞬間、ヒヨリは思わず呻き声を上げる。綺麗なものを見れたと思った、尊いものが在ると知れた。けれどそれはやはり、上っ面だけのもので――。その現実に打ちのめされるヒヨリの背中を摩りながら、サオリはミサキに告げる。
ミサキは何も云わず視線を逸らすと、行列に向けていた視線を周囲に散らした。
「……それで、どうするのサオリ姉さん、此処まで来たのに見物だけして帰るつもり?」
「――まさか、あの人だかりに紛れ込んで、役立ちそうなものを拝借する」
告げ、サオリは周囲を取り囲む群衆を見る。その大半は表通りの住人で、中にはスラムの者もちらほら散見された。けれど大抵、そのスラムの住人は物陰からこっそりと周りを伺っていたり、或いはどこか忙しなく動き回っている。
彼女達も自分達と同じ――狙いは明白であった。
サオリはそっと唇を濡らし、二度、三度、手を握り締める。
「所々、制服を着ている連中も見えるし、身綺麗なのも多い、この人だかりだから逃げるのは簡単、皆行列の方に意識が向いている今がチャンスだと思う」
「だ、大丈夫でしょうか……?」
「万が一見つかっても、私達の身長なら人影に埋もれて直ぐ見えなくなるよ」
「……捕まったら、酷い事になるね」
銃を持ち、周囲を伺う警備の姿を見て、ミサキは呟く。
酷い事――サオリの脳裏に、路地裏に打ち捨てられた少女たちの姿が浮かんだ。
表通りで何か失態を犯せば、即座に報復されて、そのまま襤褸雑巾の様な状態で路地裏に投げ捨てられてしまう。そうなれば、もう終わりだ。傷を治す為の薬も、栄養を摂る為の食料も、水もない。勿論、そんな弱者をスラムの住人が放っておく筈もなく、服も剥がれ、文字通り身一つで路肩に横たわる事となるだろう。それでも、生き長らえれば良い方だ。けれど大抵、徐々に衰弱して、ヘイローが浮かぶ時間も減り――軈て、ずっと、何時までもヘイローが出なくなる。
サオリはそんな少女たちの姿を思い返し、思わず頭を振った。
そんな未来には決してさせない、と。万が一の時は、自分が囮でもなんでもして、二人は絶対に路地裏へと逃がす。その為の覚悟を決める。
「……今年は少し寒いから、お金が入ったら毛布を買おう、一枚あれば、皆で包まってきっと寒くない」
「私達みたいなのに売ってくれるところなんてある?」
「お金さえあれば、表のお店だって売ってくれるよ」
「そ、そうしたら、ご飯も一杯食べられるでしょうか……?」
ヒヨリはどこか、期待するような声で問いかけた。サオリは頷き、笑う。
温かい毛布、美味しいご飯、それは目の前で横たわる恐怖や不安から目を逸らすには、丁度良い代物だった。所詮、夢の話。本当に毛布が手に入るだとか、美味しいモノが食べられるだとか、正直な所半信半疑だ。きっとこんな身なりで、金を掴んで商店に行ったって足元を見られるのが結末だろう。けれど、希望を語り、夢を見る事だけは、大人達だって奪えない。
だからサオリは力強い声で答える。
「……食べられるよ、久々にちゃんとしたものを食べよう」
「や、やったぁ……! た、楽しみですね……えへへっ!」
「………」
サオリは二人の肩を叩き、そっと表通りへと一歩踏み出す。決して優しくない世界へ、残酷な世界へ、今日を、明日を生きる為に。ヒヨリとミサキが、遅れて一歩踏み出す。ふたりの伸ばした手を掴む。
そして、強がり、笑みを浮かべながらサオリは告げるのだ。
「さぁ、行こう」
――ちゃんと私が、守るから。
■
アリウス・スクワッドは、守れましたか?
尚この後、文字通り夢を見る事も、希望を語る事も許されなくなる模様。
まだ死ぬという概念が理解出来ないサオリちゃん(幼女)、ヘイローが浮かばなくなると、動かなくなるという漠然とした事しか知らない。路肩に横たわる、ボロボロの少女たちの体を揺すっても、彼女達のヘイローは浮かばず、目も開かない。
だからサオリは毎朝一番早く起きると、意識が無くヘイローが消えているミサキやヒヨリを、少しだけ不安な面持ちで揺する。そして眠たげに目を開き、ヘイローが浮かんだ事を確認して、安堵した様に微笑むのだ。可愛いね♡