文字数の関係で一日空けましたの、次回も三日後かもしれませんわ~!
「――せ、先生ッ!」
微睡と、覚醒。先生の意識は水面を揺蕩うが如く、浮き沈みを繰り返していた。痛みは酷かった、しかしその限界値を超えた為に、肉体が正常にそれを自覚していない。或いは脳のアドレナリンが作用している為か。どちらにせよ、先生に出来る事は多くない。細く呼吸を繰り返しながら、ただ視線を動かすだけで精一杯だった。
身動ぎは愚か、指先一つ動かす気力すら湧いてこない。顔を上げる事も、その手を伸ばす事も。
「どうして、なんで、こんな事に――」
ヒフミが、そう呟くのが聞こえた。喧騒の中でも、はっきりと、その耳に届いた。濁った視界に皆の顔が映る。皆が皆、涙を流していた。悲しみに、苦しみに、包まれていた。その表情を、先生は見つめる。見つめ続ける。
――それが、
「っ、ぐ――」
歯を、食い縛る。噛み砕いてしまうと思う程に強く、強く。
彼女達の心を想えば、その苦痛を想えば、どれ程の痛みでも、どれ程の苦しみでも、耐えられる。もう指一本動かせなかった肉体の底から、ふつふつと湧き上がる激情がある。指先で地を捉え、身体を押し上げる。倒れ伏した状態から、身を起こす。肉が千切れ、骨が軋む音が中から聞こえた。痛みが先生の脳を揺する、動くなと理性が叫ぶ――けれど、本能は云う。
今、目の前で生徒が苦しんでいるのだと。
「あっ、せ、先生ぇ……ッ!」
「よ、良かった、意識が……っ! は、ハナコちゃん!」
「先生、私達が分かりますか!?」
「ぅ、ッ――………」
コハルが、ヒフミが、ハナコが、身を起こそうとする先生に気付き声を上げる。先生の体は彼方此方が包帯やら布やらが巻き付けられ、止血を施されていた。包帯はコハルが持ち込んでいた分だろう。尤も布も包帯も、血を多分に吸って赤黒く変色してしまっている。先生は彼女達に下手糞な笑みを浮かべながら、自身の傍にずっと寄り添っていた彼女を見上げた。
「ぁ……せ、先生……」
「み、カ――……」
ミカは、先生を見下ろしたまま目を見開く。その瞳には昏い輝きが渦巻き、酷く淀んでいる。顔色は悪く、その唇は小さく震えていた。先生はそんな彼女を安心させるように、にっと。彼らしからぬ莞爾とした笑みを浮かべた。
「か、らだ、は……――無事、かい?」
「っ! な、無いよ、何も、どこも、痛く何てないし……っ!」
「そっ、か……」
ミカは、目元から零れ落ちる涙を何度も拭い、鼻を啜りながら頷いて見せた。彼女も決して浅くはない負傷を抱えている。痛くない何ていうのが嘘だと、先生は知っていた。けれど彼女も先生の笑みが自身を気遣ってのものだと分かっていた。だからこれは、それで良いのだ。
「――良かった」
「………ぁ」
「せ、せんせっ、先生!」
「ぅ……コハルも、心配、かけたね……」
先生の衣服を掴んで涙を流すコハルの頬を撫でようとして、先生は思わず手を引っ込めた。伸ばしたそれが余りにも血に塗れていたから。彼女を汚してしまいそうで、思わず躊躇った。そんな中途半端な手をコハルは手に取って、自身の頬に擦り付ける。涙と血が混じりながらも彼女は微塵も気にする素振りを見せなかった。先生は苦笑を浮かべ、ゆっくりと周囲を見渡す。
忙しなく走り回る生徒達、遠巻きに自身が意識を取り戻した事に沸き立ちながらも、自身の責務を全うしようと、必死になって動いていた。シスターフッドも、トリニティ自警団も、補習授業部も。
救護騎士団の到着には、まだ時間が掛かる。先生は周囲を見渡しながら、ひとり、生徒が欠けている事に気付いた。
「……アズ、サは……?」
「そ、それが、さっき血相を変えてどこかに行ってしまって……っ!」
アズサが、どこかへ消えた。
先生の脳裏に、ひとりの生徒の姿が思い浮かぶ。
彼女が誰を追って、何をしに行ったのか――凡その見当がついた。
故に、先生は腹を括る。
「ぐ……ぅ――ッ!」
「ちょ、せ、先生!? 何して――」
先生の服を掴んでいたコハルが思わず叫ぶ。それは、先生が瀕死の重傷にも関わらず立ち上がろうとしたからだ。
自身の足に力を籠め、中腰になりながら立ち上がろうと足掻く。こんな体になってまで守り通したミカと――そして懐に入ったシッテムの箱を確認した先生は、犬歯を剥き出しにして、脂汗を流し、その二本足で地を掴んでいた。
巻き付けた包帯に赤が滲み出し、口元から苦悶の声が漏れ出る。
「行か、なきゃ……」
「い、行かなきゃって、何処にですか!? そ、そんな体で――」
「先生っ、無茶をしないで下さいッ!?」
「ほ、ほんとに何してんの先生!? や、やめてよっ!?」
四方から、生徒達が手を伸ばし、先生の体を掴んだ。その体を労わる様に、けれど必死に、懇願する様に叫ぶ。背中にそっと手を添え、先生の顔を覗き込んだハナコが蒼褪めた表情と共に叫ぶ。
「先生っ、無理です! そんな体で一体何をしようと云うのですか!? 辛うじて致命傷を免れただけで、出血も完全には止まっていないんですよッ!? 今は、大人しく救護騎士団の到着を――」
「……だめ、だ」
「――っ!?」
「今じゃ、なきゃ……駄目なんだッ……!」
だらりとぶら下がった左腕、感覚のないそれに顔を歪め乍ら、先生は残った右腕でハナコの腕を掴む。血か、脂汗か、涙か、自身の頬を流れるそれが何であるか、先生自身分からない。しかし、この死に体に鞭を打ってでも、立たなければならない理由は明白であった。
何故ならば――。
「今、立てなきゃ――ッ!」
顔を上げ、叫ぶ。
その瞳に、絶対不変の意思を込めて。
今此処で立たなければ、自身は未来永劫後悔する。その選択を、その惰弱を、その苦痛に耐えきれなかった己を。その確信がある、きっと、自分はそう思う。
目前で救える生徒の手を取り損ねた光景は、もう十分だ。
後悔して、自身を責めて、憎たらしい程に日々を繰り返し、それでもと進み続けた先に掴んだ、この世界。
――もう、あんな想いはしたくないから。
幾度もの失敗を繰り返し、数多の屍を晒し、救えなかった、寄り添えなかった罪悪を背負い、それでもいつかきっと、必ず辿り着けると信じて歩んだ、この道。
先生が傲慢にも、救いたいと――そう願うのは。
この瞬間、今日、今を生きる彼女達だから。
このキヴォトスに生きる、ありのままの彼女達だから。
だから――!
「私はっ、この――為にッ……!」
血を吐く想いで、叫ぶ、吼える。
何の為に此処に居る? 何の為に繰り返す? この身が潰れそうになる程の罪悪と、胸が張り裂けそうな程の苦痛に塗れ尚、何故進む?
だって、私は――。
――その、伸ばされた手を取る為に、此処に居るのだ。
「――アロナ……ッ!」
辛うじて動く腕を動かし、先生は己の懐に触れる。シッテムの箱、爆発に晒されながら抱え込み、損傷を免れた唯一無二の相棒に
ほんの僅かで良い。この、壊れかけの体を補助して欲しいと。
五分、いや――一分でも構わない。
今度こそ、間に合わせる為に……!
その想いに応えるように、電源の切れたそのモニタが――一瞬だけ、点滅した様に見えた。それは確かに、錯覚などではなかった。腕が、足が、僅かに軽くなる。痛みが鈍り、思考が明瞭になる。
先生の肉体が、仮初の息を吹き返す。
――消える前の蠟燭が、その勢いを取り戻すが如く。
「っ――や、やだっ、やだやだッ! ダメっ、これ以上は……先生が死んじゃうよッ!?」
直感的にソレを悟ったのは、コハルだった。
彼女は何か、第六感めいた感覚で先生の肉体の変化を悟った。肌に触れていたという条件は皆同じだったが、コハルは先生から伝わる感触が、無機質めいたソレに変化したのが分かったのだ。
それが
「コハル――」
先生の腕が、そっとコハルの頭を撫でつける。先程まで垂れるだけであった左腕が、自然に、なんて事のないように。
血を絡めた声だったそれは酷く透明で、口調はハッキリとしていた。先生は全員の目を真っ直ぐ見て、笑う。全員が呆然と、その先生の表情を見返した。
「――ありがとう」
瞬間――全員の視界が白く染まった。
それは、物理的なものだった。何かが炸裂する音と、気管を刺激する白色。思わず目を閉じ、身を捩ったのは反射的なものだった。顔を覆い、全員が叫ぶ。
「えっ――きゃぁッ!?」
「こ、これは、ゲホッ!?」
白煙――此処に居る生徒は知らぬ事であったが、周囲に撒き散らされたそれはイズナ印の煙幕であった。「主殿の窮地にお使い下さい!」と、イズナが丹精込めて作ったシノビの逸品。白く濁ったそれは視界を阻害し、対象の喉や鼻に絡んで呼吸をし辛くする。あくまで逃走や錯乱用である為、殺傷力は無い。勿論、後遺症も。
「せ、先生……? 先生っ!?」
白煙に視界を閉ざされたまま、ヒフミは必死になって手を伸ばす。
先程まで掴んでいた、先生の衣服、その感触が――無い。
「先生、どこに――ッ!?」
腕を振り回し、先生を探して足を進め、そして不意に何かと手がぶつかった。咄嗟にヒフミはそれを強く掴んで――そして同じように、相手もヒフミの腕を掴んだ。白く濁った視界の中で、驚愕を貼り付けた顔が映る。
「えっ、あ……ひ、ヒフミ!?」
「こ、コハルちゃん……な、なんで――」
掴んだのは、互いの腕。
先生だと思ったそれは、対面に立っていた相手のもので――白煙が晴れた時、残されていたのは顔面蒼白になって震えるミカと、足元に広がった血溜まりだけだった。
周囲の生徒が言葉を失い、一瞬、時が止まる。慌てて周囲を見渡すも、先生の姿は何処にもない。体育館の、何処にも。
「さ、探して下さい――」
先生の傍に立っていた、ハナコが呟いた。それは囁く様な声だったというのに、周囲の生徒の耳に、確かに届いていた。彼女は顔を上げ、半狂乱になりながら――絶叫した。
「探して下さいっ! 絶対にッ! 先生を行かせてはいけませんッ!」
■
雨が、降り出した。
冷たい雨だ、朝立と呼ぶには少しだけ強く、雨粒のカーテンが先生達の視界を覆った。
陽光が雨に反射し、先生達の体を濡らす。透明に混じった赤が頬を伝い、足元に色を滲ませる。先生はそんな中歯を食い縛り、一歩、前へと踏み出した。
生々しい水音が、雨音に混じって周囲に響く。
アロナのサポートは、もう既に切れていた。電源の付かない状態で、彼女は文字通り死力を振り絞って先生を助けた。本当に、底の底まで、力を使って。
だからもう、正真正銘――先生に残っているのは、その身一つのみ。
アズサが、困惑と悲壮を浮かべながら声を上げた。
「せ、先生、何で、どうして……!?」
「私を、必要とする生徒が、居る限り……ッ!」
呟き、もう一歩を踏み出す。その傷だらけの肉体で、血を流しながら。
雨は先生の体を強かに打っていた、体温が下がる、無意識の内に体が震え、歯の根が合わない。それでも先生は真っ直ぐ前を見据え、アズサを、サオリを見つめていた。もう片側しか見えない視界の中で、先生は足掻き続ける。
「私は――何度だって、立ち上がって見せる……ッ!」
「っ――!」
その言葉に、アズサの表情が歪むのが分かった。サオリの指先が、ぴくりと跳ねる。アズサに向けていた
「……シャーレの、先生」
「サオリ――……ッ!」
前に、前に進む。更に一歩、もう一歩。
その度に血が噴き出し、包帯と制服に赤が滲む。先生の足が、不意に折れかけた。がくりと姿勢が崩れ、転びかける。けれど先生は思い切り地面を踏みしめ、堪える。
代わりに、太腿から嫌な音がした。何かが、切れるような音だった。ぶら下がった左腕が揺れる、地面に擦りそうになる程力なく垂れたそれは、ぴくりとも動かない。
サオリはそんな先生の体を、醜態を目にしながら、淡々とした口調で告げた。
「――そんな傷で、私の前に立つのか」
「当たり、前だよ……ッ!」
無様に震える足を何度も、何度も叩き、犬歯を剥き出しにして前に踏み出す。何度でも、何度でも――先生は進む。
「……今の貴様に、何ができる」
「出来る、出来ない、じゃ、ない……!」
「貴様のその行動は、無意味だ」
「無意味、なんかじゃ、ない……っ!」
「そんな、歩くだけでも精一杯の体で――銃の一つも、持たずに」
「っ、ぐぅ――……!」
一歩が――果てしなく、遠い。
何て事のない動作が、今の先生にとっては文字通り血の滲む様な痛みと苦痛を伴った。先生が軽く
「……それ以上動けば、本当に死ぬぞ――先生」
声には、確かな感情が含まれていた。本来ならば、そんな事を口にする必要はない。けれど、そう声に出してしまう程に、サオリは動揺していた。
何故、その傷で動ける。
何故、そんなになってまで足掻く。
その恐怖にも似た感情はサオリの胸を揺り動かし、常ならぬ言動を取らせる。先生は唸る様な呼吸を繰り返しながら、それでも尚、前へと進んだ。代わりに、サオリの足が一歩、背後へと退く。水溜まりが跳ね、サオリの裾を汚した。
「せ、先生! それ以上は駄目だッ……!」
咄嗟にアズサは叫んだ。立ち上がり、石畳に足を滑らせながら、必死になって先生の元へと駆け出す。その無防備な背中を、撃とうと思えば簡単に撃ち抜けた。けれどサオリは、その銃口を向ける事無く、見送ってしまう。
アズサが先生に手を伸ばし、その肩を掴んだ。
「先生っ――うぐっ!?」
瞬間、先生の腕がアズサを抱き締めた。
その小さな体を、血塗れの腕で、精一杯。衝撃でアズサの手から拳銃が滑り落ち、軽い音を立てて転がる。雨水の中に晒されたそれは陽光に照らされ鈍い光を放つ。
先生はアズサを抱き締めたまま、叫ぶ。
「私は……っ、先生だ――ッ!」
「………」
「生徒達がッ、殺し合おうとするのを――見過ごせる筈がないだろうがッ!?」
そこには、苛烈な意思のみが存在した。
その叫びに、サオリはそっと目を閉じる。その在り方を眩しく思う、敬意を抱く程に。
そして納得した――あぁ、成程、確かに彼はアズサの先生だと。
その善性、諦めの悪さ、精神性、性根、これは確かに日向の人間だと。真に表で生きる人なのだと。隣に立っていると自分が如何に矮小で穢れた存在か、自覚してしまう程に。大きくて、広くて、力強い背中。大人の姿だ、先生の在り方だ、太陽の如き輝きを放つ――生徒を救ってくれる人だ。
それが分かった、そう感じた。
そんな彼に、サオリは静かに銃口を向けた。
今にも死んでしまいそうな、生徒の
銃口から、雨粒が滴り落ちた。
「っ、サオ――」
アズサは咄嗟に叫ぼうとして、けれど先生の腕が遮った。
強く抱きしめ、壁になる様に半身になってアズサを庇う。どう見ても立場は逆なのに、先生が庇われる立場であるというのに。彼の目は本気で、アズサの身だけを案じていた。
その双眸が、サオリを正面から射貫く。
「ふーッ、ふぅッ――!」
「……っ」
荒い呼吸を繰り返す先生を見据える、その銃口が一瞬震えた。血に塗れた赤い瞳が、じっと彼女を見つめる。
引き金を絞る事は簡単だった。何の抵抗も、策もないだろう。ただ丸腰の人間を一人弾くだけで、アリウスの勝利は決定的なものになる。不穏分子は排除する、その思考は合理的で、間違いではない筈だ。
けれど――何故だろう。
サオリの深い、とても深い所に存在する『何か』が叫んでいる気がした。それが何かは、サオリにも分からない。或いは善意だとか、人情だとか、そう云った形ない、あやふやな感情によるものだったのかもしれない。けれどそれを踏み躙れば、サオリは決定的な何かを喪ってしまうような気がして仕方なかった。
それは、絶対に失くしてはならないモノで――。
どちらにせよ、サオリは先生と視線を交わしたまま、引き金を絞る事はなく、動く事が出来なかった。
「――先生ッ!? どこですか!? せんせいッ!?」
「あんな傷で、一体どこまで……!?」
「シスターフッドは散開し、捜索を開始します! 草の根を掻き分けてでも探し出しなさいッ!」
「自警団は此方をっ……! 先生―ッ!」
――声が聞こえる。
先生を探す声だ。雨音の向こう側から、徐々に近づいている事が分かった。そう遠くない内に、この場所は露呈するだろう。雨は先生の血を洗い流しているが、全てではない。また、銃声を耳にしている者が居るかもしれない。
撃つにせよ、撃たぬにせよ――早急に立ち去る必要があった。
サオリは数秒、沈黙を貫く。指先をトリガーに掛けたまま、じっと先生を見つめ続けた。その姿を、在り方を、目に焼き付ける様に。
そして、ふっと肩から力を抜いた彼女は、その銃口を静かに地面へと下げる。
「………撤退する」
「っ!?」
呟き、サオリは踵を返した。拳銃をホルスターに戻し、雨に塗れた突撃銃を拾い上げる。窪みに溜まった雨水を払いながら、彼女は先生を振り返った。雨越しに見える彼の顔色は、青白いを通り越し――最早死人の如く。
「先生……」
「っふ、ふぅ……ぐッ――!」
「立っているのもやっとだろうに……それでも貴様は、生徒の――アズサの為に、此処まで来たのだな」
先生に応える余裕はない。ただ、アズサを抱き締めて、サオリと対峙するのみ。しかし、其処に憎悪や敵意は存在しない。どこまでも澄んだ――怒りだけがある。
アズサを殺しかけたという事実に、彼は激怒しているのだ。
逆に云えば、それ以外の感情は存在しない。自身を爆弾で吹き飛ばした事すらも、彼は怒ってなどいない。何処までもその心は、生徒の為に。
「――貴様の様な大人も……居るのか」
呟きは雨音に掻き消され、サオリは外套を翻す。深く被り直した帽子が、空模様を覆い隠した。帽子は良い、世界を直視しなくて済む。
特に――晴れて澄んだ空は、苦手だった。
優しい闇に覆われ、直視せずに済む醜い自分が晒されてしまう様で。
「……あの時食わせて貰った飯は、美味かった――だから」
一歩、学園の外へと踏み出す。その視線が、背中越しに先生を見た。先生はアズサを抱えたまま、彼女の背中を眺めるのみ。
「……今回は、見逃す、生きていればまた逢おう」
雨に紛れ、
「――次は、
■
「――ぐ、ぅ、か、はーッ、はぁ……っ……!」
「せ、先生ッ!」
不意に、先生の膝が折れた。サオリと対峙し、最後まで堪えていた力が抜け落ちる。
アズサを抱き締めたまま、その場に崩れ落ちた先生は引き攣った呼吸音を鳴らした。その身を流れる雨水は、赤混じりのそれ。アズサが慌てて先生の頬に手を当てれば、酷く冷たく、まるで氷の様に感じた。
先生の肉体は限界だった、文字通り先生は己の精神力のみでその場に立っていた。アズサの掴んだ先生の肩、その掌にべったりと赤が付着する。改めて目にしたそれに、アズサの唇が戦慄いた。
とても、立っていられるような傷ではない。
「ど、どうして、どうしてこんな体でッ!?」
「わた、しが……来なかったら……っ!」
アズサの悲壮を込めた声に、先生は覚束なくなった舌を回して応える。
ゆっくりと振り向いた先生の、その片目がアズサを捉えた。
「アズサは、どうしていた……!?」
「っ――!」
その問い掛けに、アズサは思わず言葉を失くす。視線を逸らせば、その先に転がったゲヘナの拳銃が視界に映った。
この銃を使って自分は何をしようとしていた?
錠前サオリを撃ち――その果てに、ヘイローを破壊しようとした。
キヴォトスの生徒とて無敵ではない。昏倒させ、拷問紛いの攻撃を繰り返せば、いずれヘイローは破壊出来る。彼女はそう、アリウスで教わった。それを実行しようとした。だって、彼女を、アリウス・スクワッドを止めなければ、補習授業部は――。
そんな彼女の思考を遮る様に、先生の手がアズサの腕を強く掴んだ。雨に打たれながら、先生とアズサの視線が至近距離で交わる。懇願と、強い意志を秘めた瞳。怯えと、悲哀を含んだ瞳。
「駄目、だよ……ッ、そっちは、駄目だ……! 折角、此処に来たんじゃないか……ッ! アズサが、ずっと望んでいた……
「で、でも……でも、それじゃあ、皆が――ッ!」
息を吐き、拳を握り締めるアズサは叫ぶ。
アリウスは云って聞く様な相手ではない、暴力には暴力を以てしか抗えない。そうやって生きてきた、それ以外の生き方を知らない、同じ境遇、同じ場所、同じ時間を生きて来たアズサはその事を良く理解している。
無償の愛なんてものは存在しなくて、常に打算と悪意が渦巻いていて、希望はなく、未来は無く、考える事に意味などなく、擦り切れて果てるまで戦うだけの人生。その螺旋から抜け出し、光の満ちる場所で生きるのならば――その代償は、
アズサが日陰で生きて来た証拠、その証明、アリウスこそが彼女の代償そのもの。それはアズサという個人が対処し、責任を持って対峙しなければならない過去だ。
アズサという個人が
その決意を以て此処に立った。
そう思って
先生を傷付けた、補習授業部を傷付けた――その咎を受ける為に。
「――でもなんかじゃないッ!」
「っ!?」
先生の絶叫が、アズサの鼓膜を叩く。
雨音に混じった、先生の怒声。血反吐を撒き散らしながら、先生はアズサの腕を強く――強く掴む。思わずアズサの顔が歪む程に。体は冷たいのに、その触れた部分だけは、酷く熱くて。
先生の赤に塗れた瞳が、アズサを真正面から穿った。
「生徒達が望む明日をッ! そう在りたいと願う未来をッ! 共に願い、叶えるのがっ、私の使命だッ! 唯一、絶対なる命題だッ! この身を捧げても惜しくはないと、欠片も後悔しないとッ! そう思えた夢なんだッ!」
「ぅ……ぁ――」
「だから――ッ!」
アズサの腕を掴んだまま、先生は項垂れる。その指先から、力が抜ける。アズサは思わず喘ぐ様に息を吸った。先生の震える指先が、アズサの頬に触れる。冷たくて、熱いそれが、そっと優しく。アズサは先生のそれに自身の手を重ね、握り締めた。
赤が、アズサの頬を汚す。先生とアズサの視線が雨の中で交わった。
先生の目から流れるそれが雨なのか、それとも涙なのか――アズサには分からなかった。
「諦めるんじゃない……ッ! 他ならぬ、アズサ自身がっ……! そう在りたいと、心から叫ばなきゃ……アズサが願わなきゃ、意味が、無いじゃないか……――ッ!」
「――せん、せい」
声は、確かに届いた。アズサの深く、とても深い根の部分に。雨が頬を濡らす、唇が震える。言葉を紡ごうと、必死に。
自分は、
けれど、きっとそうはならないから。
それを望んではいけないから。
だからアズサは、自分を切り捨てて、大切なものを守ろうとした。
「わた、し、は――」
私は、白洲アズサは。
「私、は……ッ!」
元アリウスで。
裏切り者で。
嘘つきで。
戦う事しか知らなくて。
迷惑だって掛け続けて。
皆を困らせてばかりで。
ずっと日陰で、日向で生きる生徒達を羨む事しか出来なかったけれど――。
そんな、私だけれど――。
「私は――ッ!」
――
アズサは何かを、何かを口にしようとした――叫ぼうとした。
その想いに応えなければと、そう感じたから。
けれど、ふと見つめた視線の先で、先生の意識が朦朧とし始めた事に気付いた。その視線が左右に散って、焦点が合わなくなる。アズサの掴んだ手から、力が抜ける。慌てて掴み直した指先は、力なく滑り落ち、石畳を打った。まるで
「ありの、ままの姿で……生徒が、皆が、幸せになれる……世界――を……わた、し……は――……」
「……せ、先生? 先生ッ!」
その顔が俯き、まるで糸の切れた人形の如く、先生の肉体は傾いた。アズサは咄嗟に先生を受け止め、揺する。けれど目を閉じ、脱力した先生は何も答えない――答えられない。中途半端に開いた口から、本当にか細い、漏れる様な吐息を感じた。アズサは先生の唇に耳を寄せ、呼吸がある事を確かめる。そして徐に先生の頭を掻き抱くと、雨から先生の身を守るようにして抱え、左右を見渡した。
――まだ、この場には誰も到着していない。
それが、とても恐ろしい事の様に感じられた。
「……だ、誰か! 誰か来てくれッ!?」
アズサは叫んだ、あらん限りの声を振り絞り、叫んだ。
空に向けて、彼方に向けて、その声を誰かに拾って貰えるように。身を震わせながら、歯を鳴らしながら懸命に叫んだ。先生の肩を搔き抱き、少しでも体温を分け与えようと、彼女は強く、強く、その体を抱き締め続ける。
「頼む、誰かッ! 誰でも良い! この人を――先生を助けてくれッ!」
血を吐く様な絶叫、それは雨の中で空に響き渡り――少しして、大勢の足音が石畳を叩いた。丁寧に手入れされた
「せ、先生ッ!? 居ました、先生とアズサちゃんですッ! こっちです、早くッ!」
「ッ――見つけました! 救護、急いでッ!」
「は、はいッ!」
「自警団、周囲を固めますッ!」
「シスターフッドは経路確保を!」
ヒフミに続く形で、続々と生徒達が殺到する。最短ルートを確保する為に生垣を銃撃で薙ぎ倒し、シスターフッドが慌てて担架を運んでくる。向こう側には、蒼褪めた表情で駆けて来る救護騎士団の面々も見えた。サクラコ、マリー、ヒナタ、スズミと云った面々が先生の傍に駆け寄る。アズサはその勢いに呑まれながら、先生を彼女達へと明け渡した。
「ぁ――」
掴んでいた、先生の指先が離れる。先生は生徒の制服や毛布にこれでもかという程に包まれ、担架に固定されると校舎の方へと搬送されて行った。殆どの生徒がそれに付き添い、自警団やシスターフッドの生徒達は殺気を漏らしながら周囲を見渡している。その様子を呆然と見送り、アズサは雨の中で佇む。
「アズサちゃんッ!?」
「あぐっ……! ひ、ヒフミ――」
そんな彼女に駆け寄り、勢い良く抱き締める影があった。
ヒフミだ。彼女は大粒の涙を流しながらアズサを搔き抱き、人目も憚らず大声を上げて泣いた。アズサはそんな彼女に戸惑いながら、両手を空けて、抱き締め返そうとして――中途半端に、その手を止めた。
自分がこの抱擁を受け取る権利があるのかと、そう思ってしまったから。
「良かった、良かった……ッ! 怪我は!? どこか痛い所はありませんかっ!? 先生に続いてアズサちゃんまで、あ、あんな目をして走り出すから、わ、私、私……っ!」
「――………」
そんな事は与り知らぬと、構いはしないと。
ヒフミは涙を流し、鼻を啜り、渾身の力でアズサを抱き締め続ける。
アズサはそんな彼女の真剣で、真摯で、どこまでも
そっと噛み締める様に頷いた。
自分が
広げた手を、そっとヒフミの背中に回す。
アズサの目尻から、一粒の
「ごめん、ごめんヒフミ、ごめん……ごめんなさい」
呟き、アズサはヒフミの首元に顔を埋める。
ヒフミからは、陽だまりの様な心地の良い香りと、僅かな硝煙の匂い――そして、強い血の匂いが漂っていた。
この日、補習授業部は大切な何かを手に入れて。
――そして、大切な何かを喪った気がした。
アロナちゃんが先生の手足となり得る世界線を垣間見た今、先生がどれ程無様な肉体を晒そうと無理矢理お人形さんにする事が出来るのですわ~! 素敵ですね。
つまり幾ら四肢が捥げようが目が潰れようが耳が聞こえなくなろうが、シッテムの箱と脳と心臓が無事である限り、臓物ぶちまけても先生は動けるのですわ。
生徒の為に不死身になる先生、か、恰好良いタル~!(FF)
先生死んだ後も、その死体を無理矢理動かして先生のフリをするアロナ概念とか考えたけれど、どう転んでも地獄絵図ですわよ。今度やってあげよ。(善意の発露)
先生は襤褸雑巾になったけれど、(アズサが)幸せならオッケーです!
ごめんなさいね、
けれど
でも大丈夫です! だって、わたくしは、先生と生徒の絆を、その心の強さを、心の底から信じておりますから……ッ!
やめて!神秘の籠った銃弾で先生が撃たれたら、先生の肉体と精神がいっぺんに壊れちゃう!
お願い、死なないで先生!あんたが今ここで倒れたら、補習授業部やアビドスとの約束はどうなっちゃうの?
次回、「先生死す(大嘘)」 大人のカード、スタンバイ!