ブルーアーカイブを、もう一度。   作:トクサン

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誤字脱字報告に感謝ですわ~!


試練へのカウントダウン

 

「キキキッ! ようこそ、シャーレの先生!」

「やぁ、元気そうだね、マコト」

「あぁ! このマコト様はいつだって万全だとも!」

 

 ゲヘナ自治区――万魔殿(パンデモニウムソサエティ)、議事堂。

 作りの確りとしたソファにローテーブル、周囲を高価な絵画とゲヘナ校章の描かれた垂れ幕で覆われた部屋は、やけに広く煌々としている。その中央に彼女、万魔殿の議長であり、現ゲヘナ生徒会長のマコトは佇んでいた。いつも通りコートを羽織り、飾緒で繋いだ姿は変わりなく、室内にも関わらず帽子を目深く被った彼女はクツクツと笑い声を上げる。

 

「イロハも、こんばんは」

「はぁ……どうも、先生」

 

 その隣に立つ、いつも通り気だるげな態度を隠さない戦車長、イロハ。彼女に軽く声を掛ければ、手の中にあった手帳を閉じ溜息と共に小さく頷いて見せる。

 ソファに座りながら上機嫌に肩を揺らしていたマコトは、先生をじっと見つめながらふと口を開いた。

 

「しかし先生、漸くこの万魔殿の議長であるマコト様に協力の申し出をする気になったのだな!」

「うん、そう――……うん?」

「キキキキッ……シャーレと万魔殿、この二つが力を合わせれば、ゲヘナの風紀委員会如き簡単に壊せる筈だ、至って論理的な判断だと云える――いや、ゲヘナどころかキヴォトスすらも手中に出来るだろう……!」

 

 椅子に腰かけ、満面の笑み――かなり邪悪ではあるが――を浮かべたマコト。不意に飛び上がる様にして立ち上がると、朗々と歌い上げる様な声でそう告げる。その表情からは高揚と期待がありありと感じられ、先生を見つめる視線には熱がこもっている様に思えた。

 果たして、彼女の頭の中でどの様な理論が展開されたのかは分からないが、どうやら先生と自分がゲヘナ風紀委員会を壊滅させ、キヴォトスまでも手中におさめる計画が頭の中では展開されているらしい。手で顔を覆った彼女は、釣り上がった口元をそのままに叫んだ。

 

「計算は完了した、さぁ、直ぐにでも計画を実行しようではないかッ! 先生!」

「……あの、そういう会話は、せめて私達が居ない所でやって頂けませんか?」

 

 ――横合いから、呆れたような声が響いた。

 議事堂に先生と一緒に入室していた、ゲヘナ風紀委員会所属のアコである。ヒナが不在の場合、風紀委員会の指揮権を預かる席次二番。彼女は笑みを浮かべたまま、やや怒気を漏らし言葉を吐き捨てる。

 対象の前で堂々と敵対宣言をカマした上司の姿に、イロハは天井を仰ぎながら息を吐いた。尤も、この程度の事は日常茶飯事過ぎて、もはやどうとも思わなくなってしまったが――。

 

「マコト先輩、話を変な方向に捻じ曲げないで下さい」

「あん?」

「先生が今回私達に会いに来たのは形式的な問題です、先生はエデン条約にも参列されますので、顔合わせとしての訪問ですよ」

「……なら、我々との協力話は?」

「そんな話は元々ありません」

「………」

 

 イロハの淡々とした説明に、マコトは顔を顰めて数秒程沈黙を守る。広げていた手を組み直し、指先で顎を撫でつけた彼女は先生とアコ、そしてイロハを順に眺めた後、何かを悟ったような表情でほくそ笑んだ。

 

「……ふっ、成程、そうか――まぁ、楽しみは後に取っておくとしよう」

「うわ、これまた絶対面倒くさい事考えていますよ」

 

 気取ったようにコートを靡かせ、告げるマコト。彼女の思考回路が分からずとも、その暴走具合は良く知っているイロハはこれからの見え透いた苦労を想い、静かに肩を落とした。そんな自身の部下の心中など知らず、マコトは踵を鳴らして扉へと足を進める。

 

「よし、帰るぞイロハ」

「えっ、はい? もう良いんですか?」

「あぁ――キキッ、今日は先生の顔を見れただけで十分だ」

 

 告げ、マコトは颯爽と部屋を後にする。一瞥すらせずに退出して行ったマコトの姿にアコは額に青筋を浮かべ、口元を引き攣らせた。自由奔放、傍若無人、それでいていつも通り意味不明な彼女の行動にイロハは困惑と疲労を滲ませ、先生に小さく頭を下げる。

 

「全くあの人は……すみません、先生」

「全然、寧ろいつも通りで安心したくらい」

「あぁ、そうですか、そうですよね、先生はそういう人でした」

 

 先生の温厚な態度に、イロハは諦めたような感情を滲ませる。彼女の振る舞いに苦言を呈すか、注意する事を期待していたのだろうか。しかし、先生としては彼女の態度に思う所はない、流石に風紀委員会をどうこうするとか、キヴォトスを支配云々はやめて欲しいが――それはそれとして、それもまたマコトらしさというものである。

 

「……所で、お体の方は?」

「ん、大丈夫、もう何処も悪くないよ」

「――なら、良かった」

 

 一瞬、先生の全身を素早く視線でなぞったイロハ。彼女の問い掛けに、先生は軽く手を振って答える。言葉の前には間があった。しかし深く帽子を被り直したイロハは、瞳を先生に見せる事無く、その脇を抜け扉を潜る。

 

「では、また調印式の会場で……先生」

 

 扉を後ろ手で閉じる寸前、イロハはどこか普段と異なる雰囲気で以て、そう告げた。

 

 ■

 

「はぁ~……」

「お疲れ様、アコ」

 

 イロハとマコトが去った後、議事堂にて二人きりになった途端、アコは心底疲れ果てたと云った様子で息を吐き出した。肩を落とし、手にしたタブレットを胸に押し付けたまま彼女は項垂れる。その周囲には、疲労感と云う名の昏い空気が漂っている気さえした。

 

「最近、顔を見せられなくてごめんね、体調とか崩してなかった?」

「それは……まぁ」

 

 先生の問い掛けに、アコは歯切れ悪く頷いて見せる。

 彼女と顔を合わせるのは、トリニティに出張する前だったか。補習授業部の合宿で一ヶ月、負傷して一ヶ月、トリニティに籠りきりだった先生は二ヶ月以上アコと顔を合わせていなかった事になる。道理で久方ぶりに感じる訳だと、先生は心の中で納得した。

 

「それにしても意外でした、先生がエデン条約に参列されるとは」

「ゲヘナとトリニティの橋渡し役というか、調停役と云うか、両方に顔が利く役の人となると、連邦生徒会とかになっちゃうからね……まぁ、私が自分から出しゃばったという面もあるんだけれど」

「……相変わらず、ご自分で仕事を増やすのがお好きな様ですね」

「こればかりは性分かな」

 

 アコの何処か棘のある言葉に、先生は苦笑を零す。頼られたら断れない。いや、断りたくないというべきか。そうでなくとも今回は、例え招致されていなくとも参加する気であったのだ。渡りに船、という奴である。

 その、相も変わらずな先生の態度に彼女は仕方なさそうに肩を竦め、それから数秒程言葉を選んだ後――彼女は徐に問いかけた。

 

「――ところで、先程から何処を見ていらっしゃるのですか?」

「えっ? アコの横乳だけれど……?」

「………」

 

 先生の視線はアコと会話を交わした時から、ずっと彼女の横乳にへばりついていた。まるで彼女の横乳に相手の目や口があるのだと云わんばかりに、ずっとその一点を凝視している。

 アコの服装は、控えめに云ってかなりぶっ飛んでいた。いや、キヴォトス全体で見れば、「あぁ、いや、まぁ、そういう服装の子も居るよね、うん」というレベルなのだが、生足の映えるベルトにストッキング、首元にはカウベルと極めつけは胸元両脇を大胆に切り抜いた衣服。

 

 たわわに揺れる横乳――横乳である。

 

 これを見ずして何が大人か、何が男か、何が浪漫か? 寧ろこのような目の法楽を提供して貰っておきながら視線を向けないなど、アコに対して失礼極まりないとすら云えた。先生はそう云った気遣いの出来る大人だった。故にこれは、胸元を開けているアコに対してのマナーなのだと思った。

 

 じっと自身の胸元――具体的に云うと露出された横乳に視線を向けて来る先生。アコは暫くそんな大人の姿を眺め、不意にその視線を遮る様に、自身の胸元を腕で覆う。掌と腕の繊維が横乳を覆い隠し、その横乳(エデン)は遥か遠くへと姿を隠した。

 瞬間、先生の目が見開かれ、焦燥した様子で捲し立てる。

 

「っ、何をしているんだアコ!? それでは呼吸が出来なくなってしまう!」

「……別に、此処(横乳)で呼吸している訳ではないのですけれど、私」

「ッく、仕方ない、此処は人工横乳呼吸を……!」

「先生?」

 

 呆れた視線、具体的に云うとジト目で先生を見つめて来るアコ。そんな淡泊な反応に反し、先生は至極真剣な様子でアコに詰め寄る。生徒の命が掛かっているのだ、真剣になるのも当然だった。

 事は重度に政治的かつ性癖的な問題を含んでいる。先生はどうやってアコの自傷行為、具体的に云えば横乳封鎖を解かせるか思考を回し、歯を食い縛りながら窮地を切り抜ける秘策を想った。

 そんな事をしていると、議事堂の扉がノックされる。二人が声を上げるより早く、そっと扉は押し開かれ、その隙間から見慣れた顔が中を覗いた。

 

「……先生、居る?」

「――おや、ヒナかい? 久しぶりだね」

「……―――」

 

 顔を覗かせたのはヒナだった。ノックの音が聞こえた瞬間、先生は臨戦態勢だった姿勢を普段の直立不動へと変え、シャーレの青いタイを正しながら穏やかに微笑んで見せる。対峙していたアコは信じられないものを見る様な目で先生を見つめていたが、扉から顔を覗かせたヒナに気付き、慌てて声を掛けた。

 

「ひ、ヒナ委員長、確か明日まで出張だった筈では……?」

「思ったより早く片付いたから、さっき戻って来たの」

 

 そう素っ気なく答えるヒナは、頬が僅かに赤らんでいる。恐らく急いでゲヘナに戻って来たのだろう。微かに跳ねた髪が彼女の影の努力を物語っていた。

 ヒナは扉を大きく開くと、ドアノブを握ったまま目線で先生を促す。

 

「アコもお疲れ様、先生は私が送って来るから休んでいて」

「し、しかし、出張から戻って来たばかりで、委員長こそお疲れでは――」

「良いから、これは命令」

「っく……!」

 

 命令、その一言にアコはそれ以上口を挟む事が出来なくなる。しかし、このまま何も云わず引き下がる事も出来ず、先生の傍に静かに身を寄せると、ヒナには聞こえない声量で必死に囁いた。

 

「ヒナ委員長に妙な事をしたら容赦しませんからね……!?」

「という事は、アコになら妙な事もして良いのかい?」

「……っわ、分かりましたから、人工横乳呼吸でも、わんわんプレイでも、何でもさせてあげますからヒナ委員長には手を出さないで下さい!」

「――そっかぁ」

「……アコ?」

「な、何でもないですよ、ヒナ委員長ッ!」

 

 先生が満面の笑みで頷いた事を確認し、アコは素早く先生から身を離す。訝し気な表情を浮かべたヒナであったが、時計を見れば良い時間である。余り無駄話をしている暇もない。ヒナに促されるまま先生は議事堂を退出し、アコは若干引き攣った笑みで、二人の背中を見送るのだった。

 

 ■

 

「先生、さっきの……アコと何を話していたの?」

「さっき? アコとは最近の出来事とか、調子はどうかなっていう、他愛もない話をしただけだよ?」

「………」

 

 ゲヘナ本校舎、廊下を歩く先生とヒナ。夜の校舎は人の姿もまばらで、特に議事堂方面には人気(ひとけ)が全くない。そんな中、二人の交わす声は良く響いていた。ヒナの問い掛けに飄々とした様子で答えた先生、そんな彼を見たヒナは足元に視線を落とし、やや不満を滲ませた声色で呟く。

 

「仲が良いのね、アコと」

 

 それは、明らかな嫉妬心から来るものだった。ヒナの目からは、先生とアコが酷く親し気で、気の置けない関係の様に見えて仕方なかったのだ。

 先生と会っている回数は、私の方が多いのに。今日も先生が来ると知ってスケジュールを一週間前から調整し、無理をして業務を終わらせた後、急ぎゲヘナに戻って来た。先生と会える時間は貴重だ、先生も多忙の身だし、自身もゲヘナ風紀委員長としての業務がある。立場的にも、時間的にも、一分一秒、ほんの五分足らずの時間でさえヒナにとっては貴重で、尊いものだった。

 故に、先生が他の生徒に対し心を砕いている様子を見ると――少しだけ、昏い感情が顔を覗かせてしまう。普段押し込んでいたそれが表に出てしまったのは、疲労と少しの油断からだった。

 

「ん? まぁ悪くはないと思うけれど……もしかしてヒナ、寂しかった?」

「ッ、なっ……! ち、ちが――」

 

 その呟きを拾った先生の言葉に、ヒナは思わず声を詰まらせる。頬を紅潮させ過剰な反応を見せるヒナに、それが図星であると悟った先生は、何かを決めた様に頷き足を止めた。

 

「よし、それなら、おいでヒナッ!」

「………」

 

 そして徐に両手を広げ、構える先生。両手はハの字、顔は真剣そのもの。ヒナは唐突なそれに目を見開き、困惑を滲ませたまま口を開く。

 

「な、何しているの、先生……?」

「何って、抱擁(ハグ)の準備だけれど」

 

 寧ろ、それ以外の何に見えるのだろうか。レッサーパンダの威嚇とかだろうか? 確かにキヴォトスの生徒からすれば何の脅威にも思えない恰好だろうが――。先生は手を広げた格好のまま眉を下げる。少しだけ不安になった先生は、思わず問いかけた。

 

「えっと、もしかして要らなかった……?」

「っ、く……ぅ――」

 

 途端、苦悩――過酷な表情。

 先生の悲しそうな顔はヒナの心をダイレクトアタックし、彼女は歯を食い縛りながら唸りを上げた。抱擁、先生との抱擁――以前受けたのはトリニティの騒動が起こる前、大橋での事。あれから一ヶ月以上経過した今、その温もりに飢えていると云っても過言ではない。

 しかし、此処はゲヘナ――それも誰の目があるかも分からない本校舎である。ヒナには立場があった、それに守るべきイメージ、印象もある。ゲヘナ風紀委員会の長が校内で先生と抱擁など、ヒナとしても先生としても大変宜しくない。

 

 しかし、それを拒むという選択肢も大変な苦痛を伴うものであった。暫くそう逡巡していた彼女は、素早く周囲を見渡し耳を澄ませる。他の生徒が存在しない事を念入りに、それこそ何度も確認し、ヒナは先生の腕を抱えて廊下の片隅に押し込むと、そのまま先生の懐に身を寄せた。

 

 結局、リスクよりも役得を選んだヒナ。

 途端、服越しに感じられる人の温もり、先生の鼓動。自分より背丈の大きい先生を体全体で感じ取り、思わず安堵の息が漏れる。

 

「はぁ、全く……こういう事、他の生徒にはやっていないでしょうね?」

「え? どうかな、疲労困憊になって倒れそうになった生徒を介抱した事はあるけれど……」

「……それはカウントしないであげる」

 

 そう口にして、一体何様のつもりなのだとヒナは思わず自己嫌悪に陥った。先生を縛る権利など自分にはないし、そもそも自分は先生にとって一生徒に過ぎないというのに。まるで彼女か、それに準じる存在かの様な口ぶり――考えて、ヒナは自身の顔が赤くなる事を自覚した。

 それを隠す為に、ヒナは先生の胸元に顔を埋める。ふわりと、鼻先に先生の香りが漂った。

 

「あ、ずるい、私もヒナ吸いして良い?」

「……急いで戻って来て、汗も掻いているから駄目」

「そっかぁ、残念」

 

 先生の胸元からくぐもった声を上げるヒナ。彼女の頭頂部を見下ろす先生は、大変悲しそうに肩を落とした。

 

 ――ヒナ委員長に妙な事をしたら容赦しませんからね……!?

 

 アコの言葉を思い出し、先生は緩く首を振る。ヒナを吸っていたら、アコとの約束を破る所であった。

 いや、でもヒナ吸いって妙な事かな? 妙な事って、具体的にどんな事なんだろう? 先生は考える。妙な事、それはもっとこう、駄目な奴の事なんじゃないか? と。

 教師として絶妙なライン、それこそアコとのわんわんプレイとか、横乳人工呼吸とか……ヒナに横乳人工――? やめよう、殺意が形を伴って飛んでくる。

 けれど、ヒナ吸い位ならオッケーなんじゃないだろうか? どうなんだろう、今度聞いてみよう――先生は心の中でそう思った。

 

 先生がそんな事を考えているとは露知らず、ヒナは先生の胸元に身を預けながらゆっくりと体から力を抜いていた。

 

「……はぁ、疲れが溶ける気がする」

「それは何より、ヒナはちょっと頑張り過ぎだから、偶にはゆっくり休んでよ」

「先生も、人の事は云えないでしょう?」

「私は大人だからね、身体も頑丈なのさ」

「――嘘吐(うそつ)き」

 

 先生の言葉に、ヒナは微かな笑みと共に吐き捨てる。キヴォトスの生徒の前で身体が頑丈などと、良く云えたものだ。ヒナの腕が先生の腰を抱き締め、その指先がシャーレの制服を強く掴んだ。それは、彼女の執着の顕れだった。

 

「……体、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、ちゃんと完治したから」

「……なら、良いけれど、トリニティの方は落ち着いた?」

「一応、でもまだまだやる事は山積みかな? エデン条約の後も色々と仕事が残っているし」

「そう、という事は私にも云っていない問題をまた抱えているって訳ね」

「うん……?」

 

 先生の胸元に顔を埋めていたヒナは、目線だけで先生を見上げ、細々とした声で告げた。

 

「あの時、私に話した事が全部本当なら、もう終わっている筈でしょう? なら、先生はまた別の面倒事――問題を抱えたって事になる」

「それは、まぁ、そう……かも?」

「……別にどうして全部云わなかったのって責めている訳じゃないから、アビドスの件ならまだしも、トリニティの事だし……やたらと複雑で、先生側にも事情があって当然」

 

 先生をぎゅっと、一際強く抱きしめヒナは続ける。

 その声には、先生の今後を憂う感情が込められていた。

 

「色んな観点があって、見方によって真実は変わるかもしれない……あの時、先生はそう云っていたけれど、トリニティの裏切者が見つかっても、それはある特定の観点からの真実に過ぎない――それだけで全てを判断するのは難しいから」

「……そうだね、その通りだ、だから別の可能性も同時に模索する、そうすれば今まで見えていなかった、別の真実が見えて来るかもしれない」

「……ゲヘナの私が口に出す事ではないけれど」

 

 ヒナのそれ()が、先生の瞳を覗き込む。

 

「補習授業部、と云ったかしら? 信頼されているのね、先生に」

「ヒナの事も、同じ位信頼しているよ?」

「――知っているわ、前にも聞いたから」

 

 ふっと、ヒナの口元が緩むのが分かった。先生の胸元に押し付けられたそれは、微かな擽ったさと熱を感じさせる。ヒナの吐息が、先生の肌を熱していた。嬉しそうに細められた瞳、その片側を隠す前髪を優しく払いながら先生は微笑む。

 

「この世界は、口に出さないと伝わらない事が多いからね」

「全く……――」

 

 目を瞑り、暫し沈黙を通すヒナ。

 それから先生の胸元で数度深呼吸を嗜んだ後、ヒナは静かに先生から腕を離し、身を引いた。

 途端、肌を撫でる冷たい風。先生の温もりが消えた事を残念に思いながらも、ヒナは羽織ったコートを払う。

 

「ん、もう良いの?」

「えぇ……こんな所、他の生徒に見られたら事だし」

 

 呟き、周囲を数度確認する。自身の醜態――もといこの様な会話を聞かれては、風紀委員長としての沽券に関わる。軽く乱れた衣服を整え、髪を指先で整えると、いつも通りの完璧な雰囲気を周囲に振り撒き、ヒナは踵を返した。

 

「行こっか、先生」

 

 ■

 

「――帰り道、気を付けてね」

「うん、ありがとう」

 

 本校舎外、校門前に立つ先生はヒナに感謝の意を示す。空は暗く、頭上には星々が瞬いていた。校舎周辺を歩く生徒の姿は疎らで、その殆どは何らかの役職を持つ生徒である。皆エデン条約に先駆け、どこか忙しそうに見えた。先生は所在なさげに髪を指先で弄るヒナを見つめ、ふと声を掛ける。

 

「ヒナ、もしかしてなんだけれど」

「ん? 何」

「まだ、アコに引退の事は話していないの?」

「……引退の件は、先生以外まだ誰にも話していないから、アコは何となく気付いているかもしれないけれど」

「ん、そっか……ヒナのタイミングがあるもんね」

「引退って云っても、そんな大袈裟な事じゃない、少し疲れたから休みたいってだけで――」

 

 言葉を続け、ヒナは徐に首を振る。そこからは、僅かな倦怠感が滲んでいた。

 

「……この話はやめよう、そんな大事な事でもないし」

 

 大事な事ではない――それは少なくともヒナの視点からは、という事なのだろう。先生は彼女の意思を汲み、それ以上問いかける事をしなかった。

 

「それじゃあね、先生――また、調印式で」

「うん、ありがとう、ヒナ……またね」

 

 次に会えるのは調印式――そして互いの立場から、余りに話し込む暇はないだろう。その事を想い、少しだけ寂寥感を醸し出すヒナの背中を見送り、彼女の姿が見えなくなるまで手を振って――先生は懐に仕舞っていたタブレット(シッテムの箱)を取り出し、その名を呼んだ。

 

「――アロナ」

『はい、先生』

 

 呟くと、待機モードにしていたアロナは素早く画面を点灯させた。青い教室でひとり待っていた彼女は、画面前に開いていたモニタをそのままに先生へと視線を向ける。

 

「ゲヘナで調達していた物資の方はどう?」

『えっと、一応秘密裏に購入する事は出来ました、その分搬入ルートが少々複雑になりそうですが……』

「構わない、調印式にさえ間に合えば良い」

 

 アロナの声に、先生は淡々とした様子で呟く。

 先生が今回ゲヘナに足を運んだ理由。それは調印式に先駆けた挨拶、顔合わせという側面が強い。しかし、本当の狙いは別にあった。

 調印式で起こるであろう惨劇、それを回避する為には様々な準備が必要だ。そして、どこの自治区にも大抵は、『表に出せない取引』を行う場所がある。それはゲヘナ正規品の横流しであったり、単純に違法品として製造された物品で在ったり、他所の自治区から強奪してきたものであったり、様々。

 

 本来であれば先生はそれらを取り締まる立場にある。しかし、こういうものは何でもかんでも止めさせれば良いというものではない。故にこそ、あらゆる自治区でこういった小規模のブラックマーケットとも呼べる場所が存在するのは、半ば暗黙の了解として認められていた。

 

 そして今回、先生がアロナに依頼したのは、シャーレ名義ではない形での裏取引。云ってしまえば、兵器や弾薬の購入である。

 残念ながらシャーレとして購入出来るのは所属している生徒の兵装、兵器、及び必要と認可された装備の弾薬、整備用部品、設備のみである。移動用のヘリコプターなどは別だが、自走式の対空砲等の極めて限定的な兵器の購入申請など、まず通る事はない。使用用途として事細かに理由を説明しなければならないし、そもそも申請して通ったとしても、それがシャーレに配備されるまで大変時間も手間も掛かる。

 

 更にそれを他所の自治区に動かすとなれば、それもまた申請を出し、どのような理由で、どのような使用用途で――という形で連邦生徒会からの承認が必要だった。兎にも角にも、十全なバックアップを受けた上でシャーレとして動くには手続きが必要なのだ。シャーレには特権があるが、それはそれとして何処でも自由に兵器を持ち歩きして良い訳ではない。

 

 その点、裏取引ならば金さえ払えばその場で引き渡しも可能、時間という面だけで見れば非常に手続きの数が少ない。当然、それを動かすのも使うのも先生の自由、書類などは無いし、単純な移動手段だけ在れば良かった。

 

 当然の話ではあるが、ゲヘナとトリニティがエデン条約を結ぶ調印式、その会場に堂々と大部隊や兵器を持ち込むことは出来ない。仮にも和平条約、現地に並ぶ部隊の殆どは儀仗兵(見せかけ)の意味合いが強く、ゲヘナもトリニティも、風紀委員会や正義実現委員会などを除けば戦力は程々。警備関連については両者合意の部隊、装備しか用いず、今からそれらの配備や数を変更する事は難しい。

 

 故に、先生が秘密裏に行うのは人員を用いず防衛可能な自動迎撃ラインの構築。調印式の行われる大聖堂周辺を完全防衛権内にするべく、トリニティ、ゲヘナ、ミレニアムと自治区問わず走り回り、物資を調達して回っていたのだ。

 

『トリニティ、ゲヘナ、ミレニアム、一応必須の弾薬や機材の類は揃ってきました、ただそれぞれの場所で購入した合計金額を考えると、その……――』

「まぁ、流石に相応の金額にはなるよね」

 

 アロナのどこか濁したような云い方に、先生は思わず苦笑を零す。分かっていた事だが、現在先生の懐はとても寂しい。今後、以前の様に趣味の玩具を購入できるのは当分先の事になるだろう。

 

「暫くは節制かぁ……でも、お金で安全が買えるなら、安いものだよね」

 

 この時に備えて、先生はこのキヴォトスに来てから細々と貯金に勤しんでいたのだから。途中、どうしても我慢できなくなってフィギュアやら課金やらしてしまったが――それ位なら誤差である。

 少し卑怯な気もするが、スーパーアロナちゃんの力も借りて、先生ひとりならば老後まで食っていける程度の金額をこの半年間の間に稼いでいたのだ。尤も、それでも兵器や弾薬を買い込むと、到底十分な資金とは云えないとなるのだから困ったものだが。

 

『違法取引という点でもそうですが、金額を見られたらユウカさんに怒られてしまいそうですね……』

「……それは云わない約束で」

 

 アロナの言葉に、先生は肩を落として苦笑する。

 この事は、墓まで持って行くと誓ったのだ。

 


 

 次回 先生ガチ勢による準備回――先生に内密で、彼女達も着々と備えていきます。おじさん、ワカモ、ハナコは何を想って調印式を迎えるのか? そしてそれが終われば、皆さんが待ち望んでいた調印式、当日ですわ。

 

 Twitterで前回投稿した「コハルちゃんの前で首を吊ったドッキリをする先生」の漫画に、ドッキリの後、「エッチなのは駄目、しけッ……!」ってなって、不安になるコハルちゃんかわヨみたいなリプが付いていて、「は~、何それ、めちゃエモ」って思いました。

 目の前で先生が一回死刑(首吊った)になったからこそ、言葉の重みと云うか、現実性が加味されて本当に先生を死刑にしたい訳でもないし、ただの言葉だって分かっているのに怖くなって口に出せなくなっちゃうコハルちゃん概念はとても私の趣味趣向に合っていますね。素晴らしいです。誰か描いてくれる事を期待していますわ。

 

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