ハナコは気配を薄くしながら山の麓から住宅街に足を踏み入れた。
しばらく街中を歩き回ったが、特に怪しい様子は見受けられなかった。
そこらで見られた文字は人間界の共通文字であったし、道行く人達の会話もしっかりと聞き取れる。独自の文化を持つ隠れ里という感じではないとハナコは判断した。
ときおり街の住民が旧式のグルメケータイを耳に当てているのを見るに、通信を完全に遮断しているというわけでもなさそうだった。最新式のグルメスマホを見かけなかったが、田舎町ならこんなものかとハナコは思う。
だが、ハナコはふとした違和感を覚える。
商店街に足を踏み入れたときに感じたものだ。
八百屋や肉屋が軒を連ねており、買い物客が店員と言葉を交わしながら食材を買い込んでいる様子がうかがえた。
ごく普通の買い物風景。研究所育ちのハナコには馴染みがない風景だが、それゆえなのか違和感がぬぐえない。
どこかしっくり来ない感覚にさいなまれていると、不意にハナコは喉の渇きを覚えた。
そういえば、しばらく水を飲んでいないどころか昼飯すら食べそびれていた。そう気づいたハナコは、とりあえず道の脇にある飲み物の自動販売機に近づいた。
「ふむふむ。缶は一律一二〇円かー。ラインナップが貧弱だなぁ」
ハナコは研究所にある二〇円から一〇〇〇〇円まで幅広い値段の缶ジュースがそろっている自動販売機を思い出しながら、白衣の下の服にあるポケットから財布を取り出した。
そして、百円玉を二枚取り出し、自動販売機に投入する。
しかし――
「あれ?」
自動販売機のおつり返却口から、投入した百円玉二枚がそのまま返ってきた。
「センサーへぼいなー」
再度硬貨を投入するハナコ。しかし、何度入れても硬貨を自動販売機が認識することはなかった。
ハナコはいぶかしむ。どういうことだ。これは世界共通百円硬貨で、自動販売機にも辺境の独自通貨単位ではなく、ちゃんと『120円』と表示されている。何を間違ったのか。
頭の中でぐるぐると思いを巡らせていると、ふとハナコに近づく者がいた。商店街に買い物をしに来ていた女性の一人だ。
「その機械は玩具じゃないのよ? 遊んじゃダメよ」
「えっ、あ、その……」
思わぬ声かけに、ハナコはしどろもどろになった。先ほどまで気配を消して移動していたのだが、どうやらこの女性は自動販売機に硬貨を入れる音でハナコの存在に気づいたようだった。
「あらあら、その金は本物のお金じゃないわね。買い物がしたかったら、お母さんにちゃんとお小遣いを貰わなきゃダメよ?」
「えっ、はい、そうですね。この百円は……もしかして玩具ですか?」
ハナコは、手に持った百円玉二枚を女性に見せた。
「ふふっ、漫画肉が描いてある。そうね。本物の百円玉はこういうのよ」
女性は手提げカバンから財布を取り出し、手の平に硬貨を載せてハナコに見せてきた。
それは、中央に花が彫られ、『日本国 百円』と書かれた硬貨だった。ハナコが持つ
「ありがとうございます。全然違いますね」
「でしょう? 玩具の硬貨を使って買い物をしようとしたら、警察に捕まっちゃうかもしれないから、気を付けるのよ?」
「はい、気を付けます」
そう言ってハナコは話を打ち切り、女性に頭を下げて自動販売機から離れた。そして、女性がこちらを見ていないかを確認して再度気配を薄める。
そして、ハナコは女性との会話で判明した事実を頭の中で
ここはIGOの共通通貨が使用されていない国。名称は日本国。現在、IGOの加盟国にそのような名称の国は存在しないはずだ。
商店街で覚えた違和感の正体も分かった。
あまりにも食材のラインナップが貧弱なのだ。ハナコのいた人間界は、現在新グルメ時代と呼ばれる料理第一主義の時代だ。
かつて、グルメ時代と呼ばれる数百年にわたりグルメ文化が花咲いた時代が存在した。だが、それは一度終焉を迎えることとなる。
そして大地の荒廃から二年後、再び三虎が放った〝グルメスパイス〟で大地は再生し、新しいグルメ時代が幕を開けた。
新グルメ時代の始まりから八年経った今、田舎の商店街といえども、あの八百屋や肉屋が扱っていた商品は信じがたいラインナップだった。グルメ食材を扱うには、あまりにも貧弱な品揃えだった。
この国は新グルメ時代の恩恵にあずかっていないIGO非加盟の貧しい国なのかもしれない。
だが、もしかしたら……。
ハナコは一つの可能性に思い至っていた。
「わたし、マイクロブラックホールに飲みこまれて、タイムスリップしたのかも……」
古い方のグルメ時代が始まるよりも前。美食神アカシアが人間界にグルメ細胞をもたらす以前の地球に飛ばされたのでは、とハナコは空想した。
◆◇◆◇◆
「うん、タイムスリップじゃないや」
ハナコは街をさまよい、通行人に道を聞いて図書館へとやってきていた。
そして、最初に手に取ったのは地図。見開きページに世界地図が載っており、そこにはハナコも見覚えのある地形が載っていた。
だが、それはごく一部。
ハナコが知る人間界の世界地図と比べると、この世界の地図には外周の陸地が足りていなかった。
どうやら、彼女が迷いこんだこの世界は、人間界の中央部分だけを切り取って一つの星にした、地球より小さな惑星のようだった。
「確か、ココさんが言っていたね……」
ハナコは、美食四天王と呼ばれたカリスマ美食屋の一人、ココと会った時に語られた世界の秘密について思い出していた。
曰く、本来の地球は人間界の中央部分しか存在しない小さな惑星だった。
それが数億年前、ブルーニトロと呼ばれるグルメ貴族によってグルメ細胞が落とされ、地球は肥大化し、今日の広大な人間界とグルメ界が誕生したと。
つまり、人間界の中央部分しか地図に載っていないのに、恐竜が地上を支配しておらず、人間が文明を作っているこの時代は……。
「ブルーニトロによってグルメ細胞が持ちこまれなかった、IFの世界……並行世界の地球……?」
ハナコはその妄想じみた仮説を補完すべく、図書館を動き回り、地理や歴史を調べてまわった。他にも植物図鑑や野菜図鑑、百科事典などにも目を通し、自分がいた地球とは近いようで遠い存在であることを確認していく。
そんな中、ふと空腹感を覚えるハナコ。
そういえば昼食を食べていないと、彼女は気づいた。こちらの土地に迷いこんだのも昼時で、それから数時間経っている。
ハナコはさほど大食らいというわけではない。それでも身体は成長途中で、多くの栄養を必要としている。栄養を身体に溜めておく食没という技も存在するが、現在ハナコは特に食没を使用しているわけでもなかった。
なので、彼女は白衣のポケットから、昼食用にと取っておいたグルメ栄養食のパッケージを取り出し、封を切って中のブロックを口にした。
その次の瞬間、ハナコは正面の席に座る人間と目が合った。
それは、彼女と同じ年代の幼い少女。紫色の髪をした、優しそうな女の子だ。その少女は、グルメ栄養食のブロックをくわえるハナコの目を真っ直ぐ見て、口を開く。
「図書館内は飲食禁止ですよ?」
「……すみません」
ハナコは頭を下げながら、ブロックを全て口の中に放り込んだ。
その様子を見た少女は、「全部食べるんだ……」とつぶやく。ハナコは頭を何度もペコペコと下げた。