「食義の修行を始めて約一ヶ月。本当におつかれさま」
八月のある日。三時間の食禅を終えたすずかとセインに向けて、ハナコが唐突にそんなことを言い出した。
「えっと……」
「もしかして、修行完了かな!?」
すずかはハナコの様子に戸惑い、セインはこの修行中に何度口にしたかも分からない台詞を言った。
そう、セインは修行中、まだ終わらないのかと何度も不満を口にしていた。それでも修行を投げ出さなかったあたり、根は真面目なのだろう。ハナコはそう判断して修行の手をゆるめなかったことが、さらなるセインの不満を呼んでいた。
だが、そんなセインの不満を解消する言葉が、ハナコの口から発せられる。
「うん、ただいまの食禅をもって、『上級』の修行は終わりだよ。本当におつかれさま」
「わー、やったぁ」
「うおー、終わったー! あ、でも、最後の試練みたいなのはないの? 師匠を倒せば免許皆伝! みたいな」
純粋に喜ぶすずかに対し、セインはそんなことを言っておどけてみせた。
「ないない。いや、本当ならシャボンフルーツっていう食材を取りに行く最終試験があるんだけど、ここは食林寺みたいな環境がそろっていないからね」
「なーんだ。残念だなー。最終試験くらい楽勝でこなせてみせたのになー」
ハナコの説明を受けて、セインがさらに冗談を重ねる。
すると、ハナコはニヤリと笑ってセインに向けて言った。
「じゃ、やろっか。食林寺とは違う、ハナコ流特別最終試験」
「えっ、い、いやぁ。そんな無理に試験を用意してもらわなくても、大丈夫じゃないかなー」
そんなハナコとセインのやりとりを横で聞いていたすずかが、クスクスと笑い出す。
すると、ハナコも「フフフ」と笑う。
「あっ、冗談かぁ。もう、ハナコはー」
「いや、最終試験はやるよ」
「えっ」
「でも、そんな苦難の試験とか死に直結する試練とかじゃないよ。さっき話に挙げたシャボンフルーツを調理して、三人で食べようってだけかな」
「なーんだ」
セインはホッと息を吐き、「ついてきて」と言って歩き出すハナコを追って、すずかと共に食堂へと向かった。
すると、食堂のキッチンには、子供の頭ほどのサイズをした輝く果実が複数用意されていた。
「これが、食林寺の
ハナコは、シャボンフルーツの一つにそっと手を触れ、すくいあげると近くに居たすずかに差し出してみせた。
すずかは、それを慎重に受け取り、中に詰まったシャボンフルーツの果肉から感じる圧倒的な存在感に驚愕を露わにした。
「これは……すごい食材だね」
すずかがポツリとそうつぶやくと、セインも興味が出たのか、慎重にシャボンフルーツの一つを手に取る。
そして、セインはこの果実をどう料理したら美味しくなるかを考え込み始めた。
そんな二人の様子に、食義の修行成功を確信したハナコは、笑顔を浮かべて言う。
「さ、二人の中ではいろんな料理法が思い浮かんでいるだろうけど、今日は私が食林寺で教えてもらった方法で料理するよ。薄皮を剥いて、茹でよう」
そうして、ハナコに指導されながらの調理が始まった。
食義を習得したすずかとセインは、すでにハナコを超える料理の腕を持っている。
その二人の手によりシャボンフルーツはまたたく間に皮が剥かれていき、水のたっぷり入った鍋へと投入される。
すずかはシャボンフルーツの茹で上がりを見逃すまいと鍋に集中しながら、修行の日々を思い返していた。
食義の修行は、二つの教えに集約されていたと言っていいだろう。所作と感謝だ。
所作の修行はすずかの動きから無駄を省き、感謝の修行はすずかに食材への理解を深めさせた。
そしてすずかは、同じく食義を修めているハナコのこともよく理解できるようになったと思い至った。
鍋を見ながら、すずかはハナコに言う。
「ハナコちゃんって、美味しいお肉を食べたいってしょっちゅう言っているけど……」
「言ってるかな!? 言ってるか……」
すずかの後方で腕を組みながら、料理風景を眺めていたハナコが驚くように言った。
そんなハナコに向けて、すずかは言葉を続ける。
「でも、昔うちで出していた普通の肉や魚を美味しくないとか食べたくないとか言ったことはなかったよね」
「ん……そうだったかな?」
「食への感謝があったから、否定の言葉を使わなかったのかな」
「んー、単に、居候の身で出されたものを美味しくないって言うのが失礼だったから、言わなかっただけかもね!」
と、そんな会話をするうちに、シャボンフルーツは無事に茹で上がった。
球体をしていたシャボンフルーツは、茹でることでハリを失い、形が崩れくたっとなっている。
それをすずかとセインは深皿に盛る。ハリは失われているが、輝きは失われておらず、まさしく宝と呼ぶのに相応しい美しさがそこにあった。
その皿を食堂に運び、三人はそろってテーブル席に着く。
「それでは、食への感謝を込めて、いただきます」
ハナコの号令で一斉に手を合わせ、シャボンフルーツの実食に入る。
綺麗な所作でスプーンを手に取り、すくい、口へと運ぶ。食義を修めた三人の食事風景は、シャボンフルーツの見た目も相まって、それだけで見物料を取れそうなほどに美しかった。
「美味しい……」
シャボンフルーツを一口食べたすずかが、そんな言葉を漏らす。
一方セインは、没頭するかのようにスプーンを動かし続けていく。
「このシュワッとした炭酸が美味しいよね」
ハナコもシャボンフルーツを一口食べてから、すずかに向けてそう言った。
「うん、フルーツなのに、甘い炭酸ジュースみたいな……」
「でも、ジュースにはない独特の食感が楽しいんだよね」
「そうだね。そのあたりはフルーツならではなのかな」
そんな言葉を交わしてから、二人は食事を再開した。
そして、じっくり一皿を楽しんで、三人一緒に「ごちそうさまでした」と食後の挨拶をする。
それから三人はキッチンへと戻り、食器や料理道具を洗う。この食堂のキッチンは皆が使うため、洗い物は溜めないように決められている。
丁寧に鍋を洗い、食器を洗浄し、スプーンを磨く。
一通り終わったところで、ハナコから修行の最後に言うことがあると告げられ、すずかとセインは姿勢を正した。
キッチンの隅で、ハナコが言う。
「さて、お二人とも。これまでの修行で、食への感謝が心の隅まで染み渡ったかと思います」
こくりとうなずくすずかとセイン。二人の感謝の念は、たいまつくしに火を灯し、修行用食材の花を咲かせるほどのものになった。
そんな二人に、ハナコは人差し指を立てて言う。
「ですが……それは一旦、捨てましょう」
「……は?」
思わずといった様子で、セインが声を漏らす。だが、それを気にせずハナコは言葉を続ける。
「食への感謝は大事です。でも、食義は礼儀作法であって、宗教ではありません」
ハナコの言葉に、すずかとセインは困惑する。修行の最中に求められた食への感謝は、完全に宗教じみていた。
「なので、食への感謝を行動の原理とするのはやめておきましょう。そういうのは、食義を専門にしている食林寺のお寺の人達がやることだからね」
言われながら、すずかは普段のハナコを思い出す。彼女は食を冒涜するようなことはしない。だが、食への感謝の言葉を普段から口にしていたか? いや、していない。ハナコはただ自然体で居た。
「自身のアイデンティティーを揺るがすほどに、食への感謝にこだわりすぎないように! 身につけた礼儀は守りつつ、修行開始前と同じ日常を過ごしていきましょう。以上!」
ハナコの最後の言葉が終わり、食義の修行が完了した。
すずかとセインは、食への感謝にこだわりすぎないようにと急に言われて、どうしたものかと顔を見合わせて……互いに困った顔をしていることに気づいて、同時に吹き出した。
「あはは、修行前と同じ日常って、どんなのだったかなー」
セインが笑いながらそう言うと、すずかもクスクスと笑って答える。
「私はとりあえず、家族に会ってくるよ。一ヶ月も会ってなかったから、日常を思い出せると思うの」
「じゃあ、あたしはドクター達にお昼ご飯でも作るかな。みんなのために作るご飯とか、久しぶりだし」
すずかとセインはそう言葉を交わし、修行を終えた二人はもとの日常へと戻っていった。
食の礼儀作法。それは確かに二人を変えたが、二人の日常は何一つ変わることなく、平和に続いていく。
そして、修行の監督を終えたハナコは、ふと思う。結局Dr.ゼロも他のナンバーズも、食義を学びたいとは一言も言い出さなかったな、と。
よほど厳しい修行に見えたのだろう。だが、食の礼儀作法は大事なので、誰か本格的に食義へ取り組む人が出ないかな、などとハナコは食の未来に思いをはせた。
シャボンフルーツ(寺宝)
捕獲レベル:98
トリコ原作に登場する食林寺の寺宝。バブルウェイと呼ばれる食林寺の裏山に存在する不思議な食材。フルーツという名前だが、果物であるかどうかさえ不明である。本作品のオリジナル設定として、ハナコが栽培可能な果実とした。だが、修行者を餓死寸前まで追い詰めるバブルウェイまでは再現できなかったようだ。