白瀬咲耶に嫌われたい   作:モリンフェン

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第8話 一時の気の迷い

「──そこの金髪の君!」

「?」

 

 市街地を1人で歩いていると、スーツの女性に声をかけられた。その人は凄いものを見て衝撃を受けたような表情をしている。

 

「……」

 

 無視だ無視。知らない人間の話など基本的に碌なものではないし、そもそも俺である理由が分からない。どう考えても他に適任がいる。

 

「無視しないでーっ!」

 

 ……道を塞がれてしまった。

 

「お願いっ! どうしても君じゃなきゃダメなの……!」

 

 しかし、スーツの女性は容赦無く駆け寄って来る。

 どうやら本気で俺に用があるみたいだ。

 理解に苦しむ。俺でなければならない理由は一体何だろう。

 

「あっ……ごめん。紹介がまだだった。実は私こういう者で……」

 

 女性は息を切らしながら俺に紙切れを渡す。それには、女性の名前と所属事務所が記されていた。

 

「名刺……?」

 

 事務所に関しては芸能界に詳しくない自分でも知っているところだ。本物……なのか?

 

「単刀直入に言うよ。君に──モデルになって欲しい!」

「……は?」

 

 理解できない。一体何を言っているんだろうこの人は。

 

「今日の撮影に来る予定の子が急に休んじゃったの。それで代役を探している途中なんだけど……それで君が目に入った」

「はぁ」

「この短時間でいろんな子を見てきた。その中で、君がモデルとして最も理想的だった!」

「もっと探せばいると思いますが」

「いいや! これ以上探しても君を超える逸材は見つからない。なぜなら、時間が無いから! ていうかそろそろ現場に戻らないと……!」

 

 この焦り具合からして嘘は言ってなさそうだ。本当に時間が無いんだろう。

 

「ちゃんと報酬も払う。2万……いや、3万円!」

「……!」

 

 3万円!?

 

「……分かりました」

「という事は……!」

「受けます、その仕事」

「ありがとう! これで撮影も上手くいくよ!」

 

 女性は両手をガシッと握ってブンブンしてきた。

 ……情けない。あろうことか金の力に屈してしまった。とは言え、別に犯罪ではないから問題無い……はずだ。

 

「その代わりの条件ですが、俺の本名は絶対に公開しないでください」

「うん、大丈夫。芸名でやってる子も少なからずいるからね」

 

 話の分かる人で助かった。

 何かの間違いで知り合いにでも見られたら終わりだ。プライバシーは何が何でも守らなければ。

 

「俺は深見波音です。よろしくお願いします」

「僕は三谷凪。よろしく」

 

 女性……三谷さんと大急ぎで目的地へ向かった。

 

 

 

   □■□

 

 

 

「できました! 目を開けて大丈夫ですよー」

 

 あれから撮影所の控室に向かい、メイクを行った。

 プロのスタイリストとは凄いもので──急ぎなのもあるが──そこまで時間はかからなかった。

 メイクが終わって目を開けると、

 

「は?」

 

 そこには信じられない光景。鏡の映る自分の姿がおかしい。俺ではない。

 ──ロングヘア―、何か知らないけど大きくなってる目やらまつ毛やら。明らかの俺の特徴ではない。

 だが、見た事がある。幼い頃、毎日のように見ていた。

 これは……まるで。

 

「……おかあ、さん」

「え?」

「いえ、何でもないです」

 

 とんでもない独り言が出てしまった。自分を見てお母さんとか言う奴ヤバすぎるだろ。何はともあれ、バレなくて良かった。

 それよりも、言わなければいけない事がある。

 

「深見君、とっても可愛く仕上がってるよ。やっぱり私に目に狂いは──」

「俺、男なんですが」

「……え?」

 

 案の定、理解できていないようだった。

 三谷さん、スタイリストの人共々俺が男だって気づかなかったのか……。

 

「「えぇぇぇぇ!?」」

 

 2人が大声をあげる。

 そんなに信じられないか……。流石の俺だって傷つくぞ。

 今は仕事中だから我慢できているが、これがプライベートだったら我慢できなかった。間違いなく怒鳴ってた。

 

「嘘でしょ? その顔で……?」

「嘘じゃないですって! 男ですよ!」

「でも、今回の撮影は女子限定で……」

「中止とかにできないんですか?」

「もう時間が無いし、上の人にも代役連れて来ましたって言っちゃったし……」

「メイクの時間も無いですし……」

「こうなったら──深見君にはこのまま女装してもらう!」

 

 ……え?

 

「えぇぇぇぇ!?」

「ごめん。このままだと撮影に支障が出ちゃうから……!」

「そういう問題じゃ……!」

「お詫びに報酬増やすから……2万増やして5万円!」

「う~ん……」

 

 5万。時給1000円だとすると、50時間働く事で得られる金額。それを、ほんの数時間で稼げるなんて……。

 

「そこまで言われたら仕方ないですね」

「あ゛り゛か゛と゛~! こ゛め゛~ん゛!」

「勘違いしないでください。別にあなた方を助けようとした訳では……」

 

 泣かれても俺は何もできない。

 三谷さん、なまじ善人で大人だから接しづらくて困る。これで社会人としてやっていけている事が不思議でならない。

 そんな事よりも、こんなしょうもないやり方で買収されてしまう自分の弱さが恨めしかった。

 

「とにかく、女装させるならバレないようにお願いします。仕事は手を抜かずしっかりやるので」

 

 引き受けた以上、給料分の仕事はしなければならない。それが、俺の果たすべき責任。

 ……もっとも、俺の精神が耐え切る事ができればの話だが。

 何かもう、どうにでもなれって気分だ。

 

 

 

   □■□

 

 

 

「代役連れてきましたー!」

 

 様々な準備を全て終え、先程の現場に到着した。

 周りにはカメラなどに機材や、何人かのスタッフらしき人達。かなり本格的なのが伝わってくる。

 

「君が代役のアリア(・・・)ちゃん、だね? よろしく」

「はい。よろしくお願いします」

 

 カメラマンと挨拶する。反応を見るにバレてないようだ。プロのメイクの凄さを思い知った。

 それにしても、非常にむず痒い。今の姿、今の状況、その他諸々。早く終わらせたい。

 

「めっちゃ顔いいな、あのアリアって子」

「可愛さとクールを両立できてる……凄い女の子だな。あれで一般人ってマジ?」

「学校では人気なんだろうな……学生時代あんな女の子に話しかけられたい人生だった」

 

 拗らせてるヤツいる? こっわ。俺は男だぞ?

 三谷さんに頼んで本名を伏せてもらって良かった。これで何かの間違いで周囲の人間にバレる事は無いだろう。

 

「まずは自然体で撮るよー!」

 

 そういう指示を受けたのでそれっぽい感じの態勢を取る。

 

「いーねー!」

 

 ……何だろう、この気持ち。凄く複雑だ。何が悲しくて俺は女として振る舞っているんだ。近い内にこの姿が世に出る? 金のためとは言えこんな……俺は見せ物じゃないんだぞ。

 

「次はポーズ!」

 

 今度はそれっぽいポーズを取る。

 

「それもいーねー!」

 

 ……いいのか。もう何が正しいのか分からない。とりあえず、女子らしさを意識しつつ、言われた通りにきちんとやっていれば文句を言われる事は無いはずだ。

 

「じゃあ、今度は他の子とツーショットで!」

 

 ……頼むから1人でやらせてくれないのか。

 見た目は問題無くても、他の要素も女性っぽく見せなきゃいけないから誰にも近づいて欲しくない。

 仕草とか口調とかそれっぽくするの凄く疲れるんだぞ。

 

「よろしくお願いしますー」

「こちらこそよろしくお願いします」

 

 ツーショットを取るのは、紫髪のツインテールの女子。

 大して年は違わないだろうに、凄い独特なファッションだ。モデルならこれくらい普通なんだろうか。何も分からない。

 ……思考停止は好きではないが、この地獄から脱するにはそうする他に無さそうだ。

 本当に、どうしてこんな仕事を引き受けてしまったんだろう。

 一時の気の迷い、恐るべし──。

 

 

 

   □■□

 

 

 

「以上で終わりです!」

「お疲れでした」

 

 ……やっと終わった。疲れた。もう2度とやりたくない。男なのに男だってバレないようにしなければいけないって何だよ。もう哲学だろ。

 

「深見君。はい、これ」

 

 三谷さんから封筒を受け取る。

 中を確認すると、1万円札が5枚。詐欺でなくて安心した。

 

「今日はホントにありがとう! 深見君、凄くさまになってたよ!」

「……俺の頑張りが報われた気がします」

 

 こうして素直に褒め言葉を受け取るのは珍しいかもしれない。あくまでも“女性モデルアリア”としての俺を褒めているのは分かっているが、仕事の事を考えると謙遜もへったくれも無い。

 女性として仕事に臨み、女性として見られるのはこの上無い地獄だった。こうして5万円も貰えなければ絶対やってない。断言できる。

 指示通りのポーズ、指示通りの表情。それら自体は難しいものではないが、精神的な負担が重い。

 

「ねえ、もし深見君が良ければだけど……正式にモデルになってみない?」

「え?」

「君ならトップモデルも夢じゃないよ!」

「申し訳ありませんが、お断りします」

 

 正直、継続的にやりたいかと言われたら全くそんな事はない。断固拒否する。

 

「そう……深見君がそう言うなら仕方ないか」

「……でも、次は男でという条件でなら悪くはないと思います」

 

 金稼ぎの効率は非常に良い。どこかの店でバイトをするよりも間違いなく。夏休みみたいな長期休業の時にバイトでやるくらいならちょうどいい。

 ……ちゃんと男として仕事をくれるのであればの話だが。

 

「連絡先だけ教えてくれる? 今日の事とか、後で君に話す事があるかもしれないから」

「まぁ……そうですね。とりあえずチェインで」

 

 素人を採用したなら何かしらやらなきゃいけない事があるはずだ。

 ……仕方ないか。

 

「お願いします」

「うん、これから仕事の依頼とか事務所の勧誘もあるかもしれないから、そこのところよろしく!」

 

 チェインを交換した。

 まさか、こんな形で増えるとは思わなかった。

 というか、俺もモデルにする事をこの人諦めてないな?

 

「それじゃあ。雑誌、楽しみにしててね」

「では」

 

 そう言って、三谷さんと別れた。

 この雑誌が白瀬さんにバレない事を祈るばかりだ。今日は一緒じゃなくて本当に良かった。

 

 

 

   □■□

 

 

 

 今日は三谷さんから聞かされていた雑誌の発売日。

 近くのコンビニにあったから買ってみた。家に帰って読む事にした。

 誌面には女装した俺の写真が載っている。実際に見て見ると、非常に良く撮られている。流石はプロだ。俺の雰囲気とか、そういうものまで考えられているのが一目で分かった。

 しかし、これは本当の俺ではない。“女子高生モデルアリア”という仮面を被った偽物に過ぎない。

 

「……捨てるか」

 

 見るものは見た。部屋に不要な物を溜める訳にもいかないからと雑誌をゴミ箱に入れようとした、その時だった。

 テーブルに置いてあるスマホが振動した。何かと思って画面を見る──。

 

「嘘だろ……?」

 

 白瀬さんからの着信だった。

 まさか。

 そんな。

 嘘だ。

 あり得ない。

 偶然に決まってる。 

 恐る恐る、着信ボタンを押すと──。

 

『波音! 一体どういうことなんだ!? どうしてモデル雑誌に君が載ってるんだ!?』

 

 出るや否や、白瀬さんの大声。

 ……どうしてこう、都合の悪い事ばかり簡単に起こるんだろう。

 

「やりたくてやった訳ではありません。報酬や条件が良かったから仕方なくやっただけです。邪な気持ちなんてありません。あと何度も言ってると思いますが俺は女扱いされるのが嫌いなのでそういった扱いをしたと判断したらブロックしますよ」

 

 自分でも驚くほど事務的かつ早口だった。息継ぎなんてしていない。焦っている証拠だ。

 

「あの、どうして分かったんですか? 雑誌に俺がいるって」

『私の友達がこの雑誌の撮影に仕事を受けて、それで私に言ってくれたんだ。咲耶がよく話す子に似てるのがいるって。それで、気になって読んでみたら、この通りというわけさ』

 

 そんな偶然あるか? いたとして、一体誰だ? もし次に会う機会があれば、絶対に問いただしてやる。

 

『すごくいいね。自分の持ち味を活かしていて、とても手慣れている感じがする。もしかして、波音はモデルだったのかい?』

「いや、初めてですよ。本来撮影する人が急に来れなくなって、その代役でやりました」

『初めて!? すごいな……!』

「そんなに?」

『ああ、波音には才能がある。トップモデルも夢じゃないかもしれない』

「俺は見せ物になるつもりはありませんよ」

『見せ物なんてじゃないよ。モデルは誰かに夢や希望を与えられる素晴らしい仕事だ』

 

 外見的に問題無くても、精神的に大問題だ。あんなストレスを抱えてやりたくない。

 

「俺は夢や希望は誰かに与えられるものではなく、自分自身の手で見つけるものだと考えています。だから、俺は与える側の人間にはなれません」

 

 誰かから与えられた夢や希望なんて本物ではない。自身の内側から生じて始めて意味を持つものだ。そんなものをむやみやたらに振り撒いて、客に勝手に期待されて、それで責任が取れる訳もない。

 俺は不特定多数のそれらに応えられるつもりはない。そんなのは真っ平ごめんだ。

 

『そこまで言うなら仕方がない。私は見たいんだけどね。モデルとしての波音の姿を』

「あの俺は偽物ですよ。あの空間では、俺は“深見波音”でいる事を許されないので」

「というと?」

「誰か期待されるなんて真っ平なのに、それを強要されるのは苦痛ですから。俺は自由でいたいので」

「……そうか。それなら仕方ない」

 

 ……落胆してるのか? 本当に見たいと思ってたんだな。白瀬さんには悪いが、もう2度と女装なんてしない。絶ッ対に嫌だ。

 

『そうだ。1つ気になったんだけど、どうして本名じゃないんだい?』

「本名だとバレた時に面倒だからです」

 

 もっとも、意味は無かったが。1番バレたくない人間にバレてしまったから。

 

『それでアリアという名前が考えられるなんて、とても良いセンスをしているね』

「考えるも何も、母親の名前なので……」

 

 鏡を見た時、まるで母親と顔を合わせているように見えた。だから、あんな事を呟いてしまった。それが頭から離れなくて、この名前にしたんだろう。あまり良い動機とは言えない。

 

『波音は母親が大好きなんだね』

「……そうですね」

 

 こればかりは否定できない。自分を大切に想ってくれた人を気持ちを無下にする事は、その人と自分自身の存在を否定しているのと同じだ。

 

『羨ましいよ。私は物心がついた時には母親がいなかったから』

 

 どう答えればいいんだ。流石に何も言い返せないぞ。

 白瀬さんは白瀬さんで複雑な境遇だな……。

 

『ああ、そうだ。もう1つ君に用があってね。詫びと言ってはなんだけれど、君と一緒に行きたい場所があるんだ』

 

 直後、チェインに1枚の写真が送信された。

 海の写真だった。水平線には何も無い。恐らく都会から少し離れた場所だろう。

 

『東京を出ることになるけれど、そこまで遠い場所じゃないから安心して欲しい。今はまだ昼だ。時間に余裕はある』

 

 現在の時間は午前11時30分。関東圏内なら大体の場所に行ける。

 普段はあまりの利便性から東京の外に出ないが、海を見るだけなら特に問題は無いか。幸い金もある。あの仕事で味わった苦痛は無駄じゃなかった。

 

「分かりました。準備します」

 

 この提案は受け入れる他に無い。

 綺麗な海が見れるなら多少時間がかかってもいい。それに、白瀬さんに直接訊かなくちゃいけない事もある。

 

 

 

   □■□

 

 

 

「……!」

 

 開けた場所に来ると、それは一気に姿を現した。

 

「……凄いですね」

「東京の海ではどうしても建物が見えてしまうからね。たまには先に何もない海が見たかったんだ」

 

 俺らがやって来たのは、鎌倉の由比ヶ浜。名所と知られる海だが、時期が5月ということもあって人が少ない。雑音は無く、ただ風と波の音だけが聞こえる。

 何より、白瀬さんも言ったように、水平線の先には人工物が何も無い。東京で見る海に慣れているから、今の光景はなかなか新鮮だ。

 いつぶりだろう。こんなに綺麗な海を見るのは。

 

『海、綺麗ね』

『うん!』

『波音と一緒に見れて、お母さん嬉しいなぁ』

『また来れる?』

『もちろん。一緒に来ようね』

 

 遠い過去の記憶。満面の笑みでそう答えた母さん。それが、最後の会話だった。体調が急に悪化して、そのまま帰らぬ人となった。

 あの時見た海も、こんな風に綺麗だった。

 ……どうして今思い出してしまったんだろう。

 

「波音、そんなに険しい表情をしてどうしたんだい?」

「別に何でもありません」

「いいや、何かある。確かに君は普段から仏頂面だが、今はいつにも増して眉間にしわが寄っている」

 

 ……よく見てるな、この人。

 

「まだ母さんが生きていた頃の事を思い出していました。昔、この海と同じくらい綺麗な海を一緒に見たんです。それは……母さんが亡くなった日でもあります」

「そうだったのか……」

「俺は前だけを見て生きていくと決めています。だから過去を振り返りません。それなのに……振り返ってしまいました。心が弱い証拠です」

 

 1度起こった事は無かった事にはならない。元には戻らない。だから、後ろを見ても意味が無い。

 それなのに、思い出してしまった。

 

「──波音」

「ッ……!」

 

 唐突に、白瀬さんに抱き締められた。

 

「誰だって昔の事を思い出して寂しくなる時はある。過去を振り返るのも悪くないし、心が弱いわけでもない」

「でも……1度そうだと決めた以上は貫くべきです」

「いいんだ。たまには過去を振り返って思い出に浸るのも」

 

 どうしようもなく懐かしさがこみ上げてきた。

 俺を包み込む手の感触。温もり。心地良さ。安心感。以前にも感じたことがある。時を経るにつれて薄れていったその感覚。それを今、明確に思い出した。

 ──あぁ、そうか。

 俺は、寂しかったのか。

 母親の話題が出て、心の奥底に閉まっていた気持ちがほんの少しだけ漏れたんだろう。

 だからこそ、今この状況で、俺は白瀬さんに心を許している。

 

「もしこれから今みたいな気分になった時は私を母親……いや、姉だと思って接してくれていい。君は1人じゃない。だから、思う存分頼ってくれて構わない。波音の気持ち、受け止めるよ」

 

 頭を撫でられながら、優しい言葉をかけられる。それに抵抗できなかった。自然に、スーッと心の中に入り込んでくる。

 俺にこんな言葉をかけてくれた人は、家族と、白瀬さんくらいだ。

 母さんはもういない。父さんはいつ帰ってくるかわからない。そう考えると、こうして一緒にいてくれるのはこの人だけだ。

 

「こうして波音と話していると考えるんだ。もし君がいも……弟だったら孤独じゃなかったんだろうかと」

 

 今“妹”って言おうとしたな。俺ってそこまで男らしくないのか?

 というか、おかしいだろ。相手は白瀬さんで、血も繋がってない赤の他人だ。そんな人が姉だなんて妄想も甚だしい。

 そもそも、たらればに意味など無い。それなのに、簡単に切り捨てて考える事ができない。

 

「私と波音はとてもよく似ている。もはや姉と弟と言っても差し支えない。なに、関係に血は必要無いさ」

 

 そのゴリ押しは何なんだ。意味が分からない。

 

「……関係に血は必要無いなら、繋がりに名前も必要無いんじゃないんですか? 俺は俺で、白瀬さんは白瀬さんです。そこに何の違いも無いでしょう」

 

 少なくとも、俺達は対等なはずだ。そういう上下関係は面倒でしかない。

 ……でも。今は。今この時だけは。その関係に浸ってもいいんではないかと考えてしまう。

 けれど、それを認めてしまうとこれから先、俺は白瀬さんに依存するようになるかもしれない。それだけは何が何でも避けるべきだ。

 俺は誰にも頼らず、1人で生きていく。白瀬さんと関わった現在でもその信念は変わらない。だから、今の関係を維持するのがベストだ。

 

「……済まない。少し血迷っていた。君はこう、何て言うか……」

「それ以上言わなくていいです。分かってるので」

 

 白瀬さんも俺と同じ気持ちなのかもしれない。ただ、距離感に限っては別だが。

 俺にとって白瀬さんは姉のような存在なのかもしれない。年上で、似たような境遇で、見た目も性格も価値観も全然違うのに、それでもなぜか波長の合う不思議な人。そんなのは世界中探し回っても見つからないという確信がある。

 それでも、俺は認めない。この人に対して抱いている親近感の正体を。

 

「……ったく」

 

 あと1つ。白瀬さんに言わなければいけない事。本当に、どこまで俺を女扱いすれば気が済むんだか。少しは欲求を隠せ。

 そんな事を思いながら、白瀬さんの腕を振りほどく。

 

「こうすれば、少しは男って意識してもらえます?」

 

 顎に指を置いて、俺の方に引き寄せる。世間では顎クイと呼ばれる行為だ。

 ……何でこんな事してるんだろ、俺。冷静に考えたら、少ないとは言え周りに人がいるんだよな。まぁ、やってしまった事を無かった事にできない。

 

「……可愛い」

「帰っていいですか?」

 

 恐らく、白瀬さんにとっては背伸びしようと頑張ってる子どもを見てる感覚なんだろう。

 やっぱ高身長の人間ってムカつくな。ナチュラルにそういう事するのはどうかと思うぞ。

 ……疲れた。波が当たるギリギリの所まで近づこう。ズボンの裾をまくっておけば大したダメージは無い。

 

「キャッ!」

「……?」

 

 俺の後ろを歩いていた白瀬さんが、唐突に転んだ。どうやら、流れ着いた木の枝に引っ掛かったみたいだ。

 

「痛ッ……!」

 

 白瀬さんの膝で血が滲んでいた。膝を地面につく際、運悪く枝に擦りつけてしまったんだろう。

 もっと最悪なのは、絆創膏のような道具は持っていない事だ。つまり、このままだと応急処置すらできない。

 

「近くのコンビニかドラッグストアに行ってきます」

「でも……」

「でもじゃありません。あなたは怪我人です。でしゃばらないでください」

 

 白瀬さんのことだ。普段は人を頼れとか言う癖に、肝心の本人は人を頼るのが苦手だ。どういう神経をしているのか分からない。

 

「波打ち際から離れてください。そして、そこから動かないように。もし動いたら見捨てます」

「あ、ああ……」

 

 渋々ながら納得してくれた。ここまで言わないと折れてくれないから厄介だ。

 こうなったら白瀬さんは言う事を聞く。それを確信して、俺は走り出した。

 

 

 

   □■□

 

 

 

「ハァ、ハァ……白瀬さん!」

 

 絆創膏と水を買って、全速力で戻って来た。

 ここまでかなり急いだから息が切れている。ここまで疲れを感じたのはいつぶりか分からない。

 

「今から処置します。大人しくしててください」

 

 白瀬さんにそう言って、袋からペットボトルの水を取り出した。

 それからすぐにキャップを開け、患部である膝の傷に水を流す。

 

「クッ……!」

「痛いかもしれないですけど我慢してください」

 

 今度は絆創膏を取り出し、傷の上に貼る。

 こうでもしなければ後に響く。そうなってしまったら後味が悪い。

 

「最低限の処置はできました。この先何かあったら病院に連絡を」

「……ありがとう」

「俺はただできる事をしただけです」

 

 俺はいつものように自身が今すべき事をしただけ。別に感謝されるような事ではない。

 

「顔、赤いですけど大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫だ。何ともない……!」

 

 白瀬さんの頬が赤くなっていく。もしかして、既に手遅れなのか?

 それだけは何が何でも避けなければ。

 

「病気を放置するのは良くないです。病院へ行きましょう。

 ほら、立てますか? 立てないなら手を貸しますが」

 

 白瀬さんに手を差し伸べる。

 この人は強い。それに誰かを頼るのが下手クソだ。だから、1人で立ち上がるだろう。

 それでも、こうしない訳にはいかなかった。

 

「……済まない」

 

 白瀬さんは数秒間考え込んで、俺の手を取った。

 悔しい事に、この人の手は男の俺のよりも大きい。それに、確かな温もりがある。握っていて安心する手だ。

 

「どうして助けてくれたんだい?」

 

 意味が分からないと言わんばかりの表情で訊ねられる。

 考えてみれば、嫌っている人間を助ける理由なんてどこにも無い。

 

「怪我人が目の前にいて、それを対処できるのが俺しかいない。なら、そうすべきでしょう。別に助けようと思って助けた訳ではありません」

 

 そうだ。俺はどんな状況であっても自分にできる事をする。最善を尽くす。そこに私情を持ち込まないし、妥協もしない。

 

「やっぱり波音は強いね。それに──とてもカッコよかった」

「……騙されませんよ」

「今回は嘘じゃない。心の底からそう思った」

 

 ……え。

 

「……認識を改めてくれたなら結構です」

 

 ようやく、白瀬さんに男として認められた。

 今までは年下の女子のような扱いを受けていたが、それが無くなるのは喜ばしい事だ。

 

「それにしても、意識するのが遅いですが。初対面で気づいて欲しかった」

「それは流石に無理があるかな……」

 

 本当に遅すぎる。

 何回も抱き着くし、頭を撫でるし、それに、裸を見られてもしばらく恥ずかしさすら感じなかった人だ。訳が違う。

 

「ま。こうなってしまえば流石の白瀬さんも話しづらいですよね」

「波音は波音だ。今までも、これからも。だから、変わらず接するよ」

「あなたらしいつまらない答えです」

 

 こんな事を言っても意味は無いか。

 少しは嫌ってくれてもいいだろうに。

 

「……さて、これからどうしようか」

「帰りましょう。怪我を悪化させる訳にはいかないので」

「感謝するよ。やっぱり君は優しいな」

「勘違いしないでください。あれは俺のためにやった事で、決してあなたのためにやった事ではありません」

「はは、波音らしい」

「その返し、何かムカつきますね」

「これでも褒めたつもりなのだけれど」

「もっと素直に褒めればいいでしょう。気を遣われるのは嫌いです」

 

 白瀬さんにしては控えめは褒め方だ。いつもなら演技みたいなキザったらしいセリフを吐くはずだが。

 

「波音は優しくて、強くて、カッコよくて、心の底から尊敬できる大切な友達だよ」

「……ッ!」

 

 波音の頬が微かに赤くなる。そして、みるみるうちに真っ赤になっていく。

 しまった。隙を見せた──そう思った頃には顎を指を当てられる。やり返された。

 

「改めて間近で見ると、波音はとてもいい顔をしているね。海のように青い瞳、砂浜のように白い肌、太陽のように輝く黄金の髪。モデルの仕事が来るのも納得だ」

 

 き、急に何を言って……!?

 

「そんな事言われても別に嬉しくないですから!」

 

 ガラにもなく慌てている。冷静さを保てていない。いつものように受け流せない。

 どうしてこういう時になると素直に物を言えないのか。

 もしかして、俺って面倒くさい奴なのか?

 

「……」

「何ボーっとしてるんですか!? あなたがそういう事言うからこうなってるんでしょう!?」

 

 何も言わず俺を凝視してるなんておかしいぞ。

 今日のこの人、何か変だな。やっぱり怪我の影響なのか?

 

「……そ、そうだね。でも、仕方ないじゃないか」

「仕方ない?」

「波音と一緒にいると心が躍るんだ。こんなにドキドキする事は滅多に無い」

「一時の気の迷いだと思いますが」

「気の迷いではないよ。だって、私は君を──」

 

 白瀬さんはそう言いかけて、

 

「……いや、何でもない」

 

 ハッとなって言葉を切った。

 

「そこまで言って何でもない訳ないでしょう」

 

 怪しい。俺に思うところはあるはずだ。何でもないなんてあり得ない。

 

「本当に何でもないんだ。君の言う通り、一時の気の迷いだったよ。

 さあ、いい加減帰ろうか。実を言うと、少し疲れたんだ」

「……そうですね。俺も疲れました」

 

 今日は色々あった。正直、帰って休みたい。

 

「とりあえず、今日はそういう事にしておきます。ですが、いつかは話してください」

「うん、約束する」

 

 とは言え、白瀬さんの言葉をそのままにしてはおかない。後で必ず聞き出す。

 それ以降、一言も会話せずに帰宅した──。

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