猿投さとりは衝動的な自殺を企てた。

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第1話

 

 

 

『飛び込み自殺。運行に影響大。

 

 12月〇〇日午前7時55分〇〇駅にて人身事故が発生しました。この影響により△△線一部運航停止となっております』

 

 彼女の自殺は地球の自転を止めるほどではなかった。

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 その日、猿投さとりには細々とした不幸が重なっていた。

 突然のゲリラ豪雨により昨日干したばかりの洗濯物が全滅し。

 予定外の残業で今日到着するはずだった荷物は受け取れず。

 ヤケクソに飲んだチューハイの缶を倒して床にアルコールの水たまりを作った。その綺麗な液体がベッドからずり落ちていた枕を汚したあたりで脳内がぷっつんした。

 

 

 

 死ぬかあ。

 

 

 

 20連勤目だった。なんかもう全部面倒くさくなった猿投さとりは土砂降りの雨の中、傘も差さずに家を出た。よろしくない人生はよろしくない終わりを迎えるべきだという考えに則って、路線への飛び込み自殺を思いついた。

 せめて自分の肉片が誰かの不幸に繋がればいい。

 そうして終電を待つ駅のホーム。

 

「あなたの事が嫌いです」

 

 唐突に、猿投さとりは背後からそんな言葉を耳にした。

 振り向く。

 そこにセーラー服姿の少女がいた。

 彼女は何故か白雪みたいにきれいな頬を真っ赤にしていて、どうやら怒っているように見える。細くて量の多いさらさらした髪を一つに結い、透けるようなうぶ毛が見えるうなじ。そんなところまで赤くした少女は、何故か泣き腫らしたような瞳でじろっと睨みつけてくる。

 一体、何なんだろう。駅のホームには自分と彼女以外いないのだから、今の言葉はこちらに向けてだろう。

 何も考えつかずに呆けていると、電車が近づいてくる金切り音を背に感じた。ああ、はやく飛び込まなきゃ――。

 足を、無我に動かそうとして、

 

「特に理由はないけどわたしはあなたのことが嫌いです!!!!」

 

 大声。足が止まる。

 彼女の怒声が線路の先まで響き渡って、猿投さとりは動けなくなった。

 呆然とする自分の手を、キッと睨んだ眼付きの少女が、赤い顔のまま掴んだ。唐突に触れた少女の温もりは燃えるように熱く、その後の事を猿投さとりは詳しく覚えていない。

 

 

 

 

 

 自宅はどこですか。

 そう質問された、気がした。深く考えることすらせず従順に住所を教えて、猿投さとりは生きて家に帰った。見知らぬ少女と共に。

 先に靴を脱いだ少女はずんずんと居間に行き――悲鳴がひとつ。

 

「なんでこんなにお酒の空き缶が多いんですか!」

 

 濡れた髪をうざったく思いながら後を追う。セーラー服姿の、名前も知らない彼女はおそらく中学生か高校生だろう。酒缶がごろごろ転がる一人暮らしの汚部屋なんて見たことないのかもしれない。「ホウキとチリトリどこですか!」と叫んだ。

 少女から手渡されたバスタオルで髪を拭きながら、ようやく少女について疑問を覚えだした。

 

「ねえお家どこ? こんな夜中に知らない人の家に上がり込んだらだめなんじゃない?」

「……ぷ、プライベートに入り込んでくる人は嫌いです」

 

 空き缶をゴミ袋に放りつつ少女はしどろもどろに言った。猿投さとりは「そっかー」と言ったきり、ぐちゃぐちゃのベッドに座り込んで考える事を止めた。

 冷静に今日の出来事を振り返る。

 小さな不幸が重なった事。

 自殺しようとした事。

 その時、今目の前にいる少女に出会った事。彼女は今なぜか自分の家で掃除なんかをしている。

 

「親御さん、心配するんじゃないの」

「わたし、家に帰っても誰もいないので、気にする人なんかいません」

「……あ、そ」

 

 何がなんだか分からないが、少女に害意がないことはわかった。最低限それだけわかれば猿投さとりは思考を停止した。自殺しようとするくらいだ、自分の事に関して投げやりになっていた。

 しかめ面の少女はてきぱきと猿投さとりに指示を出す。

 

「お風呂わきました。入ってください」

 

「湯冷めしないようにホットミルク作りました。蜂蜜はいってます。飲んでください」

 

「足元を暖めると疲労回復にいいって聞きます。湯たんぽ作りました、寝て下さい」

 

 気づけば猿投さとりは整えられた布団の中で心地よく横になっていた。ホットミルクと湯たんぽの暖かさにやられて随分と眠い。

 泥に浸るような体を、ベッドの脇に座り込んだ少女に向けた。

 

「………………君は?」

「別に、眠くないです」

 

 絶対嘘だ。

 少女の顔には疲労の色があった。見知らぬ他人の家に上がり込んで家事をするのは慣れても疲れるはずだ。

 改めて少女の顔をまじまじと見つめる。桜色に色づく唇、朱が差せばよくわかる白い肌、さらさらしていて量の多い黒髪。

 きっと抱きしめれば温かいのだろう。――人の温もりをもう何年も感じていない事に気付いて、飢えている自分を知った。

 

「いいよ。おいで」

 

 誘ったのは彼女を気遣ったからでもなかった。猿投さとりには打算的な確信があった。他人の世話を積極的にするような少女が、同じベッドで眠るのを拒否するとは思えない、と。

 ただ誰かの熱を感じていたいだけ。

 猿投さとりが伸ばした手に片手を掴まれ、少女は布団の中に引き込まれる。猿投さとりは彼女を自身の胸に寄せた。

 

「あ、ちょ、あの……」

「あったかい……」

「………………」

 

 ちょうど顎の下に少女のつむじが来て、もぞもぞ落ち着きなく動くものだからきめ細かい髪が首を触る。そのこそばゆさと少女から匂う甘い香りに包まれながら、猿投さとりは目を閉じた。

 明日も仕事がある。

 

 

 

 

 翌朝。

 猿投さとりは布団にこもった人肌の熱に心地よく包まれつつも、耳につんざく怒声で強引に目を覚まさせられた。

 ぼんやりした目つきで壁掛けの時計を見る。午前9時。……寝坊だ。

 

「――は? わたし? わたしはこの人の家族でも親戚でも何でもありませんけど。だったら何がダメなんです? 今この人に必要なのは、休息ですそれじゃあそういう訳で」

 

 よくもまあ回る口だなとそんなことを思いながら体を起こし、少女――未だに名前も知らない――が手にしているスマートフォンを見て目を剥いた。

 それは、猿投さとりの会社用の携帯電話だった。つまり彼女がズバズバと物申していた相手は、始業時間になっても出勤してこない猿投さとりを不審に思った会社の誰か。

 

「ちょ、えええ、何してんの」

「ふんっ」

 

 わたし非常にむかついてます、みたいな顔をした少女は鼻息荒く猿投さとりの社用ケータイを台所に放り込んだ。

 鮮やかなアーチを描くスマホを茫然と見つめる先――桶に溜めた水の中で皿が沈んでいる。

 『ぼちゃり』。

 ……そろそろ現実感を無くしてきた。

 

「スマホがトイレに堕ちてしまいましたね」

「私の家のキッチンシンクはトイレじゃないんだけど」

 

 勝ち誇った顔をなぜかする少女に努めて冷静に言い返すと、少女はまたむっとした顔で眉を上げた。表情がころころ変わる女の子だ。

 

「……で、なんで私の会社のケータイ、壊しちゃったの」

 

 穏やかにそう聞くと、途端に少女の顔は青くなった。親に叱られた子供みたいでチクチクと心が痛む。

 

「朝、電話がかかってきて。それであなたを起こしたくなかったので代わりに出たら、妹だと勘違いされて。…………すごく失礼なこと言われました。代わりは幾らでもいる、とか、クビにしたっていいとか」

「じゃあ私の上司だ。そいつパワハラで有名なの」

 

 思い出したくもない嫌いな人間の顔が浮かび、猿投さとりはぶっきらぼうにそう言った。剣呑な表情をどう解釈したのか少女が肩を縮める。

 

「……ごめんなさい」

「? なにが?」

「あなたの携帯電話を壊したこととか、社会人としての人間関係を壊すような真似をしたこととか……」

「いいよ、別に。気にしてないよ」

 

 人のためを思ってした事を猿投さとりは怒る気になれない。それに、彼女は昨日から自分のために動いてくれている。どうして見知らぬ他人のためにここまで出来るのかは謎だけど。

 

「なんか、ありがとね。私なんかのためにここまで頑張ってくれて。無理しないでいいからね」

 

 猿投さとりはニコリと笑って見せた。大学の頃あたりから覚えた人好きのする笑顔は、いつからか特に苦労する事なく浮かべられるようになっていた。

 大体の人間がそうであるように、目の前の少女もくすぐったそうに目を逸らす。

 

「ご、ご飯、作ろうとしてたんでした。冷蔵庫にあまり食材がなかったので、パンと目玉焼きしか作れないんですけど……」

 

 いいですか、と少女の許可を求める上目遣いが猿投さとりを捉えた。もう一度同じ顔をして、けれど少しだけ弱ったような懇願で眉を詰める。

 

「お願いしてもいい? 誰かの手料理が食べたいな」

「……! そ、そういう顔は、ずるい……」

 

 台所に慌てて向かう少女のうなじは火照りで赤い。料理をするために束ねてある髪の、薄いうぶ毛が茹って揺れている気がした。

 猿投さとりはようやく少女に興味を覚えつつあるのを自覚した。

 

「名前、聞いてなかったね」

 

 ビクリと少女の細くて丸い肩が跳ねる。こわごわと振り向く彼女にさとりは名乗った。

 

「私は猿投さとり。25歳です」

「………………小春川こな、です、17歳……です」

「じゃあこなちゃんだ」

「……もぞもぞします、なんかそれ」

 

 顔を真っ赤にしてそう呟く小春川こな。可愛いなとさとりは笑った。

 

 

 

 

 

 

「鬱病ですね。診断書を出しておくので、休職の手続きをして下さい」

 

 などと医者に言われ、さすがに猿投さとりはぽかんとした。

 さとりの社用ケータイを浸水破壊した小春川こなは、朝食を済ませると病院へ行くことを提案した。(いつまでこの子私の面倒見るつもりだろう)と思いつつ連れられた先は精神科。よくわからない心理テストを受けたさとりは、医者から鬱病と診断されてしまった。

 鬱病。

 この私が?

 

「ヤブ医者って評判は正しかったみたいです」

「ヤブ医者?」

「適当な診断で鬱病の診断書を出すってネットに書いてありました」

「最近の子ってネットに書いてあることばっかり信じるんだね」

「怒ってるんですか」

「こなちゃんにはそう見える?」

「……よくわからないです。あなたと話すのは、昨日が初めてなので」

 

 ちなみに怒っているわけではない。

 病院からの帰り道。二人でスーパーに寄って夕食の材料を買いつつの事である。

 さとりは小春川こなが手に持った青魚を見て唇を尖らせつつ、ぶつくさ言った。

 

「あんなの適当に診断してるんでしょ? 私、鬱なんかじゃないけどなあ。あと私魚きらい」

「自分の体調管理ができない人は嫌いです。お魚は健康にいいから食べるんです」

 

 好き嫌いの多い人も嫌いです、と青魚を3匹もカゴに入れた小春川こなは、続けて野菜コーナーでトマトを手に取った。

 

「そう言われてもなあ」

「いいじゃないですか、堂々とお仕事休めて、なにが不満なんですか?」

「しいていうならこなちゃんが今手に取ってる赤い悪魔が不満かなあ」

「じゃあ何が好きなんですか」

「こなちゃんが作る料理」

「な、っな、な……」

「うそうそ、冗談冗談」

 

 顔を真っ赤にした小春川こなにトマトを投げつけられそうになって、さとりは「ごめんごめん」と謝った。そもそも言うほど彼女の料理を食べた事もない。何せ昨日の今日だ。――そこまで考えて、ふと気付いた。

 

「そう言うこなちゃんは学校どうしたの。今日平日だよ?」

 

 今日の小春川こなは、さとりの私服を着ている。土砂降りの雨でセーラー服もずぶ濡れだったためだ。暗い色合いのカーディガンみたく小春川こなはばつが悪そうに表情を曇らせる。

 

「……学校とか、行く価値ないです」

 

 だから私の家に居候?と口から出かけたのを喉元で堪えた。そもそも、今の関係だって言葉にしていないだけで不自然だし、不透明だ。

 猿投さとりには小春川こなが何故一緒にいてくれるのかがわからない。金や私物を盗む目的とは思えなかった。もしそうなら、今朝の時点で彼女は姿を消しているだろう。

 

「そっか」

 

 人にはそれぞれ事情がある。

 さとりは年下の少女に深く踏み込む気もなく、カゴの中にそっとチューハイ3缶とつまみのスルメを忍び込ませた。

 ぜんぶ会計前に元に戻された。

 

 

 

 

 

 上司とは連絡をとりたくなかったので、比較的仲の良い総務課の女性社員(個人の連絡先を知っているのがその人しかいなかった)に休職の相談をしたところ、とりあえず溜まりに溜まった有給休暇を一気に申請することとなった。残日数は去年からの繰り越し含めて30日ほど。

 とりあえず1ヶ月間ゆっくり考えてと言われ、また、相談に乗るから今度の休日会えないかとも言われた。

 

「えっと、今は誰かと会いたい気分でもないというか」

「いいから! ね? 助けになりたいの」

「は、はあ」

 

 何故かぐいぐい来る女性社員の押しの強さに負ける形で、明後日の土曜日に会社の人間と会う事になってしまった。嫌だなあ。

 思わずため息を吐いたさとりは、個人のスマホも浸水させたくなったが、それをグッと堪える。お腹に力を込めたら無性に酒が飲みたくなってきた。

 

「とりあえず飲も飲も~」

 

 冷蔵庫を開けてビール缶を手に取った瞬間である。料理中の小春川こながさとりの手を叩いた。しかもおたまで。

 

「ていっ」

「あたぁっ! いったいな! 叩かなくていいでしょ!」

「お酒ばっかり飲んで! アル中になりますよ!」

「もうなってるよ!」

 

 床に転がった酒缶を拾うさとり。凹んだ飲み口を見てがっくり肩を落とす彼女は、恨みがましい様子でぶつくさ言った。

 

「だいたい私が買った私の酒じゃん。なんでこなちゃんにダメって言われなきゃいけないの?」

「それを、言われると……正論ですけど……」

 

 小春川こなは納得いかない様子で口ごもる。

 そんなことを言い出したらキリがないはずだった。そもそも、会って数日の女子高生がこうしてキッチンに立っているのもおかしい。全部イカれてる。

 

「あー、その、ごめんなさい」

 

 さとりは素直に頭を下げた。

 

「こなちゃんがさ、助けてくれたんだもんね」

「……目の前で飛び込み自殺とか、見たくなかったからです。それに、」

 

 あなたの事が嫌いなので、と。小春川こなは目をそらしながら付け足した。さとりはつい口に出してしまいそうになる。

 私達、どこかで会ってる?

 

「詳しい事は聞かないよ」

 

 興味がないわけではない。小春川こなが何故ここまで尽くすのか、理由が見当たらないのだ。けれど尋く気になれなかった。他人に踏み込んで、傷を舐め合ったところで問題が解決しないと知っている。

 昔なら違ったかもしれない。

 猿投さとりが猿投さとりでなかった頃なら、通学で毎日乗っていた同じ路線同じ時間の電車にもうんざりしていなかったあの頃なら。

 

「……あなたは、他人に無関心なんですね」

 

 小春川こなは少し寂しそうに呟いた。

 そうなんだろうなと、さとりも思う。歳を経るごとに擦り切れていく良心がある。決して仕事が辛いからという訳でもなかった。猿投さとりという人間の耐用年数が限界に近いだけだ。

 

「わたし、迷惑ですか」

 

 やけに直球な言葉。ちらとこちらを見つめる上目遣いは不安で揺れている。震える眼差しには縋る者が見せる弱々しさがあって、やけに慣れた目つきにも見えた。寄り付かれる事への小さな暗い喜びが首をもたげる。

 

「いない方がよかったですか」

 

 さとりの背筋が薄く痺れて、思わず後退りした。生まれた一歩の距離がやけに酷に思えた。

 傷つけたい訳ではないと伝えようとして、歳上という意識が邪魔をした。下らない見栄が慌てて拾い上げたのは、小春川こなが今作っている最中の魚料理について。

 

「……明日の夕飯さ、オムライス作ってよ。私、好きなんだ」

 

 遠回しな、ひとまずは今日を二人で暮らしたいという提案だった。

 問題を先送りするのは大人の特権だろう。

 俯きながら紡ぐ言葉はあまりにも頼りない。小春川こなの細い両足だけが見える視界で、彼女がきゅっと唇を噛んだのが何となくわかった。

 

「いくじなし」

「うっ……」

「……確かにわたしは、あなたの部屋に、“強引に”居候している状態なんだと思います。あなたはそんなわたしをなあなあに許してしまっている」

「……」

「これをもっと明確な言葉にする事はきっと良くないってわかります。でも、不安定なまま、変に気を遣って暮らすのは嫌です」

 

 これだけは知っておいてほしい、と。小春川こなは透明な瞳をしていた。こうして真っ直ぐに見つめ返すだけで吸い込まれそうになる。睫毛が、長い。

 

「わたしは、あなたと一緒に暮らしてみたい――」

 

 さとりには、それがずっと昔から用意し続けた言葉に感じられた。

 

「でも、昨日の今日でわかりました。あなたは見た目ほど何でもできそうな人じゃないし、私生活はだらしがないし、8歳年下の子供にも強気に出れない、本当に見た目だけのダメな人なんですね」

「あれっ私褒められてるの?」

「自意識過剰な人は嫌いです」

 

 ぷいっとそっぽを向く彼女は、やがて冷蔵庫から缶ビールを一本取り出した。粛々と差し出される酒。

 

「――体に気を使うなら、お酒は1日1本までだと思います」

 

 『体に気を使うなら』。その一言は少女なりの譲歩に思えた。それもかなり不器用な、場合によっては人の神経を逆撫でするかもしれないようなもの。

 

「こなちゃんってさ……」

「なんですか」

 

 小春川こなは、きっと誰かと――家族以外の人間とこうして暮らした事はないのだろう。彼女の17歳という年齢からすれば当然かもしれない。

 血の繋がりもない他人との共同生活なんて息が詰まるばかりだとさとりは知っている。そのはずなのに、さとりは今、頬が緩みそうになって仕方がない。

 

「なんかこう、年上の人に好かれそう」

「……そうやってすぐ人を褒めるところも嫌いです」

 

 鼻を鳴らして料理を再開しだした小春川こなの後ろで、さとりはニコニコと笑ってしまった。

 

「……で。なんの話だったんですか、さっきの電話」

「なーに? こなちゃん、私のプライベートが気になるの?」

「………………」

「お、怒んないでよー」

 

 何となく掴めてきた。

 普段は素っ気ないくせにすぐ怒るところ。

 怒ると綺麗な白い肌が真っ赤になるところ。髪をまとめ上げた時に見える透明なうぶ毛とうなじ。

 それに、昨日抱きながら眠ったからわかる。小春川こなは不思議な甘い香りがする。

 彼女のことを可愛いと思ってしまう。ぼんやりながら一緒にいたがるのはそんな理由かもしれない。

 

「ちゃんと魚食べるから許して」

「トマトも残さないでくださいよ」

「それは嫌だな。こなちゃんがあーんってしてくれたら食べるけどなあ〜?」

「……」

 

 小春川こなは、押し黙る。え?そんなキレるようなおちゃらけでした?とたちまち焦るさとりに、少女が真剣な瞳をして箸を差し向けてきた。わざわざ手まで添えて。

 掴んでいるのは調理途中のトマトのざく切り。

 少女の顔はトマトより真っ赤だけど、真剣だ。

 

「あ、あーん……」

「……あー…………あむん」

 

 なんだこの恥ずかしい空間はと思いながら、小春川こなの剣幕に押されてさとりは大人しくもぐもぐした。やっぱり不味いとしか思えないぶちゅっとした野菜が、だけどなんでだろう、少女が『あーん』してくれるだけで苦労なく胃に押し込める。

 ――どうでもいい買い物より、親へのお土産を買う方が楽しいと言う友人が居た。

 そんな事をさとりは思い出す。

 似たような状況なのだろう。

 

「何やってんだろね」

「……別に、気にしないですけど」

 

 奇妙な時間を、刻々と時計の秒針が刻んでいく静寂。カチコチと鳴るだけの静けさの中で、自分も、少女も、顔を赤くしている。

 8歳も年下の相手にだ。

 

「そっそれでっ? さっきの電話はなんなんですか?」

 

 無言の時間に耐え切れなくなったのか、小春川こなはそんなことを尋ねた。

 

「あ、ああそんな話だったね。ええとね、会社の知り合いの人に電話して、休職制度の申請の仕方とかいろいろ聞いたんだけど……」

「そうですか」

 

 そして唐突に溢れだす、少女の苛立ち。さとりは人の機微に聡い人間だ。

 自分の発言に落ち度があったことを理解したが、そこから先までを汲むことは出来なかった。

 

「……行きます」

「え?」

「わたしも、行きます」

 

 そういうことになった。

 

 

 

 

 

 指定された駅前の喫茶店に二人で着くと、途端にさとりは家に帰りたくなった。

 そこで待っていたのが先輩の女性社員ではなかったからだ。

 

「なんで来てんの」

「先輩風邪だから、代理」

 

 喫茶店の隅の席に座っているのは、耳に大量のピアスを飾った黒髪の女。歳はさとりと同じ。――同期、里中だった。

 ひどく目立つパンクファッションに身を包む彼女は、周囲の視線も意に介さずさとりの横に立つ小春川こなへと視線を動かす。

 

「それでその子は?」

「妹です」

 

 小春川こなが即答した。

 里中はつまらなさそうに鼻を鳴らした。

 

「ふーん。可愛いね」

 

 まあとりあえず座りなよ、と里中が言うので、二人して並んで座った。その様子をまじまじと見つめた里中は、やはりつまらなさそうに言った。

 

「まさかあんたが鬱病とはね」

「なっちゃ悪いわけ?」

「別に」

 

 素っ気ない返事をする彼女だが、さとりは知っている。彼女は勤務中、黒縁メガネに地味なひとつ縛りの髪形をして、大人しく振舞う演技力を持った女だと。

 つまり胸中で何を考えているか想像もできない。

 それに、昔ひと悶着あった関係だ。

 

「あんたみたいな図太い人間は何があってもけろっとしてるもんだと思ってた」

「嫌味じゃん」

「陰口よりマシでしょ?」

 

 深く、水底に沈んだような眼差しにさとりの顔が映る。

 自分の表情に人間味がないことだけは分かった。

 

「……もっと別のやり方、なかったの」

「あったらこんな風に話してないかな」

「あんたの上司、上が処分を検討中だってさ。会社もちゃんと動いてくれるよ」

「別に人間関係で悩んでたわけじゃないし、どうでもいいかな」

 

 さとりは即答できた。里中は溜息を吐いた。

 

「あんたってさ、1年目の頃から絶妙に人間に興味なかったよね。今それを痛感してる。人懐っこそうな態度するくせにさ、私のことは何にも見てなかったんだよ」

「今更でしょ、それは」

「そうだね。今更だ」

 

 ふとさとりは気付く。この会話、意味あるのかな、と。

 彼女は総務の先輩社員の代理で来ている。なら、さっさと休職申請の書類を渡してくれればそれでいいはずだ。さとりには今ここにいる時間の意味が理解できなかった。

 

「今度さ」

 

 唐突に元同期の彼女が言った。

 

「二人で遊びにでも行かない?」

「結構です」

 

 さとりの言葉を遮ったのは、これまで黙りつづけていた、小春川こな。

 普段よりきっちりと化粧した少女は、まるで鎧を着た戦士のような物々しい雰囲気で、10歳上の女にメンチを切った。

 

「結構です。この人には、わたしがいるので」

「…………」

 

 里中が5秒だけ唖然と口を開けた。

 しかし、――くふ、と。堪えきれない様子で口元を綻ばせる。

 

「……なんだ。妹なんかじゃないじゃん」

 

 女の、目を伏せた笑い方。さとりは好きだったことを思い出した。

 

「はいこれ、必要な書類。ちゃんと渡したからね」

 

 そうしてパンクファッションに身を包む女は喫茶店を出て、ふんすと鼻息を荒く書類を両手に掴んだ少女と二人になる。

 

「……あの人、なんていうか冷たい人でした」

「散々な別れ方したし仕方ないよ」

 

 小春川こなが無言の視線を向ける。彼女と過ごして一週間ほど経つのでわかるが、何も言わずに目線だけ寄こすときは話の続きを促されている。

 

「一時期一緒に暮らしてたの」

「暮らしてた、って。その……」

「付き合ってたんだよね」

「あの人と……?」

 

 探るような声音。そしてどこか不安そうに揺れる幼い瞳。さとりは、少しだけ心地よくなった。10年という絶対の経験量の差を、優位に立っていると自覚できた。

 

「そ。同期だったんだけど、気が合ってね。勢いで」

「勢いで……恋人になれるんですね」

「そんなもんだよ。あいつも私も本気じゃなかったの」

「じゃ、じゃあ。なんで別れたんですか」

「結局うまくいかなかったんだよね。私は勢いだけであいつのこと何も見てなかったし、あいつもあいつで私をちゃんと見てなかった」

「……」

「私さあ、見た目よりも雑な女だってよく言われるんだ。でもそれって勝手に他人が作り上げた妄想の私でしょ? そんなのと比べられて『思ったのと違った』とか言われてもさあ。あいつだけじゃないんだけど……」

「妄想」

 

 その一言だけを、小春川こなが汲んだ。なにか、自分への戒めを含んだような、重い面持ち。俯く少女へ途端に浮かんだ『明るくしなければ』という気持ちが何なのか、さとりはわからないまま笑った。

 小春川こなが好く笑顔だ。

 

「これまで沢山の人と付き合ってきたんですね」

「うん。でもそんな大した数じゃないかな。10人くらい」

「――10人は、多いです」

 

 ぽつりと言う呟きに、笑顔のまま困惑する。

 

「そう。かなあ?」

「多いですよ。そんなの、すごく………………」

 

 言葉は途中で途切れる。思案顔の少女が口端を震わせて、けれど何も言うことはなかった。入店時に一緒に注文したコーヒーを飲み干すと、「出ましょうか」と小春川こなが提案した。

 帰り道。

 さとりは、それまで終始無言だった小春川こなの小さな言葉が忘れられない。

 

「ずるい」

 

 誰に当てての言葉でもないような気がした。

 冬はいつの間にか到来したらしい。凍えた空気が少女の吐く息を白くする。乾いた少女の唇。桜色に色づく様をじっと見つめても、小春川こなは気付かない。

 

「そうかな」

「恋って、もっと、大事にするものだと思います」

「……こなちゃんは可愛いねえ」

「な、なんですか突然。マフラー勝手に巻き直すのやめてください、子供じゃないです」

 

 ぷんすか怒る少女がいれば、面倒な手続きも早く済ませられる気がした。

 

 

 

 

 それから数週間後。朝。

 溜まっていた有給休暇の貯蓄も途切れた頃を見計らったかのように、ポストには一通の封筒が入っていた。

 送り主は勤め先の会社名。

 

「へ。やっぱクビの報せかな」

 

 さとりはへらっとした笑みを浮かべた。

 今更、どうでもいいと思っていた。次の職を探す気もなかった。金が尽きたら餓死すればいい。

 そして部屋に戻れば、同じベッドで毎日眠る少女が、唇端でうつくしい黒髪の一糸を掴みながら、ぼんやりとした眼を向けてくれる。

 

「……おはようございます」

「おはよ。こなちゃん、朝ごはん食べる?」

 

 彼女は、絶食の末に死ぬ自分をどう思ってくれるのだろう。酒など飲んでいないのに酔ったような思考でキッチンに立った。冷蔵庫を開けると、ぎっしり詰まった野菜が沢山ある。期限の近いものから前に詰めてある庫内、毎日整理している同居人の凄さに毎日さとりは気圧される。

 ここにあるのは圧倒されるほどの生々しさだ。

 

「最近……あなたが先に起きるの、多い気がします」

「そういうこなちゃんは朝が遅いね」

「わたしは毎日忙しいんです……」

「うへへ」

 

 朝食は、途切れる事のない卵の在庫を使ってベーコンエッグを作った。ベーコンの上に目玉焼きを浮かべるだけの作業を『作る』と言っていいのかわからないが、寝起きの小春川こなはいつにもましてにこにことしていたような気がする。

 

「暇だなあ」

「暇ですね」

 

 共に過ごして一か月近くが経つ。さとりはいい加減、少女が自分というものを押し隠そうとする性分なのを理解していた。彼女は恥ずかしがり屋で気丈で頑固だ。そんな彼女を崩してみたいという気持ちが今日も沸き上がった。

 

「こなちゃーん」

「なんですか」

「デートでもしよっか?」

「……い、いやです」

 

 頑なに振舞おうとする少女は、けれど、甘い言葉に弱いのだ。さとりはそれも知っている。

 

「ほんとはデートしたい顔だー」

「したくありません! わたし、思い込みの激しい人嫌いです」

 

 拒絶の意を込めて『嫌い』と口にするのも小春川こなのクセ。ぷいとそっぽを向いた少女を可愛らしく思っていると、不意に少女が重い一言を放ってくる。

 

「二人きりなの、嫌ですか」

「……。」

「……な、何か言ってくださいっ」

「こなちゃん、めっちゃ可愛い……」

「そういう言葉は言わなくていいです……!」

 

 すぐ顔を赤くするところが好きだった。

 

「昼寝でもしよっか?」

 

 仕事をしなくなってからというもの、24時間すべてを使える事は虚ろであり、幸せにも思えた。たった独りなら失業中であることのプレッシャーに耐え切れなかっただろう。けれど今は、自分が提案すれば「仕方ないですね」と言いつつも了承してくれる少女がいるのだ。

 誰かと寝ることなんて考えずに買ったシングルベッドで、さとりは向かい合う小春川こなに呟く。

 

「突然ですが重要なお知らせです」

「はあ」

「こなちゃん、私クビになったみたいなんだ」

「そうですか」

「……怒らないの?」

「怒る理由がありませんから。自殺するくらいなら、辞めちゃえばいいんです」

 

 理性的な言葉に救われている自分がいる。

 今更、彼女との関係が不透明だからと切り捨てられる自分は存在しなかった。生きがいは目の前の少女ひとりだ。

 

「あなたは自由なんですから、これからは好きに生きてみたらどうですか」

「じゃあとりあえず、こなちゃんと一緒に昼寝しよ」

「……そんなことでいいんですか」

 

 そんなこと、ではない気がする。アルコールに浸っていない脳髄がそんな理性を生んだ。けど無視した。さとりは、理性よりも、目の前の人肌の熱が嬉しい。

 二人で同じ布団の熱を共有する、その耽美さに包まれながら思う。

 ――こなちゃんはいいなあ。

 暖かいし、いい匂いするし、お願い何でも聞いてくれるし。

 

「…………寝顔も可愛いし」

 

 呟いて、いつの間にか小春川こなが熟睡していることを知った。

 すぅすぅと聞こえる穏やかな寝息をたまらなく思いながら、貯蓄残高が残り少ないことを不意に思い出した。

 …………仕事、探すか。

 せめて少女ひとりを養えるくらいの仕事を。

 けど、

 ベッドの脇に置いたスマートフォンが震えだす。

 機械のスクリーンに、義理の父親の名前。

 

 

 

 

 

 

 通話中に小春川こなは目を覚ましていた。電話を切ってすぐにスマートフォンをキッチンシンクの水桶に突っ込んださとりを、ただ静かに見つめていた。

 

「よかったんですか」

「何が」

「ケータイ、壊して」

「いいの。もうなんにもいらない」

 

 喉が冷えている。だから言葉は硬くなる。

 自暴自棄に携帯を壊した訳ではなかった。少なくとも小春川こなと出会った日の飛び込み自殺ほど衝動的な行いでもない。

 ただ、本当に、もう何もいらないとさとりは思ったのだ。

 死んだような眼差しは宙を漂い、ふと4週間も触れていない会社用の鞄に目を向ける。

 鞄からおもむろに取り出したのは煙草の紙箱とライター。ムッとしかめ面になった小春川こなに一瞥もくれず側を素通りしたさとりは、ベランダに出て煙草に火を点けた。

 久々に吸う煙草の味はよく分からない。

 そして、わざわざ外に出て喫煙しているというのに、小春川こながベランダに入ってきた。

 

「たばこ、吸うんですね。ショックです」

「そりゃ大人だもん。私、25だよ」

 

 仕事中にストレスが溜まりすぎた時、たまに吸う程度の喫煙頻度だった。小春川こながさとりの喫煙を初めて見るのはそういう理由だ。

 

「わたし煙草を吸う人は嫌いです」

 

 小春川こなはそう言って、隣に並ぶと何故か黙り込んでしまった。煙草が嫌いならどうして部屋に戻らないんだろう。

 

「副流煙って喫煙よりも体に悪いらしいよ」

「そんなの、どうでもいいです」

 

 風は凍えている。もう冬が近いことをさとりは知った。働かなくなってから曜日感覚も季節の変わり目もわからない自分に気付く。代わりに、小春川こなの事ばかり分かるようになっていく自分にも。

 

「こなちゃんが今考えてること当ててあげよっか」

 

 小春川こなは前を向いたまま微動だにしない。さとりは小さく笑った。

 

「心配してくれてるんだよね。私のこと」

「……どうしてですか?」

 

 なにが。

 問えば、少女はこちらを向く。やりきれない悔しさで顔を上げて。

 

「なんで、泣きたい時に泣こうとしないんですか」

「……」

 

 真剣な表情の彼女に、重たい風が叩きつけられる。それでも軽やかに踊るしなやかで品のある長い髪。紫煙が絡みつくのが嫌になって、さとりは煙草の火を消した。

 

「母親が自殺したらしいよ」

 

 それ以上を猿投さとりは語る術が分からなかった。

 

「ねえこなちゃん、いけないこと、しようか」

 

 え、という掠れた声音。さぁっと朱の差した頬は撫でればきっと心地良いはずだった。

 一歩、さとりは小春川こなへと詰め寄る。腕一本も通らないくらい近づいて、少女の背が自分より頭1つ分低いことを知る。

 強張るまるい肩。

 真っ赤になった顔。

 あごを上げて、動揺の中に微かだが浮かぶ期待の瞳。

 

「私、こなちゃんとしたい」

 

 愛らしいと思った。

 小春川こなに触れたいと思った。

 正直誰でもいいから壊したかった。

 

「ねえ、いいでしょ? こなちゃんがして欲しいことなんでもしてあげるよ。こなちゃんが望んでるもの、全部あげる」

 

 甘い言葉を甘い表情で囁くこと。

 小春川こなは何も喋らない。胸の前で重ねた細い両手に力を込めるばかりで、赤くした顔でこちらを見つめたまま。

 けど、知っている。

 わかっている。

 小春川こなは、こういう顔をする猿投さとりに弱いと。このまま距離を詰めて強引にでも唇を奪えば抵抗してこないこと。

 子供を食い物にするような最低の大人を演じるのは、気持ちが良い。

 割り切れば人生はこんなに楽だ。

 

「だってこなちゃん、私のこと好」

「ふざけないでください!」

 

 少女の叫びが爆発した。つんざく悲鳴と共にさとりの体は押し飛ばされ、想像していなかった衝撃に体は尻餅をつく。

 茫然と、見た。

 小春川こなは泣いていた。

 

「毎日! 毎朝! 十年間(・・・)!! 電車の中で見つめるあなたは、ずっと綺麗で、ステキで、憧れだったのに!」

「――なに、それ」

 

 反射的な呟きに、小春川こなはくすりと笑った。『ああ、やっぱり』と……諦めの色が濃い微笑みのまま少女は言う。

 

「あなたが10年前に助けてくれたのは、登校のために乗る電車を間違えた女の子だった。小学一年生で、子供を育てる気のない親に突き放されて、初めて乗った電車が怖くて、でも泣くのは我慢してる子供だったんですよ……?」

 

 大人らしい虚栄を、と積み上げてきた人生の全てが瓦解していく。

 自分の心を打ち砕くのは、10年前の猿投さとりを愛していた少女。

 

「小学一年生のわたしを、まだ高校生だったあなたは助けてくれた。名前も言わずに、連絡先も教えてくれなくて!」

 

 今目の前にあるのは他人のために尽くすことのできた自分だった。まだ擦り切れていなかった頃の自分が復讐しにきたのだとさとりは感じた。

 

「だから……ずっと、同じ電車で見てたって言うの? 私が大学に入っても、就職しても、ずっと……?」

「気持ち悪いですよね。でも、運命だって思ったんです」

 

 猿投さとりが何よりも絶望しているのは、10年前の事などなにひとつ覚えていない自分自身だ。幼少の小春川こなを助けたことなど覚えていないし、美しく在れた自分が居たのだとわかったのも今。

 

「最初はわたしに気付いてくれることを期待してた。でも、あなたは次の日には満員電車にいる他人の一人でしかなかった!」

 

 何度見つめたのだろう。

 何度見つめられていたのだろう。

 その視線の熱意と込められた願い。――気付いて、ようやく、さとりは情の重さに息も出来なくなった。

 静かに頬を濡らす少女、小春川こなという存在が唐突に重みを増して情報量を増して、ここに彼女が居ると理解する。

 ……そうか。

 二人で暮らしていたのか、今日まで。

 

「6年前からあなたの顔は死人みたいになりました」

 

 6年、前。

 それは父親が事故死して、母親がすぐに再婚した年。あの時も全てに嫌気が差してさとりは家を出た。それからたった今に至るまで、義父の声なんて聞いたこともなかった。

 

「大人になるって、そう簡単でもなかったな」

「わたしは今のあなたが嫌いです」

 

 当然だろう。

 10年前から今までずっと一言も会話のなかった、ただ毎朝乗る電車が同じというだけの女にどんな理想を持っていたのかなんてわからない。けど、現実の猿投さとりは擦り切れて乾いた醜さの塊だ。

 

「あなたは、わたしより先に死のうとしてて。わたしの理想は、わたしの妄想でしかなくて」

 

 小春川こなは、猿投さとりに自分の妄想を重ねていただけ。そう自覚できるからこその泣いたような微笑みを、さとりは綺麗だと思った。

 生存の肯定も意義も希望も全て他者に依存して生きられる少女の脆さは、特別な感情で出来ている。――けれどそれがどう呼ぶべき代物か、わからない。

 

「私、こなちゃんの事、なんにも知らないんだね」

「わたしもあなたのことを知りません」

 

 死ねば楽になる傷などなかった。少なくとも、さとりはそう思う。全ては巡り廻っている。きっと、死のうとしたことにも意味がある。

 かつて自分が救った少女の、恨みがましい瞳が訴えかけている。責任を取ってほしい、と。

 

「ごめんね」

 

 甘く。痺れるような不思議な酩酊がさとりの中に生まれた。胸をきつく縛る苦しさと熱と心地よさ。

 思わず胸を抑えて、ゆっくりと立ち上がる。

 

「ねえ、別の仕事、私探すよ。もっとプライベートの時間を確保しやすくて、休みもちゃんと取れるような仕事。そしたらさ……」

 

 誰もが、誰かの何かを背負って生きている。……気がする。さとりはそんな些細な事をようやく理解できた。

 自分が生きているだけで苦しむ人間もいる事。

 それでも愛されているのは自分だという事。

 

「一緒に、暮らせないかな」

 

 二人とも、傷をなめ合うにはあまりに鋭すぎる傷口だった。触れたそばから舌上に血を流してしまうほどに。

 けれどその舌先から零れた血を美しいと思える二人の暗さは、二人だけで満たされる形をしている。

 魂の形がそれぞれ別個だったとしたら、きっと猿投さとりと小春川こなは二つで真円を描くのだ。

 

「そ、そういう事を素面で言うあなたのことなんか、きっ、きら――」

「こなちゃんと生きたい。こなちゃんのために生きたい」

 

 小春川こなの顔がまた真っ赤になる。ここだと思った。

 さとりは薄汚くなってしまった大人だから、純真な少女の心の隙なんて簡単にわかってしまう。

 一歩を大股で詰めより。

 ひゃ、という可愛らしい悲鳴を塞ぐように、彼女を抱きしめた。

 

「……」

「あ、ちょ、もう…………」

 

 世界が止まったかのように小春川こなは固まって、けれど柔らかくその緊張を解していった。まるで、こうして体を重ねる時間をずっと想像していたかのような落ち着き方。

 少女は耳元でくすぐるように囁く。

 

「嘘です。そんなの。10年前のあなたは名前も教えてくれなかった」

「でも、抱きしめられるよ。こなちゃんと話ができる。寂しい時は一緒にいられる」

「……あなたなんか、きらいです」

 

 少しだけ踵を浮かせて背伸びした小春川こなが、さとりの肩にあごを乗せる。不思議と口を近寄せたくなるまっさらな首筋を猫のように擦り付けて、ぶつぶつと言った。

 

「お酒ばかり飲むし、掃除も洗濯もしないし、料理は下手だし、皿洗いも嫌がるし、すぐコンビニ弁当ばかり食べようとするし、タバコは吸うし、そっ……それに、8歳も年下の同性相手にこんなことするし!」

 

 でも。

 

「さとりさんは、暖かかったんですね」

 

 小春川こなは、とっても甘い香りがする。

 そうして熱の塊ふたつが即物的な衝動でひとつになるだけとなる。

 だが、彼女は猿投さとりの誘いに肯定も否定もしなかった。

 

 

 

 

 

 翌日のことだ。

 目を覚ましたさとりは、部屋に一人でいる事に気づく。

 結局、小春川こなは猿投さとりの部屋から出ていった。

 帰ったのだ。自分の家に。

 終ぞ理想は現実に勝った。少女の求める女にはなれなかった。

 また一人になってしまってからようやく、そういえば連絡先も聞いてなかったなと、さとりは笑った。そういう形の意趣返しをされたのだと。

 そうして、何を求めあったのかも分からない関係はあっけなく終わる。

 職を失い、飢えていた熱も冷め、ここには少女が居た甘い残り香だけ。

 気付けばパソコンでとあるネットニュースの記事を見つめていた。

 

 

 

『飛び込み自殺。運行に影響大。

 

 12月〇〇日午前7時55分、○○駅にて人身事故が発生しました。この影響により△△線が一部運行停止となっております』

 

 彼女の自殺は地球の自転を止めるほどではなかった。

 母親への罵詈雑言ばかりがニュース記事のコメント欄には並んでいたからだ。

 人の死は踏み潰した雑草以下。

 けれど、一人の人間に十分な決意はさせた。

 

 

 

 ――猿投さとりは駅のホームにいた。

 通勤ラッシュで混み合う時間帯。前の電車にあえて乗らず、路線の一番近くに立つ。背後には疲弊しきった人々の存在感が梅雨時の湿った空気のように淀んで停滞している。

 鬱陶しくて顔を上げれば庇の先には真っ青な空。太陽の眩しさに目を細めながら、自分はこれからどこへ向かうのかと悩んだ。

 それでも悩めるという事自体が、自由の証左。

 彼女が残してくれた何よりも尊いこと。

 どこへでも行ける。

 どこへだって。

 

「怖くなんかないよ」

 

 電車が、来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 弱い人間だと、きっと彼女は嫌う。

 それでも今さら独りには耐えきれそうにない。

 どうか強く生きて欲しいと願いながら、

 足を前へと動かして、

 ……甘い匂いが隣から。

 幻なんかじゃなく。

 横を向く勇気なんてなかった。

 震える口では何も言えそうにない。

 理想にはきっと程遠い。ここには、しかし血の通った掌が二つ重ね合わされた。

 だから、……そう。

 同じ電車に乗る今を、泣きそうな笑顔で、あなたと選ぶことにした。


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