ゆっくりとセカイが融解していく。
スタジオの壁は剥がれ、天井はすでにどこかに流れていった。
さっきまで使っていた楽器はふわふわと空中を漂い、どこからか射し込む光を反射する。
いっちゃんたちはスタジオの床にへたり込んで周囲を不安そうに見渡していた。言い当てたのはアタシだが、いっちゃんたちも『セカイの融解』を認識しているらしい。
だが、そんな状況にもかかわらず、アタシは自分のことで精一杯だった。
「わ、わわ……」
「さ、咲希ちゃん!?」
いっちゃんたちは床にいるのにアタシだけが壁や天井と同じように空中に投げ出されていたのである。バランスを取るために手をバタバタさせているとアタシの異変に気付いたほなちゃんが悲鳴を上げた。
(と、飛んで……それに――)
どうやら、アタシの体は少しずつ上へ引っ張られているらしく、いっちゃんたちとの距離が離れていく。このままでは皆と離れ離れになってしまう。そう思った瞬間、胸の奥が急激に冷えていくのを感じる。
「咲希!」
その時、ほなちゃんの悲鳴でこちらに気づいたいっちゃんが立ち上がってこちらに手を伸ばした。そうだ、引っ張られているとはいえいっちゃんたちとの距離はさほど離れていない。まだ、手を伸ばせば届く。
「み、んな!」
手を伸ばそうとしてバランスを崩し、体がその場で一回転してしまう。だが、それでも諦めずにいっちゃんに手を伸ばす。もう少し。あとちょっとで届く。ほら、指先が――。
「ッ――」
「え、あ、きゃっ」
――今まさに触れそうなところで何かに気づいたいっちゃんの手が僅かに引っ込む。そのせいでアタシたちの手は空振り、勢い余ってまたくるりと体が回転してしまった。慌てて態勢を立て直すとさっきよりも皆との距離が離れてしまっている。
でも、まだ届く。
だから、手を伸ばさなきゃ。
早く、皆のところに帰らなきゃ。
「いっちゃん!」
「……」
何とかバランスを保ち、もう一度いっちゃんに手を伸ばす。しかし、何故か彼女は動かず、俯いたままだった。そして、少しして顔を上げたいっちゃんは今にも泣きそうな顔でアタシを見上げる。
「咲希、行って!」
「っ……」
「もうわかってるの! このセカイが咲希がいるべき世界じゃないって!」
「いっちゃん……」
「だから、行って! 咲希がいた場所へ!」
拳を握りしめ、声を震わせながらも彼女はアタシに前に進めと叫んだ。どれだけ勇気を出して言ってくれたのだろう。いっちゃんの気遣いに目頭が熱くなる。
「でも、アタシが行ったら皆がっ!」
だが、アタシは素直に頷くことができず、手を伸ばし続けた。
ここはセカイ。アタシ以外の存在は全部、セカイが創ったものだろう。
じゃあ、アタシがいなくなった後、ここにいる皆はどうなる?
この融解するスタジオのように消えてなくなる?
それとも、何事もなかったように『
わからない。わからないからこそ、簡単に手放せるわけがない。だって、たとえ住むセカイが違ったとしても皆はアタシにとって大切な――。
「咲希ちゃん」
不意にほなちゃんがアタシの名前を呼ぶ。まるで、言うことを聞かない子供を優しく諭す母親のような声音。たったそれだけで必死に伸ばしていた手から力が抜ける。
「わたしたちは大丈夫。だから、咲希ちゃんは自分を見失わないで」
「ッ……」
「咲希ちゃんがわたしたちを心配してくれるみたいに、わたしたちも咲希ちゃんの幸せを願ってる。だから、行って!」
「ほな、ちゃん」
アタシを安心させようと微笑んで背中を押してくれたほなちゃん。きっと、皆もアタシがいなくなった後、このセカイがどうなるかわかっていない。だからこそ、怖い。当事者でないアタシですらそうなのだ、皆はもっと怖いに決まっている。
それなのにほなちゃんはそんな様子を
「咲希」
最後に無言のまま、アタシを見上げていたしほちゃんが口を開く。こんな状況なのに彼女の凛とした目は光を失っていなかった。
「前に言ったよね? 私たちのために咲希が我慢するのは許さないって」
「それ、は……」
「咲希が私たちのために手を伸ばしてくれたのはすごく嬉しい。でも、咲希はいいの?
「ッ!?」
そうだ。このセカイに留まった場合、アタシがいた世界はどうなるのだろう?
いや、違う。考えなかったわけじゃない。だが、アタシがいた世界の皆と同じように目の前にいる皆もアタシにとって大切な存在なのだ。だから、簡単に背中を向けることができなかった。
「咲希」
「うん……」
「……向こうの私たちにもよろしくね」
ああ、駄目だ。そんなことを言われてしまったら、もう引き返せない。
ポロポロと零れる波を拭うために伸ばしていた手をゆっくりと引き戻す。それを見た皆は嬉しそうに笑った。
すでにアタシたちの間には取り返しのつかないほどの距離がある。いくら手を伸ばしても決して届くことはないだろう。
きっと、皆が一人ずつアタシに声をかけたのは時間を稼ぐためでもあったのだ。最後までアタシが皆を諦めなかった時のために。
「っ……皆!」
ごしごしと目をこすり、涙を払う。ぼやけていた視界がクリアになり、皆を見下ろす。
自分たちの今後より、アタシの幸せを優先してくれた優しいアタシの親友たち。
「ありがとー!」
だから、ここで言うのは謝罪じゃない。それだと皆は喜ばない。だから、アタシは無理やり笑顔を作り、大きく手を振った。
「アタシ、向こうでも頑張るから! ここで皆と一緒に過ごした時間を大切にして、頑張るから!!」
「咲希、頑張って!」
「咲希ちゃんならできるよ!」
「あまり無茶はしないで、私たちに頼ってよ!」
「うん! うん! 皆、大好きだよー!」
ああ、皆が小さくなっていく。もう、肉眼では見えないほどに小さくなってしまった。
気づけば、スタジオから飛び出していたアタシを出迎えたのはアタシたちが暮らしている街だった。
(学校、フェニラン、公園……皆の家もある)
暗いカーテンを開けた朝のように輝くそこには思い出がいっぱい詰まっており、すぐに見つけることができた。
朝、お兄ちゃんと笑い合いながら家を出た。学校で皆と一緒に青春を過ごした。公園で一緒に流星群を見た。
たくさんの思い出が溢れ、自然を笑顔になっていく。ああ、本当に楽しかった。ずっと、ここにいたかった。
でも、もうお別れだ。アタシは、行かなくちゃ。
「……行ってきます」
最後に街を一望し、アタシは体を回転させて顔を上に向ける。そこには澄み切った青空。どこまで行くのかわからない。だが、アタシの体はあそこを目指して飛んでいる。
「っ……」
上に行こうと思った瞬間、一気にスピードが上がり、アタシの体はどんどん高度を上げていく。街は雲の下に隠れ、すっかり見えなくなってしまった。
しかし、それも長くは続かない。不意に体が何かを突き抜けた。驚いて口を開けてしまい、ゴボリと気泡が溢れる。周囲を見渡せばあれだけクリアだった視界は真っ暗になっていた。
(み、水?)
空を飛んでいたはずなのに、いつの間にかアタシは深海にいたのである。だが、状況を確かめようにもアタシの体は今もなお、上昇を続けて身動きが取れない。それはまるで、溺れていた人が意識を取り戻し、急いで海面に上がるような――。
「へ? ぁ、きゃああああああ!?」
――そして、何が起きているのかわからないまま、海面から飛び出したアタシは空中に投げ出された。
水しぶきが飛び散る中、アタシの体を重力はしっかりと捉え、地面に叩きつけようと作用する。体をバタバタさせてせめてもの抵抗をするが現実は非道であり、少しずつ
(もう、駄目っ……)
近づいてくる地面が怖くてギュッと目を閉じる。いっちゃん、ほなちゃん、しほちゃん、ごめんね。アタシ、ここで終わりかも。
「……あ、れ?」
しかし、いつまで経っても衝撃は来ず、おそるおそる目を開け――そのまま大きく見開いた。
「へェ、自力De戻ッてこレたtaんダ」
初音ミク。そう言われたら確かにそうなのかもしれない。
だが、アタシを抱きとめた彼女の姿はあまりにも奇妙だった。
彼女の象徴とも言える緑色のツインテールは左右で微妙に色や長さが違う。
目の色も右目は赤く、左目は緑色。頬には傷があり、口元は慈愛に満ちた笑みを形作っている。
服装も右腕と左腕で装飾が違うし、上着も学校の制服のようなものを着ていた。だが、下はスカートではなく、袴のような和服っぽいものを履いている。
背中には天使のような翼が片翼だけ生えていて、頭部を見れば鬼のような小さな角が光っていた。
(この、ミクちゃん……)
少なくともアタシの知っている教室の世界にいるミクちゃんではない。いや、そうじゃない。目の前にいるミクちゃんはあまりにも統一性がなさすぎた。まるで、色々な初音ミクを部分的に切り取って貼り付けたような姿。
「ぇ、姿が……変わった?」
アタシを地面に降ろした彼女は瞬きをした瞬間、目の前のミクちゃんの姿がガラリと変わる。生えていた翼はなく、角もない。目の色や髪型、服装も全て変化していたのだ。
「サて、Maずハ定番のゴ挨拶かラ」
目を白黒させるアタシを見て悪戯が成功したように笑った彼女は数歩ほど下がり、綺麗なお辞儀をして――。
「――ようこそ、
――びしょ濡れのアタシを出迎えてくれた。
使用楽曲コード:N00918328