「……」
教壇で数式の解説をする先生の言葉を聞きながらカリカリとクラスメイトたちがペンを走らせる。しかし、少し後ろからクスクスと可愛らしい笑い声が聞こえた。先生の目を盗んで――いや、この場合は耳を盗んでクラスメイトの誰かが小声で話しているのだろう。
そんな教室でアタシは黒板の文字をノートに刻んでは手を止め、刻んでは手を止めることを繰り返している。明らかに授業に集中できていない。ただでさえ、アタシは皆より勉強が遅れて――。
(――また、この感覚……)
遅れていない。遅れる理由がない。もちろん、勉強をしていなかったらついていけないと思うがこれでも人並み程度には勉強しているつもりだ。さすがに幼馴染の一人、『望月 穂波』ちゃん――ほなちゃんには負けるけどこれでもそれなりの学力はキープしているのである。だから、勉強が遅れていると
こんな思い込みが今日だけで何回も起こっている。無意識に『自分はそうである』と思い、すぐに思い直すという現象がこう何度も起こることはないだろう。それこそ、昨日までこんな現象が起きていなかったのでなおさらだ。
(何が原因なんだろ……ううん、そもそも)
明らかにおかしいと思っている。思っているのにそれに確証を持つことができない。
これは本当に異常なのか、それともアタシの勘違いなのか。
こんな現象が何度も起こってしまっているせいで今のアタシの考えに自信を持つことができない。そう思ってしまうほどアタシは今の『天馬 咲希』を疑ってしまっている。
「……」
そのせいで神経を張り巡らせているからか、後頭部に刺さる視線に気づく。いや、ずっと気づいていた。朝、アタシがふらついたところを目撃したいっちゃんである。彼女は朝からずっとアタシのことを心配そうに見ていた。
それに気づいておきながらアタシはそれを無視していつものように振る舞おうとして、あの現象に襲われて硬直してしまう。それをいっちゃんの前で何度も繰り返してしまい、『大丈夫』という言葉を信じてもらえなくなっていた。それでも無理やり保健室に連れていかないのは今までアタシが
「ッ……」
ギュッ、と胸を締め付けられる感覚に思わず胸を抑えようとして慌てて動きを止めた。
いいじゃないか。健康で、勉強もついていけて、何の心配もない、学校生活。
そんなごく普通な女子高校生、それが『天馬 咲希』である、はずだ。
それなのに、あの違和感に襲われる度――『
まるで、『
「――咲希?」
「うぇっ!?」
その時、不意にいっちゃんに呼ばれて素っ頓狂な声を上げてしまった。その声量にクラスメイトの皆が何事かと一斉に視線を向けてくるが、発信源がアタシだと気づくと『なんだ、咲希か』と言わんばかりに日常に戻っていく。アタシっていきなり悲鳴を上げてもおかしくない子だと思われているのだろうか。
「ど、どうしたの?」
「え? ど、どうもしてないよ?」
「でも、授業終わっても動いてなかったし……ホームルームも終わったよ?」
「あ、れ? いつの間に……」
考え事に夢中になるあまり、授業どころか帰りのホームルームすらもスルーしてしまったらしい。駄目だ、これ以上このことを考えるとアタシがアタシでなくなってしまいそうになる。
「……咲希、やっぱり具合悪いんじゃない? 今からでも保健室に――」
「――大丈夫だよ、いっちゃん! それよりも早く合流しよ!」
「え? ちょっと、咲希!」
いっちゃんの言葉を遮ったアタシは手早く荷物をまとめて鞄を持ち、彼女の手を掴んで教室を飛び出した。今日一日、考えても答えが出なかったのだ。もう考えるのを止めていつも通りに過ごそう。そうすればこの変な現象もいつかなくなるはずだ。
「ほなちゃーん!」
「ん? あれ、咲希ちゃん?」
いっちゃんの手を掴んだまま、アタシは隣のクラスであるB組の教室を覗き込む。放課後になってからそれなりに時間は経っているがまだ教室に残っていたようで不思議そうな顔でこちらを見ていた。その拍子に彼女の右でまとめた一房の茶色い髪がぴょこんと揺れる。
「ほらほら、早く行こっ!」
「行く? う、うん」
ちょいちょいと手招きして彼女を呼ぶと首を傾げながらも鞄を持って駆け寄ってくれる。どうして、そんな顔をするのだろうと思いながらも考えないようにしたばかりなのですぐに気持ちを切り替えた。きっと、みんなが集まればいつもの4人に戻る。だから、早く――。
「……あ、一歌ちゃん?」
「じゃあ、あとはしほちゃんだね!」
「え? あの、咲希ちゃん? そんなに押さなくても……」
「ねぇ、咲希、話を!」
「早くゴーゴー!」
教室から出て初めていっちゃんの存在に気付いた様子のほなちゃんだったがアタシはグイグイと彼女の背中を押しつつ、いっちゃんの手を引いて幼馴染最後の一人である『日野森 志歩』ちゃんが属するA組を目指す。
「しーほちゃん!」
「……咲希? それに皆も」
A組で帰る準備をしていたしほちゃんはアタシたちを見て訝しげな表情を浮かべた。だが、クラスメイトの視線を気にしたのか、何も言わずにアタシのところへ来てくれる。出入り口で話すわけにもいかないのでアタシは3人を連れて少し離れた場所まで移動した。
「よーし、集まったね!」
『星乃 一歌』、『望月 穂波』、『日野森 志歩』、そして、アタシ、『天馬 咲希』。小学校の頃からずっと一緒にいた大切な幼馴染。アタシの大事な友達だ。
よかった、ちゃんと合流できた。これでもう大丈夫。
「じゃあ、いこっ!」
「――待って」
いつも通り、放課後に集まったアタシは歩き出そうとする。しかし、それを止めたのは相変わらず訝しげな表情を浮かべたままのしほちゃんだった。ううん、彼女だけじゃない。心配そうに見るいっちゃんも、戸惑ったようにアタシを見つめるほなちゃんも誰も動こうとしていなかった。
「どうしたの? 早く行かないと時間がもったいないよ?」
「……行くってどこに?」
「……え?」
しほちゃんの質問にアタシは真っ白になってしまう。だって、いつもなら委員会やバイトがなければ放課後になったらすぐに集まってアタシたちは――。
(アタシたちは、どこに行ってたっけ?)
「えっと……ごめんね、咲希ちゃん。もしかして、今日、遊ぶ約束してた? わたし、すっかり忘れちゃってて……」
「ううん、そんな約束してないはず。もしかしていつもの思いつき?」
「え、あ……ちがっ……だって、アタシたちは、いつも……」
「咲希」
ほなちゃんとしほちゃんの言葉にアタシはいつの間にか後ずさっていた。その拍子に掴んでいたいっちゃんの手を離してしまう。それがきっかけになったのだろう、いっちゃんが真剣な眼差しでアタシの名前を呼びながらこちらを見つめた。
駄目。そんな目で、見ないで。皆からそんな目で見られたらアタシは――。
「――今日、ずっと様子が変だよ? 大丈夫?」
その言葉を聞いた瞬間、アタシの中で何かが壊れる音がした。
使用楽曲コード:N00030412