ひとめ見たときに、『ああ、おれはこの女と生涯を共にするのだ』と漠然と考えたことをよく覚えている。その女が美しかったから、と言うわけではない。出会ったときからして年齢が桁単位で違っていたし、目線も違えば、人間のこちらに対して向こうは雌雄すら怪しい生き物(?)なのだ。何故、そう思ったのか自分でも未だによく分からない。けれどもその予感は鮮やかに、くっきりと、確かな速度でエドワード・ニューゲートの脳裏を走り抜けて行ったのだ。ちょうど霧立つ海の中で、一瞬空を稲光が裂いて島陰を映し出すときのように。少女の姿をした光がぱちぱちと、あの時から彼の世界を光らせている。
「––––あァ、そうだ。ニューゲートお前、奴とは会ったか?」
ロックス・D・ジーベックが、当時船団に加わったばかりの若きエドワード・ニューゲートにそう言ったのは、春先のことだった。春の海は生命のサイクルが活発になる時期であるからか、どこか騒がしく、色づいている。命のざわめきと、そしてそれを掻き消すような船内の怒号–––は季節を別に問わなかったが、とにかくそんな中で男のダミ声はよく響いた。
「奴?誰のことだ」
「チビのガキンチョだよ。これくらいの」
ロックスは手で自分の腰より少し下を指した。それくらいの低身長なら記憶に残るはずだ。なぜならロックス海賊団には自分を含めてやたらとデカい奴が多いのだ。少し考えたが、ここでは目立つだろうチビのガキ、とやらに生憎覚えはない。首を横に振った。
「知らねェな。あの女のガキか?」
「違う。リンリンのガキ共でこのサイズに留まる奴ァ稀だろうぜ」
まあそれには同意する他にない。ニューゲートは、船の向こうで一際デカい笑い声を上げている女傑をちらりと見た。あの女の子供は確かに皆デカい。生まれた時からかなりのサイズ感である。
「まあ知らねェんなら紹介しとこう。何てったっておれ達の可愛い可愛い『船』だ。おい!ナーウィス!降りてこい!」
ロックスの呼び声が、夜の海に響いた。騒いでいた船員たちは、束の間長の声に動きを止めたが、すぐにまた元の喧騒を取り戻した。
その呼び声から少しして、空気を切るような微かな音に反応し、ニューゲートはふっと上を見た。
何かが、落ちてくる。
初めは上から降ってきたそれを見て、白い毛玉だ、と思った。もじゃもじゃとした謎の何かは軽い動きでロックスの頭の上にぴょん、と着地した。音もなく船長である彼を足蹴にした艶やかな毛玉は素早く立ち上がり、その時に初めて上から降ってきた何かが毛玉ではなく人間の姿をした少女であることにニューゲートは気づいた。
13、4歳ほどの白銀の髪をした少女である。ロックスが言った通りかなりの矮躯で、光沢のある絹にも似た髪が月光を反射して、星のようにひかっている。月を背にした少女の顔は翳っており、その中であかるいコバルトの瞳がきらきらとニューゲートを覗き込んでいた。
「降りてきたよ、ジーベック!お呼びか、うおっ!?」
言い終わるより前に、頭を踏まれたままのロックスが少女の細い足首を引っ掴んで投げ飛ばし、華奢な体は思い切り吹き飛んで船の壁に激突した。ゴン!!!!と鈍い音がしたが、少女は特に怪我をした様子もなく、すぐにむっとした顔で立ち上がる。纏っている洒落たレインコートが、夜風にぱたぱたとひらめいている。
「何するんだよ!竜骨折れたかと思ったじゃないか!」
「折れるかこの程度で!ご主人さまの頭を足蹴にしやがって……クソガキが」
割と本気の殺意が篭ったロックスの呟きに、少女は小馬鹿にした表情を浮かべて鼻で笑った。
「クソガキィ?おいおい、100年も生きてない小僧がほざいてんじゃないぜ。わたしをガキと呼ぶのはそれからにするんだね。まあその頃にはわたしも同じだけ年とってるから差は縮まらないけど!ワハハ!」
「ぶっ殺すぞ!テメェ!」
今度はロックスの拳が少女の頭にめり込んだ。きゃいん、と子犬のような悲鳴が上がる。
やいやいと暴力の混じった応酬を繰り広げるロックスと謎の少女を見ながら、束の間あっけに取られていたニューゲートはおかしなことに気づいた。少女のほっそりとした小さな素足はわずかに透けていて、船の木目がうっすらと見えていた。船の床には、あるべき影が落ちていない。明らかに、普通の人間ではなかった。
透けた体。纏っているレインコート。手に金槌–––は、持っていないが。それに近い伝説は、ニューゲートもよく知るところである。大切に使われた船に宿り、船の危機に際して現れたり、修理したりするという精霊、または妖精。
「ロックス。………そいつァ伝説のクラバウターマン…なのか?」
きょとり、と2組の瞳が争いを止めてニューゲートの方を向いた。その内のコバルトブルーの眼差しの主は、ちょっと恥ずかしそうにロックスの胸倉から手を離して咳払いをする。
「アー、なんつうか、」
「んん、厳密には違うんだけど説明すると長いからね、まあそんな感じだと思ってくれて構わない。わたしはこの船に住みついてる守護霊もどきだ。今は■■■■・■■■■■■号とも呼ばれるんだけど、それだとややこしいから、ナーウィスと読んでほしいな。きみ、新入りだよね?」
「あァ。……おれは、ニューゲート。エドワード・ニューゲートだ」
「そう、よろしくニューゲート。ジーベックも新入りの紹介ならさっさとそう言ってよね」
また拳の音。
ニューゲートの指一本分くらいの小さな手が差し出され、ナーウィスと呼ばれた少女は彼の手をきゅっと握った。驚いたことにクラバウターマンっぽいもののくせに、実体があるらしい。人間の体温よりずっと低く、濃い霧が集まって固体となったような不思議な感触だった。星あかりを集めて、螺鈿を織り込んだような美しい白髪頭の少女はてけてけと側まで寄ってきて、にっこり微笑んだ。コバルトブルーの眼が弓なりに挟まって、人ならざる生き物とは思えないほど人懐っこい笑みだったけれども、その時にニューゲートはこの少女が一度も瞬きをしていないことに気づいた。海の1番美しい部分を煮詰めたような瞳の少女の手を握り返すと、人型の船はまた嬉しそうに破顔した。
「–––重要な脳内審議の結果、わたしはニューゲートの船に乗ることにするよ。てな訳でリンリン、その他野郎共はごめんね!潔く諦めてくれ!」
その言葉に対する凄まじいブーイングと共に、銃弾と炎と長槍とその他あらゆる危険物が吹っ飛んで来たので、ニューゲートは黙って獲物でそれらを薙ぎ払った。争いの渦中にあるレインコート姿の少女は、器用にそれらをひょいひょいとかわして逃げ回り、甲板に火が付いたのを、適当に転がっている死体から流れている血で消しとめていた。
ニューゲートとナーウィスのはじめての邂逅からはもう数年経っており、それどころかつい数週間前に起きたゴッドバレー事件によってロックス海賊団の船長ロックス・D・ジーベックは帰らぬ人となっていた。今は事件を生き残った船員たちで、解散に際して辛うじて持ち出した遺産を分け合っているところ、なのだが。
彼らロックス海賊団は、恐ろしく治安が悪い。仲間殺しなど日常茶飯事、食事中に揉めた船員がピストル持ち出して横の人間をブチ殺したところで誰も咎めないような凄まじい環境であり、海賊にも多少の掟がないとこうなる、の見本のような無法地帯だった。従ってそんな仲間に情すら持たない連中が、大人しく平等に遺産を分け合いましょうね、など夢のまた夢。気がつけば遺産分配のために集まったメンバーは、約半分くらいまで減っており、血の海で動かなくなったやつと返り血しか浴びてないやつに分けられていた。海軍が手を叩いて喜びそうな同士打ちの場面である。
それでも地獄のバトルロワイヤルも終わりがけ、宝石や貴重な武器などを取り合って最後に残る財産が–––ナーウィス、つまりは生きる船の守護霊だった。
ナーウィスと名乗る少女姿をした謎の存在は、クラバウターマンと似ているようで明確に異なっている。ナーウィスは憑いた船に幸運と安全な航海をもたらし、彼女がいる間に決して船が沈むことはない。クラバウターマンとは違って船の修理を行うことこそできないものの、船を自力で動かすことも可能であり、実際勝手に帆が畳まれたり舵輪がくるくると回っていることもこの船ではよく見る光景だ。
そして明確な違いが、ナーウィスは船から船へと渡り歩くことができると言う点だった。クラバウターマンは大切にされた船から生まれ、その船が沈むときに最期を迎えるが、ナーウィスは別の船に移り住むことでそれを回避することができる。つまりロックス海賊団が今や解散して、独立した海賊団を持とうという生き残りたちは皆、誰もが己の船にこそナーウィスを迎えたいと願っており、その解答が上だった、という訳だ。
「ハッハッハマーマママ、おめェどういう了見だナーウィス!?おれの船がニューゲートの野郎に劣ってるって言いてェのか!あァ!?」
「んなこと言ってない!ただの好みの問題だっつーの、この食い意地張りの可愛い子ちゃんめ!暴れると海にぶち込むぞバカ!」
船の化身の渾身のキレに、床がかたりと傾いた。
親友から豪速で繰り出された、自分の身長よりデカい拳をびくともせずに受け止めた少女は、拳にべったりついた鮮血(さっきのバトルロワイヤルの返り血である)を嫌そうに拭った。悪魔の実どころか、覇気すら使えない小柄な少女が女傑の攻撃をものともしていない光景はいつ見ても奇妙だが、本人(?)たちは本気も本気。鼻面を寄せ合って殴り合いをする顔は、目が完璧に血走っている。ニューゲートは女同士の争いをキャットファイトと表現した奴は本気でバカなのだろうとこっそり思った。
「やってみろチビ!その前におめェを船から引っ剥がして、おれの船に連れていくからな!」
ぶん、と凄まじい拳圧がまともにナーウィスの胴に叩き込まれたが、ダメージのない少女はそのままリンリンの横面を張り飛ばした。
「はん!きみのソルソルだかパカパカだか知らないけど、その能力がわたしにまで通用すると思ったら大間違いだ!わたしは既にタマスィーだけの状態!船とはちょっと接続されてるだけ!つまりきみの能力判定外!!お生憎さまだったな!」
そんな風にぎゃあすか騒いでいたのも、ちょっと前の話。
エドワード•ニューゲートはぼんやりとドッグの前にある巨大な船に目をやって、それから己の肩に乗っている小さな少女を見た。相変わらず昼間でも眩しいほどの輝きを放つ銀の髪が、さらさらと潮風に靡いている。
「……おめェは、おれでよかったのか」
船の外にいる限り、他人からは見えない存在と会話しているニューゲートに周囲からは不審な視線が送られた。ん?と不思議そうな目をしたナーウィスと目が合う。とびきり鮮やかな青色。海の1番美しい部分を溶かしたような、果てしないブルー。
「今更じゃない?きみを選んだから、ここにいるんだけど」
「アホンダラ。そういうことじゃねェ、おれが何と言って誘ったのかもう忘れたのか?」
「『船員同士、家族として暮らせる船にする』でしょ。忘れてないよ」
「そうだ」
海賊のモットーとして掲げるには、あまりに甘っちょろいという自覚は彼自身あった。そしてニューゲートは、生来の非人間であるナーウィスの根元に横たわる価値観の違いをよく知っている。明るく、やかましく、人好きのするように見えて彼女は時折、野生動物のような酷薄さを覗かせるときもあった。
だから不思議でもあった。そんなナーウィスが、己の船となることを選んでくれたという現在が。
「いやー、船の守護霊もどきに家族になれとはね。頭がイカれたのかと思ったけど、面白くはある。わたしの長い長い時間の一部を使ってみる価値はあると思ったのさ」
ひょい、とニューゲートの肩を滑り降りたナーウィスは、振り返ってにんまり笑った。足元に影のない、人ならざる少女は、瞬きもしないままその口元だけがあがっている。
「ではニューゲート、家族として1番初めに決めておこう。わたしはきみの何として振る舞うべきなのかな?母親?娘?妹?あるいは形を変えて息子?それとも弟かな」
ナーウィスの言葉に従って、くるくるとその体が手品よろしく移り変わる。性別も姿も声も留まることなく、流れる水のように滑らかに、うつろって休まることを知らない。
ニューゲートは口を開いた。
「おめェは今日から、おれの––––」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「–––なあ。オフクロってよお……」
その話が出たのは、深夜の食堂でのことだった。既に船の外は、冬島の近辺らしく澄み切った紺碧の空に、さえざえとした月を浮かべており、その黄金も天の半ばを過ぎた頃である。室内は暖房器具によって暖められてはいるが、ドアの隙間からひんやりとした風が薄く吹き込んでいた。
他の船員を起こさないよう、光源はは卓上のランプのみ。日中であれば大人数が集まる食堂の中、とろんとした蜂蜜色の光に照らされているのは、5、6人ほどの青年たちである。どいつもこいつも足癖悪く、アルコールが程よく回った顔で手元のトランプを睨んでいる。
そんな中でふと、そんなことを口にするものがいたので、集まった人間の視線が自然と発言したサッチに集まった。
「オヤジと喧嘩したことあんのかな」
ごくあたりきたりな、それでいてあまり彼らが考えたことのない質問だった。雁首を揃えた男たちは、似たような顔で暗い天井を見上げて記憶のページをめくり、それから首を横に振った。じじ、とランプに惹かれてやって来た蛾が熱さにまた逃げていく。
「「「記憶にねェな」」」
「だよなあ。おれもだ」
船員がそれぞれオヤジ、オフクロと呼び慕う2人(?)は非常に仲が良い。サイズも種族も実年齢も外見年齢もまるで不釣り合いな両者ではあるが、多少の口争いであっても5分と続くことすら稀なほどの鴛鴦夫婦である。いつもは豪放磊落でどっしりとしたニューゲートが、ナーウィスに対して甘さの滲んだ顔で笑うとき、いつも賑やかで明るいナーウィスがニューゲートに静かな微笑みを向けるとき、息子たちは改めて2人の間に存在している確かな愛を感じる他にない。
「まあ、仲良いに越したことはねェだろうがよい。オヤジもオフクロもお互い付き合いは長いんだし、喧嘩のネタだって尽きてるんじゃねェのか」
「そう言うもんなんかね。おれん家はガキの頃は二親揃ってたけどよ、毎日毎日喧嘩のネタ探しながら生きてんじゃないかってくらいだったぜ。だからあんな仲良い夫婦見てるとなーんかこう、すげェなって感心ちまう」
「言いたいことは分からんでもないがな」
うーん、とまだまだ尻の青い息子たちはそれぞれ考え込んだ。
彼らは皆、無法者の海賊になるくらいなのでマトモな家庭で生まれ育ったものは元より少数派である。モビーディック号に乗って初めて、家族ができたというものも決して少なくはない。
まあニューゲートを父と呼ぶのはまだしも、どう見てもティーンのナーウィスを母と呼ぶのは気恥ずかしい時期もあったが、今では船員の誰もが敬愛する両親である。
「つーかオヤジならまだしも、オフクロが本気で怒るような場面が思いつかない」
「確かになあ。いつか結婚したとき用に夫婦円満のコツ、聞いとくべきかもしんねェな…」
「なんだサッチ、お前船と結婚すんのかよい?」
どっと爆笑が上がった。馬鹿言え、と言い返したサッチの顔も大概緩んでいる。息子たちは、彼らが母と慕う存在があまりに俗っぽいからか人間でないことをときどき忘れがちだった。
アルコール臭い笑い声が深夜の食堂をわずかに揺らしたところで、新しく加わる声があった。
「–––おや?息子たち、夜ふかし?」
「うおわっ!?」
ひょこん、と小さな影がテーブルに身を乗り出した。今しがた話題になっていたモビーディックの守護霊にして船員たちの母こと、ナーウィスである。癖のないさらさらとした、星のような白銀の髪が暗闇で淡く光っている。気配の一切ない出現は一体どこから、という疑問はナンセンス。現在はこの船の化身でもある彼女にとって、船内のあらゆることは観測かつ干渉可能な対象物である。
「良いねえ。夜ふかしする海賊は、大海賊になるって言うもんね」
「そんな諺ねーよ!!」
「寝る子は育つみたいに言うな!」
息子たちのブーイングをものともせず、テーブルのカードの束を見てにっこりした少女がちょいちょい、と指を動かすと椅子とコップがひとりでに飛んできた。座面が高いせいか、床に届いていない足をぷらぷらさせながらナーウィスは頬杖をつく。
「で。わたしとニューゲートが何だって?楽しそうな話題が聞こえてきたんだけど」
「……あァ、イヤちょっとな……」
青年たちは別に悪口を言っていたわけでもないけれど、何だか言い出しづらくてちょっと視線を泳がせた。いつの世も息子は母親に頭が上がらないもの。その原則はたとえ彼らが海賊で、母親が純度100パーセントの人外であろうと覆ったりはしないのであった。
設定
本名:ナーウィス(navis)
通称:『悪霊』『船幽霊』『箱舟の曳き手』
所属:魚人島→ロックス海賊団→白ひげ海賊団
懸賞金:10億2000万(ただしクルー以外に視認不可能なため、手配書には写真なし)
出身地:不明 死没地:不明(ただし鯨の方の遺体は魚人島近郊の深海に埋まっている)
年齢:約800〜900歳
誕生日:9/4(くじらの日)
身長:167センチ(鯨時代は象主よりデカい)
星座:乙女座
好物:クリームシチュー
嫌いなもの:リコリス菓子
モビーディック号守護霊にして、クラバウターマンもどき。ナーウィスという名前はロックスがつけたもの。ラテン語で船の意。人間の姿は、幻覚を限りなく実体に近くしているだけで、本体は船という扱い。それゆえ人間体を殴ってもノーダメージ。船上限定だが、マムと殴り合いができるくらいの力がある。船の治安によって性格が若干影響を受けるため、ロックス時代は大概血の気が多かった。非人間だが、白ひげのことはかなり好ましく思っている。
元々は、象主と同年代生まれのクソデカ鯨の海王類。象主が歩き続ける罰を負ったように、ナーウィスは死後魂が船に囚われるという罰を受けているため船から離れることはできなくなり、様々な船を渡り歩くうちにロックスと出会った。