プロローグ
絃神島(いとがみじま)
太平洋上に浮かぶ小さな島だ。
魔族特区とも呼ばれ、魔族の保護とともに彼らの肉体組織や特殊能力に関する研究が行われている。
そのため魔族も多く暮らしており、人間と共存している。しかし、同時に彼ら魔族による犯罪も多発していた。
深夜、異形な影が絃神島の一角を疾走していた。人型ではあるが人ではない。ゴリラのようにも見えるそれは獣人と呼ばれる魔族だ。
「……なんとか逃げ切れたか?」
暗い路地裏に入り込み数分間息を殺していた獣人の青年が安堵の息を漏らす。
欧州で異名を轟かせた魔女に追われていると気がついた時には自分の不運を呪ったものだが、今は逃げ切れた幸運に感謝していた。
「まあ、空隙の魔女つっても所詮は貧弱な人間ってことだな」
笑みを浮かべながらそう言う獣人。追われているという立場である以上油断などできるはずもないのだが彼は『空隙の魔女』というビッグネームから逃げ切れたという思い込みから油断してしまった。
「逃げ切れたというか、逃がしてもらったが正しいんじゃないか? お前の場合」
「誰だ!?」
背後から声をかけられ獣人は勢いよく振り向き威嚇する。
「那月ちゃんに頼まれてね。今日は疲れたからお前に任せるって――」
本音はどうだか知らないけど。と続けながら現れたのは黒髪青目の青年だった。中性的な顔立ちに黒のスリーピースを着こなしている(ちなみにネクタイは締めていない)。
「っち!」
追っ手とわかった獣人は即座に青年に向かって先手必勝と言わんばかりに殴りかかった。人間をはるかに超える獣人の身体能力。本気で殴りかかれば一瞬で肉塊に変えてしまうであろう拳が青年に迫る。
そして、平手を打ち付けたような乾いた音が響いた。
「え?」
一拍遅れて獣人からマヌケな声が上がる。
「いきなりだな。少しびっくりしたぞ」
とても驚いているとは思えない口調。青年は獣人の拳を左手で当たり前のように受け止めていた。まるでボールが飛んできてキャッチしたような感覚でだ。
唖然とする獣人を他所に青年は一歩踏み込み獣人の胸ぐらを掴み上げ路地の外に放り投げた。
「っくそ!」
獣人は受身を取りすかさず立ち上がり路地から出てきた青年を睨む。
月明かりと街灯に照らされ青年の姿がより鮮明に映し出された。
「お、お前は!?」
「うん?」
「その顔、前に見たことがある。お前、うちは
うちは要と呼ばれた青年は不思議そうに首をかしげる。
「……会った覚えはないけど?」
「アルディギアで貴様が起こした獣人の大虐殺を忘れたとは言わせんぞ!」
「んー……ああ、あの時の。しかし、虐殺とは人聞きの悪い。テロリストを壊滅させただけだったはず」
数秒の沈黙で数年前に自分がやったことを思い出し納得する。テロ組織というだけあってかなりの人数だったし撃ち漏らしがあったのだろうと。
「つーか、流石にあんな何百人もいた連中の中の一人を覚えてろってのも無理だよ。五年前だろ?」
「……同士たちの仇を打てるまたとない機会だ!」
要の軽薄な言い草に堪忍袋の緒も切れかかってると言わんばかりに低く唸るような声を出し、軍用格闘技と思える構えを取り要と距離を調整する獣人。
逆上しかけているためかついさっき格闘戦で投げ飛ばされたことなど頭から消えているようだ。
「どうした、眷獣を出さないのか?」
「……」
どことなく面倒くさそうな雰囲気を身にまといながら要は獣人をみる。
「早く出したらどうだ? 貴様はあのディミトリエ・ヴァトラーと同じ戦闘狂だと聞いたぞ。それとも怖気づいたか?」
「いや、ヴァトラーと同レベルで扱われるの非常に不満なんだけど。俺は周りにも気を配るし」
戦闘狂であるという点は否定せず否定したい部分だけ否定する。
「まあ、それに眷獣を出したら戦いにならないだろう? それはそれでつまらないから、どうしようかと」
「っ貴様ァ!!」
嘲笑うかのように言う要。安い挑発だと分かりながらも獣人は怒りに震え、大地を蹴り間合いを詰めた。
◆
「まあ、こんなもんか」
要と獣人の戦闘はモノの数秒で終了した。真っ直ぐ猪のように突っ込んでくる獣人の攻撃を軽くいなし顎にカウンターの一発を叩き込み意識を強制的に落とす。
この行程を流れ作業のように行い決着は付いた。
気絶した獣人には早々に興味を失い、要はビルの壁を蹴り屋上へと向かう。
一足飛びで数メートル飛び、窓の縁につま先を引っ掛けさらに跳躍する。吸血鬼の人間を超えた身体能力ゆえになせる動きだ。
「久しぶり、覗きとは趣味が悪いな
屋上に到達した要はそこにいたある人物に声をかけた。
月の明かりに照らされ姿を見せたのは眼鏡をかけた三つ編みの地味な容姿の少女だった。
「――空隙の魔女の元にいたのが貴方だったとは、正直予想外でしたよ。うちは要」
警戒するように少女は要に言う。
「そうか……それで、獅子王機関の三聖様はどうするつもりだ?」
返答次第ではこの場で一戦交えるのもやむを得ないと思いながら、要は少女の返答を待つ。
「…………この場で貴方と騒ぎを起こすつもりはありませんよ。しかし、同時に真祖と同等の脅威とされている貴方を見過ごすわけにもいかない――第四真祖のことも含めて貴方に監視をつけさせてもらいます」
構いませんね? と要ではなく自身の後ろに向けて問いかける。
そこには数秒前まで誰もいなかった。しかし、今は常夏の島では珍しいであろうフリルまみれのドレスを着た少女――『南宮那月』――が立っていた。
(そういや古城が那月ちゃんの服装は視線への暴力とか言ってたな――)
本当にどうでもいいことを思い出している要をよそに、二人の少女の話し合いは進んでいく。
「それにしても人が悪いですね、空隙の魔女。私をあぶり出すためにわざと彼に任せたのでしょう?」
「いい加減お前たちに嗅ぎ回られるのにも嫌気がさしていてな」
バチバチと火花を散らす――というほどではないが周囲の空気を不穏なモノにする程度には怖い雰囲気の二人を要は他人事のように見ていた。要を監視するという話である以上当事者であるのだがそれほど気にしていないのだ。
それよりも
「帰るぞ要」
舌足らずだが威厳のある声で那月は要に命ずる。
「はいよ、那月ちゃん」
そう言った瞬間、要は頭を扇で殴られた。
「私をちゃん付けで呼ぶな!」
その言葉とともに空間転移でその場から二人は消えた。
「うちは要――従える眷獣はたった一体でありながら真祖と同等の力を持つ吸血鬼。そして世界最強の吸血鬼、第四真祖……厄介なことになりましたね」
そう呟き、