「待ちなよ衛宮。そんなに焦ってどこに行こうってんだい?」
そんな、なんでもない、呼びかけ。だけどそれは、この状況にはそぐわないひどく平和的なものだった。
学校中を覆う紅い檻。天に昇る血の様な赤は、見たとおり生命力を吸収している。その中で、こんな風に余裕を持っていられるのは、この檻の主に他ならない。そして、この結界を発動させうる人間は――――――。
「慎、二」
「おいおい、そんなに睨むなよ。こうなった理由は、衛宮。おまえにもあるんだぜ?せっかくこの僕が手を組んでやるって言ったのに、おまえは断りやがった。それだけじゃなくてあの遠坂と組んだんだって?駄目じゃないか。おまえはそうやって、何もできずに這いつくばってみている方がお似合いなんだからさ」
紅い世界のなかで、そこだけが切り取られたようだった。慎二はこの結界の影響を受けていない。こうなったのは自分のせいだ。先日会ったこの同級生がこれを発動させる前に、一対一で話す機会はあった。だから、その時に止めるべきだった。
「…なんでこんなモノを仕掛けた。無関係な人たちを巻き込んで、お前はそれで満足なのかよ」
「いやいや。僕としてもこれを発動させるつもりはなかったさ。あくまでも交渉材料の一つ、遠坂に対しての牽制だったんだよ。だってのに、おまえらときたら片っ端から壊して回ってた。おまえはともかく、遠坂は躍起になってたからな。僕だってバカじゃない。戦況を確認して、悪いけどここの生徒を餌にさせてもらうことにしたのさ」
悪いけど、などと言いながら、慎二は薄笑いを浮かべている。ポケットに手を突っ込んで、もう片方の手は何かの本でふさがっていた。油断している今なら、俺だけでも止められる。俺が止めなくちゃいけない。
吐き気は収まった。
めまいももう無い。
冷静に、倒すべき相手の状況をつかめている。
「―――――やめろ」
そう、一言口にした。ここで、おとなしく引いてくれと、見えないくらい細い希望の糸でも、俺は、衛宮士郎は最後に手を伸ばしたかった。
「やめろ?さっきも言っただろう衛宮。ここの人間はみんな僕のライダーの餌だって。…そんなに睨むなよ。おまえのその顔、僕が止めるはずないって分かっているじゃないか。なのにそんなこと言うなんて、やっぱりおまえはおかしいよ、衛宮」
「ここには藤ねぇも桜だっているんだぞ!自分が何しているのか分かってるのか」
「…何か勘違いしてないか、衛宮。藤村や桜がどうなったって、僕には関係ないっての。だいたい、最近家に帰ってきてない、何考えてるか分からないあんな奴、一度も妹だと思ったことは無いよ」
「―――――――――」
コイツ、僕の妹で桜っていうんだ。少しおとなしい奴だけど、僕の妹だから仲良くしてやってよ。
今ではそう見られなくなった笑顔を浮かべながら、昔俺に話しかけてきた慎二の顔。あの時はこんなこと言うやつじゃなかった。こんなことする奴じゃなかった。
止めなきゃいけない。
俺が、この友人を止めなきゃいけない。
そう思ったとき、身体が完全に入れ替わった。
脳にガキン、と撃鉄が落ちる音がする。
視界がよりクリアになる。
「最後だ―――結界を止めろ、慎二」
「何度も言わせないで欲しいな。そんなに止めて欲しかったら力ずくでやってみろよ」
その言葉を聞いた瞬間、身体の血がさらに掛け廻った。
ギシギシと、力をためた脚が軋んでいく。
「いくぞ――――」
その言葉と共に、俺は廊下を踏みしめた。打ち出された弾のように、一気に間合いを詰める。慎二は油断している。両手は相変わらずふさがったままだ。今の俺ならやれる。
「は、バカだね―――おまえ!」
結界は術者の思うままの空間である――――。連夜の遠坂による魔術教室で、そのことは教えられていた。だから、慎二がなにかしてくるのは予想の範囲内だ。
狭い廊下という空間に、影から生まれた黒い刃が三つ。普通の人なら、恐怖心からやすやすと切り刻まれるところだが―――――今の俺には障害には為り得ない!
――――――みえない速さじゃない。
――――――躱せない大きさじゃない。
――――――恐怖心は、感じない!
三筋の黒い刃の隙間を駆け抜ける。
「な――――――」
これほど危なげなく躱されるとは思わなかったのだろう。もう俺と慎二の間には遮るモノは何もない。焦る慎二の顔がはっきり見える。
「慎二――――!」
人工の大地を、割らんばかりに踏みしめる。そのまま、後ずさる慎二の顔面を拳で打ち抜いた。
「あが――――っ!」
「結界を止めろ慎二!じゃないと俺はいつまでもお前を殴るぞ!」
そのまま追撃をかける。背中からもんどりうった慎二に対して、俺はマウントポジションをとろうと追いすがった。
「―――――――――っ!」
が。突然、目の前からダンプでも突っ込んできたかのような衝撃を受け、気が付いたら俺はゴムまりみたいに飛んでいた。背中から廊下を滑る。激しく痛む胸が、何かされたという事を訴えてくる。だけど、それが一体なんだったのかは分からない。必死に何が起こったのかを知ろうとして、さっきまで居たところを見やる。あれほどはっきり見えていた視界が、今はもう霞んですらいた。
「あ―――」
―――――どこから来たのか。この紅い世界に居るにも関わらず、生命力を奪うその結界さえもぬるく見えてしまう。
禍禍しい黒色の女性。この間会ったときには感じられなかった、濃密な死の気配が女性から感じられる。
―――――――殺される。
否応がなしに、そう思わされる。あれは美しい女性を形どった、その実衛宮士郎では全く歯が立たない、ただの暴力の塊だ。
「い、いいぞライダー…!そいつもおまえの好きにしろ…!」
いつ起き上ったのか。頬を抑えながら男子生徒が命令する。それを聞いているのか、いないのか。窓の外を見やる女性。アイマスクに覆われていても、視線は窓の外に向けられてこちらは見ていないのが分かる。だが、たったこれだけの距離に狭い廊下、今はよそ見をしているからと言って、あのサーヴァントからは逃げられない。
いや、それが分かっているからこその余裕か。悠然とこちらに向き直った女性が、一瞬ののちに姿を消す。いよいよ視界が悪くなったんじゃない。彼女は此方に、確かに攻撃の意識を向けた。
「っ―――――!」
あれには勝てない。そう思って後退する。逃げられるかは分からないが、遠坂がもうすぐ来てくれることを祈るしかない。令呪は使えない。そんな事をしていたら、その間に命を刈り取られる―――――!
「がっ……!?」
脇腹が痛む。さっき蹴られた胸の鈍痛に、今の激しい痛みが加わる。吹き飛ばされた距離を、こちらが体勢を整える前に詰めてくる。
一方的な蹂躙。まだ意識を保っているこの状況がおかしい。何にやられているのか、今自分の体がどうなっているのか。それすらも分からない。ただ、後退しなければならないという指令を体は愚直に守っていた。
そうして、何度か廊下に叩きつけられた時―――――。
「士郎!?お願い、セイバー!」
「言われずとも!」
待ち望んでいた女の子たちの声が聞こえた。
ひどい状態であった。何度も床を滑ったのであろう。制服は汚れ、士郎の身体は熱い。額がさけて頬は赤く染まっていた。ただ、どこか手足が無くなっているなんてことはなさそうだ。重傷には変わりないが、どうやら打撲がほとんどらしい。
一通り士郎の体を確認した後、私は剣戟の音が鳴り響く廊下に目を向ける。蒼き閃光が、闇色の死を蹂躙していた。あれがライダーである以上、得意とするのは主にチャリオットなどの戦車に乗った一撃離脱の蹂躙だろう。間違ってもこんな狭い環境では、その機動力が活かされることは無い。実際、ライダーはセイバーのその剣筋を、鎖でつながれた二つの巨大な杭みたいな剣で防いでいた。士郎と戦っていた時には出さなかった武器を使っているようではあるが、ここはセイバーの領域だ。宝具を封じられた陣形では、十全にはその力を発揮できないであろう。
同盟を組んでいる以上、私もアヴェンジャーを出すことが正しいのかも知れないが、セイバーはそれを必要とはしていない。あれだけの騎士道精神にあふれた娘だ。戦わせてもらえない状況からの一対一の戦場は、今の彼女には聖杯と同じくらいの価値を見出しているに違いない。
―――――それを邪魔したとあれば、どうなるか。考える必要はない。
それに、もう勝負はつきそうだった。
ガキン、と何度目かの金属がはじける音がしたあと、ライダーは大きく跳躍して慎二の処に戻った。
「…やはり近接戦闘では勝てませんか」
「仮にも剣の英霊を名乗っているのです。一対一ではそうやすやすと負けませんよ」
自らの杭を見つめながらそう漏らすライダーに、下段に構えたままのセイバーが答える。
あれほど無力なマスターを背中に庇いつつ、慎二から距離を取りながら戦っていたライダーが、ここに来て急にマスターの近くに戻った。何かあるとみていい。セイバーの警戒は最もだ。
「すみません、マスター。ここは撤退します」
そうライダーが言ったかと思うと、一面赤かった視界が元に戻っていく。結界を解除したらしい。窓の外も、いつも通りの学園の風景がに戻っていた。
「おい!何勝手にやってるんだよおまえ!まだ負けてないだろう!ちゃんと戦えよ!」
慎二がそう怒鳴っているが、これはあまりにも状況が見えていない。ライダーの選択は正しい。でもセイバーはいつでも斬りかかれるところに居る。衛宮君なら見逃すかもしれないが、私やセイバーはそれほど甘くはない。なのに、ライダーのこの余裕は一体何なのだろう。それが分からないから、セイバーも踏み込めずにいる。
「行かせると思いますか?」
「いえ、行かせていただきます」
そう言うが早いか、ライダーは自らの首元に杭をあて――――――――、
「――――――」
衝撃であった。
皆が無言で固まる中、そのまま杭で、自分の首を貫いた。あれほどの血の量、決して無視はできない。現界を保っていられなくなるような行為を自らやるとは――――!
ライダーは鮮血をはきだし、黒い衣装と対照であったはずの白磁の首筋は、紅く染まっていく。
「な、何やってんだおまえ――――!」
慎二の叫びが聞こえる。確かに慎二からの魔力供給はできない。でも、ライダーがここでこの行動をとった意味は必ずあるはず。
待て――――。ライダーは、これほど強大な存在であったか。鍔迫り合いを演じていた時はセイバーよりも少なかった魔力量が、あれだけの血を流しつつもセイバーのそれより多くなっている――――!?
さらには、逆転の一手。なら、考えられるのは一つしかない。結界を解除した魔力、それを使ってライダーは宝具を解放しようとしている!
ボタボタと夥しい量の血が流れる。それが床に落ちることなく、ライダーの前に陣を描いていく。一撃離脱と自らが弾になっての破壊力を持つであろうソレは、この狭い空間では躱しきれない!
「不味いわセイバー!下がりなさい!」
描かれた魔法陣は、まるで心臓のように胎動している。それに呼応するかたちで一気に風が吹き出す。台風みたいなそれを、士郎を守りながら避けることは難しい。
今から斬りかかっても、ライダーの宝具に飲まれるだけだ。ならセイバーは下がるしかない。士郎はまだ動けない。なら、アヴェンジャーに頼むしかない。
「頼むわ、アヴェンジャー!セイバー、こっちはなんとかする!」
「分かりました!リン、貴女も伏せて―――――!」
それに従った瞬間、耳をつんざくような轟音と、目を閉じていても白く感じるほどの閃光が一気に押し寄せた。視界は無い。でも、この身に感じる暴風で、ナニカがすぐ脇を通って行ったのが分かった。
「―――――――」
長く感じた烈風ともいうべき余波がようやく止み、パラパラと破片が降る音が聞こえてくる。どうやらもう大丈夫のようだ。そう思って顔をあげると、そこにあったのは無残な廊下の跡だった。ライダーが通り過ぎて行った衝撃波で、私たちが居たところ以外の、左右の壁はもちろん、床から天井にいたるまで亀裂が入り、抉られたような跡が残っていた。
慎二とライダーの姿はない。どうやら、ライダーは逃げることを優先したようだった。
「立てるか、マスター」
そう言って、アヴェンジャーが手をさし伸ばしてくる。士郎も無傷、私も痛いところはなかったけど、この校舎の有様を見てしまうと、コイツが守ってくれなきゃどうなっていたか想像したくもない。
「ありがと、助かったわ」
手をのせると、ゆっくりと引き上げられていく。でも、片膝立ちになったところで、もう一つの足がついて行かなかった。
「あ――――」
膝が持ち上がらず、そのまま崩れ落ちる――――ところをアヴェンジャーが支えてくる。脇に手をさしだされ、向かい合って抱き合っている形になった。私は今、彼の胸の中に顔をうずめている。――――恥ずかしい。布ずれでくすぐったい鼻腔から、かすかに柑橘系の臭いが漂ってくる。それがどれだけ密着しているかを知らせてきて、よけいに心臓が早鐘を打つ。大丈夫だから、と言おうとして、先を越されてしまった。
「無理をするな。まだ座っているといい」
「あ、うん――――――」
そのまま私が腰を落ち着かせると、アヴェンジャーは霊体化して消える。柑橘系の残り香は、とうに消えてしまっていた。――――この感じが、なぜかむかむかする。
「リン、ご無事で」
もう危険は去ったと判断したのだろう。元々私があげた服が千切れてしまったセイバーは、依然青いドレスのままだったけど、騎士甲冑は解除していた。
「ええ、助かったわ。あれが私たちの方を向いていたらまた結果は違ったでしょうけど。士郎も無事だし、結界も無くなった。ライダーの実力も把握できたし、上々でしょうね」
「はい。あの宝具は確かに厄介です。が、ここで使ったことを見ると、発動までに時間がかかるようですね。発動させることのないよう剣技で立ち向かえば、私にも十分利がある」
「そうね…。あとは士郎が起きてからにしましょうか。一度戻りましょう」
「はい、リンもお疲れ様でした」
「ええ、貴女もね、セイバー」
そういって、目を閉じる。少し休憩したら、家に帰ろう――――――。
◆
「どういうつもりだライダー。おまえ、僕に何も言わずに勝手に行動しやがって。衛宮のサーヴァントもろくに倒せないで、何やってんだ!せっかく張った結界も無駄になったじゃないか!」
「すみません、マスター。ですが、あの時はああするしか―――――」
「いちいち僕に口答えするんじゃない!いいか、おまえは僕のサーヴァントなんだ。だまって僕に従ってればいいんだよ!いいか、絶対衛宮のサーヴァントを倒すんだ。今日、なんなら乗り込んでってもいい。あの生意気な女を衛宮の前で嬲り殺してやるんだ。そうすれば衛宮だって分かるはずさ。僕の方が優秀なマスターだってね!」
男の怒号。それを従順に聞くしかないライダー。二人の身長はほぼ変わらないのに、間桐慎二の方が小さく見えるのはどうしてだろうか。わめき散らす慎二をなるべく視界に入れないように、ライダーは考える。あのセイバーを倒すにはどうするべきか。近接戦闘は、あの最優と名高い剣の英霊にはかなわない。パラメータは軒並み自分の方が低く、有利なものは自身の持つ宝具しかない。なら、それを使うだけの場所を整える必要がある。人目につかず、尚且つ遮蔽物がない空間。となると、冬木市の中央にあるあの公園、またはセンタービルの屋上などはどうだろうか。遮蔽物がない、空に開けた場所ならば、自分の騎乗兵としての力を発揮できる。
「おい、聞いてるのかライダー!今夜もう一度、衛宮を倒しに行くぞ。さっきあれだけの事を仕出かしたんだ。負けたらただじゃおかないからな!」
…なにをバカなことを、とライダーは思う。負けたら自分は消滅し、マスターである慎二は殺される。先の戦闘で、どちらも格上のマスター二人から逃げられただけでも僥倖だというのに。
だが、それでも彼女は願いの為に召喚に応じた。当然聖杯にかける願いもある。先は見えないが、だからと言ってあきらめるわけには行かない。
「かしこまりました。では、決戦は冬木中央公園か、駅前のセンタービルで行いたいと思います。あれならば、我が宝具の十全の力を発揮できるでしょう」
「ふ、ふん…!すこしは考えてるようじゃないか…。いいさ、それで負けたらただじゃおかない。最後のチャンスぐらいは僕もあげるよ」
彼女はただ頭を下げる。このマスターには何も求めることはできない。自分の力で状況を打開しなければならないのだ。
眼帯で覆われた視線は、視えないにもかかわらず鋭いものを感じさせられる。それは決意の証――――――。
◆
「――――――――――あ」
あたたかい。一定の規則で揺り動いているそれに、最後に触れたのはいつだったか。記憶の糸を手繰り寄せているけど、おぼろげな意識では掴むことはできなかった。
「――――起きたか、マスター」
すぐ耳元でアヴェンジャーの声が聞こえてくる。それではっきりした。少し休憩するつもりが、眠ってしまっていたらしい。遊び疲れた子供の様に、私は帰り道をおぶってもらっていたのだ。
「ん――――ごめん、もう降りる」
不覚にも、父の顔を思い出す。決して甘やかしたりはしなかったけれど、それでもこうやって時々可愛がってもらったことはあった。頬が熱くなるのが分かる。これ以上、この恰好を続けているわけには行かない。アヴェンジャーが足の支えをとくと、私はすぐに飛び降りた。
夕暮れを歩く。士郎の家はもうすぐそこだ。その家主は、従者の少女に背負われたまま、すうすうと寝息をたてている。あのセイバーをこんな風に使うなんて、降魔を研究している魔術師なら卒倒モノだろう。まぁでも、士郎も頑張っていたし、これ位は許してあげてもいいのかも知れない。
「リン、もうよろしいので?」
大の男一人背負っているのに、セイバーには疲労は感じられない。大丈夫、と手を振りながら返すと、そうですか、と彼女は柔らかく笑った。
四人で武家屋敷の門をくぐる。セイバーと士郎、次いでアヴェンジャー、最後に私。夕日が照らすその光景は、聖杯戦争とは思えないほど平和で―――――――。
こんなのもいいのかも知れないと、本気で思ってしまった自分がいた。
◆
夜。厚い雲に覆われた空には、浮かんでいるはずの月も星も見えない。
冬木の街の深山町。その中にひときわ大きな家があった。昼間でもカーテンがかかり、ツタが生えたサンテラスを有し、人気のほとんどないその家は、遠坂邸と並んで近所の人に不気味がられる存在であったが、その噂に違わずこの間桐邸も、また魔術師のすみかであり工房であった。
今の時間では締め切られたカーテンの隙間から人工の光が漏れている。ただ、電気がついているのにもかかわらず、その家の中には人の影は見られない。その中に居るべき人間はこの冬の夜を出歩くべく、身支度を整えて繰り出そうとしていた。
「行くぞライダー。公園に来たら、桜の名前でも使って呼び寄せれば、衛宮は一人で来るはずだ。それぐらいは僕がやってやるよ。あとはライダー、おまえにあのサーヴァントを倒してもらう。あれだけ豪語したんだ。絶対にやってもらうからな」
男の声に、闇にまぎれた女が頷く。この冬の夜に、コートを羽織ることもなく両肩は丸だし、短いスカートからあふれる太ももは見ているほうが寒そうである。それを一瞥した男は、さも面倒くさそうに歩き始める。
「ふん。僕も暇じゃないんだ。さっさと行くぞ、ライダー」
歩き出した慎二の後を、ライダーは霊体化して追いかける――――つもりであった。
「マスター!」
濃密な死の気配に、ライダーが叫ぶ。今日相対したセイバーの何倍もの殺気と、溢れでる魔力。ナニカがこちらを狙っている。思わずライダーは首筋を確かめるように触れた。
ほとんど無意識に鎖が付いたダガーを取り出す。銘も入っていないただの短剣だが、無でよりはましだ。
どこから来るのか。だんだんと死の気配が近づいてきている。
目はまだ見えない。だが瞬きすらも今は恐ろしい。その一瞬でも視界を閉じることが怖い―――!
確実に死神の鎌は首にかかろうとしている。いやもうかかっていて、後は引かれるだけなのか。
雲は厚く、月明かりはない。
相手の姿は見えないのに、ナニカがやってくる―――――――!
今感じている殺気だけで、自分が無残にやられる想像しかできない。
「―――――」
見たくもないのに、ライダーは自分が死んでいる姿を幻視してしまった。首を落とされ、はらわたをぶちまけられ、四肢は折れ曲がり、欠けている―――――。
「急になんなんだよライダー。いきなり叫んで――――」
間桐慎二が視線を向けてくる。相変わらず生理的には受け付けたくない類のモノであるが、今はそんなことに構っている暇はない。
「敵に狙われています、マスター。一度切り上げて家に戻りましょう。魔術的な工房である間桐邸ならば、敵もそう簡単には手を出しては来れない―――――!」
自分だけでも逃げたしたいのを何とか押さえつけながら、この偽りの主を促す。だが、本来魔術師ではないこの男には、これほどの殺気すらも感じ取れないらしい。自分はこんなにも手足が冷え、背中にはじっとりと冷や汗がつたっているのに。
――――――殺される。
ライダーにはそのイメージしか感じられない。何を、どうあがいたところでそうとしか思えない。今迫ってきているコレは、仮にも英霊であるこの身を以ってすら、なす術なく蹂躙されるほか無い――――――――。
「すみません、マスター!」
もはやなりふり構ってなどいられない。廃れ気味にある間桐邸も、この暴力の前では要塞とは機能しないのではないか。最後、彼女に残された抗う手段は一つしかなかった。
「来なさい――――!」
その掛け声とともに、雲に隠れた白き月が、地上に現れた。
純白の毛並をもつ、伝説上の『神秘』。翼をはやした牝馬が、そこにはいた。ライダーはそのまま、慎二を小脇に抱えて天馬の背にまたがる。なにか叫んでいるが、この脆弱なマスターに説明している余裕はない。一刻も早く、空に駆けあがらなければ、自分の命はない―――!
主人の焦りを感じ取ったのか、天馬は大地を強く踏みしめる。翼は羽ばたき、揚力を得た姿は跳躍を開始した。
これで―――――。神秘を操る騎乗兵の領域に、ようやく達しそうであった。空をかけるのは、生身の人間には到底不可能である。何かに乗ろうにも、ライダーのクラスは自分ひとり。空まで届く刃など、本来ならばありはしなかった―――――――はずであった。
「――――――」
白き閃光が、地上の月を斬った。煌めいたそれは、自身が操る天馬のものではない。もっと獰猛で、もっと飢えた肉食獣のモノ。
――――痛みは感じなかった。閾値を超えてしまったのか、激痛が襲うことは無く、ライダーは自らの敗北を悟る事すらなかった。
それどころか、幸福さえ感じたのだ。殺気は消えていた。あれほどの恐怖、見えない暴力に恐怖する必要はもうないのだから。
鋭い剣のような、それでいて万力のようにえぐり取られた首。史実と同じ、完全に胴と頭を分断されたのでは、驚異的な回復力も無意味。
自身の主を失った天馬が嘶く。
「あ―――――」
間抜けそうに首が取れた胴を見つめる男の顔と、風が運んできた獣くさい中の微かな柑橘類の香りが、ライダーが認識した最後の情景だった。