「――――――よく、生きて帰ってきた。そう言うべきなのだろうな」
「別にいらないわ。アンタが本気でそう思ってない事くらいわかってるもの。それより、アレのことなんで黙ってたの。あんなのいたら、聖杯戦争なんてやってる場合じゃないじゃない」
男の無機質な眼は、紅い少女を捉える。ただ、そこにはなんの感情も浮かんではいない。
「ふむ。しかしそうは言うがな。すでにこれは私とお前だけにとどまる問題ではなくなっている。幾らこの聖杯戦争が、魔術師の中では特に広く認知されてはいない物であるとはいえ、聖杯が万物の願望器であることを謳っている以上、そうやすやすと見過ごすことはできん。既に『弓』を通じ、埋葬機関と連絡を取っている。近く、冬木に来るそうだ。いや、既に来ているのかもしれんが…そもそもだ」
そこで、神父服に身を包んだ言峰は言葉を切る。それに凛は不穏な空気を感じ取った。借りてきた猫のように、目を細めて師弟関係を結んだ相手を睨みあげる。その弟子の反抗的な態度に、言峰はこれみよがしに溜息を吐いて見せた。
「何よ」
「そもそもだ。私はお前の家に電話を入れたし、留守電も残した。確認を怠った君のせいではないのかね。呼び出したところで応じることも無く―――――」
「ああ、もう!分かったわよ!私が悪いんでしょう!…まぁ、聖杯戦争の参加者である以上、そう何度もここに来るわけにもいかないしね」
然り、と言峰はうなずく。神父にねちねちと小言を言われていた少女はそれを力づくで破るだけの元気はあったものの、それも終わると、普段の優雅な姿からは想像できない程の疲れ果てた表情を浮かばせていた。
「だがもう、そうなってしまった以上、それを気にすることはない。今日から此処に寝泊まりするかね」
神父は依然として無表情のまま、凛の右手を見やる。正確には、右手があった場所、ではあるが。
「冗談言わないで。夜が明けたら帰るわ」
「そうか…。だが凛、連絡は取れるようにしておけ」
そのまま神父は礼拝堂の奥へと戻っていく。気を利かせたのではなく、単に興味を失っただけであろうと、遠坂凛は考えた。
「ハァ――――」
やけに重いため息が出たと、自分を嘲笑する。渇いた笑いが口から漏れ出るだけのそれは、すぐに消えてなくなった。彼女の状態はひどかった。連日の酷使によって魔術回路は悲鳴をあげ、令呪を納めていた右腕は、空虚な袖がだらしなく下がっているだけだ。彼女の体は、なまじ優秀な分、無理がきく。その反動が軋みとなって、彼女を一気に襲っていた。
「さすがに、これは効くわね―――――」
唇が自嘲で吊り上る。文字どおり半身を失って、闘志の火をガンガンに燃やしていた体は、冷え切った炉と化していた。
◇
アルトルージュ=ブリュンスタッドにとって、その日は本来なら喜ぶべき日だったのかもしれない。いや、喜ぶべきことであったのだろう。だが、千年城へ『帰還者』は舞戻らず。たった一人訪れた歓迎するべき『来訪者』は、彼女にとっては怨嗟の対象でしかなくなった。
最近ではめっきり外出が減った彼女の兄は、それでも時々どこかへふらっと出かけることがあった。一度外出すると、2~3か月は帰って来ない。しかし、よほど彼女の涙が堪えたのであろう。前のように何年も何十年も彼女を置いていく事はなくなった。
彼女自身も、良く外へ出かけた。とは言いつつも、彼女の身体は昼の光に耐えうるものではなかったので、夜限定である。自然、星も眠りに入るこの時間は闇の住人たちの活動時間でもあったが、そんな血なまぐさいモノを見るよりも、兄が持ち帰る話の方がよっぽど彼女には面白い物だった。
だから――――――。
『彼女』が一人で来たのも。
自分の退屈を紛らわすための、兄の気遣いだと思ったのだ。
「あら…。良く来たわね。兄から聞いているわ。私と違う、『純血種』さん?」
文面だけでは刺々しく映るこの言葉も、彼女は決して嫌味で言ったわけではない。ただ、兄は自分の事を真祖だから、最も優れたブリュンスタッドだから、家族と呼んだわけではないのだと。彼女が愛する兄と結託したこの妹分に、ちょっぴり嫉妬をのせて伝えただけだ。
「そうかたくなることは無いわ。ここは兄様のお城ですもの。城主に許可された者を私が拒めるはずないでしょう?」
そうは言いつつも、この状況を客観的に見たら説得力のカケラもない事に気が付いたアルトルージュは苦笑する。一段と高いところにある本来の主が座るべき玉座に座り、そこから紅いカーペットに立つ妹分を見下ろす自分。兄が帰って来ない100年以上もの長い間、その玉座には少女が座っていたのだ。もはや、アルトルージュにとっては座り慣れたもの。普通なら絢爛豪華なはずの玉座も、それほど煌びやかではなく、むしろ玉座としては質素な方という事もあって、『すっぽり収まっている』などという表現は既に似つかわしくなかった。それどころか、知らない人が見たら、本当に少女がこの城の主であると玉座が受け入れているかのような印象すら抱くほどだ。
そして、そんな振る舞いと言葉は、彼女が兄を、この城を理解していることの誇示の現れ。
聞く人が聞けば微笑ましいものに映るだろう。しかし、それを感受するだけの機能を真祖の姫君は持ちえないはずだった。
殺戮兵器として生み出された彼女には不要な物だったから。
だが兄から最後に与えられた贈り物。
それを受け取ったアルクェイドは否が応なしに理解してしまう。
どれほどの信頼関係が、無償の愛が、二人の間にはあるのかを。
もはや立っていられることはできなかった。血を思わせる紅い絨毯も見たくない。頬をつたう泪がこぼれて床を濡らす。
兄がいる胸が暖かいのだ。それがどうしようもなくて、嬉しくて、つらくて、目の前の姉に何を、何と言えばいいのか分からなくて。
感情を発露させたばかりの彼女には、次から次へと浮かぶ気持ちが処理しきれなかった。
アルクェイドは崩れ落ちたまま、汚れたドレスを抱きしめる。新雪のような純白のそれを、絨毯と同じ色に染めあげたのは兄の命。自分の腕が彼のお腹を貫いた時の、あの何とも言えない生温かさと柔らかさが、今も腕に染みついている。白磁のような肌が、血塗られた赤に染まっているのを幻視した。
「あ―――――――あっ―――」
もういないのだ。それを理解してしまった。そして、目の前の少女との再会も、二度と叶わないのだ。
「―――――――さい」
「―――んなさい」
壊れたレコーダーのように言葉を発するアルクェイドを、訝しげに見やるアルトルージュ。彼女には、妹が何を謝ってるのかがわからない。だから問う。どうしたのか、と。それでも、アルクェイドはただ同じことを繰り返すだけ。
「――――なさい、――――――めんなさい、ごめんなさい―――――!」
―――まるで世界を知らない子供のように。その身体を振るわせて。真っ赤になるほどに、ドレスと自分自身の肩を抱いて。ぽろぽろと涙を流しながら頭を垂れる。まるで罪人のように、―――――断頭台に首を差し出すように。
アルトルージュはわからない。どうしてここまでアルクェイドが怯えるのか。長い金髪を振り乱して取り乱す様は、まるで兄が泣きわめいているみたいに見えて、アルトルージュは嫌だった。
「立ちなさい。謝ってばかりでは分からないわ。ゆっくりでいいから、何があったのか言いなさい」
玉座から降りて、階段を下る。ゆっくりと優しく近寄り、手を差し伸べる。自分を見上げる、兄によく似た妹の、その赤黒い血糊がついた頬を優しく撫でた。安心させるように、ずっと昔、兄が自分にそうしてくれたように。
しかし、そのアルトルージュの行為でさえも――――いや、その行動が―――アルクェイドにはリシュアンが消えていくときの事を思い出させる。そして、アルトルージュの手が慈しみに溢れていることがアルクェイドの心を穿った。自分はこのような手をさしのべてもらえる人間ではない。そして、彼が死ぬ間際でも、自分に手を差し伸べてくれた、あの暖かさを。この少女から奪ってしまったのだ。
「―――――ないんです」
ならば、伝えなければならない。この少女の、兄は、もう帰って来ない事を。
「―――なあに?」
この、むけられる笑顔が、憎しみに変わる事を、どこかで望みながら。
「あなたの兄は、兄さんは、死にました――――。もう――――この世に居ないんです」
視界がぼやけるのを、それでもかまわずに、アルクェイドはアルトルージュの顔をみてしっかりと口にした。
「あら―――。そう、兄さんに言われたの?私を脅かすように?そうね、すっかり騙されちゃったわ。だって貴女のこと、無表情のお人形さんみたい、って兄様は言ってたのよ。それで?兄様はどこ?貴女も、そんな真面目になる必要はないのに―――」
今度の言葉は、しっかりと伝わった。いや、伝わったけれども、正しくは伝わっていなかった。アルトルージュは一瞬、きょとんとしたものの、すぐに笑顔に変わる。自分より下の、兄のいたずらに付き合っているであろう妹に。もう良いのだ、と。こんな性質の悪いいたずらをしてきた兄を、どう困らせてやろうかと、甘えてやろうかと考えながら、何も知らない妹に対して演技をやめるように言ったのだ。
「――――――兄さんは、私を守って―――死にました――――」
それでも、アルクェイドは演技をやめない。だが、アルトルージュは信じられない。彼の兄は、最強なのだ。規格外の真祖なのだ。この世において、あの兄を倒しうるのはあの創造主と最近姿をめっきり見せなくなった宝石翁以外に居ない筈なのだ。
「ねぇ?もう演技はいいの。おしまいよ。―――兄様もどこかで聞いているんでしょう?いい加減に出てきて―――――」
「兄さんは、わたしのせいで、死にました」
真っ直ぐと。涙をあふれさせながら、こちらを見る紅い視線に、アルトルージュは悟ってしまった。この子が言っていることは嘘ではない、と。
ガラガラと、少女のなかで崩れ落ちていく音がする。死んだ――――。あの兄が。真祖の吸血鬼たるあの兄が死んだのだ。その事実を突き付けられた少女は、とたんに目の前が暗くなる。今彼女の目がうつすのは、血に濡れたアルクェイドだけ。
「まさか―――――その血、兄様のじゃないでしょうね――――?」
その問いかけに、金髪が、一度小さく縦に振られた。
その答えに、彼女の血が沸騰する。いつもは不安定だった力が、どこから来るのかと言うくらいに小さな四肢を暴れまわる。それを押さえつける理由が、彼女にはなかった。
――――――兄が死んだ。
どうやらそれは確からしい。
―――――なぜ死んだ?
この女は『自分を守ったせい』だと言った。
――――それは確かか?
彼女の服の血は、兄のモノだと言った!
主の怒気に感化されたプライミッツがアルトルージュの隣に並ぶ。主が敵と定めた獲物を、蹂躙せんが為に。
「下がりなさい、プライミッツ」
それを、アルトルージュは後ろに追いやった。この女は、自分が処理しなければならないのだ。そうしなければ――――。
「―――――殺したのか、お前が」
氷のようなアルトルージュの声。先ほどまでの、優しさは、とうに霧散した。
「はい――――。兄さんは私が―――――」
それだけ聞ければ十分だった。アルトルージュにとって、今は兄を思わせるスラリとした高身長も、流れるような金の髪も、あの女の全てが憎かった。
「お前が―――――あの人を『兄』と呼ぶな―――――!」
感情が爆発する。力の奔流がこれ以上なく体に馴染むのが分かる。アルトルージュにとって、この後の自分はどうなってもよかった。ただ、内からあふれるこの怒りを、アルクェイドにぶつけなければならなかった。
「どうして―――――!」
拳を振るう。それをアルクェイドはただただ受け入れる。
「――――ごめんなさい――――」
その口からは、謝罪の言葉がでるだけ。痛みに必死に耐えながら、自分が犯してしまった過ちの代償を受ける。
「どうしてあんたなんかが――――――!」
「ごめんなさい――――」
「あんたなんかのために―――――!
「ごめ――――ん、なさい、っ――――」
一方的にアルトルージュが殴り、蹴る。アルクェイドは何もしない。出来ない。だってこれは当然の仕打ちなのだ。彼女のたった一人の家族を奪ってしまった『痛み』は、こんなものじゃない。だから――――
「ご――――めん、な――さい――――」
ひたすら謝ることしかできない。頭を下げて、結果的に首を落とされることになろうとも、最後まで彼女に謝らなければならないのだから。
◇
そうして、どれだけの時間がたっただろうか。玉座の間には、ぼろきれの様に地面に転がるアルクェイドと、その横で崩れ落ちたアルトルージュがいた。
「本当に、いなくなってしまったのね――――――」
紅い瞳を、涙で腫らしたアルトルージュがつぶやく。他にだれもいない玉座の間では、はっきりとその独り言が聞こえた。
「―――はい」
――――――私のせいです、と。アルクェイドは答える。ヒュウヒュウと息は切れ、声は掠れている。それでも、アルトルージュにはしっかりその声が届いた。
「消えなさい――――」
そのアルトルージュの言葉で、身体を起こそうとしていたアルクェイドの顔が、ゆっくりとあがった。うつろながらも、困惑に揺れる目で自分の生殺与奪を握っている少女を見る。
「もう、消えなさい。二度と、顔も見たくない――――」
吐き捨てるように、それでも何かに耐えるように、少女が言う。その言葉に、アルクェイドは従った。もとより、彼女に自由は無いのだ。彼女自身が放棄したのだから。
「は、い――――」
よろよろと、痛みに体を引きずりながら立つ。足取りはおぼつかない。それでも、倒れるわけにはいかないのだ。彼女の今すべきことは此処から出ていく事なのだから。
目は霞み、足は体重を支えるだけで精一杯。油のきれた機械みたいに緩慢な動作。これではいけない、また怒らせてしまう、と彼女は思いながらも、それ以上の速度では歩けなかった。
アルトルージュはその後ろ姿を見る。時々膝が折れて倒れこみそうになるけれども、無理矢理に連れ出そうという気にはなれなかった。ただ、その後ろ姿が、その腰まで届く金髪が、どうしても少女に兄を思い出させるのだ。あれを、あの女が持っているのだけは。まるで、兄がボロボロの敗残兵みたいに、自分から遠ざかっていくような今の光景だけは、我慢が出来なかった。
「待ちなさい―――――」
その声に、アルクェイドの動きが止まる。そして、かけられたほうへ振り返ろうとするのを、アルトルージュは更に止める。
「こちらを向かなくていいわ―――――。最後に、これだけさせてちょうだい――――」
そうして、アルクェイドの髪を、切り裂いた――――――。
玉座で、すすり泣く声が聞こえる。
―――――少女には、いくら憎くても、彼女を殺すことが出来なかった。
だって、兄が命を賭して守ったモノだったから。
それが、自分じゃなくて。知り合って間もない妹の方で。
それが悔しくって、兄に怒りたくて。
『自分を愛していないのか』と聞きたくて、そういうことを考える自分が嫌になって。
もう笑いあうこともない事を改めて知って―――――――。
――――自分が、何の力も無い少女でしかなかった事を知って。
すすり泣く声が、聞こえる―――。
それをあやす者は、もういない―――――。
◆
―――――世界が色を失ったのは、一体いつの事だったのだろうか。第二の生ともいえるこの人生を謳歌することに涙した日は、遥か遠く薄れゆく記憶に埋没しかけている。
自分が人であったことを知る者は自分以外にはいなかった。それを話す『誰か』はおらず、また人ならざるものへと変わったあの日、絶望を抱くには欠けるほど、目に見える変化は少なく、またあまりにも人間に酷似した姿だったから。
「――――ぃ様」
遠くで自分を呼ぶ声が聞こえる。それは優しくあたたかい少女のもの。それを聞くことは、二度とかなわない願いではなかったか―――――――――。
瞼の裏の白さに、意識が次第にはっきりしていく。声が聞こえてくる。それは、自分がこの世から消えても守りたいと願った少女のもの。もしこれが幻聴だったならば、このままずっと微睡にとろけていたい。仮初の命を授かるこの時まで、人の身では朽ちてしまうほどの永い時を、幻想を見ることもなく過ごしてきたのだから。これが擦り切れた感情のわずかな残滓によるものであったなら、まだ自分の中に確固とした自我があるのだと―――――そんな他人事のようにごまかすことしかできないでいる。
きっと目を開けたなら、この声は消えてしまうのだろう。たとえどんなに強い真祖の力を持とうとも、自分はこの少女とともにあることが叶わなかったのだから。結局のところ、どんなに空想を具現化できても、たとえ星最強の原初の一の力を持ち得ても、この身は一つしかなかったのだ。救えるのは、究極的には一つしかなかったのだ。
決して自分はその時の判断を、間違ったものだとは思っていない。思いたくはない。それも自分のエゴだ。結果として置き去りにしてしまったこの女の子からどう思われるのか、彼女を泣かしてしまったのだとしたら、彼女に怨嗟を浴びせられるだろうか。嫌われただろうか。
―――――――それを知るのが怖いから、目を開けたくなかったのかも知れない。
身体を揺り動かしてくる腕は、本物だ。きっと少女ではない誰かが、それでも誰かが、この俺を必要としているらしい。業を煮やしたのだろう、一層強く揺すられたせいで、固く閉じていた目を開いてしまった。自分の紅い虹彩が、光を取り込んでくる。強い白い光。目の前が真っ白になって、徐々に世界が色を帯びていく。一番最初に見えたのは烏の濡れた羽の様な黒。そして、宝石みたいな泪をいっぱいにため込んだ紅い瞳。
あぁ―――――、一体どれほど、俺は彼女を泣かせていたのだろう。
見間違いじゃない。
夢ですらない。
確かにこの身には、少女の重さと、暖かさがのせられているのだから。
それは、擦り切れた記憶の中で、今でもはっきり覚えている、少女のもの―――――。
おそくなりました。
何してたの?という方は活動欄で。