自分が自分であることは、如何にして証明するのか。それはいつの時代も人を悩ませてきた。かのデカルトは『我思う、故に我有り』などという言葉を残した。古代の中国では、胡蝶の夢という逸話も残る。
自己を自己としての認識。他者の認識に囚われた自分。存在の証明は、その『思考』から疑わなければならない。
仮に――――。魔術的な事を考えると、人は誰しも『起源』を持つ。それは魔術を扱うものにとっては切って離れられないモノではあるけれども、『個人』が希薄で、神秘が薄れた現代社会では、認識していない人間の方が多い。
魔術師はその神秘の秘匿から、世の中を排斥することが多い。しかし、それでも世の中からは隔絶されない。いかに魔術師であろうと、他者とのつながりは少なからず存在する。
魔術師は、『 』への到達を目的として生きる。それが絶対の存在価値だ。決してその身では届くことは無いと悟っても、次代、またその次代には至れるのだと信じて。その価値は『家』によって齎され、脈絡と受け継がれる血の為に自身を機械の部品のように扱う。
神秘を淘汰し、科学という未来を求める一般人には到底理解のできない価値観であろう。彼らにはその果てに幸せがあるとは思えないからだ。
だが、魔術師のそれは、人が生きた証が確かに残るものだ。血の継承は、その家の記憶に、魔術回路に、歴史に刻まれる。そういった見方をすれば、生まれた意味を持っているという点で魔術師はある意味『楽』な生き方であるし、『幸福』なのだろう。
ならば――――――。
生まれた意味を持たず、それを知る事から始めなければならず。自らとは何かを常に疑いながら、そして、たいていの場合有象無象に埋もれてしまう人間は、何の為に生まれて来るのだろう―――――。
◆
煌々と、白に輝く月。見上げればそれが、まるで黒く覆われた天井の欠けたところのように目を引く。ともすれば毒々しいあの星は、真祖を生み出した朱い王の領域。凍えるとまではいかないものの、張りつめたような空気が、私と士郎を包み込んでいた。
教会からの帰り道。私たちはあの黄金のサーヴァントの存在を報告するために、綺礼の処を訪れていた。セイバーから語られた、10年前の真実。マスターたちによって召喚されたセイバーと、あの金ぴかアーチャー。そして、二人が最後に聖杯をかけて争ったらしい。
英霊がサーヴァントとして呼び出された後は、そのまま消滅するのが普通だ。英霊の座に帰ることも無いのだから、記録は残ったとしても記憶は残らない。だが、あの金ぴかはセイバーの事を覚えていた。それはすなわち、10年もの間、冬木のセカンドオーナーである私にその存在を知られることなく現界し続けていたという事。あんなデタラメな存在感のアイツをこの世に留まらせ、尚且つ私から隠すなんてことを可能にするには、聖杯戦争に生き残ったマスターか、それを知る魔術師が居なければならない。
結果は、監視役の綺礼ですらもその正体を掴んではいなかった。冬の夜道を、私たちは何の実りのないままに歩く。わざわざ丘の上の教会まで足を運んだのに空振りだったから、私の心はすこしささくれ立っている。
そんな荒んだ心すらも癒す様な月の光に浄化された夜の世界。聖杯戦争中で無かったなら、私はいつまでも立ち尽くして浸っていただろう。
「そう言えば、最初の夜もこんな感じだったよな」
私の横を歩く衛宮君が、そんなことを言ってくる。私の、私たちの聖杯戦争が本当に始まったあの日。アヴェンジャーとの契約、ランサーとの戦闘、そして、まさに数日前のここの場所で襲ってきたバーサーカー。たった数日なのに、いろんなことがありすぎてもう何か月も前の事に感じる。
霊体になれないセイバーと、私と衛宮君。あの時と違うのは、セイバーが鎧に黄色の雨合羽などというふざけた格好ではなくて私があげた服を着ているのと、姿が見えないもう一人が本当に居なくなったこと。
もう、アヴェンジャーは帰ったのだろうか。妹とは上手くやっているのだろうか。彼らは死徒だ。人としての枠組みを超えた超越者。私のように余計なしがらみなんかに囚われる事はない。
――――――そういえば、桜はどうしているのだろう。
学校の結界は消えた。それはすなわちライダーは敗北したということだ。同時に間桐の家は既に敗退したという事になる。もう桜が聖杯戦争にかかわることは無いはずなのだけれど。シロウの家で突き放して以来、私の前に姿を現さなくなった。それでも何日かはシロウの家に来ていたみたいだけど、それもなくなったらしい。
「――――ぃ、遠坂?」
「え?」
いつの間にか、自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。シロウからの声に反応できていない。無防備もいいところだ。今は思い出に浸っている暇などない。今はあの黄金のサーヴァント以外にも、この冬木は死徒が徘徊する人外魔境と化しつつあるのだから。
それを追いかけてきた教会の先兵たる埋葬機関の人員も、綺礼の処に顔合わせに来たらしい。彼らが出てくることこそ、この街の人間がいかに危険にさらされているかの証だ。
「やっぱり数が合わないし、俺たちが会った事のないサーヴァントが一騎いるけど、まずはあの金色のサーヴァントに集中していいよな?」
「そうね…」
さらに綺礼は言っていた。教会の監視役には、サーヴァントが今何人存在しているのかを知る魔道具を所持している。
それが指すには、最初は7。そうしてすぐ8になり、昨夜までは5を表示していたらしい。そして今は3。つまりセイバーと金ぴかに、もう一騎のみ。だけれど、ランサーとキャスターが敗退したのは私たちは見ていたけれど、敗退したもう一騎はどのクラスか分からないし、そもそも7騎だと思っていたサーヴァントが8騎居た時点で、もう一騎私たちが知らないサーヴァントがいる。アヴェンジャーがやられたとは思えないけれど、それを知る手段は既に私にはない。もしアヴェンジャーが残っているとすれば、あのバーサーカーが敗退したという事になる。あの狂戦士も、ここで戦った後、一度も見ていない。私たちがキャスターと金ぴかを相手している時に、あの二人でつぶし合ったのだろうか。
しかし今はそれを確かめるために不確定要素を無為に探すよりも、目の前の脅威に対策を練ったほうがいいだろうと思う。アサシン陣営がこの戦争が始まってからずっと息をひそめていることも否定はできないのだけれど。
「あの金ぴかはセイバーにご執心だろうし、私たちはセイバーを失う訳には行かないわ」
セイバーはどことなく申し訳なさそうに小さくなっている。まあこの子が悪いわけではない。むしろあんなのに気にいられるとかご愁傷様と言ってやりたいぐらいだ。そもそもアイツを呼び出した前回のマスターは何を考えていたのだろう。あれだけ性格捻子曲がっていたら、たとえ令呪を持っていても手に負えないんじゃないだろうか。私のように、何の触媒か分からないまま召喚したわけでもないだろうに。
そうして、三人で人気のない夜道を歩いていく。
私たちの上には黄金の月が浮かぶ。まるでカーテンでそこだけ切り取られたかのようにひどく静か。教会へと続く道は、少なからず民家や開発によってできたマンションもある。深夜のこの遅い時間、それらの人工の灯りは月に屈したかのように消えていた。白い靄さえ出てくるような闇の世界は、まるで深海の底に建てられた、失われた死の都。衛宮君の家への帰り道。いつ金ぴかが襲ってきてもおかしくないのに、先ほどまでめぐらせていた思考は冷え、私はひどく落ち着いているのが自分でもわかった。セイバーも衛宮君も、何も言わない。かといって沈黙が痛いわけではなく、話さないのは、喋らなくてもいいから。
私たちはもう、ここまで進んできたのだ。
残ったサーヴァントは3騎。聖杯戦争の終わりは近い。
あの父でも掴み取れなかった聖杯戦争の勝者という肩書。それを私は取れなかった。でも、今はこの二人のそばで決着を見届けることができる。前回父が戦った戦争が、どこまで熾烈だったのか私は知らない。でも、私は決してそれに劣らないだけの綱渡りをしてきたと思う。
頭が澄んでいる。かといって、無用に高揚しているわけではない、と思う。逆に、すべてを上から見ているような、達観しているんじゃないだろうか。
―――――――坂の下に、誰かが居る。
ああ、またか。
士郎とセイバーが、横で警戒を始めた。
たぶん、大丈夫じゃない?
月光は美しく。
太陽の明かりほどにまぶしい月下。
それらがまるで人型をかたどったような、白い女性。その横には、学生服を来た男子。
なんだか、セイバーと衛宮君みたい。目の前に現れた二人を見ながら私は。
そんなことを、頭のどこかでぼんやりと考えていた。
『最後の真祖』アルクェイド=ブリュンスタッド。アヴェンジャーのもう一人の妹。彼女もまた、兄を求めてやってきたのだと、ひどく冷静なもう一人の私がこの状況をどこか遠いところで見ている。私にかなう相手ではない。セイバーでも、勝てはしないだろう。
だけど、なぜだろうか。
どう見ても、私たちと同じような男子が彼女のそばに居る。
「こんばんは。今日もいい月ね」
鈴が鳴るような、美しいハープの音色のような声が聞こえてくる。紅い瞳。縦に裂けた黒い瞳孔が、私を離さないと狙っている。私たちをここに縫い付けるような異質な敵意と、ほんの少しだけ、やっと見つけたおもちゃを眺める嬉しそうな子供みたいな目。
目的が分かっている分、アルトルージュ=ブリュンスタッドの時よりも幾分か気が楽だ。それでも、事態が好転するとは限らないのだけれど。ただ、アルトルージュの時もそうだったけど、彼らは自分たちのプライドがこの上なく高くて、私たち人間よりも義理堅い。そこをつけば、きっと躱せるのではないか。
それでも、ふざけたことはできない。間違う事もできない。私たちの生殺与奪は彼女が握っている。
「ええ。まさかこんな極東の地でお会いすることになるとは思いませんでした。真祖の姫君。私、この冬木の霊脈を管理しております遠坂凛と申します」
「―――――そんなに堅苦しくなくてもいいわよ。私、別に戦いに来たわけじゃないもの」
「そう?」
あまりにも拍子抜けした気安い態度に、思わず素で対応してしまう。
「へぇ。目の前に立っている私を『私』と認識した人間で、初対面でそんな態度をしているのは貴女が初めてよ。志貴だって、最初は逃げ出したのに」
そう言って、横の学生服の男を見る。きっと彼が『シキ』なのだろう。丸い眼鏡をかけた彼からは、魔力はおろかアルクェイド=ブリュンスタッドに気に入られるような『何か』を感じ取ることはできない。
「貴女にね、聞きたいことがあったんだ」
まるでクラスの友人が話しかけてくるような、陽気な声。超越種であることを忘れてしまうような、人間同士の表の世界の会話のよう。それにつられて、私は真祖の彼女に対して、普通の女の子だと、そう思ってしまった。
「なんでしょうか」
「兄さんの場所。貴女から、兄さんの匂いがするんだけど?」
「今の彼の行方は知りません。確かに私は彼の残滓ともいうべきモノを、降霊術によって現界させましたけれど。触媒は大師父シュバインオーグから齎された、彼の遺物を使用したわ」
「聖杯戦争ってやつのためにでしょ。シエルにこっぴどく言われたわ」
「ええ――――。しかし、彼は私のそばを離れました。今は貴女の妹と一緒じゃないかしら」
「そう―――――」
どくん。
なにか弾かれたように、空気が脈動したようだった。肌を刺すような大気の怒りは感じない。けれど、確かに場の空気は変わった。目の前の精霊は、ナニカを考えているように見える。何を考えているんだろうか。少し気安すぎただろうか。私には、それを知るすべはない。
「―――――分かったわ。貴女の腕がどうしてそうなったのもね。ありがと、凛。感謝するわ。二つの意味でね」
顔をあげた彼女は、スッキリとした笑顔だった。真祖の吸血鬼なんて、禍禍しい肩書が嘘のような、白百合が咲いた満面の。女の私でも、看取れるくらいの大輪だった。
「さてと。そこの面白い二人もお名前教えてくれるかな?私はアルクェイド、こっちは志貴だよ」
私の目の前にはただの綺麗な女の人が一人。毒気のない笑顔を見るに、本当にさっきの一瞬の空気の変化はなんだったのだろう。後ろの男の人は軽く会釈をしただけだったけれど。斜め後ろのセイバーがほっと息を吐いたのが聞こえてくる。どうやら今までずっと跳び出せるように準備していたらしい。
「初めまして。さっきも言ったけど、私は遠坂凛。で、こっちが衛宮士郎と―――」
「セイバーです」
士郎は私が前に教えた真祖のイメージと違いすぎるアルクェイド=ブリュンスタッドの態度に、どうしていいかまだ分かっていないらしい。私が代りに彼の自己紹介をすると、セイバーは自分から名乗った。
「うんうん。凛は面白い人を連れているね。そっちの士郎の魔術は珍しいものだし、セイバーは――――」
マリオネットの糸が切れたかのように、白い女性はそのまま動かなくなってしまった。紅い目が一瞬見開く。哀憫と、それを上回る激情。静かに、だけどふつふつとしたモノが私にも分かるくらい彼女を駆け回っている。
「貴女、中途半端ね。死ぬ一歩手前で一人
「良くはありません。だから私はここに居る。聖杯を勝ち取るために」
いつの間にか、鎧姿のセイバーが私の斜め前まで出てきていた。翡翠の目が、深紅の目とぶつかる。これほどまでにこの子が感情を出すなんて、セイバーにとっては譲れぬものを刺激されたらしい。
「ふうん――――。なら好きにするといいわ。行きましょ、志貴」
しばらくぶつかり合った視線を、もう興味を失ったようにアルクェイド=ブリュンスタッドは外した。そのまま後ろを振り向き、私たちとは別の道へ歩いていく。月光の中を歩いていくその後ろ姿は、まるで劇場のスポットライトを浴びたように際立って見えた。
「――――あ、おい待てよアルクェイド!…じゃあ皆さん、俺達はこれで」
それに置いて行かれまいと、シキは私たちに挨拶をして彼女を追いかけて行った。初めて聞いた彼の声は、やっぱり私たちと同年代の低くなりきっていない声だった。
嵐の様だった。やっぱり彼女も、アヴェンジャーを探しているのだろう。私が用いた触媒は、一級品の遺物だ。魔法使いのキシュア・ゼルレッチ=シュバインオーグは彼女とも親しいと言われているし、彼女にとって私の話は決して信憑性のないものではないだろう。もちろん、私は彼女に嘘を言ってない。
今日はもう帰ろう。いろんなことがありすぎた。後ろを振り返って士郎とセイバーを見る。
「さ、帰りましょう」
「あ、おう」
士郎からの返事。セイバーはうなずきが返ってきた。また再び士郎を真ん中にして、私たちは夜の世界を泳いでいく。さっきのやり取りの後から、セイバーの顔はまるで最初の夜にこの道を歩いたものとそっくりだった。でもそれよりも、ときどきセイバーを見ながら、何か考えている士郎の方が、私は気になった。
◆
「どうしたんだよアルクェイド。急に一人で歩きはじめるし、あの人たちだって別に悪い人たちじゃなかったじゃないか。わけわかんないこと言って相手怒らせるし、本当、どうしたんだ」
夜道をあてもなく急ぐアルクェイドを、志貴は追いかけた。白魚のような手を引き、その場に縫い付ける。志貴よりも何倍もの力を持った真祖であるはずの彼女の体は、それだけで容易に止まった。
「ねぇ志貴―――――今更になって私、兄さんと会いたくないの。本当はそんなはずじゃないの。凄く凄く会いたかったはずなの。でも今は違うの。ねぇ志貴、これっておかしいよね。私、おかしいよ」
弱弱しく自らの体を抱くその姿に、誰が彼女こそ最強の超越種だと信じることが出来るだろうか。緋色の瞳は潤いをまし、その宝石は溢れんばかりだった。こんな彼女を見るのは本当に久しぶりだと、志貴は思う。いつも飄々として、あっけらかんとした彼女はその実、自分の生き方に非常に悲観的だ。始めは、終わりなきロアとの戦いのせいだと思った。
でも、今は違う。
彼女が本当は何に苦しんでいるかが、志貴には分かる。彼女を護った兄に、アルクェイドはずっと負い目を感じていた。
「大丈夫だ、アルクェイド。おまえは何も壊れちゃいないよ」
それを少しでも振り払らえるように。震えるその身体を、少しでも安心させてやるために。志貴は白い女性を後ろから抱きしめた。身長は同じくらい。肩の上に首を乗せる形になった志貴は、耳元で彼女に囁く。
「怖いんだよな、おまえは。自分が本当は兄貴を嫌ってるんじゃないかって。会いたくないのは、そういう理由なんだって」
返事はない。ただ、首がかすかに下に揺れるのを志貴はちゃんと感じ取った。
「でも、それは人だったら別に普通にある感情だ。何も心配することないよ。好きな相手でも、会いたくないときはある。アルクェイドは怖いんだ。兄に会って、嫌われるのが。不安なんだろ?何言われるのか、分からないから」
「大丈夫。俺もそばにいるよ。一緒に会いに行こう。元気な姿を見せに行こう。もう会えないと思っていたんだ。お礼を言いに行こう。助けてくれて、ありがとうって」
「しきぃ…」
ぽた、ぽた、と、志貴の腕に暖かいものが落ちる。それも関係ないと、志貴はアルクェイドの体を抱きしめる。その腕の上を、アルクェイドの腕が押さえつける。彼の腕を、もっと自分に密着させるように。その要求に、苦笑いをしながら答える青年。
女性は大きな不安と、ほんの少し期待。青年は、大部分の好奇心の中に、少しの不安。
800年越しの願いは、もう間もなく―――――。
◆
「久しぶりだね―――――――いや、本当に久しぶりだ」
何年も聞いていなかったテノールの響き。じんわりと、耳に残る心地よさが増していく。あぁ、そうだった。私の兄は、こんな声をしていた。
「はい、お兄様」
そこから、お兄様の体温を、鼓動を確かめる。一番初めに聞けたのが、私との再会を喜ぶものであったことに、少しほっとした。
「すまない。ずっと、心残りだったんだ。
「いいんです。こうして戻ってきてくれただけで、十分です」
そうだ。戻ってきてくれただけで、私は満足だ。私の隣は、やはりこの人にとっても大切な場所であることが素直に嬉しい。
そこから、私たちは出会った時から語り合った。
初めてであった夜。諸国を共にまわった日々。千年城に、何年も帰らなかった、不安でいっぱいだった日。
屋上の月と星を、一緒に見た事。帰ってくるなり、じいやと喧嘩を始めた兄様を私が止めた事。世界中の、そこに住む人間の営みや、それらによってできた物を、お土産として実際に見ながら話してくれたこと。
そして――――――。
「最後になる日、その前から、少しずつアルクェイドには会っていたんだ。当時の彼女はやっぱり希薄だったよ。他の真祖に操られた、対オレへのカウンターだった。ただ、オレは一目見たときから
ブリュンスタッドを名乗る権利。それを与えられているってね。私にもめったに見せない綺麗な笑顔で、兄はそう続けた。
―――怖い。
兄が兄でなくなってしまったようだった。さっきまで、私との思い出話に花を咲かせた兄は、いつもの穏やかで、どこか達観していて、それでも時々は見せる温かみのある表情しか浮かべない。だが、これはなんだ。こんなに、面を張り付けた様な誰が見ても分かる笑顔を、私は見たことがない。
可憐で、どこか儚さを含んだ笑顔。私が抱き着いて離れなかった時に困ったように笑うあの表情。決して、今のような絵画を描いたものではなかった。
「あの、兄様。兄様は、私の事を護ってくださいました」
「うん?それは当然だ。アルトはオレの
―――――それは。私がただ単に妹だからという義務なのですか。
「―――――――どうして、帰ってきてくださらなかったのですか」
私は悪い子だ。これは新しくできたあの妹を捨て置いて、私だけをかまえというどす黒い感情だ。私の知る兄は、そんなことを認めないと分かっているはずなのに。
「帰れなかった。それはアルクェイドを見捨てる事になる。オレは彼女を
「私の事はどうでもよかったのですか…!貴方が居ない、この800年間は生きた心地がしませんでした!全てがつまらない物でした。かろうじて、かろうじて…アレを堕としたあの神父を追いかけることで、私はこの身を繋ぎとめていました。そうでもしなければ、耐えられなかったんです!」
―――――――貴方の護ったモノを、壊してしまいそうで。
止まらない。口がまるで意志をもった別の生き物のように言葉を吐く。このやり場のなかった気持ちを、一番ぶつけてはならない人にぶつけずにはいられなかった。本当は止めなければならない。止めなくては、いけない、のに。
「どうして帰ってきてくださらなかったのですか!約束したのに…。必ず帰ってくるって、約束したのに―――!」
きっと、悩みぬいた結果なのだと、理解している。兄が無愛想ながらも慈悲深いのを知っている。だって、それを一番受けてきたのは私なのだから。前が霞みながらも、兄様の顔を見る。そこには、やはり困惑の色が浮かんでいた。
「どうしてって―――――」
その言葉を聞いた瞬間、ぞくりとした。この先を聞いてはいけない。なぜかそう思った。だって、それは、本当に悪い事をしたと思っていない子供の様な狂気さえ含んでいたから―――――。
「アルトより、アルクェイドの方が、完成されているじゃないか―――――」
もう、立ってはいられなかった。こめかみを何かで殴られたような、ガツンとした鈍い音が、私の頭に響いた。
冷たい地面に這いつくばるように、膝から崩れ落ちる。私はもう、この世に居る意味を失ってしまったらしい。いっそ、このまま沈んでしまおうか。朝になれば、激痛と共に消えることも叶うだろう。
目の前の男が、ナニカを言っている。上手く聞き取れない。これ以上、その口からひどい言葉を聞きたくない。勝手に私は耳をふさいだようだ。
――――逃げ出した。兄だったものが私の前から去った。
――――どうしてこうなったのだろう。さっきまであんなに楽しかったのに。もう、私のそばでずっと一緒に暮らせると思ったのに。兄の心はもう、私を向いてなどいなかった。思えばそんな事、800年前のあの日に、すでに分かりきっていた事じゃないか。それを私は、何らかの事情を勝手に想像して、勝手にそれに浸って、勝手に悲劇の少女ぶったのだ。
惨めだ。こんなに愛しているのに。
嫌だ。こんなに慕っているのに。
どうして。こんなに狂おしいのに。
なぜ。こんなに信じていたのに。
「アハッ―――――アハハハハハハハハ」
乾いた笑い。何もかも、どうでもよくなってしまえと思う。あの女に、すべてを奪われた。それを私は律儀に護っていたのだ。ばかばかしい。あの女なんて消えちゃえばいいのに。でもそれ以上に、それを気にかけていた私の方がもっと嫌い。そうなったのも全部―――――。
「そうだ――――あの女が悪い」
考えてみれば簡単だ。あの女が兄様をたぶらかしたんだ。ダマしたんだ。さっきだって、私とだけで過ごした日々は、いつもの兄様だった。それが変わったのはいつだ?あの女の事を口に出した時からだ。
「そうだ――――あんなぽっと出に、兄様が取られるわけがない」
私の方が何倍も一緒にいたのだ。優しい兄様に、あの女がつけ込んだに違いない。
「なら――――取り返しに行かないと」
この世に兄様を繋ぎとめているのは私。私の処に兄様は必ず帰って来る。
こんなに私が愛してるのだ。―――私がこんなに頑張ったんですよ?
なのに、兄様は全然私の事なんか見てくれない…。
誰のせい?――――あの女のせい。
そんなの、駄目だ。ずっと私を見ていてほしい。あのころのように。
「もう私だけを見ていればいいですから…。あの女を排除すれば、兄様を独り占めできますよね」
もう、こんなチャンス絶対ない。ずっと私が見て、この世につなぎとめるために居てあげればいい。
そうだ、城の中に入れて、誰にも手出しされないように、大事に大事にしてあげよう。
―――――――――――――私だけと、過ごすのだ。昔みたいに。