その日は、目覚めの良い朝だった。隣の部屋のセイバーの気配はない。きっと、居間にいるか道場で鍛錬でもしているのだろうと思う。
ずっと、この聖杯戦争が始まってから、気になっていたことがあった。
――――――セイバーは、聖杯に何を願うのだろう。
一度、まだ出会って間もないころに聞いたことがある。彼女の真名と、聖杯にかける願いを。でも、その時はまだ信頼されていなかったこともあるし、戦略上のことも考えて、結局は聞けなかった。
「貴女、中途半端ね。死ぬ一歩手前で一人取り残されてる。そのままでいいの?」
昨日の夜、真祖の女の人にセイバーが言われてたことだ。取り残されている、とはどういう事なのか。その前の言葉で、そんなに優しい事情じゃないってことぐらいは分かる。
聞きたい、と思ってしまった。彼女が聖杯にかける願いを。それに賭けなければならないほどの思いを。あの細い体の、一体どこから来るのだろうか。それを知りたいと思う欲求が、俺の中で抑えきれないほど強くなってしまった。
自然と、足は道場へ向かう。彼女との思い出がそれなりにある場所。この数日間、彼女に教えを乞い、共に鍛錬に励んだ空間。きっとセイバーはそこにいるだろう。今から聞くことは、物凄く勇気のいる事だ。セイバーがまだ話してくれない、彼女自身の生きた記憶。マスターとして、断片的には夢という形で見ているものの、それはセイバーが過ごしてきたほんのごく一部でしかない。
装飾された、神代の黄金の剣。
彼女が騎士達と駆けた戦場を、その丘の上から眺める横顔。
そして。
彼女が最後を迎えた無数の戦士の骸の丘。
泣いているセイバーのその痛々しい姿を、一度だけ見たことがある。アレがもし彼女の人生で唯一残ったモノだとしたら。あの絶望の中に『取り残されて』いるのだとしたら。それは俺にとって認められない。アイツを救ってやりたい。
セイバーは幸せになる権利がある。今まで必死に頑張ってきたんだ。それでなくちゃいけない。
なんだか怒りがわいてきた。何故かはわからない。いや、本当は分かっている。きっと、涙を流すしかなかったセイバーの代わりに、誰かが理不尽に対して怒ってやらないといけない。そう思う。そして、俺がアイツのそばで、セイバーの代わりに怒ってやりたい。そうすることでアイツが救われるなら。マスターとか、そんなの関係なしに、ただ一人の人間として、セイバーのそばにいてやりたい。今まで苦労してきたセイバーは、幸せになんなきゃいけないんだ。そうじゃない世の中を、アイツの人生を、俺は絶対に認められない。
そうすると、体の中から自然と力が湧いてくる。踏ん切りがついた。迷いはもうない。ずんずんと足取りは速く、気が付けば道場の扉に手をかけていた。深呼吸は必要ない。一気に扉を開く。
中では、驚いたセイバーが正座をしながらこちらを見ていた。
「すまない、セイバー。驚かせたか」
「いえ、いつもと足取りが違うようでしたので…。どうかしたのですか、シロウ」
目を丸くしたセイバーが、気遣うようにこっちを見てくる。吸い込まれそうになる翡翠の瞳に、少し俺は冷静さを取り戻した。
そうすると、どうも緊張してくる。俺は今から、セイバーの心に近づくんだ。そう思うと、さっきまで怒りに任せていた体が、油のきれた機械のように重くなる。ひとつ、呼吸を置くことにした。
「別にどうってことは無い。ただセイバーと、話がしたかったんだ。そしたら、居ても経ってもいられなかった」
「話、ですか」
「ああ。今までは、どうしても聞けなかった。今はもう聖杯戦争も終わりに近づいてる。そろそろ聞かせてくれないか、セイバーが聖杯にかける願いを」
十年前、聖杯をかけて争ったアーチャー。きっとアイツには、今のセイバーは勝てない。それは俺のせいだ。魔力をちゃんと送ってやれもせず、セイバーの隣に居るだけの実力も無い。名前も顔も知らない前回のセイバーのマスターが、うらやましい。最後までセイバーと共に勝ち抜いて、アーチャーと聖杯をかけて争ったそいつは、きっとセイバーがキチンと戦えるような、マスターとして優秀な魔術師だったんだろう。
「―――――その前に、一つだけ。貴方は私の正体を知ったのですか」
もはや避けられないと悟ったのだろう。
背筋が伸びたセイバーが、下から見上げてくる。真っ直ぐな視線。俺が、彼女に初めて向けられた視線。互いに言いづらい事だ。触れないようにしてきた。でも、もう踏み込まなきゃいけないって、セイバーも俺も分かっている。それに、必要に迫られたからじゃなく、なにより俺が、彼女の事を知りたいと欲をかいている。
「まだ確証はない。でも、なんとなく目星はついてる」
そう言いながら、目線を合わせるために座った。それでも、自分より低い視線。こんな小さな女の子が、アレだけの力を持っているなんて、実際に目にしていながら忘れてしまいそうだ。そして、過去には彼女の肩よりももっと大きなものが、ひょっとしたら今はそれ以上に、のしかかっているかも知れないことが痛々しい。
「わかりました。もう後は、私の正体を知るサーヴァントしかいない。シロウに正体を隠す必要もありません。シロウも見た通り、私はかつてブリテンを治めていました。改めて名乗りましょう。私はアルトリア。アルトリア・ペンドラゴン。アーサーの方が、貴方にはなじみがあるかもしれませんが」
「―――――じゃあ、セイバーの持っている聖剣は」
「はい、私が持つのは
初めて見たとき、綺麗だと思った。夢に見た、黄金の剣は、彼女にこそふさわしいと思った。
その彼女が、伝承のアーサー王が。最期を迎えたのは、祖国に裏切られ、味方だったはずの騎士たちと戦ったカムランの丘。夢に見た、あの戦士の骸の山の上。もし彼女が伝承道理の生き方をしていたなら、残ったのは裏切りと、死だけだ。
聞かなければならない。あんな壮絶な最期を迎えたセイバーが、何を願うのかを。
「―――――セイバーは、聖杯に何を求めるんだ」
その問いに。
「―――――――過去のやり直しを。脚色されている部分もありますが、私の半生は貴方も知るところでしょう。私は国を滅ぼした。あの時、
「そんな…」
はっきりと、セイバーはそう言った。
それでは、セイバー自身の幸せはどうなるのか。今まで、国の為に頑張ってやってきたんだ。最後は失敗したかもしれないけど、それでもセイバーは立派に王様をやってきたんだと思う。それは夢で見てないけれど、俺が知るセイバーは立派な奴だ。たとえ見なくても、今まで一緒に過ごしてきた仲だ。それぐらい分かる。
「セイバーはそれでいいのか」
「はい、私が願うのはそれですから」
―――――。
それで分かってしまった。この目の前のバカは、自分の事を何にも考えちゃいないんだって。
俺が怒りを感じているのはそこだ。自分の事なのに、ようやく理解した。衛宮士郎は、拾った命を投げ捨ててしまうような真似をしようとしている
「いいわけないだろっ。セイバーは十分頑張ったじゃないか。聖杯は自分の為に使うべきだ」
指先が白くなるまで拳を握りしめる。こうでもしないと抑えてられない。思わず目線が上がっていた。下に見下ろすところにいるセイバーは、いつになく冷たい眼でこちらを見上げてくる。
「そんなこと、貴方に言われたくはない」
突き放す様な、それでいてどうにかごまかす様な声。セイバーはこの話題から逸らそうとしている。でも、ここで引いてしまったら踏み込んだ意味がない。コイツの願いは間違っている。それを今自覚させないと、この先にチャンスはきっと訪れない。
「それじゃ、セイバー自身が救われない。俺はそんな願い、認められない。セイバーは聖杯を手に入れて、幸せになるべきなんだ」
――――言った。自分でも明確な理由があるわけじゃない。でも、それは、その願いだけは間違っているとはっきり分かる。だから、彼女に嫌われても、これだけは譲れなかった。
「貴方に、何が分かるのです――――!」
―――――激情を、初めて見た。この視線は2回目だろうか。俺を敵として見る、翡翠の瞳。俺のように立つことはなく、それでも射殺さんばかりに貫いてくる。座っていても立っている俺よりも大きく見えさえする。そんな、普段だったら絶対に向けられたくないような類の視線は、王らしく、ではなく、一人の女の子としてのセイバーが、こちらを見ている気がした。そうしてしばらく睨み合う。ここで逸らしたら、もう自分が間違っていると認めることになる。それは譲れない。間違っているのはセイバーだ。やっと、セイバーが『王』としてではなく、『アルトリア』として向き合ってくれたんだ。それにセイバー自身が気付いているかは別として。ここを逃してしまったら、もう『アルトリア』には会えないかも知れない。だから、ここで決着を付けなければならなかった。
でも、その戦いは不意に終わった。セイバーの視線が、だんだんと下がっていく。噛み締められた唇は、元々の白さを失って血をこぼさんばかりに赤みを増していた。
何かを振り切るように、セイバーは視線を切る。そして。
「止めましょう。これ以上話し合っても無駄だ。マスター。私たちはともにこの戦争を勝ち抜くためだけに組んだ仲だ。それを今一度忘れないでいただきたい」
――――――自分たちは、そういう仲ではないのだと。背中で拒絶を示してきた。
「お昼には顔を出します。リンも交えて、アーチャーを打倒するための作戦を考えましょう」
『アーサー王』としての仮面を被ったセイバーは告げる。
戦う為だけに、組んだ仲なのだと。利害が一致してるだけなのだと。もう一度、自分たちの立ち位置を示して、道場を後にしていった。
膝を抱えて泣く『アルトリア』は、もういない。
セイバーにも頭を冷やす時間が必要だと思ったんだろう。そんなことをのんきに考えている、妙に冷静な自分がいるのが分かる。それを考えている事すらも、自分が招いた今の状況の現実逃避と分かっている。一歩間違えれば、セイバーとの関係も終わっていてもおかしくなかった。そこまでして剥がしかけた仮面を、彼女はもう一度深く被りなおしてしまった。何も得られないまま、セイバーとの関係は壊れてしまった。きっと俺にはもう、あの仮面を剥がせない。
でも、それでも――――――――。
「そろそろ遠坂が起きる時間か。朝食作りにいかないと」
気を紛らわせるために、わざとらしく呟く。誰も聞いているはずないのに、妙な大声が出た。どうやらよっぽど緊張していたらしい。握った拳がまだ離れようとしない。膝が逆側に折れ曲がったようにしっかりと伸びきっている。
「失敗したわね。アンタにしては珍しく感情的だったじゃない」
――――朝早いこの時間、ここにはいないだろうと思ってた奴の声がした。さっきの独り言も聞かれたらしい。無理矢理動かして、ようやくほぐれた体で後ろを振り返ると、そこには既に身支度を整えて完璧ななりをした遠坂が立っていた。
「――――――遠坂、聞いてたのか」
「ええ、まぁ。セイバーにはばれてると思うけど。で?これからどうするつもり、マスターさん」
猫みたいなすました顔で、遠坂が聞いてくる。もちろん、そんな質問答えなんか決まっている。
「なんとか説得してみる。セイバーは自分の為に聖杯を使わなきゃいけないんだ」
遠坂も聞く前から分かってたんだろう。髪を一つ首筋からかき上げると、予定していた言葉を吐くように喋った。
「アンタがそれでいいなら私は有る程度は止めないけど」
でも、と遠坂は続ける。
「ここまで来て仲たがいの分裂なんて、私許さないんだからね」
セイバーにも譲れないものがあるし、俺だって譲れない。
俺は遠坂に対して、あいまいにうなずく事しか、出来なかった。
◆
朝食が終わって、お昼ご飯の買い物に出かける。遠坂とセイバーにはお昼だからって危険がないわけじゃないと怒られそうだけど、そうも言ってられない。人数が増えたおかげで、我が家の冷蔵庫は常に空っぽに近い。いつもなら買い物にはセイバーが付いてきてたんだけど、今日はそれもなしだ。 自然と、俺は一人で買い物に出かけることになる。
今日は、いつも以上に豪勢に昼ご飯を作ると決めた。
これで機嫌が良くなるとは思えない。むしろ、ごまをすっていると足元を見られるかもしれない。そうなれば機嫌が直るどころか、怒りに任せていつもの倍は食べるだろう。それでなくても、俺が無謀な跳び出しをした次の日のセイバーの食べる量は多い。どちらにしても、いつもより気合を入れなきゃいけないのは事実だ。
今日は顔なじみの商店街の人たちに、ずいぶんと声をかけられる。最近ここには来れてなかったし、みんなから食材のオマケをもらったり、近況を話しこまれたりした。解放されて気が付くと、もう結構な時間がたってしまっている。だいぶ時間に余裕を持たせてきたつもりだったけど、急いで帰らないと不味いかもしれない。作る量だって今日は多いんだ。それならばと、帰り道へ足を踏み出した時。
「――――あれ、桜?」
今いるのは商店街の端っこだ。此方に近づいてくる見知った後輩の姿は、もう店も少ない事もあって容易に見つける事が出来た。遠坂に追い出されてからというもの、家に来ない桜とは全然会えなかった。学校もライダーの結界事件があったりして、この何日か休みだったし、休み時間はほとんど遠坂と行動していた。そもそも学年が違うからむやみに会いに行ったりしたら桜に迷惑をかけかねない。気にかかっていたのに、会える機会が無かった。
「あ…」
桜もこちらに気が付いたようだ。向こうもこんなところで会うとは思ってなかったんだろう。少し驚いている。
「ひさしぶりだな、元気だったか?」
買い物袋を両手に抱えながら、桜に話しかける。桜の方はやはり来たばかりなのだろう、手元には何も持っていなかった。
「…お久しぶりです、先輩。最近家の方に行けてなくてすみません」
本当に申し訳なさそうに、頭を下げんばかりに桜がそんなことを言ってくる。桜は何も悪くないのに。
今家には遠坂がいる。桜には来づらいはずだ。
俺のところにいては、聖杯戦争にいつ巻き込まれるか分からない。もしかしたら、人質として捕まってしまうかもしれない。桜には申し訳ないけど、俺としては桜が来づらい今のままの方がいい。一般人の桜を巻き込む事なんて、絶対に嫌だ。
でも、桜は俺たちが聖杯戦争を戦っていることなんて知らない。それを知ってしまうと余計に危険になってしまう。そんな理由で何も知らせずにただ突き放すしかなかった桜の事が、俺はずっと気にかかっていた。
「いいさ、今は遠坂もいるし。桜には前に酷いこと言ったな。遠坂も悪気があったわけじゃないんだ。ごめんな」
そして、今まで謝れなかったことも。俺も何にも声をかけてやれなかったことも。桜には甘えてばかりだ。そうやって謝る俺に、桜はいつもの笑顔で許してくれた。今日ここで会えたのは素直に嬉しい。聖杯戦争が終わるまで謝れないと思ってたから。
「でも…遠坂先輩、まだ先輩の家にいるんですね」
どうやら、俺の手荷物の量を見て思ったらしい。桜とは、この間まで一緒にここに買い物に来る仲だったんだ。俺がどれだけ一回で買い物をするか、桜には大体分かっている。今日の買い物は、あきらかにその時と比べると量が多い。
「え、ああ。最近は我が物顔で自分の家のように振る舞ってるからな、困るよ」
少し、右手の買い物袋を持ち上げて見せた。いつもよりビニールが手に食い込む感覚が深い。遠坂が中華で使うであろう食材も買ってるから、今日の出費もかさんだ。
「――――。あの、先輩、お買い物ですよね、一緒にまわって、その後少しお時間いただけませんか?」
もうあらかたこちらの用事がすんでいるのは分かっているのだろう。控えめに、伏し目がちに桜がそう聞いてくる。だけど。もう時間がない。
「…せっかくだからそうしたいのはやまやまなんだけど、これから帰ってご飯作らなきゃなんだ。買い物ももうあらかた終わってるし、桜とは最近話して無かったからもっと話せればよかったんだけど…」
―――――――よかったら、家に来て一緒に作るか?
「――――――ごめんなさい、いいんです。私がいきなり誘っちゃったので、先輩は何も悪くないです。じゃあ、お時間取られてすみません、私はこれで」
気を悪くさせてしまったのか。目をそらして、そう早口でまくしたてると、桜は行ってしまった。この真昼間なら襲撃も心配ないだろうし、最近来ていなかったから、いいきっかけになるかとも思って家に昼食を作ることを誘う事すらできなかった。どうしても聞いてほしい事があったんだろうか。断ってしまって、申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。
「―――――またな、桜!」
いつもの桜からは考えられないくらい早く小さくなっていく背中に、そう声をかけることしかできなかった。聞こえていないのか、返事は返って来ない。振り向いた顔も、見られない。
―――――こちらも買い物は終わってるし、早く帰ってご飯を作ろう。
そう頭を切り替えようにも、さっきの桜の姿に、なにか奥歯に挟まったような嫌な感覚がどうしても抜けなかった。
◆
――――――厳か、という言葉がこれほど似合う空間は、そうは無いだろう。
冬木の新都で急速な開発が進む中でも、その流れから取り残された丘の上。それは、街の人々を見守るかのように、一つ高いところに建っている。
人々が救いを求めてやってくる神の家。遥か昔から人のそばにあり続けた祈りの場所の、白を基調とした決して派手すぎることなく、それでいて神聖さと美麗を失う事がない装飾は、荒んだ心を落ち着けるに一役を買っている。
ここには、十字架も、聖母の像も無い。だがここは、確かに人の拠り所としての機能を果たして居る。
静寂が支配する礼拝堂の中、それを断続的に裂く音が聞こえる。か細い女の声だ。体を丸め、すすり泣く姿は、まるで神に贖う罪人のよう。紫に染まった髪は影を落とし、顔を覆う片手からは涙がこぼれる。右手は心臓を掴まんかのように、胸元をしわくちゃにしていた。
「…ほう?女、貴様そこで何をしている」
そこに声をかける男がいる。まるで、聖書に出てくる神をそのままに体現したかのような、黄金の男。神代の美貌と、抑え目にしていても溢れ出す王者の覇。黒いジャケットに黒のズボン。それだけを聞けば暗い印象であるが、それすらも彼の輝きに一味を加えるものでしかない。下げられた金の前髪からのぞく深紅の瞳で、女の子を捉える。
「駄目なんです、私。先輩にはこんな私じゃ釣り合わないって分かってるのに」
支離滅裂に、嗚咽の中から洩れる声。男には彼女が言うその『先輩』も、女がどういう思いでそれを言っているのかも分かる。唇の端が吊り上り、真っ赤なルビーは新しいおもちゃを目にしたかのように爛々と光る。その表情を彼女は見ることは無い。
「今までもそうやって来たのに。でも、抑えられないんです」
スリスリと、さらに力が加えられた服が、摩擦音をあげる。心臓を鷲掴みにするように、抑えられない胸の内を必死にとどめるその丸い背中に、黄金の男は悦楽を覚える。先日、とある城に赴いたときはこのような弱い女ではなかった。他者に与えられた狂気と、内から出る負の感情に狂う、残忍な女だった。それが今はどうだ。穢された自分の身を呪い、ただ泣くばかり。それでも、身を内側から焼かんばかりに愛という炎に胸を焦す。その二面性。ヒトが持つ業。抑えきれないソレを抱え、化物を飼う己の身を苛み、自らの欲で身を壊そうとしている。理性と呼ぶべきモノを廃棄し、女のうちに眠るモノを自らの意志でセイバーのマスターに向けたら、妄憑に囚われたあの雑種はどうするだろうか。
男の顔は、ほの暗い悦びに満ちている。
「抑える必要などあるまい」
背中から声をかける。顔は相変わらず伏しているが、胸をしめる女の右手が緩んだことだけは、英雄王ギルガメッシュは見逃さなかった。
たっぷりと時間をかけ、考える暇を与える。この男を少なからず知っているものからすれば、怖気がはしるほどの優しい声だった。
「恋慕とは人間が等しく抱く感情だ。貴様が慕うあのセイバーのマスターは、貴様を捨てことなどせぬよ。あれはそういう人間だ」
ついに、女の顔が上がる。今日の昼、商店街で衛宮士郎に断られた間桐桜の泣き顔が、そこにはあった。菫色が、怪しく光るルビーの瞳に吸い込まれていく。
「―――――たとえ神が否定しようとも、この我が肯定しよう」