◆
それは、彼が持ち得るある種の直感だったのかも知れない。何気なく、「そろそろ立ち止まってみようか」などと言う気まぐれをこじらせた。初めて此処に来たときは、思わず二人で足を止めた。冬木大橋から見える夜の幻想的な風景は、志貴とアルクェイドの足を止めるに充分だったから。「すごいな」などと感嘆を漏らす青年と、「ほんとね」と、自然の摂理から外れた、自身と全く起源の違う所から創られたソレをみて、青年の感情に合わせる女。彼女もまた、人の営みの結果を真に理解することはないものの、「光」というものに価値を見出すことに共感はあった。その会話も二人には記憶に新しい。以来、何度となくこの新都と昔ながらの深山町をつなぐこの橋を通ってきたのだけれども、彼らがそれから橋の上で足を止めることはなかったのだが。
足を止めてすぐ、志貴が見えたのは不思議そうにしているアルクェイド=ブリュンスタッドの顔だった。すぐ下には川が流れている。アルクェイドの顔が大部分を占めている志貴の視界のなかでも、端にはキチンとほんのり照らされた川の流れが見えていたし、まるで川に落ちるか落ちないかの瀬戸際を愉しむかのように、ギリギリを歩く影も捉えていた。
最初は人影が動いているようにしか感じられなかったが、限界まで高められざるを得なかった彼の淨眼はそれ以上の異質を『視る』事が出来た。
思わず、鼻にかかっている眼鏡を外した。志貴の世界が、ひび割れていく。その中でも、さっき視えてしまった人影は、更におかしかった。
――――――黒い筋が、人を形作っている。
その気持ち悪さに、思わず口に手を当て、顔をしかめた。志貴が持つ「直死の魔眼」は、物の死を見ることができる。「死」という概念さえあれば、人も、金属も、何もかも黒い筋という形で、「死」が視えてしまう代物だ。人の体に走る、その嫌悪すべきそれを、志貴は何人もの人に走る何千本という線を見てきた。
『あれは、生きているのか――――――――』
そう、志貴が思ってしまうほどに、その人影は異質だった。死の線が、体中をびっしり覆っている。一度、そういうヒトガタを見たことがある。アルクェイドと出会うきっかけになった、三咲町を襲ったロアという死徒の眷属であった、
今、川岸にいるソレは、その時視たものよりもひどかった。濃密な死の気配。不細工なガラス細工のように、己が小指一本触れただけで壊れてしまうだろう。青年の胃の中は逆流し、身体の中を暴れまわる。吐き気を必死で抑える志貴は、隣に居るパートナーを見ることが出来なかった。
彼女の紅い瞳は、真っ直ぐに眼下に向けられていた。
彼女もまた、苦痛に苛む志貴を助ける事が、頭からすっかり抜け落ちてしまっていた。彼女も、はっきりとその姿が何なのかを理解していたから。自分と同じ、この星そのもの。自然の精霊、星の触覚。その世界からくみ取っているはずの魔力ラインは消えていたが、アルクェイドは瞬時に自分と同じものだと認識していた。
そして、星と繋がっているはずのラインが、自分が唯一負い目を感じ、畏れている死徒に繋がっていることが、目の前に居る死体同然までに弱っている人影が誰なのかを雄弁に知らせている。
「――――――――っ」
言葉はない。胸から下を、宙に浮かばせることを阻む橋の柵も、いまや彼女には障害物でしかなかった。飛び上がって柵に足をかける。そのまま眼下に向かって、大きく滑空した。耳を裂く風の音が、志貴の声が彼女に届くのを阻む。1000年越しの想いは、溢れんばかりに駆け巡り、ためらっていたはずの再会への原動力となる。
今、アルクェイドの中には、志貴の心配は無かった。志貴なら何も残さなくても追いかけてくるだろうという信頼の元に。ここ数日、胸に渦巻いていた不安さえも、忘れている。
「兄さん―――――――――!」
あらん限りの声で叫ぶ。川辺の人型は、ゆっくりと上を見上げた。憂いを帯びた瞳が、疲れを隠すことなく持ちあがる。すっかり覇気の抜け落ちた、まるで死に行く老木のような弱弱しく光るルビーが、地上で瞬いていた。
達観した、総てを見透かす様な、朱い、紅い瞳。兄妹の瞳が、意思をもって交わされたのは、2度目だった。
白い装束が、着地する。規則性のある並びの石の何枚かが砕けた。土煙が止んだのは、眼鏡をかけなおした志貴が、ようやく収まった吐き気に安堵して、再び下を見下ろした時だった。舞い落ちた破片と砂をひざ下に纏った後ろ姿のアルクェイドをみて、少し遅れていく事を青年は決意する。あれだけ不安がっていたのに、やはり見つけたときは速かったと、志貴は苦笑する。自分が声をかけても、聞こえなかったようで、ためらわずに空中に身を投げていた。聞けば1000年越しの再会だ。自分がすぐに行くのは無粋だろうと青年は考える。そのまま首を斜め下に向けたまま、遅めの歩調で踏みだした。
◆
少し、目を離したときだった。橋の上から星を眺めていたのは、手持無沙汰になった志貴が一番ゆっくりできると考えたからだ。眼下の公園では、ベンチに座る男女が身体を預け合っていた。傍から見れば女を取られて嫉妬する男みたいだと、志貴は苦笑する。みるみる内に動く雲が、月を被いだす。大気の流れを感じるその光景に、しばし目を凝らす。完全に雲が被い、ぼんやりとした姿に変わった時。ふと下を見ると、紅い瞳と目があった。
幾ら弱っているとはいえ彼女の兄であるはずの男だ。自分に気が付いていないはずが無いと志貴は確信していた。自分が身を挺してまで護った妹に、久しぶりに会ったら男が引っ付いている。普通に考えれば興味の対象にのぼるだろう。志貴自身、この会合を楽しみにしていたところはあった。今まで見慣れた紅色とは違う光には、未だ敵意はない。意図的に遅くしていたペースを、志貴は速めた。
「やぁ」
「――――――――――初めまして、ですね」
志貴が、二人がすわるベンチの目の前まで来るのを、リシュアン=ブリュンスタッドは待っていた。男が、肩にしなだれかかっている女の、流れるような金髪を優しく梳いている姿は、飛び切りの美男美女ではあるものの普通の人間のカップルに相違なかった。いや、病的なまでの絵画から出てきたような美しさは、やはり普通とはいいがたい。
近づくにすれ、ある程度の緊張感は志貴の中に芽生え始めていた。どう声をかければいいのか、それともかけられるのを待った方が良いのか。心境はまるで、娘さんをください、と彼女の父親に初めて目通りする男そのものとなんら変わらない。
ぐるぐる回り続ける志貴の思考なんか少しも気にしていないように、まるで旧友に会ったかの気安さで向こうは声をかけてきた。志貴にとっては拍子抜けもいいところである。一応初対面の挨拶はしたが、こう、本気を出せば自分なんか文字通りひねりつぶせるような圧倒的な強者と相対していることを微塵も感じさせないこの気安さは、やはり兄妹であると彼の緊張を少し解くのに役にたった。
「あ―――――、アルクェイドは?」
ベンチに座っている方の、女の方はすぅすぅと寝息をたてていた。頬に残る何か流れた跡が、蛍光灯の光で浮かび上がっている。
ほんの少し、彼女の呼び方を考えて、結局志貴はいつも通りの呼び方で呼んだ。
「寝てるよ。―――――――どうやら、よっぽど留守にしていた時間が長かったらしい」
リシュアンは、苦笑と共に一つ髪を梳いて見せた。白い指通りから零れ落ちた金糸が、音もなく流れ落ちていく。
「―――――妹とは、もう長いのかい?」
「いえ、夏の頃からの付き合いになります」
「そうか――――――」
ため息にも似た、長い吐息だった。男の中でぐるぐるとまわっているだろうその思考を、志貴は考察することが出来なかった。
横目で、かつて世界最強と謳われた真祖を見やる。老成した、達観したその姿は、どう見ても最強の武人や超然とした怪物などには見えず、むしろ戦い疲れた老将の様だった。微笑みをたたえ、肩口のアルクェイドを労わる中、志貴の視線に気が付いたのであろう、不意に二人の目があった。まるで底が見えない滝のギリギリに立っているかのような、吸い込まれそうな感覚に志貴は陥った。深い、深い、その紅い光は、世界の深淵を見ているかのようだった。逸らすことはできず、ただ、浮遊感を味わうことしかできない。
「すまないが、そろそろ行かなければならない」
不意に訪れたその時間は、終わるのもまた唐突であった。長い色気を感じさせるまつ毛に彩られた白い瞼が、魔眼同士の線を断ち切った。
「―――――――あ、はい」
我に返った志貴が、返事をした時には妹をベンチの背もたれにキチンと座らせる兄の姿があった。優しく、一つ頭をなでる。親子にも似た、兄妹のやり取りだった。
「じゃあ、オレは行くから。――――――また会おう、遠野志貴君」
目の前の存在が次第に形を無くして、見えなくなっていくのを、ぼうっとしながら志貴は見ていた。まるで狐につままれたような、幻想を見ていたような感覚。姿が掻き消えていくその様を、幽霊と言わずしてなんと言う。サーヴァントは霊体、何も間違っていないのだが、身体能力を生かしてどこかへ『跳び去る』ものだと思っていた志貴には不意打ちだった。それでも、ベンチには未だ眠るアルクェイドが居る。決して、夢を見ていたわけではない。志貴は、二人分ほど空いていたアルクェイドとの距離を詰めた。とたん、隣に自分に近しい人間が座ったのを鋭敏に察知したのかはわからないが、ぐらりと頭が崩れたかと思うと、アルクェイドが志貴によりかかってきた。首筋にわずかに感じる寝息に、しらず彼の顔はほころぶ。一つ二つ、さきほどまでここに座っていた男のまねをするように、志貴はアルクェイドの髪をなでた。そうして、さっきまでの会合を反芻する。
「結局―――――――――何にも、聞けなかったな」
最後まで思い返した志貴が、ポツリ。一つ、呟いた。
「志貴」
そうして、どれくらい闇に紛れた月の化身を探していたのだろう。いつの間にか志貴の首筋をなでていた規則正しい寝息は、不規則なものへと変化していた。
「起きたのか、アルクェイド」
「うん」
未だ、髪を梳く手は止められていない。志貴の肩にアルクェイドは頭をのせ、されるがままになっている。その穏やかな横顔を盗み見て、志貴はアルクェイドに確信をもって聞いた。
「兄貴とは、どうだった?」
「――――――――――会えたよ。記憶の中とは違っていたけど、でも、兄さんだった」
志貴の手は止まっていた。役割を取り上げられた志貴の手は、アルクェイドの頭に阻まれ下ろすことができず、そのままアルクェイドの体に力なく回されたままだった。さっきまでかろうじて見えていた月は、いよいよ雲の切れ間も無くなって、薄い膜の向こう側にある。おぼろげに形を無くしつつあるそれを、志貴はアルクェイドの視線に従って見やった。
「―――――そっか。ちゃんと、話せたのか?」
「―――――うん」
人工の月にも見える、白色の電光。もう見えなくなった月に変わって、二人を照らしている。手を伸ばせば届く近い光に、彼女の金の髪はよく映えた。その、絨毯みたいな黄金の川が流れる背中を、志貴は優しく抱き寄せる。手の平が柔らかい体の感触を余すことなく伝えてきた。
「―――――兄さん、怒ってなかったよ。志貴の事もちゃんと分かってみたい。『好い人に出会えてよかったね』って言ってくれた」
「そうか」
――――それは良かった、そう志貴は呟いた。彼女だけにではなく、自分にも向けて。
◆
―――――――――父さんを殺したのが、綺礼だった。
全く。どうしたものか。
私、遠坂凛は、どうやら思った以上にバカだったらしい。その事実を突きつけられるまで、あの性根腐った兄弟子を、それでも父さんが見込んだからと言って、無条件に信じていたのだ。父を殺した凶器である、アゾット剣を、唯一兄弟子が持ち帰った父の形見と言われ、それに私がすがりついていた時期があったのも、全部アイツは見ている。ご丁寧に、私が譲り受けたアゾット剣が凶器である事実も、あの似非神父は後から使い魔で知らせてくれた。
このやるせなさは、一体どこから来るのか。そんなもの、とうに分かっている。なにも知らず、知ろうとしなかった自分に一番腹が立っている。あんなのをあまつさえ頼って生きていたとは。
あれでは、父の尊厳もあったモノではないだろう。きっと父が望んだ魔術師らしい死に方はできなかったのだと思う。そして、彼の意志を継いだはずの私は、ただの道化だった。
積み上げてきたはずのものが、砂上の楼閣のように揺らいでいる。自信が、自負が、脆くも崩れていく。信じて来たものが、すべて否定されたかのような、虚無感。手足をもがれて、それでも無様に這いずり回ろうといった意地汚いことなんか、出来るはずもない。
―――――――――――いっそ、あきらめてしまおうか。
命があったのだ。なぜ、あの死徒の眷属ともいえる『ガイアの獣』が助けてくれたのかは分からないけど、腕一本持っていかれただけでこの聖杯戦争を終える事が出来た。
アヴェンジャーもいない。
セイバーとも、関係の修復は不可能だろう。
もしかしたら、既に敵の手の中に堕ちてしまっているかもしれない。
これ以上、私たちには何ができると言うのだろう。士郎と私だけ。片腕のない私と、つい先日まで、今もだけどヘッポコの魔術師だけ。
綺礼の場所は分かっている。今朝の使い魔の情報に、のせられていた。
柳洞寺。この冬木に、あれ以上の一等の降霊に適した場所はない。この戦争の、大聖杯の降霊地。その場所を告げてきたという事は、見に来いという事なのだろう。いや、彼らには私たちが来ようが来なかろうと大した意味はない。
―――――――士郎は止めに行くだろうか。教会で生気を吸われ続けた子供たちは、一歩運命が違っていたら士郎が辿っていた姿だ。アイツからしたら、自分だけ、生きている。その状況に、耐えきることなんかできない筈なのに。
『―――――要らない。それを求めちゃいけないんだ』
アイツは、そう言い切ったのだ。その答えは、いかにも士郎らしいものだったけど、本当に言えるとは思わない。なんでも叶う聖杯の魅力には、あれだけの惨事を見せられた人間は飛びつかない訳がない。それでも、アイツは言い切った。なら、どうしようもないとは分かっていても、士郎は柳洞寺に飛び込むだろう。綺礼は、士郎が一番聖杯を使わせたくない人間だと思うから。
士郎は、もう起きているだろうか。私は、寒い廊下へと歩き出した。
◆
「おはよう、遠坂」
「…ええ、おはよう」
凛が居間に来たときに、士郎はゆっくりとお茶を飲んでいた。その胸には、包帯が巻かれている。凛が昨日の夜、考えがまとまらないままに巻いた包帯だった。セイバーの一撃によって、深くさけた彼の胸に、過剰とも言える量の宝石を用いた治療をしたのは他ならぬ凛だったから、当然その包帯には見覚えがあった。
「もう、けがは大丈夫なの?」
「ああ。コレ、遠坂がやってくれたんだろ。ありがとな」
そう言って、士郎は自身の胸を被う包帯を摘まんで見せた。もうずいぶんと具合は良いらしい。持ち上げた士郎の手の甲には、未だ令呪が残されていた。
「まだセイバーは堕ちてない、か」
凛が漏らした言葉に、士郎が素早く反応する。あからさまに顔をしかめる凛。少年は、信じていた自分のサーヴァントに裏切られたのだ。もう少し、セイバーの話は場を見極めてから話すはずだった凛にとっては、思わず口から出た言葉だとしながらも失敗だったと言わざるを得ない。
「…セイバー」
士郎のにじみ出た声からは、憎悪が感じられなかった。あるのはただただ困惑。自分がかの聖剣の一振りによって、傷を受けた事実。そのことが、未だ呑み込めていない表情だった。
「――――――ねぇ」
しばらくの静寂の後、こぼしたかのように凛が呟いた。視線は畳のい草の網込から離れない。膝を抱えて、左手で、空虚に空いた右そでを弄繰り回しているその仕草も、きっと意識の外側の行動に違いない。下を向いていた士郎には、それは気が付くことが無かったが、普段の学校での凛しか知らない人間には、きっとその姿は別人に見えただろう。
「―――――――逃げちゃおっか。このまま二人で。どこか、遠いところに」
およそ、遠坂凛らしくないその言葉に、士郎は耳を疑った。思わず見やった凛の姿は、士郎がいつも学校で見かけたソレではなかった。力なくぶら下がった右そでは、うら若き少女がこれから先の人生で背負っていくにはあまりにもつらいモノ。
―――――遠坂凛は、限界だった。
此処までの聖杯戦争、召喚の失敗から始まり、自分が予想から外していた間桐慎二の参戦。学校に張られた結界は、その発動を未然に防ぐことが出来なかった。ランサーとの戦いでは、結果として自身のサーヴァントを失い、令呪を右腕ごと持っていかれた。
極めつけは、父が死に、母が壊れた原因の言峰綺礼が、総ての黒幕であり、あまつさえそれを頼ってここまで生きてきたこと。その生き方に何の疑問を持たなかった事。
――――――――サーヴァントは、いない。
――――――――右腕も、欠けた。
もはや、戦う事が出来ないのだと、少女の心が絶望に染まっていく事を誰が責められようか。
今日の夜、言峰綺礼と金ぴかのサーヴァントは聖杯を手に入れる。セイバーが一人抗うのか、それとも聖杯の恩恵を受けるべく軍門を下るのか、それは凛には分からない。だが、どちらにせよ、碌でもない世界が待っている事は、彼女には分かっていた。
だが、士郎はどうするのだろう。凛の中に疑問が湧いた。出来れば、士郎と一緒に逃げてしまいたかった。
この状況を唯一共有している衛宮士郎に、遠坂凛は、仕方がない、と言って欲しかったのかも知れない。
「急にどうしたんだ、遠坂」
衛宮士郎は、純粋に驚きをもって反論した。彼には、想像の斜め上の言葉だった。まさか、『遠坂凛』がそのような言葉を口にするなどと思わなかった。だが、同時に彼はいかに凛の心が疲弊していたのかを気が付くことが出来た。そして、今まで決して気が付くことが無かった自分に腹を立てた。『遠坂だから』という視線で見ていた事に気が付いたのである。高校生の女の子が、片腕を失ってつらくない訳がないのだ。士郎は、そんなことにも気が付いてやれなかった自分が許せなかった。
「最初から、間違えてたのかもしれない。アヴェンジャーを呼び出すのに使った触媒は、父さんすら使わなかったから。どんな英霊が来るのか、結局わからないまま使っちゃった。何の根拠もないのに、御してみせる、って息巻いてね」
紅い少女は、とつとつと弱音を吐く。それは、ここ二週間ほどでずっと溜め込んできたもの。誰かに話すわけでもなく、かといって彼女自身でも視ないようにしてきたもの。ただ、士郎にはそれが後ろ向きに話されているだけではないと信じていた。また、一歩先に進むための準備。疲れたときには、休んでもいいと思う。
「結局、治んないなぁ。ここぞ、という一番大事なモノだけは、私、絶対にてこずるんだ。―――――それが、今回は致命傷だった、ってわけ」
凛の視線は、一向に上がらない。士郎もまた、机の木目から目を離さない。ただ、士郎には凛がどんな表情をしているのか、確かめようとは思わなかった。きっとそれは、凛が隠しておきたいものだから。
「――――後悔、してるのか?」
およそ、彼女には似つかわしくない行為だ。士郎はそんなことを考える。遠坂凛に、後悔は似合わない。たとえ後悔したとしても、遠坂凛のソレは一時的なモノのはずだ。
「後悔、か。したくは無いんだけどね。でも、ここまで酷い状況になるまで、もう少しどうにかできたんじゃないのか、っていうのは考えちゃう。でも、それもどこでどうすれば良かったのかが、分からない」
「遠坂。それは、失敗しただけだろ。遠坂は何も間違っちゃいない」
今でも、どうすればいいのか分からないのは、自分がその時取った行動が『最善』だと信じているからだ。自分が信じた道を歩いたのなら、間違ってなんかいない。やっぱり、後悔する奴じゃないな、と士郎は微笑んだ。遠坂凛の中に、答えなんか既にあったのだ。士郎がやることは、これからもう一度立ち上がる遠坂凛の手を引っ張り上げる事だけでいい。
「―――――そうやって、言い切れるアンタが、今はすごいと思うわ」
「今、だけかよ。でも、遠坂だって本当はこのままで済ます気ないんだろ。そりゃあ、一時的にはへこんだり、借りをつくったりするけど、遠坂はその何倍にもして返す奴だと思ってた」
いつの間にか、二人の視線が交差する。弱っている所を見られた気恥ずかしさが若干残るものの、少し、立ち直ったような微笑みを浮かべた遠坂凛がそこにいた。そのまま、お互い視線をそらす。居間には沈黙が訪れたものの、二人とも決して居心地が悪いモノなどではなかった。それどころか、こんなに落ち着いた時間を過ごすのは、何時振りだったのだろう。幾ら魔術師とはいえ、まだ二人とも高校生だ。みえないところにも、疲労はたまっていた。
二人とも、立ち上がることは決めている。ただ、もう少し浸っていたかった。今日を乗り越え、明日を迎える為に。
「―――――ありがとう、士郎」
面とはむかって絶対に言えない凛の照れくさそうな言葉に、士郎は遠坂が戻ってきたな、と微笑んだ。