◇
いつ何が起こるかわからない、起こったことは変えられない――ヒトも世界も初期設定を変えられない、にもかかわらずそれが「耐えられない」なら、そこから眼をそむけないという以外に、どんな選択肢があり得るだろう。
アルトルージュの時は、あれから止まったままだ。
それを受け入れさせてやらないといけない。
アルトルージュを守るには、それしか方法はなかった。
リシュアン=ブリュンスタッドの躰は、結界の基点だったのだから。
俺が聖杯戦争に賭ける理由など、有りはしない。
受肉は再び彼女を危険にさらさせる。決して新たな真祖だけが脅威ではない。
この身もまた、おぞましいほどの返り血にぬれ、いくつもの業を背負った身体だから。
「―――――――どうして、帰ってきてくださらなかったのですか」
―――――それは、オレが一番恐れていた問いだった。正直、今でも答えが出せていない。アルクェイドを『世界と契約してまで』護りたいと願った理由を、オレは自分の中でまだ見つけてはいなかった。
《ただ》
「帰れなかった。それはアルクェイドを見捨てる事になる。オレは彼女を
「私の事はどうでもよかったのですか…!貴方が居ない、この800年間は生きた心地がしませんでした!全てがつまらない物でした。かろうじて、かろうじて…アレを堕としたあの神父を追いかけることで、私はこの身を繋ぎとめていました。そうでもしなければ、耐えられなかったんです!」
―――――アルトの声に、涙が混じり始める。オレのせいだ。この800年間、ずっと彼女を苦しめ続けてきた。せめて契約する前に、最後に何か一言でも言えたのなら変わったのだろうか。それとも、アルクェイドを見捨てればよかったのか。
《
「どうして帰ってきてくださらなかったのですか!約束したのに…。必ず帰ってくるって、約束したのに―――!」
―――――すまない。本当にすまない。オレは君たち二人を護る事が出来なかった。アルトルージュはオレの大切な妹だって、今でもそう思っている。なのに。
《――――――――欠陥品が》
「どうしてって―――――」
《王の器に足らん貴様なぞ、我が身に価値など無い》
―――――違う!口が止まらない。止めなければならない。それ以上は言ってはいけない。口が、身体が、別の意思をもって話している。自分の体が、アルトを傷つけようとしている。オレはそんな事、思っちゃいない!
《本当に?》
《かつて一度も煩わしいと思ったことは》
《ブリュンスタッドを護る事を、半ば義務のように感じて、他の真祖を殺しまわる日々を》
《アルトルージュ=ブリュンスタッドを護るために、他の真祖を殺さなければならなかった。そうしなければ、『器』を護る事が出来ない》
《彼女が器になれる可能性はほとんど無いというのに》
《そのことに疲れてはいなかったか?考えはしなかったか?自分がいる限り、真祖は必ず生まれた後に彼女とオレに襲い掛かってくる》
《終わりのないその宿命に疲れ、アルトルージュを疎ましくは思っていなかったか?》
《アルトルージュとは違い、アルクェイドは真祖に対して自衛出来る。そして、真に『器』足り得る》
どちらを選ぶか?そんな事――――。
「アルトより、アルクェイドの方が、完成されているじゃないか―――――」
「あ――――」
―――――今、オレは何を考えていた?何を口走った。アルトルージュが欠陥品?そんな、アイツみたいな事を考えたことなどない。彼女は大事な妹だ。
じゃあ、彼女を此処まで苦しめているのは誰だ。今、アルトは目の前に崩れ落ちている。その頬を落ちる滴を、落とさせたのはオレだ。ふき取る権利などあるはずもない。
《関係ない。アレに用はない》
思考が染まっていく。なんなんだこれは。まるで自分の体が自分じゃないようだ。おれ自身の心とは関係なく、なにか大きな意思によって操られているかのような感覚。
離れなければ。もしかしたら、オレはこのままに飲み込まれてしまうかもしれない。焦燥感に煽られながら、周りを見やる。崩れ落ちたままのアルトが見えた。
だからと言って、今のオレに何ができる。何と言う言葉ならかけられる。そんなもの、あるはずがない。
それに、彼女を見ていると自分が自分でなくなりそうになる。
それは恐怖だ。ずぶずぶと、深淵に沈んでいく意識を知る事すらできない。消える意識は、文字通り個人の死だ。
そうなった俺は、ますます彼女を傷つけるだろう。
だから逃げた。どこへ行くまでもなく。
だが、まだオレにはやらなければならないことがある。
オレが、オレ自身が、オレ自身の意思で。
それは、それだけは。本物の心だと思えるから。
そうしなければ、自分を失ってしまいそうだから。
◇
◆
「見つけましたよ、兄さん、どこに行くんですか?」
それはまるで月が落ちてきたかのようだった。プライミッツ・マーダーが、主の指示に従い、白銀の巨体を一直線に滑空する。相当の風の抵抗もどこ吹くそこ、アルトルージュ=ブリュンスタッドは、今にも柳洞寺に乗り込もうとしていたアヴェンジャーの前に降り立った。
「アルト――――――」
なかば諦めが浮かぶ声。その実、リシュアン=ブリュンスタッドは、ガイアの獣を従えるこの妹から、逃げられるとは思っていなかった。それもそのはず。自身の
自身の魔力の回復のため、有数の龍脈が走るこの柳洞寺の鍾乳洞を訪れたのちは、彼女から流れる魔力を糧にここまで現界を保っていた。
どこにいても、彼女の存在を感じ取れるのと同時に。彼女もまた、己の場所を知ったうえで、野放しにしているのだと。
思ってもいない事とは言え、あんな事を口走ってしまうほど、自身のあり方に歪みが出てきていることを自覚してから、アヴェンジャーは自身の目的のために動いていた。
「えぇ、えぇ、そうですよ、兄さん。あなたのアルトです。たとえ兄さんが拒絶しようとも、この令呪がある限り、今の兄さんは私を受け入れるしかありませんよ。それをわからない兄さんじゃないでしょう?」
そうして、血と契約の支配者たる黒き少女は、新しい玩具を見せびらかす子どものように、鈍く光るおなかを見せつけた。
「そうだな、その通りだ。だか、なぜ今になって」
「兄さんがいつまでたっても戻ってきてくれないんですもの。私、もう待つのは辞めたんです。兄さん、これまで私がどれほど待っていたのか、本当にわかっているんですか?」
「すまない、アルト。だが――――――――」
―――――――もう少しだけ。
そんな言葉を告げる前に、この星で
「――――――アッははは!いいわ、これ、すっごく良い!!」
令呪の1画が発動した瞬間、少女のおなかが淡く光った。いつも振り回されていた兄の手綱を、自分が握っている感覚。その証拠にほら!自身の目の前に兄が膝をついて従者のようにこちらを見上げているではないか。思わず目の前の兄の顔を、自分の懐に呼び込む。とたんに目の前に広がる月光を紡いだような金の髪に顔をうずめ、大きく息を吸い込んで体の中も外も最愛の兄で埋め尽くした。それが終わると今度は、ほっぺたで頭の輪郭を何度もなぞっていく。腕の力は緩まることが無く、くぐもった声と息が胸にあたるのが、アルトルージュを体の芯からぞくぞくと震えさせた。
「頼む、アルト。話を聞いてくれ――――――」
「ダメです、兄さん。そうやって、また私から離れていくんでしょう?令呪もあと1画。残っているマスターもあと二人ですから、大事にしないと。その二人から回収したら、すぐにお城に帰りますからね」
取り付く島もない。と思われたが、アルトルージュはこのまま帰るつもりはないらしい。よほど、今の令呪が
「頼む、アルト。リンに
「ダメです」
取り付く島はなかった。最後に残ったマスターのうち、一人は士郎だろうとあたりを付けていたのに、アルトは彼に用事が無いという事だろうか。ともすれば、彼はすでに脱落したか、あるいは―――――。
「兄さんは、もう私の
「それに、彼女にはもう一つ借りを返しました。―――――ね、プラム」
そう自分の名前を呼ばれたガイアの獣は、横に臥せっていたその体勢のまま、片目を開け―――――未だに男女が抱き合っている姿を確認した後、まだやってんのかコイツラ、と言わんばかりに気だるげに目を閉じた。
人類の天敵たるプライミッツ=マーダーが、魔術師を2人も助けるなど、わりとこの星では珍しいを通り越して奇跡に近いものであるが、しかけた当の本人は何も気にしていないのであった。
それを言われると、弱いのがアヴェンジャーである。わりと説得する手段と言い訳が無くなってきた彼ではあるが、復讐者のままではこの少女のそばには居られない。
もはや猶予はない。傷つける気は毛頭ないどころか、今やりあったら普通に負けそうではあるものの、押し通るしか方法が無いのも事実であった。
「アルト、頼む――――――――」
吸い込まれそうなくらいに朱い瞳をのぞき込む。リシュアン自身は気が付いていなかったが、彼の朱い瞳の色は、もはや虹色に変化していた。
「やっと、私を見てくれましたね」
桜色の唇から、ぽつりとこぼれた。アルクェイドでもなく、遠坂凛でもなく。自分だけを見てくれたと。結局のところは、アルトルージュが嫉妬していただけの話しである。
この場合は止める気がさらさらなかったのもあるが、あふれる気持ちを止めることが出来ないのは、人間も真祖も変わりがないのであった。
「わかりました。令呪が欲しいのは事実ですし、許します。ですが、私もついていきますからね。もう守られるだけの妹ではないのです」
ここが落としどころだろう。リシュアンはうなずく。が、彼に残された時間は幾ばくもなく、早く決着を付けたいがためであった。そんな兄の気もつゆ知らず、つかぬ間の逢瀬を名残惜しむアルトルージュはきつくきつく抱きしめ続けるのであった。
◆
「おうさま」
「おや、女。良い所にきた。ちょうど終わったところよ。今からセイバーに聖杯の泥を飲ませる故、大聖杯の下へ戻るぞ。セイバーを運ぶことを赦そう」
そういって、ギルガメッシュはセイバーを地面に降ろす。受け身を取ることもなく、力なく落ちるその姿には、もはや生きているのかどうかも定かではない。桜は一つ頷くと、柳洞寺の白い砂利の間から、湧き上がるように黒い穴が出現し、剣の英霊を飲み込んだ。
それを見届けてから、ギルガメッシュは先立って大聖杯の下へと歩くべく、桜を追い越した。そのすれ違いざま、桜はギルガメッシュに声をかける。
「おうさま、先輩は―――?」
その問いかけに、英雄王は特に不敬をとがめることもなく返事をした。
「さてな」
「そうですか」
その返答は桜が望んだものではなかったが。セイバーが士郎の下から離れたことは理解できた。
自身が望んで――――――――、
そして自身にはふさわしくないと諦めた――――――――――、
その位置を。
――――容易に捨てたことを。
一時的に取り込んだセイバーの霊核を、そのまま飲み込む。
ギルガメッシュがそれに気づき、振り返るがもう遅い。
「きさま――――」
そして、そのまま黄金の王を
おおきなくちをあけて、のみこんだ。
◆
柳洞寺の地下。衛宮士郎と遠坂凛は、決着をつけるべくそこに向かっていた。サーヴァントを失ったマスターにできることなどたかが知れているし、少女の方はマスターですらない。だが、片方は
有数の龍脈である柳洞寺の、その地下。こんこんと湧き出る魔力の流れをたどっていけば、見つけたのは奈落への竪穴。黄泉への道。大の男が一人通れるかどうかという、狭く、そして暗い穴。
此度の聖杯戦争の勝利者が、最後に目指す場所。聖杯が顕在化し、己が望みを願いたてるために、目指すモノは、この先にあった。竪穴は、背中を着けながらゆっくりと足元を確かめながら下りなければならない。自らを守ってくれる従者はおらず、いつだれが襲って来るとも限らないこの状況で、彼らは相当の神経をすり減らして降りていかねばならなかった。
人の気配はない。ネズミや、コウモリなどの動物もいない。
ただ、侵入者を拒むかのような奥から巨人の咆哮にも聞こえる、うなる風の声。
入口より続く竪穴がおわり、横に穴は続いていく。天井は低く、鍾乳洞のように垂れ下がっている所もある。通路は狭い。ヒカリゴケの一種か、先ほどまでの闇とはうって変わって、横穴はぼんやりとした緑色に光っていた。
むせかえるほどの、
「あ―――――――」
前を歩いていた凛が、歩みを止める。不気味に光るこの洞窟内に置いて、そこだけ天井に穴が開き、月明かりが差し込んでいるような、そんな異質の空間。
「・・・アヴェンジャー」
己が呼び出したサーヴァントが一人。そして、自分からマスター権を奪った少女が一人。そばに控えているのは、ヒトならば簡単に殺せる、ガイアの獣。
戻ってこいとは言ったものの、ここで立ちふさがるか。いよいよ私も終わりね、と諦観しながらも、遠坂凛はポケットの中の宝石を握りしめた。
「リン。そして少年。よくぞここまで生き延びた。だが、再会を分かち合う時間すら惜しい。
その言葉に反応したのは士郎だ。思わず左手の甲を見やった彼は、セイバーとのつながりが切れてしまった喪失感が、自身の間違いではなかった事に気が付いた。
「だから、あなたたちがどうにかしてくれるのかしら。本来真祖も死徒も、魔術の領域に入ってくることなんかないのに」
そう。だから、自分たちがここまで来たのだ。あくまでもこの戦いには、生きている限り自分が最後まで見届けなければならない。凛はまっすぐと自身の従者だったものに対して告げた。
「そう。だから、なんとかするの。私たちだけでもできるけど、やっぱり貴方たちなら来ると思ったから」
口をはさんだのはアルトルージュだ。あくまでも今のアヴェンジャーのマスターは自分だと、見せつけるように。
「・・・手伝ってくれる、ということでいいのかしら」
「ええ、そうよ。ただし、そこの彼の令呪を渡しなさい」
士郎の左手にはきれいなままの令呪が残っている。士郎には、セイバーとのつながりが失せた後の令呪には、何の意味も見いだせなかった。
「助けてくれるんなら、渡しても――――」
「かまわないわ。でも、すべてが終わった後よ。あなたたちが今、アヴェンジャー以外のサーヴァントは全て敗退したと言ったけれど、あなたがセイバーを倒したかもしれないのに、みすみす渡せるはずないじゃない」
横の少女がそういったおかげで、ようやく衛宮士郎はその可能性に行きついた。そうだ、同盟を組んでいたのはあくまでも遠坂凛と自分だけの話しだ。アヴェンジャーが遠坂から目の前の吸血鬼にマスター権限が移った今なら、アヴェンジャーがセイバーを殺すことをためらう必要もない。
そうなってくると話は変わってくる。士郎は考えを改め、いつでも投影の準備ができるように身構えた。
「警戒してくれるのは結構。でもセイバーは私たちが倒したわけはない。信じてもらわなくてもこちらは困らないわ。あなたの懸念も最もだけど、時間が無いのは貴方たちも感じているはずよ。だって、ほら。もう生まれそうなんだもの」
巨大な生物の内臓の中にいるような、脈を打つこの空気。こうして話しているうちにも、その拍動は未熟な魔術師にも感じ取れるほど、感覚が短く、そして大きくなり続けている。
「だから、その令呪を渡しなさい。あなたのここまでの働きに免じて、この場では1画で許してあげる。すべてが終わった後、残りをもらい受けるわ」
それ以上の譲歩は赦さない。なんなら、遠坂凛の腕を引きちぎったときと同じ事をする。
言外に走らせたその最後通牒を受け取った凛は、士郎に令呪を1画引き渡すことを促した。
ややあって、それは正しくアルトルージュの雪原のようなお腹に刻み込まれ、それを確認したために浮かべた恍惚とした笑みに、遠坂凛が若干引いたのは別の話しである。
そうして、吸血鬼の一行は手を貸すことを了承し、魔術師たちは、未だ見ぬ最後の敵の下へと急いだ。
「―――――――――待っていましたよ、姉さん。先輩」
はたして。生まれくる胎児がはっきりとわかるほどの胎動を繰り返す大聖杯の前で待っていたのは。
彼らが予想だにもしなかった、変わり果てた姿の妹/後輩であったのだ。