女は蛇に言った、「私たちは楽園の木の実を食べることは許されていますが、ただその中央に当たる木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました。」
蛇は女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。」
旧約聖書 口語訳 第三章 一節〜五節
原初の罪
■ ■
闇の底へと落ちていた意識が手を伸ばした瞬間、顔面に眩い暖かい一条の光が降り注いだ。
あまりの眩しさに顔を顰め、僅かに目を開く。
光に照らされながらも、僅かに開いた目に映るのは見覚えのない天井。
「……これが、知らない天井というやつか。」
ノーネーム本拠の詰路諦の自室ではない、諦の全く知らない天井が、ベッドに倒れている諦の目に映った。
僅かであった目を一度閉じ、意識を完全に覚醒させてもう一度目を開く。そして、現状を再確認する。
体が重い。腹に力を込め、起き上がろうとしても起き上がる事が出来ない。やはり、まだニャルラトテップの攻撃のダメージが残ったままなのだろうか? と諦は起きたばかりであるにも関わらず思考を巡らせる。
仮にダメージが残っている為に起き上がれないとするならば、この温いのは何だ? 腹の辺りが何故か妙に温いのは、一体何故なんだ?
妙に温い腹の辺りに目線を向ける。すると、そこには―――
「…」
腕を組み、顔を横にして眠っている黒ウサギが居た。
諦の思考が停止する。らしくもなく、戸惑ってしまっているが故に。だが、それを考える為に再び思考を巡らせる。
何故、黒ウサギが居る? いや、これは簡単だ。考えるに、恐らくは看病をしてくれたのだろう。もしくは見舞いに来てくれたか。そのどちらかに絞られる。
だが、問題なのは次。何故、今の自分は戸惑っている? 黒ウサギが居る事に対して、黒ウサギが眠っている事に対して、何故戸惑っている?
戸惑う程のことでもない筈なのに、何故、戸惑っている?
……いや、別に気にする程のことでもないか。寧ろ、看病か見舞いをしに来てくれていた事を喜ぶべきだろう。
諦は思考を切り替えて、そう結論付けた。
「…とはいえ、起き上がれないのは辛いな…」
「良いじゃないか。男子にとっては喜べるシチュエーションだ。素直に喜んでおけ。」
扉が開かれ、そして部屋に入って来たのは、十六夜ではなくエデンであった。
「エデン。」
「おう、エデンだ。見舞いに来てやったぜ、馬鹿野郎。」
「馬鹿野郎と言われるとは…まぁ、言われても仕方ない事をしたのは確かだが…」
「あぁ、そうだ。見た時は驚いたぜ。まさかニャルと戦うなんざな。」
呆れながら、エデンは椅子に座って「改めて、お前の好奇心は底が知れねーなって思い知った。」と、皮肉を吐いた。
そして、諦へとニャルラトテップの事、それと同時にオムニスについても話し始めた。
「二桁の中心部で活動するコミュニティ“オムニス”の参謀役、ニャルラトテップ。まぁ、コミュニティつーか、ほぼ『神群』みたいなもんだがな、“オムニス”は。リーダーも副リーダーも参謀も、所属している奴らの殆どがクトゥルフ神話の連中だ。で、お前が戦ったニャルはその中でもソトースに並ぶ実力者だ。本当によく生きてたよ、お前。」
ニャルラトテップは魔皇であるアザ=トースと同等の力を持った土の精。この箱庭の世界においても、それは変わっていない。変わっていないからこそ、"理解不能"というギフトを持っている諦の攻撃を微動だにせず受け止める、僅か1秒で世界の果てまで吹き飛ばすといった事が出来たのだ。
そもそも、二桁の門に位置する連中は馬鹿げた強さを持っている修羅神仏ばかり。ニャルラトテップはその二桁で活動するコミュニティの参謀役である。諦よりも圧倒的な力を持つのは至極当然である。
だが、諦もそれは吹き飛ばされて理解している。故に、それよりも気になる事をエデンへと問う。
「エデン。俺を見た時と言ったが、俺とニャルラトテップの戦いを見ていたのか?」
諦はニャルラトテップと戦っていたが、しかし周囲の警戒を怠っていたという訳ではない。
ニャルラトテップと戦っていた時も、まだ巨人達は生きていた。巨人達が襲い掛かってくるという可能性もあったが故に、周囲の警戒は怠っていなかった。
だから、疑問に思ったのだ。「見た時は驚いた」という、エデンの言葉に。
諦の問に対し、エデンは?と頭に疑問符を浮かべて首を傾げたが、すぐに「あぁ、すまん。言葉が足りなかったな。」と、諦へ言葉が足りなかったと謝罪した。
「俺が見たのは、ニャルにぶっ飛ばされて眠ってたお前を、だ。で、お前の傷を見てニャルと戦ったんだな、って分かったんだよ。俺もニャルと戦った事あるからな。」
俺もお前みたくぶっ飛ばされたよ。遠い目をしながら、エデンは言った。
答えは分かった。だが、諦は驚く。エデンがニャルラトテップと戦ったことがある、という事に。
「戦ったことがあるのか? お前のような蛇がか?」
「おい、随分と失礼な言いようだな。まぁ、その通りなんだけどさ…。本当に戦ったがあるよ。伊達に白夜と旧友やってないんだ。昔の白夜とつるんどけば、色んな神が喧嘩振ってくるんだわ。迷惑も良い所だった。」
懐かしいなぁ…と、笑いながらエデンは椅子から立ち上がり、笑みを消して真剣な表情となって扉の前に立つ。
そして、
「諦。短かったけどさ、俺、お前と話すの楽しかったぜ。あと…もし、黒ウサギが起きたらさ、こう伝えといてくれよ。」
白夜、今までありがとうってさ。
悲しげに笑いながら、エデンはそう言った。
諦は疑問を抱きながら「分かった。じゃあな、エデン。」と、答えるのだった。
エデンは安心したように、部屋から出て行った。
その、次の瞬間。
『ギフトゲーム名“CONVICTION OF ORIGINAI SIN”
プレイヤー一覧
箱庭に存在する全てのコミュニティ(コミュニティ『オムニス』を除く。)
・クリア条件
一 己が罪を認め、自決せよ。
二 原初の蛇を狩り、己の罪を受け入れよ。
三 己が罪ある者である事を否定し、自らの無罪を証明してみせよ。
・敗北条件
参加するコミュニティの全滅
宣誓 上記を尊重し、誇りと御旗の下、箱庭に存在する全てのコミュニティはギフトゲームに参加します。
“オムニス”印』
そのような、無茶苦茶な内容の“契約書類”が現れた。
✻
燃え盛る街の中、白い巨体に三つの首を持つ竜が、肩まで伸びている死人のような白い髪と流血の如き真紅の瞳を持つ、白い蛇が巻き付いた戦斧を構える青年と対面していた。
「久しいな、『絶対悪』。私の事は憶えているかな?」
『忘れる訳がない。貴様だけは忘れぬぞ―――「原初の蛇」。人間でないにも関わらず、“アヴェスター”を起動した私に傷を与えた忌々しい存在故に。』
「そうか。憶えてくれていたならば光栄だ。」
『人類最終試練』―――ラストエンブリオ。
それは人類を滅ぼし、神霊を殺し、現状の箱庭の世界を滅ぼす力を持った魔王。最古の魔王の総称であり、人類を根絶させる要因の試練が顕現した存在。
“主催者権限”がそのまま擬人化したような存在であり、それ故に彼らは“契約書類”を必要とせずにギフトゲームを開催し続ける事が出来る。
青年の前に立つ三つ首の竜は、その『人類最終試練』が一体。
“拝火教”神群が一柱、五大魔王の三頭龍。幾多数多の神群を退け、月の兎の故郷である月影の都を一刻という僅かな時間で滅亡させた張本人。宗主より悪の御旗と箱庭第三桁を預かり、今世を魔王として過ごすことを約束された不倶戴天の化身にして人類の膿から生まれた悪神。
ゾロアスター教の聖典、アヴェスターに登場する最悪の龍―――「アジ=ダカーハ」である。
夜天を照らす凶星のような紅玉の眼、頭から頭蓋を貫通した杭を打たれた異形の三本首の白蛇だ。
「だが、今の君も一人の参加者、ゲームに参加し勇気と知恵を働かせて戦いへと挑む、彼らと同じプレイヤーだ。君が人類最終試練という最古の魔王であろうとも、しかしそんな事は知った事ではない。君は彼らが倒すべき怨敵であると同時に、彼らと共に私を斃さなければならない人類の味方でもある。」
青年は笑う。挑戦的かつ、諧謔的な感情が含まれた笑みを浮かべて、戦斧を担ぐ。
眼の前の魔王に恐れず、箱庭において最も畏怖されている最大の存在を前にしても一切の恐怖を抱かずに、青年は断言した。
お前は俺の敵であり、そしてお前の敵である人類はお前の味方である、と。人類の敵である筈のお前は人類の味方をしなければならない、と。
悪神は、顔を顰めた。
『…解せんな。貴様は、そうまでして“死にたいのか?”』
「…死にたくないさ。出来ることなら、まだ生きていたいよ。やりたい事も沢山あったしな。白夜とも、ソトースとも、帝釈天とも、そんな色んな奴らと関わって、楽しく生きてた。でも、俺の在り方は既に定まっている。人類が人類を滅ぼす悪であるお前達とは違い、俺は生まれ落ちたその時から全存在を滅ぼす事を定められた真の魔王だからな。」
青年は、魔王である。
“真性魔王”―――それは、人類最終試練と似て、しかし彼らとは異なる存在の魔王。
人類の星を滅ぼすかもしれない愚行によって生み出される人類最終試練とは違い、突如として生まれ、そして生まれ落ちたその時から魔王である事を定められた真の魔王。
真性とは、生まれつきの性質。即ち天性。名は体を表すという言葉の通り、“真性魔王”とは生まれついての魔王という事である。
青年―――真性魔王“
神群の秘奥である疑似創星図と最も多くの神仏が宿る太陽主権を兼ね備え、今この時を以て人類最終試練すらも敵に回し、箱庭の為に糧となる事を決意した魔王。
その青年の真名を―――「エデン」と言う。
蛇とは、狡猾な存在ではあるが、それと同時に神としても崇められている。