わたしは恨みをおく、おまえと女のあいだに、おまえの末と女の末との間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう。」
つぎに女は言われた、「わたしは貴女の産みの苦しみを大いに増す。貴女は苦しんで子を産む。それでもなお、貴女は夫を慕い、彼は貴女を治めるであろう。」
更に人は言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと私が命じた木から取って食べたので、地は貴方のために呪われ、貴方は一生、苦しんで地から食物を取る。
地は貴方のために、いばらとあざみを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。
あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、あなたは土から取られたのだから。あなたは塵だから、塵に帰る」。
旧約聖書 創世記 口語訳 一四〜一九節
✻
突如として現れた訳の分からない“契約書類”を見た諦は、凄まじい速度で布団から抜け出して、掛けてあったパーカーを急いで取って纏い、窓から燃え盛る街へと駆け出した。
既に理解してしまった。だが、らしくもなく信じたくないと思っている自分が居る。その事実は嘘であってくれと必死に思っている自分が、居る。
こんなのは自分ではないと思う暇も、今の諦にはない。今は兎に角、この目で見るのだと。この目で真実を確認するまで、絶対に認めはしない。そんな思いで、諦は街を駆けているのだ。
街は燃え盛っている。だが、諦は燃え盛る街には目を向けていない。“万全の能”を使用してエデンの気配を探り、ただ必死に探し回っている。
エデン。白夜叉の旧友にして“ノーネーム”の友人。十六夜や飛鳥、耀や諦と話すこともあれば飯を食べた事もあり、奢った事もあるし奢られた事もあり、また遊んだ事も遊ばれた事もある友人。
物語に登場する事は少なかったものの、しかし一ヶ月や数年という時間で、諦達はエデンと長く関わった。
それ故に、諦は信じたくないのだ―――“エデンと殺し合わなければならない”という現実を。
「っ、まだだ。まだ確定した訳じゃないんだ…!」
言い聞かせるように、自分を落ち着かせる為に、諦は独り言を吐く。
だが、それは無意味な言葉である。
何故ならば、今の諦は“
それ故に、諦は既に理解してしまっているのだ。契約書類に刻まれた、勝利条件の意味を。そして、『原初の蛇』という存在が誰を指しているのかも。
ぎりっ、と歯を食いしばる。握り潰さん勢いで、拳を握り締める。
手のひらから血が流れる。だが、無視して走る。兎に角、走って、走って、走って、走って。
そして、立ち止まった。
「これ以上は進ませないぞ、狂人。」
白髪の少年が、立ち塞がったから。
諦は眼光を尖らせ、蓋世の如き殺気と狂気を発しながら、
「…其処を退け。邪魔をするな、ガキ。」
荒い言葉遣いで、少年に告げる。邪魔をすれば、お前を殺すと、殺気と狂気で物語る。
しかし、少年は表情を変えない。寧ろ、好戦的な笑みを浮かべて、「やれるものなら、やってみろ。」と断言して見せた。
次の瞬間、少年は自分の目を疑った。
「―――は?」
少年の目に映るのは、炎が燃え盛る破壊されてしまった街などではなく、ただただ紅い天空と、境界線に沈みつつある眩しい光の球。即ち、夕焼けの空であった。
何だ? 一体、何が起きた? 何をされた? 彼奴は、俺に何をしたんだ?
疑問が少年の思考を埋め尽くす。自分が狂人に何をされたのか分からない少年は、ただ呆然と空を舞っている。
何をされたのか? 答えは実に簡単だ。何ら難しいことなどではない。
ただ、単純に。少年が諦の"
が、
ドゴッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
激しい空気の爆ぜる音と鈍い音と共に、少年が見ていた夕焼け空の景色も、直ぐに変わった。
見慣れた街。燃え盛るセカイ。先程まで少年と諦が居た、〝煌焰の都〟の地面に、少年は顔を半分を埋められて倒れ伏せていた。
「っ、」くそ。
そう言おうとしたが、次の瞬間に再び強い衝撃が少年の体を迸り、バギィッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!! と、骨が完全に砕けた音が大きく鳴った。
風圧を身に纏い、全身の骨に罅を作り出して少年は彼方の方向へと吹き飛ばされ、
「…」
バキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキバキッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
轟音と共に放たれた一直線の雷光と、緑色の球体から放たれた鋼すらも溶かす光線に体を撃ち貫かれた。
諦は少年を見ることもなく、再び急ぎ出した。
✻
刃の如く尖った風の斬撃が、次々と蛇の体を切り刻まんと尋常ではないスピードで飛翔してくる。
だが、蛇が戦斧を振り下ろした瞬間にその尖った風の斬撃は掻き消され、蛇に飛んだ斬撃とは別に、振り下ろされた戦斧が生み出した真空の刃が絶対悪の三頭龍へと飛燕のように飛んでいく。
万物を切断する真空の斬撃は、その表現に違う事なく本来ならば掠り傷すら負わぬ筈の三頭龍の白い巨体に大きな傷を刻み、三頭龍の顔を顰めさせる。
『私に傷を負わせるか…やはり忌々しいな、貴様の「神装」は。』
「当然だ。この刃は人類の『
『…人類の
狂人。それ即ち、詰路諦の事。
絶対悪であるアジ=ダハーカと同じ、「悪」を背負う者。
だが、アジ=ダハーカの言葉を蛇は否定する。
「いいや、違う。諦は『原典候補者』ではない。諦は―――“決める者”ではなく、“
『解く者だと?』
「そう。誕生が円環状になっている人間と神様の関係に対して、『どちらが本当の原典であるか』を問うための代表者であるのが原典候補者だ。だが、諦は本当の原典であるのかを“問う”のではなく“調べる”人間だ。人でありながら、人の誕生と神の誕生のどちらが正しい始まりなのかを調べ、探し、究める者―――『
人が神を生み出したのか、それとも神が人を生み出したのか。原典候補者というのは、その問いを決定する為の代表者であり、人類の代表者は〝
エデンから言わせてみれば、諦も十分以上に原典候補者に相応しい人間なのだが、しかし諦は自らその座を降りるだろうと確信している。
諦の性格上、ただ問うだけなどつまらないと断言する。そんな確信があるのだ。
諦であるならば、あの異端児であるならば、ただ問うのではなく自ら謎を探し、調べ、そして隅から隅まで理解しようとする。それが、詰路諦という人間である。
質問の代表者などではなく、質問の意味、どうしてその質問が投げられたのか、その質問に真実性はあるのかといった部分を調べようとする探究者。
それが、詰路諦。そして、それ故にエデンはこう呼んだ―――『
「彼は誰にも理解されない。例え相手が神であろうとも。だか、誰もが彼を理解出来ずとも彼は全てを理解出来る。…まぁ、貴様には関係無い事だがな。
貴様はそれを見ることもなく
戦斧を構え、蛇は三頭龍へと真正面から襲い掛かる。
ヒュン、と風を切る音。
その直後、都の街が切り刻まれ、吹き飛ばされ瓦礫が蛇の方へと飛んでいく。
が、それは塵の如く切り刻まれ、蛇は体を止めることなく猛進する。
だが、それだけで攻撃は終わらない。刃物の如き鋭い片翼が、蛇の顔を真っ二つに斬り捨てようと振るわれる。
躱す。首を横に動かし、眼前にまで迫っていた刃翼を紙一重で躱すと同時に戦斧を振り上げて刃翼へと一撃を加える。
血が飛ぶ。人が跳ねられ、重力に逆らうことなく地面へと落下するように、血もまた重力に従って煉瓦の地面へと落下し、一部を染める。
白蛇が巻き付いた、翼のような形の刃を持つ戦斧―――『
それは創世記の第三章の指話。人類の祖たるアダムとイブが蛇に騙され、禁断の実を食べた事が原因で楽園から追放され、大地へと降り立つ物語。
その題名を関した戦斧は、霊装などではなく神装。即ち、神の武装である。
斬撃や打撃といった攻撃では傷を負うことなど殆ど無い三頭龍の体に傷を負わせる事が出来るその武器は、三頭龍にとっても、その他の人間にとっても脅威。
それ故に、三頭龍は再び顔を顰め、『いでよ、そして蛇を狩れ』と、詠唱した瞬間、三頭龍の血が付着した煉瓦の地面の一部が、まるで生物の如く動き出した。
「『双頭龍』か…」
三頭龍の血が付いた大地、枯れ木といった物体を眷属である双頭竜へと変貌させるという、厄介なギフトの一つ。
第一世代は神霊級の強さを誇り、本体の命令を忠実に従うのみで意思や感情は宿っていないが、闘争の点においては知恵が回るのだという。
蛇を狩れ、という三頭龍の命令に答えるように、双頭龍は煉瓦の地面から現世へと顕現し、蛇へと襲い掛かる。
「―――タナハ解読。〝原罪〟判決」
その言葉と共に、人類を堕落させ、殺害する
罪を生み出したのは人であり、しかし罪を与えたのは蛇である。