風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。
川はみな、海に流れ入る、しかし海に満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く。
すべての事は人をうみ疲れさせる、人はこれを言いつくすことができない。目に見ることに飽きることがなく、耳は聞くことに満足することがない。
旧約聖書 口語訳 「伝道の書」 五節〜八節
✻
楽園。生命の終着点、幸せのみがただ在るだけの世界。
苦痛はなく、困難もない。ただの幸せと娯楽のみが、その世界には在るのだ。
だが、
「それは、見方を変えれば辺獄だ。」
楽園は今、地獄と化している。
楽園に育った樹木は燃え盛り、その樹木に宿る禁断の果実も燃え、塵となって風に乗って飛んでいく。
白蛇がその光景を嘲笑う。残酷に、滑稽に、地獄と化してしまった楽園を嗤う。
三頭龍は、ただ沈黙を纏って地獄を見詰める。誰もが幸せに生きていた世界が、誰もが死んでしまった世界と化した光景を見て、何かを思うという訳でもなく。
悪は静観する。その光景を見定めるかのように、静観している。
そして、徐ろに口を開いた。
『貴様は、何がしたいんだ?』
怪訝そうに、三頭龍は蛇へと問う。
三頭龍の問いは、至極当然のものであった。
三頭龍は
だが、エデンはどうか?
真性魔王、生まれ落ちたその時から魔王。人間に罪という概念を背負わせる原因。だが、それだけ。
存在自体が危険的である事は理解されているが、しかし彼の目的自体が一切として分からないのだ。
何のために、こんな大規模なギフトゲームを引き起こしたのか?
何のために、全員を巻き込んで自分を殺すようなギフトゲームを引き起こしたのか?
人類の為なのか、仲間の為なのか、それとも箱庭の為なのか。
目的は不明。予測は出来てもあやふやで、不確定的なものでしかない。
「…あー、そうか。思えば、ちゃんと話してなかったっけ?」
エデンはぼやいた。つい、〝真性魔王〟としてのエデンではなく、〝ただの蛇〟エデンとしての口調で。
「といっても、別にお前みたいに大層な目的って訳でもないんだけどさ。んー…なんて言うんだろうな…簡単に言えば、『自殺』かな?」
『…………自殺、だと?』
貴様、本気で言っているのか? と言いたげな目を向けながら、三頭龍は驚いた。
ここまでして、〝オムニス〟まで引っ張って全コミュニティを巻き込んでおいて、その目的が自殺。
それこそ訳が分からない。ただ自殺したいのであれば、こんな大きな遠回りなんかせずに自殺すればいい。
故に、アジ=ダハーカには分からない。エデンが何故、このような遠回りをしてまで行うのが自殺なのか。
たが、それを見透かしたように、エデンは笑った。笑って、続けた。
「はは、そう阿呆面するなよアジ=ダハーカ。俺だって、こんなのでも最古の魔王の端くれだぜ? ただ自殺したいってだけじゃないよ。」
『……では、何だ? 何が理由で、ここまで大規模な事態を引き起こす?』
「俺が、生まれ落ちたその時からの魔王―――生まれた時から、全人類を滅亡させてしまう一種の終末として定められている存在だから。」
誕生した時から、全人類を滅亡させる一種の終末的存在であるから、自殺したい。
そんなエデンの言葉に、アジ=ダハーカは特に驚くことはなかった。
寧ろ、その言葉を聞いて『…なるほど。そういう事か。』と、納得したようだった。
『貴様は原初の蛇。人類に罪という概念を背負わせた、人類を人類として足らしめた元凶にして罪の源。そんな貴様が、この箱庭に誕生し、魔王として確立した。それ故に自殺したいという願望を貴様は抱いた。それ即ち、貴様の魔王としての在り方が「人類を滅亡させる元来の魔王」であるからという理由が自殺願望の答え。未だ人類と神の誕生の原典の答えを見出だせていない箱庭の世界で、人類を滅亡させようとする貴様は最悪にして真の魔王。だが、貴様はそれを認めていない。寧ろ、拒絶している。故に、貴様は自殺を望んだ。人類史を、箱庭を滅ぼさない為に。』
真性魔王。誕生した瞬間から、魔王として確立された正真正銘の魔王。
それ故に、その在り方は誕生した瞬間から定まっている。定まってしまう。
エデンの場合、人類という存在に罪という概念を背負わせた元凶という事実が作用した事によって、『全人類の滅亡』という在り方が定着してしまった。
エデンは本来ならば力を振るえない筈の神群の秘奥を扱え、そしてその所為で目的を達成する事が出来る存在となっている。
だが、エデンはそれを否定している。拒絶している。自業自得でありながら、人類を滅ぼすという自らの運命を拒んでいるのだ。
故に、エデンは自殺の道を選んだ。それと共に、いつか現れる自分と同じ存在の為に、次の〝真性魔王〟の対策の為に、踏み台になるとも決意した。
エデンは白夜叉と出会い、そしてその過程で様々な神々と出会い、最期にノーネーム一行と邂逅した。
そこから、エデンは決めた。自殺を決行しようと。
自分を必要悪に仕立て上げ、魔王として殺されようと。
「殆ど正解。でも、ちょっと違うかな。」
だが、アジ=ダハーカの内容は少し違うと、エデンは否定した。
エデンは戦斧を構え直す。それと同時に、座り込んで静観していたアジ=ダハーカもまた立ち上がる。
少しの静寂が訪れた後に、
ヒュンッッ!!! と、風圧が鋭い剣と化し、静寂は鳥達の如く過ぎ去った。
「俺はただ、友達を殺したくないだけだよ。」
エデンは、無邪気な子供のように笑いながらそう言った。
✻
その頃、詰路諦は無様にも倒れていた。
怪我が完全に治っていないにも関わらず、無理して走り、尚且つ戦闘した事により怪我が悪化したのだ。
怪我を負わせた相手はニャルラトテップ。クトゥルフ神話において最強の魔皇と呼ばれる外なる神と同等の力を持った神である。
その一撃を喰らい、それでも尚死んでいないことが、そもそもの奇跡である。
「…っ、くそっ、くそっ…! 動け、動け…!」
膝から崩れ落ち、地面に伏せながらも、しかし諦は動こうと、這いずろうと力を込めていた。
だが、それは虚しくも実る事は無い。ただ時間が経過していくのみであった。
『タナハ解読。〝原罪〟裁決』
エデンの声で、その言葉が街に響いた瞬間から、諦は倒れた。
怪我の影響もあってか、諦は指一本も動かせなくなって、倒れる事となったまま。
ただ、動けぬ自分を憎むまま、後悔するまま、倒れ伏せるのみである。
「ぁぁ…あぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッッッッッッッッッ!!!!!!!!!!!!!!!」
慟哭が上がる。そして、虚しく消え失せ、無の底へと落ちていく。
以前の諦でも、考えられない変わり様だ。
〝ノーネーム〟を魔王打倒の道具にしか思っていなかった狂人とは。
〝黒死斑の魔王〟を外敵、実験対象としてしか見ていなかった異端児とは。
もはや、全く違う。様変わりというよりは、まるで転生したかのようだ。
だがそれも、ノーネームのお陰。彼が道具にしか思っていなかった筈の、仲間達のお陰である。
「居ました! 諦さん!」
黒ウサギの声が聞こえる。
だが、諦は立ち上がれない。どれだけ力を込めようと、立ち上がる事はおろか、体を震わせることすらもままならないのだ。
産まれたての小鹿にすらなれない。ただの物と変わらない。
黒ウサギが駆け寄り、諦へと声を掛ける。
「大丈夫でございますか!? 立てますか?」
「っ…立てない。動くことも…ままならない…」
声を震わせながら、諦は零す。
後悔と情けなさ、そして怪我の苦しみが諦の体の中を駆け回っている。
(諦さんが、このような表情を浮かべるなんて…って、今はそんな事を気にしている場合ではございません!)
「諦さん、少し失礼しますよ!」
黒ウサギは倒れる諦を軽々と持ち上げ、世間で言う所のお姫様抱っこで上空の城へと跳び上がる。
諦は何かを喋る訳でもなく、ただ苦しい表情のまま無言を貫いていた。
黒ウサギは城の入口へと到着し、そのまま城内へと入り込む。
中には、まだ傷が癒えていない十六夜と、蛟劉が立って待っていた。
「よぉ、おかえり黒ウサギ。諦は大丈夫か?」
「いえ…怪我がまだ完全に癒えていないのに無理をした所為で、諦さんの怪我は悪化してしまいました。」
「あらら…そりゃ災難やね。でも、諦くんにとって、それ程までにエデンが大切やったって事やろ?」
なんか、噂と全く噛み合っとらんなぁ。
蛟劉の言葉に、諦は何か言い返す事は無かった。ただ、沈黙を纏うまま、黒ウサギに抱かれたままであった。
「…取り敢えず、黒ウサギは諦を部屋に運んでくれ。諦、色々と話してもらうぜ。」
十六夜の言葉に、諦はただ静かに、そして短く「……あぁ。」と、弱々しい声で言葉を返す。
そのまま黒ウサギに部屋へと連れて行く諦を見たまま、十六夜は「はぁ…マジかよ。」と、頭を乱暴に掻きながらぼやいた。
「あんな弱々しい諦は初めて見たぜ。」
「僕はそもそも諦くん見るの初めてやから分からんけど、普段はどない人なの?」
「探究心と好奇心に溢れる根っからの研究者だ。でも、興味が無いものにはとことこん興味を持たねぇ。」
「へぇ…やっぱ、噂は噂なんやねぇ。噂じゃ『誰もを狂わせる狂人』やったり、『全知すら理解する事を拒む禁忌の権化』とか言われとったらしいんやけど。」
「……いや、あながち間違いじゃねぇよ。」
十六夜は目を細めながら、そう言う。
「…どういう事や?」と、蛟劉が声のトーンを落として問う。
「諦のギフトの一つ、〝
〝理解不能〟―――全知の一端、量子論によって全てを観測し、「上に投げれば下に落ちる」とされる程の信憑性を持った未来予知能力を持ったラプラスの悪魔ですら理解する事が出来ない、諦の恩恵。
ギフトカードに記された、そのギフトを見た白夜叉は「ラプラスですら理解する事が出来ぬ恩恵とは…」と、驚愕していた。
未だ正体を明かされていない十六夜のギフト〝正体不明〟以上のギフトであると、十六夜は予想している。
「つっても…あんな成りじゃあ、俺も分からねぇけどな。」
(…あんなんでも、まだ子供か。ほんま、世間ってのは酷いな。)
蛟劉は、静かにそう思うのだった。
「……あの馬鹿者め。」