目覚まし時計のけたたましい鳴き声に意識が呼び起こされ、樹はゆっくりと体を起こす。目をこすりながら自室の窓を開けると、眩しい日差しが入り込んでくる。あくびをしながら一階へと降りると母親が朝ご飯を作ってくれていた。ホカホカの白ご飯に、半熟の目玉焼き、そしてこんがり焼けたベーコン。それらをあっという間に口の中に突っ込むと、歯を磨き、自慢の茶髪を整えて学校にいく準備をする。もちろん前髪に二つヘアピンを付けるのも忘れない。
制服に着替えて外へでると、若干冷え込んできた風が秋を主張してくる。学校に行く途中ですれ違う子供や大人たちは、そのほとんどが衣替えの季節を終えて長袖を着込んでいる。落ちてくる葉もいつの間にか黄色に変化していた。
「秋、だな」
歩きながら一人、樹は呟く。実のところ、樹は最近非常に気分が良かった。ライバルからの激励を受けて、野球を続ける決意をした。最も頼れる祖父に相談して、志望校も決まった。後は決めた場所に向かって進むだけ。道がはっきりと定まった樹の生活は、ようやく円滑に回り始めた―――
「やぎゅうやめないでぐれよおおおお!!」
「お前がいなくなったら寂しいじゃねえかよぉ!」
「分かった!分かったからしつこいってのお前ら!」
とはいかなかった。午前8時、3年生の教室の一室。肩にかけたカバンを机に下ろしてすぐの事だった。唐突に仲の良い二人の友人に泣きつかれた樹は、はっきり言って困惑していた。
何て言ったって、石黒に檄を飛ばされたのがつい一週間前の話だ。人の噂には戸が立てられないとはよく言ったものだが、どこからその話が漏れたのか。石黒か?いやいや、彼女に限ってそんな事はない。そもそも彼女はそういう噂話だとかを一番嫌うタイプだ。それに彼女が発信元なら、俺が結局野球を続けると言った事も伝わっているはずだろう。
(となると、監督か…?)
この話を直接したのは石黒と監督の二人だけだ。となると、犯人は後者しかいない。…念のため、一応確認は取っておくべきか。
「なぁお前ら、その話誰から聞いた?」
「誰からって…後輩から」
「え?」
「え?」
予想外の言葉に思わず言葉が出てしまう。あの時彼らは練習中だったはずだ。それがなぜこの事を知っているのか。
「はぁ……お前ら一体どんな話を聞いたんだ?」
「いや、この間後輩から連絡が来てさ。お前が何やら神妙な面持ちで監督と話していたのを見ていたらしいんだよ。お前、県外からのスカウトが来てなかったんだろ?それであまりにも思い詰めた顔してたもんだから、もしかしたら野球辞めるんじゃないかって後輩たちの中で噂になって」
「それで今に至る、と」
樹は頭を抱えたい気持ちだった。まさか後輩にそこまで悟られていたとは。恥っっっず!!もう当分練習見に行けないじゃん!何にせよ、こればかりは自分の失態だ。監督よ、疑ってごめん。でもどうせ石黒にこの事を伝えたのは監督だろうからやっぱ取り消すわ。そうじゃなきゃ石黒にあんなに早く話が伝わるわけがない。
「なあ樹、お前は野球辞めたりなんてしないよな?」
「だのむよぉぉおお!またお前と一緒に野球がじだいよぉぉぉぉ!!」
「だーかーらー、辞めたりしねぇっての!」
「本当か?本当の本当に本当か?」
「俺たちをごまかしてひっそり辞めるなんてつもりじゃないだろうな!」
二人はほとんど聞く耳を持ってはいないようだ。席を立ってじりじりと顔を近づけながら疑いの視線を向けてくる。残念ながら樹には男に詰め寄られる趣味はない。よってこの状況は地獄であった。せめて詰め寄られるなら女子が良かった。そう、丁度今廊下から見える黒髪ロングの美人みたいに―――
「失礼する!橙山樹はここにいるか!」
前言撤回。勢いよくこちらの視界に飛び込んできたのは紛れもなく石黒だった。あいつに詰め寄られるのだけは勘弁願いたい。とはいえ、諸々の事情を知っている彼女の存在は間違いなく助け舟だと言えた。
「ちょうど良かった石黒!助けてくれ、こいつら二人が俺に野球辞めるなってしつこいんだ!お前からも何か言ってやってくれ!」
「なぁ石黒~!樹が野球辞めるかもしれないって噂になっててよー!!」
「余計な事言うなバカ!」
「…ふうん?」
「お、おい。石黒?石黒さーん?」
「いい機会だ、君が捨てようとしていた物がいかに重大だったのか知ればいい。止めてくれる仲間がいて良かったじゃないか。僕が彼らの立場でも止めていたさ。ここまで必死になりはしないけど」
空いた席にスカートをたくし上げながら座る石黒。お前の止め方も中々に不器用で必死だったけどな、という言葉が喉まで出かかったところで止めた。その言葉は余計な火種にしかならない。それにしてもまさか通りがかったと思った助け舟が泥舟どころか敵の戦艦だったとは。
「その件に関しちゃ本当に迷惑かけたと思ってるし悪かったって!でも今は違う、ちゃんと自分の意思で野球を続けたいと思ってる!」
「…本当だな?」
「ああ、大マジだ」
お互いの視線がぶつかり合う。二人の間に一瞬とも永遠ともとれる短くて長い間が空いたのち、沈黙に耐えかねた石黒が大きなため息を吐いた。
「分かった、その真摯さに免じて今回は助けてやる。二人とも、落ち着いて聞け。橙山は今のところ野球を辞めるつもりはない。僕が保証する」
「…」
「石黒がまぁ、そう言うなら」
やはり主将を務めていただけあってその影響力は大きいのだな、と樹は感心する。先ほどまでやかましかった二人もその一言で落ち着きを取り戻し、席に着いた。
「な、なんだよ樹~。続けるなら続けるってそう言えよー」
「いや俺は最初からずっと言ってたからな!?お前らがブレーキかけなかっただけだろオイ!」
何というか、まだ授業も始まってない朝だと言うのにとても疲れた。主にこいつらの相手をするのが。もう気持ちは家へと向いている。さっさと帰って素振りの練習でもしたい。
「っていうか、お前らは野球続けんのか?」
「そりゃあ勿論」
「俺ら同じ公立の高校に行くんだ!まーつっても野球の面で言えば弱小もいいとこだけど!」
「お前らも続けるんだな!いやー良かった良かった、流石に俺に野球辞めるなと言っておいて続けないわけないよな!試合で会ったらギッタギッタにしてやんよマジで。…あっ、それよりも石黒」
座ったままこちらを眺めている石黒に視線を戻す。彼女は「暇だったから」とかそういう理由でわざわざ教室にまで来るような人間じゃない。ここに来たということは、何かしらの用件があるはずだ。
「なんか用事があって来たんだろ?」
「あぁ、そうだった。君たちの漫才を見ている内に忘れてしまっていた」
「漫才じゃねぇわ!」
「まぁそこはどうでもいい。本題は監督からの言づてだ。11月のシニアの引退試合に参加する気はないか?」
「引退試合ぃ?」
「言い方が悪かったな、要は送別試合というわけだ」
引退試合、というワードに少し引っかかったがなるほど、そういう意味ね。どうやら3年生対1・2年生のチームで試合をするらしい。となれば、正遊撃手である俺が参加しない理由はない。
「参加するに決まってんだろ!リードオフマンは俺のものだからな!お前らも参加するよな!」
「…あー、そりゃ参加はするけどさ」
「お前まだその話来てなかったのかよ!?先週にはその話来てたぞ?」
「ちょ、馬鹿。そういう事言うなって」
「え?」
マジかよ。ひょっとして俺だけハブられてる!?いやいや、いやいやいや。いくら何でもそれは酷くないか?まぁ他の理由があるのかもしれない。もしかしたら偶々伝え忘れた可能性だってあるし。
「え―――、何で俺んとこにその話が来てないわけ?」
「それは君が野球を続けるかどうか悩んでいたからだろう。監督も相当悩んでたみたいだぞ。参加はしてほしいが、本人が望まないのならあまり勧めるべきではないと」
石黒は表情一つ変えず淡々と意見を述べる。なるほど、監督も監督なりに気を遣ってのことだったらしい。それにしたって一言くらい何か言って欲しかったけど。
「確かに!送別試合で本当に引退しちまったら元も子もないもんな!」
「生意気言うのはこの口か~?」
「わるひゃっひゃ!わるひゃっひゃからひゃなして!」
「…君たちは本当に楽しそうだな。まぁ答えが聞けたから良しとしよう。この件は僕から監督に伝えておく、それでいいか?」
「異議なし!」
「ならいい。そろそろホームルームが始まる時間だから、僕はこれで失礼するよ。…11月、楽しみにしてる」
石黒が席を立って、つかつかと音を立てながら教室を出ていく。秋風に揺れる長い黒髪からは、シャンプーか何かなのか、ほんのりと甘い香りがした。彼女の背中を見つめながら、樹を除いた二人は話し始めた。
「あの綺麗な後ろ姿もあと半年足らずで見納めか。名残惜しいぜ」
「品行方正で美人、それで運動もできると来た。ありゃあ東京に行って彼氏でも出来るんじゃねーの」
「そう言えばあいつ、この間サッカー部の部長から告白されたらしい」
「ほーん、それで結果は?」
「そりゃあもう玉砕よ。『しばらくは野球に専念していたいから』ってばっさり」
「うわー、なんていうかそこらへんはさすが石黒って感じだな」
「ちょっと堅苦しいところもあるけど、逆にそこが良いよな。樹、お前もそう思うだろ?」
「ん?ごめん聞いてなかった、何の話?」
「お前…」
「石黒の話だよ。ここだけの話、ぶっちゃけお前石黒のことどう思ってんの?」
「どうって、そりゃああいつは守備もうまいし、パワーはそこまで無いけどどの方向にも打てる。今まで組んだ人たちの中じゃ、一番いいセカンドだよ」
再び訪れた、しばしの沈黙。二人とも口をあんぐり開けて、次の言葉が出ない。何も言わない、というよりは何も言えない、の方が近い。俺、変な事言ったかなぁ?
「お前…マジでお前さぁ、そういうとこだぞ」
「この野球星人がよぉ。ちょっとモテるからって調子乗んなよ」
「突然の罵倒!?何だよお前ら急に冷たくなりやがって!」
「俺らが聞きてーのはそういう野球の話じゃねーの!異性としてどう思ってるかっつー話だよ!」
そう言われて気づいた。そんな事を考えたこともなかった自分に。あいつは、石黒は俺にとって異性である前に同じ二遊間を組んできた相棒であり、戦友であり、ライバルだ。こう言うと失礼に聞こえるかもしれないが、異性として見たことはほとんどない。そういう目で見るのは何か石黒に対して失礼な気がして、出来なかったのだ。
「異性として…?」
「ダメだコイツ、野球に脳が支配されてやがる」
「あー、じゃあ見た目!石黒のルックスについてどう思ってんだよ!」
ほとんど苦し紛れに出てきた言葉に、手を顎につけて思考を巡らせる。まあ世間一般的に言えば石黒はきっと美人の類なのだろう。思っても口に出したことはないけど。
「見た目っつってもよぉ…。そりゃあ、モテるんだし美人なんじゃねーの」
「うわ出た。そういう客観的な意見じゃなくてさぁ、おまえ自身の意見としてはどうなのよ」
「?何で俺に対してそんなにしつこく確認するんだ?」
「いいから!」
「…まぁ、いい見た目してると思うよ。あのサラサラな黒い髪がよく似合う大和撫子って言えばいいの?はい、これでいいか?」
「なーんか納得いかねぇ。特に最後の一言が」
「本当にそう思ってるなら一回だけでもいいから直接容姿について石黒のこと褒めてやれよ。きっとあいつ喜ぶぞ」
「何で?」
「野暮な事聞くんじゃねぇよ。とにかく卒業までに最低でも一回は褒めてやること!いいな!」
「えぇ…」
「おーい、そろそろホームルーム始めるぞー」
教室に入ってきた担任の一言でそれぞれが席に戻っていく。…石黒を褒めてやれ、かぁ。そりゃあ野球じゃあお互い励ましあってきたけど、容姿について褒めるのは今更な気がしてならない。というか、どうしてそこまで俺をけしかけるわけ?
結局、その言葉の意味がよく分からないまま、時間は過ぎていき―――
「なぁ樹ー。ここちょっと教えてくれよ」
「あ?ここはこうやってだな…」
「おー、なるほどね。やっぱ樹は教えるの上手いよな。今からでももっとレベルの高い高校受けてもいいんじゃねーの?」
「そりゃあ滑り止めで受験はするけどさ、やっぱそこそこ以上に強いところで野球がしたいんだよ俺は」
「ふーん…まぁお前がそれでいいならいいんだけどさ」
時が流れて行って―――
「…げっ、フォークダンスの次の相方はお前かよ」
「何か不満か?いいじゃないか、これまで二遊間を組んできた仲だろ?」
「不満じゃねーけどよぉ…」
「それじゃ、しっかりとリードしてくれよ。橙山
「何つーか、嬉しそうだなお前」
「そう見えるか?まぁ君を振り回す立場になれたという意味では、楽しいかな」
「…ヘンな奴」
「うおお!すげぇ、最後は白と赤のアンカーの一騎打ちだ!」
「頼むぞ樹ー!」
「へへへ、任せとけって!」
『さぁお互い最終走者にバトンが渡った!赤組のアンカー・橙山君がわずかにリードか!いや、白組をグングンと引き離していきます!そして最後は余裕を持ったまま、橙山君がゴ――ル!!』
「さすが橙山!お前ならやってくれるって信じてたぜ!」
「いやいやこれくらい何てことないって!でも褒めてくれるんなら素直に従っちゃおうかなー!もっと褒めろ、そして崇めろ!」
あっという間に肌寒い11月となり、引退試合の日を迎えた。
「やめないで下さいよ橙山先輩!俺、先輩に憧れて野球始めたんです!」
「私も、先輩のアドバイスのおかげでここまで上手くなれたんです!」
「先輩が高校行かずにバックパッカーになるって本当なんですか!」
「あー、大丈夫大丈夫!やめたりしねーから!…っておい、最後の噂はどっから来た!?」
なんだろう、すっげーデジャヴ。ちょうど半月前ほどにこんな感じで迫られたことがあったっけ。横を見ると、石黒も後輩たち、特に女子に群がられている。まぁもともと先輩として一番しっかりしていたのはあいつだったし、それほど信頼されていたのだろう。
「おーし、じゃあお前らさっさと打順と守備位置決めろー。3年生は全員出場させるからそのつもりでなー」
監督の一言で、バラバラだったグループが二つにまとまる。一つは3年生達、もう一つは1・2年生達の集団だ。
「んじゃあ俺は一番ショートで問題ないな!あとはお前らに任せる!」
それだけ言い残して樹は1人、素振りの練習を始めた。不振だった全国大会でも不動のリードオフマンを務めていた事もあって、文句を言うものは誰もいなかった。
「おい、橙山」
「ん?何すか監督?」
「石黒から聞いたよ。野球、続けてくれるんだってな」
「別に誰かのためとかそんなんじゃないっすよ。俺はただ自分の才能を証明したいだけっす」
「それでもいいさ。何より野球を続けてくれることが、俺にとっては一番嬉しい」
「ま、今に見ててください。高校卒業までに甲子園優勝してみせますよ。…あいつからも火を付けられちゃったんで」
「それよりもまずは今日の引退試合に集中することだな。お前の後輩たちは中々に手強いぞ」
「ははっ、そりゃ何よりっす」
「おーい樹、打順決まったぞー。早く集まれー」
「おぉ、そうか。じゃ監督、また後で」
「ああ、続きは試合が終わってからにしようか」
樹が去っていったあと、監督は1人、天を仰いで呟いた。
「…よかったな橙山。お前は仲間に恵まれた」
3年生達の打順は1番・ショート橙山、2番・セカンド石黒と続いていく。後攻の3年生達がそれぞれの守備位置に就いていった。多分これが、二人で組む最後の二遊間。だというのに、寂しさは感じない。それどころか樹の気分は高揚していた。
「足引っ張んじゃねーぞ石黒」
「当たり前だ。君こそ後からブランクがあったとか言っても受け付けないからな」
いつも通りの会話に、二人とも笑みをこぼす。そうだな、俺たちはこれくらいの距離感が丁度いい。二遊間に空いたこの距離こそが、俺たちのほどよい心の近さだ。
走者を一塁において、打順は三番・投手の
(来た!)
予告通り、朱星の放った打球は鋭いゴロとなってサードとショートの丁度間を襲う。少しだけ遠いが、これくらいなら届く。左腕を精一杯伸ばしてグラブにボールを収める。全く朱星のやつめ、もっとちゃんと狙いやがれっての。後で叱ってやろう。
「石黒ッ!」
「分かってる!」
二塁には既に石黒が入っている。それを確認すると、体をねじってそこへと向き直った。体は三塁側へと重心が傾いている。流れるようにふわりと宙を舞って、セカンドへと送球した。若干送球は狙いとはずれたものの、石黒の身体能力はそれを逃さない。落ち着いてボールを受け取って二塁ベースを踏みなおし、すぐさま一塁へと正確にスローイングする。問題なくファーストがそれを掴み取ってゲッツーが完成、一気に3アウト目までとった。朱星は一塁ベースを遅れて走り抜けた後、こちらをじろりと見たものの、何の言葉も発さない。守備を終えた3年生たちが続々とベンチに引き上げていく。
「わりぃ、ちょっと送球がそれた」
「あれくらいなら問題ない、僕ならな。僕以外と組むなら気を付けた方がいい」
「うーわ、嫌なヤツ。そういう事言っちゃう?お前こそ一言多いその癖、何とかした方がいいぜ」
「君にしか言わないさ」
「おいおい、俺にだけ厳しくね?」
「それよりも次、君の打席だろう?早く準備しないと監督にどやされるぞ」
「やっべぇ忘れてた!お前そういう事は先に言ってくれよ!」
これからは樹たち三年生が攻撃に転ずる番だ。まずは1番の樹が左打席に入る。投手は先ほど併殺打に打ち取った朱星だ。朱星はコースに集めてゴロやフライを狙うタイプではない。まだ中学二年生ながら最速129㎞/hを誇る直球を武器に空振りを取っていくスタイルだ。とどのつまり、樹が最も好きなタイプ。
「っしゃー来いや朱星!テメーの直球を打つのを楽しみに来たんだよこちとら!」
「……ガッカリさせないで下さいよ、橙山先輩?」
朱星が大きく両腕をかかげ、振りかぶって投じた第一球。真ん中低めへのストレートに樹はフルスイングで応えてみせた。バットは大きく空を切り、ヘルメットが頭から外れ落ちた。一瞬突風が吹いたかのような空振りがピッチャーマウンドを襲う。しかし朱星はひるむ様子を微塵も見せない。マウンドと打者の間18.44mの先ではお互いが獰猛な笑みを浮かべていた。
「いい球じゃねーか朱星。だけど、まだまだこんなもんじゃねーだろ?」
「先輩こそ、このままじゃ終わりませんよね?」
樹にとって、先輩という立場は正直むさ苦しいかった。先輩だからと言って後輩に対して横柄な態度を取る事も好きでは無かったし、石黒のように厳しく指導する事も無く、ただただ聞かれたことに答えるくらいのものだった。そんな自分に先輩として出来る事と言えば、プレーでチームを引っ張る事くらいだ。フルスイングで敵を打ち砕き、チームの着火剤となる。ひとたび敵となれば、恐怖の一番打者として立ちはだかる。それが樹にとっての置き土産だ。
二球目は再びストレート。今度は内角高めの、見逃せばボールになるような球だったがこれに手を出して打球はライトのファールゾーンへと転がっていった。球速は126㎞/hを記録している。
(ははっ、お前がいりゃあうちは安心だな)
樹は朱星に対して敬意の念を払っていた。彼がいれば、きっと来年も伊勢シニアはいい成績を残せるだろう。それはそうと、勝負に負ける気はない。足でバッターボックスの土をならしながら、大きく深呼吸をする。朱星は自分を舐めているのではない。彼もまた、真剣勝負を望んでいるのだ。体に入っていた無駄な力を抜いて、自然体のフォームを維持する。あぁ、楽しい。やっぱり自分は野球が好きなんだと改めて思い知らされる。
「来いよ、後輩」
「行きますよ、先輩」
そして3球目、気合の入った声と共にストレートが投じられる。コースは真ん中高め。そのボールをバットの真芯で捉えた。金属バット特有の甲高い音が響いて、右中間へと大飛球が上がる。センター、ライトは既に追いかけるのをやめている。打球はそのままフェンスの向こうへと着弾した。
評価・お気に入り登録・感想等は作者のモチベに直結するので是非お願いします。