「いやー、あっはっは。君たち中々いい顔しているじゃないか。これは企画者冥利に尽きる、というものだね」
悟ったような目をした樹を除いて呆気に取られる1年生たちを眺めながら手を叩いたのは、いかにも草食系と言った感じの優男だった。その整えられた短くまっさらな銀髪に、下がり眉が特徴的なその男は年齢で言えば30代くらいと推察できる。
「ふふん、驚いた? 驚いたでしょ! 何たって真白監督が練習の合間に2週間コツコツと準備したんだからね!」
「ちょっと姉崎さん。そういうのは言わないお約束だって! なんだか照れくさいな」
「あ、でた監督の苦笑い! そんなに照れなくたっていいのよ!」
「褒められた時くらい素直に受け取ればいいんすよ監督!」
和気あいあいとした雰囲気の2・3年生と監督たちとは対照的に、1年生たちのテンションは低い。それはそうだ、思っていた部活の空気と違うのだから。確かに殺伐としているよりかはよっぽどいいが、これはいくら何でも明るすぎる。もっと切磋琢磨するための場だとばかり思っていた。
「まぁとりあえずみんな座ってよ。歓迎会を始めようじゃないか」
席は人数よりも少し多めに用意してある。おあつらえ向きに紙コップと大きめのペットボトルに入ったジュースやお菓子の袋まで用意してあった。1年生たちがそれぞれ躊躇しながらもおずおずと席に座っていく。樹の隣には黒髪のショートをしたおとなしめの男子が座っていた。先ほどの反応を見るに、たぶん上級生だろう。全員が席に座ついたところで、満足そうに監督と呼ばれた男が歯を見せた。
「よーし、それじゃあまずは自己紹介だね! 2・3年生にもちゃんとした挨拶はまだだったからしっかりやっておかないと。僕は
「では失礼ながら。私からよろしいでしょうか」
声の上がった方へと周りの視線が集中する。手を挙げたのは湖南だった。他の様子など気にも留めない様子で、彼女は至って自然体を保っている。
「うん、いいよ。ついでに名前も言ってもらえると助かるかな」
「1年の湖南冬果です。なぜ真白監督はこのような事をやろうと思ったのでしょうか。歓迎会なんて寮生だけで行われるのが自然ですよね」
「あぁ、うん。そこは気になる人もいるよね。それじゃあまぁ軽く説明しておこうか。僕はまだ赴任してから間もないからもちろん君たちの事をよく知らないし、君たちだって僕の事をまだ何も分かってないだろう? 1年生にしたってそうだ。先輩の事を何も知らないままで一緒にプレーしろと言われても難しい。それを決して責めるわけじゃないさ、だってそれはあくまで自然の話だからね。でも野球はチームスポーツだ。どれだけ個人が結果を残したとしても、チームが負けたら意味がない。ありきたりな表現に聞こえるかもしれないけど、勝つためには団結力がいる。そのためにはお互いがお互いを理解しなくちゃね」
「……それで、いきなり歓迎会をする気になったと?」
「ざっくり言うとそんな感じだね。これだけで全員が全員の事を理解できるなんて思ってはないけれど、その一助にはなるんじゃないかな」
「しかし、私たち球児にとっては3度しか訪れない夏なんです。私は本気で高校野球の頂点、甲子園優勝を目標にしています。そのためには一分一秒だって惜しい」
それでもなお湖南は食い下がる。彼女の様子はどこか焦っているような、そんな風に樹の目には映った。きっと彼女の掲げている目標は本物で、決して間違いじゃない。懐疑的になるのもおかしくない話だ。真白もそれは分かっているようで、何度かうなずいている様子だった。
「確かに不必要に思えるのも無理はない。だけど不必要は
「屁理屈なのではないですか?」
「ははは、まぁ言われてみればそうかもしれないね。だけど、うん。たまには肩の力を抜いたっていいじゃないか。そうすれば違う景色が見えてくるかもしれないし。それに、君はキャッチャーだろう? 投手とコミュニケーションを取るにはこれ以上ない機会だと思うけどね」
「……そ、れは確かに、仰る通りですが。というか、どうして私のポジションを?」
「そりゃあ新入部員の事を把握しておくのも監督の務めだから。普通に受験して入ってきた子の事はまだよく分かってないけれど、推薦で入学してきた子のポジションやプレースタイルはきちんと把握しているよ」
「……そうですか」
その言葉を最後に、湖南は押し黙ってしまった。なるほど、この人は中々の切れ者であるらしい。理屈だけで湖南を納得させてしまった。
「他に何か質問がある人はいないかな? ……いないようだね。それじゃあジュースでも飲みながら、まずは乾杯しよう。じゃあ2年生の諸君、よろしく頼むよ」
「はい!」
威勢のいい声とともに2年生と思わしき人たちが立ち上がり、コップにジュースを注いでいく。そうして幾ばくかした内に、樹の元へも先輩がやってきた。
「オレンジジュースとブドウジュース、どっちがいいかな?」
「あ、えーっと……じゃあオレンジジュースで」
「うん、オレンジジュースね。……ところでなんだけど、君は橙山君であってる?」
「そーっすけど」
樹の返答に先輩(仮)が顔をほころばせる。穏やかそうなその表情からは、彼の性格の良さが見て取れる。ちょっと頼りなさそうな感じはするけれど、きっと心根が優しい人なのだろう。
「やっぱりそうだよね! あー良かった、もしも別人だったらどうしようかと!」
「そんな事そうそう起こらないっすよ。ほら、どこからどう見ても橙山樹に見えるっすよね? あ、なんだったらサインとかいります? 今から頑張って考えるんで」
「あ、ごめん自己紹介してなかったね」
「(さらっとスルーされた……)」
「僕は
「セカンド……って言う事は比良センパイと二遊間組めるかもしれないっすね!」
「あはは、どうかなぁ。僕はあんまり野球が上手くないから。あ、それよりもジュースつがないと」
田中が困ったように頬を搔きながら苦笑を浮かべる。それが謙遜なのか事実なのか、樹には知る由も無かったが言われてみれば確かに筋肉の付きがあまり良くない。足腰はそこそこ鍛えられているようではあるが、上半身はがっちりしているとは言えない。これでは打球を遠くに飛ばすことはあまり望めないだろう。素朴な顔立ちも相まって、文化系の部活に入っていると言われても疑わないくらいだ。
「……お互い、頑張りましょうね」
「えっ、あ、うん」
「よーしそれじゃあ全体に行きわたったかな? それじゃあ津田商業高校野球部、新たな門出を祝って~? 乾杯!」
「「「かんぱーい!!」」」
知らない同級生や先輩方と紙コップを交わす。グラスじゃないから音は鳴らない。何だか飲み会みたいだな、参加したことはないけれど。やっぱり喉に魚の骨が引っかかったような違和感は抜けないが、せっかくの楽しむ機会だというのに消極的でいるのも損な気がする。だから雰囲気に流されることにした。決して楽しそうだったからとかそんなんじゃない。
「今日はみんなのためにお菓子も用意してあるから。普段は食事制限とかで食べない子も今日くらいは楽しんでいってね! ……このためにお小遣い大分削ったんだから、って聞いてないか」
若干陰りのある真白の声を差し置いて、部員たちはそれぞれ騒ぐことに夢中だ。遠慮がちだった1年生を巻き込むかのように上級生たちが巻き込んでいく。少しずつ打ち解けながら、それぞれが世間話に花を咲かせている。樹もその例にもれず、お菓子をつまみながら先ほど打ち解けた田中と当たり障りのない話を続けていた。そんなとき、ふと樹の頭に疑問符が浮かぶ。
「そういえば、ここの正ショートって誰なんですか?」
「えーっとね、僕と同じ2年の
そう言って田中が指さしたのはジュースを飲みながら話を一方的に聞かされている滝野……ではなく、その横で自慢げな顔で話しているスポーツ刈りをしたいかにもスポーツ選手、といった出で立ちの青年である。
「田丸君はすごいんだよ。ファースト以外の内野なら守れるし、一時期キャッチャー不足だった時はブルペンで捕手の代わりをしていた事もあったっけ。試合で捕手として守っているのは見たことないけどね」
「へぇ、どっちかと言えばユーティリティープレーヤーって感じなんですか」
「うん、そうなんだけど。でもショートの守備なら僕が今まで見てきた誰よりも上手いかもしれない。あ、プロの場合は除くけどね。ポジショニング、地肩の強さ、スローイングの正確さ。どれを取っても高校生の中では一流といっても過言ではないんじゃないかな。でも打撃も上手いよ。特にインコースを捌く技術は頭一つ抜けてると思うし」
「そうなんすか。まぁでも、あっという間に追い抜いてやりますけど」
「すごい強気だね」
「むしろそういう気じゃない比良センパイの方が珍しいと思いますけどね」
「そうかなぁ……確かに前の監督には『お前には覇気が足りない』なんて言われたっけ」
樹にとってはプロになるという目標を掲げている以上、すぐにだってレギュラーの座が欲しい。そりゃあセカンドだって守れるけれど、やっぱり本職でレギュラーを奪いたいというのは至って当たり前の話だし。
そんな事を思っていると、ふと真白が口を開いた。
「うん、そろそろみんなに自己紹介してもらおうかな。全員に名前を知ってもらった方が後で困らないでしょ。それじゃあ早速1年生から。1年生のみんな前に来てもらっていいかな」
監督からそう言われたのだから仕方ない。樹も話を中断して前に歩いていく。歩き方だけである程度そいつがどんな感情なのかは分かる。嫌々そうに歩くやつ、胸を張って歩くやつ。ほんの一つの所作でも個性が表れるものだ。そうして1年生たちが前に集合して静けさがあたりを支配する。
「う~む、何を話してもらおうかな。まずはクラスとポジション。それと……急に振るようで悪いけど、自分の目標もしくは夢を語ってもらおうかな。こういうのを話すときってみんなの性格が出て分かりやすいと思うから。はい、じゃあ一番右の君から!」
一番右というと……あ、誰かと思えば同じクラスの金髪残念イケメン君じゃないか。そういえば野球部志望だったなこの人。
「はい! 1年5組の
「おーいいねぇ! やっぱ夢は大きくなきゃね! はい、トップバッターを務めてくれた高橋君に拍手!」
真白の言葉に拍手が上がる。いいぞー、なんて声も聞こえてきた。決して高橋を馬鹿にする意図なんて無いけれど。これは……ひょっとして自己紹介のハードルが上がってしまったんじゃないか? そんな樹の考えをよそに話はどんどん進んでいく。真吾も自己紹介を終え、いよいよ隣の湖南の番が回ってきた。次は自分の番だ。一体何を言えばいいのだろうか。
「1年3組の湖南冬果です。本職はキャッチャーですが、一応内野と外野も守れます。私の夢、いや目標はただ一つ、高校野球の頂点。すなわち甲子園優勝を掴み取ることです。これだけは誰にも譲れません。たとえ誰に笑われようとも、本気で目指すことに変わりはありません」
湖南が放ったその言葉に拍手を送ったのは、真白に姉崎と近江戸、それに2年生の一部だけだった。堂々としたその立ち振る舞いに気圧されたのか、それとも彼女の掲げる目標が無謀だと感じたのか。高校球児なら一度は夢に見る舞台、甲子園。中でも夏の甲子園ではおおよそ4500を超える高校の中で、たった49高にしか立つ事が許されない場所だ。それは北海道や東京を除けば各県で1校しか選ばれないということを示す。三重には名門・鶴木高校や一柳学園、永興大学附属など強豪校がひしめき合っている。その中でたかだか中堅校でしかない津田商業高校が全国大会の切符を手にするなど、ましてやその頂点に立つなどそう簡単に出来る話ではない。そこそこ現実を見た目標であるからこそ、彼らは躊躇していたのだ。
「うん、いいと思うよその目標。それくらいの意気込みがあったくらいが丁度いい。やってやろうじゃないか、甲子園大会優勝」
そんな中一人、真白がほほ笑む。しかし彼の口調は決してからかっているのではない。真剣そのものだった。本気だ。本気でこの男は甲子園優勝を考えている。それを聞いた湖南は少し呆気に取られたような様子だった。
「驚きました。てっきり茶化されるものかと」
「教え子の夢を邪険にする監督がいるものか。そもそも僕は無理だとかそういう言葉が大嫌いなんだ。何も知らない癖に知ったような口をきく人間なんて特にね。それに、僕はこのチームの可能性を信じている。確かに強豪が多い地区だけれど、君たちなら不可能じゃないと思うから」
「……ありがとうございます」
湖南が小さく感謝の意をこぼす。たった十秒にも満たないそのやり取り。それだけなのに湖南はどこか救われたような表情をしていた。
「はい、じゃあ次の人お願いね」
「……」
「えっと、どうかした?」
「あ、はい! 私は、いや、俺はレギュラーになって……」
真白の声で樹は我に返った。やばい、結局何を言おうとしたかすらも考えていない。一人称すら定かにならないレベルだ。どうしよう、無難な事を言おうか。そんな事を考えていると、ふと最前列にいる近江戸と目が合った。間違いでなければ。その目は、確かに樹に語りかけていた気がした。
―――橙山樹はそんなスケールの小さい人間じゃないだろう、と。
握り直した両手に熱がこもる。そうだ、湖南はあそこまで言ったんだ。逃げるな。気持ちで負けているようじゃきっと追いつけない。この場にいる先輩たちにも同級生にも。そして、石黒にも。息を大きく吸い直して、腹に力を込める。羞恥心など知ったものか。顔を上げろ。胸を張って言ってやれ、俺。本当に行きたいところ、なりたいものを。
「1年5組、橙山樹です!! ポジションはショートとセカンド、どっちも守れますが希望はショートです!! 俺の夢は甲子園で優勝する事!! そんでもってプロになる事です!! そのためにこの場にいる誰よりも上手くなってみせます! 先輩とか後輩とか関係ないです! よろしくお願いします!!」
勢いよく頭を下げた数秒先にあったのは、拍手の音だった。それはまばらかもしれない。だがしかし、確かな手ごたえを樹は感じていた。
「素敵な目標をありがとう。これは上級生たちもうかうかしてられないね」
真白が笑みを浮かべながら締めくくる。そうして、自己紹介の時間はあっという間に過ぎていった。
「それじゃあ、そろそろ席を移動してもらおうかな。みんなもそろそろ打ち解けてきた頃だろうし。くじを持ってきたから1年生はこれを引いて。あ、コップは持ったままでね」
それから少し時間が経ったところで、ふと真白がそんな事を言い出した。時計に目をやればそろそろ一時間が経とうとしている。妥当と言えば妥当だ。
「比良センパイ、ありがとうございました」
「いやいや、こちらこそ。その、色々聞けて楽しかった。練習でもよろしくね」
「はい!」
田中に礼を告げ、立ち上がって指示通りにくじを引く。くじには1番、と書かれていた。周りを見回して呟きながら自分の席を探す。
「1番、1番……あ」
数歩歩いた所で目的地は見つかった。最前列の机、そこに1番と書かれた紙があった。声をもらしたのはある人物がいたからだ。座っていても分かるほどの高い身長。灰色の髪に黒い目をしたその男は、ただ何も言わずにじっと何かを待っているようだった。
「……ども、近江戸センパイ」
「橙山か。まぁ座るといい」
「あ、ありがとうございます」
樹が遠慮がちに空いている席に座る。そのまま二人の間に沈黙が走った。お互い何を話せばいいのか分からないようで、もどかしい時間が続いたままだ。何か、何か言わなければこっちの身が持たない。
「セ、センパイは~、ボクサー派かブリーフ派のどっちですか」
やや上ずった声で口に出した途端、樹は後悔した。確実にほぼ初対面の人に対して投げかけるべき質問でないことは明白だ。
「(な、な、何言ってんだ俺はぁぁぁぁ!!)」
「あ、えっと、今のは違くてですね!」
やらかした。完ッ全にやらかした。顔を手で覆いながら、指の隙間でちらりと近江戸の様子を見る。……あれ、割と真剣そうに考えてる!?
「そうだな……どっちも穿くが、どちらかと言えばボクサー派か」
「へ、へぇ~……」
苦し紛れで出た質問にそんな真面目に答えなくていいのに。答えが返ってくると思っていなかったものだから、樹の相槌も雑になってしまった。ひょっとしてこの人は天然なのだろうか。って違う! 言いたかったのはこんな事じゃない! 樹が頭をガシガシと掻いていると、その様子を悟ったのか近江戸が声をかけた。
「俺が怖く見えるか?」
「え? ……そりゃあ、どっちかというと怖くは見えますけど」
「そうか。初対面の相手にはよく言われる。『もっと怖い人だと思ってた』なんてな」
「あ、あはは……」
果たして笑っていいのやら。反応に困った樹は、とりあえず曖昧な笑みを返す。
「でも俺は、この体に生まれた事を後悔した事はない。むしろ両親には感謝してもしきれないくらいだ。体が大きいという事はそれだけボールを遠くに飛ばせる。スラッガーである君なら分かるはずだ。俺と君。互いにこのチームでスラッガーとして刺激しあっていけると思っている」
「俺の事を知ってるんですね」
「去年の県大会決勝を見ていたからな。まさかあの時は君がこの学校に入るなんて思ってもみなかったが。話を戻そうか。俺だけじゃない、この学校には良い選手がたくさんいる。さっき君が話していた姉崎は面倒見が良くてバッティングも器用だ。阿久留はああ見えてユーモアのある気さくな人間で、彼も君と似たようなスラッガー気質だ。あの二人だけじゃない、君の刺激になるような選手が沢山いる。つまり何が言いたいかというとだな……君たち後輩が、この学校に来て良かったと思えるように努力していくつもりだ」
球場の外でみた時と違う。この人は思っていたよりずっと柔らかくて、それでいて中々に核心を突くような発言をする。そこに裏表はなく、ただ樹の事を案じてくれている。そう思うと、少し気が楽になった。
「何か安心しました。お気遣いありがとうございます」
「それとさっきの意気込み、良かったぞ。それくらい高い目標でなくてはな」
「いや、あれは近江戸センパイが……」
「俺が何かしたか?」
「……え?」
「?」
「すいません、何でもないです」
不思議そうにこちらを見つめる近江戸を見て樹は合点がいった。なるほど、つまりは自分の想像が勝手に先走ったというわけか。なるほどなるほど。少しずつあの時の熱が冷めていって、代わりに恥ずかしさで顔が赤くなっていく。
「何があったのかは知らないが、あれを言ったのは君自身だ。それは誰かのおかげじゃない。誇るべきことだ」
「……そうですね。あーもう細かい事考えるのはやめだやめ! 言ったからにはやる! やってやりますよ俺は!」
「お、盛り上がってるみたいで何よりだねぇ」
「うわっ、真白監督!?」
後ろから二人の会話を遮るようにして現れたのは、監督の真白だった。驚く樹をよそに、どっこいしょという声を上げて真白が近くにあった椅子に腰かける。
「いやぁ、君たち二人には期待してるんだよ? やっぱり長打を打てるバッターっていうのは貴重だからね」
「ありがとうございます。先輩として見本になれるよう、努力していくつもりです」
「うんうん、頼もしくて何よりだ。ところで時に橙山君、監督は元気かい?」
「ひょっとしてじいちゃんの事ですか? それなら今は退院して元気そうにしていますけど」
「……それは橙山勝男監督の事か?」
「あ、そうですそうです」
高校野球で監督があまり表に出る事はないが、何せ樹の祖父・勝男は監督歴が長い。加えて様々な学校で指導して甲子園出場へと導いてきた事もあってその顔は高校野球好きに地味に知れ渡っているようだった。
「そうかそうか、それは良かった。あの人には学生時代にお世話になったからね。あの頃が懐かしいなぁ」
「笑ってますけど何か体震えてません!? うわ怖ッ、何かバイブレーションしてるんですけど!?」
「あはははは、いやぁ色んな思い出があったからね。あははははは」
「目が笑ってねぇ! バグった! 合ってまだちょっとしかしてないのにバグったんですけど近江戸センパイ!」
「ふふふ、面白いな」
「他人事かッ! いや他人事だけども!」
まぁ、時代が時代だ。今よりもずっと厳しい環境で練習してきたのだろう。流石に暴力をふるっていたり暴言を吐いたりしたとは考えたくないが、厳しい事は言っていたのかもしれない。そう言えばじいちゃん口悪かったしな、顔も若干強面だし。
「ってそんな場合じゃなかった。君には少し確かめたいことがあってね。いやなに、本当にちょっと確認したいだけだから安心してくれ」
「確かめたい事?」
「そうじゃなかったらはっきり『NO』と答えてくれればいい。君は―――君は今、本当に自分の意思でプロ野球選手になりたいと思っているのかい?」
その一言は先ほどの明るいものとは違う、重たいものだった。空気が凍っていくのを肌に伝わってくる。
「……それは」
「まだ自分の中で固まってないみたいだね。今はそれでも構わないさ。答えを出す覚悟が出来たら言ってくれればいい」
じゃあまた後でね、と手をひらひらと振りながら真白は別の席へと歩いて行った。樹の頭の中を疑問符が埋めていく。簡単な問いのはずなのに。すぐに『NO』と言えばいいだけの話だったのに。何故自分は答えられなかった? 教室に充満した甘い匂いも、楽しそうな声も、気づけばその全てがノイズと変わってしまった。
「顔色が悪いが、大丈夫か?」
「大丈夫です、大丈夫……」
近江戸の心配げな声に、平静を繕って笑みで答える。それは、半ば自分に言い聞かせるようなものだった。
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あと多分これがこの小説で今年最後の投稿になると思います。