狩人少女はターフを走る 作:しがないヤーナム人
時は進み、同時にバレンタインデーという名の行事は無事無かった事にされ──期待した所であの頭狩人な貴方が手作りチョコレートを作れるのかと是非とも問いただしたい所だ。こちら側の考えではまず無理な話であると思われる。貴方の脳筋具合的にも生まれた家柄的にも──、三月の幾日。
この頃のウマ娘、特にクラシック登録を行ったウマ娘はやたらヒリついた状態になっている事が多い。
理由は一つ。クラシック三冠路線なら皐月賞、日本ダービー、菊花賞。ティアラ三冠路線なら桜花賞、日本オークス、秋華賞。
即ち、人生でたった一度のみ走る事の出来る、G1レースの中でも特別とされるレースが立て続けに並ぶからである。そこで、ただ一つの栄冠を被る事を目標とするウマ娘も果てしなく多い。
一つだけの栄冠を求めるが為に努力を重ね、しかし報われるとは限らない。周りも同等か、あるいはそれを上回る努力をしているのだから。
だから、より努力をしなければならない。だが、どこまでなのか分からない。
そうであるが故に情緒が不安定化し、落ち着きが無くなるのだ。
それはアグネスタキオンもマンハッタンカフェも、そして一応のライバルであるローズフルヴァースとても例外では無い。
さて、そんな頃の貴方の様子は……まあ、その……まあ、それはそれは至っていつも通りの真顔である。不機嫌な様子も何か苛立っている様子も皆無。ただただ本当に基本浮かべている、チベットスナギツネでも思わせるような真顔。ここまで来るとある意味安定と信頼のノーマルフェイスと言っても差し支え無い。
皐月賞のトライアルレースとなる弥生賞を目前にしても尚、何にも変わらない面を全面に押し出して、トレーニングにいつも通り専念していた。
「ねぇダンテス」
夕時。
貴方がトレーニングを終え、良く濡れたタオルで首筋を冷やしていた時の事。
呑気に辺りを右往左往していると、ふと貴方のトレーナーである川添から話し掛けられた。
「次のレースがクラシック級での初めてのレースになるけど、どうかな、自信は」
……自信、ねえ。
問われた貴方は、そうさね、と考え込み左手を顎にやる。
自信。またの呼び方を自負。
貴方がヤーナムを周回していく内に喪った力の、その一つである。
貴方のいたヤーナムにはかつて、嫌になる程数多くの獣がいた。
それらは一部を除いて狩る事が容易い一方、一度の試みだけでは狩る事の難しい大物もいた。
例えば聖職者の獣。例えば教区長エミーリア。例えば黒獣パール。例えば獣血の主。例えば恐ろしい獣。
大物とは、ただ巨大な獣だけでは無い。自身の教えに囚われた男、狩人の罪の守り人、誰からも忘れ去られた異常者、夢からの解放を願う原初の狩人──そして、悍ましい上位者達。
それらは、有り得ない程に強かった。何度も、何度も、何度も死んだ。指では数えられない程に、数える事すら億劫になる程、貴方の瞳の光が失せる程何度も死んだ。
最初の頃は、本当に何度も。
今回も勝てると考える。潰れて死ぬ。
腕前はあると自分自身を鼓舞する。地面に叩きつけられて死ぬ。
やっている行いは正しいと思い込む。拳を叩きつけられて死ぬ。
勝ってやると気合いを入れる。噛み砕かれて死ぬ。
悔しさでヤケになって挑む。出だしの油断を狩られて死ぬ。
なるべく死なないように立ち回る。勿論死ぬ。
死んで、もう一度挑んで、そして死んで、死んで死んで、また死んで。
その度に悔しがって、苦しく思って、怒って、自信を持つのが辛くなって、それでもと言い続けて、それでもまた延々と死に続けて。
──バカバカしい。
貴方はいつからか、そう思うようになった。
どうあがけども、運が悪ければ、実力が無ければ、才能が無ければ遅かれ早かれ等しく死ぬ。
そんな有様で、感情を発してどんな価値がある? 悔しく感じて何になる? 怒りを募らせた所で何になる? 不得手に悲しんで何になる?
つまりは時間の無駄ではないか。しかも体力まで使う。ただ疲れるだけで、利益の一つも何も無い。
それならばもう、無闇に感情を発するなんてくだらない行為は、一度で勝つなんてくだらない思想は……棄てた方が余程マシだ。
貴方は、自信を持つ事を諦めた。
そうなってからは確かに、苦しみも怒りも悔しさも悲しみも、感じる事は無くなった。その代わり、激しい喜びも無くなった。
狩り終えた後に残ったのは「漸く終わった」という仮初の安堵、それと「一体何をやっているのだろうか」という虚無感。
言葉の意味だけは知っていても、最早実感は出来ようも無い。棄ててしまった物は、戻りやしない。
自身の能力も、正しさも、考えも、そして価値も。
そして今は自分そのものすらも、少したりとも信じてやる事が出来なくなった。
……ちっ。嫌な事を思い出した。
渋さに歪む顔を心に押し込め冷静を演出しながら貴方は。
まあ、端的に言うと、あまり無いな。
と、適当に返答する。
「えーと……それはやっぱり、トレーニングが足りないとかって思ってるから、とか?」
否、そんな事は無い……いいや、有り得ない事だな。トレーニングの云々には疎いが、しかし恐らくはこれくらいが、丁度良い塩梅、という物なのだろうよ。
自分を信じられないのはこちらの悪癖。特段、貴公が自身の不手際だろうかと案ずる必要は全く無い。
負けに次ぐ負け。
散々に折られ、今は完全に萎え落ちた自信を回顧しつつ、彼女の不安を解消させるように話す。
……嫌な物だ。
本当に本当に、忌々しい過去め。今も尚、まとわりついてくるか。
さっさと失せろ、鬱陶しい。
かつての貴方を、内心酷く侮蔑しながら。
〘◇〙
弥生賞前日。
明日に全力を引き出せるようにと休暇を言い渡された貴方は、ある時の休日に買った『若きウェルテルの悩み』へと読み耽っていた。
だが表情を伺うに、あまり作品を好いているようには見えない。珍しく眉間に皺を寄せていたのがその証左とも言えよう。
そのもの自体は悪くないだろうが……どうも気に食わなくて仕方がない。余り好みで無かったな。今度は幾許か吟味をしてから選ぶ事にしておこう。
こう思いながらもしかし読み終わり、本を閉じて本棚に入れんと席を立ち上がり。
と、丁度良く扉の開く音。扉の方に顔を向ければ、そこには貴方の友人的存在、アグネスタキオンが立っていた。
「やあ、邪魔するよ」
おお、アグネスタキオンか。生憎と今は紅茶を用意していないが、席ならある。座ってくれ。
「いや、良いよ。今日はここに長くいるつもりは無いからね」
……そうか。
そう返された貴方は譲った手前先程まで座っていた木椅子に座り直す訳にも行かず、本に手を抱え立った状態で話す体勢を取る。
所で、今回はまた治験なのかね? 今回ばかりは受ける訳にもいかないのだが。
「まさか! 私にも弥生賞の前日に投薬治験をしない良心はあるよ。そんな君こそ今日は製造とやらをやっていないようだけど、どうしたんだい?」
ああ、今日はなるべく身体を酷使すべきでは無いと言われたのでね。製造にも体力を使う。故に触れるべきでないと思ったのだよ。
最初こそお互い取り留めの無い会話を交わし。
「──所で君、緊張しているかい?」
本題へ入るや否や、彼女は流石にわかるだろう? という目で訴えかける。
……何にだのと無粋な事は言わんよ。弥生賞の事であろう?
この案件においては感情の機敏に疎い貴方とて流石に伝わる。気付いた貴方は微かに頷き、蝦塚が過去にやったように咳払いをしてから自論の封を切る。
まあ、な。今更気を張っていた所で何が出来るのかとは思うがね。
それに、G2のレースとはいえ弥生賞はただの弥生賞に過ぎんよ。唐突に別の何かへと変化する訳でも無かろう? なればあれこれと思索するのは、余計な行為と言う物さね。
考えるのは結果だけで良い。そしてその結果も、無闇に考えぬ事が良い。どんな詭弁を立てたにしろ、ただ結果のみが真実なのだからな。
少なくとも、こちらはそう思っている。
暇潰しという言葉を隠しつつ滔々と語る貴方に対し、彼女はやや釈然としない表情。
面白くない話をしてしまったと貴方は反省する。
……ふむ。すまないな、つまらない話をしてしまって。
「いや、君の考えをつまらないとは考えていないよ。ウマ娘にしては少々……変わった考え方をしていると思っただけさ」
【どうしてそう考えるの? 変だと思わないの?】
【同じレースって一度しか無いのに、おかしくない?】
【そんなの悲しいよ。楽しい過程があってこその良い結果じゃない?】
──ああ、五月蝿い、喧しい、疎ましい! 永く生きていない人間風情に一体自分の何が分かる!
ふと思い出され、内心思わず罵倒する。
至極当然の話であろう。
これまでの生き様も、生きてきた年数も違う。彼女たちはまだ十二年、長い者でも十八年と少し程度なのに対し、貴方の方は二世紀と何十何年。文字通りの意味で桁数が違う。
故に、そもそもの時点で見方が違うのだ。
彼女たちにとってのレースは『短い競技者人生の中で、二度は巡って来ない、掛け替えの無い大切な戦い』だが、貴方にとっては『長ったらしい人生の内、暇潰しに行っている事の、やり直しがある程度効く戦い』である。
同条件では無いが、同じ相手と戦える。即ち、『やり直しが効く』。何度かやれば、いつかは必ず勝てる。いつかは、必ず。
そして彼女たちの思想は、貴方が歯に衣着せずストレートに言わせるのであれば「実力の伴っていない決意で、つまりは下らない戯言」に過ぎない。そしてそれを、貴方は心底酷く嫌っていた。
今までの経験で武装し、培った理性で覆い隠し、人の有する耐え忍ぶ力で押さえつけていた、貴方に眠る本心を──燻る獣としての本性を、無意識の闘争心の吐露をどこか見透かされているように感じるが為に。
「だが、ダンテス君……いや、敢えて言い直そうか」
そんな事など欠片も知らない彼女は決意するように一度瞼を下ろし。
「ファルサ」
開いたそこには、野心と闘争心が──今の貴方には持ち得ない本能的な感情が、強く煌びやかに映っていた。
「君には、負けない」
……クハハッ。それはそれは、良い話という物だな。良い狩りになるのを期待しておこう。
それに貴方は、極めて理知的に──今まで以上に狩人的な一礼を以て返答した。